汝が魂魄は黄金の如し 4

いつも君を見ていた。

だから、気付いていた。

君が俺を見ていないこと。

君の目はいつもあの方に向けられている事。

だから、俺はなにもいわなかった。

君を困らせたくなかった。

君が幸せなら、俺はいい。君が笑っていられるのならそれでいいと思っていた。

だが、結局君は誰のものにもならなかった。少なくとも俺はそう思っていた。

そして、俺はその事に密かに、だが確かに安堵していたんだ。…しかし…

 

「オスカー、あんたどこにいくのさ!一緒に主星におりないの?お子様たちはもう先にいっちゃったよ!」

新調された守護聖の正装を解いて、しかし、やはり否応なく人目を引く華やかな衣装に身を包んだ夢の守護聖が、こちらはなんの変哲もないカジュアルな服装をしていても、その燃え立つ髪の色で人目を引き付けずにはおかない炎の守護聖を呼びとめた。

炎の守護聖オスカーは軽く手をふり、こう答えた。

「ちょっと野暮用があってな。先にいっててくれ。」

オリヴィエは瞬間瞳を大きく見開いた後、にやりと笑った。

「はは〜ん、女のところでしょ!語るにおちてるよ!」

「ま、あたらずといえども遠からずだ。それは、これからの展開次第ってやつでな。」

「ほ!じゃ、これから口説きにいくわけ?ご苦労さん、そういうことに関しては、ほっっっとにマメだね、あんたって人は。」

「そういうことだ。俺がおまえたちに合流しないですむよう祈っててくれよ。」

「だ〜れが!!どうせ振られて結局あたしたちの仲間入りすることになるんじゃないの〜?それだったら今夜は最初からあたしたちと一緒にきちゃえばいーのにさ〜」

「ふ…いい男っていうのはな、最初から諦めたりはしないのさ。なすべき事があるうちはな?」

「ま、ジュリアスに見つからないようにほどほどにね〜。私たちはいつもの店に行ってるからさ〜」

夢の守護聖を黙って見送り、新宇宙の女王をつれて主星に降りる面々からオスカーは一時離脱した。

オリヴィエの姿がすっかり見えなくなったのを見計らってから体の向きを変える。

彼が向かうのは宮殿の最奥の間。

自分たちの女王の私室だった。

新宇宙の女王を労ってくれるものはたくさんいる。今だってそういう者たちが彼女たちを外界…彼女たちにとっては懐かしい故郷だ…に連れていった。

しかし、危険も顧みず自分の身を挺して暗黒の波動を防いだ我らが女王のことは誰が慰め、労うのだ?

女王なのだから、そんなことは当たり前だとでもいうのか?

守護聖である自分が女王を補佐するのが当然のことと思っているように、彼女にとっては自分の身を危険に晒しても宇宙を守る行動をとったことは至極自然な行為だったのかもしれない。

だが、周囲の人間がそれを当然のことだと思うのは、少し違うのではないかとオスカーは思う。

新宇宙の女王には以前のあの闘いの最中でも、その周囲にいつも彼女を助け支える人間が大勢いた。

闘いが終わった後は、我等が女王が率先して彼女の功を称え、労をねぎらった。

しかし、自分たちの力が到らなかったばかりに監禁幽閉されていた女王には自分の補佐官以外誰も頼る者とてなく、彼女たちはたった二人きりで終わりのみえない困難に耐えていたのだ。

その彼女の幽閉の労苦についても、今回暗黒の波動を一人で防いだことについても、彼女の立場に共感し、苦労をねぎらい、称えてやる者がいないのは、考えてみればおかしなことではないだろうか。

だが、我が女王は自分のことはまったく眼中にないようで、前線に立って闘った新宇宙の女王を心から労い歓待してやっていた。

今回もそうだった。自らの身を張って他宇宙からの黒い波動の発生源をつきとめたのは彼女なのだ。

新宇宙の女王は確かに、突如現れた皇帝が悪の力に支配されないよう精神的なサポートをし、それを「よくやった」と賞賛するものがいるのはわかる。

だが、宇宙を守ったことに関する功績ならそれはどう見ても同等の価値があるはずだ。

それなら自分たちの女王を慰めるものが一人くらいいてもいいではないか。

彼女は聖地に縛りつけられている身、客人であるもう一人のアンジェリークや自分たち守護聖ほどのささやかな息抜きもなかなかに困難なはずだ。

新宇宙の女王はなんの気兼ねもなく息抜きできて、我らが女王にそれが許されないなんて片手おちではないか。

つい、女王は人ならぬ聖母のような存在…つまり、与えるだけで自分からは何も欲しないような存在と見なされてしまいがちだが、彼女自身も新宇宙の女王と大して年のかわらないうら若い女性なのだし、女王だからといって、ちょっとした気晴らしやささやか息抜きが必要ない訳ではないだろう。

