時間的には、ほんの少し前のことだった。エンジュは、自分の人生はあの日に変わったと思っている。ダメでもともとの気持ちで取組始めたボランティア活動で、お目当ての人に、早々に出会えた、あの時に。
ボランティアの活動といっても、エンジュは、施設の訪問などの一般的なものには、参加する気はなかった。留学生が個々に、この国に暮らすにあたって手助けを必要とした場合、それに応じるボランティア、それだけに絞ってエントリーをした。頭の中には、あの銀髪さんの姿があった。その人に会えるまでは、マッチングー留学生個人と顔合わせをして、それが目的のあの人でなければ、1、2度協力したら、即、辞退し、再エントリーを繰り返す覚悟も辞さずと考えていたのに、最初の最初で、エンジュは、ずっと会いたい、言葉を交わしてみたいと思っていた人と巡り合えたのだ。
手助けを求める留学生との初めてのマッチングであの人に引き合わされた時「これは夢ではないか」と思った。一方で、この孤高の人が何の目的で、この国での協力者を求めているのか気になった。だって噂どおりなら、この人は王子様…はできすぎでも、絶対、いい家柄の出で恵まれた境遇にいるはずだ。ボランティアなどに頼らなくても、使用人がいて、何でもやってくれるのではないのか?
でも、余計な差し出口をして、それもそうだ、なんて思われたら、やぶへびだ。せっかくお近づきになれるチャンスなのに、私では役にたたないと思われて、ボランティアを他の人に奪われても大変だと思い「あの…何で…どんなことでお困りですか?私、なんでもやりますから…なんでも言いつけてください」と、恐る恐る訴えてみた。
銀髪の青年は、特に感情をあらわさず
「この国の女性は親切だな、俺のような、どこの誰とも知らぬ者に…留学生だというだけで、どんな手助けでもしてくれるというのか」
と、答えた。
エンジュは、その響きの良い声音にうっとり聞き惚れてしまい、その所為もあって、頭の中で、考えていたことを、そのまま口に出してしまっていた。
「どこの誰とも知らぬ者だなんて、そんなこと…だって、あなたは、どこかの国の王子様なのでしょう?そうに違いないって、言われてますよ」
「ふん、面白い冗談だ」
銀髪の青年は、皮肉とも自嘲ともつかない笑みを浮かべた。
「冗談?」
「冗談ではない方がいい、そういう顔をしているな」
「え!あの、その…だって、この国には王子様なんていないし、だから、私、見たことないし、私の一生では、これからも会う機会なんて絶対ないと思うし…そんな雲の上の方から見たら、私なんて、みっともないつまらないだけの存在だって、すぐに見抜かれてしまうだろうけど、もし、本当に王子様の手助けができて、お近づきになれたら…そうならすごいって思ってたから…あの…本当に王子様?…じゃないんですか?」
「では、おまえは我が王子でなければ手助けはしない、が、我が王子なら、我のために働きたいと言うのか?」
エンジュは青年の口調に含まれた皮肉と蔑みには気づかず、促されるままに、うなづいてしまい、すぐさま慌てていい繕った。
「え、あ、いえ…その…あなたなら…あなたなら、王子様でなくても、お助けしたい、お力になりたいと…思います…」
できれば彼が噂どおり王子様だといい、と確かに思っていた、では、彼が王子でなければ助けないのか…と言われたら、エンジュは、自分で自分がどうするつもりだったのか、わからなくなって、混乱した。常に孤高を保つ銀髪さんに入学合宿の時からあこがれてはいたが、噂で彼を王子様だと思いこんで、それで憧れがより募っていたのも事実だったので。
すると彼はエンジュの当惑を見抜いたように
「ほう?我が王子でなくとも力になる?だと?…ふ…だが、おまえは果報者だ、そのような建前を口にする必要はない上に、奉仕…そうだ、これは文字通り奉仕だ…我に奉仕できるのだからな。おまえは、おまえの望むまま、我に仕えるがいい。おまえに高貴な者に仕える光栄と名誉を担わせてやろう」
『ああ、やっぱり…私の思ったとおりだった…』
エンジュは夢中で幾度もうなづいていた。
人を人とも思わぬ…明らかに、下位の存在とみなした言葉を投げられたにも関わらず、エンジュはいらつきも腹立ちも覚えなかった。王族というのは、明らかに自分とは別の人種…彼の尊大な態度、傲慢かつ冷淡な眼差し、もったいぶった言い回し、その何もかもが、エンジュには威厳そのものに思え、自然と恭順の心境になっていた。
これが対等の立場ー自分と同じ普通の学生の口から出た言葉であれば、エンジュは、真っ向から「私を田舎者だと思ってばかにして!」と噛みついていただろうが、自分とは生まれも育ちも対極にある人が、自分に目をかけ、何かを命じる、というのは、エンジュにはすんなりと納得できることだった。反発心は微塵も芽生えなかった。似たような境遇ー同じ年頃、同じ性別、同じ普通の学生から、憐れまれ、気遣われ、手助けされるのは、我慢ならないが、これほどに立場境遇の異なる者からなら、何を言われても、まったく苦にならなかった。「我に仕えろ」と、さも当然のように言われても、すとんと腑におちる心持だった。
