ジュリアスはアンジェリークの唇を味わい、その体を抱きしめ、彼女の体が漸く以前と同じほどのまろみを取り戻した感触に安堵していた。彼女のサクリア自身は比類なき安定をみせているというのに、彼女の治世の来し方を思うとそのなんと波瀾に満ちていることかとジュリアスは嘆息せずにいられない。
星々が移乗した後空洞になったと思われていた旧宇宙に新たなる宇宙の意志が見出され、改めて新宇宙と名づけられた宇宙の創生の女王を定める試験があった。
これはいい。兄弟宇宙の誕生は純粋に喜ばしい事象といえた。
しかし、その後の思いもよらなかった外宇宙からの侵略は一時完膚なきまでにジュリアスをうちのめした。
最愛の女性であり、この宇宙の森羅万象を司どる至尊の存在であるアンジェリークを攫われただけでも自分を許し難かったのに、彼女を助け出すまでに予想以上の時間がかかってしまった。
アンジェリークは、自分たち守護聖が皇帝の封印を破り助け出そうとした時には、ロザリアと力をあわせ、自らの力で脱出を試みるほどに気丈であった。
しかし、やはり身心は相当の緊張と労苦を強いられていたのだろう、自由の身となると同時に彼女はその場に崩れ落ちた。
その瞬間体が勝手に動いた。なにかを思う前に体はアンジェリークの元に赴きその体を抱き起こしていた。
ジュリアスはアンジェリークを抱き上げた途端に愕然とした。もともと華奢だった体は信じられないほどやせほそり、肌は病的なまでに蒼白く、腕の中の体はこの世に存在しないかと思うほど軽くなってしまっていた。
補佐官にいわれるまでもなく、あわててアンジェリークを私室に運び入れ寝台によこたえた。
アンジェリークはうなされていた。
うなされ意識を茫漠とさせながらも、うわごとで宇宙の行く末を案じている彼女の健気さに涙が出そうだった。
そんな状態のアンジェリークを置いて、最後の闘いに赴かねばならなかったとき、初めてジュリアスは自分が彼女を女王にした事、自分が表だって彼女を気遣ってやれない身に置いてしまったことを悔やんだ。
ジュリアスは自分の目が間違っていなかったことを誰よりも知っている。
自分の身よりもなにより宇宙を案じるその責任感と慈愛の深さは計り知れない。
やはり、アンジェリークほどわが宇宙の女王に相応しい存在はいない。こんなすばらしい女性に忠誠を奉げることのできる守護聖としての自分はなんと幸せなことかと満足気に思うのだ。
しかし、一人の男の立場としては、自分が愛する女性に背負わせたものの重さを思うと、自分の選択は本当に正しかったのだろうかとの迷いも一瞬生じたことは否めない。
寝台でうわごとを口の端にのせている彼女の姿を見て胸が痛んだ。見るからに憔悴しきって意識を失っているのに、彼女は自分のことよりまず導く宇宙を案じているのだ。
それは女王として立派な態度であったが、痛々しさも禁じえなかった。
彼女を女王にと自分が強く望まなければ、彼女がこのような艱難辛苦を舐めて苦しむ事はなかったのではないかとの考えが頭をよぎった。
それならロザリアになら同じ思いをさせてもいいと思ったのかというと、もちろんそうでない。ただ単にアンジェリークが弱っている姿を見て、罪悪感故に無益な考えが頭をよぎっただけだった。
そしてその上、病床の彼女をそのままに置いてジュリアスは闘いに赴かねばならなかった。
例え前線にたつことがなくても、士気を考えれば自分だけアンジェリークの側に留まりたいなどといえるものではなかった。
後ろ髪をひかれるという気持ちが初めてわかった。
ジュリアスにただひとつできることは、彼女たちを辺境に避難させたうえで一刻も早く皇帝と名乗る侵略者を倒すことだけだった。
漸く皇帝を倒して聖地に戻れたとき、アンジェリークは新宇宙の女王をねぎらう祝賀のパーティーを準備していた。
自分の辛かったであろう幽閉のことには触れず、ただ、もう一人のアンジェリークに感謝し、とり戻せた平和を喜んでいた。
ジュリアスはパーティーでアンジェリークが微笑むその顔に安堵した。
彼女は自分が戦地に赴いていた間に、避難先で静養でき心身ともに回復したのだと思った。
その晩、逸る気持ちでジュリアスはアンジェリークの元を訪れたが、彼女はジュリアスの訪れを拒んだ。
ジュリアスが覚えている限り、訪ねて部屋にいれてもらえなかったのはその時が初めてだった。
ジュリアスとしては、体調が戻ったばかりであろうアンジェリークに情事をもちかけるつもりなどさらさらなく、ただ、互いの無事を2人で噛み締めたいと思っただけだったので、少々落胆したのは否めなかった。