女王だってその感情は普通の人間とかわらない。自分たち守護聖がそうであるように。

今日の式典を漸くつつがなく執り行うことができ、彼女もほっと一息ついているはずだ。

そう言う時は、きっと思いを共有しあい語りあう相手がほしいのではないだろうか。

大事を終えたあと、ほんの少しばかりその余韻を楽しんだとてばちはあたるまい。

もし、彼女が今宵一人で夜をやりすごすなら…オスカーは自分で自分に賭けをしていた。

彼女が一人でいるのなら、ゆっくり話したいことがあった。

誰にも邪魔されない状況で、守護聖と女王という立場ではなく尋ねたいことがあった。

周囲に人目がない所で、彼女から建前でない率直な気持ちをきかせてほしいと思うことがあった。

しかし、女王の私室が見える所までやってきたとき、夜目にも鮮やかな流れる金の髪をもつ人物が音もなく女王の私室に入っていくところをオスカーは目撃した。

オスカーはそれを見て黙って踵を返した。

無意識に手をきつく握りしめており、爪が自分の掌に食い込んでいた。

深呼吸をしながら、心をどうにか切り替えようとする。

今なら、ヤツらはまだ一件目の店にいるだろう。

自分たちが誰か、どこから来たのか、店の者も客もなんの詮索もしない居心地のいい店だった。

 

重いチーク材のドアを開けた途端に、馴染みのある声がオスカーを呼んだ。

「オスカー、こっち、こっち!」

カウンターの止まり木に一際鮮やかな髪の色をした華やかな男性がオスカーを手招きしていた。

オスカーは猫科の獣を思わせる動作で、流れる様に音もなくカウンターに向かう。

オリヴィエのとなりのストゥールに腰掛けるとオスカーの前に店のものがだまってグラスを置いた。

オリヴィエはロックにした酒のグラスをからからと振っている。彼の前には酒のボトルとチェイサーの水がおかれていた。

「はやかったじゃん、やっぱり振られたね?」

オリヴィエがからかうような目線でにやにやしながら、話しかけてきた。

オスカーはオリヴィエの揶揄を真正面からとりあうような無粋な真似はもちろんしない。むしろ、楽しそうに応酬する。

「いい女なんだ。で、今夜こそ!と思ったんだが、どうも今は男がいるようでな。彼女の部屋に男が入っていくところをみかけちまったのさ。で、声もかけずにすごすご退散してきたってわけだ。」

「はん、フリーじゃなかったんだ。あんたのほうが恋人っていうんならそこにずかずか乗りこんでいって修羅場るのもおもしろいけど、あんたが勝手に横恋慕してるだけじゃ確かに黙って引き下がるしかないよね〜。『なに?この勘違い野郎は?』ってことになるだけだもんね〜。」

「言いにくいことをはっきり言うヤツだな、まったく。ま、俺たちの人生は長い。焦らずいくさ。諦めは愚か者の結論だからな。」

「へえ、恋人がいても諦めない訳だ?あんたがそれほどご執心ならよっぽどいい女なんだろうな。そんないい女なら恋人がないほうがおかしいかもね。」

「ああ、俺にとっては宇宙最高の女さ。いい女に恋人がいるなんて当たり前のことだろう?男がほっとくわけないからな。そんなことで諦めてたら恋の狩人たる俺の名がすたるってもんだ。ま、そのうち俺の魅力に気づかせて見せるさ。」

「あんたにそこまで言わせる女なら一目おめにかかりたいもんだね。」

「いやだ、みせたら減るからな。」

「あんたの口は少し減ったほうが宇宙のためだよ!ま、今日はかわいそーな振られ男だからあんまりいじめないどいてやるけどさ、さ、のみな、のみな!」

オリヴィエが目の前に置かれたグラスに小気味いい音をたてて酒を注ぐ。

話に気を取られていてオスカーのグラスはまだからのままだったからだ。

ぽいぽいと景気よく放り込まれた氷が透明な水流を巻き上ては、次の瞬間アルコールに解け混じって行く。それを眺めながらオスカーはにやりと笑ってこう言った。

「俺を酔いつぶして…女のことを聞き出そうったってそうはいかないぜ?おしゃべりな男は嫌われるからな。」

けらけらとオリヴィエが笑う。

「ばれたか…って言うのは冗談だけど。ま、交際相手のプライヴァシーを守ろうとするのはあんたのいいところだし、私も他人の色恋には興味はないよ。じゃ、とりあえず乾杯。」

