汝が魂魄は黄金の如し 
終章

「疲れてはいないか?」

「ええ、平気…だって、とっても楽しかったもの。あんなに皆で笑ったの、久しぶりだったし…ほんとに楽しかった…」

「そうか…それならよいが…」

ジュリアスはほっとしたようにアンジェリークに微笑みかけた。

コレットを主賓としたガーデンパーティー…というよりはピクニックからの帰り、アンジェリークを私室まで送り届けたところだった。

あの時…銀の大樹から目も眩まんばかりの閃光が立ち上った時…ジュリアスの執務室からもそれははっきり見えた…ジュリアスもまた何かが起きたことは悟った。恐らく育成が臨界に達したのだろうということは予測がついた。しかし、その結果何が起きたのかは全くわからなかった。

エルダは解放されたのか、ラガはどうなったのか、あの光は一体何なのか、疑問は無数にあり、焦燥と不安に心は灼け焦げそうだった。しかし何よりもまずは女王の身の安全確認をすべきだと断じ、女王の宮殿に急ぎ赴いたジュリアスは、コレットの住居も女王の宮殿ももぬけの空であると知り愕然とした。一体アンジェリークたちはどこに行ってしまったというのだ…まさかあの閃光を放つ大樹の許に自ら赴いたのか?自分たちだけで?

更なる焦慮に駆け出さんばかりの勢いで銀の大樹の許に向おうとしたその矢先、アンジェリーク達4人が屈託のない笑顔で宮殿に戻ってきたのだった。まるで、楽しい散策の帰りとでもいうように笑いさんざめき、そぞろ歩きながら…その様子にジュリアスは激しく混乱した。

『陛下…コレット…この非常時に何を朗らかに微笑みあって…レイチェル!?レイチェルが何故ここに?王立研究院から何時どうやってぬけだし…いや、それよりラガの呪縛はどうなったのだ……』

無数の疑問に翻弄され混乱の極みにありつつも、直後ジュリアスの取った行動はあまりにジュリアスらしかったと言えるかもしれない。

「陛下!常ならぬ様子に心配して駆けつけてみれば、宮殿を空にして一体今まで、どこで何をしていたのです!供もつけずに、しかも、お諌めすべき補佐官ともどもとは一体どういうことだ!」

緊張感のない4人の様子を見て、憂慮が深かっただけジュリアスは久々に峻烈とも言える怒号を迸らせた。

しかし、その怒声に怯むどころか、逆にジュリアスの存在に気付いたアンジェリークは、少女のように息急き切って、しかも満開の花のような笑顔でジュリアスの許に駆けよってきた。

「ジュリアス!聞いて!全部終わったの!宇宙は救われたの!未来も、そして今の宇宙も!私達も!」

「な…それはどういう…一体何があったというのです、陛下、ロザリア。」

一点の曇りもない笑顔に一瞬毒気を抜かれ、何があったのか詳しく聞き出そうとしたところに、他の守護聖たちが懸念を隠せない様子で次々と宮殿に到着した。銀の大樹から迸った白銀光は大陸全土からみえたので、守護聖たちは何かが起きたことはわかってもその全容はわからない状態で、とりあえずアンジェリークの安否を懸念して疾く宮殿に駆けつけたのである。

「みんな!丁度よかった!皆に話したいことがあって、今集まってもらおうと思っていたところなの。」

アンジェリークの晴れ晴れとした満面の笑顔に、集まった守護聖はどうやら事態は凶事ではないらしいことを悟る。幽玄な笑みを浮かべてクラヴィスがついと前に出た。

「話したい事か…あれの…エルダの正体は我らのよく見知ったものだったということではないか?」

「ま…すごい、クラヴィス、どうしてわかったの?気付いていたのなら、そう言ってくれればよかったのに…私、さっき本人から聞くまで全然わからなかったのよ?」

「確信も証拠もなかったのでな…根拠のないただの勘では一笑に付されるだけであろうし。」

「そうね…いきなりあれがアルフォンシアだって言われたって、それは皆信じるわけないわよね、本人も忘れてたのだし、第一あんなに見た目が違っているんですものね…」

「陛下、なぜここでいきなり聖獣の名前が出るんです?…あ、まさか!」

突然何か思いあたったようなオスカーの様子にアンジェリークがこの上なく嬉しそうに微笑んだ。

「そう、そうなの!エルダはアルフォンシアだったの!そして、皆のサクリアのおかげで力と記憶を取り戻したアルフォンシアは未来の宇宙を飲み尽くそうとしてた負の思念をたった今打ち破ってきたの!私達それを一緒に見てきたの!」

