Before it's too be late 15

クラウゼウイッツの一族と関わる、もしくは、その一員になると「死の商人」の関係者として、陰でさげすまれたり、侮蔑的な扱いを受けたりという事実が厳然としてある、だが、その不利益は主に感情的なもの、気持ちの上のもので、こちらが気にしないよう努めることで、軽減できる。なんといっても世界有数の大富豪であるクラウゼウィッツーしかも、その富は正当な商行為という実業で合法的に取得したもので、実態のないマネーゲームなどの虚業で手にしたものではないことを、実のところ、クラウゼウィッツの一族は誇りに思っているーに正面切って唾を吐きかける蛮勇の持ち主は、そう、いない。

だが、大富豪であるが故に避けられない、気の持ちようだけの問題ではすまない、実際に現実的な危難ー営利誘拐という危険がある。そして、その危難を避けるために、監視されたり行動に制約を受けるという実際的な不利益が関係者個々人に降りかかってもくる。それを、アンジェリークに率直に告げることは、必要ではあったが、気の進まないことでもあって…なにより、アンジェリークにどう受け取られるかが、オスカーは怖かった。だから、緊張した。

でも、アンジェリークはたった一言の言葉と笑みで、オスカーの不安を、危惧を、一瞬にして払拭してくれたのだった。

「すまない、アンジェリーク、俺が…俺の境遇のせいで、君にはいらぬ苦労をかける…ただ、大学というのは、高校に比べて、かなり外に開かれている、人の出入りも多い、正門に警備員はいても、学生証をいちいち確認まではしないし、ましてや、学生自身が不穏分子の構成員だったり、何かの組織にとりこまれてしまっている場合もないとはいえない、学内といえども100%安全とはいえない、だから…君の身の安全性を高めること、確実にできることは、なんでもしたいんだ、俺は」

アンジェリークは「私が神経質なのかも」と自分に言い聞かせようとしていたようだが、オスカー自身も、あの銀髪の留学生の素性が気になっている。監視だか護衛付きで外交官ナンバーの車で送迎されているような人物が一般人ー普通の留学生であるはずがなく、彼が特別であるその理由が、単にVIPだからなのか、危険人物だからなのか、オスカーには判断材料がない以上、楽観よりは警戒へと、オスカーの天秤は傾く。何より、あの得体のしれない人物が、偶然だから仕方ないのだが、アンジェリークと同じ学部生だというのが、看過しえないこともあって、安心材料は一つでも多くもっていてほしい。だから、急ぎ、ゼフェルに無理を言ったし、アンジェリークには、懇願してでもGPSを常時装着してほしいと考えた。

そして、アンジェリークは、そんなオスカーの真意を、きちんと理解していた。うろんな留学生の存在を、オスカーが、アンジェリークが想像する以上に案じていることまでは気付かなかったがーというのも、あの留学生と自分の間に、いかなる関わりも生じることはないだろうとアンジェリークは思っていたからだが。とにかく、特定の危険因子に思い当たる点はなくても、財閥の御曹司であるオスカーの危惧は、極めて真剣なものであることも、オスカーは、自分のことを、自分以上に案じてくれており、それは自分を身内と思ってくれているから、用心してくれているのだとわかっていた。その誠意に感謝こそすれ、オスカーを過保護だとか、心配症だとは思わなかった。オスカーが安心してくれるなら、何でも身につけるし、それくらい、本当にお安い御用だと思った。

「すまない、なんて、おっしゃらないで、むしろ、お礼を言わせてください、先輩…オスカー。オスカーが私の身をそんなにも深く真剣に案じてくださってることに。だから、GPSを身につけることで、オスカーが安心できるなら、そんなの苦労でも何でもないです、喜んで身につけます」

「アンジェリーク…」

「それに、先輩…オスカーは、私が入学してからずっと、毎日、私の送り迎えをしてくださってたでしょう?それも、私の身を案じてのことだったのでしょう?私が、おびえたりしてたから、送迎してくれるのかと思ってたけど、それ以上に、オスカーは、私の身の安全を考えてくださってたんですね。でも、このGPSをつけていたら…いつでも、すぐ、私の居場所がわかれば、オスカーも安心だから、毎日の送り迎えまでは、しなくても済むでしょう?負担じゃないとはおっしゃってくださっていたけど、私のタイムスケジュールに合わせて、オスカーが動いていること、やっぱり、申し訳ないと思ってたし、負担でない訳ないと気になっていたんです、でも、このGPSがあれば、安心でしょう?あ、もちろん、送り迎えしていただけるのは、純粋に嬉しいんです、でも、オスカーの負担になるのは嫌なの、オスカーの無理のない範囲で、一緒に登下校してくださるのが、私は嬉しいの。だから…私、このペンダントを肌身離さず着けるようにしますから…これからは、オスカーと授業の時間の合う時に、一緒に登下校してくださいって…そうお願いしてもいいですか?」

