Before it's too be late 16

『私、何か、間違えたみたい…』

そう考えざるをえなくて、アンジェリークは小さなため息をついた。

オスカーとひたすらに温めた蜜のようなとろとろに甘い時間を過ごし、名残を惜しみつつ帰寮し、自分のベッドでぐっすり眠って、さわやかな目覚めを迎えた週明け、いつものようにエンジュを朝食に誘いに行ったら、返事がない。

おかしいな?と思いつつ、仕方なく食堂に降りたら、丁度、食事を済ませたばかりらしいエンジュとばったり会った。

「あ、おはようエンジュ、今朝は早かったのね。朝練か、朝のゼミとかにでも、出るの?」

アンジェリークは、何も含みなく、単純に、エンジュが何か用があって、朝早くから出かける支度をしているのだろうと思い、にこやかに尋ねた、それだけだった。

すると、エンジュは一瞬、たじろぐようなそぶりを見せたが、すぐさま、挑むような眼差しで、アンジェリークをみ返しながら

「…あなたは、私が早朝から必死にがりがり勉強しなくちゃ、奨学生でいられないだろうって馬鹿にしてたんでしょうけど、お生憎様、食事の時間を忘れるほど勉強しなくたって、私、奨学生の資格を失ったりしないわ!だから、もう、気まぐれなおせっかいは結構、願い下げよ。私は、あなたなんかに誘ってもらわなくたって、こうして1人で食事をとれるし、勉強だけじゃない、課外活動だってやった上で、奨学金を取ってみせるんだから!」

「え?え?何…エンジュ、何を言ってるの?」

剥き出しの敵意?反発?対抗意識?そんなものを、いきなり真正面から叩きつけられ、アンジェリークはひどく驚いた。

アンジェリークの当惑を意に介さず、エンジュは何も答えず、きっと、アンジェリークをにらみつけざま、拳をきゅっと硬く握りしめ、つんと顎をそびやかして、その場から立ち去った。

1人残されたアンジェリークは、呆然と、すごい勢いで振り回されているエンジュの艶のないおさげ髪を見送ることしかできずにいた。すると

「アンジェ、ごめん!あれ、たぶん、私のせいなの、おとといの晩、私、何か、エンジュのこと、怒らせちゃったみたいなのよ…」

と、友人が…食事時によく一緒の卓を囲む友人の1人が話しかけてきた。

「何があったの?私、エンジュの言ってたこと、全然、意味がわからなかったんだけど…」

そこで、友人から聞いた話で、アンジェリークは、オスカーとのデートで浮かれてでかけた週末、それでも、エンジュのことを気にかけ、友人にエンジュに声をかけてやってと言い残していったことが、却って、エンジュの神経を逆なでしてしまったらしいと知った。

その友人は、エンジュがなぜ、いきなり、激発したのか、今も、よくわからないという。

「エンジュっていかにも生真面目で一生懸命っぽいっていうか、一つのことに熱中、集中すると、時間を忘れちゃうような雰囲気あるじゃない?熱心な研究者タイプとでも言ったらいいのかな、だから、勉強してるうち食事の時間を忘れちゃうかもってアンジェが言ってたの、私も頷けるなって思ったし、だから、一昨日の晩、エンジュが1人で遅い時間に食事とってたのを見て、ああ、やっぱりなって思ったから『ご飯の時間、忘れてた?やっぱりアンジェが心配してた通りだったね』って話しかけたの、そしたら、急に怒り出しちゃって…今も、ずっと怒ってるみたいだけど、私、なぜ、エンジュが怒ってるのか、全然わからないの。でも、私が声かけた後からなのよ、むきになったみたいに1人でさーっと食事に行くようになっちゃって、1人で猛烈な勢いで食事をかきこんで、さっさと食堂から出て行っちゃうようになったのは…。たまに誰かが声かけけても、返事もしないで黙って行っちゃうしで…」

「ごめん、私が変なこと、頼んじゃったからだよね、本当にごめんね」

「ううん、アンジェは全然悪くないよ、でも、正直、エンジュにどう接したらいいか、私以外も戸惑ってるっていうか、困ってるっていうか…エンジュったら、明らかに『誰も私に声かけないで!』ってオーラ出してるから…アンジェも、もう、エンジュに、声かけるの、控えた方がいいかもよ、誰が何話しかけても、噛みつかれるだけみたいだし」