このアンジェリークのあまりにはしょった説明に得心顔の者とそうでない者は半々といったところだった。ロザリアが見かねて助け舟を出した。

「陛下…お気持ちはわかりますけど、そう一度に言っても皆、混乱してますわ。私が順を追って説明いたしますわね。」

「ああ、その方がよかろう。全く事態を把握できていない者もいるようなのでな。」

「やだ…ごめんなさい、私、嬉しいのと安心したので、つい、気が急いちゃって…あ、コレットは疲れてない?もう、お部屋で休んでて?皆には私から事情は説明しておくから…これからの事が決ったら後でまた連絡するから待っててね。」

有無を言わさぬ様子でアンジェリークはレイチェルにコレットを預け、徐にジュリアスに向直った。

「それでね、ジュリアス、私、ジュリアスにちょっと相談があるのだけど…」

「なんでしょう、陛下…」

アンジェリークが、ジュリアスの耳許に何か囁きだした。最初は黙って聞いていたジュリアスだったが、しばらくすると一瞬驚いたように目を見張り、次いで渋面を作り、最後には大げさな吐息をついて「御意」と一言だけ応じた。その頃にはロザリアの簡にして要な説明で守護聖たちは全ての問題が解決したことを知った。

「それで、これからの事なのですが、この大陸の存続が可能なのは明日一杯。なので、明日の早朝には次元回廊を通ってこの大陸から脱出します。住民達は現在の新宇宙にある居住可能な惑星に移住してもらい、もちろんわたくしたちは聖地へ戻ります。」

「次元回廊が開けるの?開ける様になったの?」

「アルフォンシアが開いて送ってくれるの。それぞれ新宇宙と私達の宇宙へと。せめてものお詫びとお礼だって言って…」

「そりゃ、あいつが無理矢理俺達をつれてきたんだから、それくらいはしたって撥あたんねーよな、確かに。でも、なんで、今すぐじゃないんだ?もうラガの呪縛は解けたんなら、さっさとこの大陸からおさらばしたほうがいいんじゃねーのか?」

ジュリアスが説明に割って入った。

「我らの宇宙がどうなっているのかを思えば一刻も早く戻らねばと思うのは当然だ…ラガの脅威は滅したといっても、次元の狭間自体不安定なものであるし、ゼフェルの言も尤もなのだが…だが、この地に住まう民のことも考えねばならぬ。彼らにとってこの地は今まで暮らしてきた愛着のある土地。しかも次元回廊を通って移住するとなれば持っていける荷物にも限りがある。彼らはこの地が次元の狭間に飲み込まれて消滅する危険があったことも知らされていない。そこに、いきなり移住の話だ…それはどうしても納得してもらわねばならぬが、住み慣れた土地を離れるとなれば荷物の整理だけではない、気持ちの整理をする時間というものも必要であろう。例え一日だけとはいえ、ないよりは良いと思うのだ。」

「あ、そうか…すまねー、俺、自分が身一つで来たもんだからよー、つい…」

「ま、それはそうだよね。私達はいわば流離いの異邦人だから特にまとめる荷物もないし、名残を惜しむ相手も…ま、これは人によって違うかもしれないけど…じゃ、今日一杯この地に名残を惜しんで明日はすっきりとお別れってことでいいのかな。」

「そのことで、今、陛下から提案があったのだが…」

そして、ジュリアスは先ほどアンジェリークから耳打ちされた計画を披露した。住民達に移住の準備をしてもらっている間、自分たちはお別れとお祝いとコレットの労いを兼ねてピクニックをしたらどうかと言う。それは快く賛同の意を得られ、その場で守護聖と協力者一同はそれぞれ役割を分担してその準備に走り出した。その間アンジェリークとロザリアはまず住民達にこの地の現状と明日の移住に向けての準備をするよう通達を出したあと、自室に控えていたコレットとレイチェルを呼び出して明日の予定とこのピクニックの計画を伝えたのである。

