週末は、アンジェリークは寮にいない。彼氏と共に過ごすからだ。寮の誰もが知っていた。毎日のようにアンジェリークを寮に送り迎えに来るオスカーの存在は、その際立った容姿と騎士そのもののような振る舞いのために、寮の女子学生の憧れの的であった。その憧れは、オスカー個人への恋慕というより「オスカーのような恋人から、アンジェのように愛され大事にされたら、それは幸せでしょうね、羨ましい」というような、2人の恋模様そのものへの一般的かつ健全な意味合いでの憧憬であり、羨望だった。
それは、2人が互いに見つめあったり寄り添う様子は、健やかでほほえましくも、誰も入り込めないような親密さに満ちており、誰から見てもその絆、信頼、愛情は強固なので、割り込みや邪魔立ては不可能だと自ずとわかってしまうからだったともいえる。甲斐なき横恋慕が生じる隙間がないことは、傍目にもあまりに明らかなのだ。
ただ、エンジュは、そんな2人の恋愛を「自分には無縁、無関係なもの」とみなしていたから、他の寮生のように、2人を憧れの目でうっとり眺めるなんてことはしなかった。オスカーのことも、最初から「アンジェの恋人」という目でしか認識していないので、他の女子学生がきゃーきゃー言うその心情が理解できない、他人の恋人に憧れたり嬌声をあげてなんになるというのか、無駄無意味としか思えない。
が、それとは全く別の意味で、アンジェの恋人ーオスカー・クラウゼウィッツは、今のエンジュにとって「気になる、無視しえない人物」であった。
銀髪さんの所謂「第1次リスト」に名前が載っていた人物だから、ではない。週末、アンジェリークが寮にいなくなってしまうのは、ひとえにこの人物の所為だからだった。
というのも、アンジェリークは今のエンジュにとって唯一の話し相手であり、相談相手であり、エンジュ本人にその自覚はなかったが、エンジュの感情・情緒の成長を促すメンターでもあったからだ。
「何か、私にできること、ある?」と自ら声をかけてくるアンジェリークー「頼まれもしないのに他人のために自分から進んで動く」ことを「当り前」と考えるアンジェリークは、エンジュには相変わらず理解不能な存在であり、その精神構造も謎ではあったが、そんなアンジェリークになら、エンジュも、怯えず構えず、警戒心も攻撃性もむき出しにせず、お願いごとができ、普通に会話ができる、これはエンジュにとって、希有かつ新鮮な事態だった。
エンジュ自身は相変わらず「初めて出会う状況や事態」に対処するのが大層苦手で、ちょっとしたことをきっかけにパニックに陥るか、怖気て投げ出しそうになるのは以前と同じなのだが、それでも最近は、アンジェリークの笑顔や促しや肯きといった「自分を肯定してくれる諸々の態度」がエンジュの精神をかなり底支えして安定させてくれており、ために、エンジュの衝動的、突発的、短絡的な行動は、相当、押しとどめられていた。
おかげで、最近のエンジュは、寮でも手負いのケモノのように激発するこが格段に減り、和やかな生活を営めている。基本、エンジュの暴発は「否定されてばかりの自分、認めてもらえない自分」への苛立ちと怒りの発露なので、アンジェリークが話相手になることで、苛立ちや怒りが上手く発散されるようになっていた、のだと言えた。
なのに、週末はそのメンターがいない、という状況は、エンジュにとって、大層、具合が悪かった。アンジェリークがいない週末は、エンジュは本当に困るのだー色々な意味で。なのにアンジェを連れていってしまうー仕方ないのだろうけどーオスカー・クラウゼウィッツは、エンジュにとってある意味「邪魔で厄介な存在」であった。アンジェが週末も寮にいてくれて、相談にのってくれれば、もっと効率よく銀髪さんの手助けができると思うからだった。
エンジュはアンジェリークに本当に助けられていた。「私は1人で何でもできる」と嘯くのが常のエンジュも、アンジェリークにだけは、その言葉を発せない。今も、週末、ずっと留守にしていたアンジェリークの帰寮を今か今かと待ち構えた揚句、ようやく、捕まえられたところだった。どうすればいいか、助言を仰ぎたいことが、この週末もたまっていたから、アンジェリークの帰寮をーあくまで自分のためにであったがー心底、待ちわびて、話かけたのだ。そしてアンジェリークは、今日も「私でわかることなら喜んで」と応えてくれた。
良かった…これでまた、銀髪さんの役にたてる、困っている彼の助けになれるとエンジュは心底安堵した。
