Before it's too be late 18

王子から命じられた人名リストの照合ーこの学園内にリストと同じ姓を持つ者がいるか、いたら、それは何学部の何学科の何回生に在籍しているのかを調べ終えたエンジュに与えられた次の仕事は、リストにあがった人物の性別を調べることだった。

しかし、どうやって調べたらいいかわからず、途方にくれたエンジュに、王子は実際に見にいくのが一番手っとり早いと指示してくれていたので、エンジュは馬鹿正直にずっとその方法を繰り返している。

王子は順を追って一つ一つ、すべきことを指示してくれるので、エンジュはとてもありがたいと思っている。私は言われたことなら、きちんとできるのだ、という自尊心が今までにに味わったことのないレベルで膨らんでいた。故郷では、幾度となくぺちゃんこに潰されてきた自尊心だった。自分は「命じられたこと」を、きちんとやっていたつもりだし、実際、きちんとできていた、という自負もあった。なのに「気がきかない」「言われたことしかできない」と、なぜか、ちっとも評価されなかった。命じられていないことをしないのは当たり前なのに、なぜ呆れられたり、たしなめられたりするのか、その理由がわからなかった。わからないから納得できず、ふくれて、ふてくされて「私がいなければいいんでしょ。もう帰る」と、任された仕事を途中で投げ出すことも多かった。私のやり方が気に入らないなら、他の人たちが勝手にやればいい、そう思うのは当然のことなのに、それで、また嘆息されたり、冷笑されたり…

そんな嫌な記憶がふと蘇りかけ、エンジュはぶるぶると頭を振った。が、今まで程には嫌な気分にならずに済んでもいた。

それというのも、銀髪さんは、仕事の成果を褒めてくれることはなかったが、決して、呆れたり、軽蔑した目で自分をみたりしないからだった。だから、エンジュは嬉しかったし救われた。王子は、他の人みたいに、訳もわからず自分を「役立たず」として見下したり、見限ったりしないでくれる。どんな報告を出しても、呆れたり、怒ったりもしない。だからエンジュは仕事を投げ出さないで済んでいる。逃げ出したいという衝動にかられずに済んでいる。今まで、私が任された仕事をやり遂げられなかったのは、周囲の無理解の所為だ、文句があるなら私に任さなければよかったのだ、任す方が間違っているのだから、中途で投げ出す私は悪くない、なのに、義務を投げ出す、すぐに逃げ出すといって人は私を悪く評価し…いつしか、私は誰からも必要とされなくなっていた。私は当然のことをしていただけ、しなくて当然のことは、せずにいただけなのに。こんなのは不当で不公平だ、納得できない。そんな不平不満が胸の中でいつもくすぶり、エンジュの心を苛立たせ、苦しめていた。

でも、王子の元でなら、私は任された仕事をやり遂げられる、1人前になれる、すぐに投げ出す、逃げ出すという評価は無縁のものにできる、そう思うとエンジュは、なすべきをことを1から10まで指示してくれる王子に感謝せずにはいられない、自分を理解し評価し活用してくれたのは王子が初めてだ、王子だけだと思うと崇拝の度は深まるばかりだった。

だから、エンジュは、調査・照合の目的を彼に問いただすことはしなかったし、できなかった。エンジュにとって、彼から下される命令は、もはや、その是非を判断をするものではなくなっていたからだ。エンジュは、命じられた通りに、愚直に人名リストの性別の照合に励んだ。称賛されれば尚嬉しかっただろうが、そこまでは求めずとも「自分は理解ある人の元でなら、きちんと仕事をやり遂げられるんだ」という自尊心がみたされるだけでも十分満足できたので、不満はなかった。

というのも、見知らぬ人を訪ね歩いて、直にその性別を確認するという作業は、王子の言う通り、手っとり早く、確実で、わかりやすいとエンジュも思ったが、同時に、非常にエンジュの気を重くする…エンジュには困難な作業だったからだ。とかく時間と手間がかかるだろうことは、さして問題ではなく、エンジュにとって、見知らぬ人を訪ねて、探しあて、声をかけるという一連の作業は、とにかく気鬱だった。非常な苦痛と勇気を必要とするものに思われた。それでも、困難だからこそ「やり遂げた」ときの達成感も大きいだろうことは予測できたし、そして、今度こそ、褒めてもらえるかもしれないという期待で、エンジュは、とにかく命じられた通りに、リストの上からー訪ねる順番も王子が決めてくれたので、迷わずに済んでー他学部の学生を訪ねる日々を開始したのだ。