そして、午後一杯続いたピクニックは夕刻、無事に果て、ジュリアスはアンジェリークを送っていくと言って2人で女王の私室に戻ってきたのだ。

「まったくそなたには驚かされることばかりだ。宮殿に誰もいないとわかった時は心臓が止まるかと思ったのだぞ?そこに、屈託なく笑いながらそれぞれの女王と補佐官が戻ってきた時は一体何があったのかと…」

言葉は子供を窘めるような印象だが、ジュリアスの口調も瞳の色も暖かく穏やかだ。

「心配させちゃったわよね、ごめんなさい…」

「いや、皆、無事だったのだし、おかげで全ての事情がわかった。ラガは滅し、我らは聖地に戻れることになり…万事うまく行ったのだから何も問題はない。しかし、アルフォンシアの解放とラガ殲滅のお祝いと慰労をかねて皆でピクニックをしたいと、いきなりいいだすのだからな…まったく破天荒な女王陛下だ…」

「だって私達に引っ越しの準備はいらないし、それに、あんなにがんばったコレットにお祝いしてあげたいじゃないの。この地とも、もうさよならだからよく様子を覚えておきたかったし、最後にいい思い出になったと思うし…」

「それでいったら功績があり慰労すべきは…そなただとて同じではないか。いや、そなたこそが称えられ賞賛されるべきであろう?アルフォンシアにその力を取り戻させたのは…アルフォンシアにエネルギーを注いだのは確かにコレットだが、育成を行うための環境を作ったのは一人そなたの力だ。そなたが強い信念と的確な判断力で守護聖に育成を命じたから、我らはそれに従った。その育成に十分な時間がとれるようにこの地の命運を可能な限り引き伸ばしたのもそなただ。そなたに…我々も、我々の宇宙の民も、この地の民も、未来の新宇宙もひとしなみに救われたのだから…」

「やだ…ジュリアス…そんな…私ができたことは時間を引き延ばしただけ…でも、そう思ってくれたから、私のわがままを聞いてくれたの?ジュリアス…」

「わがまま…とは、ピクニックには皆私服で参加することの通達のことか?あれにも驚かされたがな。」

ジュリアスが瞳を細めて軽く笑んだ。

「そのことじゃなくて…でも、執務服のままだと仕事の延長みたいじゃない?コレットだって緊張しちゃうんじゃないかと思って…」

「それだけか?」

「ジュリアスの意地悪…そう、本当はね、ピクニックがしたかったのは私。それを仕事みたいに感じたくなかったのも私なの。皆にも、ジュリアスにも…形だけでも仕事のことを忘れてほしかったの。といっても今日だけ…明日までの何時間だけだけど、私も守護聖も義務や責任からほんの少し自由になれる時間があった方がいいって思って…ううん、そんな時間を私が欲しかったの。だから、あれは全部私のわがまま。でも、ジュリアスはそれをわかってて私の言うことを聞いてくれたのでしょう?ピクニックのことも、私服のことも…」

「宇宙を救った女王の望みにしては、ささやかすぎる気もしたが…」

「でも、それこそが私の…多分、コレットも一番嬉しいものだと思うの。女王であることを忘れて皆で笑い合って、楽しくおしゃべりして、おいしくご飯を食べて…どんなものより大切で貴重な掛け替えのない一日…今日だけなら、試練の終わったことに安堵して気を緩めてもいいと思って…今日一日だけなら、許されるかと思って…」

「ああ、わかっている…何も考えずに済み、何の義務もない一日は、恐らく今日、今宵限り…」

「ええ、明日からは…」

「ああ、明日からは…」

2人共に先刻の朗らかさは一年も前のもののように黙りこくった。

明日次元回廊を開き、自分たちの宇宙に帰る。それはもちろんこの上なく嬉しい喜ばしいことで、実際自分たちはそのために持てる力の全てを振り絞ってきた。そしてその甲斐はあったのだ。

