今日のアンジェリークとのデートでは、まずは、彼女と甘く親密な時間を持つこと。それが最優先事項だ。さもないと、何の話題であれ落ち着いて話などできたものじゃない。しかも彼女も俺と蜜の時間を過ごすことを望んでいた。以心伝心というか、互いを熱くひどく欲する気持ちは明らかで、抑えようがなくて、だから、まずは、自分たちを甘やかすことにしたオスカーだった。しかし、その一方で、オスカーには、このデートの間に、折を見てアンジェリークに聞いてもらいたい話があり、いつ、どうやってそれを切り出したものかということが、頭の片隅にいつもあった。すると、アンジェリークはアンジェリークで似たような心境、というか状況だったらしい。彼女の話が自分の提言と同じということはありえないので、まずは、アンジェリークの懸念なり気がかりなりをクリアにしてやれたら、とオスカーは思った。というのも、彼女が言い出しにくそうな、でも、気がかりで第3者に意見を仰ぎたいという懸案、というと、あのうろんな留学生がらみではないかと、オスカーは理屈ではない直感を感じたからだ。なれば、自分も、アンジェリークから話をきちんと聞かないことには、気になって仕方ない。
「お嬢ちゃん、憶測だが…寮での歓迎レセプションで何かあったんじゃないか?それも、登下校時や学食とか、人目のあるところでは話題に出しにくいような何かが…」
「!…すごい、オスカー先輩、どうしてわかるんですか?!」
「俺と2人きりになって初めて出た話だったからな。もしかして、あの…得体のしれない留学生がらみか?ヤツも寮生でレセプションにきたのか?そこで、何か気がかりなことでも見聞きしたのか?」
「先輩ったら…なんで、そんなに何でもわかっちゃうんですか?私の言おうとしてたこと…本当に魔法使いみたい…あ、でも、安心?してください、あの人は、レセプションには来てなかったです、少なくとも私は姿を見かけませんでした」
「そうか…お嬢ちゃんは、心配ないみたいなことを言ってはいたが…俺も、あの男に何か得体のしれないものを感じていたから、君の気がかりといえば、それじゃないかと推測したんだが…」
「ええ、でも先輩のおっしゃる通り、その人が関係してはいるんです、ただ、直接ではないんです…だから、私がちょっと気にしすぎか、神経質すぎるのかも、とも思ったんですけど…」
「順に話を聞かせてくれ、お嬢ちゃん、俺も気になる」
「はい、先輩は、私が気にかけている女の子が寮にいること、ご存じでしたよね、彼女、エンジュって言うんですけど、今年の新入生総代で…だから優秀な筈なんですけど、なぜか自分に自信がもてないみたいで…」
言われてオスカーは、そう言えば、今年の入学式総代は女生徒だったこと、入学式に列席していた時、彼女の母からそう話しかけられて初めて壇上に目をやり、総代の姿を目にしたことを思い出した。何の気なしに見やっただけなので、その少女の姿かたちの記憶は朧だったーただ、やせぎすな体型とぎくしゃくと硬い手足の運びが、がちがちに緊張しているだろうことを考慮しても、いかにも頑なで依怙地な雰囲気で、ちょっと痛々しい感じだなと、ちらと思ったことも思いだし…オスカーは、アンジェリークが気にかけていたのが、あの総代の少女だったというのが、少々意外でもあり、しかし、言われてみたらなんとなく納得もできた。なんというか…ちょっと見だけでも、あらゆる意味で、アンジェリークとは正反対という印象を受ける子だった気がしたからだ。
「その子、友達も欲しそうなのに、自分から声をかける勇気がないみたいだったんで、私、無理にでもレセプションに連れだそうと思ってたんです、とにかく顔みしり、挨拶しあえる間柄を増やすのが始めの一歩だから。私もスモルニィに入ってすぐの時、ロザリアを通じてたくさんお友達ができて、わけても、生徒会の先輩方を紹介してもらったのが、今の幸せの切っ掛けだったから…って思って。で、私、ちょっと強引にでしたけど、彼女をレセプション会場まで連れだしました。寮の歓迎会なので、参加者は寮生だけで、そういう意味ではこじんまりしてるんですけど、参加者の数の割にレセプション会場は賑やか・華やかな感じでした。というのも、寮生には、私と同じ比較文化学部の留学生も多くて、留学生は学部生に比べて年嵩の人が多いし、見るからに異邦人って人も多いので、留学生の一団は、見ればすぐそれとわかって、人目を引くんです…すると、その子…エンジュが、留学生が固まってた一角を見つけてから、すごくそわそわきょろきょろしだして…そのうち、ちょっと思いつめた様子で私に話しかけてきたんです…」
アンジェリークはその日のことを思い出しながら、話を続けた。