すると案ずるより産むが易しとでも言うのか、実際、始めてみると、この作業はほとんど困難を伴わず、拍子ぬけするほどあっけなく進んでいった。

実際に、銀髪の王子がリストアップした人物の性別を調べ、確認するだけなら、本人に声をかける必要は滅多になかったのだ。本人の姿を確認することすら必要ないことも多かった。その学科の必修の授業がいつあるか履修表で調べ、その授業が終わった直後の教室を訪ねて、手近にいる学生を適当に捕まえて声をかけ「あの、○○さんは、いらっしゃいますか?」と尋ねれば、学生は、皆、気さくに親切に「彼ならあそこにいるよ」とか「その人は彼じゃなくて彼女よ、でも、残念なことに今日はお休みなの」と教えてくれ、性別は容易に判明したからだ。

これは(エンジュはこの時点では知らなかったが)リストアップされた人物が、それぞれにこの学園内であっても、よりぬきの富裕層の子弟ばかりだったからだ。全学的に注目されているー陶芸家として既に評価を確立しているクラヴィス、若手新進デザイナーとして同様のオリヴィエ、芸術学部でないにも拘わらず絵画の公展でいくつも賞を取っているリュミエール、高校在学中から幾多もの特許を取得してきたゼフェル、体操競技の次期オリンピック選手候補に名前があがりそうなランディあたりの学内有名人は、学部にかかわらず多くの者がその名を知っている文字通りの有名人だったが、そこまでのレベルではなくとも、学科内やクラス内にも、その中での有名人というのがいるものだ。ちなみに、3年次ですでに司法試験に合格しているジュリアスは、学部内と全学的有名人のちょうど中間あたりに位置しておりー本人はそういった評価に全く無関心だがーオスカーも、大学生になってからの知名度はこのレベルだった。高等部時代は、学園一のモテ男、プレイボーイとして浮き名を流していた彼だが、アンジェリークというステディを得てからは、プレイボーイとして名声は水面下のものとなりー無論、密かなファンはいまだ無数にいるのだがーむしろ、アンジェリークと2人一対で理想のカップルとして名があがることの方が多くなっていたし、MBAを目指して猛勉強をしているオスカーは、経済学部内では、真面目で優秀な学生としての評価の方が高かった。クラウゼウィッツの名、及び、軍需産業複合体であるアルテマツーレは一般人に名の知れた企業ではないこともあって、オスカーはこの学園では多くはないが、そう珍しくもない一般的な富裕層の子弟と思われていた。

そして、エンジュが渡されたリストの名前の多くは、名をだせば、その所在を同級生が簡単に教えてくれる程には知名度のある者ばかりで、同級生同士の結び付きが高校に比すと弱い大学のクラス内であっても「誰だっけ?」「そんな人いたっけ?」などという反応が返ってきたことは皆無だった。なので、ほとんどは名を出すだけで、本人に会わずとも、エンジュの用は足りた。いかにも外部からの新入生で、朴訥な雰囲気の女学生であるエンジュが人を訪ねる様子は、誰にも警戒心を起こさせなかったし、同じ学生同士、その目的を詮索されることもなく、助かった、むしろ困るのが、親切な人だと、その目標となる人物の在所まで連れていってくれようとしたり、大声で呼んでくれたりすることだった。スモルニィの学生は、総じて、人のいい者が多いせいだろう。だが、目の前につれていかれても、用や言伝が実際にあるわけではなく「単に性別を知りたかったんです」なんてことは、言える筈もなくーこの調査は他言せぬよう王子から厳命されていたこともあってー不器用で臨機応変な対応が苦手なエンジュは困ってしまって、慌てふためいて逃げ出してしまうこともたまにあったのだが、これも、幸い、そう不審がられないで済んでいた。エンジュが訪ねるのが、ある程度の有名人だったせいで、エンジュが遁走するがごとく、その場を立ち去っても「外部からの新入生が、やじうま根性で○○家の子弟の様子を見てみたかったんだろう」「なのに、見た目が全然普通なんでがっかりして、帰っちゃったんじゃないか」などの軽口を提供しただけで済んだのだった。

