今朝のことだ。集合時間には、まだ少し余裕がある頃合いだった。エンジュが合宿所の玄関口を探し、アプローチであろう歩道を歩いていた時、自分の脇を黒い車がすっ…と追い抜いていき、ロータリーのエントランスで止まった。すると、昨日、自分に声をかけてきた金髪の少女が、その黒いスポーツカーの助手席から降りてくるところが見えた。エンジュは、思わず、物陰に隠れたくなった。1番会いたくない人物の姿を、よりによって、朝一番に見かけてしまうとは…。あの少女に自分の姿を認められ、声をかけられて昨日のことを話題に出されたら、そして、それを誰かに聞かれたら…人に背中を押してもらわねば、逃げかえる処だったとか、挨拶もろくにできない意気地なしと、周囲にばれてしまうかもしれない、それが怖かったから、彼女が合宿所に入ってしまうまで、とにかく、やり過ごそうと、エンジュはとっさに考え、その場で脚を止めて待った。
少女を注視しているうち、車の運転席には、目のさめるような紅髪碧眼の美青年ーというよりは男性的かつ野性的な美丈夫がいることに気づいた。そして、その美青年は、車のウインドウ越しに金髪の少女を手招きすると、いかにも愛情のこもったキスを別れしなに贈ったのだった。その後、少女は真っ赤に頬を染めて、車が見えなくなるまで手を振っていた。
まるでメロドラマだ。現実にこんなことがあるとは、エンジュは信じられない思いだった。
あんなかわいい少女には絵に描いたような美青年の恋人がいて、人前でも平気でキスなんて見せつけちゃうんだ。昨日、声をかけられた時、こんなかわいい愛らしい女の子、みたことないって思ったけど、別世界の人だって思ったけど、そういう人には、お決まりのかっこいい恋人がセットでついてくるものなんだ、ほんと、映画とかドラマみたい。
その様子を見かけたのだろう、何人かの女子学生がキャーキャー言いながら、うらやましいとか素敵ねーとか騒いでいた。
『私には関係ないし』とうそぶくように自身に言い聞かせながらも、恵まれた人は、とことん恵まれているものなんだ、世の中って、なんだか不公平な気がする、私は、悪い噂が聞こえてこないか、気になって仕方ないのに、あのかわいい女の子はかっこいい恋人がいて、羨ましがられて噂されてる…と思うと、なんだか釈然としなかった。そんな心境のまま自室を探しだし、荷物をあてがわれたベッドの上に置いた。合宿所が6人部屋だとわかり気がおもくなった。2人づつに小分けにされている寝室を見て、もっと気がおもくなった、知らない人と2泊とはいえ、間近に顔突き合わせて暮らすのは、わずらわしく、うっとうしかった。また、自分では何が問題なのかもわからぬ点で、呆れられたり、絶句されたり、笑われたり、嫌な顔をされたりしないか…二泊三日の間に、どうか、そんなことになりませんようにと、祈りつつ、とりあえず集合場所の食堂に向かい、自分の学部を探して席についた。あの金髪巻き毛の女の子程ではないにしても、周囲の女の子たちが、みな、かわいらしく見えたのと、昨日の自分の軽挙妄動がばれていないか気になって、小さく縮こまって、オリエンテーションが始まるのを待っていた。
その時、隣の学部だろうか、どこかの女の子たちの「どこかの国の王子様が留学に来てる」という夢みたいな話が耳に入ってきたのだった。エンジュは思わず、そのおしゃべりに耳を傾けた。
王子様か、王子さまなら、私みたいに、みなりや容姿に劣等感や居心地の悪さを感じたりしないだろうし、悪く噂されてるかも、なんて心配すること自体ないんだろうな、あの女の子もそうだけど、恵まれてる人はどこまでも恵まれてて、私みたいにみっともない子は、どうやってもみじめで、何をやってもうまくいかなくて、そんな風に不公平なのが世の中だっていわれたらその通りなんだろうけど…どうして、こんなにも不公平なんだろう、世の中は、だって、私以外の新入生は、みな、私と住む世界が違うとしか思えない、みな、自信がありそうで、キラキラ輝いて見える。
そんな風に考え、考える程に世の不公平に怒りに似たものを感じる。そして、住む世界の違う別人種のたくさんいるような学校に自分が来てしまったことを、いや、ここしか、行く場所がなかったことを、エンジュは、またもみじめな思いで思い返していた。勉強さえできれば、真面目にがむしゃらにがんばってさえいれば認められ、重んじられ、一目おいてもらえると思ってきた世界は、自分の知らないきらきらした価値観で測られ、優劣をつけられる世界に思えて、身の置き所を、エンジュはみつけられていなかった。
新天地と思って来た場所にも、なじめない気がして居心地が悪い、私が落ち着いて「ここが私の居場所」って思えるところって、この世にいったいあるのかしら?