「…ん」

そんなやりとりがあってから、もう、結構な日数が経っている。そして、その日以来、エンジュの態度はかたくなにそのままだった。朝・昼・夕と、食堂が開くや、1人急ぎ、わき目もふらぬという勢いで食事を取るや、即座に席を立って出て行ってしまう、誰とも目を合わせず、口もきかず、ずっと、そんな調子だ。寮にいる時間自体を意識して極力少なくしているのか、朝は1人でさっさと寮を出て構内のどこかに姿を消し、講義の合間も、誰かとおしゃべりしながら、次の授業に向かうということもなく、いつも、まっすぐ前だけ見て急ぎ教室を一人で出ていってしまうらしい。講義が終わった後も、いつのまにか教室から消えてしまっているが、帰寮自体は食堂がしまるぎりぎりの時刻で、そそくさと食事を取りおえるや、即座に自室にこもってしまうか、さもなくば、寮のPC室に直行して、PCのモニターを食い入るように眺め、必死の形相で何か調べ物をしているか、鬼ようにキーボードを叩きつつ、何かの紙面をプリントアウトしているか、そのどちらかだ。談話室には一切出てこない。寮は個室なので、周囲と没交渉を貫き通そうと思えばそうできてしまうのだ。

今のエンジュは巣穴にこもりきりのハリネズミのようだった。食餌のため必要最低限の時間だけ巣穴から出てくる、警戒心の塊のような存在。

今、思うと…アンジェリークはエンジュに「もうおせっかいは結構」と言われた時、いきなり噛みつかれたか、予期せぬ平手打ちを食らったような気持になってしまい、だから、あれをエンジュの攻撃心のように感じてしまい、たじろいでしまったが…今思うと、あれは、尖りきった痛々しい自己顕示、もしくは示威行為…小さな猫が外敵に対し「自分はこんなに大きくてすごくて強いんだぞ」と思いきり背を丸め、毛を逆立てて、必死に自分を大きく見せようとするような、そんな振る舞いではなかったか、そんな気もするのだ。猫が自分を大きく見せようとするその意図は、戦いではなく相手の戦意を削ぐことだ。人間が自分を大きく見せようとするのは、相手を退散させ無用な戦いを避けるため、ではないかもしれないが、所謂ハッタリである、というのは同じだろう。そして、それは、猫が小さく力の弱い生き物だからこそ取る示威行為だ。真に強大無比の力を持つ肉食獣は、自分を大きく強く見せようなどと画策しない。そんな必要がないからだ。自分で「強い」ことを知っており、周囲もその「強さ」を認め評価している存在は、はったりをかます必要がない。逆にいえば「自分はすごいんだぞ」と言い張らずにいられないのだとしたら、その行為そのものが、その者の卑小さ、弱さの証明しているに他ならず、同時に、それを周囲には悟られたくないと思っているということだ。

そして、エンジュが、アンジェリークの行った気づかいに激怒し「自分はこんなに強いのだから、世話を焼かなくて結構」と言い張ったということは、アンジェリークの気づかいは、彼女の意図せぬところで、エンジュが「人には知られたくない」と思ってる弱み、劣等感を刺激し、まるで周囲に喧伝したかのように受け取られた、ということなのだろう。つまり、自分・アンジェリークは、図らずもエンジュの弱点(真実かどうかは関係なく、少なくとも本人がそう思っている)を、ピンポイントでえぐってしまったのだろう。

そのエンジュの劣等感、弱みは、エンジュが生真面目な努力家だという事実、そこにもあったのだと思うと、アンジェリークはつい、ため息が、口をついて出てしまう。エンジュが地方出身であることを引け目に感じているのは、言動から察していたから、そんな風に感じる必要はないのに、という視点の転換を、アンジェリークはそれとなく示唆してきたつもりだったが、まさか…本当に、アンジェリークとしては「まさか」という気持ちだ…頑張りやであること、努力を厭わないことも、劣等感につながるとは思ってもいなかった、というのが正直なところだった。

アンジェリークは、エンジュの真面目で頑張りやな面をそれとなくアピールし、エンジュの長所を周囲に知らしめるつもりだったが、その自分の言葉が、エンジュの逆鱗に触れ、今のエンジュのハリネズミのような態度を引き出してしまったのだろう。アンジェリークは、真面目な努力家であることは「美点・長所」だと思っていたけれど、エンジュには、むしろそれが劣等感だった…しゃにむに常に努力していなければ現状が維持できない、つまり、努力とは、能力が普通より劣る人が、人並みであるために必要なもの、とエンジュは考えていたということなのだろう、だから、頑張り屋とか努力家とみなされると「馬鹿にされた」という激発が返ってきたのだ、きっと。