「俺が振られた事にか?」

「やだね、この人はひがんじゃって。無事式典が終了したこととか、お題目はいくらでもあるでしょーが!」

「ふ…そうだったな。」

ここでオスカーは初めて、ほかに見知った顔がいないことに気づいた。

「そういえばお子様たちと国賓ご一行様の姿がみえないが?」

「ここは大人が静かに酒を傾け語らう場だからね。おちゃないお子様たちにはちーっとばかり退屈だろうからもっと賑やかな店にいきなって別の店をすすめておいたよん。」

「って、それはおまえがここを荒らされたくなかったからじゃないのか?しかし、お子様たちだけで大丈夫なのか?彼女たちは一応国賓だし、あいつらもこの頃ちっとは成長してきてるが、なにせ、かわいいお嬢ちゃんたちをエスコートするんだってんで、相当浮かれてたからな。羽目を外しすぎてお嬢ちゃんたちを危ない目にあわせなけりゃいいが…俺たちも一緒に行ったほうがよくないか?」

「大丈夫、大丈夫、お目付け役にルヴァも一緒に行かせたから。」

「よくルヴァがそんな席に同行したな…おまえ、なんていってルヴァをだまくらかしたんだ?」

「人聞きの悪い…私は単に『お子ちゃまたちの引率頼むよ』って正直に言っただけさ。リュミエールやクラヴィスには頼むだけ無駄だろうし。ほんとはクラヴィスあたりが一緒に行ってくれると睨みがきいていいんだけどね。たださ、クラヴィスが若いもん向けのクラブで一緒に飲んだり踊ったりする姿なんて、あんた、そーぞーつく?」

「俺の貧困な想像力では、聞くだけ無駄だ。」

「でしょ?一度くらい見てみたいけどね。酔って踊るクラヴィスとか、くだまくリュミちゃんとか…ちょっと怖い気がするけど、怖いから余計にね。ふふっ!」

「で、ルヴァにお守を任せたわけか。ま、ルヴァなら添乗員に徹することも嫌とはいわんだろうな。お子様だけじゃ心もとないと思えば、頼まなくてもついていったかもしれんし。」

「そーそー。ただ、このことを頼んだ時ルヴァに『じゃ、旗がいりますかね〜』って真顔で返されたのには参ったけどね。」

「冗談だろ?」

「あったりまえさ!」

二人はからからと笑いあってグラスを触れ合わせた。

からりと音を立ててグラスの中で氷が崩れた。

オスカーは何かをふっきるように注がれた酒を一気に飲み干した。

この同僚とばかな話にふけってなんとか自分が見た光景を意識の外に追い出したかった。

しかしそれはどうしようもない重さでオスカーの心を塞がずにはおかなかった。

 

結局二人は若者たちの様子を見に行ってしまい…若者たちは順番に、かわいらしい女王と元気な補佐官をパートナーに踊り、踊り疲れると飲み物を飲みながら朗らかに語り合うという若者らしい楽しみに興じており、ルヴァはそんな彼らの様子をにこにこしながら見守っていた。当然彼はアルコール抜きだったが、それを残念そうに思う様子も見えなかった。

ルヴァに連れられて若者たちがそこそこの時間で聖地に帰ったのを見届けてから、オスカーとオリヴィエは別の店に行って飲みなおし、結局自分たちが聖地に戻ってきた頃には最早払暁の時刻となっていた。

「あ〜あ、つい夜更かししちゃったよ、さすがに眠いわ。」

「お肌の調子を何より憂うる夢の守護聖どのにしてはめずらしいんじゃないか?」

「あんたが、振られたあまり自棄になって不祥事をおこしたりしないように見守っててやった私の仏心がわからないの〜?そんなことになったらジュリアスの締め付けが厳しくなって、たまに外界で羽を伸ばすっていう私たちのささやかな楽しみが減るかもしれないでしょ!そんなことになったらたまらないし、第一そうなって一番困るのはあんたじゃないの?!」

オスカーは一瞬あっけに取られたような顔をした後、くっくっと可笑しそうに笑い始めた。

そう、オリヴィエはそういうやつだったとオスカーは今更ながら気がついた。

自分の本心はあまり悟らせない、いや、わざと周囲を煙にまくような言動をするくせに、周囲の人間の感情を読んでさりげなくフォローする。

それでいて、押し付けがましい所や人の内面にずかずか踏み込んでくるようなところは欠片もない。

今だって、自分たちへの締め付けがきつくなるかもしれないから…なんて嘯いていたが、オスカーにもこれがポーズであることくらいわかっている。

オリヴィエはただ純粋にオスカーに一晩中付き合ってくれていた。

事情は何も聞かず、かといって突き放すわけでもなく、つかず離れずの心地よい距離を保ちつつ、ただ杯を重ね、軽口を叩く間に時間は自然と過ぎていった。

オリヴィエがいなければ自分は、もしや、一晩中まんじりともしなかったか…もしくは、酒に酔ったとしてもそれは相当悪い酒になっていたのは間違いない。

しかし、オリヴィエにそのように振舞わせたということは…つきあってやらないと危なっかしくてみていられなかったんだろう…俺は自分で思ったよりダメージが大きかったか…それを隠せていなかったということなんだろうな…