「お嬢ちゃん…ありがとう、俺の方こそ、君の気持の何もかもに礼を言う、言わせてくれ」

オスカーは生真面目にアンジェリークに告げた。

俺はアンジェリークの身を案じている、それは事実だが、彼女に高機能のGPSをつけてもらいたいのは、あくまで「俺自身」が安心したいためでもある。だから、彼女に何も強制はできない。彼女が、こんな、いつも監視されているような境遇は嫌だと言えば、無理じいはできないし、俺は…そう、愚かにも、またも同じ陥穽にはまるところだったが、心のどこかで『巻き添えで、営利誘拐の危険にさらされるなんて御免だ』と、アンジェリークに思われれば、別れを言いだされても仕方ない…と、諦める気持ちもあり…そう、どこか心が退けていたのだ。

そんな俺の弱気を、引け目を、彼女は優しくなやかな心でたしなめてくれた。彼女は俺の境遇から何から、ひっくるめて俺を愛してくれていたのに、彼女の愛はこんなにも強く深く揺るぎないのに、俺が、揺らいでどうするのだ。

「馬鹿だな、俺は…けど、おかげで、お嬢ちゃんに、怒られるのもいいものだなって、わかった。癖になりそうだぜ」

「オスカーったら…でも、それは私も同じです、もし、私が何かで迷ったり、間違えそうになったら、遠慮なく叱ったりたしなめたりしてくださいね、怒ってくれるのって、親切じゃないと…その人を思う心がないとできないことですもの」

「そうだ、その通りだな、お嬢ちゃん。俺は…俺たちは幸せものだな」

「はい、本当に。じゃ、私、このペンダント、肌身離さず付けておくようにしますね、それで、先輩が必要だと思った時は、いつでもモニターしてくださいね、使っていて何か気付いたことがあれば、私からも、言うようにしますし」

「ありがとう、お嬢ちゃん、俺のわがままを快く聞いてくれて…。さて、すべき話も終わったところで…このあと、どうする?俺自身は、この休暇が終わるまで、ずっとこのまま…生まれたままの姿で、好きな時に好きなだけお嬢ちゃんの素肌に触れて、触れられて、お嬢ちゃんと繋がって過ごしたい、そんな気持ちなんだが?」

「ふふっ…はい…私も、オスカーとキスして、触れあえること、そして、オスカーが私を求め、抱いてくれること…これ以上の喜び、これ以上幸せな過ごし方はありません」

「まったく…君は…俺にそんな言質を与えたら、比喩じゃなく、俺は君をずっと離さないぜ?…なら、俺は…君も…俺と同じ気持ちだと自惚れてもいいのか?俺と密に触れ合うことを何よりの喜び、幸せと感じてくれていると…」

「はい、だって、それこそ私の願いで、望みですもの…せんぱ…オスカー、だって、私、ずごく、我儘で欲張りなの、オスカーにいっぱい触れたいし、触れてほしい…普通におしゃべりしたり、一緒に歩いたりするのも楽しいけど、それは平日に、周りに人がいてもできるし、他の人ともすることでしょう?でも、こうして素肌に触れたい、触れられたいと思うのはオスカーだけだから…ずっとずっと、触れたかったし、触れてほしかったの…オスカー…好きなの…心から愛してる…だから…私…オスカーが嫌じゃなければ…あの…今度?次の機会?は…あ、今日じゃなくてもいいんです…けど、私からもオスカーに触れたいの…触れさせてほしいの…今さっきは、触れていただくばかり…私ばっかり、気持ちよくしていただいちゃったから…」

「アンジェリーク…」

「あの…こんなこと言ったら、はしたないと思う?私のこと…呆れちゃう?」

「何を言う、その逆だ。君は、どこまで俺を喜ばせる…そんな風に甘やかされると、俺は際限なくつけ上がって図にのっちまいそうだ…」

「だって、あんなに気持ちよくしていただいて…気持ちよくしていただくばかりだったから…私も、私からも、オスカーに気持ち良くなってほしくて…」

「どこまで、かわいいことを言うんだ、君は…こんなかわいい君を前にして、次の機会なんて、もったいぶることなんて、俺にはできないぜ!」

「きゃ!」

オスカーは、アンジェリークを抱きすくめざま、故意に腰を彼女の身に押し付けた。

アンジェリークの頬、いや、耳まで真っ赤になる。

「せんぱ…オスカーの、また、もう…こんな…」

「言っただろう?君を離さないって…そしたら、君も俺と同じ気持ちで…君から触れたいと言ってもらえて…君が、そのかわいい手で、この悩ましい唇で…どんな風に俺に触れてくれるのか…期待にぞくぞくしているぜ、こうなるのは、当たり前だろう?」