確かに、世の一部や時代によっては勉強熱心な人を「がり勉」と称して揶揄したり、見下す風潮があるが、努力を馬鹿にする価値観自体に、アンジェリークは首をかしげるし、そんな価値観を取り込む必要もないと思う。だって、スポーツの世界では、トレーニングに熱心に取り組む人が、馬鹿にされるなんてことないだろうし、発明に没頭するゼフェルを揶揄する人もいなかった。どんな分野であれ、努力なくして成果を上げる人などいないのに…オスカー先輩だって、オリヴィエ先輩だって、ジュリアス先輩やクラヴィス先輩も…輝き眩しい人たちは、人一倍の努力もしていることを、人にはそうと知られていなくても…それをアンジェリークは知っていたから、努力できること、一生懸命何かに打ち込めることは、それ自体一つの才能で、素晴らしい資質だと思っていたのだけど、でも、エンジュにとっては、努力家に見られることは、人一倍の努力をして、ようやく人並みレベルになれると、見下されることで…だから、見くびられ馬鹿にされたと感じて憤った。しかも、私は、留守中「エンジュに声をかけてあげて」と、他の人任せにしてしまったため、エンジュは、私が「彼女は無能だから気遣ってやってくれ」と周囲に喧伝したも同然だと解釈し、それでエンジュは尚更憤慨したのだろう。

少しづつでも、顔見知りを増やし、気軽に挨拶し、他愛無いおしゃべりをできる知己が増えていけば、寮暮らしも楽しく居心地良くなって、そしたらエンジュの仄暗い、飢えと渇きにぎらついているような瞳の色が穏やかになるのではないか、その方がエンジュ自身だって、楽になるのではないかと思っていたのが、たった1日、寮を離れた時に、エンジュへアプローチというかフォローの仕方を間違えたがために、自分とエンジュの関係性は、振り出しに戻るよりもっと悪いポイントに陥ってしまったとアンジェリークは認めざるを得なかったし、自分以外とのエンジュの対人関係も、どうやら、全方位で底値の状態、かつ、まったく上昇の気配がないという意味で動きなく、ある意味、落ち着いてしまったようだった。

ただ、アンジェリークには、推測できないー知ったとしても理解できなかったろう、エンジュの心の動きがもうひとつあり、それが、エンジュの怒りを尚のこと、増幅させていた。自分以外のスモルニィの学生全般に対し劣等感を抱えるエンジュは、他人に親切にされたり、心配りをされるとーそれが同じ年頃の女の子、いわば世間的には似たような立場の存在に「自分が」気にかけられ、親切にされる程に、悔しい、癪に障る、という思いが湧き募っていく、そんな傾向があった。同じ年で同じ女の子で、なのに、なぜ、自分は親切に「される側」なのか。親切にされるのは、自分がダメで惨めな人間に見えるからか、一人前でないから、手を貸したくなるのか、とエンジュは悪い方へと考えてしまう。手助けされるのは、自分がダメな「かわいそうな存在」と憐れまれているから、気にかけられるのだろう、エンジュにはそんな風にしか思えない。純粋な優しさや厚意から、人に手を差し伸べる、その心情や動機が理解できない。だから人に優しく、気遣われるほど自分がみじめに思えて、そんな自分が腹立たしく、いらいらする。エンジュは劣等感も強かったが、勉強はできたし、実際、特待生だから、それに応じ、自分では意識はしていなくとも、プライドも高い。そして、自分は優秀なのに、不遇をかこつているという被害者意識があるから、人からの親切や気づかいは、自分がダメ人間だと烙印を押されている証拠にしか思えないのだ。そういう心の動きはアンジェリークには無縁のものだったから、エンジュの怒りの強さ、深さが、アンジェリークにはわかりきれない部分があった。

アンジェリークは、エンジュに惨めな思いをさせるなんてつもりは微塵もなかったから、エンジュの怒りに、驚き当惑したし、最初は、少し、傷つきもした。ただ、今も、その時も、エンジュに対して怒りは全くない。悪いことをしてしまったな、と思い、人の気持ちを推し量り、慮り、行動するのは、本当に難しいと自省している。私は、周囲の人間関係に恵まれすぎていて…自分の厚意は厚意、善意は善意として理解し、ストレートに受容してくれる、深い信頼と絆に結ばれた人たちが周りにたくさんいるので、自分の意図が意図どおりに全然伝わらないこともある、という現実を、甘く見ていたのかも…認識が甘すぎたのだという自戒があった。

