しん…と静まり返った中、つかつかと談話室の中央に出てきて一声を発したのは、ロザリアだった。
「…あなたね、そんな甘ったれた卑屈なことを言って、周りを不愉快にさせて、何が楽しいのかしら、第一、学生の本分は勉強でしょう?課外活動は学生生活の主か従でいえば、従ではなくて?課外という名言葉の通り。それが、自分の思うにまかせないからって嘆くまではともかく、他を羨み、ひがんだりそねんだりすることで、人を不愉快にさせる権利はあなたにはなくってよ」
「…なによ、私は世の中って不公平にできてる、人は不平等だって言っただけよ、それのどこが間違ってるっていうの!?」
一瞬だけ怯んだ後、エンジュはロザリアに食ってかかった。エンジュにとっては、ある意味、おなじみの光景だった。自分の言は正論のはずだ、正しいことを言っているのに、なぜか、責められる。でも正論を述べている以上、非難されるいわれは私にはないはずだ、だから不当な攻撃に負けてたまるものかと、強気で抗弁する。だが、いつものパターンなら、ここで周囲は、私を責め、非難する側に同調する、正しいのは私なのに、私はいつも孤立無援、今度もそうに決まってる。正しいことを主張する私は、いつも蔑ろにされ、報われることはなく、不当に扱われる、これを不公平と言わずして、何というのか。不公平だと訴えて何が悪いというのか。
が、ここでエンジュには馴染みのない、予想外のことが起きた。ロザリアが更に反論する前に、あのかわいらしい少女・アンジェリークがエンジュの言に同意したのだ。
「そうよね、世の中って不公平だったり、人は不平等…っていうか、おかれた環境も才能も1人1人違うわよね、確かに。あなたの言う通りよ、エンジュ」
エンジュは驚き、毒気を抜かれたように黙り込んだ。今までこういう場面で、自分に同意し、味方をしてくれた人間は、記憶にある限り1人もいなかったからだ。一瞬、勢いづいて「そうよね!私は正しいわよね!」と付け加えそうになったエンジュは、が、続くアンジェリークの言葉に、彼女が全面的に自分に賛同し味方になろうとしているのではないと、気づく。
「でも人が1人1人、皆、違うのなんて、当り前のことだと思うけど?私は、ランディみたいにスポーツ万能じゃない、ゼフェルみたいにロボットも作れない、ロザリアみたいに貴族の生まれでもない、でも、それを嘆いたり、羨んだりする必要ってあるのかしら?ゼフェルは、自分でバック転できないからって、不公平なんて口にしないわ、ランディはロボットが作れなくても「不平等でずるい」なんて言ったことはないわ。人はそれぞれに違うからこそ、異なった分野で頑張れるのだし、互いに敬意を払いあえる、だから助けあったり協力しあったりして生きていけるのではなくて?第一、人がみんな、同じ能力や才能の持ち主だったら、つまらなくない?それに不公平とか不平等って嘆いたって、スポーツできるようにも、ロボットを作れるようにもならないし、貴族になれるわけでもないわ。エンジュの言う事は、確かに事実だけど、それを今、ここで、口にすることで、あなたは、何をしたいのかしら?何を得られるのかしら?」
アンジェリークは静かな口調で問うていたが、エンジュには、その問いかけを冷静に反芻する余裕はなかった。自分の言に疑問を呈された、それは否定されたのと同じだ、少なくともエンジュにはそうとしか思えなかった。
『…やっぱりだ。わかっていたことじゃないの。私には1人も味方なんていない、誰も私の正しさを認めてくれないし、理解してくれない、そうよ、わかっていたことじゃないの!』
敗北感と失望は、容易く怒りの感情にとってかわった。エンジュは、最初自分を窘めたロザリアのことなど、もう眼中になく、アンジェリークをねめつけて、言い放った。
「あなたみたいな人に、誰からも必要とされたことのない人間の気持ちなんてわかるわけないわ!」
「そうよね、あなたの気持に限らないけど、人の気持ちって、中々わからないし、意図どおりに伝えるのも、とても難しいと思うわ」
アンジェリークは思い出す。オスカーの事を知りたくて、踏み込みすぎて、彼を困らせた日のことを。オスカーが自分を傷つけまいと意図して、私を遠ざけようとして…でも、その、元は優しさからとった行為が却って私を傷つけたと、謝ってくれた日のことを。