自分はそんなに彼女に無理を強いるように見えるのか、信用されていないのかと思ったことにも落胆したし、それとも、彼女を守りきれなかった自分のふがいなさに彼女は腹を立てているのか、もしかしたら、常に側にいて支えるといった誓いを裏切ったと思われているのだろうかと危ぶんだ。
彼女を守りきれず辛い目にあわせたことは確かであり、それを非難されたらいい訳するつもりはなかった。ジュリアスは潔く己の非を認める覚悟はあった。
守護聖たちは、アンジェリークが塔ごと封印される前から女王が人質になっていると思いこまされ、それゆえ抵抗らしい抵抗はせず監禁された。
実際にはアンジェリークはその時捕縛を避けて宮殿内を逃げまわっていたのであり、その時騙されずに、多少強引な手段をとってもすぐ女王を助けに向かっていれば封印される前にアンジェリークを助け出せたはずなのだ。
監禁されてもいつでも脱出はできるという驕りが自分たちにあったのかもしれない。そのために行動が後手後手にまわってしまいアンジェリークを助けようとした時には彼女のいる塔はまるごと封印されて手の出せない状態になっていた。
封印は自分たちの世界にある既存の力とは異質の波動…魔導と呼ばれていた…でなされており、守護聖たちのサクリアではたちうちできなかった。
その封印を解くかぎを探すため各惑星を転々としたために救出にさらに時間がかかってしまった。
ジュリアスはその事をアンジェリークに謝罪したかったし、その上で、彼女の無事な姿をこの目で間近に確認したかった。
しかし、彼女は自分を部屋にいれてくれない。いつもなら夜は人払いがしてあるのに、今夜は女官がいて「危急の用件でないならお引取りを」と慇懃だが、きっぱりとジュリアスの来訪を拒んだ。
ごり押しして彼女の部屋に押し入る事などでき様はずもなく、ジュリアスは黙ってひきさがった。
このまま二人で会うことを避けられ続けたら自分はどうすればいいのだろうとジュリアスは考えこまざるを得なかったが、結局いい考えなど思い付かなかった。
自分たちの関係がいかに脆い基盤に成り立っているのか、認識せずにはいられなかった。
あけて翌日の日中、どうにかして彼女と二人で話をしたいと思っていたジュリアスは女王の執務室に向かっていった。
例え昼日中でも、人払いをすれば少しは二人きりで話す時間ぐらいは取れるはずだった。
そして女王の執務室のドアの前に来た時、食事の盆を抱えた女官とばったりかちあった。
ジュリアスは単なる確認の意味で女官に問うた。
「ああ、陛下に少々所用があったのだが、これからお食事でいらっしゃったか?」
「いえ…陛下のお食事はもう、おすみでございます…」
ジュリアスはいぶかしんだ。どうみても、盆の上の料理は手付かずだった。
「しかし…その皿の上の料理には手がつけられているとは思えぬが?…」
「は…それが、食べたくない、喉を通らないと仰せで下げる様に命ぜられたものですから…」
「む…陛下はまだ体調が思わしくてはいらっしゃらぬのか?昨晩はつつがなくお過ごしのように見うけられたが?」
女官の瞳にあからさまな動揺と逡巡の色が見えた時だった。
「そのことに関しては私からご説明いたします。」
ジュリアスの背後から凛とした声が聞こえた。
影となり日向となってアンジェリークを支えている有能な補佐官がついと現れジュリアスと女官の会話をひきとった。
女官は顔に有体に安堵の表情をうかべ、そそくさと退出していった。
ジュリアスはロザリアに向き直り懸案を訊ねた。
「ロザリア、陛下はまだお体の具合が思わしくないのか?お食事を召しあがりたくないなどと…昨晩のご様子では最早ご健勝のことと思っていたのだが…」
「それは…陛下はせっかく平和が戻ったのだから祝賀は行うべきだし、そのことで周囲も平和を実感して安心するだろうからとおっしゃって…私はおとめしたのですが…」
「それは…どういうことだ?」
いやな感覚が胸中を渦まいた。
ロザリアはしばし何事か考えている様子だったが、なにか心にきめたように顔をあげると真摯な顔でジュリアスを見つめてこう言った。
「ジュリアスだから申し上げますが…アンジェ…いえ、陛下には皆様に心配をかけたくないからと口止めされているのですけれど、陛下は、その、あれ以来あまり食べ物を口になさってくださらないのです。ご本人も早く回復しなければというお気持ちで食べようとはなさっているのですが、無理して口にしたものは結局悉く戻してしまわれて…今は輸液でようやく体力を保っているような状態なのです…」
懸念顔のロザリア以上にこの事実を耳にしたジュリアスの衝撃は大きかった。
自分はアンジェリークを救出してそれでもうなにもかも終わったつもりでいた。もうこれで大丈夫だとか勝手に安心していた。しかし、自分たちが闘いで留守にしていた間も彼女の身心は痛手から回復するどころか今もそれとは程遠い状況にあるらしい。