アンジェリークはそうと知らないはずだが、エンジュは、アンジェリークの助言通りに動くようになったことで、ここ最近は銀髪さんを満足させる働きができるようになっていた。
あの時から、そうだった。
あの時…最初のターゲットであったロザリアへの接触からして、アンジェリークの助力なくしては成立しえなかったのだが、それが不首尾に終わり、次の標的へ接触する手段を考えねばならなくなった時から、エンジュはアンジェリークに助けられてきている。
現実に、その時のエンジュには、アンジェリークしか相談できる人、頼れる人がいなかった。次の課題ー次に指定された女生徒に会う段取りをつけるなんて課題を1人でクリアするのは、エンジュにはどう考えても無理なことだった。一応顔見知りではあるロザリアへの接触ですら、アンジェリークの助言あって初めて可能だった位なのだから、見も知らぬ人相手にどう接触すればいいか、なんて、エンジュに、何をどうすればいいのかわかろうはずもなかった。だから、エンジュは、ホールでアンジェリークの帰寮を待ち構えていた。アンジェリークに聞けば、きっと、何をどうすればいいのか、教えてくれるのではないか、そんな甘い、虫のいい期待にわらにもすがる思いだった。
すると、アンジェリークは、エンジュの姿を見かけるや、自分から声をかけてきてくれた。エンジュは、心の底から、安堵した、とりあえずの第一関門ー自分から他人に声をかける、というエンジュにとっての難関を、アンジェリークの方から乗り越えて来てくれたからだ。
エンジュなら「なんていって声をかけたらいいんだろう」とか「無視されたらどうしよう」とか「あからさまに迷惑という顔はされなくても内心面倒だなと思われるかもしれない」かと、考えても埒のあかないことで、目的の人物の姿を見つけても5分間はうじうじもじもじしてしまうかーそれですめばまだマシな方で、それどころか、声をかけたい当の相手と視線が合うや、それをそらして、その場から逃げだしてしまうことさえままあったーそして、自分はそんなつもりではなくても、周囲に当惑と不快感だけを残してしまうのが、いつものエンジュのパターンだった。
が、アンジェリークは、そういう過剰で過敏な自意識とは無縁なので、エンジュの姿を目にするや、迷わず、屈託なく、声をかけた。その行動はまっすぐで清々しく、発する言葉はどこまでも素直で自然体であった。
「エンジュ、オケ部、見にいってみた?どうだった?楽しそうだった?」
「あ、うん…いえ、その…すぐ帰ってきちゃったから…」
エンジュは、歯切れ悪く応えた。アンジェリークが、自分を気にかけるような問いかけを真っ先にしてきたことが予想外だった上、事実を正直に言う訳にもいかなったので、しどろもどろになってしまった。エンジュには「他人のことを、自分のことのように案じたり気にかけたりする」アンジェリークの美質は、所詮、理解不能だったし、人に気にかけてもらった経験自体がほとんどなかったエンジュは、アンジェリークの優しい声かけに、とっさに対応しかねたのだ。
アンジェリークにしてみたら「自分に頼みごとを持ちかけてきたエンジュを気にかけて、その後の様子を尋ねること」は、やはり「当然」の振る舞いだったので、エンジュの煮え切らない返答も特に不審にも思わず、普通に会話を引き取った。
「そう、オケ部はスモルニィでも大所帯のサークルですものね、それでちょっと気後れしちゃった?ロザリアがいるから、心強いかと思ったんだけど」
が、エンジュの方はその『ロザリア』という名を耳にした途端、何かのスイッチが入った。それまでおどおどしていたエンジュは、急にいきり立って、口角泡を飛ばす勢いで、アンジェリークに噛みついてきた。
「ロザリア?あの子、私がサークルの案内してって、頼んだのに、断ってきたのよ!」
「え?エンジュ、その場でロザリアに頼んだの?サークルの案内を、直接?」
「ええ、でも、断られたわ、きっと、前に私と口論したことをきっと根にもって、それで断ってきたのよ、だから、すぐ帰ってきたの、案内してもらえないんだから、帰るしかないじゃない!すぐ帰ってきちゃったのはロザリアの所為よ!ロザリアが断ったりしなければ、すぐ帰ったりせずに済んだのに!」
そうよ、あの場でロザリアが断ったから…銀髪さんは、すぐその場から立ち去ってしまった、これでは私はまた「役立たず」の烙印を押されてしまう、しかも、私は更なる難問ー見も知らぬ人と会う段取りをつけなくてはならなくなった、この、今の私の苦境は、突き詰めれば全てロザリアが案内をことわってきたから…つまり、ロザリアの所為ではないか!