とにかく、これで、銀髪さんとしょっちゅう会えるようになる、言葉もかわせる。しかも、自分が銀髪さんの助けになれる、銀髪さんのために奔走する自分の姿を夢想し、エンジュの胸は期待と喜びに、その時からずっと震えている。
銀髪の青年は、その時、使役できる手足を漸くひとつ手に入れることができた、と確信した。満点とはいえないが、自分への憧れを隠さず、全面的に帰依するかのようなその態度はそれなりに気にいった。彼は、手足のもたらす成果を黙って受けとる…ようやく、馴染みの境遇を取り戻しつつあった。
エンジュ自身は、何故、自分がこの青年に惹きつけられるのか、明確な自覚をもたなかったが、銀髪の青年は自らの境遇に不満のある者、不遇を嘆く者、報われない不当な扱いを受けていると感じ、常に世の中を、自分以外の他者を恨み、憎み、そねむ者を惹きつける磁力のようなものを持っていた。それは、彼自身が発している負のオーラとでもいえばいいのか…不遇感を持つものは、この人の言うことを聞いていれば、自らの不遇も解消してもらえる、と思わされ、命じられるがままに動くことを喜び、生きがいとするようになる。そうして彼は故国でも、いつも不遇をかこつものを配下とし、手足…いくらでも取り換えのきく、無数に手にいれられる道具として使役してきたのだ。
だが留学の美名のもとに追放された時、その手足は全てもぎ取られてしまっていたので、彼は自分のために動く新たな手足が必要だった。最初の1本がないと、どうにも動きが取れないので、この際、贅沢はいっていられない、とりあえず動く手足ならいいと思っていた。最初の手足を手に入れることさえできれば、文字通りそれを足掛かりとして、徐々に使える手足を増やしていけばいいと考えたからだ。
そう、悔しいが、今の自分はより好みできる立場にない。だから動ける手足ならなんでもいい。動けることが重要なのであって、動きの巧拙、速さは問わない、自律思考も判断力もいらない、そんなものは、むしろ邪魔だった。どの方向に行くか、速度は、ルートは、決めるのは彼だからだ。判断、決定は全て彼が下すのであって、手足は、彼の言われたとおりのことをすればいい。無論、あまりに能力不足であっては困るが、彼が能力不足より困る…腹立たしいのは過剰だった。気を利かせる、先回りする、といった行為のほとんどが、彼には邪魔で、いらぬ世話で、余計な差し出口でしかなかった。手足には頭脳も思考も眼もいらない、が、彼の自論であり、彼は、故国でも、そういう者だけを選りすぐって、己の配下にしてきた。
彼が己の配下に相応しいと考え、選ぶ者には、共通した要素があった。人種、年齢、性別は関係ない、自分の置かれた境遇に不満や恨みを抱いているが、それをどう晴らしていいかわからぬもの、もしくは、不満を現況を変えるためのエネルギーとしては使おうとせず、うっ屈した感情を暴力的・犯罪的な方法、もしくは他者を貶める方向で晴らすことを好み、一時ガス抜きができればそれで満足してしまう者。つまり、現状に不満がある、だからといって、問題を解決する方策を模索したり、物ごとを正す方向には自らは動かない、動きだそうとしない。どうすれば現況を変えられるのか、考えないし、考えようとしない、もしくは、考えるのをあきらめてしまった、そういう類の人種だ。
そして彼には、そういう類の人種を巧みに、直観的にかぎわける能力があった。
その者がまとっている空気…というよりは「におい」でわかるのだ。
何もかもつまらない、何をしても報われない、生きていても楽しいことが一つもないと不満を胸にくすぶらせる一方で、自分以外の他人が幸せそうに見えると反射的に「ずるい」と感じて押し殺した怒りを胸に抱くが、不運・不遇を嘆き、他を妬み羨むだけで、自らは何もしようとはしない者。
強い圧迫をうけたり虐げられて精神にかけられる負荷が常態化するうちに、感情そのものが擦りきれ、鈍磨してしまったり、麻痺してしまったりで、心を動かさなくなったもの。
つまりは自分の頭では何も考えないか、考えることができなくなった者、その結果、自分から手足を動して現況を打破しようとはしない、もしくは、したくともできないーそれだけの覇気を奪われてしまった者たちだ。だが、そういう者の中には、うっ屈した大量のエネルギーを内在して居る者がたまにいる、そういう輩は、何かのきっかけを与えてやり、進む方向性を替わりに考えてやれば、恐ろしい勢いで、走り出したり、驚異的な能力を発揮することがある。