それだけ、彼女が心に受けた傷は大きかったということなのだろう。それでも、皆を心配させまいと普段通りに振舞い、あまつさえ新宇宙の女王を労ってから送り出したその心情を思うとジュリアスの胸はおしつぶされそうだった。
自分はいったい彼女の何を見ていたのかと自分への憤りが押さえきれないほどだった。
彼女が回復していない事にも気づかず、昨晩門前払いを食わされたことに若干とはいえ傷心した自分が恥かしくてならなかった。
ジュリアスは、ロザリアがとめるのもかまわずアンジェリークの居室につかつかと入っていった。いてもたってもいられない気持ちだった。そしてアンジェリークが半身を起こしていた寝台の足許に跪いた。
アンジェリークは突然のジュリアスの来訪に軽い恐慌状態に陥ってしまったようだった。
ベッドの上で彫像のように身も表情も固く強張らせ、一言も言葉を発しないままジュリアスを怖いものでも見るような視線でただ凝視していた。
アンジェリークの頬には血の気がなかった。昨晩見た血色のよさは恐らく頬にさした紅だったのだろうとジュリアスはこの時合点した。
退出を命じられなかったのをいいことにジュリアスは最敬礼の姿勢を保ったままこう奏上した。
「陛下、差し出がましいとは存じますが、万民の為、どうか一日も早いご快癒をお祈り申し上げます。私を筆頭に我ら守護聖、陛下の御身の為ならばどのようなことでも致す所存です。なのに体調が芳しくないことを我らにお隠しになられていたとは…我らが頼むにあたらぬと思われるのも、今までの経緯を思えば無理からぬことかもしれませんが…しかし、どうか我等を御見捨て下さるな。隔てをおかず、どんなことでもお命じになってください。そのために我らがいるのです。なにか、これなら食べられそうだ、これなら食したいと思われるものはございませんか?どうのような手段をもちましてもとりよせいたしますので…」
「………ジュリアス…ありがとう…」
長い沈黙の後、アンジェリークが弱々しく発した言葉は、表現も簡素すぎるほどだったが、ジュリアスはそれを自らが動く許諾の証とうけとった。
彼女自身が欲する物がないのなら、少しでも滋養のつくもの、喉を滑りやすそうな物を宮殿つきの料理長に考えさせ、召使の様に手づからアンジェリークに食べさせる事までやってのけた。
彼女をここまで追い込んでしまい、しかも即座に助けられなかったという罪悪感に行動の歯止めがきかなかったのだ。
しかし、ジュリアスの女王への忠誠や傾倒をよく見知っている他の守護聖や王立府の官僚にそれは奇異なこととは受けとめられず、むしろさらなる忠誠の証と見なされたことはジュリアスにとって幸いであった。
アンジェリークもジュリアスが食べさせるものなら、おずおずと僅かづつではあったが、いやがらずに口にしてくれたので、女王の体を復調させるためという大義名分が通りやすくもあった。
なりふりかまわず彼女を気遣い、彼女が普通に食物をとってくれるようになり、少しづつでも体力を回復する兆しが見えた時は本当に心から安堵し胸をなでおろした。
ずっと詰めていた息を漸く吐き出せたような感じだった。
そんな折のこと、アンジェリークが夜分ジュリアスを私室に呼びだした。
彼女が助け出されてから初めてだった。
密やか、かつ人目につかないメッセージでの呼び出しであり、それはつまり公的なことを話あうために自分を呼んだのではないということは明白だった。
だがジュリアスはこの呼び出しに甘い期待を抱いてはいなかった。自分の想いに変りはないとはいえ、彼女の憔悴ぶりを顕著に感じていたからこそ楽観はしていなかった。
彼女の消耗はすべて、自分たち守護聖の力不足と見とおしの甘さに拠る。
「女王を支え、守り、忠誠を奉げる」と普段偉そうに言っていながら、いざ有事という時に何もできず女王をみすみす虜囚の身におとしてしまった自分たちのなんとふがいなかく情けなかったことか。
耳に心地よいお題目を唱えるだけなら、だれでもできる。
口先だけの人間は、困難に直面した時自ずと馬脚を現す。慌てふためいたり、困難から逃げ出そうとする。
人間の真価は、苦境に立たされた時に普段口にしていることを実際に実行できるかでわかるとジュリアスは思っている。
実際の行動とその成果以上に雄弁なものはなく、行動なくして人の信に応えることなどできはしない。
なのに結果として、自分たちは字義通りの意味で「女王の盾」となりきれなかったのだと、ジュリアスは忸怩たる思いで認めざるを得ない。
普段口にしている信条を、いざそれがもっとも必要なときに為すことができなかったのだから、自分は結局口先だけの人間だったと言われても返す言葉がない。
