汝が魂魄は黄金の如し 31

頬に触れる大きく暖かい手…柔らかくて繊細な指先が髪をかきあげているのが目を閉じていてもわかる。

そのまま髪を撫でてくれる。何度も何度も…

『どうしよう…』

アンジェリークは目を開ける契機を探していた。このまま眠っているフリを続けられるとは思わないし、ジュリアスをいつまでも心配させるのも嫌だった。

あの時は…立ちくらみを起したみたいに目の前が真っ暗になってしまったが、今は気分はすっきりしていた。自分のサクリアがもうかつかつで、倒れてしまったのもそのせいだとわかっていたが、何故か今は気分がいつになく良くなっていた。最近は嫌な脱力感に苛まれがちだったのに…だから、余計にジュリアスを安心させたいのだが、その切っ掛けがうまく掴めない。それに、今目覚めた風を装ったとしてジュリアスと落ちついて会話できるかどうかの自信もなかった。

その時、唇が温かく柔らかいもので覆われた。

「ん…」

なんとなく、どこか懐かしいようなその感触に反射的に目を開けてしまった。紺碧の瞳が自分を愛しげに見下ろしていた。

「目が覚めたか…気分はどうだ?」

ジュリアスが身体を起こし、少し照れくさそうに尋ねた。

アンジェリークはベッドに起きあがった。身体を起こしても眩暈や酩酊は感じない。

「ん…あ、ジュリアス、もう平気…あの…私、また心配かけてしまったのね?ごめんなさい…」

「いや、謝るのは私のほうだ…私が…そなたに無理をさせすぎてしまった。済まなかった…」

「あ、ううん、そんなことない…ただの立ちくらみみたいなものだし…あの、今何時頃?」

「もう夜半すぎだ。このまま休むか?それともシャワーでも浴びるか?」

「え…と…」

アンジェリークはしばし考えを巡らす。このまま、休むといえばジュリアスは自分をそっとしておいてくれるだろう。先刻聞いた話の内容にまだ気は昂ぶっていたから、なにも気付かれたくないのなら、自分の考えがまとまっていないなら、一緒にいない方がいいのだろう…だけど…なんだか、離れがたい…

「あのね…ちょっと気分転換に外の空気が吸いたいんだけど…だめ?」

「こんな時間にか?」

あからさまにジュリアスが渋い顔をする。過保護にすることが大切にすることではないとわかっているのだが、何せ彼女は昏倒から目覚めたばかりなのだ。夜風や夜露が身体にいいとは思えない。

しかし、アンジェリークはジュリアスのこれみよがしの渋面にも怯まなかった。

「お願い、ジュリアス。外の冷たい空気を吸ったらもっと気分がよくなりそうな気がするの。もっとすっきりしそうのなの。」

「…少しだけだぞ。もちろん私が供をする。」

屋内にこもりがちだと、何とはなしに息苦しさや頭に重苦しさを感じることがある。そんな時は確かに軽い散策が効果的なことをデスクワークの多いジュリアスもわかっている。仕方ないと言わんばかりの嘆息をつきながら、ジュリアスはアンジェリークの手をとって立たせた。

「ありがと、ジュリアス…」

アンジェリークは伏し目がちにそっとジュリアスに寄り添った。ジュリアスがその肩にショールをかけた。

 

宮殿から最も近い施設といえば天使の広場だ。ジュリアスは夜の散策はここまでが限度だとアンジェリークに予め釘をさした。アンジェリークは少し不満だったが、それでもジュリアスが自分の身体を案じての判断だとわかっていたので抗いはしなかった。

夜の空気に触れながら、2人は黙って歩く。ゆっくりとこの一時を引き伸ばしたいが如く。

「おとなしいな…気分が優れなかったらすぐに言うのだぞ?」

静かなアンジェリークを懸念したのかジュリアスが心配そうに声をかけてきた。

「ん、平気…夜の街って静かだなって思ってただけ。昼間の賑やかさとは全然違う佇まいだから…」

この時まではただ黙って並んで歩いていた。言葉は交わせなくて…交す自信がなくて、でも、ジュリアスに側にいてほしくて…

アンジェリークはただ二人で街を歩いてみたかった。心の中で整理したいことがあった。ジュリアスと言葉は交さず、でもその存在を傍らに感じながら考えたいことがあって、わざと外出を強請った。

「…それでちょっと思い出してたの…」

「何をだ?」

「…ね、覚えてる?昔…私が女王候補だった頃、ジュリアスが夜の庭園に誘ってくれたこと…」

「忘れるわけがない…」

あの頃の自分はまだ恋を自覚していなかった…と、その当時の気持ちが匂い立つように鮮やかにジュリアスの胸中に蘇る。何故かはわからぬまま、何かに突き動かされる様に彼女に会いにいかずにはいられなかった。少女を連れ出すような時刻でないとわかっているのに訪れてしまった特別寮。自分の好きな夜の庭園の静けさ、月の光に浮かびあがる先代の女王像の荘厳な美しさ…何故か彼女に教えたく、ともにその感動を分かち合いたかった。