そして王族たる我は、その頭脳になってやるのだ、と彼は考えている。王族とは支配する者、支配すべく生まれついた者だ。そして支配者は自ら動く必要はない、行き先や方針を考え、命をくだせばいい。実際に進むのは、我という輿を担いで歩む民衆であり、王族=我は、その手綱を握り、操るのが役目だ。だから我は、力を持ちながら、発揮する術も場ももたず、抑圧されたものを解放する術を考え、その策を提示してやるのだ。すると、それまで考えることを知らなかった、力を発揮する術をもたなかった者たちは、驚くほど簡単に、我に傾倒し、我を頭脳としてあがめ、それこそ、手足のように、我の思うままに動くようになり、自らの思考を完全に放棄ないしは封印する。いな、命じられるままに動くことをこそ、むしろ、喜びとするようになるのだ、と。
これは、彼にとって信念という以上の、絶対の真理であった。
何をすべきか考えてもらい、行き先を決めてもらい、命じられるままに動く、それこそが民衆の望むことであり、喜びなのだ。我は王族の務めとして、無知蒙昧な民衆に替わり「自ら思考し決断を下す」という重責をになってやる。民の幸せを考えればこそ、王族=支配者・指導者は、考え、決定する。民衆を判断と決定の責任から解放してやるのだから、彼らは幸福だ、王族は彼らを幸福にせんがため、支配してやるのだ。
その信念のもと、彼は故国で、そういう者どもを配下として抱え、彼らを導くものとして、その当時の国のトップになり替わらんと、自分が唯一無二の「頭脳」にならんと蜂起し…結果、し損じ、すべての手足を失って、この国に放擲された。
が、いつまでも手足のないままではいない。世の中に不満だらけ、でも、自分からは何もしようとしない人種は、探せばどこにでも、いくらでもいるものだし、手足はそれだけでは動かない、動けないからだ。脳髄が指令を下して、初めて手足は動けるようになるのだ。我という脳髄を頂けることは、自身では動き方のわからぬ手足にとっても福音であろう。
そんな、動く力はあるのに動けずにいる手足を彼は求めていた。とにかく、動きさえする手足であればいいという妥協の気持ちで、あまり期待はせずに、留学生の日常を手助けしたいと思っているボランティア学生ーお人よしの集まりに顔を出した。手足を全てもぎ取られ、今のところ、その補充ができておらず、課外活動の参加も制限されている状況で、SP=監視役にダメだしされない出会いの場には、どんな処にでも顔を出す心つもりだった。
贅沢は言わない、己がベストと考える手足でなくとも、お人よしの群れなら、真の目的を明かさずにうまく操縦することができるかもしれないと考えて。
それでもとりあえずボランティアに「可能なら女性、学業優秀ならなお可、家柄は問わない」という条件を付けてみた。彼は自分の容姿が若い女性に強い吸引力を発することを自覚していたし、庶民の出で、かつ、自らの才格でのし上がれる優秀な者の中には、優秀であるが故にこそ「努力や才では如何ともしがたい物」の筆頭として、血筋・家柄へのコンプレックスー憧れと劣等感ーを強く抱いている者がたまさか居り、そういう者には、自分の出自が強い影響力を及ぼせると踏んだからだった。
すると、いたのだ。思いもかけず、あの、自らの配下と同じにおいをさせていた少女が、その場に。この、何もかもに恵まれた良家の子弟が多い学校で、自らの境遇への不満ではちきれそうになっている者が。自身を常に被害者とみなすゆえに、不遇を嘆き、不運を恨み、かといって、その内圧されたものを、どこに発散すればいいのかその術を知らぬ、彼には馴染みの心性をもつ者が、この学校内にいるとは思わなかったし、こんな場で会えるとも思っていなかった。
が、見出してやった以上、使ってやらねば、この者がかわいそうだ。こういう輩は「適切に使役されること」をこそ、喜びとするのだ。さすれば、自ら考えなくて済むし、而して決断もせずにすむ。だから、決断につきものの結果に責任を負うこともないし、選択を間違えたと後悔を覚えることもない。
だから我はお前の代わりに考え、判断し、命じてやる。
命じられるままに動いていればいい、何も考えないでいいということは、こんなにも幸せなことなのだ、なんとも、安楽で、うれしいことだと、これから、お前は震える程の喜びに浸っていいけるはずだ。
「おまえは幸せ者だ。我に出会え…これからは我に従って生きられるのだからな」
だから、彼は彼女に向って、心の底からこう言った。その言葉には微塵の嘘・偽りもなかった。彼自身が、そう信じていたからだ。そして、心からの言葉は、聞く者にも、おのずと本音・真実として響く。言われた側は信念の力強さに目が眩まされ、自然と「そうなんだ、私は幸せんだ、この人に付いていけば、この人の考えに従っていれば幸せでいられるんだ」と思いこまされてしまう。
エンジュの場合、尚更、その気持ちは強いものになった。信じたいと思っていたものー特別な存在に抜擢され必要とされる境遇ーを目の前に提示された。憧れの存在から、自分1人に向けて発せられた言葉を「真実」として受容するのは、当然のことだった。彼女は彼の示した「真実」にすがった。
