Before it's too be late 8

アンジェリークが食堂に入ると、もう席は8割方埋まっていた。どこに座ったものか思案しかけたところで、ここでは座席配置が学部ごとに区分けされていることに気づき、自身の学部を探す。

アンジェリークが進むのは「比較文化学部」だ。この学部を選んだのは、さまざまな国や地域で暮らした経験があり、文化や地域性の違いを肌身で知っていたからだ。文化・風習・常識は国ごとに独自性がある、同時に偏見及び偏見視される対象もまた地域や国ごとに異なる、ということは、すなわち、文化も差別も、絶対普遍なものではない。幼少時から各国を渡り歩くように生育したアンジェリークは、偏見を受けたり差別から隔離されたりする人々が国ごとに異なるーそれは職業故だったり性差故だったりしたーことを見知っていた、ゆえに「この前までいた国では、普通に暮らしていたり、むしろ敬意を払われていた人たちが、今いる国では見下げられ軽んじられている」ことの不可解さ、道理のなさ、納得のいかなさを、どうにも言いようのない居心地の悪さと共に肌で感じてきた。そして、俗にいう「地元」に定着している人種ほど、その地域の社会常識を、自然科学的な真理と同一視し、絶対的なものと信じ込んでいることが多いことも感じていた。そういう価値観は地域社会に安定をもたらすが、一方で、ひとたび社会から阻害されたりー所謂つまはじきとか村八分だー強固な偏見を受けた者はその偏見を覆せない偏狭さにも通じる。そういう場面に出くわすたび「何も悪いことをしてない人が言われなく差別されるのは、見ていて、気持ち良くない」と子供の頃のアンジェリークは、その不愉快さを、疑問を、父母にだだをこねるようにぶつけるしか術を知らなかったが、両親は、特に父は「アンジェ、君が、そう感じる気持ちを大事にしなさい、そして、嫌だと思うなら、ではどうすればいいのか、何をすれば「いやだ」と感じる状況を変えられるのか、一緒に考えてみよう」と言ってくれたものだ。

だから、アンジェリークは凝り固まった価値観にとらわれない、むしろ、それは、危険なことだとー誰かを意味なく排斥しても心の痛みを覚えなくなるという意味でー感じるような少女に育ったが、一方で、長じるほどに、アンジェリークは悟った、外交官や駐在員というのは、第3者だからこそ、その地域の特徴が俯瞰するようによく見えるのだが、それは一方で、所詮、その地では「短期滞在する部外者」にすぎず、社会通念を変えるには無力に等しいことを。いわゆる「よそ者は黙っていてもらおう」と誰かがいいだせば、何を訴えようと耳を傾けてはもらえない。外交や交渉で理性的表向きの行動に干渉することはできても、だ。外交官である父は、異邦人のできることの限界をよくわかっており、でも、だからといって諦めず「どうすればいいのか考えてみよう」と幼いアンジェリークに提言していたのだろうと、今になってアンジェリークは思う。

だから、アンジェリークは考える、個人の力は小さい、私が「特定の職種、たとえば武器商への偏見」を完全にぬぐい去ることや社会通念を変えるなんてことは難しい、正直、不可能だろう。そんな力は私にはない、でも「当り前」と思っていることを、ちょっと立ち止まって考えなおしてみて?と訴えることはできる、その偏見の根拠は何?考えてみて?って提言することはできる。常識と思ってることを考えなおしてもらえるよう、少しづつでも働きかけたいし、そういう考えを発信できたら、と思う。その説得力を強めるためにも、アンジェリークは色々な価値観や文化があること、その違いや特性を詳しく勉強したいと思って、比較文化を専攻したいと思ったのだ。

そしてこの比較文化学部は、文字通り様々な国や地域の文化を比較対照して研究する学部なので、講義をその国の言語で行う科目も多く、そのため母国語以外に最低1言語は精通していないと、授業についていくのが難しい。ゆえに他学科に比すると帰国子女の割合が多い。また他国からの留学生は、専門課程に分岐する前段階の語学研修として、1、2年次はこの比較文化学部に在籍するーつまり、全ての留学生は、各人で期間は異なれど、入学当初は必ずこの比較文化学部の学生になるため、アンジェリークのかけたテーブルは他の一角と比すると、年齢構成も肌や髪の色も非常に多岐にとんでいた。かなり年嵩に見える新入生もざらにいる。

