Before it's too be late 11

いつも手の届く処にいてほしいと願い、そして、実際、いつも身近にいてくれた存在が、ほんの僅かな間、すぐには会いに行けない距離にいる。そう思うだけで、オスカーはこの1両日というもの、酷い寂寥、空虚に悩まされた。

彼女に全く会えないのは、間の中1日だけだ、合宿所までは自身で送り、また、出迎えるのだから。そう、理屈ではわかっている。それでも間欠泉が予告なしに噴出するように、抑えようのない寂しさが、時折、心の奥底から吹きあがり、オスカーを苛んだ。

数日間会えないことなど、今までにもあった。オスカーが大学入学後の1年間、彼女は高等部の学生だったから、会えるのは週末だけ、というのもそう珍しいことではなかった。それでも、ここまで酷い心もとなさを感じた事はなかった。

高等部卒業式から大学入学式までの数週間、彼女の母も一緒とはいえ、同じ家で起居し、より身近に彼女の存在を感じていたから、その反動もあって、彼女の不在が、短期間とはいえ、堪えているのだというのは自分でもわかっていた。保護者同伴かつ別室で起居ではあっても、アンジェリークは今まで続けて数日以上オスカーの部屋に滞在したことはなかったので、それこそ、朝から晩まで、彼女の存在を身近に感じられたあの数週間は、オスカーに自分でも思っていなかったほどの温もりと充実を与えていたらしい。

が、反動という一言でかたずけるには、寂寥の度合いがあまりにも深い。いや、これは寂寥というよりは、不安とか心もとなさという感情の方が近いかもしれないとオスカーは分析する。一言でいえば、そう…心配なのだ。

無論、郊外の合宿所とはいえ、学校施設のセキュリティを信頼していないわけではない。

オスカーが、なんとなく、心もとないのは、彼女が「逢いに行こうと思えばすぐいける距離」におらず、なおかつ「オスカーがよく見知った、安全な場所」にいるという確信まではもてない、それに尽きた。彼女に何かあっても、すぐさまー数十分の単位では駆けつけることができない。彼女の身の安全は学生寮と自分の家にいる間は、絶対安全と言い切れだが、不特定多数が利用し、出入りする合宿所では、そこまでのセキュリティは望めない。それが不安の種なのだ。

第3者から見れば、オスカーは心配症すぎると、恋人の身を案じるにもほどがある、と失笑を買うだろう。

が、オスカーは「金持ちの子息」であり、幼いころから誘拐される危険性を嫌というほど教えられているーオスカーが体術に秀でているのも、護身術を幾通りか教育されているからだ。

そして、今はまだ内輪とはいえ、アンジェリークはオスカーの婚約者だ、親しい者には周知の間柄であり、アンジェリークはオスカーの「親しい関係者」もしくは「身内」とみなされているだろう。ために、自分の関係者であるがゆえに、アンジェリークに危険が及ぶこと、オスカーはこれを最も恐れていた。

一方で、オスカー自身「彼女が自分の関係者」とみなされるよう意図した振る舞いをしてきたという事実がある。アンジェリークに悪い虫をよせつけない、というのも、オスカーには重要事項だからだ。アンジェリークが新入生合宿に参加する時、熱烈なキスで送り出したのも、多分に「彼女には俺がおり、俺には彼女がいる」と周囲に宣言するためであり、愛らしいアンジェリークに一目ぼれしそうな若造どもの出鼻をくじき、釘をさす、という明確な意図があった。

というのも、色々な意味で胸高鳴る新入生合宿でー特に外入生で、学園の雰囲気に慣れていない、知り合いは皆無で心細い、一方で憧れの大学に入れた高揚感と興奮で、とにかく地に足がついておらず情緒不安定なところに、たまたま隣に座ったかわいい女の子に一応(内心恐る恐る)挨拶したら、愛想よくほほ笑み返されたことで、一瞬にして恋に落ちたー一種のつり橋効果だな、とオスカーは解釈したがーなんていう男の話を、オスカーは、多数、見聞きしていたからだ。必死に勉強して憧れのスモルニィに入学した外入生男子が、あか抜けていて華やかでおしゃれな内進生の女子に魂を奪われたがごとくぽーっと見惚れている光景はそこここでみかけたし、刻苦勉励して入学した外入生同士、共感しあって盛り上がったり、と、きっかけは様々だったが、自身が新入生だった去年の合宿中に、早くも複数のカップルができたことを、実際に見知っていたから、オスカーは、アンジェリークに惹かれ見惚れる若造を皆無にすること…は現実的に不可能だろうとわかっていたので、一目ぼれされても、次の瞬間には諦めさせることができればOKだ、と、現実的かつ効果的と思われる善後策として、周囲に不快感や反感を感じさせない程度に公認のカップルと目されるべく、自分たちの間柄を、それとなく周囲に知らしめるようにしていた。