しかし、この地で過ごした4ヶ月弱…この間に聖地では一体どれほどの月日が経っているのだろう。彼我の時間差がわからないので想像もつかない。

この地で過ごした時間が、下界の時間と連動していてくれれば、聖地では一ヶ月も経っておるまい。願わくばその程度であってほしいが、例えどれほど短期間だったとしても、その間守護聖と女王の突然の失踪で女王府がどれほど混乱しているか考えるのも怖いほどだ。政庁内部の混乱だけならなんとか官僚たちで取り繕えるだろうが、その間秩序を失ったサクリアが宇宙のどこで淀んだり逆に過熱暴走しているかわかったものではない。聖地に戻るや否や、守護聖と女王は一丸となって火急速やかに自分たちの宇宙の状態を精査把握し、その秩序回復に全力でとりくまねばなるまい。

しかも、この不在期間の予測は、あくまで自分たちの召還前にアンジェリークが調整していた時間の流れがそのまま慣性を保っていた場合の予測でしかない。実際に聖地に戻ってみなければ、下界でどれほどの時間が経っているのかわからず、その間の後始末を行うのに一体どれほどの困難が待ち構えているか考えると、流石のジュリアスも嘆息を抑えられない。そして、それをアンジェリークも痛いほどわかっている。

戦争後の秩序の回復と復興は、戦争中よりも更に多大な労力を要するのは自明である。自分たちの不在が及ぼした混乱、無秩序、停滞…ありとあらゆる悪影響や困難をひとつひとつ解きほぐしていかねばなるまい。明日、聖地に戻れば我ら守護聖、王立研究院の職員、そして女王は不休の覚悟で山積しているであろう問題にとりくまねばならないだろう。それがわかっているからこそ、アンジェリークは、今日一日、何の憂いもなく過ごせる時間を自らも欲し、また、皆にも与えたかったのだろうと、ジュリアスは思っていた。

「ごめんなさいね、ジュリアス…本当なら一刻も早く帰ったほうがいいとは思ってたの…でも…」

「気にするな…例え数時間だけ早く帰ったとしても、事態がそう大きく変わるわけでもあるまい。それよりも、聖地に戻れば否応なしに、また息付く暇もなく執務が待ち構えているのだ。守護聖や職員達にも休息は必要であろうし…だからそなたは今のうちに皆に休息を与えてやりたかったのだろう?昨日まで働き詰めで、今日また聖地に戻るや全力疾走では、皆参ってしまうだろうしな…」

尤も守護聖のうち、何人がこのささやかな休日の意味と、それを皆に与えたアンジェリークの心情をわかっているのだろうかと、ジュリアスは思う。

「それに、何よりそなたの体のことがある。昨日まで極限まで張り詰めた精神状態で限界までサクリアを放出し、そしてまた即日休みなしに聖地に戻って執務になどついたりなどしたら、そなたは…そなたの体は…」

ジュリアスは恐ろしいものでも見たように一瞬背筋がぞくりとした。考えたくない、考えることが怖い筆頭の事柄が冷たい汗を伴ってジュリアスの胸中にじわじわと這いあがってくる。それを無理に振り落とすようにジュリアスは頭を振って話しを続けた。

「本来なら、そなたにこそ、もっと十分な休養を取らせてやりたい。この数時間しか休ませてやれないことを私がふがいなく申し訳なく思いこそすれ、そなたが申し訳ながることなど、何もないのだ。」

そう、我々守護聖も、コレットも為して来た仕事自体は通常の業務と然程差があったわけではない。最も自分に無理を課し、限界まで働き詰めだったのはアンジェリークなのだから。

だが、アンジェリーク自身は曇りのない澄んだ笑顔でこれに応えた。

「ありがとう、ジュリアス…心配してくれて…私を心配してこの地で時間をとることを許してくれて…私のわがままを快く聞いてくれて。私ね、実を言うと…どうしても2人になれる時間が…少しでもいいから欲しかったの。聖地に帰ったら、また、しばらくゆっくりと2人で過ごす時間はとれなくなると思って。だから…その前に…私、ジュリアスに話しておきたいことがあるの…どうしてもジュリアスに話しておきたいことがあるの…」

「!…アンジェリーク、それは…」

ジュリアスは、はっとしてアンジェリークの顔を怖いほどに凝視した。思考も言葉も一瞬出口を見失ったように止まった。アンジェリークはあのことを…自ら打明けようとしている?