「ロザリア」の一言が触媒となって、エンジュの心は激烈な化学反応を起こしたかのように、一足飛びにこう結論付けた。そして1度、こうと思い込んだことは、エンジュにとって真実となる。口をとがらせ、見るからに険のある表情で、刺々しくエンジュは、ロザリアの行為を非難・糾弾した。
ロザリアの「丁重なお断り」を、迷わず、上記のように解釈するのは、エンジュの方こそが過日のロザリアとの口論を根にもち、こだわっている証左だった。自分がその人に悪意を持っているから、その人の行為を悪意のフィルター越しにしか見ることができないのだと、語るに落ちている自覚はエンジュにはなかったが。
が、アンジェリークは、エンジュのその毒煙のような悪意に巻き込まれることなく、平静に、事実の確認をせんとした。エンジュはある意味馬鹿正直な子だ、人の行為を自分の品性に即して、もしくは自身の色眼鏡を通してしか解釈できない子ではあるが、積極的に自分に都合のいいでたらめや嘘を吐くようなタイプではない。今もエンジュはあくまで主観的には「お願いをむげに断られた自分は可哀そうな被害者」だと感じており、そうアピールしたがっているから、事実を大げさに話すことはあっても、捻じ曲げはしない、ということを、アンジェリークは本能的に悟っていた。
「ちょっと待って、エンジュ、ロザリアはなんて言ってあなたのお願いを断ったの?」
「自分は1年生だから案内できないって。部長だったか先輩を通してくれって。それで、先輩からロザリアに指名があれば、案内するって…」
ああ、やはり、ロザリアは至極常識的な対応をしただけなのだ、と、同時に、エンジュは、やはり、基本、正直な子なのだということも、エンジュの言葉からアンジェリークは再確認できた。
「んーっと、それは無理もないというか…だって、ロザリアはオケ部の中では1新入生だもの、自分の判断で見学OKと言ったり、案内はできなかったのだと思うわ。サークル見学するなら、そこの部長とか責任者に…ほんとなら前もっての方がいいと思うけど、とにかく責任者にお願いして…えっと練習の内容とかで、今は部外者はちょっとって時もあるから「今、見学しても差し支えないか」って尋ねて許可をもらわなくちゃ。その時、都合が悪いって言われたら、では、いつなら大丈夫なのかって、尋ねればいいし。しかも、ロザリアは「ダメ」って言ったんじゃなくて…「先輩の指示を仰いで」って言っただけでしょ?ダメって言われた訳じゃないんだから、いきなり帰らなくても良かったのよ、エンジュ。エンジュはロザリアの顔をみて、思わず頼ってしまったのはわかるわ、知ってる顔がいたら、それは真っ先に頼みたくなるわよね、けど、やっぱり物事には順序があるから。部長や顧問に話を通した後、その上で、ロザリアが知り合いなので、できればロザリアに案内してほしいって言ったなら、ロザリアも心安く案内を引き受けられたと思うの。けど、先輩がたくさんいる中で、その頭上を飛び越えるようなことしちゃうと、ロザリアの立場も悪くなるし、先輩方のメンツもつぶれちゃうし…」
エンジュは、アンジェリークの言を最初はあからさまに膨れっつらで聞いていたが、アンジェリークの言葉が進むにつれ、驚き、茫然とした様子になった。
「…そういうものなの?あれは…意地悪したんじゃなかったっていうの?」
「ロザリアは無闇に意地悪なんてしないわ、1年生として当然の応対をしたまでだと思う。私も同じ立場なら、ロザリアみたいに応えざるをえないと思うもの。オケ部って、文化部にしては体育会並みに上下関係が厳しいって聞いてるし、1年生なら、先輩の許可や指示なしで、勝手に動いたりはできなかった、それだけだったのだと思うわ」
そう、上下関係に厳しい部で、ロザリアは模範的に振舞ったにすぎない。
ただ、面倒見のいいロザリアにしては「ちょっと杓子定規な振る舞いだな」とアンジェリークは不可解に思ったことは否めなかった。