が、オスカーがアンジェリークとの恋仲を周知させることにより、横恋慕やストーカーの危険性は減じるものの、反比例して増加するリスクがあることも否めない、アンジェリークが財界の要人・子息に準ずる存在とみなされ、営利誘拐される危険性だ。オスカーにとっては痛し痒しである。

アルテマツーレの御曹司である自分は、幼少時から営利誘拐の可能性と危険性を叩き込まれてきているし、実際、皮下には、逐次所在地を発信するマイクロチップも埋め込まれているー高校入学後、他国に留学する際に、遊学の条件として付けさせられた。ならば、知る人には、もはや身内同然であるアンジェリークも、アルテマツーレの関係者とみなされる危険を考慮し、そろそろ具体的な対策を講じる必要があろう、と、アンジェリークに指輪を贈った時に、オスカーは漠然と考えていた。大学生になれば、行動範囲が広がるから、尚更だ。大学入学前の休暇中に、その方策を検討し、アンジェリークと彼女の両親も交えて、色々相談したいとオスカーは考えていたのだが、彼女の父が駐在国の動乱に巻き込まれるというアクシデントのため、この件を検討も相談する暇もないまま、アンジェリークの大学生活はすでに始まってしまった。オスカーが合宿所まで彼女を送り迎えしたのも、彼女のセキュリティに関して、前もって何の準備もできていなかったので、道中の危険を鑑みてのこともあった。

今回の滞在先は学校施設、なおかつ2泊3日の短期間で、基本、合宿所からアンジェリークが1人で外にでることはないだろうと思われる、しかも、彼女はGPS機能付きの携帯電話は持っている。それでも、オスカーは自分の目の届かない、すぐさま駆けつけられない処にアンジェリークがいる、という事実に、自分でも思っていた以上の危機感と不安感にさいなまれた。携帯電話など、捨てられたり、壊されてしまえば、それまでだ。このオリエンテーション合宿が済んだら、彼女が自分を伴わない外泊をする機会は、そうなかろうが、もし、合宿を要するようなサークル活動に彼女が参加したいと考えているようなら…彼女の同意を得たうえで、発信機を、彼女にいつも身につけておいてもらうほうがいい、無論、強制はできないが、ぜひ、そうしてくれと、要請せねば、と、オスカーは考えた。自分のように、皮下にマイクロチップを埋めるのは、アンジェリークの珠の肌にどうしても多少の傷をつけねばならないというその一点で、オスカーとしては感情的かつ絶対的に却下だったー現在のICチップは0,4ミリ角サイズが主流で、微小といえば微小だが、婚姻はおろか、正式な婚約もまだの娘の皮下に、そのようなものを埋めることは、保護者であるリモージュ氏も承諾するとは思えない。となれば、彼女には是が非でも発信機を携行してもらいたい、いや、もらわねばならない。が、携帯電話のように、一目でそれとわかるようなものではダメだ。万が一の時、即、捨てられたり、壊されたりしては何の役にも立たないからだ。となれば、女性がいつも身に着けていて不自然でなく、負担もなく、自身にも周囲にも違和感を与えず、かつ、容易には外さないし、外せないようなものを模した、そんな発信機でないとダメだ。かつ、アンジェリークに日常的に身につけてもらうとなれば、軽量化と小型化は欠かせない、が、小型化するほどに動力源の確保は厳しくなるは必定…誰でも入手できる市販品に、そんな都合のいいものがあるとは思えない、アルテマツーレの開発部、及び商品部に、俺の考えるような電波発信機がないか、当たってみよう、なければ試作を持ちかけよう、とオスカーは考えた。所在地確認のための発信装置は、軍事的には味方の位置確認にも、索敵にも効果を発しようし、なれば、小型化・軽量化、及び動力源の確保を念頭に開発を進めることは、企業益にも通じる筈だ。