その中に、特に人目を引く異彩を放つ青年が1人いた。わざと他者から距離を置くように1人離れてテーブルの端の席にいる。普通の大学生というには年嵩で、少なくても20歳以上、おおよそ25歳前後に見えたので、恐らく留学生だろう。自国の大学を卒業後、もしくは社会人留学としてスモルニィに入る外国人留学生は少なくない、特に農学部などは妻子同伴の留学生ー大農園の跡とりが最先端の農業技術を学びに来ることが多いーも複数いるので、年齢は、この学部では人目を引く要因にはならない。今も、この比較文化学部のテーブルでは、アンジェリークより年嵩に見える学生の方が多いくらいだったし。その青年を特徴づけているのは、だから年齢ではなく、その雰囲気と容姿だった。眉目秀麗といっていい顔立ちにほとんど白に近い銀髪、わけても暗緑色の瞳が眼光鋭く、周囲に人をよせつけない、否、むしろ、ありとあらゆるコミュニケーションを拒んでいるような、どこかほの暗い雰囲気を強調していた。他の新入生の大半が緊張と高揚、期待と不安半ばした…そう、緊張しつつも、どこか、わくわくと浮足立った様子を隠せない中、誰とも立ち交わるまいと頑なに人との接触を拒んでいるような、その空気がなんともいえぬ異彩を放っているのだった。

留学生というのは、積極的に何かを「学び」にこのスモルニィに来たはずなので、基本、ポジティブー貪欲な程にーな空気を漂わせている事が多い。しかも、このスモルニィは名門校として名高いから、新入生は多かれ少なかれこの学園の一員になれたことに、喜びと誇りを隠そうとしない、が、その青年からは、逆に「不承不承」もしくは「不本意」という空気が色濃く漂っている気がした。だから尚更、ある意味悪目立ちしているように、アンジェリークには感じられた。

『檻にいれられたばかりの野生動物みたいだわ、あの人。不本意につかまってしまって、動物園につれてこられた肉食獣みたい。うかつに近づいたら、噛みつかれてしまいそうな雰囲気だわ』

と、アンジェリークは反射的に感じた。自分の周りを棘で覆って、近づこうとするものを攻撃しようと身構えている処が、何か、どこか、最近見知った人の雰囲気に少し似ている気がする、とも思ったが、すぐに「ううん、違う」と思いなおす。この人には「怯え」がみえない、攻撃的なものは感じるが、自衛のために身構えているという雰囲気ではない。他者を気安く寄せつけようとしない、という意味では過日のオスカーとも共通点があるようにも思えるが、かの青年の雰囲気は昔のそれでもオスカーとは全く似ていなかった。知り合って間もない頃のオスカーが他者と一線引いているような空気をもっていたのは確かだが、それは、オスカーが他者を慮るがゆえに生じさせていたものであり、その根底には優しさと寂しさがあった、だから、アンジェリークは何か放っておけない、何か、できること、手助けできることはないか、オスカーのことが気にかかって仕方なかったのだと思う。でも、この青年から感じるのはむしろある種の「怒り」?のようだった。何かを許さない、許せない苛立ちとでもいうような…。周囲の者もなんとはなしに不穏な雰囲気を感じるのであろう、その青年周辺の席は埋まる気配がない。アンジェリークは、時間ぎりぎりに食堂に入ったせいで、手近な席についたのだが、それはむしろ幸いだった。あの席周辺しか空いてなかったら、もちろん、取って食われるわけではないだろうとわかっていても、なんとはなしに遠慮したいというか、近づきがたいものを感じて、オリエンテーションの間中、居心地の悪さを覚えたことだろう。

『こういうのも言われない偏見かな、直感で先入観をもつのって良くないよね、でも、なんとなく、あの人、怖い…抜き身のナイフみたいで…』

と、遠目から眺めるだけでもいささかの居心地悪さを味わっていたその時、オリエンテーションの開始を待つまでの時間潰しであろう、隣の長テーブル、つまり、他学部の女生徒たちの何気ないおしゃべりがアンジェリークの耳に入ってきた。

「ねぇねぇ、今年の比較文化学部の新入生の中に、どこかの国の王子様がいるらしいって話よ」

「貴族の子弟なら、この学校には珍しくないけど、王子様っていったら、流石に珍しいわね?でも、どこの?なんていう国?」

「それが、なんか、よく聞いたことのない名前の国で…ちょっと思い出せないのよ」

「なんか怪しいわねぇ、それ、唯の噂じゃないの?だって、この新入生オリエンテーションにもご随身をお傍に侍らせているような高貴な身なりの人なんて、見渡したところ、見当たらないわよ?本当に王子様がいるとしたら、さりげなく警護のSPとかも、ついてくるでしょう?そういう雰囲気の人もいなさそうじゃないの」