「ジュリアス、私、聖地に戻れるってわかったら…また、あなたと一緒に歩んでいけるってわかったら、言わなくちゃいけないと思っていたことがあるの…私…しばらく精神的に不安定だったでしょ?それでジュリアスに一杯心配をかけたと思うの、その訳を知らせなかったから余計に…だから、その訳をちゃんと言わなくちゃと思って…」

アンジェリークの様子も口調も落ち付いている。そこに、悲壮さも壊れそうな危うさも張り詰めた緊張もない。アンジェリークは淡々と、自分の身におきたことを…その事実のみを告げようとしている…

しかし、ジュリアスはアンジェリークが言葉を発する前にその身体を胸に思いきりかき抱いていた。折を見てアンジェリークにさりげなく切り出すか、仄めかすかなどと、以前に考えていた手順などどこかに飛んでしまい、考えるより先に身体が動き、口はアンジェリークの言葉を遮っていた。

「アンジェリーク、いい!無理に言わなくていい!辛かったら、無理に言わずともいい!知っているのだ…私は…戦争中にそなたを襲った惨劇を…そなたの受けた苦しみを…私は、もう、知っているのだ…だから、無理に口にしなくていい…」

その可憐な唇から惨い言葉が零れることに耐えられないのは自分の方だと、ジュリアスは思った。言うのも辛ければ、聞くのも辛い、事実を事実として認めることすら辛すぎてかなわぬ…こんな現実を経験させられたアンジェリークが哀れでならなかった。そして、自分も告げられること自体が辛い真実もあること、あからさまに口にするのも惨い事、はっきりと暴き出さない方がいい事もこの世にあるのだと初めて知った…知らされた。

アンジェリークはジュリアスの胸の中でとても長い溜息をゆっくりと吐き出した。

「そう…やっぱり知っていたのね…ジュリアスが私にあんまり優しいから、壊れものに触れるみたいに優しいから…もしかしたら…とは思っていたの…やっぱり気付いていたのね…」

ある種の達観を感じさせるような落ち付いた口調のアンジェリークとは逆に、ジュリアスは止めど無く胸中に溢れ出す謝罪と懺悔の気持ちに感情が翻弄されきっていた。言葉を思いつくままに迸らせずにはおれない。何から謝ったらいいのか、その順序もわからないほどに、アンジェリークに謝罪せずにはいられない。今まで謝罪したくてもできなかったから、その衝動は一層歯止めが利かなかった。

「アンジェリーク、済まない…本当に済まなかった…心の中で何度詫びたかわからぬ…そなたをもっと早くに助け出せてやれず…そなたがずっと苦しんでいたことにも気付かず…せめて、そなたの苦しみにもっと早くに気付いてやっていれば…私はそなたの苦しみに気付かずその傷を暴こうとする様に詰問すらしてしまった…済まぬ…何から謝ればいいのか…何と言って謝ればいいのか…」

「ジュリアス、ジュリアス、そんなことない!だって、私が知らせたくなかったの…ジュリアスが私の事を心配してくれているのはわかっていたの!でも、どうしても言えなくて…そのことでジュリアスを悩ませて、哀しませてるってわかっていたのに、自分でもどうしようもなくて…ごめんなさい、ごめんなさい、ジュリアス。今まで何も言えなくて…心配ばかりかけてしまって…本当にごめんなさい…うぅっ…」

泣かないで言えると思っていた。だがやはり込み上げる嗚咽は抑え難かった。ジュリアスの腕に抱かれたその安心感に尚更涙が抑えられない。だが、その涙は以前流した辛い冷たいだけの涙ではなかった。ジュリアスに聞いてもらえた、やっと言えたという安堵の思いも少なからず混じった涙だった。