でも、命じられる者にはわからない、命じる側から見れば、自分はいくらでも補充の効くもの、手足というよりは、例えれば馬のようなものだと。狩猟のための馬を多数持つ馬主にも、無論、馬の能力や気性により、お気に入りや1番の馬というものがあり、それは、大事に大切にする。でも所詮、家畜は家畜、いくらでも替えが効くものだから、疲れたり、用を足せなくなった馬は、いとも簡単に新しいものに取り換えられる。狩りに出る時は、替え馬を連れていくのは当然のことで、最初に乗っている馬が疲れたり、足を痛めたら、意気軒昂な新しい馬にのりかえるのは、乗馬を多少たしなんだものには常識だ。ましてや、脚の損傷がひどく、2度と走れなくなった馬は、それまでどんなに大事にされ重用されていても、即座に食肉にされ、猟犬を養う糧とされるのは、馬主にとっては当然の決断である。しかし馬主はそれを哀れとは思わない、走れない馬=ただの役立たずになっても、馬肉になれば他を生かすために役立てるのだから、馬肉にされる馬だとて本望だろう、死してなお、主を支える一助となれるのだから。馬だって、最後まで自分の役に立てて幸せだと思って死んでいくはずだと考える。これは馬主、つまり、支配者なら当然の思考だ。
だが、馬には「役に立つ間だけ大事にされている」なんてことはわからない。ましてや、死してなお馬肉として活用してもらえるとは、そこまで主人の役にたてて、なんて自分は幸せだろう、と馬は思うだろうか。馬なら全ての馬が、当然、そう思うはずだ、と馬主=支配者にみなされたとて、馬も素直に「その通りだ」と頷くだろうか。
だが、支配され、支配者の役にたつことこそが下々の者の喜びであり、幸せだという考えを、この王族に生まれついた若者は心からの信念として報じており、この価値観を疑ったことなど、絶えてなかった。
だから彼は何の迷いもためらいもなく、当然のように眼前の少女に命じた。
「おまえに調べてもらいたいことがある」と。
最近のエンジュは毎日走っている。時間がいくらあっても足りない気がする。でも忙しいことは苦痛でなく、むしろ喜びだ、銀髪の王子様の命に従い、役にたっている実感があるからだ。
最初にエンジュに命じられたのは、多数の人名リストー苗字のみだーを王子から手渡され、同じ苗字を持つ者が、この学園にいるか、いれば何学年のどの学部に在籍しているか、調べろというものだった。
命令は理解したが、エンジュはその方法がわからなかったので「どうやって調べたらいいでしょう?」と彼に尋ねた。彼は「学生原簿と照らし合わせてみればいいだろう、この学校のサイトで閲覧が自校生限定のファイルにアクセスしてみろ」と教えてくれた。調べた結果はどうやってお知らせすればいいでしょう?とエンジュは更に尋ねた。すると彼は曜日と時刻を明確に指定し、この場に調査結果を持ってくるようにと言った。その時までに調査が終わっていなくてもいい、その時はその旨を報告するだけでいい、途中経過はいらない、完全に照合し終えた結果を我に渡せ、次回の連絡時に作業が完遂していなかった時は、次に連絡する日時をその時追って下すと付け加えた。エンジュは頷いた。
彼はエンジュに連絡先を聞かなかったし、彼が自分の連絡先を教えることもなかった。
また、エンジュはその名簿の出所を知らない。「この名簿はなんなのか」ということも、調査の目的も彼に聞こうともしなかった。リストの人物にどんな共通点があるのかも知らないし、知ろうとも、知りたいとも思わない、自分が命じられたこととは関係ないから。エンジュは、命じられるままに、学生名簿と渡された人物名リストの照合を開始した。
学生名簿は部外者には厳重に秘匿されているが、内部の学生には、そうでもなかった。膨大な数ではあったが、原簿をしらみつぶしにあたれば、学生の姓だけならーなんという姓の学生がどの学部に在籍してるかは容易に判明しそうだった。
個人の住所や連絡先などは流石に伏せられていたが、どの学部にどんな姓をもつ学生がいるか位のことは、少なくとも、内部の学生にはオープンにされていたので、エンジュは命じられた調査をきちんと進めることができた。ただ、このスモルニィは、学生数が多いので、指定された苗字を持つ学生を抜き出し、学部・学科にわけてファイリングしてプリントアウトして…というある意味単純な作業に、エンジュはかなり時間を取られた。一時に複数のことがうまくできないエンジュは、調査と同時にファイリングしてなどという要領のいい真似はできなかったので。
それでも、自分の努力が「ファイルされた資料」という目にみえる形で積み重なっていくのを見ると、エンジュは嬉しくなった。銀髪さんの言う通りだ、銀髪さんに言われたとおりにしていれば、私はきちんと仕事ができるんだ、と思うと自尊心がくすぐられ、満たされた。