あの頃から確かに自分の心は彼女に捕らわれていた。彼女に自分が大切に思うもの、自分が美しく感じる心を伝えたくて。知ってもらいたくて。いろいろな感情を彼女と供に感じ、分かち合いたいと思っていたのだ、と改めて感じ入った。

「あの時みたい…誰もいない夜の町を2人で歩いてるとあの時みたい…って考えてたの。一人で夜の町を歩くのは心細いし、少し怖い…でも、ジュリアスが一緒にいてくれるから、その静けさも楽しかった。とても静かな夜に2人でいられると心がより近くなるような気がして、うれしかったの……」

「…私も同じだった…2人でいると夜の静寂は恩寵とさえ思えた。あの頃から、随分時間が経ったような気がするな…だが、私の気持ちはあの時のままだ。」

「え?」

「…そなたといろいろな思いを、時を、一緒に感じあい、分かち合いたいと思った。そなたには自分のことをわかってもらいたいと、また、そなたのことをわかりたいと思った。そなたを知れば知るほどにもっと知りたいと、また自分の事を知ってもらいたいと思った…それを恋と呼ぶのだと、その時はまだしらなかったが…今もその想いは寸分かわらぬ…いや、むしろ強くなっているかもしれぬな…」

「ジュリアス…」

天使の広場に入ろうとしたところで、アンジェリークが突然立ち止まった。

「どうした?」

「あれ…コレット?コレットじゃない?」

コレットが広場中央の噴水の側に佇んでいた。何か思いつめている様子だった。

「まさしく…一体、あれは何をしているのだ。こんな時刻に供もつけずに…自分の身の重要性にまったく自覚があるのか…」

一転苦虫を噛み潰したような顔で、ジュリアスがコレットの元に向おうとしたのをすかさずアンジェリークが窘め、押し留めた。

「だめ!ジュリアス。頭ごなしに叱ろうとしちゃ、だめ!」

「何故だ?すぐさま部屋に返したほうがよかろう。あれにはまだ育成を行う使命があるのだ、明日のためにきちんと休ませねば…」

「ジュリアス、コレットの気持ちも考えてやって?彼女には私と違って一緒に並んで歩いてくれる守護聖もいない、今はアルフォンシアもいない、この地で本当に彼女を支えてきたのは同じ立場のレイチェルだけなのよ?そのレイチェルがラガに憑依され意識が戻らない、しかもそれは自分の身代りになったようなもの…執政者として私たちはコレットが無事だったことを喜んでしまったわ。でも、彼女の心情を思えば…きっと、心細くて、それでも、しっかりしなくちゃって自分を励まそうとして、でも、やっぱり不安で…そんな出口の見えない気持ちなんだと思うの、それをどうにかしたくてきっと一人で考えようとしているのだと思うの、だから…」

「しかし、あのまま放っておくわけにも…」

「私が話してくる…彼女の気持ち、私が一番わかると思うから…私だって辛かった時、ロザリアが一緒にいてくれなかったら…どうなっていたかわからなかったのだもの…だから…」

アンジェリークはそれだけ言うと、コレットの側に小走りで向った。

最後の言葉は一人言のようだった。しかし、その言葉にジュリアスの思考も身体も止まってしまった。黙ってアンジェリークの背を見送るしかできなかった。

 

しばらくするとアンジェリークはコレットを慰め、励まして戻ってきた。コレットはすぐに部屋に戻ると思うからもう心配いらないわ、とジュリアスに告げた。

「ジュリアス、わたしたちも、もう宮殿に帰りましょう。」

「コレットが自室に帰るまで見届けた方がよくはないか?」

「もう大丈夫だと思うわ、すぐ帰るって言ってたし、ラガはレイチェルの体の中にいるから逆に今は何もできないし…今までより、街も安全なくらいだわ。本体を叩かないことには根本的にはどうにもならないけど…でも、レイチェルを助けるためにも育成を最後まで行わなくてはっていう何より強い動機を再認識してくれたから、コレットはもう大丈夫よ…彼女が育成をしてくれなかったら、レイチェルを助けるどころじゃないもの…何もしなくても、この地とはあと2日でお別れだもの、その時私たちがどうなっているのかわからないけれど…」

「アンジェリーク…」

ジュリアスはアンジェリークにかけてやる言葉が見つからずどうしようもない焦燥を感じる。アンジェリークの言うことは全て真実だから。後2日で、どんな結末であれ結果は出てしまい、しかも、その結果をどうこうする裁量は自分たちにはないのだ。