最初「着る服がない」といいはって尻ごみするエンジュに「私だって普段着よ、そのままでいいのよ」とアンジェリークは言い張りー本当はドレスなら、いくらでも貸してあげられたけど、それは、また、彼女の劣等感を刺激する恐れがあったので、本当に普段着で会場入りした。実際、あまり華やかにしなくて、正解だった。皆、カジュアルにおしゃれ、という程度で、下手にドレスアップしていたら、エンジュが、また自分は場違いだと思いこんで遁走してたかもしれなかったので。
とにかく、飲み物を片手に、アンジェリークはエンジュを連れて、色々な子とおしゃべりを交わした。エンジュもこの1週間で少しは周りと打ち解けていたのか、知り合いも増えていたのか、会場をきょろきょろと人探し顔で見回したりもしていて、アンジェリークは良い傾向だと思った。ただ、お目当ての人は見つからなかったのか、明らかに落胆した様子も見せていたが。それでも、自分から他人に積極的に関わりを持ちたいと思うのは、良いことだ、と思っていたら、エンジュは、唐突に、少し、思いつめたような顔で、アンジェリークの専攻学部のことを尋ねてきた。
「あの、アンジェの学部って留学生が多いところよね?今、ここにいる寮生にも、留学生って、いるわよね?」
「え?ええ、私たちと同じ学年の留学生も来てるみたい、見たことのある人がちらほらいるから。けど、学年が違って顔をしらなくても留学生って独特の雰囲気があるから、なんとなく、わかるわよね」
「ね、留学生ってどんな人がいるの?アンジェは留学生と授業で話したりする?」
このパーティに出てる留学生に興味があるなら直接話かけた方が、色々な意味で、いいと思うんだけど…まだ、ハードル高いのかなと思ったことと、彼女が自分から他人に興味を示したのはー肯定的な意味では、初めてだった気がしたので、アンジェリークはわかることは、教えてあげたいと思った。ただエンジュが興味を示している留学生は、それぞれ専攻が異なるので、語学の授業で一緒になる以外それほど接点はなく、あまり、話をする機会はないのだと、正直に答えると、エンジュは、あからさまにがっかりした顔と同時に、どこか、ほっとした表情をみせた。
なので、アンジェリークは
「エンジュは留学生に…それとも留学に興味があるの?興味があるなら、あそこにいる留学生に話しかけてごらんなさいよ、実際に留学生がこの場にいるんだし、聞きたい事は直接聞いた方がいいんじゃない?留学生も、この国での知り合いは1人でも多くできる方が心強いだろうし、それこそ、会話のいい練習になるから、話しかけると喜ばれるわよ」
と提案した。が
「あ、いえ、ううん、その、あの人たちと話したいんじゃないから…新入生合宿の時に…1人ぼっちでぽつんとしてた人がいたのを見かけて、その人、アンジェと同じテーブルにいたから、留学生かも知れないって思って…ずっと1人でいても平気そうにみえたけど、本当に心細いこととか不便なこととかないのかなって気になって…でも、その人の姿は今ここに見あたらないから、このレセプションには来てないみたい…来てなかったんだわ、やっぱり…」
「1人ぼっちの留学生?」
アンジェリークは、その言葉に反射的に眉をひそめてしまった。あの虚無感を漂わせた銀髪の青年のことを思いだした…というより、思い当たるのがその青年しかいなかったからだ。そして、この時まで思いだしもしなかったが、留学生なら寮生であってもおかしくない、というより、寮生でない留学生の数はそう多くはない。このパーティにあの銀髪の青年も顔を出すかもと、迂闊にも、微塵も思いもしなかったのは、自分が意図的にあの青年のことを思考から追い出していた所為かもしれず、それは、我ながらあまり良くない心の動きだと、アンジェリークは自省しつつ…エンジュの言葉に明らかな落胆をかぎ取り、それも気になった。
『エンジュが気にしてるのは、あの留学生?でも、どうして…』
反射的に「なんで、その人のこと、そんなに気にしてるの?」と尋ねそうになり、口をつぐんだ。「なんで?」という問いかけには言外ではあっても明らかに否定の意味合いー「気がしれない」とか「信じられない」みたいなニュアンスが混じるからだ。