エンジュは、どうしても打ち消せぬみじめな気持ちにさいなまれながら、教務の職員が壇上にあがり、オリエンテーションが始まったことにほっとした。
だってエンジュは、昨日のことで、いつ誰から非難がましい言葉を言われやしないか、直接ではなくとも、どこからか、自分の悪い噂ー挨拶をすっぽかして帰ろうとした今年の新入生代表の噂が聞こえてきやしないか、いやで怖くてたまらなかった。だから、ぎりぎりまで寮の自室に閉じこもり、今もこの食堂では誰にも声をかけず、なるべく人から離れるように腰かけて、顔をあげずにうつむいて…でも、周囲の賑やかで楽しそうな喧騒は否応なく耳に入ってくるー今みたいにー。私以外は、誰もかれも楽しくおしゃべりする人がいるんだって思い知らされる、私は自分が噂の種になってやしないか怖くて、誰にも話しかけられない、話しかけられるのも怖いのに…と、エンジュの孤独感と孤立感はいや増す一方だった、でも、オリエンテーションが始まれば周りのおしゃべりも止む、そうしたら孤独感をその一時は忘れられる、それにガイダンスの間は、見知らぬ人に後ろ指を指されたり、笑われたりする心配も無用になるから、自分もようやく顔をあげられる。
そう思って、おずおずと顔をあげ、壇上に目を向けようとして、エンジュは、2列となりのテーブルの突端に、ぽつんと、周囲から1人離れて座っている人影を見つけた。超然とした様子で、腕組みをして、周囲と親しげに交わる様子のないその青年は、エンジュと同じように孤独で、でも、自分とは違い、悄然としたり打ちひしがれている様子は微塵も見受けられなかった。
『私の他にも、この晴れやかな場所で、1人の人もいる…でも、あの人は、私と違って1人でいることをみじめと思ったり、寂しいとは感じてないみたい…いいな、うらやましいな、私も、あんな風に1人でも毅然として、強く自信をもてたらいいのに…』
と、我知らず、エンジュは憧れの気持ちを、その見知らぬ青年に抱いていた。エンジュは、自分は強いられた「孤独」ー本当は自分が招き寄せている「孤独」なのだがーに甘んじているだけだが、あの青年は自ら誇りをもって「孤高」を選び、だから1人でも毅然としていられるように、エンジュには見えたのだ。
エンジュは、ガイダンスに耳を傾けながらも、その青年の姿を、ついつい眼で追っていた。
そのテーブルに並ぶ学生が、他学部の比でなく、人種的にも年齢的に多種多様を極めていることだけは見てとれたが、それがなぜなのか、は、わからなかったし、そも、疑問に感じることもなかった。
履修科目に関する最初のガイダンスが終わった時、言われたことを命じられた通りに勉強してさえいれば評価された高校生の時はよかった…とエンジュは、繰り言を胸の中でつぶやかずにはいられなかった。
『私、自分の時間割をきちんと組み立てられるられるかしら、履修科目を一人で選んで決められたとしても、きちんと出席して単位をとれるかしら、自信ない…』
科目履修の注意点はエンジュにとっては複雑に思えた。完璧に理解把握できたとはいえなかった。履修用の時間割を配られ、眼を通してみたものの、何に注意して履修科目を決めればいいのか、よく、わからない。
でも、時間割の見方をよく理解できなくたって「とりあえず月曜日の一限から順番に金曜日の6限まで、空き時間のできないよう、授業をとってしまえばいい、とりあえず授業に出さえすれば良い成績を収める自信はあるし、きちんと出席して良い成績を収めれば単位はもらえるはず、そうすれば問題なく進級できるし、これを繰り返せば、ちゃんと卒業までいけるはず」と考えた。
が、ガイダンスが進むうちに、学科によっては前期で終わる科目もあれば、後期のみの科目もあり、無論、通年のものもあるが、その中にも前期と後期で曜日や時間帯が変更する科目もある、なので、学期初めの時間割のみ見て、履修予定を申請すると、Wブッキングで講義が受けられない=単位を落としてしまったり、見込み違いで後期に時間が空きすぎて、1学年中に取るべき履修単位が不足したりという事態に陥ることもあるらしい、2年次進級直前になって履修の不備に気づいて、慌てて学生課に泣きついてくる者がたまにいる、と、言われてエンジュは、混乱したし、怖くもなった。履修用の時間割をもらったはいいが、それを見ても、自分が何曜日の何時限に、何の科目をとるのが最適なのか、とんと見当がつかない。片っ端から空欄を埋めることはできるが、そうしたら、自分がその「気づかない内に単位が足りなくて、進級できないうっかり者」になりそうで、今から怖くてたまらない。