「だから、お忍びなのよ、きっと。情報が出回ってないのも、その所為じゃない?わざと情報が漏れないようにしてるのよ、王子様って身分を明かさず、一学生でありたいとお思いで。で、お忍びで王子様が普通の大学生生活を送ろうとする、って言ったら…きっと、その目的は花嫁探しに違いないわ![王子」という身分にとらわれず、1人の男として自分を愛し、選んでくれる女性を探しに来たに違いないわよ、もちろん、その女性がお金持ちでなくても貴族のご令嬢でなくても、王子様は気にしないの、だって王子様は身分に縛られない、本当の恋をこの学園に探しに来たのだから…はぁ〜ス・テ・キ」

「…あなた、少女マンガとか、ロマンス小説の読みすぎよ」

「でも、もし噂が本当だったら素敵じゃない?だって、このスモルニィなら絶対ないとは言い切れないじゃない、色々な国の貴族の子弟は実際たくさんいるんだから、王族の留学だって十分ありうるわよ。それに、ここの女生徒なら、たとえ庶民ではあっても優秀かつ身元が確かだもの、開かれた王室を印象付けるための民間出身のお后候補として持ってこいだと思わない?だから、もしかしたら、私やあなただって、未来のプリンセスになれる可能性がないとはいいきれないじゃないの…それっぽい人、いないかしら」

「あのね、一言言っておきますけどね、王族っていっても、若いとも独身とも限らないし、あなたの審美眼に見合う美形っていう保証もないのよ?どこの国だったか、首が長いほど美形とか、お尻が大きいほど美しいとか、太ってるほど魅力的とかって国もあるって聞いたことあるし。「ステキ」の価値観は千差万別だし、王子様って言葉のイメージだけで過大に期待して夢見るのは、どうかと思うわよ〜」

「やだもう、いいじゃないの、ちょっとくらい夢見たって。それに、ヨーロッパに有象無象あるような小国の王族なら、そこまで極端に美的感覚は違わないと思う」

「だから、王子様=美形とは限らないって言ってるでしょ。ああ、ほら、オリエンテーションが始まるみたいよ」

丁度その時、学生課の職員らしき人物が壇上にあがり、挨拶を述べ始めた。

夢見がちな少女のおとぎ話を打ち切ることができて、比較的冷静な少女の声音には明らかに安堵の色が混じっていた。他愛無いおしゃべりはここで終わった。

なんとはなしにこの話を耳にしていたアンジェリークは、あの、虚無感とほの暗い怒りとを漂わせている青年は、噂の王族ではないにしてもーそれでは流石に話ができすぎだーどこかの国の貴族の子弟で、自ら望んだわけでなく、無理やり留学に出されてここに来たのではないかと、直観的に感じた。進んで何かを学びにきたわけでなく、爵位を継ぐための条件で学位取得が義務付けられているとか、それこそ、花嫁選びーというのもやはりできすぎかーとにかく、勉学目的ではなく、不本意にこの大学に送り込まれたのではないか、だから、嬉しそうでも誇らしげでもなく、むしろ、虚無と拒否と怒りの空気ばかりが突出しているのではないかと。

ただ、アンジェリークの思考と意識は、ここで、始まったオリエンテーションの内容に切り替わり、そちらに集中した。色々な注意事項を聞き逃したら大変だからだ。同学部らしいし、この学園には珍しいタイプではあるが、これから何か自分に関わりがあるとは思えない留学生のことは、いつまでも思考に残ったりしなかった。留学生は一定期間の語学研修を終えれば、この比較文化学部を出て、それぞれの専門課程に進む者が大半から、同じ教室で学ぶのは極短い間だろうと思ったし、彼の容貌にも、特に深い感慨を感じることはなかった。