「じゃ、あなたは、自分の気持ちをわかってほしくて…えと…世の中は不公平だって言ったの?それで、どんな気持ちをわかってほしいの?」
「だから…人は不平等で、不公平だって…」
「うん、その通りだと思う。その事は、伝わったわ」
「だから、私が言いたいことは、そうじゃなくて…私だけが不幸で、私以外のみんなは幸せでずるい…それが不公平で不平等だって言ってるのよ!あなたみたいに、何もかもに恵まれた人には…そんなにかわいくて、素敵な恋人がいるような人にはわからないでしょうけど!」
「うん、私は確かに幸せだし、恵まれてると思うの、だって、私は自由に勉強できて、やりたいと思うことはトライできて、どこにでも行こうと思えば行けるし、誰とでも友達になれるんですもの。女性には就学の権利もない国や、女性が家の外に出るのも自由に許されないような国もあるんだもの…内戦がおきて、女子供が人間の盾にされちゃうような国もある…その国に生まれたのは、その人の所為じゃないのにね…」
アンジェリークの言葉は、事実を見知った者だけが持つ重さがあった、上滑りでない、机上の話やただの伝聞では持ちえない真実味があった、その感覚にエンジュはたじろいだ。
「な、なによ!そんな人たちと比べたって仕方ないでしょう!比べたって意味ないでしょう!」
「そうよね、他人と…違う環境の人と、自分の境遇を比べたって意味ないわよね、比べてもどうしようもないんだもの…環境や境遇って「ひどい」とか「ずるい」って思っても、中々、個人では変えられないわよね。私もね、わかってても、どうしようもないことってあると思う、どうにかしたいと思っても、どうしようもできないことって、在るわ、確かに」
エンジュが、はっと、身じろぎした。
「でも、今はどうしようもなくても、「いやだ」とか「おかしい」って思うことを変えたいと思ったら、完全に変えることはできなくても、何か少しは、できることがあるかもしれない、少なくとも、方法を探すこと、模索することはできると思うの。そう言う国の人たちに比べれば、私たちは、ずっと自由だし、できることは、たくさんあると思うの、それで、エンジュがどうしようもないって思うこと…自分は1番「いやだ」って思ってることって、何?」
「奨学生だから、自由になるお金がないわ、お金がないからサークル活動もできない、他の子は、お金の心配なんてせずに、好きなサークルに入って楽しい学生生活を送れるのに、ずるい…皆は、どのクラブからも「ようこそ」「ぜひ入部してくれ」って歓迎されるはずよ、でも、お金のない私は、どんなサークルに勧誘もしてもらえない、門前払に決まってる、私だけが誰からも必要とされない人間なのよ、それがみじめで、情けなくて…」
「お金がないと、誰からも必要とされない人間になっちゃうの?」
「そうよ、お金がないと、部費が払えない、必要な道具を揃えることもできないから、サークル活動もできないわ」
「じゃ、エンジュが1番、ひどい、ずるいって思うのは、自分は自由にサークル活動ができなさそうなこと?」
「当り前じゃないの!せっかく、大学生になったんだもの!私だって、クラブ活動をしてみたい。でも、私、部費が払えない…部費を稼ごうと思ってアルバイトに精を出したら、勉強がおろそかになる、そしたら成績だって落ちるわ…いい成績を取れなかったら、奨学金が打ち切られちゃう、そしたら、私、学校そのものに通えなくなっちゃう、だから、私だけが、いろいろ我慢して、やりたいこともできないなんて、他の子は、平気で部費の高いサークル入れるなんて、不公平だって…ずるいって…」
「んーとね、あなたは「たら」とか「かも」って仮定で、それが絶対の真実みたいに結論づけちゃってるけど、アルバイトをしたら、本当に、成績は絶対に下がるのかな?試してみてもいないのに、どうして絶対って言いきれるの?ほら、エンジュは勉強ができるんだもの、家庭教師とか塾の先生とか、あ、専攻学部の研究室のお手伝いも頼まれるかもしれないし…短時間でも成績に影響のでなさそうな、割りのいいバイトってあるんじゃないかなー、勉強に支障が出そうってはっきりするまでは、とりあえず色々試してみても、損はしないんじゃない?」