「ああ、おまえはそう言うやつだったな、感謝する…」

オリヴィエは思いも拠らなかったオスカーの素直さに不意打ちをくらったように仰天してしどろもどろになった。

「や、やだよ、あんたは!何マジになってんのさ!ここで突っ込んでくれないと私が困るでしょーが!」

オスカーはにやりと笑った。

「ふ…おまえは存外照れやだからな。こう直球で返されると却って無防備になってどう返したらいいかわからんくなっちまうんだよな?」

「……おーすかー〜あんたは人の気もしらないでっ!」

「くっくっ…わかってるって。だから、感謝してるって言ってるだろ?夢の守護聖どの?」

「あー、もう!私、家帰って寝るわ、おやすみ!」

「ああ、いい夢を…」

「誰にむかってもの言ってんのさ!」

オスカーとオリヴィエは軽く手を振り合うとそれぞれ自分の私邸に向かい歩き始めた。

オスカーと別れたあと、オリヴィエは軽く吐息をついて、誰にきかせるともなく一人ごちた。

「まったく、みてらんないねぇ…」

とりあえずは大丈夫そうだが、オスカーの精神がかなり参っているような印象を受けた。

自分たちの間では軽口と、悪意のない悪口と、冗談だけで会話が成立しなければおかしいのだ。

あんなマジになっちゃったオスカー…茶化そうとはしていたが、自分に謝意を示すオスカーなんてオリヴィエはみたくなかった。それほど今度の恋は前途多難なのか…あの、オスカーがつい弱気になってしまうほどに?

オスカーが本気で恋をしかけて、なびかない女なんているのだろうか。オスカー自身だってそう思ってるはずだ。なのに、男がいるからと黙って引き下がるなんて、まったく『らしく』ない。俄然闘志を燃やすなら、わかるが…人妻だってなんだっていいと思ったらおかまいなしだった筈のあの男が、しかも、そういうタイプのほうが『落す』楽しみが倍増すると余計に発奮するようなヤツなのに…そして実際、狙ってなびかなかった女性なんていないから、あいつは恐ろしいほどに傲慢で自信家で、でも、それがオスカーのオスカーたる所以で、それがまた女性にとっては抗い難く引きつけられる危ない魅力でもあって…

オスカーがみかけただけで黙って引き下がってしまうような相手の男…そしてオスカーの渾身の口説きにもなかなかおちなさそうな手ごわい女性なんて、この宇宙にいるのかね…

「まさか…ね?」

オリヴィエはふと頭に浮かんだ考えを慌てて振り払った。

唐突に浮かんだ人物のイメージは、嵌りすぎてしまう故にかえって考えつづけるのが憚られた。

自分は多くの人間を知っている訳じゃない。

いくら人より長く生きてたって、聖地にいて交わる人間関係なんて極限られた一面的なものなのだ。

イメージがあてはまるからって、自分の知っている人間をついパズルのピースみたいに当てはめてしまうのは軽率だ。

しかも、自分はオスカーの交友関係すべてを把握してるわけじゃないんだから…私はあいつほど、外界にいかないからね、とオリヴィエは思い返す。

アイツは外界で、それなりの居場所や人間関係を作ってるのかもしれないし…そういうなかで、アイツが一目置くような男や、なかなかに貞操堅固で魅力的な女性がいたのかもしれない。

オリヴィエは軽くかぶりを振ると、黙って自分の私邸に向かった。

どんな問題を抱えていようと、それを解決できるのは結局自分自身しかいない。特に心の問題は…

オスカーの問題はオスカー自身が折り合いをつけるしかなく、周囲の人間にできることは、気を紛らわせてやることくらいしかないのだ。

違うアプローチや異なる方向からライトをあてて発想の転換を促したとて、本人から求めてこない限り、アドヴァイスなんて何の役にもたちはしない。

あいつがにっちもさっちもいかなくなって自分から手を差し伸べてくれれば、こっちだってやり用があるけど、そうでないのに口や手をだすのは単なるおせっかい、余計なお世話だもんね。