それがどんなに苦々しい思いであっても、それから目を反らしたり、いい訳をしてはならないとジュリアスは自身にいいきかせていた。
自分たちは困難にあたってそこから逃げた訳ではないが、万全の方策を用いたとはお世辞にも言えないまずい対処しかできなかった。
女王が辺境での異変を察し、凶事の予兆があったにも拘わらず襲撃と侵略に対してまったく無防備であり、万事において後手にまわった対応しかとれなかった。
アンジェリークの安定したサクリアのもと、守護聖全員に万事泰平の気の緩みがあったとしかいいようがない。
彼女が襲われるまで女王の身辺警護を厳しくしてさえいなかったのだから、聖地は絶対安全という油断と驕りがどこかにあったのだ。
そして、その油断が彼女に辛く厳しい監禁と幽閉の日々を送らせることとなってしまった。
最終的には女王を救出できその身柄は無事だったが、それはあくまで結果論でしかない。
彼女の救出がもう少し遅れていたら、皇帝が最早彼女から力を吸収する要なしと断じた時点で処分されてしまっていた可能性もあり、そんな予断を許さない危うい状況に彼女をおいてしまっていたことは覆し様のない事実だった。
とりわけ、ジュリアスの責任は重い。周囲は不可抗力だったのだと言っても、自分自身がそれを許せない。
本来真っ先に身を挺して女王を守らなねばならかなった自分なのに、実際はそれができなかったのだから。
守護聖としても恋人としても自分は責務をはたしきれなかったのだから。
自分で自分が許せないのだから、彼女も彼女を守りきれなかった自分を許さないかもしれない。それは致し方ないことだ。
彼女は「いつも傍らにあり、おまえを守る」と宣誓した自分が約束を違えたことを、許し難い裏切と捕らえているかもしれない。
彼女が幽閉で受けた心の痛手にも気づかず、能天気にも彼女がすっかり回復していたものと思いこんで彼女のもとに訪れた自分に噴飯やるかたない思いを抱いているかもしれない。
「これで最後やもしれぬな…」
別れを切り出されることを覚悟してアンジェリークのもとに赴いたジュリアスだった。
彼女にいかに責められてもなじられても仕方ない。
自分にできることはただ謝罪することだ。
そして、ただひとつ願わくば…自分の彼女への変らぬ思いを許容してくれんことを…そんな思いを抱きつつジュリアスはアンジェリークの私室を訪った。
「陛下…おいでか?」
私的な密会ということが完全にわかるまではと思い、公的な名称でアンジェリークに呼びかけながらジュリアスはアンジェリークの私室にノックと供にその体をすべりこませた。
すると彼女はジュリアスが部屋に入るや否や体ごとぶつかるようにして、ジュリアスに抱き付いてきた。
一言も言葉はなかった。
ジュリアスも黙ってアンジェリークの体を抱き返した。アンジェリークの意図を瞳で問うた。
アンジェリークは黙ったまま顔をあげると、潤んだような瞳でジュリアスに性急に唇を求めてきた。
猛禽に怯える小鳥の様に体を震わせ、それでいながらジュリアスから離れまいとするかのように必死の力で抱き付き、細い頤を懸命に上向かせてジュリアスの唇を強請った。
もともと強くはなかった腕の力はそれこそ小鳥ほどのものにしか感じられなかった。
抱きしめてみて改めて、彼女がいかにやせてしまったかがはっきりとわかった。
自分の腕でアンジェリークを包み込むように抱きながら、最初軽く唇を重ね、すぐさまそれを深く熱いものへと切り替えた。
彼女は待ちかねたようにジュリアスの舌に自分の舌をからめてきた。
どんな言葉より雄弁にアンジェリークの思いが唇から伝わってくるような気がした。
彼女からジュリアスを責める感情は微塵も感じられなかった。
ジュリアスが感じたものは幾許かの怯えと熱病のような愛情だけだった。
『そなたはいまだ私を求めてくれるのか…』
ジュリアスは胸中に渦巻きわきあがる歓喜と安堵に目がくらみそうになった。
熱があるようにアンジェリークは震え、ジュリアスの唇を求める様子も熱っぽく性急だった。
体も心も熱病に罹かっているかのようだった。
そして唇を交互に食み、いきもののように舌を絡ませあいながら、ジュリアスはアンジェリークの震えが納まる様強く抱きしめ続けた。
しかし、アンジェリークの震えはなかなか納まる気配をみせなかった。
ジュリアスにできることは、ただアンジェリークの望むままに抱擁を続けることだけだった。
その晩、本当に久しぶりに愛し合った。
ジュリアスはアンジェリークを抱きしめて服の上から彼女が一回り小さくなってしまったのがわかったし、彼女の気持ちが確かめられればそれで十分だったので、なにも求めるつもりはなかった。