単に自分の直感で剣呑なものを感じたから、「その人に近づかない方がいい」とか「関わりになるのはどうかと思う」なんて、そんなおこがましいことは言えない、そんな権利はない、それこそ、私の勝手な…一方的な印象で、人を断じてはいけないし、彼が実際に何かしたわけではないのだから。それに誰にせよ、何にせよ、エンジュが他人に興味を示し、積極的に関わりたいというのは、良いことに思える…でも、私の感覚では、あの人って、何か…人が視界に入ってても、人と認識してないような…なんだろう、まるで、ただの物体、よく言っても家畜を見てるみたいな…見下してるとか他国人を差別してるとかじゃなくて、見下してさえいない…だって、人は「物」を見下したり、軽蔑したりしない、「物」は「物」でしかなくて、「物」に対して人は特別強い感情を抱いたりしないから…あの銀髪の青年は、そういう意味合いで、周囲に無関心なのではないか、そういう印象をアンジェリークは受けていた。
何度か語学の授業で見かけたことがあって、その時その眼差しから感じた印象が、そんな感じで…でも、だから、近づかない方がいいなんて…私が感じても、それは強制できることでもない、でも…やっぱり、なんだか、近づかない方がいい気がするの、理屈じゃなくて…でも、ああ、こんなこと言っても、わからないだろうし、わかってもらえないだろうし…と、アンジェリークは困ってー困惑して、珍しく黙ってしまった。
アンジェリークの沈黙は意に介さず、エンジュは言葉を続ける。
「…もしかしたら、あの人がきてるかも、なんて思って、会場まで付いてきた私がばかだったわ、考えてみたら、あの孤高の人が、こんな集まりに来るわけなかったんだわ、合宿でもずっと一人でいて、それで平気みたいだったし、異国に留学に来ていても心細いなんて思わず、一人強く気高く生きていける人なんだわ、きっと…」
エンジュは、明らかに落胆した様子でありながら、その瞳は熱に浮かされたように、何か、現実でないものを見ている風にひとりごちた。
その言葉を、アンジェリークの傍にいた、同期の女の子数人が聞きとめ、話に入ってきた。
「ね、エンジュが今言ってた留学生って、今年入ってきた、ちょっと目立つ銀髪の人?あの人、なにか影があって、何も話さないから神秘的っていうか「何者?」って、1部の女子が騒いでるみたいよ」
「あ、それって、もしかして、どこかの国の王子様がお忍び留学に来てるかもって話?私の友達で、お父様が外務省の官僚の方がいるんだけど、その子、入学前の休み中に、お父さんが、どこかの国の大使だか公使だかから、突然、その国の王族をこっちに留学させることになったので手配を頼むとか言われて、それが、ほんとに急な話だったから、SPの調達やお住まいの準備が大変だ、みたいなことをお母さん相手に愚痴混じりに話てたのをドア越しに聞いちゃったんですって。で、外国…なんて言う国か、結局、よくわからなかったらしいんだけど…て、いうのも、その子、もともと立ち聞きて、その情報をゲットしたから、正面切って親に確かめることもできなくて、それとなく、お父さんにその話を振っても、知らぬ存ぜぬでごまかされたらしくて、詳しいことはわからなかったんだけど、でも、親が必死に隠そうとするからこそ、外国のVIPがお忍びで留学に来るのは間違いないって、その子は確信したんですって、で、そんなVIPが入学するなら、きっと、ウチの大学に違いないわって、その子、言ってたのよ」
アンジェリークは、その話をきいて、新入生オリエンテーション合宿の時、誰かが話していたおとぎ話のような王子様の話は、ここが出所だったのかと、納得しつつ、僅かに眉を曇らせた。同じ外務官僚を父に持つアンジェリークだが、彼女の父は、娘に職務関係の話を不用意に聞かせてしまうようなことは皆無だったからだ。外務の仕事は、各国の利害が絡み守秘事項も多いので、部外者には口外していいことと悪いことの判断がつけにくい、それを用心してのことだと思うのだが。だから、アンジェリークは、これがもし事実だとしたら、一般学生の人口に膾炙してしまっていても大丈夫なのか、問題はないのか、ちょっと気になった。
アンジェリークの内なる懸念をよそに、別の子が話を引き取る。
「そうそう、それで、その銀髪の人が護衛らしい人を連れてたるのを見たって話があって、それで、その人が噂の王子様じゃないかって1部の女子の間で噂になってるみたいよ。それらしい人が寮にいない?って私、聞かれて、初めて知ったんだけど…それで、同級生の男子寮の学生に聞いてみたけど、今年の新入寮生で銀髪の男なんていないって言ってたから、寮には入ってないみたいよ。知り合いか親類の処にホームステイでもしているか、自分で部屋を借りてるのか…噂どおり王子様だとしたら、自分の国の大使公邸にでも住んでるのかもね」
「でも、それって、結局、本当にどこかの王族が留学に来てるのかも、その銀髪の人が噂の王族なのかも、はっきりしたことはわかってないじゃない?噂ばっかり、独り歩きしちゃってるような状態じゃなくて?」