「他人事だと思って、安請け合いして!だって、私、不器用だもの!要領悪いんだもの!両立する自信なんてない…」
「ほらほら、また、トライする前から、できっこないって決めつける必要ないんじゃない?」
「でも、それで、結局アルバイトができなかったから…?私は授業と寮の往復だけで、他の子はサークルで充実してるのに、私だけ、何も楽しい事も打ち込むこともみつからないんだわ…」
「部費や維持費のかかるサークルばかりが課外活動じゃないわよ、私はスモルニィ祭の実行委員会に入ろうかと思ってるんだけど、そこは部費とか費用はかからないって言われたわ、他にも、ボランティア活動とかも色々あるみたいだし…お金のかかるサークル以外にも、課外活動って、いろいろあったじゃない?エンジュは、そういうの、考えてみた?」
「そんなのサークル活動って言えない…」
「そっかなー?私、高校の時、生徒会にいたんだけど、生徒会って、試合とか発表会とかはないし、展示作品作ったりもしないから「勝ち抜く」とか「賞をもらう」っていうわかりやすい成果はないけど、文化祭の準備とか、すっごくやりがいがあって、楽しかったけど?他にも大学構内に住みついてる動物の世話をしたり、留学生のお手伝いしたりも楽しいかもって思ったけど?それに、ボランティアの中には、単位をくれるものもあったわよ?そういうことで、単位をもらえたら、その分、時間が空くからアルバイトもできるかもしれないし、委員会とかボランティアでは、優秀な人が必要とされないなんてこと、ないんじゃないかなー」
「でも…」
「でもって言う前に、色々な委員会とかボランティア団体に顔出してみたら?この合宿が終わっても、しばらくは、フレッシュマンウイークで、講義の1時限目は授業内容の紹介だから、そんなに勉強も忙しくないはずだし、サークルも仮入部期間だから、気楽に色々試しても大丈夫だと思う。そしたら、あなたにぜひ、参加してほしいってところ、きっと、いっぱいあると思うわ、私は」
「…わかった、考えてみる…」
エンジュが力なく返答すると、周りの女の子たちに、ほっとした空気が流れた。
「そだよね、ボランティアも面白いかも」
「普通の部活だと、レギュラーの座を争ったりとか技術の優劣がついたりで、ちょっと、つらいこともあるかも、だしね」
「だからって、楽しいだけの同好会だと、やりがいがイマイチかもだし」
「ボランティアなら、そういう心配ないかも」
「学生の間だから、うちこめることかも、だしね」
「それで単位までもらえたらお得だよねー」
「やーだ、ちゃっかりしてる〜」
と、堰を切ったようにー気まずい空気を払拭し、空白を埋めるようにーちょっぴり強迫的な女の子たちのおしゃべりが続いた。
そんなざわめきの中、アンジェリークは、級友が場を楽しく盛り返そうとする気づかいに感謝していると、ロザリアが、小声でアンジェリークに話かけてきた。
「あんたの辛抱強さにはまったく頭が下がるわ、私、ああいう甘ったれた、自分は世界で1番不幸とか、哀れな被害者って思いこんでる子って見ててイライラしちゃう、怒鳴りつけそうになったわ」
「あのね、私、不思議で仕方ないのよ、あの子、自分を大事に守ることしか頭にないみたいなのに、実際には、反感を買いそうな危ういことを、つい、しちゃうみたいで。どうしてなのかしら?って。そうしたいわけじゃないだろうに、自分を辛い方に、辛い方に、追いこんでいるみたいなんだもの。考えてみたんだけど、それって、どうも、自信がないせいじゃないかなって。だから、それこそボランティアで、必要とされる経験を積み重ねたら、物の考え方の癖とか偏りも、前向きになるっていうか、とげとげしなくなって穏やかになるんじゃないかと思って…あのままじゃ、あの子自身も辛いだろうし、あの子の周りの人も、困惑したり不愉快になる人が多いんじゃないかって思ったから」
「ほんとーに、あんたってお人よしね!呆れちゃう!そんなこと心配してあげたり、世話やいてあげる義理がどこにあるの!わざと自分が辛くなるような物の考え方ばかりして、それで実際辛くなるのは因果応報・自業自得なんだから、放っておけばいいのよ、その上、周りを不愉快にさせてるってことも気づかないのよ、ああいう手合いは。さっきもだけど、自分1人が不幸だって信じて、それを錦の御旗か免罪符だと思い込んでるんだから」
