Before it's too be late 31

オリヴィエ・デュカーティは、傘下のブランド・企業を多数持ち、全世界的に展開している大手アパレルの御曹司であると同時に、自身は大学生企業家…といってもごく小規模なブティックのオーナーデザイナーでもある。大企業の後継者として必要な経営学を修める傍ら、趣味と実益を兼ねて、自身で服をデザインし、作り、小売りをしている。余裕ある振る舞いと飄々とした態度からあまりそうは見えないが、大学生とブティックオーナーの2足のわらじを履く彼は、旧友であるオスカー・クラウゼウィッツに勝るとも劣らぬ程、実のところ多忙である。

現在、既存のファッション業界は2極化している。

奇抜なほど先鋭的なデザインの服ー街中では絶対着られそうにない服を、そうそう見かけない高身長のモデルに着せて、粋の極みともいうべき演出を施したステージで見せ、それを雑誌やTVに取材してもらうことで、流行を作りだす、オートクチュールを代表とする高級ファッション業界と、シンプルで無難で価格も手ごろだが、だからこそ1シーズンのみの使い捨て衣料にされてしまいがちなファストファッションと。

そして、この2極化したトレンドは、それぞれに弱みを抱えている。

高級ブランドを注文するのは一握りの富裕層の女性だけで、普通の女性は溜息をつくのみ…価格面でもそうだが、デザインも「見てる分には目を見張るけど、自分は絶対着られない、着こなせない、着ていく場所がない」と、大多数の女性に思わせてしまうー自分には無縁のものとして、遠ざけられ敬遠されがちである。一方ファストファッションは、価格の手ごろさ・無難さ・流通量の多さから、自分と同じ服を着ている人間を多数生みだすので、没個性・ありきたりに流れがちになり、「おしゃれ心」を満足させるのは難しい。

その丁度、狭間を狙ったかのように、高級すぎず大衆化もしすぎない、おしゃれではあるが奇抜ではない、いわばニッチの市場でオリヴィエはビジネスを展開していた。

身長は160センチの、特に小さくもないが大きくもなく、絶世の美女ではないが、同性から見て「かわいい」と思わせ親しみのもてるアンジェリークを専属モデルに、個性的で他にはみられない、ちょっと人目を引きつけるが、あくまで街中で着られる服を着せる、という既存のファッション業界と真逆、というか、隙間を狙う戦略を取っていたのだ。

アンジェリークの「感じのいい、かわいらしい普通の女の子」という印象は、本来なら「ファッションを見せ、魅了する」ことを生業にするにはインパクトに欠ける。モデルとしては身長が決定的に足りないし、体つきもプロとして見たら引き締め不足のレベルだ。

が、それは町中に多数いる、ちょっとおしゃれ目で流行も気になる普通の女の子が目指せる、そういうレベルなのだ。

ボディラインにそれなりに気を使ってはいるけれど、モデル体形というほどストイックではないし、そこまでのプロ意識は当然ないから、普通にスイーツも大好きで。おしゃれは楽しみたいけど、街中で着るのはどうか、というような余りに奇抜で大胆なファッションには尻込みしてしまう、けど、ありきたりな、ありふれた服では満足できないし、ほんの少しなら冒険もしてみたい。街中で自分と同じ服を着てる子を見かけたら嬉しくないと感じ、ファストファッションではちょっと物足りないと思うような、そんな「普通だけどおしゃれには敏感な女の子」層が、「かわいいな」と憧れ、けど、同時に頑張れば手が届きそう、容易にまねできそう、と思えるレベルー言わば等身大のモデル、それが、オリヴィエがプロデュースしたアンジェリークのポジションだった。

そして、そんな「とびきり愛らしけど、あくまで普通の女の子」であるアンジェリークに身につけさせるのは、おしゃれで可愛いく個性的で他に類を見ない、が、普通の体形の子が綺麗に着こなせるバランスのデザインで、普段着とはいわないが決してフォーマルでもない、「女の子がお出かけする時や、おしゃれしたい、おしゃれだと思われたい時、着たいと思う」、それをコンセプトの中心に据えて、今、オリヴィエは服を作り、自ブランドを展開していた。