ジュリアスが言葉を見つけられずにいると、アンジェリークは突然ジュリアスを真剣な瞳で見上げて話しかけてきた。

「ジュリアス、ごめんなさい、ありがとう、わがままを聞いてくれて…泣いても笑ってもこの地にいられるのは後2日、ほんとの事を言うと…ジュリアスと一緒に外を歩いてみたかったの。私が外に行きたいって言えば、きっとジュリアスは一緒に来てくれるって思って…それでわがままを言ったの。昼間は一緒に外出できないし…育成が上手くいってもいかなくてもこのアルカディアとはもう少しでお別れだし…その前にこの地を2人で一緒に歩いてみたかったの。自分の守ってきたものを2人で一緒に見てみたかったの…」

それだけが理由ではなかった、でも、この気持ちもまた一端の真実だった。

「そう…か…」

ジュリアスが控え目に嘆息し、目を伏せた。聖地に戻れば、人目を気にせねばならぬこと、この地の比ではない。実際2人揃っての夜歩きなど、確かに今この時でなければ不可能だった。こんなささやかな願いをわがままだと言って謝るアンジェリークにジュリアスはなんと言っていいかわからない。

彼女は自分の選んだ道を後悔などしていない。だから、自分も後悔などするべきではない。それは彼女の決意や意志を却ってないがしろにしてしまうも同然だ…オスカーの言ったことを理解はしている。

しかし、自分の生き方が彼女の選択にあるベクトルを与えなかっただろうか。こんなささやかな願いをわがままと言わせてしまう生き方を自分が選ばせたと思うのは傲慢に過ぎるだろうか…

私が彼女を愛さなければ、彼女にはもっと別の生き方もあったのだろうか。選ばなかった道が今更ながらジュリアスに重くのしかかる。彼女を襲ったあの悲劇を知ってしまった後は尚更に迷いが強くなったことも否めない。

だが、その重みを知っているからこそ、迷いに迷ったからこそ、今、ジュリアスは自分の全身全霊を以ってアンジェリークに考えうる限りの幸せと安らぎを送ろうとより強く決意していた。起きてしまった過去は覆せない。後悔はなにも生みはしない。これから彼女が心安らぎ充たされた時を過ごしていけるかどうかが肝要なのだと思う。いや、そう思って生きていこうと今も自分に言聞かせている。彼女が何を望み、何を幸せと思うのか、そのために自分に何ができるのか、どうするのが良いのか…真摯に考え行動で示すことが自分の誠意だと思う。そのためならどんなことでもしてみせると決意していた。

その自分の決意を、誠を、彼女にどうすれば伝える事ができるのだろう…言葉だけでは心もとない…言葉だけでは伝え切れない…何か、証のようなものはないだろうか…

アンジェリークが突然立ち止まって、ジュリアスを見上げた。連られてジュリアスの歩みも思考もいったん中断した。

「ジュリアス、もし、無事に聖地に帰れたら…」

「帰れたら…なんだ?」

「ううん、なんでもない…」

アンジェリークは目を逸らすと、ジュリアスの指に自分の指を絡めた。そのまま黙って仮宮に向い歩きだした。ジュリアスもただ黙ってアンジェリークを見つめている。そちらを見なくても労るような視線が自分を包んでいることをアンジェリークは全身で感じる。

もし、帰れることがわかったら…アンジェリークはゆっくり歩きながら考えを巡らした。

今は、頬をひんやりと撫でていく風に気持ちも落ちついていた。

ジュリアスの気持ち、オスカーの気持ちを知って、考えた自分の気持ち…それが漸くおぼろげではあるがまとまってきたアンジェリークだった。

そしてジュリアスもやはり言葉少ないままアンジェリークを私室まで送り届け、そのまま自分自身は客間に戻った。

アンジェリークが何か思案しているようだったので、それを邪魔すまいと思ったこともあるが、自分自身も考えたいことが残っていた。

オスカーと話しあったあのことをどう切り出すか…そして、その上で自分の決意の証を何か示せないものかと。どれほど望もうと、生涯共に手を携えて歩んでいくことはほぼ叶わぬ身ゆえ、市井の男なら簡単にできることがジュリアスには難しい。言葉で変わらぬ愛を誓うのは簡単だが…そしてその誓いが真実心からのものであっても、言葉の約束など大した意味はないことを、ジュリアスもアンジェリークも哀しいほどに理解している。いくら愛の言葉を尽くそうと、いくら深く祈ろうと、自分たちのサクリアがほぼ同時期に滅するという奇跡が起こらぬ限りは、自分たちが生涯に渡り愛を育みあうことは難しいことをわかっている。だからこそ変わらぬ愛の証をアンジェリークに示したいのだが…とジュリアスは正装の長衣を解きながら考えていた。胸飾りを留めている装身具を外そうと手を伸ばした時、ふと、ある考えが脳裏に浮かんだ。