「でも、私もしてもらったことだもの、スモルニィに入ったばかりのころ、人の多さとか学校の大きさに圧倒されて、ぽーっとしてた私を見かねて面倒見てくれて、学校中案内してくれて、私がちょっとPCを扱えるって言ったら生徒会活動を勧めてくれて…そのおかげで、私、素敵な方々と知り合えて、高校生活もすっごく楽しくて、充実できて…全部ロザリアのおかげだもん、大好き!ロザリア、だから、私、ロザリアへの感謝の気持ちもあって、ロザリアが私にしてくれた親切を循環させたいって思ったの。それだけなのよ」
「ば、ばかね!私は、あんたが、あんまり、ぽやんとしてるから見るに見かねただけで!生徒会を紹介したのも、あの我儘な先輩たちの世話をあんたに押し付けられてちょうどいいって思っただけですからね!なんたって、あんたは、あか抜けてなくて、純朴で、まっさらで、なんか、放っておけないっていうか、生まれたての動物の子供みたいっていうか、誰にでもついていっちゃいそうっていうか、人を疑うってことをしらないみたいだったから、とにかく安心な処に預けたかったのよ!でも…そのおかげで、あんたはあのケダモノとも知り合っちゃったのよねぇ…あんたが美味しく食べられちゃうきっかけを作ったのが自分だと思うと悔やんでも悔やみきれないっていうか…だって、私があんたを生徒会に世話した時は、あのケダモノがあんなに早く帰国するなんて計算外でしたのよ!」
「???えっと?何の話か、よくわからないんだけど?」
「でも、あんた…ほんっとーに綺麗になったのよねぇ〜。かわいいのはそのままで、艶やかさがプラスって感じで。しかも、あんなにしっかりとしちゃうし…オスカー先輩との出会いがあんたの成長を促したってのも否定できないのが、また、悔しいっていうか、私としては業腹なのよ!」
「やっだー!ロザリアったら〜照れるじゃないのー!でもでも、オスカー先輩と出会えたことで、私、成長できてるかな?できてるのなら…嬉しい。あのね、自分でもね、昔より、いろいろなこと、考えるようになったとは思うの、いつも努力を怠らないオスカー先輩に相応しい女性でありたいし、オスカー先輩に見つめてほしいし、かわいいって言ってもらえると嬉しくてたまらないから綺麗でいたいとも思うし…先輩のことが好きでたまらないから…先輩の傍にずっといたいから…」
「まったく!オスカー先輩ったら、何を心配する必要が、どこにあるっていうのかしら!どこにもないじゃないの!なんてことは、悔しいから絶対、先輩には、教えてあげませんけどね、ふんっ!」
「???さっきから、時々、ロザリアの言葉が理解できないわー、でも、ロザリア、大好き、ほんとに大好きよ」
「そういうことは、オスカー先輩に言ってあげなさいな」
「先輩も好きだけど、ロザリアも好きなんだもん、それに心配しなくても、先輩にも、好きって言ってるもん、言わずにいわれないもん、あ、でも、ほら、ロザリアもやっぱり私のこと心配して、色々、世話焼きしちゃうじゃない、私とおんなじ〜」
「世話の焼き甲斐が!あんたとあの子はぜんっぜん!違うわよ!」
「うん、そうなんだよね、みんな、違って当たり前なのに。人と比べて自分にないもの、足りないものを数えて嘆くより、自分にできること、今恵まれていることを数えて感謝する方が、自分もずっと楽しくなれるんじゃないかな。あの子もそう思えれば、もっと、ずっと、楽になれるんじゃないかなって、思うんだけどね」
アンジェリークは、心の底から、そう思う。
エンジュは他の恵まれている子たちがずるいという。なら、他の子たちがサークルに入るのをあきらめたら、エンジュは幸せになるというのだろうか?断じて違うとアンジェリークは思う。
他人が自分と同じみじめな境遇に陥れば満足する、とエンジュならうそぶいたかもしれない、他の人が自分と同じ境遇になれば幸せなの?自分の境遇は変わらなくても満足なの?と重ねて問うても、満足すると、言い張ったかもしれない。でも、それと、自分が幸せになることは全く別問題なのに。似たようなものだとエンジュは言うかもしれないけど、決して、同次元の問題ではない、故意にでも、無意識でも、そんな問題のすり替えは、自分を苦しめ、他人を不快にさせるだけだ。どうせなら、自分も他人も楽しくなる方がいいと思う私は、やっぱり、ロザリアの言う通り、お人よしかもしれない。でも、やっぱり、誰だって苦しいより楽しい方がいいんじゃないかな。