「ただ、スモルニィなら、王族のお忍び留学もありえない事じゃないから、もしかしたら、って思っちゃうんだろうね、だから、噂がたつんだよね」
すると、その時まで、食いつくような瞳で女子の噂話に耳を傾けていたエンジュが、いきなり、わが意を得たりという声音で言った。
「そうか…そうよね!王子様みたいな高貴な方やお金持ちは寮になんて住まない、住む必要がないから、この歓迎会にいなかったのね!そうよ、お金があれば、フラットを借りるとか買うとかできるんですものね、さもなくば、公邸住まい…わずらわしい、うっとうしい寮になんて、住むこと、ないんだわ!」
エンジュは、アンジェリークの顔が更に曇ったことには気づかぬ様子で
「でも、留学生なら、生活習慣とか、ちょっとしたことで、不便を感じたりすること、ないかしら、留学生の助けになら、私でもなれるかもって思う?」
と、アンジェリークに体ごと向き直って問うてきた。
「え?あ…それは…そうじゃないかしら、留学生相手のボランティアって、実際、お役所での手続きの手伝いとか、銀行口座開設の手伝いとか、病気になった時のお医者様への付き添いとか、自国民なら何でもないことでも、異邦人にはハードルの高いことを手伝ってあげるみたいよ、留学生も助かるでしょうし、心強いでしょうし」
とアンジェリークは一般論で答えた、応えざるを得なかった。エンジュが誰を頭に思い描いているにせよ、自国民には常識だったり当たり前のことが異邦人には戸惑いや不便であるのは、ままあることなので、善意のネイティブ・ナビゲーターが手助けしてあげるのは、異邦人にとってありがたいのは、事実だからだ。
「そうかな…そうよね、そうだといいな…うん、やっぱり、私、思い切ってボランティアに申し込んでみようかな…今日、会えたら…って思ってたけど、こういう集まりにはやっぱり、参加してなかったし、そもそも、お忍びの高貴な方が寮になんて住むはずないんですもの、寮関係の行事に顔を出すはずないのにね…」
「今日、ここにきてない留学生」って…エンジュが手助けしたいのは、やっぱり、今噂になってる銀髪の青年?なの?やはり…でも、あの人、なにか得体が知れないとか、怖い雰囲気を漂わせてるとか、近づくのはどうかと思うなんて言えないし、それこそ、何の根拠もない…
「ね、アンジェ、留学生の手助けなら、この国の人間であれば大丈夫よね?私みたいな田舎者でも…首都出身じゃなくても、大丈夫よね?」
と、エンジュが重ねて聞いてきたので、アンジェリークは、もやもやした思いを、無理にでもふっきろうとした。私の、このもやもやは、何の根拠もないことだし、考えすぎ、神経質すぎなだけかもしれないしと。そして、前々から気になっていたエンジュのコンプレックスをちょっとやわらげるのに、これは、いい機会じゃないかという方向に意識を故意に移した。
「んーと、田舎があるって…故郷が地方なのって、悪いことじゃないでしょ?私、小さい時から父の仕事で2、3年ごとに転勤を繰り返していたから、故郷って言えるようなところ自体がないし、だから、故郷自慢っていうの?も、できないし。地方ごとのお祭りとか伝統とか、経験してるのっていいなって思うのに。幼馴染とか、小さい頃からずっと一緒の友達とか知り合いもいないから、そういうの、羨ましいと思うのに。エンジュは、私から見れば、いいなって思うこと、いっぱい持ってるのよ」
と言ってみると、エンジュは真剣に驚いたようだった。
様々な物の見方、受け止め方があることに気付いてくれればいい、絶対の真理って思いこんでることの多くは、絶対でもなんでもなくて、思いこみから解放されると、楽になることっていっぱいあるんだよって、気づいてくれると、いい。エンジュの立場だって、いいこと、いっぱい、あるよって、気づいてくれるといい、少しづつでいいから。アンジェリークはそう思い、そう行動してきたつもりだった。でも私のそんな態度が、寮生活がわずらわしいとか、うっとうしいとか…思わせてたのかな…でも、寮だと知己をいっぱい作れるし、そういうのも楽しいって思ってくれるといいなって思ってたんだけど…。
エンジュの言葉が少しさびしいと思ったけど、それは、この際、置いておいて。私自身、あの留学生に、剣呑なものを感じるのも、ただの思いこみだって言えばそうなんだろうし。それに寮内で作るばかりが友達じゃないのも確かだから、留学生相手のボランティアでも…彼女の自信に繋がれば、いいことだと思う、うん。
なのに、やはり、どうしても、何か気になる、引っかかるのだ。
エンジュがあの銀髪の留学生に興味をもつことに。
でも、自分の感覚には何の根拠もないことも事実で…だから、この直観的な気がかりを、アンジェリークは今までオスカーに相談せずにいた。学校の行き帰りに、気楽におしゃべりできる話題と思えなかったこともあって。