アンジェリークは自分が彼女を守りきれずに辛い目にあわせたことを、裏切りとも思っていなかったし、そのことに立腹もしていなければ、自分に愛想尽かしもしていないでくれた。
彼女が無事であったことだけでも、ジュリアスには幸せだった。
その上、彼女の気持ちがかわらないでいてくれたのなら、ジュリアスにこれ以上に求めるものなどなかった。
だから、口付けた後、アンジェリークに謝罪し、それだけでその晩は帰るつもりだった。口付けだけでも彼女の気持ち伝わってきたし、自分もその思いに唇で応えたつもりだった。
二人の間にはなにも変わりはないのだと、わかっただけで十分だった。
だが、アンジェリークの方からジュリアスを求めてきたのだ。
ジュリアスはたじろいだ。体は大丈夫か?無理しないほうがいいと何度もいったのだが、アンジェリークは頑としてきかなかった。
どうしても抱いてほしいと強硬に訴えられ、結局ジュリアスは譲歩した。
彼女をほしいと思う気持ちにまけた訳ではない。肉欲の押さえがきかないほど子どもではなかった。
彼女は心に巣食う怯えや不安を熱い抱擁で紛らわせてほしいのだろうということをひしひしと感じたからだった。
口付けの間、ジュリアスはいまだ彼女が何かに怯え、心を不安に震わせているらしいことを感じた。
彼女のおかれていた状況を思えば無理もないことだと思った。
不安を紛らわす為に肌の温もりを求めたくなる気持ちも理解できた。
それはどんな慰めの言葉を幾千重ねるよりも確かに効果的なのだろう。
どんなに心をこめた言葉でも、一つのキス、一回の抱擁のほうが雄弁な場合もあることをジュリアスはアンジェリークを愛してみてその身で実感していたから。
服を脱がせると彼女は案の定とてもやせてしまっており、どうしても痛々しい印象を拭い去ることはできなかった。
だからジュリアスは壊れものを扱う様にそっと彼女を抱いたが、彼女自身はジュリアスが戸惑うほどに激しくジュリアスを求めてきた。
なにかにとり付かれたかのように、砂漠に流離ったものが水を求める様にジュリアスを際限なく求めた。
一度だけ「忘れさせて……」とうわごとのように呟いたのを耳にし、哀れでたまらなくなった。
アンジェリークはその砂糖菓子のような外見の印象と異なり、その心象は柔軟かつしなやかであり、それゆえ生半には折れない強さが心の根底にある。
そのアンジェリークが記憶から消し去ってしまいたいと思うほど虜囚の時間は辛かったのか。
心身ともにこれほど消耗するとは、魔導生物にいつ襲われるかわからぬ一瞬たりとも気を抜く暇のない幽閉がアンジェリークにはよほど堪えたのだろうと、ジュリアスは心からすまなく思った。
自分たちの旅の道のリも決して平坦とは言い難かったが、自分たちには常に目的にむかっているという明確な指標があった。
しかし、彼女は来る日も来る日も塔に放たれたきりのないモンスターの襲撃を退けながら、いつ終わるのかまったく当てのない幽閉を耐えねばならず、その上定期的にその力を吸収され、生かさず殺さずという状態にさせられていたことをジュリアスは知っていた。
人は終わりの予想できる苦難や、とりあえず為すべきことがある苦難には比較的耐えやすい。
しかし、いつ果てるとも知れぬ労苦や、耐えども退けどきりのない苦難に強い心をもって立ち向かえる人間はそう多くない。
彼女が精神の異常をきたさずに、また、自暴自棄になることもなく、自分たちの救出までもちこたえてくれたのも彼女の比類なき精神の強さがあってこそだとジュリアスは信じていた。
しかし、その精神の強さを知っているからこそ、ジュリアスは彼女が不憫でならなかった。
逆説的だがそんな強い心をもつ彼女をしてすら、必死に忘れたいと思わせるような労苦にその身を長いこと置かせていたのかと思うと、ジュリアスは申し訳なさでその身が引き千切れてしまいそうだった。
ジュリアスは彼女を抱きながら、何度も何度も詫びた。
「すまなかった、迎えにいくのが遅くなって、本当にすまなかった」と。
アンジェリークは忙しない息の下で、やはり何度もこう答えた。
「信じてたから、絶対きてくれるって信じてたから……だから…」
ジュリアスは力の加減も忘れて思いきりアンジェリークの細い体を抱きしめては、慌てて腕の力を緩めてから絞り出す様にこう告げた。
「なにもかも忘れろ、忘れてしまえ。もう、おまえをおびやかすもの何もない…これからはいつも私が一緒だ…」
途端にアンジェリークがぽろぽろと涙をこぼして、ジュリアスにしがみついてきた。
「う…うぅっ…ふっ…う…」
声を押し殺してアンジェリークは泣いた。
ジュリアスの白皙の胸はアンジェリークの熱い涙でしとどに濡れた。
ジュリアスはアンジェリークの嗚咽が収まるまで黙って彼女の髪と背を撫で続けた。