このオリヴィエのデザインコンセプトは、実を言えば、趣味で服を作り始めた当初は、存在していなかった。オリヴィエは、自分の着たい服、女の子に着せたいと思う服をまったくの趣味で、その時その時のなんとなくの気分で、気の向くままに作っていたにすぎない。

それが、高校時代にアンジェリークというあまりに魅力的な素材と出会ったことで、彼の服作りに対する姿勢は変わった。

最初は、純心で愛らしいが少々垢ぬけてなかった彼女におしゃれの手ほどきをして、彼女が持ち前の素直さ・呑み込みの良さからどんどん魅力的になっていくことに満足しているだけだったが、そんな魅力的な素材を身近に置いてかわいがるうちに「この素材をもっと活かしたい」という思いがオリヴィエの心中に泉のように湧きー文化祭で彼女にモデルをしてもらったことで、彼の直感は確信に変わり、彼女をメインにビジネスとしての服作りを展開してみたくてたまらなくなったのだ。

「彼女の素材としての魅力を最大限に引き出すなら、どんな服、どんなデザインが最もふさわしいだろう、そして、どんな売り出し方が最も有効だろう」と、まず、アンジェリークという素材ありきでアイデアを敷衍させ、創りあげたのが「おしゃれが好きで、おしゃれに興味がある女の子のための、等身大のブランド『オリヴィエ・デュカーティ』」だった。

アンジェリークとの出会いが、オリヴィエに、趣味の域を出ていなかった「服作り」をビジネスとする動機付け、きっかけを与えてくれたのだともいえた。

こういう経緯で、オリヴィエは大学に入るや、このコンセプトで自分の小さなメゾンを立ち上げた。デザインは多彩だが、量はあまり作らない。お針子やパタンナーは、自分と同世代の被服専攻の学生を起用して人件費を抑えつつ、同時に実験的な試みや大胆なアイデアも臆せず製品化するー作りたいと思うものをとりあえず作らせてみる、が、監督はしっかりと、自分の目の届く範囲で服作りをすることで手綱を引き締めー尖った感性を持つ若手デザイナーは「自分が創りたいもの」を優先する余り、実際に着る人の目・心を見失って独りよがりの先鋭化したデザインに走ったり、暴走することが多分にあるからだー「商品」としての品質はしっかり管理する。

宣伝は、WEB上のHPおよびブログでシーズンごとに服の紹介をする程度。雑誌の取材は要望があれば受ける。通販はせず店頭売りのみ。品数を多く作らないし、足を運んでくれる個々の客に似合う色や組み合わせのアドバイスをしたいと思ってのことだった。そして店の開店時間は学業に響かぬよう、平日夕刻以降と休日のみ。モデルであるアンジェリークの露出も店頭で配布する宣伝紙と雑誌に限る、という規模のビジネスだった。

と、こんな限定した店舗経営であるにも関わらず、この規模のファッションビジネスとしては、オリヴィエのブランドはかなりの成功を収めていると言えた。

彼と同年代の女子学生ー特にスモルニィの女子学生はおしゃれ感度も高く、ファッションや身の周りにお金をかける。パーティーなどでは多少奇抜な服を身にまとうことはあっても、街中では場に応じた常識的なファッションを好むし、目が肥えているので、素材やカッティング・縫製のきちんとしたものを見極める目を持っているし、その点では妥協しない。そういう階層の子女なら、身近で、アンジェリークの着ている物を見れば、その品質の良さはきちんとわかるはずという自負がオリヴィエにはあった。そして、アンジェリークがー親しみやすく、かわいらしく、かつ、しっかりとした家庭できちんとした躾を受けて育てられた少女ならではの品の良さももち、いつも嬉しそうで幸せそうな彼女が、オリヴィエの服を着て、パーティーに出たり、キャンパスを歩いたりすることは、この上なしの宣伝効果があった。彼女の幸せオーラは、周囲に「自分もあんな風になりたい」と思わせる力があったし、誰かが、アンジェリークの衣装をステキだと言えば、また、ここが彼女の他者にまねできない特性というか、天性のくったくのなさで「ありがとう、でも、それはオリヴィエ先輩のセンスが良くて、デザインがステキだからだわ、オリヴィエ先輩の服って、すごくかわいいから、着てると、とても幸せな気持ちになれるの」と、極めて自然に、売り込みを微塵も感じさせない雰囲気で宣伝をしてくれるものだから、その効果はなかなかに侮れないものがあった。