「それで、先輩のご意見を伺いたかったんです。私は、あの留学生に、噂の真偽はともかく、何か…近づきたくないって思ってしまうんです、すごく失礼だとは思うんですけど。でも、それは私だけの感覚で、人に強制できないし、この感覚をわかってもらえるかどうかも、わからない…どことなく影があって、神秘的で魅力的って感じる人も実際にいたし…先輩は、私が怯えていたのをわかってくださったけど…だから、先輩だったらどうします?どうしたらいいと思います?自分が迂闊に近づきたくない存在に、あえて、近づこうとする人がいる時…近づかない方がいいって、言っちゃってもいいのか…でも、あの子が、自分から他人に近づこうとしてるのなら、それは、とても良いことだし、できれば応援したいとも思うし…なのに、私が気にいらない人物だから、近寄るななんて言うのは、鼻もちならない傲慢だと思うし、私ったらナニサマ?とか思っちゃって…」
「お嬢ちゃんは、その子が他人に近づくのは賛成、ただし、あいつに近づくのはなんとなく良くない気がする、ってことだよな…その子は、人の話は謙虚に聞くタイプか?…」
「えっと、その、あの…」
アンジェリークがあからさまに困惑・当惑した表情を見せた。その顔を見、また、入学式の壇上で見かけただけでもそれとなく感じたあの頑なな印象を思いだして
「その顔だと、難しいみたいだな」
と、オスカーは苦笑交じりに答えた。
「なら、お嬢ちゃんの真摯な助言も、その子が聞き入れるとは限らない、こちらの意図が通じず、変に曲解されることもあろうから…」
と言ったところで、アンジェリークが、こくこくと大きく頷いたので、オスカーは「ああ、もう、そういう目にあっているのだな」とわかり、オスカーの言は断定の度合いを増す。
「俺なら何もいわない、冷たいようだがな。助言を求められれば別だが、先方が助言を求めていない状況では、何を言っても無駄になる可能性が高い。言葉というのは、先方に聞く耳があって初めて届くものだし、基本、強制力はない、しかも、現時点で、お嬢ちゃんの忠言には…君自身が認めるように、根拠が乏しい。大事な友が、のっぴきならない状況に脚を踏み入れかけてるなら、体を張って、殴ってでもやめさせるってことは、俺もあると思うー薬物に手をだしかけてるとか、カルト教団に入信させられかけてる、とかな。が、それだけの根拠が提示できず、助言も求められていない現況では、せいぜい「私なら、あの人には近づかない」と、それとなく意見を表明するのが精一杯かもな…」
「そうか、そうですよね…絶対止めるべき状況とか段階でないと、助言も効果がない…届かないかもですね、それに、私には、危うい人に見えても、本当はそうじゃないかもしれないし、とにかく、人とかかわることで、エンジュもいい影響を受けてくれるかもしれないし…」
「人の行動に干渉するってのは、それなりの根拠がいるし、誤解される危険も伴う、リスクを考慮し、天秤にかけて、それでも動いた方がいい、と思う時に限る、俺ならな。自身の行動は、どんな思いきったこともでできるんだがな、人の行動への干渉は…余計な口出しになるか、ためになる助言になるかは、状況と受け取る側の心境によって、大きく左右されるから。君は俺の言葉を真剣に聞いてくれるし、俺も君の言葉に耳を傾ける、オリヴィエやジュリアス先輩の言葉も同様、いや、リュミエールやクラヴィス先輩の言葉でも、たとえば、それが、自分に思いもよらないことだったとしても、耳に入れたら、それを俺は真摯に考慮するだろう、それは、根底に信頼と敬意、そして友情ないしは愛情があるからだ。その根幹がまだ確実でない間柄での助言は、お嬢ちゃんの意図どおりストレートに伝わるとは限らんからな」
「そう…そうですね。先輩のおっしゃる通りですね、じゃ、私、今の時点では、自分にも根拠がないし…エンジュと私の間には、残念だけどそこまでの感情の結び付きが、まだ、できてない気がするし…しばらくは、あの子のこと、黙って見守ることにします、それで、もし「何か変」とか「それ、おかしい」って思ったら、その時、言葉をかけてみることにしますね」
「ああ、それで、君の話を聞いて、俺は別のことが気になった。君は、心配いらないと言っていたが…やはり、あの留学生のことが、気がかりではあったんだな?」
「えっと、あの、その…はい。努めて関わらないようにしてるって意味では、意識してるっていえます…」