 

アンジェリークは私室で客間に引き上げるジュリアスを見送った所だった。

ジュリアスの方からは今夜一緒に過ごすかどうかの提言はなく、それを僅かに寂しいと感じながらアンジェリークはどこか安堵もしていた。

ジュリアスが今までずっと側にいてくれたから…ううん、今日だけじゃない、ジュリアスがいつもさりげなく側にいてくれて、私はどれほど助けられたことだろう。今、波立つ心が鎮まったのも、ジュリアスが何も言わずにずっと側にいてくれたから。そして、今、私が落ち付いた事を見てとってジュリアスは私を一人にしてくれたのだろう。

夢うつつだったアンジェリークは、ジュリアスとオスカーのやりとりの全てを聞けた訳ではなかった。慕わしい声に引き上げられるように意識が浮かびあがり、はっきりと意識が戻ったときは馴染みのある2つの声は、低く抑えた声音で途切れ途切れに、しかし真剣に何かを話していた。流れるようなやりとりでなかったからこそ、意識に引っかかったのだとも言えた。アンジェリークが意識したのはその会話の途中からだったと思うが、それでも初めてわかったことがたくさんあった。そして2人の男性それぞれのありとあらゆる想いに心を打たれ、打たれた心は水面の如く激しく波立ち、思考の波紋は幾重にも重なって広がった。

ジュリアスは自分の身に起きたことを、何時頃からか気付いていて、しかし、それを自分に知らしめていいものかどうか迷っていたこと。

もしや…とは思っていた。でも、信じてはいなかった。だけど、ジュリアスの限りない優しい言動も、なにもかも許容してくれるような態度も、今思うと合点が行った。

ジュリアスはよく、ただ黙って私を抱きしめてくれていた。なにも言葉を求めず、自身も言葉を発せず、ただ、抱きしめてくれていた。何時とは断言できないけれど、ある時を境に一層優しくなった。多分あの頃から気付いていて…でも、私がなにも言おうとしなかったから…黙っていてくれたのだ。

そして、オスカーに私の気持ちを改めて確かめていた…ジュリアスは、何故オスカーなら事情を知っていると思ったのかしら…私がオスカーの事を気にしていたことはわかってたみたいだから、何か知っていると推測したのかもしれない…オスカーが、私はジュリアスには知られたくないと言っていたと告げたら…そう、私は確かにオスカーにそう言ったから…そうしたらジュリアスは『それなら何も知らないことになっている自分では慰めてやれぬから、自分の替りに彼女を支えてやってくれ』とオスカーに依頼していた。

私が何かを告げようとして…問われてもどうしてもそれが果せなかったことをジュリアスは気付いていたから、自分が事実を知ってしまったことを、ずっと私に言えなかったのだろう、言ってよいものかと逡巡していたのだろう。

そして…私が知られたくないと言っていたとわかったら、私への慰撫をオスカーに託そうとした…私、この言葉がショックだった。ジュリアスが私を手放そうとしたからじゃないわ。これはジュリアスの優しさだと感じたから。自分が事実を知っていることを私に言えないから自分は慰めてやれないと。でも、私の事を慰めたくは思っているからオスカーにそれを任そうとしたのがわかったから…

そのジュリアスの優しさは一層胸に染みた。

自分にできることは何もないから…でも、私を楽にしてくれようと、自分自身で行うことには拘らず敢えて私をオスカーに任せようとしたんだわ…私が楽になるなら、それは自分の手で行う事ではなくてもいいのだと、私が楽になるのならそれは誰が行ってもいいのだと、ジュリアスは思ったんだわ…

だけど、オスカーはそれを拒んだ…私、そのオスカーの気持ちに涙が溢れた…

もう、言う機会はないかもしれないけど、オスカー、本当にありがとう…

あの晩も思ったけど…その翌朝も思ったけど…今、もっとありがとうって言いたい。

ジュリアスに『私への慰撫はジュリアス自身が行うべきだ』と言ってくれて…

あなたが私を慰藉することを嫌がっているのではないってすぐわかった…だって、あなたは何より大きい、何より強い慰撫を私にもう、くれていたもの。自分の哀しさに耐えて、自分の苦しさは脇において…私を楽にしてくれたもの…

私があなたに抱かれたのも、本当はジュリアスを思ってのことだと、わかっていたのかしら?きっとわかっていたのね…オスカーは、いつも怖いくらいに私の気持ちがわかってしまっていたもの…

どうして…どうして、オスカーはそんなに私の気持ちがわかるのかしら…わかってくれるのかしら…

オスカーは私がジュリアスに本当のことを言えずにいたから…オスカー以外に私の事情を知っている人がいなかったから、私の相談相手になってくれて、私を助けようとあんなに尽力してくれた…

だけど…ジュリアスがもう事情を知っているとわかったから、ジュリアスに私に関する事全てを返そうとしてくれたのでしょう?ジュリアスは遠慮なく私の近くにいるべきだと、進言してくれたのでしょう?