そして「アンジェの着てた服、かわいかったな」と思って、実際にオリヴィエの店に足を運べば、オリヴィエがいる時は彼自身が、多くは彼のセンスの伝道者たる販売員が服のコーディネイト法やその人の肌や髪に似合う色味やメイクに助言をくれる一方、似合わないと思えば、「それはあなたのイメージではないと思う」と少々辛辣な評価を下しつつも「こっちの方が、あなたを魅力的に見せると思う」と、代替案も出してくれ、その客観的な評価はおおむね正しかったものだから、口コミが口コミを呼んで、オリヴィエ・デュカーティの服は、まずはスモルニィのおしゃれ女子学生の間で評判を高めていった。

その評価は「デートとか、合コンとか、同窓会とか、気合いを入れておしゃれをしたい時には「鉄板」だというものだった。しかも、趣味性の高いオリヴィエの服はほとんどが1点ものなので、他人とかぶる心配がまずない、という点で、おしゃれ女子の安心感と評価が高かったことに加え、一点物ゆえに、気にいった服は、見かけたその場で買わないと、次に来たときはもうなくなっているかもしれないし、再入荷もまずないことが、女子の購買欲をいたく刺激し、それが堅調な商いへと繋がった。そして、今現在、スモルニィ女子大生から、徐々に首都圏のおしゃれ感度の高い女子の間へと、オリヴィエのブランドの評判は広がりつつある。

これは、ピンポイントで、ある意味ニッチな市場に狙いを絞ったオリヴィエのマーケティング戦略が的中した結果、だともいえた。オリヴィエは自前のメゾンを設立するにあたりーあくまで、実験的なビジネスと言うことで、親会社の傘下に入らず、販売網も頼らず、資本金も若手企業家賛助の融資を用いたのだが、それでも、当初、親会社の役員連中は疑問や反対の声ーオリヴィエがいくら個人的に始める事業でも、親ブランドのデュカーティとの関係性は否応なくマスコミに取りざたされようし、さればデュカーティの高級イメージを損なうやもしれぬ、とか、所詮ボンボンの道楽ーGFをモデルしての仲良しこよしビジネスなんて通用するわけがないなどと、影に日向に酷評を浴びせたのだが、そんな悪い前評判は今やすっかり覆された形となり、逆に、今は将来の優良顧客層を開拓したに等しいと役員たちから評価されている。学生の時分にオリヴィエのブランドを好んでくれた顧客層は、長じて社会人になってから、それ以上に年齢を重ねた後も親ブランドの優良顧客になってくれることが、大いに期待されるからだ。

もっとも、オリヴィエ自身は、冷やかに酷評されていた時分にも、今になって掌を返した評価を受けようとも、飄々としたものだ。それは、自分のセンス・感性ービジネスにおいてもファッションにおいてもーに、確たる自信があったればこそだった。人も物も、結局、その在りようーどれほどの工夫や努力をし、どれほどのクオリティに至ったかーにふさわしい評価を受けるものだ、だから、叩かれても揺らがないし、逆に、実際の業績以上にもてはやされることがあっても、天狗になったり、浮わついてはしゃいだりもしない。

ただ、文字通りの親会社である「デュカーティ」ー大手アパレルでは成しえない分野で、オリヴィエは成功したいという意識はあったー限られた1部の富裕な女性ではなく、多数派である普通の女の子を、それぞれに綺麗におしゃれにしてあげることで、幸せな気持ちになってもらいたい、自分を好きになって、自信をはぐくんでもらいたい、そう願っており、そして、今、彼は着々とその地歩を固めつつある。

飄々として見えるとはいっても、オリヴィエの内面・内心は、オスカーに負けずとも劣らぬ程、男らしい正義感にのっとった野心や誠実な熱意にあふれていた。オリヴィエにとっても、ビジネスは、単なる金もうけの手段ではなく、自己実現であり社会貢献であり、世のため・人のためになると信じることをやり遂げたい、という思いがあった。彼らは見かけの印象が正反対の割に、昔から妙にウマが合う仲だったが、それは、人として根本的・基本的に相通じる部分が多くあるからだろう。