アンジェリークの知っているロザリアなら「そういう時はまず部長に話を通してらっしゃいな、その上で「ここに知り合いがおりますもので、差支えなかったら、その者に案内してもらってもよろしいのでしょうか」と順序を考えてお願いするものですわ」と手とり足とり、どうすればよいか指導してあげてもおかしくないのだが…「まったくもう!」と口では言いながらも…けど、そういう振る舞いもしにくいような雰囲気だったのだろう。
ロザリアの慇懃無礼ともいえる態度の理由は、別にあったのだが、無論、アンジェリークはそれを知らないので、普通にロザリアの立場やらその時の雰囲気を斟酌考慮するーエンジュにはまずない資質だーそして、客観的に考えれば、むしろ、エンジュの行為の方が、オケ部でのロザリアの立場を悪くしかねない「迷惑行為」になりかねなかったと思わざるを得なかった。
ロザリアが冷静に応対したから良かったものの、もし、ロザリアが人の頼みを断れない性質(たち)とか、あまり思慮の深くないタイプで、その場で気易くエンジュの願いを聞いてしまっていたら…「入部してきたばかりの1年生なのに、わかったような顔をして、上の許可も得ず部外者を連れて来て、勝手にサークルの案内をした」と、先輩達から「生意気」「何様」等の不評を買う恐れは高かった。
そして、これはーロザリアに直接案内を頼むことは、もし、それをエンジュが意図してやったのなら、それこそ、そっちの方が「ロザリアの立場を悪くせんがための意地悪」とみなされても仕方ないもので…なのに、エンジュはそのことに全く気付いておらず「ロザリアは加害者で自分は被害者だ」そして「何もせずに帰ってきたのはロザリアの所為だ」と言い張るエンジュに、アンジェリークは、彼女にしては珍しく眉根をひそめそうになった。
これは…エンジュのこういう態度は見覚えがある…自分にとって不愉快なことがあると、激昂して、即、その場から立ち去る、逃げ出すように…その場その時の事情や状況を考慮することは一切せず、「誰かの所為だ」と怒りながら、被害者然としながら……そうだ、入学式の時と同じ反応ではないか?エンジュは入学式の時も、周囲のにこやかな態度を、勝手に「自分を嘲笑している=悪意」と解釈して過剰反応を示し、いきなり「帰る!」と総代の挨拶を放り出そうとしていたことをアンジェリークは思い出した。ただ、アンジェリークは本能的に賢明にも、そういう指摘をエンジュにしなかった、無論、エンジュが「頭上を飛び越え」「頼む順番を間違えた」こともだ。
というのも、最初はロザリアを糾弾していたエンジュが、アンジェリークの言葉を理解するにつれ、思っても見なかった、という驚きの色を濃くしていったからだ。
『エンジュは私が「ロザリアは意地悪しない」と言い切ったことに、本当にショックを受けたみたいで、今も不思議そうで、余り納得してない様子で…本気で、自分は100%被害者だって思ってるんだわ、だから…今も、誰かの悪戯を大人に告げ口して、なのに、それを取り合ってもらえなかった子供みたいな、拗ねて膨れて釈然としない様子をしてるんだわ…
この子は本当に、悪意も他意もない、思慮もない、とも言えるけど…単純にロザリアに案内してほしかった、だから、周囲の人がどう思うかとか、見学者はあくまで部外者なんだから、まずは責任者に許可を得るという常識的な行動とか、ロザリアの立場とか、一切考慮せず、まっすぐに、ロザリアの処に行ちゃって、先輩方がいる前で、ストレートに…声も落とさずにお願いしちゃったんだろう、きっと。
本当に気が回らないんだ、驚くほどに視野が狭くて、思考は硬直的で…こうと思い込んだら、その1点しか見えなくて、その狭い視点からしか物を見られない、考えられないから、オケ部の都合も、ロザリアの立場も考えないし、考えてみようとしたこともないんだわ。それで1度断られると今度は「断られた」ことだけに思考が固着しちゃって、ますます他のことが考えられなくなるんだわ、きっと。何故、断られたのか、その事情とか理由とか、考えない、考えてみようとしたこともないんだろうな…。
知的レベルは問題ないのに。総代になるくらいだもの、ペーパーテストなんかはきっと得意なはずだ。
今だって、順を追って丁寧に説明すれば…感情で納得してるかどうかはわからないけど、きちんと物事の筋道は理解できるのに。ある意味、すごく正直で裏表もないのに…』