オスカー先輩に心配してもらっていたのに…オスカーの懸念、自分を案じての「俺なら何も言わない。助言や忠告は、根底に信頼がないと伝わらないから」という助言をオスカーからもらっていたのに…オスカーの言葉を軽んじてたわけではない、それでも、身にしみてはわかっていなかったような気がする。皮肉なことだが、こういう事態になってしまったことで、オスカーの言葉は、痛切に、身にしみて理解できたが。

発した気持ちや言葉は、届かなかったり、届いたとしても、相手に届いた時は別のものになっていることがある。届けるつもりで発したものを、発したままの形で受け取ってもらえるという確信、その信頼あってこそ、届けたい気持ちは力になるし、発し届ける甲斐もある。でも、届いた時には別物になってしまう、別物として受け取られてしまうくらいなら、何も発しない方が無難ー自分も相手も嫌な思いをしないですむ、オスカーが言いたかったのは、案じていたのは、こういうことなのだろう。オスカーは、自分・アンジェリークが傷つくことを、憂い心配していたからこそ、信頼関係のない相手には、何も働きかけない方が無難だと言ってくれていたのだ。

私が馬鹿で考えなしで、オスカー先輩からの助言を仰ぐのが遅かったから、それこそ、先輩の心配してた通りになっちゃったけど…先輩が、私のこと心配して、真摯な助言をくださったことは、すごく身にしみて、オスカー先輩への感謝と信頼と愛情は、ますます、強く深くなったから、そういう点では、良かったともいえるのだけど…。

そんなこんなで、寮の友人知己たちも、もう、エンジュと打ち解けるのはすっかり諦めている。ただ、諦めているだけなら、まだ、人のいい対応といえる方で、「新入生総代なんて優秀な方は、良と可しか取れないような学生と口を利くのは時間の無駄、とでも思っているのでしょうよ」とばかりに反発しているー特に上級生に顕著だー者も少なくない。

だがエンジュ自身は、そんな空気は一切意に介していない、ように見える。アンジェリークに噛みついてきた時みたいに、攻撃的な空気は今はまとっておらず、のけもの扱いされて居心地悪いから「寮生との付き合いなどこちらから願い下げ」と強がって、気にしないふりをしている、というのでもなく、他に何か気をとられていることがあって、そちらに夢中なので、寮生と親交を深めようとする気、そのものがない。だから、寮でのよそよそしい空気も居心地の悪さにつながらないし、本人も気にしていないようだった。それは、自分の居場所は「ここ」ではないから、と云わんばかりの態度に、アンジェリークには見えた。寮は栄養補給と睡眠のためのー体調メンテナンスの施設と割り切っている観がして、また、熱に浮かされたように何かに気をとられっぱなしで、そちらに没頭している様は、言いかえれば「寮生同士の付き合いとかおしゃべりとか、そんなつまらないことに、時間を割いていられない、私はそんなに暇じゃないのよ」という態度にもとれ、それも、楽しく寮暮らしをしている学生からは、エンジュが、自分たち寮生の生活を取るに足らないつまらないものと見下しているかのように感じられ、周囲の反感を醸成する元になっているのだが、エンジュはそんな雰囲気も気にとめていない様子だった。アンジェリークは、むしろ、気づいていないだけではないかと思っていたが。

ただ、エンジュが何か夢中で熱中できることがあって、そちらで幸せや充実を感じているのなら…寮での人間関係には拘らない、というだけなら…アンジェリークには、もう、何も言うことができない。アンジェリークは寮で、多くの友人と仲良く暮らすことが楽しいと思っても、同じことを強制・強要はできない、人の価値観は様々だし、何より…オスカーに以前言われた言葉が、重みをもって実感される今、「根底に信頼・敬意のない間柄では、忠言はそのままに届かない、受け入れてはもらえない」という真理が、ひしひしと身にしむ今、アンジェリークは自分の発する言葉は、エンジュに一つも届かないとわかる。エンジュと自分の間には、もともと強固な感情の結び付きはなかった。あったのは細く脆い関係性だけで、それも、今は霧消してしまった。こんな状態で、私が何を言ってもエンジュには届かないだろうということが、アンジェリークには痛いほどわかってしまう。