しかも、職種の違いーオスカーもオリヴィエも、広義では同じ「物作り」とその「販売」を生業としている家に生まれ育ち、また、その仕事を自分たちも義務でなく己の意思で引き継いでいくつもりである、という意味では立場上の共通項の多い、理解しあえる友人であるのだが、同時に、扱う物品の違いから、その感性や思考、発想法はかなり異なる部分も多くあった。たとえば先日、オスカーは、アンジェリークの父・リモージュ氏との特別なパイプを故意に強化し、私的な結び付きを政府中央にアピールすることから得られる利点をオリヴィエに説いたが、これはオリヴィエには全くない発想、というより、一般市民を相手にした小売業ではむしろタブーな発想だった。小売、特にアパレルは、1人1人の顧客および顧客との関係は大事にするが、政治団体や公的な機関との結びつきや癒着には利点を見いださないのが普通なのでー制服事業を持つアパレル以外は、入札や談合は無縁、大量一括購入もありえない、そして今のオリヴィエのブランドは制服事業は視野にいれていなかったので、オスカーのような発想は、オリヴィエには欠けていた。指摘されて初めて気付いたほどだった。

このように、着眼点や発想の違いが、互いに視点を補いあい、物の見方・考え方を多面的なものにし、洞察を深めるという実利的な面が、2人の友情にはあった。

オリヴィエは、オスカーと昔から気が合うのも確かだったが、似た社会的地位にあるがゆえに2人は互いによき理解者になりえたし、一方で、職種の違いから有益な助言者にもなりえた。それが2人の友情をより強固なものにしたのも間違いなかった。2人の友情は、心情的な意味においてだけでなく、互いに、実際的に有効かつ有益なものだったのだ。

そしてまた、オリヴィエにとってアンジェリークは妹のようにかわいい後輩であると同時に、自分にビジネスの方向性をインスパイアしてくれたミューズのような存在であった。いまやオリヴィエのイメージの源泉であり、アンジェリークの存在なくして、自分のビジネスは成り立たないとさえ思う。

オリヴィエには、オスカーも、アンジェリークも、それぞれに掛け替えのない大切な存在だった。その2人が、出会い、互いに惹かれあい、愛し合い、今も愛をはぐくんでいる。彼らの幸福を願うのは、オリヴィエとしてはあたりまえのことであり、また一方で、彼らの幸福を脅かしそうな要因があれば、これを全力で排除せんと努めるも当然のことだった。ゆえに、そのための協力をオスカーから要請されれば2つ返事で全面的に手を貸すし、オスカーから協力要請がなかったとしても、何らかの助力を自ら申し出ていただろう、とオリヴィエは思う。

つまり、オリヴィエは、自分自身の判断、考えで、オスカーに協力していた。頼まれたから、やっている、という意識はなかった。オスカーとの友情の面からも、かわいい後輩への純粋な好意の面からも、自身のビジネスの成功のためにも、アンジェリークを脅かす存在はそのままにしておけない、その思いは、オスカーに負けず劣らず、オリヴィエにも強かった。だからこそ、オスカーとは別の面、異なる分野から、オリヴィエはアンジェリークを身を守る手立てとして、有効そうに思える物は、なんでもやってみるつもりだった。

その一つとして、かの要注意人物の素性を探る手助けを、オリヴィエはオスカーに申し出た。

アンジェリークの父から、富裕層の子女に接近を図る青年の素性を示唆されたオスカーは、彼の本国での評判や噂を隣国の支社駐在員に探らせてみるつもりだとオリヴィエに告げた。そう聞いたオリヴィエは自分からこう申し出た。

「王室とか上流社会でのゴシップや噂話収拾なら、私…うちの親会社のツテを頼るほうが、効果的だと思う。デュカーティは、いくつかオートクチュールのブランドをもってる、しかもヤツの故国は王国で、なら、上流の社交界活動も活発だったはず、となれば、そこの王室のパーティやレセプションに顔を出す階層で、うちのオートクチュールの顧客が絶対いるはずだ。その国の顧客を抱える担当者に聞けば、ヤツがどれくらい傍流だったかしらないけど、一応王子のはしくれだったっていうなら、上流婦人の間でそれなりの知名度はあっただろうから、そういう噂を聞きだすことは、そう難しくないとおもうよ、武器屋の御用聞きが噂を集めるよりは、絶対、効率いいはずだよ」