エンジュは故郷では所謂「優等生」だったが、それは「命じられたこと、規定の科目をきっちりこなすのが得意」という意味での優等生だった。自らで目標を設定し、それに向けて「何をどうすればいいのか」自分で道筋を考える、という先行きの見通しを立てることは、正直苦手だった。優先順位をつけること、物事には達成するための段階があることはわかっていても、その段階を決めるのが…何が1段目なのか見極められない、よしんば1段階目をクリアしたとしても次にどこに進み何をすればいいのか、わからない。1段目はここ、2段目はここ、と指示されれば難なく上がれる階梯も、自分で順番を決めてあがれ、と言われると混乱し、立ちすくんでしまうのだ。今までは言われたことをきちんとやっていれば高評価を得られたし、たまさか優先順位をどうつけたらいいかわからない時は、とにかく、がむしゃらに、量をこなせば、なんとかなった。が、この大学では、単純な「勉強の物量作戦」では、失敗することもあるらしい。
じゃ、どうすればいいんだろう、というのがエンジュにはわからない。学生課の職員に聞けば、アドバイスをしてくれるのかもしれないが特待生として奨学金を受け取って勉強する自分が、履修の仕方もわからないなんて言ったら軽蔑されやしないか、延いては能力不足を疑われ懸賞金資格を取り消されやしないか、それも心配になってしまう。
不安な気持ちを抱え、でも、それを誰にも言えないまま、時間割とにらめっこしていると、休憩時間をはさみ、次の単元、いくつかのサークルが活動内容の紹介をするコーナーが始まった。今日紹介されるのはサークルの1部のみだ、「○○部」や「××同好会」という名をもつ所謂サークルだけでなく、ボランティア活動や各種委員会も含めると、課外活動数は多種多岐に及ぶので、それら全ての紹介及びPRは3日に分けてなされるのだ。そしてエンジュはこの1日目のサークル紹介だけで、目が白黒してしまった。大袈裟でなく文化部・運動部ともに多種多様だった。ゴルフや馬術が部活動として成立するなんて、エンジュは考えたこともなかった。「わんげる」なんて、聞いたことのない名前のクラブが登山部だというのを理解できたのは、勧誘&宣伝スピーチが終わる頃だった。文化部の音楽関係だけでも、オーケストラ以外の楽器演奏…たとえばマンドリンや二胡なんていう故郷では見たこともない楽器だけの合奏部があったり、和太鼓という巨大な打楽器のみを演奏するクラブもあったりして、エンジュはぽかーんと感心しながら、そのパフォーマンスを眺めるので精一杯だった、自分があれら、どれを見ても華々しいサークルの1員となるなどと想像もつかない。「大学に入って初めて活動したという人もたくさんいるので、未経験や初心者でも大丈夫」と、サークル宣伝者の多くはPRしていたが、そんなセリフは信じられなかった。不格好な自分が、先輩の指導を受ければ、ダンス部の人たちみたいに華麗なステップを踏めるようになるとは思えない。不器用な自分が、触ったこともない楽器から優美な音色を紡ぎだすことができるなんて、到底信じられない。
あらゆる意味で圧倒され、頭の中は飽和状態になったところで初日のオリエンテーションは終わった。どのサークル活動も華々しく活気にあふれ憧れを誘わずにはいない一方で、華やかだからこその気後れと場違い感に苛まれながらエンジュは自室に向かった。そして、そこで初めて3日間のみのルームメイトと顔を合わせた時、エンジュは「ああ、やっぱり私は運が悪い、恵まれてない人間は、どこまでいっても不運なんだわ」と思わずにいられなかった。
エンジュと同室の6人の少女の中で、さらに同じ間仕切り内の寝室を使うのは、入学式の時、自分に声をかけてきたあの子、今日は今日で、目を見張るような素敵な男性に送られてきた、あのとびきりキラキラしてるかわいい金髪の女の子だったからーそう、自分が責任ある立場から逃げ出そうとしたという弱みを知ってる、あの少女だったからだ。
その愛らしい少女は割り当てられた自分のベッドの上で荷物の整理をしているようだった。何気ない日常の所作・振る舞いのはずなのに、どこか優雅で上品な身のこなしに見える。しかも、その少女が広げる荷物からか彼女自身からかわからぬが、微かだが、ふんわりと何ともいえぬ甘い芳しい香りが漂ってくるようで、エンジュは部屋に入ることも忘れ、ぽーっと、その少女の立ち居振る舞いにしばし見入ってしまった。すると、何かの拍子に顔をあげたその少女と眼があった。エンジュは何もやましい処などないのに、つい、目をそらし、顔を伏せようとしたが
「あ、改めて、こんにちは、エンジュさん。お話するのはこれで2度めだけど、私の方は自己紹介がまだだったわよね?私はアンジェリーク・リモージュ。比較文化学部の学生よ。これから3日間よろしくね」
と屈託ない笑顔で笑いかけられ、エンジュは、自分がどう切り替えせばいいかわからず、固まった。こんな風に、自分から滑らかによどみなく挨拶するどころか、晴れやかな笑顔で話しかけられたことに、どう応えていいかさえ、わからない。エンジュの思考は、己が拘る1点のみに集中していたからだ。私がこの子を覚えていたように、この子も私のことを覚えていた、覚えているのに、昨日のことなんて何でもなかったことみたいに、普通に朗らかに話しかけられた、どうして…?