絶対的な不幸に見舞われる時や、覆せない不運に襲われる時が人生にはある、天災とか事故とか…私だって、父が駐在国の騒乱で命を落としたりしていたら…実際に命を落とした人はおそらくいるから…酷く嘆き悲しんだことだろうし、それを「気の持ちよう」でプラスに考えることは、できないと思う。でも、受取方、考え方次第で、良くも悪くも受け取れる出来事もいっぱいある、それなら、よく受けとれるような見方をする方が、自分自身も楽だし楽しいのに、わざわざ損することないのにとも思うのだ。だって、私たちは本当に恵まれてる、努力できること、自らの裁量で決められることは潤沢にある。銃を持った兵士に護衛されなくても安全で、自由に勉強できて、地雷を恐れながら歩く必要もない、なのに、自分は不幸だと思って、状況を嘆くばかりで、何も動こうとせずにいるのは、本当にもったいないし、第一失礼だと思う…
だからロザリアが怒るのも無理はない、ロザリアの怒りは正当なものだともアンジェリークは思う。怒りを示すことも必要だったとも思う。エンジュは、ロザリアが怒った訳がわからなかったみたいだけど、いつか、なぜ、ロザリアが怒ったか、わかってくれるといいな、そして、怒ってくれるのって本当はとっても親切な人じゃないとしてくれないことなんだよ、ってことも、わかってくれるといいな。
「ロザリア、もし、私がおバカなことや失礼なことをしたら…厳しく叱ってね、甘えちゃってごめん、でも、ロザリア、優しいから、ロザリアならちゃんと叱ってくれるって思うから…」
「あぁら、私に叱ってほしいなんて、殊勝な心がけです事ね、アンジェ。で、何を叱ってほしいの?帽子をかぶらず外出した?それとも、見た目のかわいさにつられてサイズの合わないブラでもつけてるんじゃないんでしょーね!」
といいつつ、ロザリアはアンジェリークの着ている綺麗色のカットソーの胸元に人差し指を差しいれ、ひょいと軽く引っ張って、中を覗き込む。ロザリアの方が身長が高いので、容易にアンジェリークの胸の谷間が目に入る…やいなや、ロザリアは目をひんむいた。
「…って、あんた、何!この胸の谷間のキスマークは!あんたより背の高い人には…つまり、ほとんどの男性から、簡単に見えちゃうじゃないの!これは、絶対、わざとね!わざとだわ!オスカー先輩をとっちめてやらないと!」
「きゃー!ロザリア、どこ見てるのよー!それにオスカー先輩のことはいいの!無理に叱ってくれなくてもいいのよぉ〜!」
ロザリアとじゃれあいながら、アンジェリークは本当に自分は幸せものだとかみしめていた。諭してくれて、じゃれあえて、なんでも話せる友がいて…そして、尊敬できる人がいて、大切に思える人がいて、何より心から愛する人がいてくれて。
アンジェリークの清く澄んだ心根、明るく素直で曇りない人柄が、人とのつながりを招きよせ、強固にしていることを、アンジェリーク自身はあまり自覚していない。アンジェリークの身近にきらきらと輝かしい人材が多いのは、単なる偶然でも幸運でもなく、ある意味当然の帰結だということも。ただ、アンジェリークは、自らの幸せに感謝し、好意は素直に表し、自分がされたら嬉しいことを、周囲に還元する、それを自然に行っているだけだった。
『私でも、誰かに必要とされる?そんなことが、本当にあるかしら…』
あれからエンジュは、ずっと、そのことを考えている。
アンジェリークに言われたことが頭から離れない、そも、エンジュには、あんな風に、自分の言葉に辛抱強く付き合ってくれ、会話を成立させてくれた相手が今までいなかった。あんなに長く人との会話がなりたかったことが、なかった。
エンジュには友人の作り方がわからない。自分は「誰からも必要とされたことがない人間だ」という思い込みが頭にこびりついているので、人とどう接したらいいか、わからない。他人は、エンジュを疎ましがるか、軽んじるか、煙たがるか、呆れるか…という存在だった記憶しかない。だから人と接触すると、エンジュは怒りにまかせて噛みつくか、恐れをなしてその場から逃げだすかという極端な対応しか取れない。