そんなアンジェリークをジュリアスは更にきつく抱きしめる。

「そなたが謝ることなど何もない。謝らないでくれ、アンジェリーク。そなたは何も悪くないではないか…謝罪すべきは私だ。そなたが最も助けを必要としていた時に側にいてやれなかった…そなたが救いを求めた時に救えず…みすみす、そなたに言葉にできぬほどの辛酸を舐めさせてしまった…済まなかった…一番辛かった時に助けに行けず…その傷に苦しむそなたに気付いてやれず…本当に済まなかった…どれほど謝っても取り返しがつかぬ…どのように贖えばいいのかもわからぬ…そなたが最も苦しかった時に…私は何もしてやれず…済まない、済まない…アンジェリーク…どれほど辛かったろう、苦しかったろう…恐ろしかったろう…アンジェリーク…」

その後は言葉が続かなかった。滂沱と流れる涙に言葉は飲みこまれてしまった。言葉の替りにアンジェリークをぎゅっと抱きしめた。

そのジュリアスの腕の中でアンジェリークも泣いている。肩を震わせ、大きくしゃくりあげている。ジュリアスは上手く出ない言葉の替りにその肩をしっかりと抱く。僅かでもアンジェリークの震えが納まることを祈りながら。

「ぅうっ…あぁ…ジュリアス…ジュリアス…いいの…もう、いいの…ジュリアスが悪いんじゃない…誰も悪くない…でも、私、私…本当はずっとジュリアスの胸で泣きたかった…ずっとずっと泣きたかった…こうして…でも、でも…」

「私が…ずっと気付いてやれなかったから…そなたは思うさま泣くこともできなかった…私は泣かせてやることもできなかった…そなたが泣けば私は訳を問うてしまっただろうから…だからそなたはずっと我慢していたのだな…私を心配させまいと…悔恨に苦しめまいと…済まなかった…本当に済まなかった…でも、もう我慢しなくていい。寂しい時も、悲しい時も…不安な時も…一人でいるのが辛い時はいつでも私を呼べ。泣きたい時には私の胸で泣いてくれ。もう一人で我慢などさせぬ。私が側にいる。そなたの涙は私が全て受けとめる。一雫たりとも無駄に散らしたりはせぬ。…いや、アンジェリーク、それを私に許してもらえるだろうか…これからも、そなたの側にいることを…そなたの涙を受けとめる役割を私に許してもらえるだろうか…アンジェリーク…」

「…っ…ジュリ…アス?それ…どういう…っぅくっ…」

アンジェリークがしゃくりあげながら、必死の面持ちでジュリアスを見上げる。

ジュリアスはアンジェリークを真摯な瞳で見つめかえし、静かに語り出した。

「アンジェリーク…私は、そなたが最も助けを必要とした時に、そなたを救えなかった…そんな自分がそなたを愛しているいう資格なぞあるのか、そなたの側にいる権利があるのかと、自問してばかりだった…しかも、そなたが長いこと苦しんでいたことにも気付かず…こんな…ふがいない自分はそなたの愛を受けるに値するのか…笑顔を守りたいと思っている愛する女性に、私が与えたものはその反対の物ばかりのような気がしてならず、そんな自分がそなたを愛しているなどと言っていいのか、そなたに愛される資格があるのか…ずっと、迷っていた…こんな自分はそなたに愛想づかしをされても仕方ないとさえ思っていた…」

「いや…ジュリアス…そんなこと言っちゃいや…」

不安に震える唇を必死に噛み締めるアンジェリーク。その身体を一層きつく抱きしめながら、ジュリアスはアンジェリークを安心させるように何度も髪を梳くように撫で摩る。

「ああ、済まない、不安にさせてしまったか…違うのだ。最後まで聞いてくれ…だが、自分が愛されるに値しないなど、誰が決めるのか…自分が愛し愛される資格があるなどと、誰が決めるのか…それは自分が決めるものなのか?そうではない、自分が一人決めしていいものではない…それを決めるのは愛してくれるその人ではないのか…愛する者が自分を欲してくれるのなら、自分には愛される資格があるのかもしれない…自分だけの勝手な判断で、自分は愛されるに値しない人間だと決め付けて自ら愛を手放してしまうことの方が、余程愛する人を哀しませてしまうのだと…それを私に気付かせてくれた者がいた…一人よがりな考えで…例えそれが愛する者を案じてのことであっても、愛する者の意向を鑑みずに愛を手放してしまったり、自分に愛される価値がないと決め付けるようなことは、真の意味で愛する者を尊重していないことになると気付かせてもらった。自分を愛してくれる人がいるのに、自分は愛される価値がないなどと思うことは、その人が捧げてくれた愛をも価値のないものに自ら貶めてしまうことになると…気付いた…気付かされた。」