そこまで考えた時、アンジェリークは、今のエンジュの性格の素地が、いかにして形成されたか、わかったような気がした。
エンジュが勉強のできる子なのは間違いない、
ただ、実際のエンジュは「解答が一つ」と決まっているものは卒なくこなせても、明文化されてないことや、きちんと順序を示されていない問題への対処は多分、上手くない。取り組み方からしてわからないのだろう。目の前の1点しか見えないから、全体像を見渡して、解答までの道筋を自身で見出すのはエンジュにとっては多分、とても難しいことで…投げ出してしまいたくなる途方にくれるようなことで…特に周囲の人の思惑や、他人の立場など、目に見えないもの、人間関係のように、その時その時で相対的に位置づけが変わる―答えが一つと決まってないものを読み取り、その場にふさわしい振る舞いをするのは、むしろ、普通の人以上に苦手なのだろう。
今回のこともそうだ。何も考えず、ロザリアが知り合いだったからというたった1点の単純な理由で、まっすぐロザリアの元にいき、いきなり案内を頼んだのだろう、というのがアンジェリークには手に取るようにわかった。ロザリアが自分たちとは対等でも、オケ部では1新入部員でしかないー人の立ち位置は相対的に変わる物だし、部長や責任者を飛び越したりしたら、失礼だとか無作法だとか非常識だってことに、まったく気づいてないだけなのだ。
『だけど、きっと、エンジュは、今までも、今みたいなことして、無作法や非常識だと思われたり、人の立場を危うくして怒られたり、けど、自分ではそれに全然気づかず…今も同じ1年生のロザリアに私は案内を頼んだだけなのに無碍に断られた、って思ってたみたいに…自分は何も悪いことしていないのに、嫌われた、とか怒られた、みたいに感じてきたんじゃないかしら…』
そこに「勉強ができる」いや「勉強はできる」と言う方が正しいか…というエンジュの特性が加わるとどうなるだろう…周囲の人は「成績は良いのに、なんで、こんな当たり前のことがわからないの?」という目でエンジュを見たりしないだろうか…。
なにせエンジュは勉強ができる。勉強ができる子は優秀だ、と思われる、すると周囲はエンジュが所謂「できる子」だから、これ位わかって当然、できて当然だろう、という目でエンジュをみるようになる。所謂「出来のいい子」に対して、周囲の期待値は高くなる、というか、普通の子より、少々高めに「出来て当たり前」のレベルが最初から設定されてしまうのだ、多分。
けど、多くの人が普通にできる、実際に当然のようにやっていることー責任者に許可を得るなんて、当たり前のことにエンジュは気が回らないのだが、周囲は「総代になれるほど優秀な子」がそんなこともできない、気付かない、わからないだろうとは、普通、思わない。優秀な筈の人が思いがけず非常識な振る舞いをすると、その人が優秀であればあるほど、奇異の目で見られたり、落胆失望されたり、呆れられたり、「わざとやっている」とか「できないふりをしてるんじゃないか」とか怒られたりするんじゃないだろうか…それは「できて当たり前」のレベルが、普通の人より高めに設定されてしまっているからこそ、振り子が逆にふれて起きるマイナス評価だ。
エンジュは、私に会ったばかりのころから、吐き捨てるように言っていた、「自分は誰からも必要とされたことがない」と。
でも、一目みたり、会ったばかりの人から、いきなりそんな扱いを受けるわけがない。
そう結論づけられるまでに、必ず、何らかの課程があり原因があるはずだ。エンジュの行動や振る舞いから、周囲はエンジュに何も期待しない、頼みにしない、ようになってしまったのだ、エンジュがそうと理解できないだけで。
その遠因が、アンジェリークには見えた気がした。
根本的な原因は無論エンジュにある。人同士や物事の関係性など、相対的に変化するものの位置づけを読み取ったり、TPOにふさわしい臨機応変な対処をすることが下手なのだ、恐らく。
一方、幸か不幸か、エンジュは勉強はできる、解答の決まっている物を解いたり、記憶すればいいものは、きっと得意なのだ。