実際…いくら私の事を思ってのことでも、ジュリアスに手放されてしまったら…私、きっとそれを寂しく思ったと思うの…例えあなたが手放された私を受けとめてくれても、支えてくれても、ジュリアスに手放された事実を哀しく感じたと思うの…オスカーはそんな私の気持ちもわかっていたの?…だから、ジュリアスに、どうするのが私が一番嬉しく思うか、考えてみてくれって言ってくれたのね…きっと…

私、オスカーの言葉を聞くまで自分でも気付いてなかった…ずっと怖くてできなかったけど…伝えないつもりだったけど、本当は私は心の中で、ジュリアスにわかってもらいたい、知ってもらいたいって思っていたのかもしれない…知ってもらった上で受け入れてもらいたいかったのかもしれない…

オスカーは私より私のことをわかってくれていたのね。

そして、初めて話を聞いてもらった時から…もともとオスカーは前から言っていたものね…ジュリアスには本当のことを言った方がいいって。ジュリアスは事実に押しつぶされたりしないって。

私の事だけじゃない、オスカーの方がジュリアスの事もよくわかっていたのね。

私はジュリアスにどうしてもらったら嬉しいのか…ジュリアスは私が如何する方が嬉しいのか…私が何も言わないでずっと誤魔化してしまうことと、その時は辛くても、全部打ち明けてジュリアス自身が私に手を差し伸べられるようになるのと…どちらが結果としていいことなのか…オスカーは最初から言ってくれていたのにね…

…でも、私が自分に率直になる勇気を持てたとしたら…事実を言えるようになったのは…やっぱりオスカーのおかげなの。オスカーがいてくれなかったら、私、今でも事実を言おうとは思わなかったと思うの。例えジュリアスに仄めかされても、心の底ではそれを望んでいても、やっぱり認めらずに誤魔化してしまったかもしれないと思うの。事実を認めることが辛すぎて、怖くて…そのために、もっとジュリアスを悲しませていたかもしれない。どこまでも、いつまでたっても、ジュリアスには率直になれない私を思い知らされて…

だから、私、オスカーに抱いてもらってよかったと…今、改めて思った。本当によかったと思った。

オスカーが抱いてくれたから、私はアレを過去の物とみなせることができた。

オスカーが私は何も変わっていないと言ってくれたから、自分自身そう思えるようになった。

そう…あの事を、距離を置いて考えられるようになったのだと思うの…

それに…

ジュリアスは…私が楽になると思えば慰めをあたえる者がジュリアス自身であることには拘らない。それより、私が楽になることを優先させてしまう。私が楽になるのなら、慰藉するものが自分でないとしても、それを寂しく感じても、他者に私を託してしまう…それを痛感したから…

だから…ジュリアスがあの方法に気づく前に…ジュリアスが言出す前に…私は思いきってよかったと思いたいの…

オスカーのおかげで、私、ジュリアスにあの事を告げられるようになったと思う。

ジュリアスから仄めかされなくても…私、もう自分から言えると思うの。

だから…もし、聖地に帰れることがわかったら、私は私の受けた凌辱のことをジュリアスに自分から打明けよう。ジュリアスはもう知っているけれど。知っていて、黙っていてくれたのがもうわかっているけれど。でも、どう切り出したらいいのか、きっと考えると思うの。言出しにくいのは確かだと思うし…ジュリアスから切り出させるより、私から言ったほうがいいような気がするの…だから…もし、まだ私たちが供に生を重ねていけることがわかったら、その時は…

…前みたいに口に出すこと自体が死にそうに辛くはないと思うの、それはもちろん、全く平気ではないだろうけど…でも、胸を力任せに2つに裂かれるような苦しさはもう感じないですむと思うの…あれは過去に起きたことなのだと、今、私を脅かすものではないのだと距離を置いて考えられる様になったから…オスカーのおかげで…

そして、ジュリアスが私のこと全て引き受けてくれるように、敢えて、私の全てをオスカーは手放してくれた…

わざと、自分はなにもしないと…言ってくれたのね…

ジュリアス…オスカー…この二人の男性がいてくれたから…こんなに早く私の傷は塞がったのだと思うの。何時かは癒えていたかもしれないけど、私の傷が塞がるのはもっとずっと時間がかかっていたと思うの…でも、私には時間の猶予はなかったから…やはり、ジュリアスを悲しませることになっても、自分を幽閉せざるを得なかったと思うから…