オスカーは早速、懇意にしているアルテマツーレの技術者を頭の中で思い浮かべ、打診するリストを心中でつくる一方、ふと、彼女の同級生であり、自身も親しくしているーといっていいだろうー後輩に、自他共に認める天才科学者にして技術者がいたことを思い出した。卒業後はぜひともウチにほしい逸材だと思っているがー少なくとも、同業他社にだけは行かせたくないー多少、天の邪鬼な気配のみえるあの少年は…しかも曲がったことが嫌いで正義感が強く、純粋な気質故、兵器産業である当社の誘いに素直に乗って入社してくれるかどうかは微妙だと、オスカーは思っていたが…単なる製品開発、それも、人を傷つけるものではなく、同級生の身の安全を図るためのものを作ってほしい、無論、研究費・材料費に糸目はつけないで、という条件ならー根が真っ正直で心優しいあの少年は、同級生の女の子のために俺の依頼を前向きに検討、いや、即刻着手してくれるのではないだろうか。アルテマツーレの技術部を巻き込めば、公私混同の誹りは免れ得ないがーしかし、彼女は未来の1stレディーなのだから、彼女の身の安全を図るのは、会社としては当然の姿勢だ、とごり押しすることは可能だし、オスカーは打てる手、可能性には全てあたるつもりでいるがー上層部からの無理強いや、しがらみからではなく、情で進んで動いてくれそうな、しかも、その腕はお墨付きの技術者が顔見知りでいるのなら、そちらに打診しない手はない。そして、彼は、己が意図と目的を話せば、たぶん、断らない、むしろ進んで協力してくれるだろうと、オスカーには思えた。

「あいつの携番…いや、メールの方が確実か?変わっていなければいいが…」

オスカーは、そう言いながら、自身の携帯メモリからお目当ての名前を探し出した。詳細は、会って実際に話した方がいい。隠密裏に事を進めたい、という気持ちもあることだし。なので、とりあえず会う約束をとりつける必要があった。どちらにしろ、やつも今はお嬢ちゃんと同じ新入生合宿の最中だから、詳しい話をする時間はとれない、合宿後、なるべく早くにアポを取りつけよう。なんにせよ、彼が同じ大学生になっていてくれてー高校生より行動も時間の裁量も自由度が大幅に利くからだー助かった。

これで、やつの協力を仰げればとりあえず一安心だ、明日は、晴れやかな気持ちで、お嬢ちゃんを迎えにいけると、オスカーは思った。

 

「お嬢ちゃん、ここだ!」

新入生合宿は、前途を期待し祈る旨の挨拶で締めくくられて解散の運びとなった。昔からの友人同士、もしくは、この合宿で親しくなった者同士で、一緒に帰ろうと誘いあったり、課業開始後の予定を確認し合うものでロビー内がごった返している中、燃えるような髪も、ひときわ抜きんでた長身と逞しく厚みのある体躯も、男性的で極めて整った容貌も、どれもこれもが人目を引きつけずにはおれない美丈夫が、アンジェリークに手をふっていた。その姿を目にしたとたん、アンジェリークは反射的にー考えるより先に体が動いて、抜きんでて目立つ美丈夫=オスカーの元に駆け寄ると、文字通り、その広く厚い胸にまっすぐに飛び込んだ。

「オスカー先輩!」

「ふ…お嬢ちゃん、そんなに俺に会いたかったのかい?」

己が姿を認めたとたん、弾かれたように駆け出し、次の瞬間には腕の中に収まってくれた愛しい存在を、オスカーは過たずにしっかと抱きとめ、心からの笑みと、愛しさを存分にこめた眼差しと言葉とで迎えた。言葉自体は疑問形の形を取ってはいたが、その声音には「俺も君にあいたかった」という気持ちが、溢れんばかりにこめられている。

「はい、私、先輩にお会いしたかった、会えずにいたのは昨日1日だけで、メールや電話もいただいてたのに…でも、こうして、直にお会いできるのが、やっぱり1番うれしいから…甘えてしまって恐縮でしたけど、迎えにきてくださって、やっぱり、すごくうれしいの、ありがとうございます、オスカー先輩」

すると、はにかみながらも、アンジェリークはオスカーをまっすぐに見つめ、咲いたばかりの花のような笑顔を向けた。素直にストレートに感謝と喜びの気持ちを言葉と態度の両方で伝えてくれるアンジェリークに、だから、オスカーは更なる笑みを返さずにはいられない。昔日のオスカーを知る者なら驚くほど、その笑みは率直でおおらかで温かい。彼は、ちょっと見、クールで気障で、それでいて気取らないかっこいい見かけと言動はそのままに、なんともいえぬ温かみと心の広さ・大きさ、そして高邁な理想を胸に抱くものだけが持つ魂の気高さを、おのずと発する、そんな青年となっていた。