そして成績というのは、誰の目にも序列が明らかにわかるもので、良ければ称賛もされるから、エンジュは「自分は優秀だ」と自覚してるだろうし、その分、プライドも高い。周囲もそういう目でエンジュをみる。勉強ができるイコール賢いと思われるから、周囲の期待値もあがる、「1年生の総代になる」ほど勉強ができれば、賢いと思われて当然だ。
なのに、場面によって、エンジュはその期待に全く応えられない、どころか、多くの人が容易くできることが、多分、エンジュには難しくて、できなかったりすると、期待が大きい分だけ、周囲の落胆は大きくなる、エンジュの評価がマイナスに傾く度合いも大きくなる。エンジュが学業優秀であればあるほど、周囲は「なんでこんな簡単なこともできないの?誰でもわかることがわからないの?」と思うだろうし、それを態度に出したりしてきたのだろう。
ならば、エンジュは、今まで、無数の「溜息」を聞かされてきたのではないか。もしくは「出来る筈なのにわざとやらないのではないか」と疑いをかけられたり、怒られたりしてきたのではないか。その「溜息」を聞かされるのが嫌で、自分には理解できぬ理由で怒られるのが嫌でー本当にできないことを「故意に手抜きしてる」みたいに疑われたり怒られるのが嫌で、何か問題が起きたら、まず逃げ出すこと、投げ出すことが常態化してしまったのではないか。だって逃げてしまえば…少なくとも、その場で「溜息」を聞かされて嫌な思いはせずに済む、「何故できるのにしないのか」と怒られることもない。逃げたりしたら、後でもっと立場は悪くなるのは、自明だけど、この視野の狭い衝動的なエンジュに「今ここで逃げたらもっと立場が悪くなる」という先の見通しが立てられたとは、思えない。目先の「嫌なこと、辛いこと」を避けるだけで精いっぱいで…けど、その結果、更に居心地が悪くなって、周囲からの評価は下がって、それでまた逃げ出すの悪循環が繰り返され…「誰からも必要とされたことがない」なんてとこまで行ってしまったのではないだろうか。
しかもエンジュは「誰かに尋ねる」「助けてもらう」ことをすごく嫌がっていたみたいだけど…前も「私は1人で何でもできる、バカにしないで!」って言ってた…それも下手に「勉強のできる子」だから、周りもそう扱うから、プライドが邪魔したり、「(あなたみたいに勉強のできる人が)こんなことも知らないの?」と怪訝な顔をされるのが、嫌で、なおさら、人に何も「聞けない」「助けを請えない」人になってしまったんじゃないだろうか。
そんなことが今まで重なりに重なって、エンジュのこの特異な性格が形成されたんじゃないだろうか。両極端に劣等感とプライドが並列共存しているせいで、情緒不安定で、ために酷く激昂しやすい。卑屈で極めて自己評価が低いのに、言動が刺々しく攻撃的なのも、その所為だろう。人に「がっかり」「期待はずれ」と溜息をつかれることがあまりに多かったから「誰からも必要とされたことがない」なんて言い切ってしまったり「またどうせ」と人を悪意でのみ見てしまうのだ、きっと。
そう思い至った時、アンジェリークはエンジュをとても気の毒だと思った。
元来、人の能力は不平等だ。得意なことも、苦手なことも異なるし、その限界点も人によって千差万別だ。どんなに頑張っても、私はオリンピック選手になれないように、努力して到達できる限界は個個人で、能力ごとに違う。
得意不得意は誰にでもあるのだから、たとえば、足が遅いからという理由でー陸上競技で不要とされるならともかくー全人格的に不要とされたら、その判断の方がおかしい。そしてエンジュの視野が狭く、思考が硬直的に過ぎるのは、ある意味、個人のどうしようもない資質の問題でーそれこそ「足が遅い」というような、不得意分野と同じことで、それだけで「人として不要」と烙印を押されるとしたら、それは、酷な話だとアンジェリークは思うのだ。
ただ、エンジュの場合「勉強ができる」という、本来なら秀でていると評される部分…所謂「得意分野」が、彼女の不得手な部分をカバーして評価を上げるより、むしろ、より評価を下げるマイナス要因として働いてしまった嫌いがある。これは、どうしようもなく不幸なめぐり合わせというか、運が悪かったというか…得意不得意な面の組み合わせが、その相性が悪かったとしか言いようがない。