黙りこくり、固まってしまったエンジュに、アンジェリークは、慌てたように寝台の脇に身を寄せた。
「あ、私が、ここにいると邪魔?部屋に入り辛い?」
エンジュは、慌てて、首を横に振った。眼前の少女は華奢で、幅をとってるなんてことは全くなかったからだ。でも…華奢なのに、貧相とかやせっぽちって感じはしない、むしろ、ふっくらとまろやかな雰囲気って言うのかな…ほんのりあたたかで、しなやかで軽やかで…春の日差しの妖精みたい…そう、反射的に感じた。エンジュは、ますます、どう振る舞えばいいのか、何を話せばいいのか、わからなくなった。
相変わらず、黙りこくって、突っ立っているエンジュに、アンジェリークと名乗った少女は、心配そうに話しを続ける。
「あ、ごめんなさい、私があなたのこと覚えてても、エンジュさんがそうとは限らないのに、馴れ馴れしく挨拶しちゃって…私、昨日の入学式の時、少しだけど、あなたとお話したの、私とあなた、元々、名前の綴りが似てるし、昨日、思わず、声をかけちゃったあなたと合宿中同室だってわかったものだから、不思議なご縁があるのねって思って勝手に親しんだ気持になっちゃってたみたい。当惑させたか、不愉快な気にさせたのなら、ごめんなさいね」
エンジュは、またも、黙って首を横に振る、それしかできない。なぜ、この少女は、こんなにも親しげで、朗らかで、物おじせず人懐こく話しかけてくれるのかがわからない。
だって、それなら…私のみっともない姿を覚えているはずよ?今「昨日話した」ってはっきり言ったもの、なのに、なんで、こんな普通なの?私、逃げかえろうとしてたことを誰かに言いふらされたらどうしようって、心配で仕方なかったのに。まるで「そんなことなんでもない」って顔で私に親しげに笑いかけてくるなんて…。「私のおかげできちんと挨拶できたくせに」なんて思わないの?思ってないの?
そう思ってはっとした、そうだ、私、きちんとお礼も言ってなかった。エンジュは慌てて頭を下げ。
「あの…昨日はありがとう」
ようやく、この短い言葉をどうにか紡いだ。
アンジェリークはきょとんとしてエンジュを見つめ返した。なぜ「ありがとう」と言われたのか、理解できていないようだった。
「その…私に声をかけてくれて…」
アンジェリークの顔が、ぱっとにこやかに綻んだ。花が咲いたみたいって、こういうことなんだ、とエンジュは感じていると
「あ、ううん、あの時は、あなたの具合が悪いのかと思ったから…でも、なんともなくて、よかったわ」
そう返されて、エンジュはまたも混乱した、この子、本当に単純に見ず知らずの私の体調を心配しててくれたんだ、その上で、私の支離滅裂な言葉に辛抱強く耳を傾けてくれて、だから、私、落ち着けて…
「あの…昨日、あなたと少し話したおかげで、私、落ち着いて挨拶できた…みたいなんです…だから、それも、ありがとうって…思って」
すると、アンジェリークは、心底びっくりしたような顔をしたが、すぐ、にこやかにほほ笑みながら「ううん」とでも言うように、軽く首を横に振った
「改まってお礼を言われるようなことじゃないわ、だって、私、この学校が…スモルニィが大好きなの、だから、あなたにもこの学校を気にいってもらえたらいいな、って思ったの、それだけなの、大勢の人を前にして、挨拶するって思ったら緊張するのは当たり前だし、私も転校ばかりしてたから、ちょっと気持ちわかるって思ったし…でも、それ以上に、このスモルニィが誰かに恥をかかせたり、笑い物にするために人を壇上にあげるなんて、絶対ないと思ったから、失礼だけど、あなたの誤解って言っちゃっていいかしら?その誤解を解いてもらいたいって思っただけだから…んー、突き詰めると自分のためって言えるかも?だから、気にしないで」
「……」
エンジュはますますどう応対すればいいのかわからなくなった。眼前の少女の言動は、エンジュの予想や知っているものから、ことごとく外れていた。この学校が好きだから、誤解を解きたい一心で、自分の支離滅裂な言いがかりを辛抱強く聞いて、気持ちを落ち着かせてくれたというのも驚きだし、「私のおかげで無事挨拶できたんでしょ、感謝しなさい」みたいな気持ちは、本当に、全然ないみたいだし、自分の無責任な振る舞いを非難する気は、もっとないらしい、というのも驚きだった。