というのも、アンジェリークは、人からは贅沢と言われそうだが、単純な容姿だけでは、人に感動を覚えたり傾倒したりということがなかった。オスカーという恋人を持ち、ジュリアスやクラヴィス、リュミエールのように高校時代から標準以上の美青年たちを間近に見、身近に接してきたし、同級生のゼフェルやランディだって整った容貌の少年たちで、実際、下級生たちからよくモテていたし、自分には姉のような存在であるオリヴィエは、女性とみまごうばかりの華麗な美貌の持ち主なので、美形に慣れていたから…という意味でなくー多少、免疫があるだろうことは否めないがー人が人を惹きつけ魅惑するのは、その人間性や志の高さ、打ち込むものをもつ情熱の熱さでありーつまり人間としての中身がいかに充実しているかであり、そういう意味でアンジェリークの周辺の人たちは、みな、キラキラ輝いている人たちばかりで、そんな先輩方や同級生を「素敵だな」「見習わなくちゃ」と思ってきたアンジェリークは、単になかなかに整った容貌の持ち主であるというだけの人物には、特に感慨も感動も覚えなくなっていたのだ。

ただ、暗い光を放つ瞳をもち、言いようのない虚無感と怒りの空気を漂わせる人物というのは、この学園では珍しい。だから、否応なしに人目を引くだろうし、また、その容姿も相まって、一部の人間には磁力のような誘因力を発するであろうことなど、どこまでも光輝の世界の住人であるアンジェリークは想像だにしなかった。暗きもの、闇の縹深きもの、底知れず得体の知れぬものにこそ、抗いがたくひきつけられ、引き寄せられる人間もいることを、アンジェリークは知らなかった。

また、自分がただの他愛無いおしゃべりとして聞き流した噂に真実のかけらが含まれているとは思いもよらなかったし、ましてや、こんなペーパーバックのような話を本気で信じてしまう人間がいるとは思えなかったので、このことを、アンジェリークは、すぐ、忘れてしまった。

 

何もかもがくだらない、どうでもいい、忌々しいことばかりだった。

周囲が自分より10歳は若いだろう青臭い餓鬼どもでいっぱいなのが気にいらない、何がそんなに楽しいのか知らんが、そこ抜けの明るい顔で能天気に笑いあい、声高にくだらないおしゃべりに興じている連中に囲まれているのも気に食わない。

分けても、こんなところにおとなしく座っている自分がー牙を抜かれ、爪をもがれ、何もできないから、仕方なくおとなしくしている自分自身が一番忌々しい。何の悩みも苦労もなさそうな学生たちに囲まれている現状が苛立たしくてならないが、それ以上に、傍からみれば自身もその1人と区分けされてしまうという事実に更に苛立つ。苛立ちのあまり反吐が出そうだ、この状況は、自分の無力さの証に他ならないから。

苛立ちの果てに自分に無力さを改めて思い知らされ、銀髪の青年は、口の中で小さく「ちっ」と舌打ちした。

アンジェリークは知る由もなかったが、彼女の想像通り、この青年は、進んでこの合宿に来たのではなかった。それ以前に、この学園に入学したのも不本意だし、そも、無理やりこの国に連れてこられた異邦人だった。そして、強制的にこの国につれてこられた彼は、当然といえば当然だが、この国での目的がなく、何もしたいことがなかった。年齢の上では彼は社会に出てもおかしくはなかったのだが、彼は、系統だった職業訓練を受けたことがなかったので、この国で就けそうな生業も見当たらなかった。とはいえ、普通の移民のように、入国後は好きにしろとばかりに放り出されることもなかった、というのも、彼の知らぬところで、彼の身柄を預けた側と預けられた側に密約があり、彼はこの国にとどめ置かれ、緩やかな監視の下に置かれなければならなかったからだ。またその出自ゆえ、彼を粗略に扱うことはできず、しかし、職業に就かせることもできなかったので、身柄をもてあまされた末か、苦肉の策か、仕方なく名門校に入学させられた…というのが、今の彼の境遇だった。学生というのは、とりあえずやることのない中途半端な人間にうってつけの立場であり身分だったし、彼をこの国に留め置く以上、職業訓練は必要だろうという配慮がなされた故だった。そう、彼はもはや本来の地位、王族に戻れる望みはほとんど皆無だったから。国民の税金で養ってもらえる王族に戻れない以上、きちんと職業訓練を受けて、一市井人として生業に就べきだと、彼の身柄を預かった側ーこの国の政府は考えたからだが、彼は、そんなこと、どうでもよかった。彼の敵とその結託者の意図など、知ったことではなかった。