でも、だからこそ、より強く、ひしひしと、アンジェリークは己が身の幸せを実感もしていたのだが。私には、私の言葉を受け入れてくれる、また、私自身、その方の言葉なら、素直にまっすぐでまっさらな気持ちで受け入れられると断言できる、そんな方々が周囲にいっぱいてくれることを。それが、この上なき幸せであることも。でも、自分が善意に囲まれているからこそ、善意を善意のまま受けとってもらえないという現実が、私には、どこか遠い、実感のわかないことでもあったのだ。だから、エンジュの受取方まで、考えが及ばなかったし、エンジュが、私を信頼できる存在だと思ってはいなかったことも、それは仕方ないことだし、寮内で、何が何でも、そういう心の結び付きを作らねばならないというものでもない。エンジュが、寮以外の場所で、そういう人たちと心の結び付きをもてているのなら、それでいい、そう思うしかなかった。

でも、なぜだろう、今のエンジュは目覆いされた馬車馬のように私には見える…そう、一生懸命、全力で走っているけど…自分の頭で決めた方向ではなく、誰かに手綱を握られ、鞭打たれての全力疾走、自身がどんな道を走っているのか、どこを目指しているのか、到着する場所も知らず、走る意味もわからず、ただ、闇雲に御者の意に沿って働いているだけ、というような印象を受けてしまう、忙しそうなのに、一生懸命何かにうちこんでいるみたいなのに、充実してるというよりは、何も見ずに突き進んでるような気がして…それにそこはかとない危うさや不安を、私が感じてしまうのはどうしてだろう。

根拠も証拠もない、ただの直感であり印象だ、でも、アンジェリークは最近のエンジュの様子を見聞きすると、思わず眉が曇ってしまう。助けを求めるように、無意識に、オスカーからもらったペンダントー作ったのはゼフェルだがーに指先でそっと触れた。

オスカーには何も言ってない、オスカーから的を射た助言はもうもらっていて、結果として、アンジェリークは、それをうまく役立てることができなかったので。なので、今は特に何も相談はしていない。相談できるような…単に、自分が直観的に不安や危うさを感じているなんて、相談されても、オスカーも対処に困ってしまうだろう。でも、オスカーは私が何かを憂いていたら、その憂いを晴らそうと尽力してくれるだろう、それが甲斐無きことでも、漠然として雲をつかむような状況でも。それが、わかってしまうから、なおのこと、アンジェリークは今のもやもやした不安をオスカーに打ち明けられなかった。根拠のない憂いで、オスカーの手を煩わせ、余計な心配をかけたくはなかった。

でも、懸念があって、その懸念が漠然としすぎていることも、自分では、今のところ、手の打ちよう、対処のしようがないことも、気鬱なことではあった。

教室移動のため、棟と棟を繋ぐ、渡り廊下を歩いていた時、そんな心の憂いを、姉とも兄とも慕う人に見抜かれた。

「おやおや、アンジェ、どーしたの?その眉の間の縦じわはいただけないねぇ、癖になったらことだよ、実際の視野も心の視野も狭くなるし、何より、かわいくない。あの馬鹿と喧嘩?なんて…するわけないよね、となると、その縦じわの原因はなにかな?私に話してみない?」

「あ、オリヴィエ先輩!こんにちは!やだ、恥ずかしい…曇り顔わかっちゃいました?」

「ん、専属モデルの憂い顔は、一刻も早く晴れてもらいたいねぇ、デザイナーとしては。前期試験が終わったころ、実は、構内でミニファッションショーを開きたいかななんて考えてもいるんでね、スモルニィ祭の時にやるファッションショーの宣伝と一般モデル募集もかねて。となったら広告塔ともいえる専属モデルには、とびきり魅力的であってもらいたいものね」

「ごめんなさい、先輩、お仕事の時は、絶対、にっこりします、してみせますから。…私、ちょっと、失敗しちゃったことがあって、それを、つい、くよくよ思い悩んでたみたいで…くよくよしても、仕方ないことだって、わかってるんですけど…オスカー先輩にも、干渉や働きかけは、効果が見込めないって言われてたのに…ダメだな、私ったら」

「んー、でも、私は、どうせなら、義務感でにっこりするより、心からの笑顔でお仕事に臨んでほしいねぇ、アンジェには。あんたの飾りのない笑顔は何よりの魅力なんだから。よかったら何を思い煩っているのか私に話してみない?人に話すと考えが整理されるし、話すだけで楽になるってこともあるし。聞いてあげるから、あんたのくよくよをつまびらかにしてごらん?ん?」

「オリヴィエ先輩…ありがとうございます」

オスカーは、自分には近すぎて、どこまでも親身になってくれることがわかるから、漠然すぎる不安を打ち明けるのは申し訳ない、そう思っていたアンジェリークだったが、程良い距離にいるオリヴィエに、甘えてしまいたくなった。オリヴィエに…オスカーとは別の意味で、世知に長け、厳しくも客観的な視点と意見をもつオリヴィエ先輩に、私は、それこそ、叱ってほしいのかもしれない、ほんと、甘えてしまって申し訳ないけど…そんなことを思った。