王子がPCを持っていて調べたデータを直接転送できれば早かったのだろうが、エンジュは彼がPCを持っているかも、メールアドレスも電話番号も彼の住所も一切教えられていないので、地道に原始的にプリントアウト及びファイリングをするしかなかった。「王子様の身辺はものすごく厳しいセキュリティがかけられているのだろう」と思ったでの、疑問も不満も感じはしなかった。ただ、エンジュが使えるのは寮のPCとプリンターだったから、24時間1人で好き勝手に使うというわけにもいかず、それで、尚のこと、時間がかかった。
自分だけのPCとプリンターがあれば、もっと自由に調べ物ができるのだが、エンジュにはそんな金銭の余裕はなかった。それが申し訳ないと引け目を感じてしまうあたり、エンジュは、銀髪の王子のために、どんな滅私奉公も苦にならない精神状態に陥っていた。実際、王子は命じるだけで、そのための金銭援助も機器提供の申し出もしなかった。自分の手持ちの範囲で、どうにかしろ、ということだろうとエンジュは解した。王族というのは、みだりに公費を私用に使えないし、使ってはならない、だから、資金援助はできないのだろうと思い、エンジュは、それを彼の公明さと感じ、むしろ感じ入った。それに彼は資金援助をしない替わり、命じられた仕事を急がせるようなこともなかった。銀髪の王子の鷹揚さに、エンジュは、尚のこと、のめりこむように彼への敬愛の度合いを深めた。急がされなかったゆえにこそ、一心不乱に調査作業に没頭、寮のPCを使ってリストを造り続けた。
エンジュは「公費を無駄に使わない」高潔な人に、金銭を介在せずに尽くしている自分に酔いしれていたが、彼が、自国にいる時はなんら公務に勤しむこともなく、次代の王位につける可能性が低いという、ただそれだけの理由で日々酒浸りーそれこそ国民の血税を湯水のようにアルコールに替えて消費していたことなど、知るよしもなかった。
とまれ、エンジュがようよう、苦労して作ったリストー先に提示された姓をもつものが、どの学部の何学科の何回生にいるかを調べたものを2度めの逢瀬ー指示された場所に赴き、また次回の待ち合わせの場所と日時を指定されるという逢瀬だーの際、文字通り不眠不休の勢いで、手渡された名簿と学生原簿との照合を全て終えたファイルを手渡した。が、彼はそのファイルを眉ひとつ動かさずに一瞥すると「これでは、性別がわからない」と言った。ねぎらいも感謝の言葉もない、ただ、結果に満足していない、それがエンジュにもわかった。そんな扱いをされても、エンジュは気分を害することもなく、むしろ、怯えた。これでは、また故郷であったのと同じように「役立たず」「気が利かない」と断じられるのではないか、用無しとして見限られるのではないかと。
が、エンジュが何も言わずー言い出せず、黙って怯えたように彼を見つめていると、彼は、淡々と、何の感情も交えずこう続けた。「リストアップされた人物の性別を調べろ」と。
エンジュが各人の所属学部を調べた学生原簿にも、確かに記されていたの姓のみで、名の部分はイニシャルであることが多く、なおかつ、これは、まさに個人情報保護のためだろうが、顔写真の記載はなかったので、名を見るだけでは、性の判別は難しかった。
このリストアップした者の性を判別するには、どうすればいいのか考えるとエンジュは途方にくれた。ただ名簿を見ているだけでは、性別はわからない、では、どうすればいいのか、その方便がわからない、思いつかない、エンジュの頭は真っ白になった。パニックになりかけたが、いつものように「私は言われたとおりのことをしたのに、気にいらないって言うなら、もう帰る!」と癇癪を起すことはなかった。偏に「王子様にだけは、役立たずと思われたくない」という切なる願い故だった。エンジュは、さらに強くすがるような視線を銀髪の青年に向けた。
すると王子が「直にその目で確認すればいいだけの話だろう」といとも簡単に方法を教えてくれた。所属学部や学科の情報はわかっているのだから、それを元に、授業のある刻限と教室を調べて授業の合間の時間に目当ての学生を探し訪ね、その目で確かめるという原始的な方法を取ればいい、と。王子の命はシンプルで直截かつ詳細で、わかりやすかった。エンジュは「こう言う風に命じてくれれば、私はきちんと仕事できる」と思いほっとした。先刻、潰れかけた自信と自尊心が元に戻る。面倒だとは、微塵も思わなかった。
そして、PCにかじりつき、必死の形相でプリンターを酷使する日々から一転、エンジュは自分の足を使った熱心な構内探索を開始した。最近、休憩時間は、比喩でなく、メインストリートをわき目もふらず縦横に走って、他学部棟を訪ねることに費やされている。
そんな自分を周囲がどんな目で見ているかなど、エンジュは気づかなかったし、気づいても気にも留めなかった。
彼の望むようにふるまい、彼の命に従うことに、エンジュには何の疑問も躊躇いもなかった。