とりあえず、彼にわかったのは、自分が叩き込まれたのはこの国の首都にあるこの国屈指に名門校らしいことだった。恐らく、良家の子弟子女が多く集うというこの学校なら、そう悪さもできまいし、監視も容易だという理由で、この学園に叩き込まれたのだろうと、彼は推察した。今、周囲を見ると、その人種的多様性や年齢幅の広さから、自分のように学生というには些かとうのたった年齢であっても、異国の人間であっても、そう珍しくない者として受け入れられる環境の学校に送り込まれたーあまり目立たぬように、その存在をいぶかしがられたりせぬようにーのだろうことも、彼には推し図れた。

そう、この状況に、否も応もなかった。この学校の学生になることも、ましてや、こんな茶番…苦労知らずの学生どもとほんの数日とは言え起居を共にする合宿などというものに参加したいわけもなかったが「普通の留学生らしく振舞うよう、また、振舞わせるように」との密命を受けた護衛役という名の監視に、この合宿所まで連行され、置いていかれたのだ。

今、彼は、地毛とは正反対の色に髪を染め、どうしても人目を引きやすいオッドアイを隠すため片目だけカラーコンタクトを入れ、自分の眼前にある書類の名は見なれぬ、身になじまぬ名でー偽名を名乗らされている。これは、自分に力が足りなかったからだ。子飼いの手下どもは永久禁固刑に処され、自身は丸裸にー完全に武装解除された上で、この異国に放逐されたー牙を抜かれ追放されたのだ、何もできぬ一学生の身分として。こんなにも忌々しいことがあろうか。この、苦労も悩みも無さそうな、能天気な連中と今の俺は同列なのだ。留学生という立場は、対外的にはーこの国の上層部には亡命王子の遊学で通って聞こえがよかろう、が、実態としては国外追放、しかも、2度と故国に脚を踏み入れることまからぬ、と、旅券を取り上げられーいや、そもそも旅券の発行もない一方通行の旅路の果て、この国にいわば置き去りにされた。つまるところ、収監移送された囚人なのだ、俺は、檻はなくとも。今の俺は、自力で、故国にもどることもできない、自由になる金がないから航空券も買えない、そもそも旅券がない、査証も取れから出国のしようがない、この国と故国は地続きでないから、車や列車で密かに帰還することもできない、それを見越して、この国に追いやられ、打ち捨てられた。手下どもは現実の檻の中で、俺を手引きする術もない、それもこれも全て自分に力が足りなかったせいだ。力が足りなかったばかりに、あと一歩のところで目的を達成できなかった。その時のことを思うと…あと一手でチェックメイトだと考えていた、なのに、予期せぬ邪魔が入って、目前で目標をかっさらわれた、あの時の悔しさを思うと、今も腹立たしさで、頭がどうにかなりそうだった。

自身の目的遂行にある程度は邪魔が入ること、抵抗勢力が出るだろうことは、在る程度予想はしていた、折込済みだった、だから短期決戦を目した。彼の目的はたったひとつ、目標の人物を追いたて、巣穴から逃げださせることだった。そいつを待ち伏せして始末するのは容易いと思っていた、なぜなら、彼の標的はその国の国王で、王宮には王族しか知らない抜け道があり、宮城で何らかの騒ぎが起きれば、王は絶対その抜け道を通って脱出するに決まっていたのだから。そして、彼はその抜け道を知っていた、その国の王族の一人だったから。だから、この作戦は簡単に首尾よく決するはずだったのだ、どこぞの外交官がおせっかいにも手引きして、抜け道を使用する前にきゃつを逃がし、保護したりしなければ!

だが、第3勢力の介入までは予想していなかった自分には考えが足りなかった、予想外の事態が起きた時対処するための力も足りなかった、それがすべての敗因だと青年は、苦々しい思いで自覚していた。

そして、彼が企てた騒ぎは単なる一暴徒の自殺行為と偽られ、事の正確な経緯はおろか、その意図も報道もされることはなく、不発の花火のように存在自体をなかったことにされつつある。ほんの数週間前、彼の故国で、本来なら王制を揺るがし、覆せたかもしれない動乱があったことを知る者は、多分、ほとんどいない。報道の絶対量が少なく、その数少ない報道でも、単なる一暴徒の銃乱射事件、しかも、即刻鎮圧された取るに足らない事件として扱われたからだ。彼が手を下す前に身柄を保護された国王は身内の恥を表ざたにすることを厭い、その結果、彼は正式な裁きを受けることもなくー王族に処分を下すためには、形式上のものであっても裁判が必要で、公判が始まれば、どうしたって何らかの事情や背景が報道される恐れがある、そのスキャンダルを厭うて、彼は内々に「放蕩王子の遊学」という身分をあてがわれ、この異国に放逐されたのだ。