そんな具合で、名簿の照合は、割と簡単に進み、エンジュは程なく文学部と法学部のリストの性別を照合し終えた。

その頃、ちょうど、連絡に指定された日時が来た。留学生とボランティアの学生とが顔合わせや待ち合わせに使う学生会館が待ち合わせに指定されており、その片隅で、エンジュは性別を記した名簿を王子に手渡した。今回は、全ての結果が出てからでいいとは言われておらず、照合を終えた分から、順次手渡せと言われていたので、できあがった分だけだ。相変わらず王子は、メールアドレスも電話番号ー携帯・有線どちらも、とにかく連絡先といえるようなものをエンジュに一つも教えてくれない。だからエンジュは王子から指示された日時に、指示された場所まで赴き、調査結果を直に王子に手渡すだけだ。一切の指示は我が出す、おまえはそれに従っていればいい、と言われている以上、エンジュはそれに従うだけだ。

何はともあれ、エンジュは出来上がった書類を手渡した。だが、それらを見ても王子の表情は全く動かなかった。良くも悪くも感情は全く表にでなかった。

彼が喜怒哀楽を示さないことは、エンジュにとっては安心材料ーどちらかといえば、喜ばしいことだった。少なくとも、彼は不満や苛立ち、嫌悪を顔に出さないから、自分の仕事ぶりに満足していないということはないと思えたからだ。

しかし、一方で、エンジュはこの調査を命じられた時から、不安と心のもやもやを感じてもいた。

エンジュは銀髪さんが差し出したリストー人選にどんな意味があるのか、しかも、なぜ、性別を知りたがるのかも知らない、が、性別を調べろと言われた時、エンジュは、あの噂ー高貴な王族がお忍びで花嫁探しのためこの学校に留学に来たという噂を思い出し

『銀髪さんがこの学校に来たのは、やはり、お后選びのためなんだろうか、だから、性別が…いい家柄の子弟が女性か男性か、知りたかったのだろうか』と思うと、そこはかとない不安と、なんとも嫌な疼きとも痛みともいえぬものを胸に感じていたのだ。

けど、銀髪さんは、名簿の性別照合の結果を見ても喜色や期待の表情を見せたりせずにいる。感情を露わにしない彼の様子を見ていると、この国にお后選びにきたという噂は根も葉もないことにも思えてくる、というより、そうであってほしい…この調査が名家の令嬢をピックアップするものでありませんように、と、祈るような気持がエンジュの胸中にこみ上げてくる。

特に、この法学部の調査ー実態はただの首実検だがーをした時、嫌な思いをしていたので、尚更だった。

先日、法学部で調査した時は、少し際どい思いをしたー自分と新入生合宿時に口論になりかけた青髪・青眼の少女が、王子のリスト内の1人に挙がっていたのだ。リスト内に自分の顔見知りがいるとは、エンジュには思いもよらないことだった。何の気なしに「カタルヘナさんっていらっしゃいますか?」と尋ねたら『カタルヘナのお姫様なら、あそこにいるよ』と言われ、示された先に見覚えのある姿を認めた時は、ぎょっとした。なんで?と思った。彼女が振り向く前に、慌てて踵を返してその場から立ち去ったつもりだから、多分、自分の姿は見られなかったと思うけど…。あのきつい子…ロザリアとか言ったっけ…が王子のリストにいたのはなぜだろう、しかも「お姫様」って評されてたのが、エンジュは気になって仕方なかった。

だが、今、法学部の照合リストを出しても、王子は何も云わなかったし、表情も変わらなかったので、エンジュの心の針は「少し安心」の方で落ち着いた。「お姫様」と称されていたロザリアに王子が興味を示したら、エンジュの胸中は、ひどく波立っただろうから、王子が「カタルヘナ=女性」の調査結果に何ら関心を示さずにいてくれたことが、エンジュには嬉しかった。

そして「カタルヘナの姫君」以外の法学部リストは男性が多かったが、文学部のリストは総数はそう多くはないものの、その半数以上は女性だった。が、彼はどんな結果を見てもやはり眉ひとつ動かさない。