エンジュは、傍から見ると衝動的で突飛な言動の多い子だった。ほんのちょっとした事象から自分の頭の中で自分だけの物語を作りあげる。作り上げた物語は自分にとっては「真実」であり、自分の中で理屈も通り整合性があるので、それに沿って行動するーそれこそ昨日の「田舎者だと笑い者にするために自分は代表に選ばれた」と自分で勝手に作った物語を自身は「真実」と信じ、挨拶を放り出して帰ろうとしたことはその典型だったーが、周囲には、彼女なりの物語も理屈もわからないので、結果、呆れられたり説教されたり…なら、まだいい方で、白眼視されたり、非難・叱責されることも間々あった。だから、エンジュは、昨日から、ずっと、それを恐れていたのだ…なのに、どうしたことだ、これは。
昨日の自分の振る舞いを誰彼に言いふらされてやしないか心配してたのが、ばかみたいだと、エンジュは鼻白む思いだった。同時に、とても、いたたまれない、居心地の悪い気持になった。「自分が、周囲からどう見られ、どう思われるか」を真っ先に考える、というより、それしか考えられない人間は、意識が自分自身にしか向いていないので、周囲を気にしているようでいながら、実際は、周りの状況をよく見ていない、畢竟、その振る舞いは突飛で唐突で、利己的なものになることが多いと、いうより、そうならざるをえない。当然、見ず知らずの他人の体調を案じたりしないし、そも、そういう発想が浮かばない。ましてや、エンジュにとって、まだ、このスモルニィは余所余所しい他者でしかなかったしー親しい身内同然の存在が過去自分にいたかどうかは、また別としてーいや、故郷の母校にしても人にどう思われるか、なんて、それこそ、考えたこともなかった。エンジュにとって大事なのは、自分が人にどのように見られ、どう思われるかだったから。
『何か、違う…この子、私と、人として、根っこの所が、何か、こう、全然違う気がする…』
一人、他と慣れ合わず、誇り高く孤高を保つ青年の姿勢にはあこがれる一方、エンジュはその姿勢を理解できる、あんな風に、自分も孤独でも揺るがず動じず負けずに在りたいとさえ願う「在り方」だから。でも、ここまで人間性の根幹が異なると、物の見方・考え方、立っている軸足が異なると、ただ、圧倒されるという思いしか頭に浮かばない。
と、そこに
「いつか、あなたがここを…スモルニィを好きになってくれたら、私もうれしいわ」
と、一点の曇りもない笑顔で付け加えられ、エンジュは完璧に「かなわない」と思った。酷い敗北感に打ちひしがれた。
この子「アンジェリーク」って言ったっけ、アンジェリーク…天使みたいなって意味よね、名は体を表すってこのこと?見た目だけじゃなくて、この子って気持に染みや汚点が一つもないみたい。綴りが似てるって言われたけど、私なんかと全然違う…
エンジュは、そう思い、そう思うと、なぜか、自分が、とてもちっぽけで、みじめで、情けなく思えた。鼻で笑われたわけでも、舌うちされたわけでもないのに。親しげに話しかけられただけなのに、こんなにみじめで、居心地悪い気持になったのは、初めてだった。
と、部屋の外…といっても開け放しの間仕切りの外という意味だが…がざわつき、どやどやと数人の女生徒が入ってきた。同室の、でも別の寝台を使う他の学生だろう。
「あ、他の人も来たみたい。挨拶に行きましょ!」
アンジェリークがごく自然なしぐさでエンジュの手を取って中央の談話室に向かった。あれよあれよという間もなく、気がつけば、エンジュも他の女生徒と、しどろもどろながらも挨拶を交わし、控え目にーアンジェリークのように自然な飾らない感じのいい笑顔で打ち解けて自己紹介をするなんてとてもではないけどできなくて、かちこちになって、名前と学部を名乗るでの精一杯だったがーとにかく、エンジュが最も苦手な見知らぬ人との初顔合わせは、すんなりと、つつがなく終わった。何も構えることなくーいつもなら、自己防衛意識が強すぎて、初対面の人間には、攻撃を恐れて頑なに殻にこもったように振舞うか、その反動で刺々しく警戒心の塊になるかという極端な態度しか取れないのだが、ゆえに、なんとなく鼻白まれてー敵意や警戒心というのは、口に出さなくてもなんとなく周囲には伝わってしまうのでー人目を気にする割には、中々他人と親しくなれないエンジュだったが、この時は、アンジェリークの勢いに乗せられたように、身構える暇もなく、挨拶できた。このおかげで、とりあえず3日間の合宿中、普通に会話できる知り合いができたことに、エンジュ自身は気付いていなかった。