アンジェリークはわななくようにジュリアスを黙って見つめる。ジュリアスが誰の事を言っているのか痛いほどわかった。

「そなたを傷つけたくなかった…そなたを苦しめたくなかった…だから、そなたの苦しみに気付かない振りをしていた。しかし、それはそなたの苦しみを一緒に背負っていこうという気概がないというだけ…そなたの苦しみを見据える勇気がなく、目を逸らし、逃げているだけかもしれぬと気付かされた。そなたの心を痛めまいと傷に触れるのを怖れそなたの手を放してしまうことと、そなたの涙を怖れず苦しみも哀しみも諸共に受けとめていくのと…どちらがよりそなたにとっては嬉しいか、結果として幸せなのか、考えてみろと言われ、初めて気付いたのだ…愛する人を傷つけたくないと思うのは当然だ。だが、自分に愛される価値がないなどというおためごかしを自ら作り逃げてはいけないと、それは愛する人を哀しませるだけだと…愛する者が傷つき苦しんでいる所を見るのはもちろん辛い。でも、見ているのが辛いからと言ってその傷から目を逸らすのは逃げでしかない…傷をきちんと見据えなければ、傷の直し方、ふさぎ方もわからない…そして、自惚れかもしれぬが…そなたは、私がそばにいるほうが…傷に触れないためにそっと手放してしまうより、側にいる方が嬉しいのではないかと思ったのだ…」

「ジュリアス…ええ、ジュリアス…」

「だから…私はそなたに問いたい…いや、請いたい……そなたを愛している、そなたを愛し欲する気持ちは言葉に尽くせぬ…そなたを救えなかった私だが…そなたの苦しみになかなか気付いてやれなかった私だが…それでも、そなたは私がそなたを愛することを許してくれるか?そなたの最も近くにいることを、これからも許してくれる…か?」

「ジュリアス…ジュリアス、それなら…それで言ったら、私こそいいの?あなたを愛してるって言っていいの?あなたにこれからも私の側にいて、って、あなたの側に居たいって、私こそ言ってもいいの?だって、私もしかしたらこれからも泣く夜があるかもしれない、不安にあなたにすがってしまう夜もあるかもしれない…あんな目にあったから…あんな目にあった私でも…いい…の?」

信じてはいた。でも、はっきりと口にしてほかった。それがわかっているかのようにジュリアスの腕の力は更に強くなり、アンジェリークは息をするのも苦しいほどだ。

「愛し愛される価値があるかないかなど誰が決められると言うのだ…愛している…そなたが欲しい…そして、そなたも私を愛していると言ってくれるなら、同じように私を欲してくれるなら…それだけで十分、いや、それこそが肝要なのだ…私はそなたを愛している。できうる限りそなたの供に歩んでいきたいと思っている…私はそなたを欲している、欲してやまぬ、この胸が灼け焦げるほどに…」

「あぁ…ジュリアス…ジュリアス…愛してる…私も愛してるわ…もし、もし許されるなら…運命が許してくれる限り、私も、あなたと生きていきたい、一杯心配をかけたけど、一杯悩ませたり苦ませたりしてしまったけど、許されるなら、あなたと生きていきたい…できうる限りあなたの側にいたい…」

「アンジェリーク…私も同じだ…運命が許す限り…そなたと供に歩んでいきたい…だが、私は守護聖でそなたは女王…市井の男女のように生涯に渡る約束をしてやれぬ…それが申し訳なく心苦しい…」

「いいえ、ジュリアス、どんな人も運命が許す限りの時しか一緒には歩めない…私とあなたはだから普通の恋人と一緒なの、自分を不幸とか不実だなんて思わないで…明日のことはわからない…私達じゃなくてもわからないわ…でも、だからこそ今、こうしてジュリアスと一緒にいられることが私の宝石なの…宝物なの…」