元々、状況に応じて、とか、臨機応変というのが苦手だった。中でも、対人関係というのは、決まりきった法則がなく、公式では対応できないから、特に苦手だ。
例えば、右→上→右で行っても、上→右→右で行っても、右→右→上という道順で行っても到着する目的地は一緒だ、と言われると、エンジュは、一瞬、混乱してしまう、全て違う道順なのになぜ同じ場所にたどり着くのか、感情的に理解できず、反発してしまう。これを紙に書いて、この3通り全部なぞってみれば納得できるのに、最初、自分にはまったく違うものに思えて、なのに「どう行こうとゴールは一緒じゃん」と言われたりすると、それがすごく訳知り顔に思えて、自分が馬鹿にされたような気がすると、反射的に反発してしまう、頭に血が昇ると感情的に噛みついてしまうことが抑えられない。先方の言は理が通っていたと、あとでわかっても、その時々の激発…に限らず、衝動的な行動を抑えられない。
怒りに限ったことではない、怖い・嫌だと思うと、あと先のことを考えず、その場から逃げだしたくなってしまうし、実際、逃げ出してしまう。人と意見が違ったり、否定されたり、人間関係が少しでもこじれると、単純に短絡的に「この場に私がいなければいいんでしょ!」と思う。1度「私さえ、いなければいいのだ」と思いこむと、立ち去りたくなる衝動を堪えられない。
優等生のエンジュは、故郷の学校でいわゆる「学級委員」的な立場を教師から割り当てられることもあったが、この衝動をコントロールできなかったがゆえにーただし、本人にはその自覚はないー次第に責任ある立場や役職をまかせられることはなくなった。いつ逃げ出してしまうかわからない者に行事の運営など、それこそ怖くて任せられないからだ。しかも、逃げ出す・投げ出す、という行為の裏に、人は、エンジュが「自分の存在の重さ、自分がいなければ困ることを思い知れ」といっているような、ある種のいやらしい自意識を感じとってしまい、エンジュの行為を、なおのこと、否定的に捉える。ただ、エンジュ自身は、なぜ、自分が努力しているという自覚の割に、重用されないのわからない、『すぐ仕事を投げ出す無責任でいい加減なヤツ』という評価ー面と向かって言われたことはないがーは周知となっていても、その理由がわからない。「私さえいなければいいんでしょ!」と、一抜けたすることで、問題が解決するはずだと信じているーつまり、主観では、良かれと思ってやっていることが、なのに、評価されず、それどころか、真逆の「無責任」というレッテルを張られる。ゆえに「自分は誰からも必要とされない、されたことがない」という、劣等感が蓄積していくばかりだった。その劣等感が、さらに怒りの沸点を低くし、ひねくれたものの考え方をさせるようになる、だから入学式で周囲の人間がにこやかに笑っていると、自分が笑われたのだと曲解するし、自分は恥をかかせるために挨拶させられる、という突飛な結論に飛びついてしまう。が、そういう言動が、さらに人の信用を遠ざけてしまうことも、自分の行動や振る舞いに、人を遠ざける遠因があるかも…などということを、エンジュ自身は、それこそ、1度たりとも考えたことはない。自身は常に被害者だと思いこみ、自分の言動を決して省みない人間は、無意識の内に人を不愉快にするので、触らぬ神になんとやらで、近づき親しむ人間はますます少なくなる、そして「誰からも理解されない、必要とされない自分」への自己憐憫と被害者意識は雪だるまのように膨れ上がっていくばかり、それが、今までのエンジュだった。
でも、あの子と…アンジェリークと話している時は、なぜか激発せずにすむ。被害者意識が刺激されずにすむからで、それはアンジェリークは決して、自分を非難・糾弾しないからだ。そして、会話が進むうちに、いつのまにか頑なな思いこみが解かれていた。
実のところ、エンジュは、1日目に見た華やかなサークル活動の紹介に怖気づいてしまい、自分にはどうせ全て無縁のもの、と思いこみ、あまり真剣にその他の課外活動の紹介を聞いていなかった。その上、食堂で学部ごとに着席した時は、いつも、自分と同じように、群れに交わらず1人でいる、でも、自分と違って、仕方なく1人でいるのではなく、自ら選んで孤高を保っているように見える青年に、ずっと気を取られていたので、なおのこと、上の空だった。