「あぁ…そんな風に思っていただけて…私、嬉しい…」

「アンジェリーク…君の好意に…言葉に甘えさせてもらってもいいか?」

「はい、オスカー、喜んで…心から喜んで…どうか、私からも…触れさせて…」

アンジェリークは、オスカーの首に腕をまわして、はすかいに口づけた。

いつも私の身を案じて、気遣ってくれるオスカー、私をこの上なく大事に大切に思ってくれてるオスカー、オスカーが私にくれる思いの何分の1かもしれないけど、私も、私のありったけの「好き」って言う気持ち、オスカーに喜んでもらいたい気持ちを届けたい、伝えたい。そして、オスカーが安心してくれるのなら、心がやすらうというのなら、なんでも身につけるし、そんなことは苦痛でもなんでもない、と、アンジェリークは心から思った。

 

さて、時間を少々さかのぼる。アンジェリークが、オスカーに会いにでかける少し前のことだ。

エンジュは、大学生活が始まって2週間過ぎた週末の朝を迎えていた。

朝食は、いつもどおり、彼女が…かわいい容姿と人懐こい笑顔を持つおせっかいな学友、と言っていいのだろうか、このきらきら輝く全てに恵まれている女の子が、自分のように冴えない田舎者を友人と思ってるわけがない、何かと声をかけてくるのは、ほんの気まぐれではないかと、つい、怪しんでしまい、友人と言い切るにはためらいを覚えてしまうのだが…とにかく、その彼女が迎えに来て食堂に引っ張っていかれることで始まった。

この朝、食堂は、週末で授業のある者が少ないからか、平日の忙しい空気は薄かった。のんびりとおしゃべりを楽しみながら、食事をしている者がほとんどだ。ところどころに朝食を急ぎ掻きこんでいる者もいるにはいたが。

多くの者は履修科目に何を取るか決まって、履修届を出し終えた頃だ。授業のコマ数が決まることで、おのずと課外活動に出られる曜日や時間帯も決まっていくので、入るサークルを決めたり、アルバイトを始める者も多い。慌ただしく食事を摂っている者は、週末の課外活動に出かけていくのかもしれないし、あちこちのテーブルから、アルバイトを決めたとか、今日、面接を受けに行くとか、いいバイトのクチがあったら紹介してよなんていう会話が聞こえてくる。

そんな喧しいおしゃべりを耳にしながら、エンジュには、何も予定がない。

先週は寮での新入生歓迎行事があって、今も、自分を早々と朝食に引っぱり出し、顔見知りのいる卓にするりとついて、楽しそうにおしゃべりを始めた彼女に、会場中ひっぱりまわされていたので、無聊をかこつ暇もなかった。

でも今週は…サークルも決められない、アルバイトをする決意も固められない自分には、何の予定もない。留学生相手のボランティアにエントリーしてみようかとも考えてもみたが、自分が関心を持っているのは、1人、銀髪の青年だけだったし、ボランティアを申し込んでみて、その人と接点を持てるかどうかの保証はない、もし、噂どおりに高貴な生まれの人なら随身とかいっぱいいて、そもボランティアなんて必要ないかもしれない、そしたら、ボランティアに申し込んでも、会えるとは限らないし…と、考え込んでしまって、何も行動を起こさないまま、入寮して、2度めの週末を迎えたのだった。

見回せば、寮生はそれぞれにー自分以外は皆、予定があるみたいだ。ウキウキした様子で朝食もそこそこにテーブルを立つ者は、週末ならではの楽しみにー映画とかショッピングとかサークルの歓迎会とかデートとか…心浮き立っているのだろう。