「ああ、俺も会いたかった、一刻も早く君に会いたくて、君の帰りを家で待ってなんていられなかった。待っててくれなんて言われたら、その方が、俺にはもどかしく辛かったことだろう、だから、俺の出迎えを快く許してくれて、礼を言うのは俺の方だぜ、お嬢ちゃん」

会えなかったのは48時間にも満たない間だけだから、何を大げさな、と一笑に付されそうな、もしくは、歯の浮く口説き文句と思われそうなせりふだったが、この言葉は紛れもなくオスカーの心の真実だった。

「さ、お嬢ちゃん、寮まで送っていこう、荷物はこれだけだな」

オスカーがさりげなくアンジェリークの手からバッグをとり、もう片方の手で肩を抱きよせ、その流れで自然に彼女の髪に軽く口づけてから歩き出す。愛しく大切な存在を、心から守りいたわらんとする一連の所作は、彼が彼女をどれほど愛し、慈しんでいるか、誰の目から見ても明らかだった。2人の間に存在する深い愛情と信頼の空気、同時に、オスカーが極自然な愛情の発露として、流れるように優雅にアンジェリークを慈しむ様子は、洗練され自信にあふれたオスカーの所作と相まって、周囲の女生徒の賛嘆の溜息と憧憬の眼差しを誘わずにはおかなかった。

「はい…」

オスカーにしっかと抱きよせられ、オスカーの大きな手を肩に、そして、オスカーの香りと温もりを間近に感じて、アンジェリークはぽーっと夢見心地になってしまい、簡潔な返事をやっとのことで返した、その瞬間、自分の方を、食いつきそうな気配で見つめている視線を感じ、反射的に顔をそちらに向けた。眼を向けた先にエンジュの姿があった。

彼女の瞳は強い光を放っていた。だが、それは、やっかみや悪意のこもったものには、見えなかった。かといって、多くの女生徒のように、単純にオスカーの容姿や洗練された物腰にあこがれ見惚れている、というのでもないように思えた。1番近いのは、羨望…というより渇望のまなざしのように、アンジェリークには感じられた。些か強烈すぎて、たじろぐほどで…そう、飢えきった子供がパン屋の軒先を覗き込んでいる、もしくは、乾ききった子供が幻の水を目にしたかのような、焼けつく程の欲望と、でも、自分には求めるものが与えられることは決してないのだと諦めきっているような、泣きだしたくなるような絶望とが、混じり合った、そんなまなざしだった。

アンジェリークは、こんなにも激烈な渇望の感情を生のままでむけられたことが、今まで、なかった。オスカーと一緒にいることで、たまに、嫉妬の混じった視線を投げられることはあったし、自分ではなく、隣にいるオスカーが多くの女性から憧れの眼差しでうっとりと見とれられてしまうのは日常茶飯事で、当然とも思っていた。が、だからこそ、この、むき出しの渇望の感情に驚いたし、何故、あんな風に…飢えた人みたいに、私とオスカー先輩を見てるの?と戸惑いを感じたところで、ハタと思い当ったことがあった。

『この前、エンジュは、自分は今まで誰からも必要とされたことがない、って言ってた、実際に現実にそうだったかどうかじゃなくて、あの子自身は、ずっと、そう感じて、そう思っていて…きっと、だからだわ、私とオスカーは心の底から互いを求めあい、自身を与えたいと思ってるし、お互いがこれ以上はないほど、大切なかけがえのない存在だから…つまり、私たちの結びつきは、彼女が、酷く欲して、でも、絶対に得られない、と思いこんでいるものなんじゃないかしら…』

そう思うと、アンジェリークは、どうにも、いてもたってもいられない気持になった。人が人との結びつきや繋がりを求め、心の通い合いや絆を欲すること、そして、誰かを大事にしたい、大事にされたいと思うのは当たり前のことだ、なのに、なぜ、彼女はあんな、何かに渇えた目をしているのに、最初から全て諦めたような目もしているのか。欲しいものは明確であろうに、どうして自分からは手を伸ばそうとも動こうともしないのか。ただ、待っているだけで、身動き一つしないで…手を伸ばし、自分から掴もうとしなければ、何も手に取ることなんてできないのに…なにか、もったいない、もどかしくてたまらないという気持になった。

と、突然、立ち止まってしまったアンジェリークに、オスカーが半分怪訝そうに、半分心配そうに尋ねた。

「どうした?お嬢ちゃん?」

オスカーに問われて、アンジェリークは、反射的にこう言ってしまった。

「オスカー先輩、あの、私と同じ、寮生が…寮に帰る子がいるんです、私がお願いできる立場じゃないんですけど、一緒に寮まで送っていってあげるわけにはいかないでしょうか?」