「被服科のアトリエに行こうか?あそこなら静かだから」

ばっちんとウインクされて促され、アンジェリークは、ほっこりと気持ちが軽く温かくなった。

 

「よぉ、わりぃわりぃ、またせたな」

経済学部棟のゼミ室の一つである。勢いよく入室してきたゼフェルをオスカーは片手をあげて迎えた。ゼフェルはアンジェリークに持たせたGPSの使い勝手と作動経過を知りたかったーが、オスカーに極秘裏で開発を依頼された品のこととて、自身がおおっぴらにアンジェに接触するのはどうかと思っていたところに、オスカーから話があるので、時間を割いてくれないかとメールがあり、渡りに船とやってきたのだった。オスカーは自身のゼミ室を待ち合わせ場所に指定してきたが、これは人の目と耳を気にしなくていいからだろう、つまり、今日のオスカーの話も、また、人に知らせたくないことなのだろうと、ゼフェルは推測していた。

「麗しいレディならいざしらず、あと5分遅かったら帰ってたぞ…と言えないのが、おまえとの待ち合わせの癪なところだ」

「しっかたねーだろ?天才のこの俺様以外、おめーのむちゃぶりを聴けるやつがいるかよ」

「てことは、俺の無茶ぶりも、おまえなら実現可能ってことだよな、で、早速だが、今日、おまえに来てもらったのは…」

オスカーが小声で銀髪の少年に何事か囁きかけた。すると、少年はいきなり立ち上がり

「っざけんじゃねー!あれだけ小型軽量化するのに、俺がどんだけ苦労したか、わかってんのか!それに更に多彩な機能をもりこめたぁ、実質、より小型化しろって言ってるのと同じじゃねーか!いくら天才の俺様だって、できることとできないことがあらぁ!」

「だから、ひとつに全ての機能を盛り込むんじゃない、分散化するってのはどうだ?これは、お嬢ちゃんのアイデアなんだがな…」

「アンジェの?それなら、聞いてやらないこともないぜ」

「…その態度にひっかかりを覚えるのは俺だけか」

「やいてろ、おっさん。アンジェみたいなど素人ってのは、技術者や商売人とは異なる斬新かつ革新的な視点つーか、思いもよらなかった方向からのアプローチってのを、開示してくれたりすんだよ。それが、新発明のまたとないヒントになったりするもんだ」

「まぁ、そういうことにしておいてやるか…じゃ、話を戻すが、あれを身につけ始めて1週間ほど経った頃、お嬢ちゃんが、こう言った「先輩、ゼフェルの作ってくれたGPSって、ほんと、すごいです、このペンダントがGPSだなんて、誰も気付かないですよ。さりげないデザインで肌馴染みがいいから、人目をひきません。不具合はどこもありませんし、先輩にも私がどこにいるか、気になったら、即、調べていただけるから安心ですし」ってな」

「そーだろ、そーだろ!あれだけの性能をあの大きさにできるのは、この世界広しといえど、まー俺様だけだろうな。しかも、デザインは、シンプルイズベスト、アンジェもよくわかってんじゃねぇか。試しに今、アンジェがどこにいるかサーチしてみろよ、おっさん、俺もこの目で不具合がねーかどーか、確かめてーしな」

「せめて先輩っていえないのか、お前は…まあ、いい。今、お嬢ちゃんがいるのは…家政学部/被服科の教室みたいだな」

「ってことは、アンジェは今、あのど派手やろーと一緒か、ま、そんなら心配ねーな」

「と、思うだろう?が、本当にそうか?この構内で、いかにもな場所にいれば、お嬢ちゃんは本当に安全か?そんな保証はあるか?ってのが本題、今日、おまえを呼び出した理由だ」

「どーゆーことだよ?」

「つまりだな、おまえの高性能GPSのおかげで、お嬢ちゃんの居場所は、即、リアルタイムで把握できる。が、彼女の現況はどうだ?万が一彼女が危ない目にあっていても、GPSでは、それがわかるわけじゃない。俺は、彼女が危険なめにあった時、すぐ、対処できるようにとGPSを持ってもらった。だが、考えてもみろ、彼女の居場所がわかっても、今、彼女は安全なのかまではわからない。居場所だけでは…この場所だったら危ないけど、この場所なら危なくないという判断はまた別物だ」