3日間の合宿中、昼間は、さまざまな説明、注意事項の徹底、レクリエーション行事などで、結構忙しく眼まぐるしく過ぎていく。そのガイダンスの中でも新入生がことに楽しみにしていたのは、やはり、各サークルの紹介だった。アンジェリークも「大学の部活動って、こんなに色々な種類なあるのねー」と各サークルの熱のこもったPRを見る度に感心していた。
初日に、アンジェリークの友人であるランディは体操部のデモンストレーションとして、食堂のテーブルを全部後方に片付けさせたのち、見事な床演技を披露して拍手喝采を浴び、そのすぐ直後に、今度はゼフェルの操るロボットが、今しがたランディの演じた体操技を寸分違わず真似て見せ、同じ程の拍手喝采を浴び、挙句に「体力には自信ねーが、手先の器用さには自信のある奴ぁロボット工学研究室にきやがれ!自分でバック転する必要はねー、ロボットを操って、汗をかかずに人気者になろうぜ!」とぶちあげ「そりゃないよー、ゼフェル〜、あ、逆に、手先に自信はないけど体力に自信のある新入生は、ぜひ、体操部で人気者の座を目指してくれよなっ!」とランディがぼやき突っ込みをいれるという漫才のような一幕もあり、新入生たちに大いに受けた。
これ程受けを狙わなくても、各サークルのデモンストレーションはどれも趣向に富み、見ていて楽しく、憧れを掻き立てるものだった。ダンス部は優雅なモダンダンスと情熱的なラテンダンスを披露して新入生にため息をつかせ、応援団とチアリーディング部は合同で応援エールとチアダンスを披露する、文化部の美術部、写真部は作品は掲示しつつ、天文部と合同で天体観測及び作品制作のため、夏期は山間部に合宿することや、鉄研は「ご当地グルメ」を食す楽しみを訴えるなど、一見地味目に見える文化部もサークル活動の楽しさを目いっぱい宣伝してくれる。マンガ研究部や文芸部は会報を自由に閲覧できるようにおいていってくれた。
なので同室に限らず女の子たちの自由時間の話題はもっぱら「どのサークルに入る〜?」となる。
こういう時の女の子の情報網は侮れない、特に学生の半分を占める内部進学生は大学の先輩に知己が居る者も多いので、それぞれのサークルの宣伝はされない内部情報にくわしかったりで、お互い、情報交換に余念がない。
なので、アンジェリークは周囲の女の子たちのおしゃべりをそれとなく聞いているだけで、色々なサークルの特色がよくつかめた。例えば、部費がだんとつに高額なのは、馬術部、ついでゴルフ部らしいが、部費自体はそれほどでもなくとも、オーケストラ部では、部員たちは演奏の技術向上のため個人レッスンを受けている者が多く、楽器もできれば良いもので演奏したいと思うからだろう、部費以外の個人的な出費が馬鹿にならないらしい。しかも担当楽器の人数は決まっているので慣れ親しんだ楽器をそのままやらせてもらえるとは限らない、バイオリンしか触ったことのない人がビオラに回されたりするし、そうすると、尚更個人レッスンを受けないと、練習についていけないし、演奏会にも出してもらえなくなるので、色々な意味で切磋琢磨に励まざるをえないらしい。ダンス部も衣装や靴は全部自前だ。なので、サークル活動費を稼ぐためにアルバイトに精を出す者も多いという。自分の大学生活の重きをどこに置くか…サークル活動か勉強かアルバイトか、その3足のわらじ全部はくのも、大学時代だけ、と思えば、大変でも楽しいのかもしれない。
アンジェリークも色々なサークルのデモを見て、それぞれに素敵だな、面白そうだなと思いつつ、課外活動にも加わった方が、学生生活は楽しいよね?と考えつつも、どのサークルに入ろう!というのを決めかねていた。
というのも、アンジェリークは高校生時分の課外は生徒会の活動とオリヴィエのモデル業を務めることで終始してしまい、大学に入ってもやりたいと思うような精通した趣味ーリュミエール先輩の絵画とか、クラヴィス先輩の茶道とかーがなかったからだ。それこそ、高校時から好きなスポーツや楽器でもあれば迷うこともなかったのだろう。
『私って、無趣味だったんだわー』
と、アンジェリークは、特に引け目を感じることもなく、淡々と思った。