アンジェリークの申し出にオスカーは、正直、面食らった。嫌とかではなく、アンジェリークがなぜいきなりこんなことを言い出したのかいぶかしんだが、アンジェリークの行動には、必ず、それ相応の理由があるので、それをオスカーは質そうとする。

「お嬢ちゃんの友達か?」

「合宿中、同室の子だったんですけど、友達…かって言われると、んーと、私はそう紹介したいんですけど、あの子がそれを是とするかどうかは、ちょっと自信がないです」

「お嬢ちゃんにしては珍しい人間関係のようだな…でも、お嬢ちゃんは、その子を一緒に送ってやりたい…というより、一緒に帰りたいんだな?」

「はい、先輩、その、あの子を1人にしておくのって、あまり、よくないような気がして…あ、でも、逆効果かしら…私があの子を誘ったら、いやみとか見せつけてるって思われちゃうかな…んー、でも、何もしないよりは、思い切ってトライしてみたいっていうか、おせっかいって思われても、誘ってみたいんです、あ、もちろん、オスカー先輩が許してくだされば、ですけど」

「お嬢ちゃんが、そんなに迷うなんて、それもまた珍しいな…君が親しくしたいとは思っても、先方はそうではなさげなら、放っておけばいい、と言いたいところだが…俺の立場としては、そうすっぱりと切り捨てるわけにもいかんだろうな。俺も、君のその優しさに救われた男だからな。君の気のすむように、声をかけてみればいい」

「あ、ありがとうございます、先輩!えと…」

と、言いながら、アンジェリークはきょろきょろと周りを見回し、エンジュの姿を探したが、その時には、もう、どこにも、それらしき姿が見当たらなかった。どうやら、オスカーと話していた、ほんの僅かの時間に、彼女は、さっさとこの合宿所を出て帰路についてしまったようだ。

「先輩、ごめんなさい、せっかく私の我儘を聞いてくださったのに、彼女、帰っちゃったみたいです」

アンジェリークが見るからに萎れた風情で、恐縮しつつオスカーに告げた。

「そりゃ、悪かったな、俺が、四の五の言わず、すぐにお嬢ちゃんの願いに答えてやっていればよかったな」

なのでオスカーは、自分に非があるような口ぶりで、アンジェリークへの慰めの気持ちをこめて、この言葉を返した。この短時間に、この学生でごった返した周囲を見渡しても、全く姿かたちが見当たらないということは、その子は、控え目に言っても、かなり急いでこの合宿所を出たのだ、たぶん。多くの学生は数人づつで固まって、三々五々、おしゃべりしながら移動しているので、そんなに早くは動かないー今しがた、アンジェリークが姿を見かけた後、普通の速度で移動しているなら、まだ視界の片隅にその姿を捕らえられてもいいはずだ、なのに、その子の影も形も見当たらない、ということは、つまりは、その子は、まるで、そそくさと逃げるようにこの場を立ち去ったとしか思えなかった。その子が逃げるようにこの場を去ったことで、アンジェリークががっかりして傷心していたらかわいそうだと、オスカーは考えて、あえて自分を悪者のようにいったのだ。

するとアンジェリークは、大慌ててで、ぶんぶんと大きく首を横に振った。

「ううん、もともと私のわがままで、しかも唐突な思いつきでしたから…オスカー先輩が不思議に思われて、尋ね返されたのも当然ですもん。今思うと、衝動的で浅はかな申し出でした、ごめんなさい…なのに、私のわがままを先輩は快く受け入れてくださろうとして…オスカー先輩、本当にお優しい、大好きです、ありがとうございます…」

「大したことじゃない、礼には及ばんさ。お嬢ちゃんの希望を結局はかなえてやれなかったしな…だが、せっかくの、そのお嬢ちゃんの気持ちはありがたく頂戴しよう。ただしその礼は、後日、2人きりになった時に、改めて、たっぷりともらいたいものだな、お嬢ちゃん?」

耳元で、オスカーに甘やかな笑みを含んだ声音で囁かれ、そのまま、ちゅ…と、軽く頬にキスされて、アンジェリークはみるみる真っ赤になった。

「はい、先輩、喜んで…」

うるうると濡れたように潤んだ瞳と上気した頬、はにかんだ嬉しそうな笑みを添えて、アンジェリークはオスカーを見上げた。その瞬間、オスカーの胸には、新たな恋の矢が重ねて突き刺さった、そんな心持だった。そして、幸せなことに、オスカーがそんな気持ちにさせられるのは、これが初めてではない、それどころか、日々、アンジェリークを愛しく思う気持ちは、このような、アンジェリークのいじらしく健気で純真な愛情あふれる言動に新たに積み重ねられていき、厚みと深みを増していくばかりだった。