だって、自分では、これまでの人生で、今が一番幸せだと断言できたからだ。
人生に感謝したのは、これで2度めだった。スモルニィの特待生に選ばれた時と同じで、がんばってきた自分が、漸く正当に報われた瞬間だと思った。尤も、スモルニィ特待生になれたことへの感謝の気持ちは、入学直後の挫折感のせいで長続きしなかったから、エンジュ自身としては、今回が「生まれて初めて自分が正当に評価され、人生に感謝した」という気持ちに浸れた時だった。
無論、この大学の特待生に決まった時も、幸せだった、それは嘘じゃない。初めて自分の力量が正当に評価されたと思ったし、これで、自分の前途は洋洋と開けたと思えたからだ。でも、この得意の絶頂、高揚を感じていられたのは、ほんの短い期間…特待生と決まってから実際の入学式の日までの間だったから、今思うと正味1月半位だったろうか。入学式のその日、エンジュには自分以外の学生が全て眩しく輝いて見えた。堂々として自信ありげだったり、溌剌として快活だったり…自分が構内で最も、おどおどして、くすんで、みっともない存在に思え、エンジュは、一瞬ににして、得意の絶頂からどん底まで転げ落ちた気分だった。そして同時に激しい怒りの虜になった。外部入学生としては1番の成績で入った特待生の自分より、学業成績は自分より劣るであろう普通の子たちの方が、よっぽどきらきら眩しく輝いて見えることが納得できない。自分は能力があるのに、なぜ、こんな、惨めな気持ちに苛まれるのか釈然としない。でも、この眩しい世界に、自分はそぐわない、認められない、重んじられないだろうという思いが、どうしても打ち消せない、この惨めさと悔しさ。同じ年頃で学生という同じ立場の者たちの中で、自分はヒェラルヒーの下位にいると感じてしまう屈辱は理屈ではなかった。周りが「そんなことないのに」と言っても、エンジュは納得できなかったろう。エンジュは、常に「自分の持っていない物」に目を向けずにいられない、持っていない物ばかりが気になって仕方ない、持っていない物をこそ、より欲しくなる、そういう性質(たち)だったから。
そして銀髪の青年は、エンジュが持っておらず、永遠に持ちえない物、どんな努力をしても決して持つことができないであろう物ー高貴な血筋、貴い生まれという宝物の持ち主だった。エンジュは銀髪の青年が、自分の思い描いてた通りの素性だったことを知って、胸が躍った。高貴な血筋は、何をせずとも自ずと人から尊ばれ認められ敬意を払われる、どこでも誰にでも通用するパスポートだとエンジュは思っていたし、彼はそれを生れながらにして持っている「特別な存在」だった。それでいて、エンジュは彼を「私には縁もゆかりもない、関係のない人」とは感じなかった。むしろ、親近感を抱いた。彼のまとう孤独・傲慢・周囲に対する理解や共感への拒絶の雰囲気、そういったものに、エンジュは激しい憧れを抱いた。誰からも重んじられ、尊敬される王族という立場であるにも拘わらず、いや、だからこそか、銀髪の彼は、周囲に理解や共感を求めない、むしろ、孤高を貫きとおしている。「認められたい」「必要とされたい」なんて多分一度も思ったことがないー思う必要もない、称賛も崇拝も彼には捧げられて当然のもの、生まれながらにして、ふんだんに浴びるように与えられ注がれてきたものだから。それこそ湯水のように。だから彼は他者と慣れ合ったり迎合する必要がないし、孤独も恐れない、むしろ好む。そして、それは大層「贅沢な」振る舞いに、エンジュには思えた。生まれながらにして「富める者」のみが取れる態度だと思った。だからこそ、激しく焦がれた。
否応なく強いられる孤立は「孤独」でしかないけどー自分の立場だー銀髪さんは自ら孤立を選びとっているーつまらない人種とは交わらないという意思表示は「孤高」だ。それは、自分と似ていながら、自分では決して立ちえないスタンスであり、だからこそ、エンジュにとっては、共感できると同時に果てない憧れとなったのだ。
そんな憧れの「孤高」の存在に、今、エンジュは必要とされていた。
誰からも必要とされたことのない、つまらない、みっともない、不格好な田舎者の自分がである。
しかも、そんな自分を必要としてくれているのは、そんじょそこらにいる平凡な人ではない、どこにでも無数にいる、ありきたりな人物ではない、よりにもよって王子様なのだ。生まれながらにして特別な存在が、数多いる学生の中で、誰でもない、この自分を選んで必要としてくれているのだ。
これを幸せと云わずして、なんと言おう。