でも、自分には何もない。

これから、予定に埋まる週末なんて来るのだろうか、と思ってしまう。

教務の職員に尋ねながら、履修届はなんとか提出できたが、授業を無事受ける段取りさえ整えば、それでOKではないのだ、自分は。優秀な成績を収めないと、奨学生の資格を失ってしまうし、そうしたら、もう大学には通えない。必死に勉強しなくては、と思うと、不器用で要領の悪い自分にはー一時に2つのことができない自分には、サークル活動なんてハナから無理、アルバイトする時間の余裕も体力もありっこない、と思えてしまう。サークル活動に時間を取られて、勉強できなくなって、奨学金を失ってー卒業できず、故郷に帰るなんて、惨めなことになるのは絶対にいやだった。

今同じテーブルを囲むきらきらの彼女は「故郷があるのって羨ましい」なんて言っていたけど、エンジュには、その言葉もおためごかしかお愛想としか思えなかった。自分にとって故郷は軛(くびき)であり、重荷であり、枷としか思えない。昔馴染みの知己も、過去の惨めな自分を知られてしまっている存在ー疎ましい、忘れ去りたい人間関係としか思えない。そんな惨めな記憶だけが蓄積されている故郷に、大学も卒業できないで帰郷すれば、惨めの上塗りだ。その恐怖を思うと、アルバイトもサークル活動も、とりあえず試みるのもー試みて「やっぱりダメだった」になるのを考えると恐ろしくて、動き出せない。だから

『アルバイトしてお小遣いをおしゃれにつぎこめるなんてことも、楽しいサークル活動をするなんていうのも、所詮、私には無縁のものなんだわ、どうせ、私にはできっこない』

と、自分に言い聞かせてきた。課業で忙しい平日には、それは、どうにか、うまくいっていた。

本当は…心の底では、寮での歓迎行事であの銀髪さんに会えなかったから、あの人との接点は、留学生相手のボランティアしかないだろうと思えるのだが。あの人に会いたいと思ったら、ボランティアに賭けてみるしかないと、わかっているのだが。だって、もし、彼が噂どおりの王子様、控え目に言っても、貴族とかお金持ちの御曹司なら、彼が参加するようなサークル活動ー乗馬部とか社交ダンス部とかゴルフ部とかには、自分は参加できっこないのでー費用の面でも技術面でもーなおさら、接点は留学生相手のボランティアしかないと頭ではわかっているのだが…。でも、ボランティアに参加しても、あの人に会えるとは限らないし、それで、勉強がおろそかになって、大学にいられなくなったら、元も子もないし…と、うじうじ、迷い悩んでるうちに、週末が来てしまったのだった。

でも、いざ週末になってみて、私事で充実している他の寮生を見ると、自分のみじめさを思い知らされる、劣等感が刺激される。

お金の心配をせずサークル活動できる子が羨ましい、そこそこの成績でいいー優秀な成績を取らねば卒業できないプレッシャーのない子たちが羨ましい、自分は奨学金が打ち切られるのが怖くて、成績が落ちたらなにもかも終わりだと思うと、週末も何の予定も入れられないのに、私以外の学生は、皆、楽しく週末を過ごせるんだ。

そんな惨めさに打ちひしがれていたエンジュは

「エンジュ、エンジュってば」

と幾度か声をかけられて、ようやく、自分が声をかけられているのだ気づいた。

「エンジュは、この週末、どこか出かけるとか、何か予定はあるの?」

と、続けて、無邪気な口調で、尋ねられたことで、かーっと頭に血が昇った。

「…私には、何にも予定なんてないって…いれようがないって、知ってるくせに!」

エンジュは、いきなり、がたんと大きな音をたてて席を立つと

「ごちそうさま!」

と言うや、食事のトレーを下げ口につっ返し、後ろも見ずに、まっすぐ自室に戻ってしまった。そして、机に向って猛然と勉強に打ち込み始めたのだった。私には勉強以外ないんだから、勉強以外、することはないし、してる暇なんてないんだから、と、自分に言い聞かせながら。

 

全然外出しなかったせいか、昼は食欲が出なくてなんとなく抜いてしまったー本当は、皆外出してしまってがらんとしているであろう寮の食堂で1人で昼食を取るのが、惨めで嫌だったからーという理由は意地でも認めたくはなかった。

しかし、いくら部屋から一歩も外にでなくても、流石に夕食時には空腹を覚えた。でも、夜は、またいつもと同じー彼女が誘いに来るだろうから、それから食事に行けばいい、と思っていた。毎日、誘いに来られ、初めて会う人たちと食事をともにするのも、流石に、もう、慣れっこになっていた。どうせ食堂には行かざるを得ないのだからーエンジュは食事込みの寮費も奨学金から支給されていたのでーと思って、いつも誘われるまま、促されるままに卓についていた。『なんで、この子は、まったく知らぬ人にー同じ女子寮生だっていうだけで、物おじせず誰にでも笑顔で話しかけられるのかしら、誰とでも仲良くおしゃべりできるのかしら』と、いつも不思議に思いながら。だから、その夜も、待っていた。だが、彼女はいつまでたってもエンジュを呼びにこなかった。待っているうちに空腹なこともあって、だんだんイライラしてきたが、それでも、ただ、エンジュは自室で待ち続けた。