やつが『どこかの王族かもしれない』というアンジェリークから聞いた噂も気にはなったが、今は、それを検証する暇も術もないので、とりあえず、オスカーはこの件は思考の保留箱に入れ、自分が切り出したかった用件を、この場で伝えることにきめた。
「なら、お嬢ちゃん、甘くて熱い蜜の時間に再び浸る前に、俺からも、ちょっと真面目な話がある。愛するお嬢ちゃんに、実はプレゼント…というか、ぜひ受けとって身に着けてもらいたいものがあるんだ」
「え?あ、はい、何ですか?オスカー」
ベッドの中での睦言ープレゼントを送るという話題にしては深刻なオスカーの声に小首を傾げるアンジェリークに、オスカーはサイドデスクから発泡スチロールの飾り気のない小さな箱を取り出した。身につけるもの、とオスカーはいったが、アクセサリーの類のケースにはみえなかった、まるで機械類の梱包に使われるような衝撃吸収・実用重視の包装に見えたので、アンジェリークは、オスカーが何を取り出すのか見当もつかなかったし、もしかして、箱を間違えたのかも?とさえ思った。
オスカーがその飾り気のない箱を開けると、箱いっぱいにエアパッキンが詰まっており、まさしく家電の梱包という雰囲気だったが、オスカーがそのぐるぐるまきのパッキンをほどくと、その中心部から緑の石のペンダントが現れた。デザインは簡素でーラウンドカットの石を金の枠と台で何箇所か留めて、金の鎖をつけただけのシンプルなものだった。
「デザインに凝る余裕も時間も、なにより、そういうセンスをあいつに求めるのは酷だとは思ったが…お嬢ちゃん、もしかして、君の好みには若干沿わないかもしれんが、これをちょっと首にかけてみてくれないか?」
「はい」
オスカーは「うぅむ」と言わんばかりの渋い顔をしているが、アンジェリークはシンプルなデザインのアクセサリーを決して嫌いではない。緑の石は、自分の瞳の色に合わせてくれたらしいことは明白だったし、シンプルだからこそ、石の美しさが生かされていると思ったし、合わせる服をあまり選ばないだろうとも。でも、オスカーの口ぶりだと、このペンダントを選んだのはオスカーじゃない?なのに、オスカーからのプレゼントで、オスカーが身に着けてほしいという…もしかして、お家に伝わってきた由緒のあるもの?と思い、どきっとしたが、にしては、金具の色はピカピカで明らかに新しく、アンティークのそれではない、しかも、伝来の品だとしたら、たまたま石の色合いが私の瞳と同じだなんて、いくらなんでもできすぎだものね、と思いなおす。でも、オスカーの心配そうな、何か懸念顔は、これが単なるちょっとしたプレゼントではなさそうなことを物語っている。
「どう、ですか?先輩」
「ああ、君の瞳の色によく似合ってる。ヤツにもその程度の気配りはあったらしいな…ところで、お嬢ちゃん、そのペンダントの留め具や石の裏の金属部分は、君の肌にきちんと触れて…接触しているか?」
「え?は、はい」
「じゃ、ちょっと、そのままでいてくれ、あ、いや、普通にしてていいし、動いてもいい。俺は今、携帯の液晶をチェックするが、君のことを2の次にするとか、蔑ろにするとかじゃないから、機嫌を損ねないでくれよ?」
オスカーの言葉にぴきんと直立不動になりかけたアンジェリークは、少しだけ安堵して肩の力を抜いたが、何が何だかわからない状況は変わらない。と、オスカーが、携帯の液晶となぜか、アンジェリークを見比べて「良し!成功だ」と安堵したように言った後、オスカーは
「お嬢ちゃん、ちょっとこれを覗いてご覧」
といって、アンジェリークに携帯電話を手渡した
「は?はい」
そこには地図が映っていた。オスカーが、ぐっとズームする。何か、見覚えのあるような建物名…更にクローズアップ、建物の一翼の中で、光点が点滅している。
「???何ですか?これ?」
「お嬢ちゃん、これは君だ」
「???」
アンジェリークは、きょとんとした。私って馬鹿?オスカー先輩が何をおっしゃっているのか、全然理解できない…と思って、オスカーの顔をみる。
「お嬢ちゃん。今、君に着けてもらったペンダントだが、それは一種のGPSなんだ、極めて高性能の。俺がゼフェルに頼んで作ってもらった」
「GPS?このペンダントが?すごいですねー、GPSっていったら携帯電話に付いてるのが普通だけど、携帯ってたまに置き忘れたりなくしたりするけど、この形なら、確かに身につけやすいし、めったに外さないだろうから、忘れにくいかも。いかにもメカって形でもないし…ゼフェルの新発明ですか?あ、でも、先輩が頼んで作ってもらったってことは、先輩がゼフェルに新製品の開発依頼をなさったんですか?」