裁判を受ける資格もない存在、罪を問うこともできぬ、しでかしたことの責任すら取れぬ存在とー心神喪失者か幼児並と断定されたも同じだった、そして、今の彼はそんなレッテルを張られた屈辱に震えること、唇を噛んでしのぶことしかできない。ただのテロリストだって犯行声明を行えるのに、自分は、それすらできなかった、自分がなぜ王宮を急襲したのか、その理由を世界に知らしめることすらできなかった、そんな、この世のことわりの何もかもが、彼には腹立たしく呪わしい。

それでも生きているのは…この悔しさがあるからこそ、どうにかして、一矢報いずにいるものかという意地だけがこの時、この青年を支えている。

と、その時、青年の耳に「どこかの王子様がお忍びで…」というような、浮ついた会話が聞こえてきた。

青年は、暗く荒んだ笑みを無意識に浮かべていた。俺がその王子様だ、なにもかも奪われ、失い、何も持たざる、名前だけの王子が今の俺だ。確かにこの状況も「お忍び」といえないこともないが…国をもたない王子…スクラップにされた王子と恋仲になりたいと思う女なぞいるのか?国を追われた王子と結婚してもプリンセスになぞなれぬというのに。いつ終わるともしれぬ亡命生活ー監視付きのーに付き合いたいと思う奇特な女など、この世にいるのか?いるとしたら…ああ、確かにそれはロマンス小説の題材に相応しかろう、現実にはありえないからこそ。

いや、それもいいかもしれないー青年は更にほの暗い、野卑で下卑た笑みを浮かべた。この学校には良家の子女が多数在籍していると聞いている、ならば、それこそどこぞの国の王女でもたらしこんで、その国の軍を使い故国に攻め込んでやるか。さもなくば、大資産家の令嬢でもいい、結婚して資産を我がものにし、その金で武器を買いあさるのもいい、旅券なぞなくとも航空機をパイロットごと購入すれば、故国に乗り込めようし…いや、そんな、まだるっこしいことをする必要はないな、故国に帰着する必要なぞ今の俺にはないんだ、爆撃機を購入して、あの王宮の頭上に無数の爆弾を落としてやるだけでいい、あんな国など、世界地図から抹消してやればいい。

そうだ、あながち、馬鹿げたものでもないかもしれない、この国は経済大国であっても貴族はいない、ましてや王族をや、だ。金はあっても血筋や血統に劣等感のある財閥富豪は少なからずいようし、俺があの国を掌中に取り返せれば、正当な王位継承者として、娘を后妃に据えてやるといえばープリンセスになりたがるバカな金持ち娘を誑し込めれば…あの国に攻め入ることも夢でなくなるかもしれない。

実際、この学校には様々な国の良家の子弟子女が数多く在籍しているからこそ、こういう場なら、俺も悪さもできまい、仲間も得られまいと思って、この国の上層部は俺をこの学校に叩きこんだー厄介払いをしたつもりなら、そんな奴らの鼻を明かしてやるのも面白い。ああ、いっそ、俺は、この環境を逆手にとってやろうか。力をー財力でも兵力でも国家権力でもいい、俺には力が足りなかった、ならば力は、持っているヤツらから奪い取ればいい、持てる者から奪い取って俺のものにしてやればいいのだ。そして捲土重来だ…見ていろよ、叔父貴、いつか、目にもの見せてくれる、俺が奪われたもの…本来、俺に与えられていたはずのものを奪い返し、おまえらに俺が味わったのと同じ無為・みじめさを味あわせてやる…。

夢想、というよりはこの妄想のあまりのばかばかしさ、荒唐無稽は自分でも多少は認識していた、なのに、このばかげた妄想がやめられない、こんなものしか、自分には生きるよすががないからだ、ということも、青年は悲しいまでに自覚していた。