ちなみにオスカーは所謂サークルには入らず、経営学部の学生だけが選抜された上で入る経営学の研究会に入っていると、聞いていた。法学部の学生のみで構成される司法試験に備える研究会や、経済学部内で会計士を目指す勉強会と同じく、勉学・研究を主体としている課外活動の一つである、そして、学部の異なるアンジェリークは、これには入会できないので、そんなことも、アンジェリークがサークル活動をどうしようか、思案する所以である。
「夏はテニス、冬はスキー」というようなサークル活動は、楽しいんだろうな、とは思うものの、それで自分が充実感を得られるそうには思えない。
かといって、アンジェリークは、オリヴィエのモデル業が入れば、それを優先せねばならないので、試合や演奏会などがあり、技術の向上や練達を目して切磋琢磨する目的のはっきりしているサークルには、入らない方がいいだろうとも思っていた、モデルの仕事がある度に、練習を休むのでは上達はおぼつかないし、いい加減に思われ、周囲の士気も下げるだろうから、迷惑だろう。ましてや撮影日と試合の日が重なったりしたら、どちらかに必ず迷惑をかけてしまうことになる。それでなくても、屋外で行うスポーツはけがをしたり、ウェアの形に日焼けなどしてしまうと、モデル業に差しさわりがありそうなので、やはり、やめておいた方が無難だろうと、アンジェリークは判断した。
となると、入るとしたら、お菓子作りが好きだから、調理部とかいいかも、将来のためにもお料理を覚えておくのはいいことだよね…なんて思いもするが、どうしても、と思っているわけでもない。
ただ、授業を受けて、時折オリヴィエのモデルを務めるだけでは、せっかくの大学生生活がもったいないとも思っている。忙しいオスカーに毎日会えるわけではないこともわかっているから、寮に帰ってすることがない、というのも情けないし、オスカーが将来を見据え、色々な面での努力に励んでいることを知っているアンジェリークは、自分も、何か自分を磨けそうなこと、所謂世間知を勉強できそうな活動をしてみたい。
それを思うと、大学は規模が大きすぎて、生徒会というような組織はないのが残念なアンジェリークである。合宿2日目夜の課外活動紹介で、サークル以外の委員会とボランティア団体の活動が紹介された時、そうと、はっきりわかったのだ。文化部と運動部で、それぞれの代表者で構成される運営委員会という生徒会に似た組織はあるのだが、これは既存サークルに入部していなければ、そも参加できない。生徒会みたいな組織があれば、無趣味な私も、オフィス用のソフトを使える技能を生かせるかもしれないのになーと、アンジェリークはちょっと残念に思った。
『それなら、私みたいなのは、ボランティア活動に携わるのがいいのかも…結構、種類もありそうだったし』
スモルニィには留学生が多いので、その留学生の世話をしたり、人間相手ではなく、地域の動物保護に精を出すボランティアもあるようだ。ボランティアの内容によっては、学校が単位をくれるものもあった。
と、委員会の紹介で、壇上に上がってきた人に、アンジェリークは見覚えのある顔を見つけた。
『あ、あれ、確か、ルヴァ先輩?』
高等部の生徒会活動ではいわば助っ人だったルヴァとは、アンジェリークは、同じ2年上でも、ジュリアスやクラヴィス程には親しくはなかった。尤も、温厚で柔和で人当たりの良いルヴァとは、たまさかの活動でも、すぐ打ち解けられ、アンジェリークもいつも優しくしてもらった。ゼフェルが「あいつは怒ると、あの糸目を目いっぱいひんむいて説教するんだぜ、その見た目がこぇえの怖くねぇのって…」と言っていたことがあったが、アンジェリークはゼフェルを疑うわけではなかったが、どうしても信じられない、今も、ルヴァはそれこそ、なくなりそうに目を細めて、にこにこしながら、聞き覚えのある穏やかで、でも張りのあるはつらつと元気な声音で
「皆さん、私は、スモルニィ祭実行委員会の紹介に参りました」
と、話始めた時、アンジェリークは何か、ぴんとくるものを感じた。
スモルニィ祭は、いわゆる「文化祭」で、外部にも開かれるスモルニィ最大のイベントである。あまりに規模が大きく、外部の幾つかの企業と提携などもしているので、スモルニィ祭の運営はそれ専任の委員会が運営するのだという。『生徒会』がないのも、つまりは、このスモルニィ祭に代表されるように、すべての企画・行事・組織が大きすぎるので「生徒会」という一つの組織と人員では把握運営しきれないから、それぞれで人員を集中して投入し、司るイベントを分業運営せざるをえないからであろうことが、アンジェリークにもわかった。