彼女が崩れそうに脆い面みせたのは、その夜だけだった。
その後もジュリアスはアンジェリークの事が心配で、できる限りの時間を捻出しては彼女のもとを訪れた。
その際肌を重ねる事も多かった。やはり彼女から求めてくるのが大半だった。だが彼女の情事での反応も熱病に侵されたような差し迫った様子は少しづつ減じていき、以前の穏やかで包みこむようなものに徐々に戻っていった。
なにかに追いたてられているような焦燥感や、飢餓感を感じさせるような反応をみせることはなくなったし、どこかおどおどと怯えるような様子も次第に薄らいでいった。
体も少しづつ元通りになって以前のふくよかさを取り戻しつつあるのが、正装の下に隠された肌を直接確かめられるジュリアスにはよくわかり、心の底から安堵していたのだ。
漸く彼女の体もすっかり元通りになったと思えるようになってきたそんな矢先のことだったのだ。
再び皇帝が聖地に現れたのは。
アリオスか、レヴィアスかこの際どちらでもいい。
この者が聖地に現れたという報を聞いたときのジュリアスの衝撃がいかほどのものだったか。
そして、やはりその報をうけたアンジェリークの心労を想像するとジュリアスはいてもたってもいられなかった。
アンジェリークの精神状態が危ぶまれてならなかった。
だから、その者の目的や意図がなんであれ、ジュリアスはこれを幽閉しようとした。
もう、お人よしや油断でアンジェリークを危険に晒す訳にはいかない。同じ轍を踏む愚かさには耐えられないと思った。
しかし、若年の守護聖と新宇宙の女王のたっての願いで、ごり押しもままならぬうちに、これを自由にしていたら、これは暗黒の波動に操られて再び女王を、但し此度は新宇宙の女王を襲ったのだ。
ジュリアスはまたも臍を噛む思いだった。
やはりなんと言われようと強権発動して、彼の者を捕らえ封印すべきだったのだと。
アンジェリークの身を案じ、彼女の元にずっといたかったが筆頭守護聖の立場としてそれもままならず、暗黒の力を退ける事にまず力を割かねばならなかった。
その後も式典の仕切り直しその他の残務処理に終われ、アンジェリークと2人で過ごす時間がなかなかとれず、彼女と二人になれたのは皇帝が聖地に現れ、また、姿を消してから今夜が初めてだった。
漸く二人になれた。互いに無事でよかった。その思いがそのまま熱く深い口付けを求める気持ちへと転化したのであろう。ジュリアスが部屋を訪ねた途端、アンジェリークが口付けを強請った訳は…
思う存分舌をからめあい吸いあってから、名残惜しげに2人の唇が離された。
荒い息を押さえながら、アンジェリークが拗ねた瞳でジュリアスを見上げた。
「もう、陛下なんていったら許さないんだから。二人でいるときはちゃんと名前で呼んでくれなくちゃいやよ、ジュリアス…」
「すまなかった…そなたが、あまりに心配をかけるから、少し意地悪な気分になったのかもしれぬな。そなたを愛している、生涯そなただけだ…私のすべてはそなただけの物だ。だから、その身をはかなくしないでくれ、なんの為に私はいるのだ…あんな、あんな思いはもう二度とさせてくれるな。そなたが一人で闇の力を防いでいるのを見たときは、私の心臓は凍りついたぞ。」
アンジェリークはジュリアスを安心させる様に柔らかな笑みを投げた。
「ジュリアス…私は大丈夫よ、大丈夫だと思ったからやったの。はじめから彼は私の力を吸収してた彼じゃないってわかったの。私は彼を直接見たのはこれが初めてだったけど、全然受ける波動が違ったの。それに黒い力もただ闇雲にぶつけてくるだけだったし、今の私は力を吸い取られていたわけじゃないから防げると思ったの。あの間合いだったから剣を使われたらちょっと危なかったけど、そういう知恵もないみたいだったから余計に何かに操られてるってわかったし…」
「な…アンジェリーク!そなたは、わかっていてなんという無茶なことを!もし剣を振るわれていたらどうするつもりだったのだ!」
「きゃ!ごめんなさい!」
ジュリアスの怒声にアンジェリークは反射的に首をすくめて謝ってしまった。
ジュリアスはやれやれといった観で首を横に振りながら大きな嘆息をついた。
「まったくそなたは…そなたときたら…無鉄砲な所は昔と少しもかわらぬ…」
「ジュリアスだって、怒ると昔のまま…」
アンジェリークがジュリアスの顔をうかがうように上目遣いで見上げた。
「ああ、そなたがあまり心配ばかりかけるからだ…」
こう言うと突然ジュリアスは骨も折れよとばかりにアンジェリークを抱きしめた。
「く、くるし…ジュリアス…はな…して…」
アンジェリークが腕の中でもがいたがジュリアスは力を弱めなかった。
「だめだ、離さぬ。無茶ばかりして私に心配をかけた罰だ。」