あいつだっていっぱしの経験をつんで、それなりの自負も矜持も持っている大人の男なんだから、あーしろ、こーしろなんて端で言っても聞きやしないだろうし、第一あいつ自身がそんなこと今は求めてないのだから。

「あいつが素直に私のいうこと聞くとは思えないし、そうでなくちゃオスカーじゃないよ…」

逆に、オスカーがなりふりかまわず自分の助言を求めてくるようなことになったら、それこそ、相当追い詰められているということだから、そんなことにはならないことをオリヴィエは願っていた。

どんなに辛い恋だろうが、望みのない恋だろうが、その恋に邁進するも、諦めるも、結局はオスカーの心ひとつ。

周囲の人間の助言で翻心するような恋なら、逆にしてもしなくても同じなのかもしれない、とオリヴィエはふと思った。

自分で自分の心をコントロールできるようなら、それは恋とは言えないのかもね、と…

 

オスカーはオリヴィエと別れ、一人夜明けのひいやリと澄んだ空気のなかを歩いていた。

頬をかすめていく風が心地よく、アルコールに侵されぼうっとしていた頭の芯がさえわたって行く気がする。

思い返すのはオリヴィエとのやりとりだった。

冗談めかしてはいたが、恐らく自分はオリヴィエに相当心配をかけたのだ。

アイツが夜明けまで俺につきあうなんて、俺はよっぽど危うげに見えたということか。

アイツは何も聞かないし、付き合ってやったなんて殊更恩着せがましく言ったりはしないがな。

そしてオスカーは、自分のたっている地面がぐらつくほどの衝撃を受けた事実に改めて思いを馳せた。

どんなにアルコールで頭の芯を麻痺させても、その光景を忘れたりはできないことをオスカーはわかっていた。

いったい、いつから…どうして…問うに問えない疑問はいくらでも脳裏に浮かぶ。

オスカーは実のところ、アンジェリークが候補生時代ジュリアスに惹かれていることに気付いていた。

そういう意味では、彼女のもとにジュリアスが訪ねていったのは考えてみれば不思議ではないのかもしれない。

それがいつからかはわからない、女王に即位した直後からそういう関係だったのか、それとも、女王に即位した後に、やはり募る恋情押さえがたく関係が始まったのか…

いや、時期は別に大した問題ではないし、二人が以前思いを寄せ合っていたことを思えば、ああ、その思いは今も続いてたのか、と腑に落ちるだけで、それ以外の感慨などないはずだ。

彼女を個人として支えてくれる人間がいたことをよかったと思い、その上、それが元々彼女が慕っており、自分も敬愛している人物だったことを喜ぶべきなのだ。

なのに、なぜ、その事実に自分がこれほどの衝撃を覚えたのか。

悲しいというのとも違うし、女王にあるまじき振るまいであると怒りを覚えているわけでもない。

ただただ、深く激しい衝撃があった。

それは想像もしていなかった事態、思いもよらなかった事実を知った衝撃なのかもしれないとふと思いつく。

自分は女王であるアンジェリークが男性と恋愛感情を育んでいたことに衝撃を受けているのかもしれないということにオスカーは気付いた。

彼女がジュリアスを慕っていたのは知っていた、が、女王になった時点で彼女はジュリアスへの恋情を捨てたものだとオスカーは思いこんでいた。

彼女は女王になったことで、ジュリアスへの思いに自分でケリをつけ、愛より至高の立場を自ら選んだのだとオスカーは思いこんでいた。そして一抹の安堵を覚えていたのだ。彼女は結局誰のものにもならなかったのだと…

女王になった時点で守護聖との個人的な接触は全ては断たれる、女王とはそういう存在なのだと、なんとなくそう思いこんでいた。だからアンジェリークがジュリアスと情を通じていることを知りショックだったのかもしれない。

だが、そう思った根拠はなんなのだ?

考えてみたら、そんな明文化された条項などありはしないではないか。

オスカーは、自分が既定の事実だと思っていたことには、本来なんの根拠もないのだとはたと気付いた。乱暴な言い方をすれば勝手な思いこみ以外のなにものでもなかった。

それに昨晩、彼女の許を訪ねようとしたとき、オスカー自身が女王であろうとその感情は普通の人間とかわらないと思っていたはずなのに、実際はオスカーもアンジェリークを『女王』という実態のない枠ぐみにしらずしらずのうちに押しこめていたのだと気付き愕然とした。

なぜ、自分はそんな風に思ったのだろう…女王になったら恋愛感情を一切すてるはずだなどと…男と女の間にある暖かくどこかウェットな感情とは無縁になるのだと…自分が守護聖になる前と後とでそういう心の動きがなくなった訳でも減じたわけでもない、それに、守護聖だって宇宙の道行きの一端を司り、万民の幸福を願う大局的な立場に立つのは同じなのに、なぜ、女王に限りそのように思いこんでしまったのだろう。

そんなことを調べてみたことはなかった。そんな必要もなかった。なのに、なぜかそういうものだと思っていたのはなぜだ?