その青年が1人でいるのは、初日だけではなかった。初日には、その青年に限らず、まだぎこちなく堅苦しくよそよそしい雰囲気だった食堂も、1夜明けて翌朝には、おずおずと互いに声をかけあう者がでてき、それは次第に増えていったが、青年はいつまでも1人だった。いつも、わざと人と離れた席を選んでいるようだった。
あれくらい超然としている人なら、私みたいに「サークルも自由に選べない」なんて、うじうじ、悩んだりしないんだろうな、サークル活動に参加なんてしなくても全然平気、って感じだもの。いいな、私もあんな風に、何にも揺るがない負けない強さがあればな…
どうしたら、あんな風に堂々と、揺るがずにいられるのか聞いてみたい、テーブルが違うということは学部が違うから、あの人と授業が一緒になる可能性は低いだろう、となったら、やっぱりサークル活動?でも、あの人、サークルに参加しそうには思えないし…参加したとしても、それこそ、部費の高価なサークルだったら、どちらにしろ、私には縁がない、お近づきになる機会なんて、絶対、ありっこない。
なんてことを思いながら、その青年のことばかり気にしていたので、アンジェリークに提言されるまで、部費その他の費用がかからない課外活動や、単位を貰えるボランティア活動があることを耳にしてはいても、意識していなかったのだ。
でも、あの青年の姿を見かけるのも、3日目の朝食の時間、これで、最後だろう。授業が始まってしまえば、あの広大なキャンパスで、学部の違う学生と知りあうどころか、すれ違うことすら、万に1つもあるとは思えない。
これで、最後だと思うと、尚更、青年の姿を見ていたかった。だから、エンジュはその青年の様子がよく見えるような、青年とは対角線上の席を選んで座った。そのため、青年のいる学部のテーブル全体をよく見通せた。
と、そこにひと固まりでやってきた数人の女の子が、各々のテーブルに散り散りに散っていった中、、ふわふわできらきらでつやつやの金髪の少女が、その青年と同じテーブルの、でも、反対側の離れたところに座った。
『アンジェリークは、あの人と同じ学部だったの?アンジェって何学部っていってたっけ…そうだ、確か比較文化学部…』
語学がハードルとなって、学生の半分以上が帰国子女と留学生で占められているスモルニィでも特異な学部だ。
『ってことは、あの人も、帰国子女?ううん、あの、人目ひく容貌は、留学生かも…』
そう思った時、エンジュは、アンジェリークの言葉「留学生のお世話をするボランティア」の存在を思い出した。
もし、あの人が留学生なら…この国の文化とか言葉とか生活様式とかに不慣れで、指南役を求めていたら…私、あの人とお近づきになれるかもしれない…
エンジュは、慌てて、ガイダンスの冊子をひっくり返し、留学生サポートボランティアの連絡先を頭の中にいれた。
延べ3日間の茶番劇から、これで、ようやく解放される。
銀髪の青年は皮肉気な笑みをー自嘲の笑みを浮かべた。
かといって、この能天気でお気楽な学生どもと縁を切れるわけではない、嫌という程顔突き合わせて生活する必要がなくなるだけで。この合宿所を出たとて、戻るのは護衛という名の監視付きの宿舎であり、今後、ぬるま湯の学生生活を強制的に送らされることになっているからだ。それは、体感としては、比較的自由度の高い懲役刑を受けるようなものだ。
この青年は、学生寮に戻るのではなかった。
学生寮はセキュリティという意味では合格だったがー預かった側としては、それこそ預かった手前、身体的な安全確保は絶対な必要条件だったー寮に入られてしまうと、この青年は、また、どうにかして同年代の賛同者を集め、反社会的な行為に走るかしれない恐れがあった。この某国王族の青年は、1部の人間に対し強いカリスマ性を示すことが否定できず、彼を預かった外務省としては把握しきれないような交友関係を自由に作らせるわけにはいかなかった。彼は、この国ではあくまで「亡命者」であり、生かさず殺さず、とにかくおとなしく日常生活を営んでくれればいい、というのが、預かった側の論理であり都合だった。