そしてアンジェリークにもう一度軽く口付けてから、ジュリアスは切なげな瞳でアンジェリークを見やった。
「あの事件の後なかなか二人きりになれず、今まで言う機会がなかったが、ずっと思っていた。そなたを守るべきときに守ることができなかった自分のふがいなさに腹がたてていたのに、また同じ過ちを繰返してしまったのかと絶望に打ちひしがれた…なにより、そなたが一人で無茶をしたことに肝が冷えた。どうか、自分を囮になどもう、絶対にしないでくれ。そなたを失ってしまったら私の生きている意味は…」
ジュリアスは女王の部屋の方から聞こえた爆発音に他の守護聖とともに慌ててかけつけたときのことを思い出していた。
あの光景を目にした瞬間アンジェリークが皇帝と名乗る侵略者の手に落ちたあの悪夢が一瞬にして蘇り、ジュリアスをうちのめしたのだ。
そのためジュリアスは瞬きするほどの時間ではあったが、自失に体が硬直してしまった。
悪夢の再来と思われたあの刹那とその前哨ともいえた事態をジュリアスは思い起こしていた。…
「その必要はないわ」
皇帝が現れ、新宇宙の女王と緑の守護聖がその皇帝とともにいずこかへ姿を消してしまったこの非常事態にどう対処すべきか、侃侃諤諤の議論がなされていた時だった。
即刻捜索隊の編成を提言した炎の守護聖の申しでに対するアンジェリークの返答がこれだった。
女王のこの言を聞いたとき、その場にいた誰もがおのれの耳を疑った。
豊かな金の髪をゆったりと結い上げた現女王はにっこりと微笑むと、新宇宙の女王とそれに付き従った緑の守護聖、それにいまだその正体が釈然としない転生したとおぼしき異邦人の探索を、その要なしと断じ、その場にいた関係者を半ば強引とも思えるやりかたで解散させたのだった。
こんなやり方は彼女らしくない。
しかし、守護聖はあくまで守護聖、女王を補佐し支える者である以上、至高の存在の下した決定に表だって異義を唱えられる者などいはしない。
それは例え筆頭守護聖といえども例外ではない。
だが彼女の下した決定の裏には絶対何かある。これは願望ではなく確信だった。
それは自分にも打ち明けられないようなことなのか。
そのことを認めたくない、そんな分け隔てが存在するはずが無い。彼女と私の間に…その思いゆえ思わず口をついて出た言葉。
「陛下にはお考えがあるはずだ…」
庭園の東屋にいた自分の同僚に聞かせるというよりは、自分に言い聞かせるための言葉だった。
自分の言葉を夢の守護聖と地の守護聖が引き継ぐ。
二人とも女王の言動をいぶかしく思っている。
オリヴィエにいたっては、彼女の言葉を『無責任発言』とまで評し、そうでないなら、自分達にも言えない訳があるのかと地の守護聖と堂々巡りの疑問を呈しあっていた。
それは、まさに自分自身も抱いていた疑念であったが、だからこそ、それを他人の口から聞かされるのは嫌だった。
思わず強い口調で反論した。
「そんな筈は無い。この宇宙で陛下と私達の絆ほど強いものはないのだ」
そうだ、おまえにはわかるまい、私と彼女の間にかかる絆を、目には見えずとも確かにそこにある信頼を。
それを知らぬからそんなことが言えるのだ、口にだせない秘めた感情が思いのほか自身に強い口調を取らせた。
しかし、それが夢の守護聖の誘導だとすぐに気付いた。
だったら素直に訳を聞かせてくれと聞きに行けばいいのだと言葉を返されて。
オリヴィエの返答を聞いてこれは本来自分が言い出すべき言葉だったと忸怩たる思いを抱いた。
自分を恥じた。
これは彼女を信頼していなかったということか。自分は万にひとつの可能性に怯えていたのだろうか。
彼女が何の訳もなく目の前の問題を面倒がって投げ出すような女性でないとわかっているのに、それを確かめることに知らず知らずの内に躊躇を覚えていたのだろうか。
なぜ、確かめる事に躊躇いを覚えたのだろうか。
ジュリアスは自分でもわからなかったが、なにか、彼女が隠そうとしていることならそれをあばきたててはいけないという、無意識下での制動が働いたようだったのだ。
自分の逡巡を別の意味で解釈したのだろう夢と地の守護聖が自分の背中を押す。
今度は素直に口に出せた。
「もう一度陛下のもとに参上しよう。」
同じ思いを持つもの同士が女王の間の前で顔を合わせたその時、鈍い爆発音に心が震撼とした。
考えるより先に体が動き、入った部屋の光景にさらに心が凍った。
女王が一人で結界をはって補佐官たちを守りながら、姿を消したはずの異邦人、しかし、同じ姿にも拘わらず先刻とはうってかわって禍禍しく悪しき波動を放つ者とたった一人で対峙していた。
しかし、自分たちの姿をみるとその禍禍しい存在は瞬時に空中にかき消えた。