それでも、エンジュが自分の得意な面と不得意な部分をきちんと理解し、得意分野で不得意分野をカバーしようと自覚的に行動できていたら…たとえば、ランディは学業はそれほど振るわないが、運動神経抜群で、自分でもそうと自覚し、得意分野を伸ばすべく努力しているので、周囲もその努力を好意的に評価して、学業面の不振をわざわざあげつらったりしない。ゼフェルは運動は普通、文系の勉強はどちらかといえば不得意だけど、ゼフェルのその点だけあげつらって軽んじる人なんていない、だって、理系の勉強、特に発明は天才的で工夫の努力も怠らないことを周囲も知っているからだ。つまり、得意なことで頑張っていれば、自分の不得手な面ばかり気にして劣等感を持ったり卑屈になったりしないですむし、周囲もマイナス評価なんて下さないだろう。だからエンジュも…自分の得手不得手を理解して、自覚的にふるまうことができればー得意分野で頑張る一方、不得手な事は不得手と自覚し、屈託なく周囲に助力を仰ぐことができていれば、エンジュも、ここまで卑屈にひねくれたものの見方をするまでに至らなかったのではないかと思う。
けど、現実にエンジュのしてきたことは、自分の長所で頑張って、不得手をカバーすることとは真逆というか…プライドの高さ故に自分の不得手を知ろうともせず…「何でも1人でできる!」と言い張ることで、周囲からの助力も助言も拒んでしまうから、自分自身を客観視できず、ために問題を直視・認識することもなく…結果、周囲との軋轢や摩擦が増す一方で、どんどん生きづらくなって、その揚句、ただ、目先の困難から逃げ出し、投げ出すという、1番やってはいけないことばかり繰り返して…
そういう意味では、エンジュの今の生きづらさは、半分、もしくはそれ以上、彼女自身の責任であり、自業自得だともいえるけど…
けど、今までのことは、今更どうしようもない、問題は今、そして、これからだ。とにかく現時点でエンジュは生き辛そうだし、周囲もエンジュを持て余してるなら…この状態を、少しでも、どうにかできないものかしら…
どう頑張っても、人並み以上に上手くなれないものがあっても、けど、練習することで見苦しくない程度、十人並みに持っていけることだって、それなりにあるのだから…
たとえばスポーツ選手にはなれなくても、楽しみのためのスポーツができるようになったりとか。
なら、人の立場や相対的に変わる人間関係に合わせて振る舞いを変えるのが苦手でも、多角的に広い視野で物事を考えることが不得手でも、苦手なりに「こういう時は、こうするといいかも」という具体的な事例を数多く身につけていって、とりあえず、投げ出す、逃げ出したくなっても1呼吸待ってこらえてってことだけでも、できるようになったら、周囲の評価も変わってきて、エンジュも少しは生きづらくなくなるんじゃないかしら。
敵意と劣等感がいつも痛々しいほどむき出しで、なのに、時々、寄る辺ない幼児のように頼りない、自信のない顔を見せるエンジュだけど…
少しでも、気持ちが楽になれるように、私が手伝ってあげられること、ないかな…こんな考え方、傲慢かな…
けど、今のままじゃ、周囲もエンジュ自身も苦しかったり、嫌な思いすることが多いと思うからーオスカー先輩も、私がエンジュと関わることを危ぶんでらしたけど、それも、私が傷ついたり、嫌な思いをするだろうと心配してのことだと思うし…
なら、逆に、少しでもエンジュの生きづらさを軽減できれば…エンジュも、周囲も、嫌な思いをすることが減らせるかもしれない、エンジュの態度が少しでも変わる手助けをできれば…エンジュが楽になれば、無闇に周りを攻撃しなくなると思う…そしたら、私がエンジュから傷つけられるかも、っていうオスカー先輩のご心配も、むしろ、減らせる?んじゃないかしら…
オスカー先輩は、何か、すごく、私のこと心配なさってるみたいだったから…オスカー先輩に、少しでも安心していただきたい、心配かけたくない。