「将来的には、それも見越してはいるが、商品化するとしても相当先だし、製品の性質上、一般販売はできんな、この形状そのものが売りになるからおおっぴらに宣伝はできんし…いや、それよりも、お嬢ちゃん、大きさ形状はどうだ?身につけていて、重いとか、大きいとか、負担感はないか?」
「は?はい、それは全然」
「ずっと…24時間つけていても、負担にはならないだろうか…というのは、今日1日つけてもらわねばわからんよな」
「えっと、小さいし軽いので、それはたぶん、大丈夫だとは思います、でも24時間ずっとですか?お風呂の時とかもつけておいた方がいいんですか?」
「入浴時には、ネックレスの類は外すか…それは、かんがえていなかったな…」
「えっとシャワーくらいなら、つけたままってこともあると思いますけど、ゆっくり入浴したい時は外すかも…」
「入浴は時間としては僅かなものだし、お嬢ちゃんが風呂に入るのは、寮の自室か俺と一緒の場合だけだろうから、若干の懸念はあるが、問題視するほどでもないか…でも、できるなら、なるべく外す時間は短いに越したことはない。お嬢ちゃんがその身からあまり外さないアクセサリーと言ったらなんだ?その指輪か?」
「あ、いえ、指輪も…石付きのものは、洗いものや入浴時は外します、特にダイヤは繊細だから…えっと、つけたままでいることが多いって言うと、石なしのシンプルな指輪か、ピアスかなぁ、小ぶりのものに限りますけど、小さなピアスなら入浴時も寝るときもそのままってこと、ありますよ」
「なるほどな…このペンダントでも限界まで小型化軽量化は試みてはいるだろうから、これ以上の軽量化が可能なら、シンプルなリングかピアスタイプの方が常時付帯しても第3者からみて自然かつ装着者の負担も少ない、外す機会が減れば、それだけ付け忘れ…装着し忘れの恐れも減るし、何より装着者が装着している事実を忘れて意識しない、位の方が、GPSとしては、安心できる…無茶ぶりもいい加減にしやがれとか言われそうだが、一層の小型化も依頼してみよう」
「あ、でも、このペンダント位の大きさなら、1日中つけてても、負担ではないですよ、本当に、入浴時に外すかつけたままかは、人によるかなって思います」
「ああ、ただ、無理はしないでほしいし、率直な意見を聞かせてほしいので、首周りがうっとうしいとかあれば、感じたことは正直に言ってくれて構わない、むしろ、積極的に言ってくれた方がいい、改良の手がかりになるからな。後の問題は高度表示だな…高度に関しては、若干の修正とフォローアップが必要だな…この表示では、高層建築内にいる場合、階数の特定までは難しいな…10F〜12Fの間、では、所在確認とはとてもいえん」
「???で、えーっと、私は、これを身につけていればいいんですか?えっと、いつまで?」
「ずっとだ、少なくとも、君が俺と結婚して正式なクラウゼウイッツの一員になるまで。今の俺にできることは、これが精いっぱいなんだ」
話を聞けば聞くほど、アンジェリークは、自分がどんどん馬鹿になっていくような気がした。オスカーとの会話で、オスカーの言葉がこれほど理解できないのは初めてだった。
「オスカー先輩、私は、先輩が依頼してゼフェルが作ったGPSのモニターをするんじゃないんですか?」
「確かにモニターはしてほしい、だが、これは、商品化ありきのものではなく、アンジェリーク、君1人のために、俺が依頼し、ゼフェルも君の身の安全をより確かにするため、という理由があったからこそ、快く承諾し、制作してくれたものなんだ」
「わたしのため?私1人のため?」
「ああ、今から少し…真面目な、そして、あまり、楽しくない話をせねばならないが、聞いてくれるか?」
ベッドの上でしゃんと居住まいを正し、真面目な顔つきで、アンジェリークが頷いた、オスカーの話が真剣かつただならないものと感じて。
そしてオスカーは財界要人の子弟が営利誘拐される危険について、同時に、アンジェリークもまた、オスカーの婚約者となることで、その範疇に否応なしに入るーつまり標的として狙われる危険が生じるという事実を、端的に伝えた。
「お嬢ちゃんには申し訳ないと思う、ただ、お嬢ちゃんには、絶対に状況を甘くみないでほしい、「まさか私が」という楽観論は営利誘拐をビジネスとして行う者には通用しない。君の父君が正式な婚約を先延ばしにしたがっているのも、社交界で君がお披露目され、君がクラウゼウイッツの、アルテマツーレに連なるものと広く周知されると、君への危険が増すことを承知しているから、俺に自重を求めているんだ。そして、事実、今の俺には、悔しいが、24時間君を守り抜く力も…その権限もない。俺の気持ちは、君を絶対に守りたい、決して危険な目に会わせたくない。そして口先だけで「俺は君を守り抜く」と宣言するのは簡単だ、だが、それを完璧に実践に移せるかというと…大学生の俺に、まだ、そんな力はない。24時間君と一緒にいることは不可能だし、恒久的に護衛をつける権限も財力も今はない」