なんでも自分でやろうとし、実際、できてしまうオスカーは、このオリヴィエの申し出に、目からうろこがおちたようだった。

「そうか…そうだな…王室でのスキャンダルやゴシップ収拾なら、確かに…。武器屋の営業が、そんな噂を集めるのはかなり不自然だが、服屋が採寸や衣装の仮縫いの際、世間話の一つとして、ある王子の評判を集めるっていうのは、全く無理がない…」

「だろ?しかも、その国は、そいつのクーデター未遂事件があったわけだろ?早急に鎮圧、無害化された事件に関しては、人は安心してコメンテーターになれる。訳知り顔で、色々話したがる人には事欠かないんじゃないかな。しかも、そういう人たちの語る「ここだけの話」の方が、結構、有用・有益なことってあると思うよー。話好き、噂好きの女性は多いし、ブティックの店員には警戒なく、噂話してくれそうな気、するじゃん?」

「ああ…確かにな…なら、王室や上流社会方面の情報収集はおまえに任せてもいいか?俺は俺で、国防や軍事担当方面での情報収集は続けさせようと思うが…」

「うん、もちは餅屋ってね」

その代わりといってはなんだが、調査社から刻々と上がってくるエンジュの動向報告の解析は、言葉は悪いが、オスカーに丸投げすることにした。

数値を見比べ分析し、グラフがいかに動きそうかを論理的に予想して今後の方針を立てる、というような理詰めの行動は、それほど得手とはしていない、と、オリヴィエは自分では思っている。だから、そっち方面は得意なヤツに任せておけばいい、いわば、情報収集も分析もオスカーは硬派担当、私は軟派担当だ、と、そうオリヴィエは割り切ることにした。

そして、ここ最近のオスカーは、エンジュの接触した人物の名簿から、金融危機を乗り切れず破産・没落した家名を抜き出すことにかかりきり、だそうだ。没落した個々の家柄がいつ破産宣告を出したか、その年月日を詳細に調べて見比べていけば、銀髪の青年の持っている人名リストー正確を期すなら某国国営銀行の口座リストが、少なくとも何年度以前のものなのかわかる。恐らく、年度の特定まではできるだろう。そして、年度が特定できたら、更に、何月現在の情報なのか、最低どの四半期あたりかまでは、できることなら特定したい、いや、やってみせる、とオスカーは言っていた。昨日まで高値をつけていた通貨や債券がある日を境に大暴落して紙切れになる、なんてことが金融界ではざらにあるから、金融情報は年月日が重要だし、日付の詳細な特定も可能だろう、さすればあの青年が、いつ頃、どの程度まであの国の権力中枢にいたのかわかるだろうし、それによって現在のやつの存在価値、重要度もある程度の見当がつけられるだろう、というのがオスカーの意見だった。

こんなわけで、オスカーは、日々調査社からあがってくるエンジュの報告を分析・精査する一方、アルテマツーレの支局の営業員から当時のかの青年の動向ー軍事方面に限ってのー報告も待っており、はたで見ていても気の毒なほど多忙を極めていた。

ただ、こちらも間もなく…デュカーティの営業担当から、かの国の上流社会での、あの青年の評判ー軟派方面の情報の第一報も入ってくる頃合いだった。

必要な情報が硬軟で出そろえば、こっちの出方、方針もつめて検討できる。オスカーの多忙も、対処を決めるまでの暫定的なものーあと、しばらくの辛抱だろうと思っていたので、オリヴィエは、そう、心配はしていなかった。

そして、オリヴィエ自身、その報告を待つ間に、もう1つ、今、自分にできること、を徹底するつもりだった。

それは、アンジェリークの学内での知名度をよりあげること、無論、アンジェリークの安全度を高めるためだ。

「さて、アンジェの学内認知度−つまり人気を、あまりわざとらしくなく、これみよがしでなくあげるには…っと」

過日、アンジェリークからミスキャンパスへのエントリー承諾の返事を得たオリヴィエは、プロデュースの方法を真剣に吟味し始めていた。

オリヴィエは元々プロデュース・演出を得意とするが、計算されつくした戦略として演出するというよりは、オリヴィエ自身が「好み」「かっこいい」「ステキ」「面白い」と感覚的に肯定できるものを追求し、突き詰めていくと、結果として「当たる」という方が近かった。たまに迷うことがたまにあっても、直感的に自分が「こっちがいい」と思う方を選んで、外れたためしはない。その自分の勘は、アンジェをミス・コンに出せ、と言っている。