「言われてみりゃ、そりゃ、そーだよな」

「ああ、これもお嬢ちゃんの言葉のおかげなんだが…お嬢ちゃんはな『先輩が、いつも私を見守ってくださってるって思うと私も心強いです、でも、逆に、もし、私がいつもと違う場所にいることに先輩が気づいた時、たとえばゼミの研修とか、スモルニィ祭準備のお買いものとかで、初めての場所に出かけていたら、それだけで、先輩に心配かけちゃうことになったりしませんか?でも、いつもと違う処にいるから危険とは限らないし、私、先輩に無用の心配をおかけするのは、申し訳ないです、だから、先輩に無用な心配をかけずに済むように、構外に出るような時は必ずメールでお知らせしますね』と言った。それで俺は、今更ながら「見知らぬ場所=危険、馴染みの場所=安全」と、単純に括れるもんじゃないってことに気づいた。人目の多い場所にいるから安心といえるものでもない。昔、電車の中で乱暴された女性のニュースがあった。人目がある電車の中、そんな場所で女性が乱暴されるなんて、普通の人は思いもよらないだろう?ってことはだ、もし、彼女が外出先で、危険な目にあったとしても、それが不自然な場所じゃなかったら…それこそ、電車の中だったとしたら、俺も彼女が危険な目にあってる、なんて思いつくかわからん。構内だって同じだ。被服の教室にいるからって、安全だという確証はない」

「そりゃ一理あるな。居場所だけわかっても、安心とはいいきれねーってのは…いやなことだけどよー」

「だろう?だから、俺もそういう懸念を言ったら、お嬢ちゃんはこう答えた。『このGPSのほかに、私が助けてほしい時だけ、先輩に合図を送れるような仕組みがあったら、先輩に無用な心配かけずにすんで、私ももっと安心できるんですけど…そんな都合のいいもの、ありませんものね』ってな」

「…なんとなく、おめーの言いたいことがわかってきたぜ、俺は…。肝心なのは、あいつが無事・安全なのかどうかってことだもんな。で、危険な場合は、簡単・早急に知らせる手段があれば、尚、安心ってことだな…」

「お嬢ちゃんは、なるべくこまめにメールすると言ってくれているが、できない時もあろうし、彼女に負担をかけるのは、俺の本意ではない。俺は彼女の行動を束縛・把握したいのではなく、彼女の身の安全を図りたいだけだからだ。『便りのないのは元気な印』じゃないが、安全安心な時には連絡は不要、危急の場合のみわかればいいんだ。無論、彼女は普通の防犯ブザーは持っているが、それで俺に直接彼女の窮地がわかるわけじゃないし、ブザー自体、周囲に人がいなけりゃ、何の役にもたたん。そして、この広い構内で、そんな場所はいくらでもある。例えば、この構内のどこかで、かわいいお嬢ちゃんが不埒なストーカー野郎に襲われたり、人気のない教室に連れ込まれでもした場合、俺が「お嬢ちゃんは構内にいるから、安全なはずだ」なんて、思いこんで、お嬢ちゃんの危機に駆けつけられなかったら一大事だ。お嬢ちゃんが「居て当り前の場所」にいるからといって、その時、安全かどうか、身に危険が及んでいないかどうかは、当のお嬢ちゃんにしかわからない。しかも、高校に比べてオープンな大学では、校内に危険人物が入り込まないとも、お嬢ちゃんが絶対危ない目にあわないとも言い切れない。だから「お嬢ちゃんは今教室にいるから安全だ」なんて、俺が油断せずに済むよう、お嬢ちゃんの言う「都合のいいもの」つまり指向性のある防犯ブザーを…お嬢ちゃんが「危地を知らせたい」と明確に意図した時だけ、スイッチが入って、俺とかオリヴィエとか、おまえでもいいが、絶対信頼できる人間相手に知らせが届くようなもの…周囲に聞こえるものにするかどうかは、その時の状況次第で選べる方がいいな、下手に犯人を刺激しない方がいい場合もあるだろうから…そんなものを作れないだろうか?」

「おめーの言う事はわかる、わかるが、それだけの機能をあの大きさのGPSに組み込めってか?無茶クチャだ…無茶ぶりなんてもんじゃねー」

「それは素人の俺にもわかる、あのサイズのメカをあれ以上に高性能化するのは、そりゃ、難しいことくらい、な。そこでだ、彼女の「GPSとは別に」って言葉がヒントになって思いついたんだが、機能を分散化するなら、どうだ?というのも、女性が身につけるアクセサリーは、一つ、一種とは限らない、複数を重ねづけすることも多い」