クラヴィス様と前女王陛下のいきさつを聞いていたからか?女王となった女性とは個人的に接触はできないものだと思ったのは、とオスカーは思い至った。

クラヴィスと前女王は候補生時代に恋しあっていたにも拘わらず、前女王が結局女王の座を選んだことでその恋は終わりを告げ、クラヴィスは大層な心の痛手を被り周囲にも心を閉ざしたというのは、風の噂で耳にしていた。

まだ、守護聖として大して経験もつんでいない若僧だった頃のことだ。

なぜ、クラヴィスはいつも私邸に閉じこもりがちなのかとか、あまり人と交わろうとしないのかと、疑問を呈したとき、先輩守護聖は言葉を濁した。が、そういう話題を詳しく御注進してくれる人間は聖地にも事欠かなかったから、オスカーはほどなく、クラヴィスと前女王とのおおよその経緯を知った。

しかし、オスカーは今思い直してみる。女王と守護聖が恋愛関係を続けること、それは本当に『できない』ことだったのか?『禁忌』であったのか?

前女王陛下はクラヴィスのために補佐官になることをよしとしなかったのは事実なのだ。その動機が高邁な物であろうと、愛だけに生きる人生を選択しなかったのは事実なのだ。

そんな彼女は女王となってもそのままクラヴィスと関係を続けたいとは、言いたくても言えなかったのかもしれないし、例え前女王にその意志があったとしてもクラヴィスの方が今更何を虫のいいことを!と突っぱねたのかもしれない。

さもなくば…オスカーは更に考える。

女王試験を経験した二人は、前女王陛下が女王になった時点で、いつか永久の別れを迎えなければならないことを知っていたはずだ。サクリアの衰えは誰にも予期できないから。そして、実際にそうなった。前女王陛下は聖地を去り、一方闇の守護聖は今でも衰えぬサクリアを持て余し、ただ日々をやりすごしている。

女王と守護聖はだれでもいつか永遠の別れを経験する。それは不可避だ。

その別れが、その時点でも進行形で続いていた恋愛関係の上での別れだったらどうだろう。

心が離れていない、気持ちは冷めていないにも拘わらず、無理やり今生の別れを言わされ、最早生あるうちは二度と会えないのだと思い知らされる別れは、想像もできないほど深く心をえぐり、血を流させたはずだ。

相手を思う情が深ければ深いほど、あまりの苦しさに己の運命を、サクリアを与えられた身を嘆き呪い、サクリアを黒の波動に染めてしまわないとも限らない。

クラヴィスも前女王陛下もそれほどの激しい情念で互いを求め合っていたとしたら?のっぴきならないところまで情を深めてしまった末の別れの悲劇を懸念していたのだとしたら?

その傷や心の痛みを怖れて、敢えて、彼の人が女王になった時点で二人は関係を断ち切ったのかもしれない。

いや、クラヴィスの思惑はどうあれ、前女王陛下が先の見えない恋に一方的に終止符を打ったのかもしれない。

どうせ別れがくるのだし、思いの浅いうちに別れれば傷も浅く互いの心を暗黒の波動に染める心配もないだろうと考え、クラヴィスに別れを告げたのだろうか。

だが、クラヴィスはそうは思っていなかったかもしれない。自分の恋は終わっていなかったのに、先が見えなくてもいいと、今の思いを大事にしようと思っていたのは、自分だけだったと思い知らされたのだとしたら…

互いに可能な限りは思いを分け与えつづけたいと思っていたのは自分だけで、相手は、不可避とはいえ何時来るか判らない別れの痛みを憂いて、クラヴィスを切り捨てたのだとしたら…

そう思えば、クラヴィスのなにもかも諦めきったような態度も納得がいく。

そうだ、自分は、クラヴィスと前女王が即位を契機に恋に終止符を打ったと聞き及び、それは『ねばならない』ものだと思いこんでいたが、それは、前女王が積極的に選んだ選択肢だったとしたら?

二人の別れのその思惑は最早確かめようがないにせよ、それは明確な意志の出した結果であり、律や強制によるものではなかったとしたら?

別れの辛さを憂い、一般的な女性の幸せを得られないことを嘆き、自分の恋人を公には明かせない情人とすることに耐えられないがゆえに選んだ選択だったとしたら?