同時に、アンジェリークの多少なりともしょんぼりしていた気分を払拭できたようでよかったと、オスカーは思った。

自分自身が、過去、優しい気持から差し伸べてくれたアンジェリークの手を惨い方法で払いのけ、彼女をひどく傷つけ(そのことで、己も傷ついたが、それは自業自得なのでノーカウントだとオスカーは考えている)たことで、ひどい後悔と慙愧の念に陥ったことがあるから、たとえ軽微なものではあっても彼女に同じような思いは2度とさせたくない、してほしくない、という気持ちがオスカーは強かった。

自分の口説が、彼女の気持ちを少しでも上向かせてやれたなら、身に着いた気障も伊達も無駄じゃない。俺のコケットリーは、いまや、アンジェリークを楽しませ、明るい気持にさせるためにあり、そのためにこそ磨きをかけるものだと、オスカーは言いきれた。

「さ、では、せっかくだから、2人きりのドライブを楽しもうとしよう」

「はい、先輩」

気を取り直したように笑みを交わし合いー実際気持ちを切り替えて、2人は駐車場に向かった。少なくともアンジェリークは、エンジュを誘うのに失敗したのは残念でも、それは、一方で、オスカーと2人きりで帰れるということでもあるから、いつまでもくよくよしたりはしていなかった。物事には、大抵の場合、良い面があり、明るいとらえ方をしようと思えばできるものだし、アンジェリークは自然体で、そういうものの見方、考え方のできる少女だった。

合宿所の駐車場は数が限られているので、学生自身は車では来ないように通達されていた。なので、今、駐車場に止まっているのは、基本、迎えの車だけのはずで、新入生の数に比すれば決して多くはなかったー恐らく学生の8割は公共の交通機関を使うようだーそれでも、まばらというには、車の数が多い。それだけ裕福な家庭の子弟が多いという証左であろうし、自分のように、ステディの子を迎えにきているものもいるのだろう。

オスカーが車のロックを解き、アンジェリークのバッグを狭い後部座席に置きつつ、アンジェリークに向けては助手席の扉を開けようとした。その時、アンジェリークが、突然、何かに脅えたように、オスカーの背に隠れ、オスカーのシャツをきゅっとつかんだ。

「どうした?お嬢ちゃん?」

今日聞くのは2回目、しかも、今回は、本気で心配の度合いの高い口調でオスカーが尋ねた。アンジェリークの様子がただならないものに思えたからだ。

と、アンジェリークは、自分がオスカーのシャツの端を必死にしがみつくように握っていることに、初めて気づいたようで

「や、やだ、私ったら…ごめんなさい、先輩」

と、自分の振る舞いに戸惑っている、が、オスカーの背後に隠れたがっているような仕草、オスカーに救いを求めるような雰囲気はどうにも消えない。

オスカーは、アンジェリークの身を体全体でかばうようにガードしながら、注意して助手席のドアを開け、開けるや、急ぎ、アンジェリークを助手席に押し込むように乗せた、直観的にそうした方がいい気がして。同時に、アンジェリークが何に怯えているのか、周囲をそれとなく見渡してみた。が、獰猛そうな大型犬のようなものや、見るからに怪しげな人相風体の人物は…どこにも見当たらない。駐車場には、ちらほらと、車に向かい、また、乗り込む幾つかの人影があるだけだった…が、その中に、ひときわ、人目を引く男がいることにオスカーは気付いた。白銀の髪に黒を主体にした服装はコントラストが鮮やかで、容姿もそれなりに整っており、所謂美男の部類のようだ、学生にしてはトウが立って見えたので、留学生らしい。が、彼が異彩を放っているのは、彼自身の容貌や身なりよりも、その同行者だった。黒っぽい地味なスーツ姿の男性が、銀髪の青年にぴたりと張り付くように寄り添っている、が、よそよそしくぎこちない雰囲気で、青年の保護者ともおつきの運転手にも見えない。強いていえば護衛、いや、むしろ監視?役?のようにもみえ、何ともいえぬうろんさ、険呑さを、滲ませていた。オスカーは、アンジェリークはあの2人連れに反射的に危ういものを感じ、おびえたのだと、これもまた直観で感じとった。