その王子の様子に、エンジュの心は、どんどん、安堵の方に傾いていく。文学部に女性が多くいても、法学部には「お姫様」と称された少女の名があっても、王子が無反応だったので、エンジュは、かなり、ほっとしたような気持になった。

彼が名簿の性別を知りたかったのは、花嫁候補探しが目的ではなかったのだ、きっと、と、エンジュは考え、そう思うと、心が軽くなった。これからは、平常心で調査を続けられそうだ、と自信もわいてきた。リストにあった「カタルヘナ」の子弟が、自分と同じ新入生で、合宿の時、少々口論した相手で、しかも「お姫様」と称される程のお嬢様だと知った時、エンジュの精神は、かなり不安定に傾きかけ、私はこのまま調査を続行できるのかしら…と、エンジュは不安を感じていたからだ。

無論、心が波立ちそうになる度に、エンジュは『王子が何に興味を示そうと、この調査の目的が何であろうと、私は、命じられたことをするだけ、それが銀髪さんを喜ばせることだもの』と自分に言い聞かせて、自分の不安は押し殺そうと努めはした。一体全体王子のこの調査の目的はなんだろうと、いぶかしむ気持には目をつむり、耳をふさぐつもりだった。

けど、そんな不安材料は無いなら無いに越したことはない。不安材料が少なければ、私は、きっともっと効率よく調査できる。今よりもっと王子のお役にたてる。

そう考え、エンジュは、無表情に書類を眺めている王子に、尋ねてみた。

「あの…次は、どの学部を調べたらいいですか?」

銀髪の青年は、質問をしてきた少女にちらりと無関心な視線を投げた。

命令を心待ちにして、無邪気な目で、自分を見上げる少女は、彼に城の飼い犬を思いださせた。命令をひたすらに待ち望み、命令された通りに動くことを無上の喜びとする存在を。

彼女は自身で考え判断することをまったくしない、そういう意味では、彼にとって理想的な手足だった。その分、操作の手間はかかるー一から十まで、順序だてて指示を出せねばならないが、余計な詮索や気をきかすという名のお節介をやくこともないので、こちらも気が楽だ、犬…というよりは、そうPCやロボットを使うのと同じとわかっていれば、これほど扱いやすい存在はない、機械と違って初期投資も経費もかからずメンテもいらないー自分で勝手に飲み食いして体調管理もしてくれる分、むしろ犬より楽だな…などと彼がこの瞬間考えたことなど、エンジュは知るよしもない。

「経済学部、教育学部、理工学部、芸術学部…ふん…まぁ、どれが先でも後でも、大した違いはないがな…」

気の無さそうな声で答えながらも青年は考えを巡らせる。

実をいえば、法学部に気になる姓がリストアップされていたーカタルヘナ家一門の子弟が1人おり、それが上手い具合に息女だったのだ。

彼の記憶に間違いなければ、カタルヘナは世界に名だたる金融一族である。資産規模は言うに及ばず、幾度かの金融危機も、したたかに堅実に切り抜け、むしろ、純資産を増やしていったというやり手であった。

このカタルヘナの名を持つ学生が、一族でも傍流ではなく直系の息女なら、まさに自分が誑し込む価値がある。一族の内部に潜り込めれば無尽蔵に融資という名の資金を引き出せるだろう。

が、彼には、この息女の所属学部が少し気になった。

名だたる金融一族の息女が、なぜ、経済学部や経営学部ではなく法学部に属しているかだ。

カタルヘナの一族は、伝統ある、したたかな金融一族であることは確かだが、その経営哲学までを、彼は知る立場にない。

カタルヘナが違法と脱法の境界線を厳密に見極め、違法でさえなければー法の網の目を巧みにくぐり抜け、明確な違法でさえなければ、なんでもよしとして利益をあげることを至上とする企業家であれば、その法の抜け穴を探らせるため、つまり、違法ではないが脱法という落とし所を見つけさせるために、子弟を法学部に入れた可能性がある、そして、一族がそういう倫理感の持ち主ならば彼につけいる隙は大いにある。蛇の道は蛇だ。目的のために手段を選ばない手法は彼の得意とするところだ。そういう企業風土なら、彼の持ち札ー王族という金では手に入らない地位や人脈に、先方から飛び付いてくる公算が大きい。されば、しめたものだ。その場合は、息女を本気でのぼせ上らせる必要もない、先方がこちらのカードを利用しようとする以上に、自分があちらを利用してやればいいだけだ。欲に目のくらんだ者を欺くのは難しくないだろう。