もうすぐ食堂が閉まってしまうーいわばラストオーダー近くの時刻になって、辛抱しきれなくなり、エンジュはようやく立ち上がりに食堂に行くことに決めた。

『やっぱり…彼女が私なんて誘っていたのは、ほんの気まぐれだったのよ、そして、もうその気まぐれをやめただけ。あの、何もかもに恵まれた可愛い子が、私なんかを誘ってくるなんて、おかしいと思ってた。そうよ、わかっていたことよ。馬鹿正直に待ってたなんて、ほんと、ばかみたい。おかげで食事取るのがすっかり遅くなっちゃったじゃない』

不満が胸に燻ぶった。「今日に限ってあの子が来ないのはおかしいな」とか「いつも誘ってもらってるから、今日は自分からあの子を誘ってみよう」とは全然思いつかなかった。今朝、自分が激したことでーエンジュ自身は、それは自然な思考の流れの果てに出た、当然の感情の発露だったので、周囲がエンジュの突然の激発の理由を理解できず、呆然としていたなんてことは想像もしていなかったし、そんなことがあった後なので、もしかしたら、声をかけてきにくいかも、なんて更に想像を巡らすのは、エンジュが最も不得意とすることだった。それでも「食堂に食事に行く」と決めてみてから「もしかしたら、たまには私から誘った方がいいのかしら」とちらと思ったりもした。が、考えてみたら、自分はあの子…アンジェリークの部屋番号すら知らなかった。いつも誘われるばかりで、自分から声をかけたことがなかったからだ。知らないのだから仕方ない、と思いー別の寮生や舎監に尋ねてみようとか、携帯に電話してみようとも考えずー思いつきもせずに、エンジュは、1人食堂に向かった。

食堂に行っても、そこにはアンジェリークはおらず、そのことに、エンジュは、少しほっとした。アンジェリークが自分を無視し、もう誘うのをやめて他の子と食堂で談笑してる風景なぞ見かけたら「やっぱり…わかってたことじゃないの」と思っても、絶対、嫌な気分になっただろうからだ。

1人分の食事を受取り、席を探す。いつもより時刻が遅い所為か食堂は空いていたので、適当な席に着いて、食事を始める。見回せば、見知った顔がいるかもしれなかったが、自分から顔見知りを探して声をかけるのは面倒だった。だって、私は、1人でも平気、故郷でもいつも1人だったし、最近は、アンジェに無理やりひっぱりまわされてたけど、本当は、私は1人でいるのが好き…だし…あの銀髪の人みたいに、自分から誰かに声をかけたりしない、それが平気で当たり前の毎日でありたい…のだもの。

そう自分に言い聞かせながら、機械的に食事を口に運んでいた時だ

「あ、エンジュ、こんなところにいた。今、部屋に声かけたけど返事なかったから、誰かとこっちにいるかと思ってたんだけど、今、1人でご飯ってことは…やっぱり、ご飯の時間、忘れてた?」

と、ある女の子が声をかけてきた。アンジェリークと一緒に、何度か、同じ卓でご飯を食べたことのある子だった。今朝も同じテーブルにいたかもしれない。おはよう、お休みと挨拶されれば挨拶し返す、そんな程度の知り合いだった。

その子に『1人でご飯』と言われるのは『あの銀髪の人みたいに1人でいても平気』ということだから、誇らしいはずなのに、なぜか、エンジュは、そうは思えなかった。大声でそんなこと、言わないでほしいと思いながら、その子の別の言葉に、もっと強い引っかかりを覚えた。

「…やっぱり…?やっぱりって何?どういうこと?」

「いつもは、アンジェがエンジュに声かけて一緒に食堂に来てたでしょ?だから、アンジェがいないと、エンジュはご飯の時間を忘れちゃうかもって、アンジェ、出かける前に気にしてたから。アンジェが心配してた通りだったね」