それは、逆から見れば、何時か永久の別れがくることも公にはできないことも互いが覚悟して承知の上なら、女王が在位中も恋をし、男と情を通じることも不可能ではないということではないか。

男のほうも女王とは自分一人が独占できない存在なのは承知の上で関係を続ける事を承諾していれば問題はないではないか。

おそらく…おそらく、ジュリアスとアンジェリークの二人は、いつか来る別れの痛みを怖れるより、自分たちの思いを可能な限り全うすることを選んだのだ。

しかも、それは互いに思いを寄せ合うなどというレベルではなく、あきらかに情を通じあわせる仲で…オスカーは恐らく間違いないと思った。プラトニックな恋愛なら人目を避けるように夜分女王の私室を訪れる必要はないからだ。

ジュリアスは前女王試験の時クラヴィスと前女王との間に何があったのかを詳しく知っているはずだ。知らないほうがおかしい。

彼らの恋は成就しなかった。少なくとも維持はできなかった。そのいきさつを知っていれば逆に女王と恋愛を続けるにはどうすればいいのかもしっていたと考えるのが妥当だろう。彼らとは逆に行動すればいいのだから。

いつ来るか判らない別れの予感に慄きながらそのことは努めて考えない様にし、公に二人で微笑みを交わす事もできず、それでもいいと思えて初めて続けることのできる恋…

そんな関係を続けるのなら、女王試験を棄権させ彼女を娶ってしまえばよかったのに、とオスカーは思う。自分だったら、本気で愛した女性なら、その何もかもすべて独占しなくては気がすまない。自分以外に愛を注ぐ存在など容認できないだろう。それが例え、宇宙や人民といった抽象的な存在であってもだ。オスカーにとって恋は常にAll or Nothingだった。

ただ、これはオスカー自身の考えであって、ジュリアスもアンジェリークもそうは思わなかったのだろう。

アンジェリークは当初はとてもそうは見えなかったものの、比類なく強く安定したサクリアを持っていた。その才を捨てさせる事を、ジュリアスかアンジェリーク自身か、もしくは双方が惜しみ、女王位につけたいと思ったのだろう。

補佐官はあくまで補佐官でしかなく歴史に名を残す事はありえない。

溢れる豊かな能力を愛ゆえ無駄にしてしまうことを惜しむ、それが大切な存在であるが故に尚更そう思う…愛する女の能力を開花させ、名を残させてやりたいとも思う…ジュリアスなら、そういう選択をするだろう。みすみす才あるものを、自らの感情だけで籠に閉じ込めるようなことを、ジュリアスならよしとしないだろうから。

そして二人は結果として情も通わせあえた。条件つきではあっても。

それが生涯にわたるものではなく、ともに今の伴侶と一生歩んでいくことは叶わぬことを納得したうえで。

アンジェリークは女王位を得、歴史に名を残す機会を得た替りに、恋人を生涯に渡る伴侶にする機会を失ったのだ。

これがアンジェリーク本人が望んだことだとしたら、オスカーはやはり、自分は彼女に思いを打明けなくてよかったと思う。

彼女と自分の見ているもの、求めるものが違いすぎるから。

オスカー自身は、本気で愛した女性とお互いの思いが変っていないのに、別れさせられるなんて決して納得がいかないだろう。気が狂ってしまうかもしれない。

彼女が先にせよ、自分が先にせよ退任しても聖地に留まり、留まらせ、生涯にわたり自分一人が愛を奉げ奉げられなければ彼女も自分も許せないだろう。

そう思ったとき、オスカーは前女王の決断とその意図がわかったような気がした。

女王との恋を続けようとすれば、そんな狂気に息絶えてしまいそうな別れは不可避であり、それなら最初からなにもなかったことにするほうがまだ耐えやすい。

自分がアンジェリークに思いを打明けなかったことと本質は一緒なのかもしれない。

全てが手に入らないのなら、最初からいらない。

一部しか手にとれないくらいなら、自分から手放してしまおう。

オスカーはアンジェリークが女王に即位した時こう思った。

彼女がジュリアスのことをいつも目で追っていたのにも気付いていたから、自分の見こみのない思いは最初から告げる気はなかった。

しかも、あれほど惹かれていると見えたジュリアスとの愛を選ぶより、アンジェリークは女王位をとった。

ジュリアスへの思いも、女王になりたいという思いほど強くはなかったのだなとオスカーは思った。

アンジェリークが補佐官となることをよしとせず、女王位につくことを選んだのだから、愛した女性なら永遠に手元に留めておきたいオスカーとは所詮あいいれなかったということだと自分に言聞かせた。

彼女は愛より野心をとる女性だったのだと思った。

あれほど惹かれているのが明白だったジュリアスさえ切リ捨てたのだから。

オスカーは自分が同じ立場なら、名誉や権勢より、あくまで私的な愛を優先させただろう。だが、彼女はそうではなかったのだから、もともと自分とは愛に対する姿勢が違うということだ。結局縁がなかったということなのだろうと、そう思うことにした。