だが反対にカタルヘナが法令順守をたっとび、決められた枠内でこそ最大の成果を上げることに誇りを見出す一族であれば、この子弟は企業におけるコンプライアンスの徹底を、その理念のなんたるかを、下部組織や枝葉のグループ企業にまで浸透させるため、同時に、そのためにはどうすればいいのか、その方策を学ばせるために送り込まれた、という可能性もある。

その場合、欲得づくの取引を持ちかけるだけ無駄だ、どころか、匂わすのも危うかろう。即座に警戒され、こちらの正体や意図を逆に探られる危険がある。息女も本気でー違法な融資で資金を引き出すには、一族の経営理念を裏切らせる程に自分に惚れさせ、のぼせ上らせなければならないだろうから、手間と労力がかかる。ゲームとしては面白いかもしれないが、自分には、そこまで悠長なことはしていられない、というより面倒だ。手間をかけずにすむのなら、最小の労力で最大の成果を導きだしたい。

また、実家の仕事とは関係なく、当の本人が、高邁な理想を抱いて法学を学び、法曹界で生きていこうとしている場合も同様だ。近づくだけ時間と労力の無駄であるし、むしろ、危険だ。下手に藪をつついて蛇を出すのは控えねばならない。

となるとカタルヘナの人脈は、諸刃だ。吉とでるか凶と出るか、この息女の人となりを多少ともこの目でみられない時点での接触は危険の方が大きい。

性別は判別できたので、今後、不自然でなく近づく機会があるといいのだが、その手筈が整うまでは、接触は控えておくが無難か…。今、手持ちの配下は「自分で考えたり判断しない」駒だ。ということは「この者とどうにかして接触する機会を設けろ」などと命じても、途方にくれるばかりで、己の才覚でその道筋を見出すことは到底できまい…カタルヘナの令嬢との接触方法は、我が考えざるをえぬからー彼はエンジュとカタルヘナの令嬢が、いきさつはどうあれ、顔見知りであることをこの時点では知らなかったのでー今はカタルヘナは保留にし、他学部の学生の性別照合を進めさせよう、そう彼は判断した。

となれば、どこから着手するか…彼は未照合の学部をざっと見渡す。

どうやら経済学部には、世界に名だたる投資家や金融一族、並びに、製造業一族の子弟も多数いるように見受けられた。その中でも経営学科には製造業の子弟ー作っている物は様々だが、ものつくりを生業とするという点では同じだーが復数、在籍しているようだった。メーカーの子弟が経済学部に籍を置くということは、将来、跡目を継ぐことを視野にいれているのは間違いない、彼らの思考は単純かつ善良だからー物を作って適正価格で売り、利潤を得るというのは、単純にして善良な商行為だ。複雑な金融工学を駆使し、投機でデータ上の数字を操り利潤を得んとする投資家・投機家の一門より、製造業名家の方が与しやすかろう、攻略も簡単だろうと思えた。

「まずは経済学部だな。学科ごとにリストの男女別を間違いなく調べてこい」

そして今日、エンジュは命じられるままに経済学部経営学科にいるリストの人物の性別を調べにきていたのだ。

 

「この学科のリストにある名前は、クラウゼウイッツ/Oに、デュカーティ/O…2人とも2年生で同じ学科にいるから、1度に調べられて、それはいいんだけど、2人ともファースネームはOで始まるし、どっちがどっちだが、しっかり確認とらなくちゃ…」

とエンジュは考え、経済学部2回生の必修授業直後の休憩時間にその講義のあった教室まで行き、その辺にいた学生を適当に捕まえた。エンジュにとって見知らぬ人、しかも一学年上の先輩に声をかけるなんて、本来なら途方もなく怖いことのはずだが、これが「これも王子様のため」「私が知りたいんじゃないの、知りたいのは王子様なんだもの」と思うと何も怖い事はなく、なんでも思い切ってできるのだった。それがエンジュは不思議で、でも、勇敢になれた自分が誇らしくもあった。それは自分の行動が、自分の意志によらないもの、いわば行動の結果生じる責任を銀髪の青年に転嫁できるからこそ発揮できる「無責任」ゆえの勇敢さ、大胆さだということを、エンジュは自覚していなかったが。