「アンジェは、今日、いないの?」

いないから自分を迎えに来なかったのか、と思うと、ちょっと心が慰められたが、それならそうと、言っていってほしかったと、何か蔑ろにされた気がして、エンジュは面白くなかった。複数人が同室で暮らしているならいざ知らず、個室に住まう寮生たちは、いちいち「今日は出かける」と互いに報告しあうことはあまりーというより、まずないのだが。というのも、玄関のネームプレートを見れば、寮生が外出中か在室中かは一目瞭然だから、たまたま、出かけるところを見かければ声を掛け合うことはあってもー「デート?」「ううん、バイト!」などーわざわざそれぞれの個室を訪ねて「私、今日、留守にします」と宣言する者はいない。だから、アンジェリークも今まで通り、ホールで会って話しかけられた子には「デートなの」と答えはした。それに、元々、アンジェリーク自身は朝食時に、エンジュに「今日と明日、私、出かけていないの」と、声をかけるつもりではあったのだが、エンジュの突然の激発でその機会を失したという事情があった。そんな態度を取られた後、あえて、部屋まで追いかけ訪ねて外出の告知するなど、アンジェリークでなくてもためらうところだろうし、むしろ、そんな義務も義理もない、と、思う方が多数派かもしれない。でも、アンジェリークはそういう気持ちからではなく「週末に予定がない」ことに神経質になっていた?らしく思われたエンジュに、自分の私用外出をわざわざ報告しにいけば、更にエンジュの神経を逆なでするだけではないかと危惧して、外出前にエンジュに声をかけるのをやめたのだった。部屋まで知らせにいかなくても、自分が留守なのは玄関ホールまで行けば、裏返ったネームプレートで寮生なら誰でもわかることだしー留守する理由がデートだと告知する必要はそれこそないし、逆に、私がいなくても、エンジュにも、もう顔見知りも増えたし、私が誘いに行かなければ、自分から誰かに声をかけるきっかけになっていいかもしれないとも、アンジェリークは思っていたのだが…。

エンジュには「アンジェリークに黙っておいていかれた」とでもいうような、ある種の見捨てられた感が醸成されただけだった。無論、アンジェはエンジュの保護者ではないし、エンジュだって、アンジェの子供か?と問われたら、何を馬鹿なことを、と一笑するに違いないのだがーけど、エンジュが感じた見捨てられた感は理屈ではない。そして、その腹立ちと寂しさと蔑ろにされたという不快感は

「アンジェ、今日は、デートだって。今朝、食事した時、ちらっと言ってたじゃない?あ、エンジュは先に席を立ったから、そのあと、話題に出てたのかな…とにかく、あのかっこいい赤毛の先輩が寮まで迎えに来てたから、知ってる子は私だけじゃないけどね、それで、今日はそのまま外泊だって、あ、だから、今日だけじゃなくて、明日も留守だね」

と、エンジュの問いに、何の気なしに答えてくれた知己の言葉によって、一層強まった。

「そう」

と、エンジュはつっけんどんに返した。ああ、デートね、デートだから、私に言わずに出かけたのね、彼氏なんて無縁な私だもの、告白なんて誰からもされっこない、だって今まで誰からも必要とされたことのない私だものね、そんな私に自慢してると思われたくなかったから、アンジェも私に出かけるって言っていかなかったのね、と思って。

エンジュ自身は気付いていなかったが、もし、アンジェリークが「デートで外出する」と、エンジュにわざわざ告げにいっていたら、やはり、エンジュは「見せつけてる」「自慢してる」と僻んだことだろう。しかし、報告されなければされないで「軽んじられた」と思ってしまう。アンジェリークがどうふるまっても、どちらにしろ、自分は好意的には受けとらなかったろうことに、エンジュ自身は気付いていない。ましてや、エンジュには、アンジェリークの振る舞いの背後にある気持ちを斟酌・忖度するスキルはなかった。アンジェリークがどう振る舞おうと、エンジュは自分が軽んじられている、見下されている、という恨み辛みを、蓄積させていくだけだ。そして、どんな物ごとも、悪く解釈してしまう、というのは、一種の思考の癖なのだがー癖であるがゆえに、基本、当人はいたって無自覚だ。思考の癖は、水路のごとくで、一度、そこに水が流れて溝が刻まれると、水は、その溝に同じように流れやすくなる、ということも、自分では意識しにくいのだー当たり前のことになってしまうから。そして癖というものは当人が無自覚である間は矯正が難しい。が、思考パターンも一種の癖であったり、刻まれた水路みたいなものであることを自覚できれば、それは修正できるようにもなるー新たな水路を刻むよう自覚的に意識すればいいので、矯正は不可能ではない、のだが、それもこれも、自分の思考に癖があることを自覚しなくては始まらない、そして、エンジュは自省というものにー自分は常に被害者だという意識があるからーとことん無縁だった。