「そ、そんな、オスカー先輩、そこまでしていただかなくても、私も、気をつけますし…」
「ああ、だが君1人での警戒には限度があるし、警戒心を持たせないよう不埒者が近づく例もあるんだ、例えば「道を教えてくれ」といって近づいてくる車があれば…これは、手口としてはありきたりだから、君も警戒するだろう?だが、もし「急病人が出て、困っている」と声をかけられたらどうする?見れば車には具合の悪そうな病人がいて、同乗者が「病院の場所を教えてほしい」と、君に尋ねてきたら、君はとっさに、医者の場所を考え、教えてしまうだろう?そちらに気を取られている時、病人のふりをしていた者に、背後から近づかれ口と腕を抑えられたら…アウトだ。簡単に車に連れ込まれてしまう。これは…俺が幼少時に危機管理と護身で教え込まれた事例なんだ。とにかく、エンジンをかけっぱなしで停車している車と、近づいて来る車には警戒しろと…助けを求めらても、救急車か警察を呼ぶといって、すぐ、その場から離れろと」
「オスカー…」
「それ以上に、複数の人間に…例えば2台の車に挟まれ、進退きわまって、力づくで車に連れ込まれるという可能性もある、俺も、ある程度の護身術は叩き込まれているが、多勢に無勢の可能性がないとは言いきれない。そこで善後策として、誘拐されても迅速に発見救出することを視野に置き…俺は幼少時には高性能のGPSを持たされたが、長じて留学に出る時に、皮下にマイクロチップを埋め込まれた。手持ちのGPSと違って、電源が切られたり、壊される恐れがないし、すぐ所在地が掴めるからだ。尤も、俺が埋め込まれているのは、それ自体が所在地情報を出すわけじゃなく、親機が特定の周波数を発して、それに反応・応答するタイプなので、常に居場所を監視されたりしてるわけじゃない、プライバシーは保たれている」
建前上はな、そして、俺も一応は、それを信用している…が、プライバシーなんてものは有事に際しては忖度されないものであることも承知していた。
「正直に言おう、君が俺と結婚し、妻となった時には…俺と同じくマイクロチップを皮下に埋め込むか、君に歯科治療痕があるようなら、そこにセットしてほしいと俺は思っている。クラウゼウイッツ一族の一員になる、ということは、そういう危険に常に備えねばならない、ということなんだ。だが、内々の婚約者である現時点で、君にそこまでのことをお願いすることはできない。が、内々であっても君が俺の婚約者である事実は看過しえず、君に、身の危険が増していることは否定できない。そこで、現時点で可能な限りの備えということで…ゼフェルにこれを作ってくれと、依頼したんだ。女性が常に身につけていて不自然じゃなく、一見そうとはわからない、装着者に負担の少ないGPSを。そして、出来上がったのがこれだ。俺としては、ぜひ、君にこれを常時身につけていてほしい。無論、無理じいや強制はしない、これは、あくまで俺個人の要望だ。それで言ったら…俺と恋仲になることで、そんな危ない目に会う恐れがあること自体、君には心外なことだろう…こんなものを身につけろ、と言われること自体、監視されてるみたいで、鬱陶しくて、嫌かもしれない。もし、こんな環境についていけない、耐えられないと思ったら…その時は…」
「ばか…」
アンジェリークが伸びあがってオスカーの唇にキスをした。徐々に苦渋の度合いを深めていっていたオスカーの言葉が中途でさえぎられた。
「それ以上言ったら怒りますよ、オスカー。私がそんな程度の気持ちで、オスカーのこと、愛してるって…ずっと一緒にいたいって言ってると思ってるんですか?」
「怒りますよ」という言葉とは裏腹に、アンジェリークの眼差しは限りなく優しく、口元には包み込むような温かい笑みが浮かんでいた。
「オスカー、ありがとう、こんなにも私のこと、思ってくださって。大事にしてくださって…このペンダント、ずっと身につけていればいいんですね?そしたら、オスカーは普段、安心できるし、もし、万が一、私に何かあっても、すぐ、オスカーがどうにか対処してくれる、そういうことなんでしょう?なら、つけます、つけるに決まってるじゃないですか、全然、負担なんてことはありません、それで、オスカーが安心してくれるのなら尚更です…」
「アンジェリーク…」
オスカーの胸は熱いものでいっぱいになった、と、同時に、自分が深く安堵したことに、そして、自分が、この件をアンジェリークに告げることに、どれほど緊張していたかに、初めて気づいたのだった。