おきまりの捨て台詞を残して。
「陛下、ご無事ですか!」
ほっとしたように吐息をついたアンジェリークのもとに、ジュリアスは慌ててかけよった。
一瞬でも呆けていた自分を心の中で罵倒し、そんなありきたりな言葉しかかけられない自分をもどかしく思いながら。
気丈な女王の言葉が返ってきた。自分は大丈夫、黒い力の来る方向もわかったから結界をはるべき位置もつかめたと。
その言葉を聞いて彼女が自分を囮にしたことはわかった。だが、情けなかった、悔しかった、この時まで彼女の意図がみぬけなかったことが。
彼女が自分に言う暇などなかったことなどわかっている。
自分で気づいてやるべきだったのだ。退出するふりをして、すぐ馳せ参じられる位置に留まっているべきだった。
僅かにアンジェリークの意図を察したのは補佐官のロザリアだけだった。
最も信頼していると、されていると自負していたのに、自分のていたらくに腹がたった。
しかし彼女は一点の曇りもない笑顔で、新宇宙の女王を助けに行ってほしいと守護聖達に告げた。
たった今、命を狙われたばかりだというのに、自分の警護などいらないと、守護聖全員で行ってほしいと自分たちに頼んだ。
本当は彼女の側についていたかった。だが、そんなことを彼女はよろこばない。
彼女の望みに、彼女の信頼に答えることこそが自分たちの、いや自分自身の存在理由だ。
その思いのままに言葉は口をついて出た。
「われらが女王陛下のお言葉とあらば…」
そして次元回廊を通り新宇宙に赴き、黒い力を女王が遮った上で新宇宙の女王がその白い翼で皇帝を魔の波動から解き放った。
皇帝は再び転生をまつ新たな命に戻り、黒い力がやってきた次元の隙間を塞ぎ、新宇宙の女王を救い出して、ようやく今日という日を無事終わらせることができたのだ。
そして、ジュリアスにも漸く愛しい女のもとを訪ねる時間ができたのだ。
彼女にいいたいこと、伝えたかったことがジュリアスには溢れていた。
アンジェリークを抱きしめながら、その瞳に僅かながら痛みのようなものを滲ませてジュリアスは切切と訴えた。
「そなたが皇帝の手に落ちたとき…そなたの側にいてやることもできず、なかなか救い出すことも叶わなかった。そなたに約束したのに、ずっとそばにいて支えると…なのに、それを裏切ってしまった。私はどれほど己を責めても飽き足らぬ。そなたは私を頼りないと思い、信ずるに足らぬと思っても無理からぬこととも思う。だが、そなたが、一人で戦っているのを見たとき…あの悪夢が蘇り、私をうちのめした。そなたを失うのかと思ったら、生きた心地もしなかった。そなたに信ずるにあたらぬと見放されることよりも、その結果そなたに別れを切り出されることよりも何よりもそなたの存在を失うことが私には恐怖なのだ。もう、あんな悪夢を私にみせてくれるな…」
ジュリアスが再びアンジェリークの唇を塞ぎ、そのままその華奢な体を抱き上げてベッドのある奥の間まで運んで行った。
「そなたは確かにここに生きて存るのだと、私に確かめさせてくれ…」
ジュリアスは馴れた手つきでアンジェリークの装身具と衣装を外していく。もう数え切れないほど行っている作業だから意識せずとも手が覚えている。流れるように衣装が取り去られかわって乳白色の肌が露にされていく。
ジュリアスはランジェリー姿にしたアンジェリークをベッドに横たえると、自分もローブを肩から外していく。
「もう無茶はせぬと約束するまで今宵は離さぬ。許しを請うても聞かぬぞ…」
告げると同時に彼女に覆い被さりその唇をもう一度塞いだ。
ジュリアスの首にうでを回して口付けに応えながら、アンジェリークはジュリアスの言った悪夢と言う言葉を思い出していた。
『悪夢…このひとは、私を失うことを悪夢という。なら、私はこの人に本当の悪夢をみせずに済んだのね…そう思えば、私は私の見た悪夢に耐えられる…』
アンジェリークは、耐える事はできても、生涯忘れる事はないだろう悪夢を意識して頭から追い出し、ジュリアスとの口付けに集中しようとした。
アンジェリークは努めて幽閉されていたときのことを口に出さなかった。ジュリアスが訊ねたこともあったが、ジュリアスの問いはいつもうまくはぐらかされた。
彼女が虜囚の身であったときのことを多くは語らないことが、却ってジュリアスにはその労苦を偲ばせるのだが、言いたくないことを無理に聞き出すのもどうかと思いジュリアスはあまり、突っ込んでアンジェリークとそのことを話し合った事はなかった。
アンジェリークの態度にどことなく詮索を拒むような雰囲気をジュリアスは嗅ぎ取っていたのかもしれない。
だからジュリアスはアンジェリークが真実どれほどの心の傷を負ったのかを、本当の意味ではわかっていなかった。