「で、ごめんね、私、アンジェから今朝、頼まれてたのに、バイトで遅くなっちゃって、誘いに行くのが遅くなって」

「頼まれた?何を?」

「最近、アンジェといつも一緒に食事してたじゃない?でも、アンジェは今日は外泊届出してたから「エンジュがいつものご飯の時間に食堂にこないとか、誰にも声をかけずにいたら、もしかして、食事の時間を忘れちゃってるかもしれないから、食事に行く時は誘いに行ってあげてみてくれない?」って頼まれてたの。えっと…エンジュは特待生で、勉強熱心だから、集中して勉強してたりすると、ご飯の時間、忘れちゃうかもしれないからって」

「何、それ…私じゃ、それ位がむしゃらに勉強しないと、特待生でいられないでしょって言いたいの?」

「え?え?どうして、そうなるの?」

「それに、私、誘いに来てくれなんて、頼んだ覚えないわ。頼んだこともないのに、あの子が勝手に誘いに来ただけで、だから、私、付き合ってあげていただけよ、なのに「誘いに行ってあげて」なんて言ってたなんて…自分はデートだからって、予定のない私のこと、見下して、馬鹿にして!」

「え…ええ?!誰が誰を馬鹿にしてるの?今朝もだったけど、私、エンジュの言ってること、よく、わからない…」

「帰る!」

エンジュは、ほとんど手つかずのトレイを乱暴に食器下げ口に戻し、怒ったような足取りで、自室に向かった。

呆然としている寮生には目もくれなかった。

何もかも腹立たしかった。自分はあのかっこいい彼氏とお泊りデートだからって、彼のいない私を憐れんで?声をかけてやってくれって人に頼んでた?しかも、その理由が食事の時間も忘れるほど勉強しないと特待生でいられないからって言うなんて、あんまり、私を馬鹿にするにも、ほどがあるわ!アンジェがいつも私を誘いに来てたのも、私が食事時間も忘れるほど勉強してて、さもないと、特待生資格を失うような馬鹿なんだろうって、見下してたからだったのね!

人と交わりたい気持ちはあるけど、中々自分から人に交る勇気が出せないみたいだから、こちらから誘ってあげて…なんて言えないと思いーそれこそ、私がこんなこと言ってたと知ったらエンジュがまた「馬鹿にして!」と憤慨するだろうと思い、エンジュの頑張りやさんな面、優秀なことをそれとなく周知しようと思って、敢えて友人に語った理由が逆効果、むしろ、あだになるとは、アンジェリークは想像だにしていなかった。

『私、食事の時間を忘れるほど勉強しなくたって、特待生から落ちたりしないってことを証明してやるわ、食事に誘われるのをもう待ったりしない。元々、寮で友達なんていなくても平気だし。馬鹿にされながら、誰かと一緒にいるなんて、まっぴらよ。私は、私のことを必要としてくれる人とだけ付き合えばいいし、留学生なら、きっと、私のこと、必要としてくれるだろうし、そうでなくても、特にあの人なら…いつでも1人で平気でいるあの人なら、きっと、私のいいお手本になってくれる、そのお返しに、私は、この国の習慣とか、言葉とか少し教えてあげれば、きっと私、あの人から必要とされる、あの…銀髪の王子様に…』

あの銀髪さんがいるかもしれないという期待だけで出た寮のレセプションで彼は寮生ではないらしいことを知り落胆して、でも、留学生相手のボランティアに名乗り出るのも勇気がでなくて、うじうじしていたのだが、このことが、むしろ、エンジュの背を押した。

私を馬鹿にする人との付き合いなんて、いらない、1人でいる方がずっといい

でも、あの銀髪さんなら、きっと、こんな気持ちわかってくれる。あの銀髪さんさえ、わかってくれればいい。

明日は休日だけど、ボランティアの受け付けは開いているはずだった。朝一番で申し込もう、そして、銀髪さんのお手伝いが当たるまで、ボランティアに片っ端から参加して頑張ろうとエンジュは心に決めた。

 

『…敗残し虜囚の身となるとは、こういうことなのだな』

銀髪の青年は、それを、今、身をもって味わっていた。

彼には学校と宿舎の往復以外の移動は許されていなかった。

もし、定められたルートから外れようとすれば、最初は慇懃に口頭で注意、それでも外れようとした場合は、やはり、どこまでも慇懃に、しかし、容赦も遠慮もなく、黒づくめの男に黒塗りの車に押し込まれ、宿舎まで送られるー連行される。宿舎に入れば、施錠は当然のことだ。