ゆえに、学生寮には住まわせず、機密保持のためには公務員宿舎に住まわせることもできないので、外務省で宿舎として借り上げた賃貸住宅に住まわせることになっていた、無論、両隣の部屋に護衛かつ監視役が常駐し、その彼らが大学まで銀髪の青年を送り届け、また、授業が終わった頃に迎えにくるのだ。外部との接触は、極力減らすためー表向きは護衛のため、だ。黒塗りの車で毎日正門前まで送り迎えされたら、否でも目立ちそうなものだが、良家や貴族の子弟が数多く集まるこの学校では、絶対数は多くなくても、その光景は決して、珍しいものでも、人目を引くものでもないらしいーありていにいってありふれた光景であるらしかった。ということは、護衛という名の監視役が周囲にいても、特に奇異に感じられることがない、ということでもあろう。この辺りも、この学校に自分が入れられたわけが透けて見える、と青年はこの3日間の合宿で、自分を取り巻く状況をおおむね把握した。
無論、1度構内に入ってしまえば、比較的、身は自由ではある。しかし、彼は常に高精度のGPSの携行を否応なく義務付けられていたー腕の内側の皮下に埋め込まれていたのだ。それは一定間隔で自動的に彼の現在地を発信する。勝手に構外に出ようとしたり、骨折覚悟で腕を何かに打ちつけてGPSを壊そうとしたりすれば、けたたましいビープ音が鳴り響き、SPがすっ飛んでくる、とも脅されていた。GPSを壊そうと何度も試してみれば、そのうちオオカミ少年だと思って、GPSを切られたりしないか…と、一瞬考えたが、それを試すのは、時期尚早だろうと、考えなおした、今試してみても、益はない。GPSを壊すなら、明確な目的、つまりは、はっきりと目的もしくはターゲットが決まってからの方がいい。
この3日間、彼は、無謀で非現実的な試みをーとにかく、できる限りのことはやってやる、という気持ちが固まっていた。
華やかで充実した様々な課外活動の紹介が、かまびすしく情報を交換しあう学生たちのおしゃべりが、彼のもくろみを後押ししたとも言える。
この学校に通う生徒の多くに富裕層が存在するのは確かだ。高価な維持費がかかる遊びにうつつをぬかせる身分だというのが、その証拠だ。遊蕩三昧の生活を送ってきた自分だからわかるのだ、金のかかる趣味、および、預金残高を案じたことのない層が、どのように余暇を過ごし、どんな遊びにふけるかを。
この学校には、多額の維持費がかかるだろうと思われる課外活動も盛んだった。それは、それだけ富裕層の絶対数が多く厚いということだろう。
ただ子弟の学費が潤沢な富裕層といっても、ピンからキリまである、どんなに厚遇されてる高給取りでも、勤め人は勤め人で、資産にも行動にも限界がある。狙うなら、やはり、資産家・企業家か。彼としては、効率よく、多国籍企業のトップの令嬢か、資産の豊富な国の王侯貴族を狙いたい。ただ、借金で開発を進めている資産実態は危うい国もあれば、王侯貴族とはいっても名ばかりの貧乏人や、自由になる財産のない者もいるー自分のようにー。まず、富裕層の子弟を抽出する、その上で、そういう役に立たないカスを効率よく分別できればいいのだが、どうしたものか。ただ、維持費のかかるサークルを色々しらみつぶしにあたるのでは、いかにも効率が悪そうだ、時間がかかることこの上ないだろう。
全学生の学生原簿にアクセスできれば1番良さそうだが、この大学は、自分が入れられたことからも、セキュリティや個人情報の管理は徹底しているらしい。1学生、しかも、常に行動が監視されている自分が、大学のデータベースにアクセスするのは、正直難しいだろう。
となると、非効率は承知で、とりあえずは、課外活動に片っ端から参加してみて、部内の雰囲気を探ってみるか…その中でめぼしいカモを見つけられれば御の字だ…。
青年は「そうだ、焦る必要はない」と自身に言い聞かせた。獲物を品定めするのに、焦る必要はないし、むしろ、焦りは禁物だ。この狩猟は、失敗したら、やり直しの効くものではない。あれに逃げられたらこの獲物、というわけにはいかないだろうことは自明だったからだ。
軟禁状態で形ばかりの学生生活を無理やり送らされるという当初の状況を思えば、雲をつかむようなものとはいえ、とりあえずの計画・目標ができた今とでは、気の持ちようがまったく異なった。今、彼は、この合宿が終わり、通常の課業が始まる日々を楽しみにさえしていた。