そうしないで済んだのは…それは絶対にオスカーのおかげ。オスカーがいてくれたから私も、そしてきっとジュリアスも救われた…ジュリアスがそれを知る事はなくても、知らせることはできなくても、でも、私は知っているから。

ありがとう、オスカー、誰に言うこともなくても、誰にも言えないのが申し訳ないけど、私、あなたのしてくれたこと、あなたの気持ち、あなたの優しさ…みんなみんな一生忘れない。一生感謝する。絶対に…そう断言できるわ…

 

 

終わりは来し方に比すると意外なほどあっけないものだった。

コレットはアンジェリークの励ましに不安を覇気に変え、最後の育成に尽力した。守護聖たちもまた、コレットを勇気付けた。もともと臨界まであと僅かというところまでエネルギー量は溜まっていたので、一度育成するや否やエネルギーは育成地に満ちた。

銀の大樹がまばゆく光り出した。

アンジェリークはその時奥の間でバリアの維持に最後のサクリアを放出した所だった。サクリアを限界まで放出した。これ以上のバリアの維持はもう不可能だった。あと24時間もこのバリアは保つまい…その間になんとか次元回廊だけでも開ければ…今、エルンストと研究院の職員たちは不眠不休で回廊を開く方策を探している。でも、自分にもはやできることは何もない…そんな虚脱感に取り付かれそうになったその時、アンジェリークはそれを感じた。その光景を肉眼では見ていなかったが、確かにわかった。自分の張ったバリアの内部にまばゆい光が、優しい空気が滾々と湧き出し満ちるような感覚。多分…いや、間違いないエルダが覚醒したのだ。ああ、でも、この感じ…私、知ってる?何か似た感覚のモノを私、感じたことがある…この奇妙な既視感…でも、嫌な感じじゃない、何?

アンジェリークは執務室にいるロザリアの許に急いだ。

「ロザリア!」

「アンジェリーク!感じた?私も感じたわ…これ…なんだか、見覚え…いえ、見てないのに見覚えなんておかしいけど、何か…これ、私達の知っている物ではなくて?でも…何だか思い出せないのよ、絶対知っていると思うのに…」

「ロザリアもそう思う?エルダって私達2人供が知っているもの?…そういえばコレットもそう感じていなかったかしら…あ!そうよ、コレットの所に行ってみましょうよ!」

「ええ、それがいいかもしれないわ。でも、今宮殿には誰も供になれそうなものがいないの。育成に専念してもらうため今日は執務室から外出禁止の通達を出してしまったから…」

「大丈夫よ、この感覚が間違いないのなら、これは絶対危険なものじゃないわ。ロザリアにもわかるでしょう?私達だけで平気よ、だから急ぎましょう!」

「わかったわ、アンジェリーク」

女王と補佐官は急ぎコレットの住居に向った。

 

コレットの部屋につくと窓辺にレイチェルが倒れていた。

何故ここにレイチェルが…と思う前にコレットがレイチェルを助け起こしていた。唇から漏れ出る声は弱弱しかったが、確かにレイチェルのものだった。外が眩しく光ったと思うとレイチェルが部屋に飛びこんで来、気味の悪い叫び声をあげるや否やがっくりと倒れ臥したのだという。

後でわかったことであったが注入したエネルギーが臨界に達した途端、王立研究院にあるアルカディアの観測ホログラムが銀白色に発光し、部屋中ホワイトアウトして何も見えなくなってしまい、その隙をついて拘束されていたレイチェルの身体は研究院から脱出を図ったらしかった。

しかし、それはラガの最後の足掻きだったらしい。育成が臨界に達すればエルダの封印が解ける。同時にエルダの解放と覚醒ゆえラガは触手をこの地に伸ばしておくだけの力をも失い未来の新宇宙にある本体に戻ったため、レイチェルもまたラガの呪縛から解放されたのだとアンジェリークとロザリアは即座に理解した。

銀の大樹が眩い銀白色に光り輝いているのが、コレットの住居からもはっきりとわかる。目覚めた者が呼んでいる…コレットだけではない、その場にいた女性全員がその物の呼びかけを感じた。

女性達は素直にその何かに呼び寄せられ銀の大樹に向った。そんな自分たちを誰も不可思議とは思わなかった。

 

網膜を焼き尽くすほどかと思われた眩い光は、近づく距離によりきちんと光度が計算されているかのように弱まっていく。

樹の根元にはアンジェリークとロザリアにはこれが初見となるエルダが静かに佇んでいた。しかし、静かに見えるのはその外見だけだった。アンジェリークはエルダの体内に漲り自ずと溢れ出るようなエネルギーを物理的な圧力を感じるほどに感じていた。