ウェブ環境につながるPCは支給されていたが、厳密なフィルタリングがかけられており、ブラウザを開いても「そのWEBサイトは学生生活に関係がありません」もしくは「セキュリティの関係上閲覧できません」というメッセージを馬鹿のように繰り返すだけだった。

課外活動への参加は制限されていなかったが、構内での活動に限られていた。合宿など遠出と宿泊を要する活動は基本、NGだ。新入生のためのオリエンテーションは、全員参加、なおかつ、宿舎外には外出しないという前提あったればこそ、許されたことだった。

つまり、課外活動も「許されている」の範囲が極めてせまい、ゴルフや馬術など、構外に出る活動の多いサークルは「できればご遠慮いただきたい」の一言で却下された。自分の活動費は本国からの送金に依っており、許可が出なければ、部費の支払もおぼつかないので、許可が出ない=活動は不可能だった。部費を自分で稼ぐのも無理な話だー短期の一時労働は許された活動の枠外だったしーもとより、王族たる自分は、金銭を得るための労働などしたことはないし、その術も知らない、する気もない。

つまりは、彼のー某国の廃王子である彼の計画は、早々と頓挫しつつあった。世界有数の大富豪令嬢、もしくは、どこかの国のお世継たる令嬢を誑し込むどころか、数多くいる女生徒の中で、だれが富裕層の出か、令嬢がどこにどれくらいいるのかもわからない。良家の子女に近づく手段はおろか、調べる手段すら心もとないのだ。

富裕層の多そうなサークルでの活動にNGを出されてしまったことが、とにかく痛手だった

大学生の名簿は無論、閲覧不可で、PCの知識は並としかいえない自分に、データベースにハッキングする術はない。

どうにも動きがとれなかった。何より必要かつ重要な情報を、自分では集めることができない。

自分ではできない、なれば、なんとか、自分の意のままに動いてくれる手足ー自分を崇拝して、何でも進んでやってくれる手駒が必要だ、と、彼は考えた。

本国でもそうだった。自分は反乱を企てただけ、頭で計画して「こうしたい」と思ったことは、配下のものが、手順を考え、段取りをつけ、実行に移した。支配者とは、首魁とは、そういうものだ。自らは命令し、実りを享受するのが王族というものだ。支配者は自身では果実をもぎ取らない、味わうだけだ。実際に動き労働するのは配下の者だ。作業は配下の役目、収穫は支配者のもの、これは大原則だ。

でも、今は、その「自分のために働く」手足をもがれてしまっている、手足がなければ動けない。果実が実っていても収穫する者がいないと、支配者たる自分は、収穫を得られない。手足がないなら…それはどこかから調達せねばならない。手足自身が、ある程度の富裕層の子女なら申し分なかったが、それが無理なら…とにかく、意のままに動く手足ならそれでいい。

富裕層の子女を思うままに支配するのが一足飛びには無理ならーまずは、とにかく動ける手足を得ることだ。情報を得ることが先決なので、そのためには、とにかく動き、働きさえする手足であれば、それでいい。

ならば、そんな手足はどこで手に入る?優秀でなくてもいい、資金もなくていい、そんな贅沢はいわない、手足に必要な資質は、自分では考えない、自身で判断は下さない、俺を崇拝し、俺の思想をそのまま自身の思想だと盲信・追従し、命じられたままに行動する、そんな従順さこそが重要なのだ。

そんな手足を手にいれるためには、とにかく、許される限り、怪しまれない範囲で、第3者と接触する機会を増やすしかない、下手な鉄砲でも、数を打ち続けるしかないと彼は考えた。

とりあえず、授業以外で参加を許可された活動に片っ端から顔を出すしかあるまい。時間はかかっても、地道でも。

だって、自分には、急ぐ必要がない。待っている人も、会いたい人もいないのだ。助けださねば、とか、早く、権力を握らねば、と焦る必要もなかった。俺が権力を握るのを、彼女は…待ってはくれなかった。自分一人で早々とけりをつけてしまったのだから…

嫌なことを思い出した、とでもいうように、彼は、眉をひそめて軽く頭を振った。

そして、課外活動の一覧をリストアップし、護衛役に参加可能サークルのチェックをさせてやろうと思った。彼らも、無抵抗・反抗心皆無の虜囚の監視では退屈だろうから、せいぜい、暇つぶしをさせてやらねばな、と、彼は我知らず、ほくそえんだでいた。

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