「あの、クラウゼウィッツさん、それから、デュカーティさんって、こちらにいらっしゃいますか?」

エンジュが声をかけた上級生は、エンジュの素朴そうな、正直、あか抜けない外観を見て、何か察したのか、にこやかに気さくに応えてくれた。

「ああ、君、新入生?で、あの2人のファン?多いんだよなー。ほら、あっち。あそこにいる。丁度2人でつるんでるぜ」

男子学生が親指で示した先をエンジュが見やると、金髪と赤毛の人物が、教室の通路に、2人でかたまっていた。赤毛の人は短髪なので男性っぽいが、金髪の持ち主は髪を長く伸ばしているようなので、女性だろうか。どちらもあからさまに男性、もしくは女性同士で2人組になっていたのなら、ここからー教室の入り口から眺めるだけで性別がわかって楽だったのに、金髪と赤毛、どちらがクラウゼウイッツで、どちらがデュカーティかわからないエンジュには、デュカーティとクラウゼウイッツのどちらが女性でどちらが男性なのかもわからない。

エンジュは、2人の居場所を親切に教えてくれ、教室を出ようとしていた先輩学生を、慌ててもう1度呼び止めた。

「すみません、あの、あちらにいる方たちは、どっちがクラウゼウィッツさんで、どっちがデュカーティさんなんですか?」

「え?君、彼らの名前は知ってるのに、顔を知らないの?彼らのこと、知ってて会いに来たんじゃないの?」

あからさまに不審な様子をされた。エンジュは、しかし、苛立たしげに

「教えてください!どっちがデュカーティさんで、どっちがクラウゼウィッツさんなんですか!?」

と強い口調で問い直すと、人の良さげな男子学生は、少したじろぎながらも

「金髪…っつても半分ピンクのメッシュだけど、赤毛の男にじゃれついてる細身金髪の方がデュカーティ、でもって、じゃれつかれて、すっげー迷惑そうな顔してる赤毛でガタイのいいのがクラウゼウィッツだよ。呼んできてやろうか?」

「あ、いえ、それには及びません、余計なこと、しないでください」

金髪の持ち主がデュカーティとわかればそれでいい。赤毛の男性は、今はこちらから顔が見えなかったが、体格・髪型からして男性に間違いなさそうだった、が、もう1人の目標、O/デュカーティと思しき人物が女性だってわかれば、それで問題ない…と思って性別をよくよく確認しようとその人物に眼をむけた時、エンジュの思惑は、いきなり頓挫してしまった

「あ、あの…すみません、金髪の方のデュカーティさんて…男性?女性?どちら?なんですか?」

「その反応は珍しくないけど…知らないってことは君は外進生だね?でもヤツらの名前と顔が一致してないのに、君、わざわざ上級生の教室まで訪ねて見にきたの?なのに、見てるだけで、声かけなくていいの?」

「私、あの人たちが女性か男性か、それが知りたいだけなんです!」

人の良い男子学生もエンジュの対応に流石に鼻白んだ。なんだ、この子…デュカーティが男か女か知りたいなら、自分で声かけて確かめればいいじゃないか。なんで俺を呼びとめたんだよ…と、少々不貞腐れた気持ちになった。あの2人は高校時代から今に至るまで人目を引く学内有名人だから、会いにくる、告白に来る、自分を売り込みに来る、ラブレターを渡しに来る女子学生は珍しくないーことにクラウゼウイッツには。熱烈恋愛中のとびきり可愛い彼女がいることも知らずにー。けど、知ってるのは姓のみで、顔と名前が一致せず、性別も知らずに当人に会いに来るって、何か、ちょっとおかしくないか?何より、物の尋ね方を知らないみたいだし…と思ったこの学生が「用のある本人にバトンタッチしたい」という気になったのも、致し方ないことだろう。

「気になるなら、直に言葉を交わしてみるのが、早いと思うぜ。おーい、オリヴィエ・デュカーティ、おまえにお客さんだぜ!」

「え?あ、そんな、いえ…」

これにはエンジュは度肝を抜かれた。今までは第3者に尋ねれば、それだけで性別を教えてもらえたのに、それさえわかれば、本人に会う必要なんてないのに、自分では教えてくれず、わざわざ、呼びつけるなんてー私はあんな人たちに何の用もないのに、この人はなんて意地悪なんだろう、しかも、こんな余計なことをするなんて!