「在学中にアンジェにミス・スモルニィの栄冠を取らせる…のが最終目標だ、これは、今のアンジェのためのみならず、将来オスカーの役にもたつ。クラウゼウィッツの花嫁は、この国有数の名門校のミス・キャンパスとなれば…アルテマツーレのイメージにとっても損な話じゃない…だけど、焦る必要はない、大学は4年まであるんだから、1年生の時分に慌てて、ミスの称号を得なくてもいい。とりあえず、今年度は顔見せするだけで充分。ただ…本選に残れず初戦敗退なんてことだけはないように手をうたないとねぇ、なにせ、スモルニィ祭実行委員じゃ、組織票は期待できないし、下手にルヴァに応援頼んだりしたら、不正な情報操作とか実情入選とかを疑われかねない、それじゃ、ミスへのエントリーが百害あって一利なしだ。だから、誰が見ても明らかで、公明正大に「アンジェなら、本選に通るのも当然」って空気、雰囲気を作り上げないとねぇ」

オリヴィエは、アンジェリークのイメージアップのための戦略を頭の中で綿密に練りあげ…あるアイデアを検討してみることにした。

「試験明けにやるつもりだったあれを、ちょっと前倒して、やってみちゃおうかねぇ…」

となると、アンジェリーク以外にも参加者が必要だ、とりあえずロザリアはOKをくれるだろうが、できれば、あと、2、3人は協力者が欲しいー無論、詳しい事情は知らさない、知らなくていいイベントのみの協力者が必要となってくるが…さて、どうしたものだろう。

学内でオリヴィエが募集をかければ、志願者はすぐに集まるだろう…

だけど、今回の場合、アンジェリークより目立つ子、押しの強い子は好ましくない…「私が、私が」という売り込みの激しいタイプの子は正直困る、プッシュしたいのはあくまでアンジェリークの魅力だからだ。具体的には、アンジェリークと個性がかぶらず、むしろ、並ぶことで、互いに魅力を引き立てあえる女の子が理想なのだが…

けど、公募で集まるような子は、多分、自分に自信があって、オリヴィエに自分を売り込みたい積極的な子が多いだろうと予想される。

「うーん…公募はメリットよりデメリットが大きそうだねぇ、となると、アンジェと仲良しか、結果としてアンジェの引き立て役になっても気を悪くしなさそうな鷹揚な子か、おっとりしてる子を探しだして、こっちから頼むしかないかも…」

この条件では、そう数が見つかるとは思えない、アンジェ以外の協力者は、ロザリアだけという少々きつい状況も想定して計画をたてた方がいい。

さて、では、このことをアンジェリークには、いつ、知らせよう?

明日は週末、アンジェリークはオスカーとデートだろう…休みの間、あの子の頭を私の計画で煩わすのは可哀そうだし、考えるなっていっても、あの子は考えちゃうだろうから…話するのは、週明け、アンジェが登校した後、昼休みにでもすればいいかな。アンジェはオスカーとランチを取るだろうから、ついでにオスカーにも私のアイデアを知らせられるしね。

週末は、あの2人には何の憂いもなく過ごしてもらいたい、懸念とか考え事とか、そういうのは全部棚上げして。特にオスカーには気持ちを切り替え、心の弾性を取り戻す時間が絶対に必要だろう、言いかえれば、アンジェリークと過ごす柔らかで温かな時間あってこそ、あの男は、何事にも全力で立ち向かい取り組むことができるのだから。だから、2人でいる時間は、互いに互いのことだけ考えてればいい、その方がいい。スタンバイに入るのは、週明けで十分だ。

「あぁ〜あ、明日も、いい天気になりそうだねぇ」

オリヴィエは、高くぬけるような空を見上げ、独り言ちた。

 

 