エンジュは、今、幸せに酔いしれていたが、この多幸感の根底には「認められたい、特別な存在として仰ぎ見られたい」というひりつくような自己顕示欲があり、この欲望は突き詰めれば「誰かから必要とされたい」という極シンプルな願いから発していた。今の自分は「つまらない・みっともない」存在だから、誰からも必要とされず、それは、つまり自分は価値のない人間ということだ、でも「すごい/素晴らしい/素敵な存在」として一目置かれれば、そんなすごい自分は、誰からも必要とされるに違いない、こんな論理がエンジュの内には、明文化されてはいなかったが、あった。それは、必要とされたいのに、必要とされたことがない(と思いこんでいる)エンジュが、心の砦を守るために構築した論理であり、こういう論理を造らねばならないほどに、エンジュの「誰かに必要とされたい、されてみたい」という願いは、強く激しいものだったのだ。
冴えない、頼りにされない、誰からも必要とされず(と思いこんで)生育したからこそ、エンジュの、それは、単純で根源的で、でも、焼けつくように熱く、唱えるだけで泣きたくなるような切な願いでもあった。1度でいい、何物とも換えの効かない特別な存在として、誰かから必要とされたい、その願いは、微塵も満たされずにきた年月が長くなるほどに、エンジュの中で譲れない願いとして、大きく深くエンジュの心の中に根を張っていた。願い事が1つだけ叶うとしたら、迷いなく、この願いを口にするだろう程に。
でも、いくら願っても叶わないとなれば、人は絶望するしかない。絶望に捕らえられたままで生きていくのは辛すぎる。だから絶望につかまらないため、絶望から目をそらすため、エンジュには、自分の願いが叶わない理由=自分を納得させる「物語」が必要だった。それがエンジュにとっては「私が誰からも必要とされないのは、私が人より抜きんでて素晴らしい部分がないからだ、ということは、人より抜きんでれば、認められるし、認められれば必要とされるはず」という論理だった。
そして特待生に選ばれた自分は「抜きんでた存在」になれたはずだったのに…この学校では、それだけでは「スペシャルな存在として認められる」のは、難しいだろうことを、入学したその日にエンジュは思い知らされてしまった。自分以外の新入生すべてが、自信に満ち、堂々として、輝いて見えたし、入学したてのエンジュは、まだ、よく知らなかったが、実際、この学校には、色々な分野・各方面で才あふれ、特別に輝いている人々が多数いた。だから、勉強だけできたって、ちっとも「特別視」はされないのだ。家柄、血筋、富、容姿という自らの努力とはあまり関係ない部分で恵まれている人たちも多数おり、一方で、自らの資質を磨いているがゆえに輝いている様々な特別な才能の持ち主も同じくらいいた。そういう人材の集うこの学校では、多少、勉強ができる、なんていうのは、多々ある才能のうちのひとつにすぎず、特別華やかでもなければ、人目を引き、感心してもらえる才能でもなんでもなかった。今年の新入生の中で1番の成績だって、多少、感心されるくらいで、それ以上ではない。勉強ができるといっても、エンジュのように勉強自体が目的となってしまっている者は、数多くいる秀才の1人にすぎないからだ。勉強はあくまで方便で、それで何をしたいのか、何ができるのかが、明確な目的意識とそれに向かう尽力こそが、スモルニィでは一目置かれ、評価される。たとえば向学心と探究心を「新発明」という成果に集中・結実させているゼフェルの方が、ただ「優秀な成績を取ること」を目標としているエンジュより、敬意を集めるのは当然の成り行きだった。尤も、そのゼフェルを含め大半の学生は、周囲から敬意や評価など気にせず、おおらかに気取らず、自分なりに充実した学生生活を送り、満足していたのだが。
でも、エンジュは入学前に、この学園に多大な期待をかけていた、特待の奨学生として認められたことで、この学校でなら、自分は特別な存在として認められ、一目置かれるはずだと。なのに、いざふたを開けてみれば、「勉強ができる」ことは、エンジュが期待していたほどには評価されてない気がした。期待の大きかった反動で、むしろ逆に劣等感と惨めさを増幅させられた気分だった。
エンジュは、自分には「勉強」しか取りえがないし、勉強さえしていれば認められるはず、そう思いこんでいた、だが自分の「勉強」という才だけでは、この学園ではその他大勢として埋もれてしまう、全然特別視などしてもらえない、特別な存在として認められないのだから、必要とされる筈もない。これでは、私は、また、誰からも必要とされないままだ、故郷にいた時と同じだ…でも、自分には「勉強」以外、自信の持てる分野がない、認めてもらうため、必要とされる術を他にもたないし、知らない。
そんな風に思いこんでいたから、入学して暫くは、もう何もかもに見放され、見捨てられたような不安な心持で、みじめさ、劣等感にさいなまれ、一方で、「こんなことは不当だ」「私はもっと評価されてしかるべきだ」という、うっ屈した怒りと不満をエンジュは常に胸に抱き、それを日々募らせていた。だから、いちいち、周囲の何気ない言葉や態度に過剰に反応し、反射的に噛みついてしまったりした。