少し考えてみればわかる、どんな資産家であろうとも、個人が武器商から爆撃機を購入するなどほとんど不可能だろうことは。武器商の顧客は「国家単位」だし、たとえ、資産の全てをなげうっていいと思うほど自身にほだされ、惚れ込んだ富豪の息女がいたとしても、そんな自殺行為につきあってくれる破滅思考の女がいるとは思えない…一国家をいきなり爆撃などしたら、国際社会からどんな制裁を受けるか、少なくとも実家の事業は破たん、財産は補償のためすべて霧散、もしくは没収されようし、身柄は最低でも国際裁判にかけられるのは必至だろう。そも、自分は目的を果たした後ー大公を暗殺し、可能なら国そのものを滅してしまう…のちは、自身も生き残る気はないのだ。王位を奪取するだけなら王宮に爆撃する必要などないのだから。そんなことを目する男に、いったい、誰がそんな巨費を投じてくれるというのか。プリンセスにしてやるという甘言に、そんな詐欺にひっかかる令嬢が万が一いたとしても、親族が許すまい。系累がまったくおらず、自身1人で莫大な遺産を相続した女相続人など、虚構・フィクションの世界にしかいなかろうし、そんな女性をたまたまピンポイントで見出し、なおかつ旨くだまし、たらしこむなど、それこそ愚にもつかない三流小説の筋書きだ。

頭ではわかっていた、己の妄想のばかばかしさが。でも、青年は仇敵に一矢報いる以外、やりたいことなどなかった、しかも、今はその力がなく、無為に時間を過ごし、己の無力さを呪い、腐っているだけだ。こんなバカげた児戯につきあわねばならぬのなら、この無駄な時間を使って、生贄を探してみるのも方便ではないか、どうせ、できることも、やりたいことも、何もないのだ。現実には難しかろうが、万に一つの可能性もないだろうが、大富豪の令嬢をたらしこむという可能性はゼロとは言い切れぬのだから、それも一つの手段…俺が俺のための力を手にする手段の一つではないか、と、彼の妄想に拍車がかかっていく。

過日、彼の企てた自殺行為ともいえる破壊活動に付き合ってくれた者たちは、もともと、この世界全てを憎んでいて、他人を憎んでいて、この世など消えてしまってもいい、人など皆いなくなってしまえばいいと願っているのような破滅思考の持ち主だけだった、彼の手下どもは、その気持ちだけで彼ととつながっていたのに、その手下たちは、殺されることもなくー最後の安寧すら奪われて、無期限の禁固刑という、よりむごい刑罰ーとしか思えないーにあえいでいた。だから、彼は、最低限、手下ども…世界を巻き込んで、自滅したがっていた手下どもを解放してやらねばならない、そのためには誰を犠牲にしても、誰をだましても、自らの目的のためには、自分と無関係の他者をいくら食い物にしようと、利用しようと構わない、むしろ利用せねば損ではないか、と考えた。

そう思えば、この場は…この忌々しい能天気な「学校」という環境も、俺に搾取され、利用される家畜どもの牧場だと思えば、腹立たしさも苛立ちも多少薄れる思いだった。この中から最も搾取し甲斐のある奴を見つけ出し、とらえ、絞りつくす、そう思えば、この無為な状況も悪くない…と。

この大学で一学生として人生をやり直し、大人しく市井の人間として生きなおす気など彼には毛頭なかった、そういう機会を与えられたなどと彼は思ってもいなかった。

この時、この青年には「いかにして己のために他を利用し、搾取するか」の思考しかなかった。自身の目的のためには、誰を犠牲にしようと、食い物にしようと、踏みつけにしようとー自分に無関係の他者の痛みなど、考える必要もないし、知ったことではなかったー構わない、むしろ、せねば損だと考えた。

下種で自分勝手な夢想に浸りながら、彼は、後ろめたさを覚えることはついぞなかった。高貴な生まれの者の中には、自分以外の他者は、己に奉仕するか、さもなくば、搾取されるためにのみ存在している、と、考える者がいる。そして彼も心の底から本気でそのように考えており、今、それが叶わぬのは、単純に己の力不足の所為だと思っていた。だから自分が不幸で不本意な状況にあるのは、自分を取り巻く世界の方が間違っており、悪いのであり、この間違った世界から脱するためには、他人を犠牲にしても結果として不幸ににしてもいいと思っていたし、彼にとって、それは、至極当然の結論だった。下卑た夢想のもたらす苦甘い毒の蜜だけが、彼を生かしているといってよかった。

 

期待に満ち、にこやかで楽しげな多数の新入生で食堂内は、ほぼ埋まっていた。にぎやかなおしゃべりが交わされる中、1人、長テーブルの隅にぽつんと腰かけた少女・エンジュは、昨日ほどではないにしても、また、言いようのない居心地の悪さ、落ち着かなさを味わっていた。