そのエルダが驚くべき事実を言ってのけた。封印の解放と共に取り戻したのは力と記憶、自分は新宇宙の意志そのものであり、コレットがアルフォンシアと名づけた聖獣と呼ばれるものであると。

アンジェリークは、その一言で全てを得心した。なぜエルダはコレットとしか意志の疎通ができないのか、何故この封印を解くのがこの時代の守護聖でなければならなかったのか。何もないと思われた旧宇宙の残滓に新宇宙の萌芽が見出された時、それを聖獣という形あるものに育て上げ、更にその聖獣を完成された宇宙の意志に育て上げたのは、他でもないこの時代の守護聖だったのだから。アルフォンシアは九人の守護聖のサクリアを養分として育ったとも言える存在なのだから。どんな時代のどんな守護聖たちの力より、この九人の力が最も効率よく吸収されるのも当然だった。というより、アルカディアが新宇宙の浮遊大陸であるとわかった時点で新宇宙の創生に最も関与の深い守護聖ということで自分たちが選ばれたのであろう事は予測がついていたのだから、あと1歩考えを推し進めれば、エルダの正体も推察できてしかるべきであった。

アルフォンシアは聖獣であるから動物形であるという思いこみと、エルダは異形とはいえ人型だという外見がその事実を結び付けさせなかったのだ。

人の認識は容易く外見に左右される。自分の見知った物が別の姿を取るなどということは普通は意識に上らないものなのだとアンジェリークは改めて痛感した。

エルダが…いやアルフォンシアが自分たちに手を差し伸べた、ラガの本体を一緒に倒しに行こうと。

アルフォンシアが聖獣の形態に戻り自分たちを未来の宇宙に導く。その宇宙は後僅かなところで、何もない底無しの暗闇に飲み尽くされんとしていた。回転するブラックホールが渦状に全ての物質を貪欲に飲みこんで行く様にそれは酷似していた。これが虚無…確かに人の手でどうこうできる物には見えなかった、ラガと直接闘うことは人間の行為の範疇ではなかった。そう、宇宙に在る命全てを慈しみ育まんとする宇宙の『意志』そのものでなければ対抗しえないものだというのは理屈でなく納得できた…生きよう、生きていこうとする意志の力と、何もかも諦め放棄し停滞しようとする意志の力…それは人間なら必ず両方持っているもので、その過多に差があるだけで、それは時と場合により大きくどちらかに傾き振れることもあって…この虚無の塊は人間にはある意味とても馴染みのあるもの、誰もが抱えうる、育んでしまう怖れのある様様な負の感情の集積なのだろうとアンジェリークはひしひしと感じた。

捨て鉢になる心、何もかもどうにでもなってしまえと思う自棄になる心、この世の在り様を呪う心、自分自身の破滅を含めた全ての破滅を願ってしまう病んだ心。

それはこの世を慈しみ、自分も他者をも大切に思いあい、困難に出会った時もそれを乗り越え様とする心と対極でありながら、常にとなりあわせに存在する近しい物でもあるのだ。

自分自身がその負の感情に捕らわれそうになったから、しかし、その対極であり隣り合わせでもある他者が自分を思ってくれる心、自分が他者を思う心を思い出したことでその呪縛を免れ得た経験があるからこそ、アンジェリークにはこの拮抗する意志の在り様が手にとるようにわかる。

未来の新宇宙は…何かが原因でこの拮抗が崩れたのだろう。自分が魔に魅入られた瞬間があったように、それを振り切れずに破滅の衝動に身を委ねてしまった異世界の女性のように、今、そのバランスは破滅と停滞に大きく傾いでいる…何も動かず、何も生きず、何も変化しない絶対的な死に向ってひた走っているのが未来の宇宙の在り様だった。

人の心のように、この宇宙は何かの切っ掛けで大きくバランスを崩し、自己破壊の衝動に捕らわれ飲みこまれつつあったのだ。

それにアルフォンシアは必死の力で抵抗したものの及ばず、なんとか生きる力を取り戻そうと育ての親とも言える守護聖達に助けを求め、その助力を得させるために未来の女王は自分の命を賭して、アルフォンシアを封印された大陸ごと時空移動させたのだろう。