「おー!確かに、耳に胸元に腕に指にって、体中、じゃらじゃら、色々ぶら下げてる奴がいるよなぁ、女性に限らず」

「となれば、何も、すべての機能を1つのGPSに組み込む必要はない。女性は、複数の装身具をつけても、不自然じゃない、ペンダントと揃いの耳飾り、これは左右で1対、計2個だ、それに指輪、バングル…お嬢ちゃんの負担にならない程度の重さ、総数で、それらのに機能を分散化して搭載するならどうだ?複数持つことで、1つが動作不良を起こしても安心だし、データを補えあえるから精度も高まる」

「…それがアンジェのアイデアなら…確かに革新的だぜ、俺達技術屋は、一つのメカをより小型化・多機能化することについ躍起になっちまうが、あえて、単機能のメカを複数もって補い合うってのは、中々おもいつくもんじゃねー」

「しかも防犯・護身用品は、それと悟られないことが肝要だ。とりあげられたり壊されたりしたら意味がないからな、その点、装身具に擬態した発信機やGPSなら、手軽に身につけられる上、一見それとはわかりにくい。護身用品として画期的なものになると思わないか?」

「ったく、これだから、素人視点ってのは、あなどれねーんだよな」

「そーだろ、そーだろ、何せ、このアイデアは、俺とお嬢ちゃんの2人で思いついたものだからな!」

「言ってろ!のろけやがって…」

「それで、できそうか?」

「おっさん、誰に向かって物言ってやがる?」

にやりと悪い笑みを口元に浮かべ、ゼフェルが自信満々で答えた。

「おまえなら、そう言ってくれると信じてた、ああ、だが、全ての発明には忘れず特許申請はしておけよ、俺は、おまえの画期的発明を現時点では市場に出すつもりは…大々的に商品化するつもりはない、擬態はそうとは知られないからこそ、威力を発揮するものだからな。が、おまえはおまえの才能から得られる権利を、そこから得られる果実を、きちんと受け取るべきだから、俺がおまえに正当な使用料・権利料を払うためにも特許は取ってくれ」

「あー特許とっても、どーせ他には使用許可ださねーから、おんなじだけどな、先端技術は、軍事転用を基本、免れねぇ。でも、俺ぁ、俺の目の届かないところで、俺の発明品が人殺しのーそれが合法であっても、どんな大義名分があってもだー道具に使われるんのはまっぴらだ、だから、自分で使うもん以外は…よっぽど信頼のおける人間がトップに立ってて、そのトップが個人的な知己ででもない限り、ライセンスはださねーよ、安心しな」

「ああ…俺は約束する、約束できる、おまえの発明を採用する時は、防衛用のものに限らせるし、決して対人兵器には転用しない、グレーに思われる時は必ずおまえに相談するし、現場の暴走も許さない、そういう組織にしてみせるし、俺はそういうトップになってみせるってな」

「期待してまってるぜ、いわば、これらの製作も俺には先行投資みてーなもんだからな、おめーがさっさとトップにたって、きっちりしっかり使いこなしてくんねーと、俺はパテント料が入ってこなくて、おまんまの食いあげだ」

「ふ、何言ってやがる、両手で抱えきれないほどの特許やら実用新案を、すでに持ってるだろうが、ま、かわいい後輩が、安心して発明に打ち込むために、生活の安定は大事だものな、俺も善処しよう」

「じゃ、それこそ善は急げだ、俺はちょっとそのアイデア検討して、試作にとりかからぁ。じゃな!」

銀髪細身の少年は、勢いよく立ちあがるや、後ろも見ずに立ち去った。その頭の中は、もう、数多の数式、回線、試作品のアイデアでいっぱいなのであろうことは傍目からもはっきりわかり、見送るオスカーは、信頼と安堵の笑みを知らず口元に浮かべていた。 

その丁度同じころ、エンジュは学園のメインストリートをわき目もふらぬ勢いで駆けていた。銀髪の青年からの頼まれごとを叶える、そのことで頭はいっぱい、休憩時間も駆け足でなさねばならないことでいっぱいだったが、それが全く苦ではない。むしろ、こんなに充実した毎日を過ごせることが幸せで仕方ない、そんな心境だった。大学に入って以来、初めての満ち足りた日々を過ごすことに夢中のエンジュは、周囲が自分をどんな目で見ているかなど、まったく頓着していなかった。彼女の思考は銀髪の青年からの依頼/命令をきちんとこなすこと、その一色で染め上げられていたからだった。

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