昨日は、なんとか新入生代表の挨拶を無事終えることができた。締めの挨拶を述べるや、逃げるように壇上を降りた。でも入学式が終わるまで、そわそわと落ち着けなかった、そして、その気持ちは今もずっと続いている。周囲の人たちが、みな、自分を見ているような気がして。「あの子、入学式代表の挨拶をすっぽかして帰ろうとしてたんですって」と、どこからか噂話が聞こえてやこないか、気になって仕方ない。『あの女の子が、誰かに私が逃げかえろうとしたことを話してたらどうしよう』と思うと怖くて身がすくみ、ずっと生きた心地がしないのだ。

エンジュは、今は「本当に帰らなくてよかった、帰ってたら、この合宿に来るどころか、恥ずかしくて、みっともなくて学校にも行けなくなってたかも」とは思っていた。そして「なんて、馬鹿な、早まったことをしちゃったんだろう」と後悔はしていたが、エンジュが悔いているのは、会場から逃げ帰ろうとしたことではなく「まわりが私を馬鹿にしてるから帰る!」と見知らぬ少女に噛みついてしまったことだった。少女に諭され、励まされたことは、エンジュにとって引け目にしかなっていなかった。あれでは、自分が逃げかえろうとしていたことを、自ら白状してしまっているから言い訳できない。あのかわいらしい少女に「無責任な私」のことを噂されても、言い逃れができないからこそ、悪く言われるのが、怖くて仕方なかった。

その女の子に声をかけられ、諭されたからこそ、大事にならずに済んだし、それこそ悪い意味での噂になるようなことをしでかさずに済んだのだが、エンジュは、その事実に気づいていなかったし、畢竟、その少女に感謝する気持ちなど、まったく持ってはいなかった。悪意からではなく、単純に気がつかないだけ、気が回らないだけだ。見知らぬ少女に自分の弱みを見せてしまったことばかりが気になって仕方ないので、その見知らぬ少女からの励ましで苦境を脱した事実には思いが及ばないし、ましてや感謝する気持も芽生えない、それはエンジュの心に「余裕」というものがないからとも言えた。彼女が、気になり気にかけ気に病むのは「自分がどう思われ、どう見られるているか」それだけだった。自分では理解できない部分で、周囲から揶揄されたり嘲笑われたり舌うちされ続けてきた少女は、周囲の目を必要以上に恐れ、恐怖のあまりに更に場違いな真似をしてー昨日、挨拶を前に逃げかえろうとしたようにーより白眼視されることを繰り返していたため、意識も思考もがちがちの自己防衛、自己弁護にしか働かなくなっていた。だから、昨日も式が終わるや、即、会場からほうほうの体で逃げ出すように寮に帰った。入学式後、多くの新入生が談笑する楽しげな中、自分の軽率な振る舞いが噂になっていたらと思うと、怖くて仕方なかった。そして今も、オリエンテーションの合宿で、誰かが、自分のことを悪く言っていないか、心配でたまらない。自分は、あの田舎を離れ、新しいスタートを切るのだと思っていたから、家族に入学式には来なくていいと言ってあったが、今となっては、それは幸いだったと思うほど、思考も感情もネガティブに傾いていた。自分が故郷では、どうにも周囲になじめず、生き辛かったことを、ここでは知られたくなかったし、彼女の生家では、入学式に列席するためだけに往復の交通費やましてや滞在費も気軽にねん出はできなかったから、元々、親族の列席は無理だったし、親もエンジュ自身も、その方が助かったのだ。気軽に家族が列席している家庭と自分の家は違うのだと思い知らされるのも居心地悪く、引け目を感じたが、それ以上に入学式で挨拶を代表挨拶をすっぽかして帰ろうとしたことを知られ、呆れられたり、溜息をつかれるよりはマシだった。

とにかく寮にいる間…寮は1人部屋だったから、自室に入ってしまえば、雑音に恐怖することもなく落ち着けた。

そして巣穴に1晩こもった後、入学後の学生生活を円滑に進めるためのオリエンテーション合宿には律儀にやってきた。真面目な学生である彼女は、ガイダンスを受けるのは学生の義務と考え、合宿への出席を当然のことと思っていたので、緊張しつつ大きな荷物を抱えて、この合宿所にきた。

その入口で、気を取り直して合宿に臨もうとした途端、昨日自分に声をかけてきた…自分の失態、弱みを、誰より知っているあの少女の姿を目にして、エンジュは硬直したのだった。

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