でも、今、エンジュは生まれて初めて認められ、必要とされていた。譲れない願いがようやく叶い、欲求が満たされたからこそ、エンジュはたまらなく幸福なのだった。渇望ゆえ何かに当たりちらさずにはいられなかったイライラした心境が、今は、嘘のようにすっきりと曇りなく晴れ渡っている。
自分が「特別」だと信じる存在が、自分を必要としてくれたことで、エンジュの自尊心、自己顕示欲は、これ以上はないほど満たされた。私は自分1人の力では輝けずにいたけど、まぶしい存在に光をあててもらったことで、自分も今輝くことができた、エンジュはそんな気持ちだった。
そして、初めて知ったこの喜び、幸せにエンジュは執着した。
この喜びを手放してしまったら、2度と、同じような幸せを感じられるとは思えない、いや、きっと、ありえない。
だって、この後の人生で、誰かに必要とされたとしても、この人ほど特別な存在に他にいない、私の生涯で、王子様に会える機会なんて2度とないだろうし、ましてや王子様に必要とされる機会なんて、もっとないだろう。こんな2人といない特別な人に必要とされたことで、私は輝ける。今の私は太陽に照らされる月と同じ、太陽を失ったら、また、暗くて冷たい、ただの石ころみたいな、自分では何の輝きも発しない、つまらない存在に逆戻りしてしまう…
この学校に入学すれば、私の心は満たされると思ってきた。なのに、それは叶わぬと入学初日に思い知らされた、周り中、素敵な素晴らしく輝いている人たちばかりで、自分のみっともなさ、惨めさばかりが意識されて、辛くて仕方ない。かといって逃げ帰る場所もない。劣等感を刺激されるのが嫌で、心に壁を作って、自分から打ち解けようとしないから、友人もできない。頼みもしないのに、自分に手を差し伸べてきた少女もいたが、馬鹿にされていると思ったから、手ひどく突っぱねた。「友人なんていらない」「私は1人でも平気、今までも1人で生きてきたんだから、これからだって大丈夫」と自分に言い聞かせて。でも、あの人は違う、あの人なら、私の気持ちをきっとわかってくれる、そんな気がして、ダメ元でお近づきになれる機会をうかがったら、狙いすましたように、その人も、この国での協力者を探していた、しかも、その人は、まさに文字通りの「王子様」で…そう、銀髪の青年は、噂どおり、王子様だったのだ、そして、王子様は「優秀な協力者」を探していて、自分に白羽の矢をたててくれた。これを運命と云わずして、なんというのか。王子様とお近づきになれたこの幸運に、執着するのは当たり前ではないか。
エンジュは「そうよ、最初から…一目見た時からわかっていたわ、あの人は、私のことをわかってくれる、あの人は私の人生を変えてくれるって。あの人の言う通りにしていれば、私はこの上なく幸せでいられる」と、最近、いつも、思っている。
実際、彼にあって、彼の望むことをこなしていると「私は必要とされている」「私が素晴らしいと認められる、その人の役にたっている」と思うと、この上なく幸せな気持ちになれた。自分にとっては、どうでもいい人ー普通の留学生の役に立ったり、何がしかの施設で所謂普通のボランティアに励んでも、ここまでの高揚は絶対に得られなかった、そう断言できた。「王子様」の役に立っている、その事実が、エンジュの自尊心をこの上なく満たし、気持ちを高揚させた。それは自分が「優秀」である何よりの証左におもえたからだ。
本来、自分には縁もゆかりもない、この学園に入らなければこの目で見ることもなかっただろう「王族」という別の人種の知遇を得、引き立てられ、その手足となって甲斐甲斐しく働けるのも、私が優秀だからだ。私は、ちょっと見は、冴えない、あか抜けない、みっともない田舎者だけど、でも、本当は優秀で、それを銀髪さんは見抜いてくれて、私の真価を認めてくれて、だから、私を助手…ううん、協力者に選んでくれた。銀髪さんは、高貴な身分故、自分で自由には動けないから、私を名代として、もしくは、世俗に通じる窓口として使ってくれている、それは私が「王族の名代」として通用する人物だと見込み、認めてくれたからこそだ、とエンジュは夢見るように信じ、信じられたからこそ、幸せの絶頂にあった。今まで、ずっと、不安、猜疑、自信の無さに脅かされ、心の落ち着き所を見つけられずにきたエンジュにとって、それは今まで味わったことのない甘美な充足=従属だったのだ。
そしてエンジュは、今日は経済学部棟に向かっていた。調査を命じられたー調査の順番も銀髪さんが丁寧に指示してくれていたー経済学部の名簿をみると、珍しいことだが、1つの学科で「重要人物」を示すらしい印が2つもついていた。
「デュカーティ・Oと、クラウゼウィッツ・O…この2人の性別は最重要で要確認なのね」
この2人が女性だったら嫌だな、と、反射的に思ったー法学部で嫌な思いをした後だったのでーものの、それでも、今日は特別しっかりきちんと調べなくちゃ、エンジュは意気軒昂に経済学部棟に走っていった。