エンジュと関わることを、オスカー先輩が案じていても、エンジュが変われば、そんな心配しなくて済む。
エンジュの気持ちも楽にできて、オスカー先輩の懸念も減らせるなら…私が動くこと、できること、探してみようって思うのは…悪い事じゃないんじゃないかな…
そう思った時、アンジェリークの気持ちは固まった、エンジュの生きづらさを少しでも、なんとかできるよう…私にできること、探してみよう、と。
『私に何かできることある?何をしてほしい?どうしてほしい?』と、まず考え、その気持ちを他者に向かって、臆せず口に出せるのが、アンジェリークの基本的な性質であり、美点であった。そのアンジェリークの誠意と優しさと勇気は、エンジュに対しても遺憾なく発揮されることとなったのだ、エンジュには幸いなことに…ただし、アンジェリークは、その善意のみから出した結論が、何を招き寄せ自身をどういう境遇に追い込んでしまうか、この時は知る由もなかったが。
とにかく、アンジェリークは考える。まずは、エンジュが視野を広げることが大事じゃないかしら…そのためにも、やっぱり、とりあえずはサークルに入って、充実感とか楽しさとかわかってきたら…ポジティブな体験、肯定される経験がエンジュのためには、いいと思う、いいような気がする、色々な世界を知って、色々な人と接して、色々な場面での様々な具体的な経験を積んでーとにかく、エンジュみたいな子は、場数を踏むことが大事じゃないかって気がする…
「そうね…ロザリアとのやり取りが、誤解だったにせよ…そういう経緯があったのでは、エンジュは、オケ部には、もう入部しづらいかもしれないわね、けど…なら、他のサークルはどう?考えてみない?オケ部に限らず、他の部も気軽に、けど、今度はまず責任者を通じて見学をしてみるのは、どうかしら?」
その時、エンジュが、あからさまに安堵の表情を見せたことを、アンジェリークは好意的に解釈した。エンジュもきっと、何か、今の自分を変えたいとか、どうにかしたいと思ってるんじゃないかしらと。
「え、ええ、だから、今度は他の部も見にいってみようかと思ってるんだけど…あの…アンジェ…オケ部に限らず、サークル見学しようと思ったら、活動場所と日時も調べないと、見にいけないってことは、この前教えてもらってわかったのだけど、それはどうやって調べたらいいの?それと…その、どのサークルにどんな人がいるかっていうのも、調べてみたいのだけど…」
と、エンジュが、まるで、用意してあったかのような言葉を発したので、なおさら、アンジェリークは思ってしまったのだ。エンジュも、何か変わろうとしてるんだ、そのために新しい環境を欲しているのだと。
アンジェリークには、想像のしようがなかった、頭のてっぺんからつま先まで善意でできているアンジェリークは、エンジュが、自分が入部したいがために様々なサークルを見学したがっているわけではないことなど、思いつきようもなかったし、エンジュが背後にいる誰かのために、サークル見学に行こうとしていることなど、更に想像の範囲外であった。
そして、エンジュは実際安堵していたのは確かだったが…それ以上に、衝撃を受けていた。
なんというか、アンジェリークと会話をすると…入学式の時も、合宿の時もそうだったが…何か、会話をするたびに、何か、自分の心をきつく縛り、覆い隠しているベールが1枚1枚とはがれ、息が楽になったり、思いがけぬ広い地平、視野が得られたりする、そんな感覚を味わう気がするのだ。
「この子と話すと感じる…この子は違う…何かが、私と、決定的に違う…その違いに、何か、目を開かされるような…不思議な感じがする…」
具体的な助言を得られるだけでない、アンジェリークと話していると、何か、自分の知らない世界、自分が知らない物の見方、思っても見なかったものの考え方、そういう諸々が、雨が地面に吸い込まれるように、自然にすっとしみこんでくる、自分の内にしみ行ってくる…エンジュは、そんな心持になった。そして、乾いた砂が雨滴を吸い込むように、少しづつアンジェリークの言葉を、自身の内に取り込み始めた。