高等部の文化祭を忙しくも楽しく運営し、それが成功裏に終わった時の充実感をアンジェリークは楽しく思い出す。しかも、初めての文化祭は、オスカーと心を通わせあうことができた記念の日でもあるので、アンジェリークの思い入れは深かった。
「文化祭の運営は、いわば裏方です、縁の下の力持ちです。きちんと無事に開催できて当たり前、インカレで優勝するとか、何かの賞をもらったり花束を贈呈されて称賛されるというような華々しさはありません。でも、我々は何事も問題なく、つつがなく、皆に楽しんでもらえるイベントを運営することを誇りとし、その協力者を求めています。前述したようなわかりやすい報酬や称賛は得られないので、これも一種のボランティア活動といえるかもしれませんが、スモルニィ祭の開会を宣言するときの高揚、無事終了した時の充実感は何物にも代えがたい喜びであることは自信をもって言えます。特殊な技能は必要ありませんし、あ、費用もかかりません。お祭実施のための持ち出しなんて一切ありませんから、心配しないでくださいねー。些かなりと興味をお持ちくださった方は中央棟○Fの運営委員会事務局までおいでださいね、みなさんのお越しを心からおまちしてますからねー」
と、ルヴァが話をしめくくった時、アンジェリークの心は、ほとんど決まっていた。
そして夕食後、消灯までの時間は、女の子たちにとって1番楽しおしゃべりタイムであるが、ほぼ、すべての課外活動のPRが出そろい、説明を受け終わったその日の夕食後のおしゃべりは、特に、盛り上がった。ほとんどの学生が、自室には戻らず、そのまま食堂、もしくはロビー隣接の談話室で、学生同士でいくつもの輪を作り、その輪を互いに行き来して、何のサークルに入るとか、仮入部してみるとか、誘い合ったり、打ち明け合い、相談しあうおしゃべりがやまない。アンジェリークも例外ではない。同室の子数人と高校時代からの友人たちとが混じったグループで、楽しげなおしゃべりの輪を作る。
アンジェリークは、その中で1人の内進生の子に尋ねられた。
「アンジェはサークル何やるの?チア?体育祭の時、すっごく、かわいかったもんね」
「あ、ううん、あれは1時的なものだし、簡単な振り付けだったから、できたのよ、本格的なのは、私にはちょっとハードル高そう」
「えー?じゃ、何?ダンス?テニス?」
「あ、うん、私ね、スモルニィ祭の運営委員のお手伝いしようかなって考えてるの」
と応えると「何もそんな地味なの選ばなくても…」
と学友の顔に書いてあるのがわかって、でも、アンジェリークは気にせずほほ笑んだ。
大会で優勝するためとか、自身の技量を磨くため、技術向上のため切磋琢磨し、たゆまず努力するのは、もちろん素晴らしい。貴いことだし、やりがいもあろう。でも、「自分の得」とか「自分のため」にならなくても、自分の頑張りの結果、多くの人が楽しかった、と笑ってくれる、それって、ものすごく気持ちよくて、幸せになれることなのだと、アンジェリークは知っていたから。運営委員に携わるような人は、きっと、その幸せと充実とやりがいを肌身で知っている人たちなのだろうと思えたから。
そしてアンジェリークは訪ねたその事務局で、見知った懐かしい顔を多々見いだすことになるのだが…その時、それまでだまって周囲の話をきいていたエンジュが、ぽつりと、言った。
「みなさんは、いいですよね、何の心配もなくサークルに参加できて。私は奨学生だから、高価な部費は払えないし、高価な道具はそろえられないし、個人レッスンを受けるなんて夢のまた夢だもの。アルバイトで部費を稼いで、その所為で勉強がおろそかになって成績が下がったら、奨学金がもらえなくなるから、大学自体に通えなくなっちゃうし…私には楽しいサークル活動なんて縁がないって、諦めなくちゃ。世の中ってほんと不公平だわ、努力だけじゃ、どうしようもないことがあるし、お金のない人は、サークル活動でも必要とされない、私、今まで、誰からも必要とされてこなかったけど、ここでも、やっぱり、そうなんだわ」
その言葉は、その場にいた女子全員の口を一瞬つぐませた。