そして自分の思いを封印した。何も言わなくてよかったと思いながら。

オスカーは彼女が満足ならそれでいいと思っていた。

女王に即位しても彼女は相変わらず愛らしく、それに加えて宇宙を預かる重みとか豊かさを感じさせるようになり、その魅力は一層光り輝いていた。いまやオスカーはアンジェリークの足許に跪いて頭をたれ、彼女に仕えることを無上の喜びと感じていた。アンジェリークもオスカーに打ち解けていながら、頼りにしてくれている様子が仄見え、オスカーは彼女から発する信頼や好意の情を感じるたびに、無類の喜びに体が震えるほどだった。

しかし、オスカーは最近気になることがあった。

皇帝との闘いが終わってからというもの、アンジェリークの様子がなにかかわった気がするのだった。

時折、自分と二人きりになったりすると、アンジェリークの態度がなにか硬いのだ。緊張しているのか表情もどこか強張っているのだが、決してそれとは覚らせないようにわざと明るく振舞ったりする。

自分は本来女王府の警護の要であり、真っ先に女王の盾となるべき存在であった。

にも拘わらず、女王を守れなかった事に関して、アンジェリークはオスカーのこと頼むにあたらぬと断じ、見限ってしまったのだろうか。しかし、その感情を隠そうとするので緊張しているのか…

アンジェリークが監禁されたのはオスカーの責任だと、そのことをなじられたらオスカーには返す言葉もない。

本来なら警護の責任をとってなんらかの処罰が下されても不思議ではなかった。

更迭は守護聖にはありえないから、蟄居とか謹慎とか…しかし、アンジェリークは守護聖のただの一人も責めるような真似はしなかった。

自分の舐めた辛酸には一切ふれず、逆に闘いを終えた守護聖たちを労いその功を称えただけだった。

しかし、オスカーはそれで自分の犯したミス、見とおしの甘さゆえ、アンジェリークにかけた労苦が許されたとは思っていない。

彼女も内心では自分を許していないから、態度が硬くなるのではないかと憂慮していた。

今回の式典の警護の打ち合わせで内宮に参内する機会が多々あったのだが、ロザリアがいる時はなんでもないのに、その場にロザリアがおらずアンジェリーク一人と打ち合わせする時などは、なにか、ぎくしゃくとした空気が流れるのをオスカーは感じていた。

以前にはなかった雰囲気だった。

ある一定の距離以上にオスカーが近づくと、アンジェリークの体に一瞬緊張が走るのがわかるのだ。

オスカーはそれが嫌だった。

アンジェリークは必死に隠そうとしていたが、それがさらに隔てを感じさせた。

自分はアンジェリークの信用を失ってしまったのか。

それを知らされるのはつらいが、かといって、わけがわからないのはもっとすっきりしない。自分にとっては耳に痛い言葉でもはっきり告げられたほうが、曖昧な態度で避けられるよりはいい。

ただ、彼女はあきらかに自分を避けている訳ではない。

普通に問うても恐らく気のせいだと、かわされるだろう。

だから、回りに人目のないとき、率直な意見を聞かせてもらえそうな機会をオスカーは狙っていた。

なにもなかったことにしようとするから、いつまでたっても変な空気が消えないのではないかとオスカーは思っていた。

もう、頼むにあたらぬと思っているのなら、そうはっきり告げてもらい、きちんと謝罪し、アンジェリークの気がすむように処分してほしかった。

そう思ってアンジェリークのもとを訪れようとしたとき、アンジェリークの私室にジュリアスが忍んでいくのを見てしまったのだった。

そして言葉にならないほどの衝撃を受けた。

それはなぜなのか。

彼女が野心を選ぶ女性でなはなかったこと。

今も愛を貫いていた事。

誰のものでもないと思っていたアンジェリークは実はジュリアスのものだったこと。

しかも、彼女に隔てをおかれる事になぜ、耐え難いまでの苦痛を覚えたのか…彼女の信用を失ったと思うことがどうして生きながら焼かれるような苦痛を感じさせたのか…それをなんとか払拭してもらうために夜分彼女のもとに赴こうとしたのはなぜだ?

『なんてことだ…』

自分はまだふっきれていなかったのか。ふっきった振りをしていただけなのか?

しかもふっきるために自分に言聞かせていた事実、いや、事実だと思いこんでいたこと…女王は男女間の情とは関係のない世界で生きる…も崩れてしまった。

封印していた感情が解き放たれてしまいそうな予感にオスカーは震えた。

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