「お嬢ちゃん、会いたかったぜ!」

「オスカー先輩、私もです」

土曜の午前、寮のエントランスにオスカーがアンジェリークを迎えに来、アンジェリークは心から嬉しそうに幸せそうに、まっすぐオスカーの胸に飛び込んでいく。その光景は、もはや女子寮週末の恒例かつ公認行事となっていた。

「会いたかった」と言っても、2人は久方ぶりの逢瀬という訳ではない、昨日だって当下校も昼食も一緒に過ごしている。

でも、やはり違うのだ。時計の針を気にしながらの細切れの時間でなく、ずっと一緒にいられる、というのは。周囲に人がたくさんいる場で会うことと、2人きりで共に過ごす時間というのは。

だから、2人にとって週末とそれに続く休日は待ちに待った時間だった。毎日、短時間でも会えること自体幸せなのは事実で、そのことに感謝もしている、それでも、2人だけで密に過ごす時間は絶対に必要不可欠なのだと、2人は共に思っていた。同じ程の熱意で。

そしてこの週末、いつものように迎えに来てくれたオスカーは、やっぱり、いつも通り、優しくかっこよくワイルドだった。が、その胸にしっかりと優しく抱き寄せてもらったアンジェリークは、オスカーの顔を見上げ、我知らず、ほんの僅か、眉をひそめた。

涼やかなオスカーの目元、そこにいつもは見えない影が…極薄いものだったが、見てとれたのだ。

『オスカー先輩、最近、なんだかとってもお忙しそうとは思ってたけど…思っていた以上に、かなり、お疲れなんじゃないかしら…』

オスカーと知り合い交際を始めて2年以上経ち、アンジェリークは、オスカーの特質への理解をそれなりに深めていた。

オスカーは基本、活動的・行動的で、健啖家で、体力もある。普段の生活がデスクワーク主体というか、頭脳労働だからこそか、気分転換もかねて、体を動かし鍛えることも怠らない。オンオフの切り替えが巧みで、総じて自己管理が上手い。基礎体力がある上に鍛錬を怠らないため、疲労を余り感じないらしく、睡眠時間もそう多くなくても事足りるようだ。というのも、オスカーの部屋に泊まったことは数え切れないほどなのに、アンジェリークはオスカーの寝顔をほとんどみたことがないからだ。いつもアンジェリークが先に寝入ってしまい、朝もオスカーに起こされるのが常だ。そして、寝ぼけ眼の自分への目覚ましはオスカーのいれてくれたコーヒーの香りだったり、優しいキスだったりと、その時によって異なりはするが、とにかく、いつも、オスカーは自分より後に寝付いてる筈なのに、自分より先にしゃっきりと目を覚ましている。

週日は勉学に励み、休日は自分と過ごしてくれるオスカーを、いつお休みになっているのかしら、十分に休養を取ってくださってるのかしらと、一再ならずアンジェリークは案じたことがある。が、今までは、確かにいつもオスカーは快活で、元気そうで、アンジェリークの心配を杞憂だとおもわせてくれていた。

でも、今日は…と、アンジェリークは、オスカーの目もとにうっすらとさす影を見てとり、改めて気がかりを覚えた。

その顔色から、オスカーは疲れているか、睡眠不足な気がする、けど、オスカーの態度や振る舞い、口調はいつも通り朗らかだ。もしかして、オスカー先輩は、自分が疲れてるってことを、私に悟らせたくない?私を心配させないように…?さもなくば…ご自分が疲れてるって自覚なさってないのかもしれない。そして、もしそうなら…隠そうとするより、自覚がないほうが、余計に心配だわ、と、アンジェリークは考えた。

だって、オスカー先輩みたいに体力があって、自己管理が上手な人は、多分、自分でも知らず知らずのうちに無理をしがちなんじゃないかしら。体力があって、自分でも鍛えてるって自負があるから、かなりの無理もきくし、無理がきくからこそ、ひたすら頑張ってしまう。その上、オスカー先輩はそうは見せないようにしてるみたいだけど、自分に厳しい人。だから、なおさら、よほど疲れないと休まない…休もうと思わないんじゃないかしら。元々、疲れそのものを余り感じない…感じにくいような体質みたいな気もするし。けれど、その分…ご自身では疲れを自覚しないうちに、見えない疲労が蓄積していってる、なんてことはないかしら。