と、オスカーの視線を感じたのか、銀髪の青年が、こちらをちらと見、すぐにふいと、視線を外した。視線を向けても何も見ていない、もしくは、塵芥のように目を止める価値もないものが目に入った、そんな眼差しだった。オスカー自身は、どんな目で人から見られようと、気にしないが、道端の石ころよりも、つまらない無価値なもの、と、自分が判断されたことを瞬時に察した。

「…先輩…」

と、アンジェリークが心細げな声で、車中からオスカーに声をかけてきた。中々運転席に乗り込もうとしないオスカーを案じるように。

「お嬢ちゃん、顔を出すんじゃない」

オスカーは小声で、だが、断固とした口調で、アンジェリークがウインドウを開けて顔を覗かせようとしたのを制した、なぜだろう、あの青年の視界にアンジェリークを置きたくない、それは極めて危険な気がしてならなかった。

「待たせたな、さ、帰ろう」

何でもない風を装い、急ぎ、だが、慌てずにオスカーは車に乗り込み、なれた仕草でエンジンをスタートさせた。発進は滑らかだが、この車の特性として、豪快なエンジン音と派手な排気音があがった、オスカーはこの時ばかりは、派手な音を立てる自車に舌うちしたくなった。目立たず、なるべくなら人の目をひかずこの場を立ち去りたいー否、あの2人連れの注意を惹きたくないのだ、と自分ではわかっていた。というのも、オスカー自身が、手はクラッチを切り替えつつ、目では、あのうろんな2人連れの動向を追ってしまっていたからだ。

と、あの銀髪の青年が黒塗りの車ーオスカーのようなスポーツタイプのクーペではなく、会社重役の送迎に好んで用いられそうな重厚かつ高級なセダンタイプの車の後部座席に乗り込み、随身?によって、ドアが閉じられたところだった。

オスカーはその光景に我知らず安堵の吐息をつきながら、ゆっくりとアクセルペダルを踏み、その車をやり過ごして駐車場の出口に向かわんとした。銀髪の青年の乗り込んだ車とすれ違う時、視界の端に見えたものが、何か、神経に引っかかった。あの車、ナンバープレートが…色も形状も一般乗用車のそれとは異なって見えるーあのプレートは外交官ナンバー用のそれではないだろうか?

よく確かめたい気持ちはあったが、一刻も早くこの場を立ち去りたいーオスカーが、というより、アンジェリークをあの2人連れから見えない処に、とにかく距離を置きたいという気持ちが強かったのと、ここで、車を一旦止めてナンバープレートを確認することで、向こうの注意を惹きたくはなかったので、オスカーは、気がかりはそのままに、車を駐車場から出すことを優先した。バックミラーでの視認も試みたが、距離と角度の関係で、はっきりナンバープレートを確認することはできなかった。もう公道に出るというところで、オスカーは、車の運転に意識を集中させようと、気持ちを切り替えた、いや、切り替えようと努めた。

一般道から高速道路に入ったところで、オスカーは、改めて安堵の吐息をつきそうになったが、その時、オスカーの心中を察してタイミングを測ったかのように、アンジェリークが、長々と、明らかな安堵の吐息をついた。その時、今までずっと、息を殺したように黙りこくっていたことに、2人同時に気づいた。

「お嬢ちゃん、もう、心配はいらない」

「!…オスカー先輩、私が怖がっていたのを知って…?」

「知った、というより、感じた、だな。お嬢ちゃんの怯え、その対象を…何者だ、あれは…うちの学生とは、到底思えん。何しに学校に来たって感じだった…」

「あの…あの…多分ですけど、留学生じゃないかと思うんです、学部別に着席する食堂では、私と同じ比較文化学部のテーブルについていたし、ずいぶん、年上みたいに見えたから…。それで、よく知りもしないのに、人に対して偏見をもっちゃいけないと思うんですけど、あの人、何か…雰囲気が怖くて…ガイダンス中も食事中も、誰からも話しかけられたくない、誰にも話しかける気はないって感じで…私見ですけど、なんだか、来たくもないのに、無理やり、この学校にいれられたって感じに見えて…」

「…留学生なら、それも、ありうるな。放蕩が過ぎて、反省か見せしめに、有無を言わさず、この学園に叩き込まれたとか、いかにもありそうな話だ」

あの外交官ナンバーが俺の見間違いでなければ、それこそ、外務省経由で預かったどこかの国のVIPもしくなその子息、ということも十分にありうる、が、問題はそこではない。嫌々学校に来させられて、自棄になっているどこかのバカ息子ORどら息子、というだけならいいのだが、それにしては、あの青年の剣呑な雰囲気や、まとわりつく虚無感が、オスカーには、どうにも気がかりだった。