「…アンジェリーク…しかし、私は自分が普通の恋人なら当たり前にできる約束すらできないことが、哀しく、口惜しかった…そなたに、私の想いをどうすれば伝えることができるのか…約束の替りに形あるもので何か証を立てたかった…それで…よかったらこれを受けとってもらえないだろうか…」

「え?これは…?」

ジュリアスが差し出した小さな箱を開ける。古風なラウンドカットのペリドットとラピスラズリがコンビネーションになって2つ仲睦まじく並んでいる金の指輪だった…石は単純に並列していない。台座の金のリングは斜めにより合わされたよう形取られ、石はやはり斜め上下に繋がって並んでいた。

「綺麗な指輪…これを私に?」

「ああ、できれば…うけとってほしい…」

「淡い緑と深い群青の青…私達の瞳の色と一緒ね?でも、この石の色…どこかで…」

その時アンジェリークは「あ!」と気付いた。今日は私服になってもらっていたので気付かなかったが、もしや、まさか、この指輪は…この宝石は!

「ジュリアス、これ…この石…まさか、あなたの…あなたのブローチの…?」

「ああ、あまり時間がなかったので凝ったデザインにできなかったのだが…どうしても、今日、渡したかったのでな…急ぎ細工してもらった…」

「だって…だって、あのブローチは、あなたのお家の…あなたの生家から賜って現存してるたった一つの品だって…そんな大事なものを!そんな貴重なものを!どうして…」

「いいのだ…そなたに持っていてもらいたいのだ…ただ、あのままの形ではそなたが身につけられぬと思ったので、指輪に変えたが…私には、このような物しか己の誠を示す手段が思いつかなかったのだ…ふるびたもので悪いが…受けとってもらえたら嬉しい…」

「そんな…そんな…こんな大事なもの…私が…私がいただいてしまっていい…の?」

「そなただから受けとってほしいのだ、アンジェリーク…」

「ああ…ジュリアス、ジュリアス、ありがとう、ありがとう…私大事にする、ずっと大事にするわ…」

「今、嵌めてもらってもいいか?」

「ええ…」

ジュリアスは恭しくアンジェリークの手を取り、その指に生家からの石で作った指輪をはめた。古風で控え目なその輝きはジュリアスの愛の形そのままのオマージュのようだった。

ジュリアスは、アンジェリークの指をそのまま自分の口元に運んで口付けた。

「愛している…生涯、そなただけだ…アンジェリーク…」

「ジュリアス…私も愛しているわ…でも…」

「でも?」

「どうか、自分を誓約で縛らないで…あなたは誠実な人だから…でも、私は、今、幸せだから…これ以上はないほど幸せだから…だから…」

「ああ…そうだな……私も、幸せだ、アンジェリーク。そなたをこうして腕の中に抱けて…」

「ジュリアス…」

2人はどちらからともなく口付けを交した。

アンジェリークの言葉の意味を2人供、悲しいほど理解していたが、それは触れなかった。

あと、どれくらい抱き合えるだろう、何回口付けを交せるだろう、それをいつも完全に忘れられない私たちは不幸なのだろうか?いや、違う。それだけ、私達は、今、この幸せをしみじみと感じ入ることができるのだから。恐らく宇宙のどの恋人よりも深く激しく愛し合う喜びを実感できるのだから…

まだ…お願いよ…私のサクリア…涸れないで…どうか…聖地に戻ってもいま暫くはどうか緩やかに…

アンジェリークと、ジュリアスと…2人は同じ願いを抱き祈り、その祈りは強さ切実さも全く同様だった。

この宇宙を、皆を、救う為に持てる力のすべてを振り絞ったことに後悔はない。その気持ちに寸分も偽りはない。しかし、祈りたかった。祈らずにはいられなかった。後悔はしていないと同時に何かに祈りたい気持ちもまた、自分たちの真実だった。

部屋にはいつのまにか夜の帳が忍び込んでいた。何物にも離れまい、離されまいとするように2人は固く固く抱きしめあっていた。悠久の星の瞬きだけがそんな2人を見守っていた。

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