激しく苛立にさいなまれながら、慌ててその場からエンジュは逃げ出したくなった。が、時すでに遅く、呼びかけに反射的にこちらの方に振り向いた2人と、ばっちり目があってしまい、その瞬間エンジュの口から「あっ!」と声が出た。こちらに顔を向けた赤毛の男性に見覚えがあった。新入生合宿の時、遠目でみただけだけど、合宿の集合時と解散時、2度みかけたから間違いない。忘れようにも忘れられない、印象的な男性美の持ち主だったからー自分は銀髪の王子様の方が、ずっと素敵だと思うけどー。

『あの人…あの赤毛の人、アンジェリークの彼氏…だ。アンジェの送り迎えに来てたもの、間違いない。クラウゼウィッツってあの人のことだったんだ…でも、どうして銀髪さんのリストにアンジェの彼氏が載ってたの?このリストっていったい…ううん、そんなこと、私には関係ない、私は、言われたとおりのことをすればいいだけ…』

アンジェリークの彼氏と視線が合うのは、なんとなく気まずい、やましい気がした。が、自分は悪くない、堂々としていればいい、と、すぐに思いなおす。同じ寮にいても、今は口もきかないけどーアンジェはたまたま寮内で行き合えば挨拶してくるけど、自分は、聞こえないふりを押し通している。元はと言えば、アンジェが自分を馬鹿にしたのが悪いのだし、第一、アンジェの彼氏が自分のことを知っているとは思えなかったし、アンジェと自分が今は絶縁していることなんて、もっと知る由もないだろうから、目があっても何でもないって顔してればいいとエンジュは自分に言い聞かせて、昂然と頭をあげた。どちらにしろ、目当ての人物…デュカーティの性別をきちんと確認しないことには帰れないと思いなおした。今、おせっかいな先輩男子が声をかけたのは、デュカーティの方で、アンジェの彼氏が呼びつけられたわけじゃない、私のことなんて知らないだろうから、関係ない顔で、素知らぬふりをしてればいい。

そう、思ったのに…

「おや、君は確か、今年の新入生総代のお嬢さんだったな。俺のお嬢ちゃん…アンジェリークとも知り合いだったよな…」

と、よりにもよって赤毛の男性ークラウゼウィッツ氏の方からいきなり声をかけられた。すると、その言葉にピンクのメッシュ入り金髪の人物が「おや?」というように綺麗に整えられた眉をあげると、改めて自分・エンジュの方をまじまじと見てきた。

「え?この子、今年の新入生総代で、アンジェの知り合い?…ってことは、あ・はん…そうか、あんたがあの…ふふ、それじゃ失礼のないようにしないとね」

というと、金髪メッシュの人物は何かを面白がるような表情で、つかつかとエンジュのそばまで近づいてきた。背の中ほどまで豊かに波打つ金髪はピンクのメッシュで彩られ、一分の隙もなく綺麗にメイクアップされた顔(かんばせ)に鼻腔をくすぐる馥郁たる香り、華やかで個性的なファッションに、きらびやかなアクセサリーの輝きは目も眩まんばかりで、間近で見る程にエンジュはこの人物の放つ「美」の力に物理的に圧迫・圧倒される思いだった。加えて女性としてはそう小さい方でもないエンジュでも見上げる程の長身に引き締まった細身は、いわゆる「スーパーモデル」体型とでもいうのだろうか。だから、この、よく響く深みのある極めて男性的な声音を耳にしていなければ、エンジュは、間近で見ても、まだ、このデュカーティ/0なる人物が、女性か男性か決めあぐねていたかもしれない。

が、とにかく、幸い、自分から声を発してくれたことで、この人の性別は知れた。だから、エンジュは何と思われようと、すぐさままわれ右をして「別に何でもないんです。失礼します!」と言い捨てざま、この場から立ち去りたかったのだが、続いたデュカーティ氏の言葉で、一瞬にしてひどいパニックに陥ったー頭が真っ白になって、体は硬直し、逃げ出すのも忘れる程の。