「お嬢ちゃんは、あの男と同じ学部か…嫌々この学園に叩き込まれて、ふてくされてる、というだけなら、いいんだが…ただ、お嬢ちゃん、ああいう輩がクラスメイトにいようがいまいが、比較文化学の講義に出る時は、必ず、誰かと一緒に出て、誰かと一緒に教室を出るようにしてくれ。俺のハートが心配でつぶれちまわないようにな」

「あ、はい、必ずそうします、私もちょっと心細いし…」

「ああ、ぜひそうしてくれ」

そういいながら、オスカーは、やはり、急ぎ、彼女の安全を図るものを開発し、身につけさせねば、と思った。理屈ではなく、何か、嫌な予感がしてならないからだった。

 

 

そのころ、当のエンジュは、一人ずんずんと、足音荒く最寄りの駅に向かって歩いていた。周りを見ず自分の足元だけを見つめて、誰にも話しかけず、誰からも話しかけられずーとても話しかけられるような雰囲気ではなく。

アンジェリークと視線が合い、身がまえたー声をかけられそうで、怖くて。が、先日見かけたアンジェリークの恋人らしき男性がーこの前、車の中にいる処を見かけただけでも、かっこいいらしいのはわかっていたが、間近で見ると、一段と際立って見えたーアンジェリークに声をかけ、彼女の視線が一瞬、自分から外れた隙に、一目散にその場から立ち去ったー逃げ出した。

アンジェリークに声をかけられ、あの素敵な恋人を紹介されたりしたら、自分がどのように紹介されるかも気がかりだったし、自分がみじめでならなかったろうから。

周りの人たちもうっとり見惚れていたけど、自分も、あの2人に見惚れてたのを、気づかれたって思って「しまった!」って思って、そう思った途端、たまらなくみじめになった。あの恋人が素敵な男性だから羨ましいから、自分がみじめ、なのではなくてーそれもあるけどーあんな風に大事そうに誰かから見つめられたことも、心から大切そうに、愛情と信頼のこもったまなざしで互いを見つめあうことなんて、自分には誰とも1度もなかったし、きっと、これからもないんだろうなって思ってしまったから。

『アンジェリークみたいにかわいい人は、私とは違う、もともと別世界の人だもの、あの素敵な人とも私には縁のないようなところで知り合ったに違いないものー社交界とかーああいう人たちは、つまり、最初からステキな出会いの機会に恵まれてるのよ、でも、みっともなくて、お金持ちでもない私には、出会いそのものがない、だから、素敵な恋人なんて、できるはずがないのよ』

そう思わないとー境遇が恵まれてないのだと思わないと、やってられない、でも、そう思うことも何か腹立たしくて悔しくて、不公平だ、ずるい、という気持ちが抑えられなくて、だから、怒ったような足取りで、睨みつけるように足元だけを見て歩かずにはおれず、その雰囲気に恐れをなして、合宿中にできた顔見知りに、声をかける余地さえ与えない。

そういう態度が、ものの考え方が、人とのつながりを、作ろうと思えば作れる絆を、自ら拒否していることに、エンジュは気づいてさえいない。

「でも、でも、私だって…もし、ボランティアとかに参加したら…アンジェが言ってたみたいに…」

その時、エンジュの頭の中には、合宿の間中、孤高を保っていた銀髪の青年の姿があった。

留学生なら、周りに知る人もいなくて心細いだろうし、この国に慣れてないから、私が田舎者だってわからないだろうし、それで、馬鹿にすることもないんじゃないかしら。そういう人たちの間でなら、私、自信を持って、振舞えるかもしれない、だって、みんな、私以上にこの国のことは知らないはずだし。それで、何か、役に立てたなら、私、留学生の人と親しくなれるかもしれないし、それこそ、恋仲になって、その国に来てくれって言われることだったあるかもしれない。

この国の、この首都では、私は、どうしたって、野暮ったくって、みっともない田舎者だけど、よその国に行けば、そんなの関係なくなる。あの田舎を出て、この学校に入れば、私も認められるって思ってたのに、実際には、私は、ここではただのみっともない田舎者で、全然、自分に自信なんてもてないけど、外国に行けば…きっと、もうみじめな思いをしないですむんじゃないかしら。

ここではないどこか行けば、きっと、自分は認められて幸せになれる。

故郷からこの学院に来る時も同じことを考えていたことを、エンジュは、すっかり忘れていた。


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