その経緯は自分の心の苦闘と、そこからの救いにあまりに酷似していた。

心が痛むあまり凍てついたように動けずにいた自分に差し出された優しく暖かな手、それに救われまた歩き出せる様になった自分に。

過去の心の傷に足を取られ竦んで動けずにいた自分、その傷をつけたのも人間なら、そこから救ってくれたのも同じ人間だった。限りない優しさで自分の魂を包みこんでくれた、包みこもうとしてくれた2つの魂を自分は知っているから。自分の心の痛みには眼を瞑っても他人である自分を救おうとしてくれた高潔な魂。私をこれ以上傷つけまいとしてただ黙って抱きしめ、自分の心の痛みには眼を瞑り私を他者に委ねようとした崇高な魂。それを知っているから、自分は虚無になぞ負けない力があると信じることができる、この宇宙も虚無に飲みこまれたりなどしないと断言できる。何もかも嫌になることがあっても、そこからまた動きだせると今なら言いきれる。諦めなければ、そして、自分一人では動けない時でも、差し出される手はきっとあり、それを掴むことができるのならば。差し出された手を受取ることは、決して恥かしくも悪いことでもないのだ。一人で動けなくなるほどの深手を負う可能性は人間なら誰でもあり、そんな時、周囲に助けを請う事は許されるのだ。誰がいつ助力を請う立場に追いやられるかは誰にもわからないのだから。そして、傷ついて竦んでいる魂も、絶対に何もかもだめなどと思うことはないのだと。閉じこもらなければ、周囲に心を開けば、差し出される手は必ずあると。転んで動けない時があってもそこで諦めなければ、人はまた立ち上がって歩き出せるのだ。その立ちあがる切っ掛けに人の手を借りてもいいのだ。

自分自身もそのように助けてもらったから。自分は転んだままその傷の痛みに立ち上がれず泣き続けている子供のようだった。1人で立ちあがれるならその方がいいのだろう。でも、どうしてもそうできない時もある。だけど、そんな自分に差し出された2人の手が私にまた一人で立って歩いていける力をくれた。だから、もし傷ついて竦んでいる魂に出会う事があったら、今度は自分が…自分が助けてもらったように、僅かでも助力になれればと今、心から思える。2つの美しい魂を知り、それに救われたから、心からそう言える。だから…以前の私のように一人ではどうにも動けずにいたアルフォンシアを…最初からわかっていたわけではないけれど、アルフォンシアがまた力を取り戻すための手助けができてよかった。自分が助けてもらえたように、アルフォンシアを助けられて本当によかったとアンジェリークは思った。

そんな事を考えている間にもアルフォンシアの精神体は放たれた矢のように、まっすぐに力強くその虚無に突き進んでいく。守護聖たちの思いに、そして私達の思いに育まれた生きようとする力、生きとし生けるものを大切に守っていこうとする力が全身にみなぎっているのが感じられる。自分がどこにいるのかはわからないのに、それがはっきりとわかる。

そして、アルフォンシアは身体に満ち満ちた守護聖たちのサクリアを生きる意志の力に変え、停滞し破滅しようとする負の感情を一気に四散させた。

その瞬間、未来の宇宙は自ら歩み生きていく力を取り戻し、自分たちの命もまた未来に繋がったのだとアンジェリークは悟った。

アルフォンシアが感謝の言葉を述べていた。自分も未来の宇宙も救われたと、限りない感謝を自分と未来の女王から捧げると告げられた。

でも、アンジェリークはその過程を見ていただけで自分は闘ったわけではなかったと思っていたので、感謝の言葉は少し面映い気がした。実際今の自分には何の力もなかった。サクリアはもう微塵もこの身中に残っていなかった。それに、アルフォンシアは救われたと言ってくれたが、自分達もまたアルフォンシアに救われた。あの負の精神体に太刀打ちする術は人の手にはなかったのだから。自分たちの未来もまたアルフォンシアに繋いでもらったのだ。礼を言うべきはこちらの方だとアンジェリークは謙虚に感じた。でも、自分がオスカーに感謝した事に対し、オスカーもまた救われたと言ってくれたように…それぞれの行為が互いに救いになったのなら…それが一番いいことなのだろう、と思い返した。

今の闘い自体では何もできなかったが、それでもアルフォンシアは自分に一緒に負の精神を蹴散らすという経験を共有させてくれた。それは、アルフォンシアの優しさであり誠意なのだと思った。今、為せることはなかったが、自分もまた幾らかはこの宇宙が虚無に飲みこまれる事態に抵抗する力となれたから。そのため、結末を自分のこの目で見られるように、自分の行為が無駄ではなかったと知らしめるために今、自分をアルフォンシアはこの場に連れてきてくれたのだと思った…この宇宙が…自分の宇宙でなくてもいい、生きとし生けるものがその権利をまっとうできる世界を保つことができたのなら、例えこのままサクリアが元に戻らなくても、悔いはないとアンジェリークは心から言えた。自身のことは顧ずに、私の苦痛を癒そうとしてくれた人たちの事を思うと、とても静かに自然にアンジェリークはそう思えるのだった。

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