「はーい、あなた、エンジュ、だよね?アンジェから話は聞いてるよ、初めてお目にかかる…と思うんだけど、私に何の御用かな?」

『なんで…どうして…あっちの赤毛の人はともかく、この人も…経済学部のリストの二人ともが、アンジェの知り合いなの?』

そういえば、先に調査した法学部のリストにあって、そこで「姫君」と称されていた女子学生もアンジェリークの友人で、しかもエンジュも見知った顔だった。その顔を認めたとたん、合宿の時を思い出して嫌な気持ちになったが、向こうも自分を覚えているかもしれないとも思ったので、蒼い瞳の彼女と目が合う前に、自分の訪いに気づかれる前に、早々に法学部を立ち去ったこともまざまざと思い出した。

『あの時はなんて嫌な偶然って思ったけど、預かったリストの中に、アンジェの知り合いがもう三人?しかも、この人たち、私のこと、知ってる?私の話をアンジェから聞いてるって、何を?どうして?』

アンジェから私の何を聞いたっていうの…エンジュは金縛りにあったように、その場に立ち竦んで動けなくなった。無論、何を言いつくろえばいいのかもわからない、だって訪ねてきたとは言っても、実際には用なんてないのだもの、上手い言い訳も思いつかない。そうこうするうちに、もう1人の…性別は明らかだから、もう用はないし、アンジェの恋人となんて、これ以上関わりたくもないと思っているのに、赤毛のクラウゼウイッツ氏もやはり興味深げな表情を浮かべて、自分のいる方に近づいてきた。

こんな事態は想定したことがなかった、どう切り抜ければいいのかわからない、エンジュは頭の中は真っ白、目の前は真っ暗になったが、目の前の2人は勝手に話を進めていく。

「おい、オリヴィエ、なんでおまえがこのお嬢さんのことを知ってるんだ?」

「言ったじゃん、アンジェから、ちょっとね、ふふ。で、どうしたの?エンジュ?私の美貌に見とれちゃって声もでない?なら、もう1度聞くよ?私にどんな御用かな?」

「……知ってるくせに…」

「え?」

「あななたち2人ともアンジェの知り合いなら、知ってるでしょう?どうせ、アンジェが、私のこと、いっぱい悪く言ってるんでしょう?なのに、知ってて、そんなこと聞くなんて、私のこと、馬鹿にするにもほどがあるわ!」

ぼそりと低い呟きの後、発せられた言葉は、癇症気味で、酷く敵意のこもった視線と、棘だらけの口調で飾られていた。

しかし、長身の男性2人は、不快を表に出すこともなく、たじろいたり驚いたりすることもなく、まったく動じる気配をみせなかった。小型犬にいきなり吠えかかられても、まるで気にしない、気にする価値もないという風情の大型肉食獣のようだった。2人は示し合わせたように、鷹揚な態度と落ち着いた口調で、おさげ髪の少女にこう返した。

「いったい、何のことかな、総代のお嬢さん。俺のお嬢ちゃん、アンジェリークの名誉のために言っておくが、彼女が人を悪く言ったことなど、俺は、この3年間で1度も聞いた試しがないぜ」

「それは、私も同じだねぇ。あの子が人のこと悪く言ってるのって聞いたことないや、こいつより一緒にいる時間は短いけどね。でも、エンジュ、あんたは、アンジェに悪く言われても当然、仕方ないようなことを自分がした、そういう自覚があるのかな?さもなきゃ、そういう言葉は出てこないよねぇ?そんなあんたがアンジェの先輩で、雇用主でもある私に何の用かな?まだ、用向きを聞いてないけど?用があるから、わざわざ訪ねてきたんだよね?それこそ、アンジェの悪い噂でも吹聴しにきたの?」

「ばかにしないでください!誰がそんなことのために!私は、そんな暇じゃないんです、アンジェのことなんて知らない、あんな失礼な人、私、もう、関係ないし!あなたたちにも用なんてありません!私は、あなたたちが男か女か、しら…」

そこまで言いかけると、エンジュははっとして口をつぐみ

「とにかく、もういいんです、失礼します!」

というや、慌てて教室から飛び出し、あっという間に走り去った。

オスカーとオリヴィエの2人は、猛烈な勢いで振り回されて去っていくおさげ髪を見送るや、顔を見合わせた。

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