だって、オスカー先輩は、頑張ってしまう、無理がきいてしまって、無理を無理とも思わないことがデフォルトっていうか、ナチュラルっていうか…そういうお方だから。

だからこそ、オスカー先輩みたいに無理がきいてしまう人は、限界まで体に負荷をかけ、疲労をためてしまって…そして、体を壊すまで、自分がどれほど疲れているか、わからない、なんてことにならないかしら。私、今、それが、すごく心配。

けど、オスカー先輩にお疲れなのでは?とか心配です、って私が言っても、きっと先輩は

「お嬢ちゃんは心配性だな、安心しな、俺はそんなにヤワじゃない」

って、笑って、ウインクして、私、結局、いなされてしまいそうな気がする…

でも、あの目の下の陰りは、多分、ううん、絶対クマだと思うから、今日は、なんとかして、ゆっくり体を休めていただきたいけど、そのためにはどうしよう、どうするのがいいんだろう…今日のデートはやめにしましょう、なんていうのはダメ。急にそんなことを言い出したら、逆に「どうしたんだ?お嬢ちゃん」って心配かけちゃう、オスカー先輩に、身も心も安らいで楽にゆったりしていただきたいのに、それじゃ逆効果だわ、かといってストレートに先輩の体調が心配なんですって言っても先輩は大丈夫って言うに決まってるだろうし…。

それに先輩は私と2人で過ごす時間そのものが、すごくいい気分転換になるし、気持ちが安らぎ和むって思ってくださってるみたいだし…嬉しいことに…それに私だって正直言えば先輩と2人で過ごしたいし…なら…先輩の体も休まって、気も休まるようなこと…そんなことして過ごせないかしら…

確か、ここ最近の先輩、調べ物だか研究?で忙しいっておっしゃってた、ってことは、ずっと室内で机かモニターにかじりついてデータとか参考資料を見て、目と頭を酷使してたってことだろうから、それで疲れがたまってるのだとしたら…先輩の体と心には、その真反対のことするのがいいんじゃないかしら…。まず外…屋外で。日の光をあびて。自然の風に吹かれて…軽く運動したり、深呼吸したり…そんな過ごし方がいいんじゃないかなって気がする…それには…どこに行って何をしましょうっていうのがいいかしら…

オスカーの顔色を見て、今日はどう過ごそうと提案するのが、1番、オスカーの心と体にいいんだろうと、アンジェリークがめまぐるしく考えを巡らせていると

「どうした?お嬢ちゃん、そんなに俺の顔をじっと見つめて…さては…俺に惚れたな?」

言わずもがなのことを笑みを含んだ口調でからかうように言いざま、オスカーは、アンジェリークの額にちゅ…と口づけた。アンジェリークも思わず笑みを返す。己の素直な心情を添えて。

「ふふっ…ええ、私、ずっと、先輩に恋してますけど、こうして、先輩とお会いするたびに、改めて恋に落ちてる、何度でも…そんな気がします、それ位、先輩が好き」

その言葉を聞いて、オスカーは我知らず頬を染め、自分から仕掛けたナンパな台詞と態度をあっさり引っ込め…というより、まっすぐなアンジェリークの愛の言葉にギブアップという風情を見せた。

「参ったな…そんな…愛らしく情熱的な告白を聞かされては…今すぐ君をさらって閉じ込めちまいたくなるじゃないか…」

という言葉とともに、オスカーはアンジェリークはきつく抱きすくめる。

そしてアンジェリークが何か言葉を返すより早く

「お嬢ちゃん、今日は、出かけるのはやめにして…このまま…すぐ、俺の部屋に来るか?」

と、誘いをかけてきた。更に一呼吸おいて

「早く…2人きりになりたいんだ…」

と、ダメおしのように付け加える。

その声は穏やかで、口調は静かなものだったが、だからこそ、アンジェリークはオスカーの抑えた声音の奥に潜む逸る気持ち、たぎる情熱が伝わってくるような気がして、目眩を覚えた。

それでなくとも、オスカーの、一段低く抑えた、しっとりと吐息交じりのささやきは、男性的な色気に溢れていて、そんな魅惑的な声を耳朶に流しこまれたものだから、アンジェリークはくらりと幻惑されるまま、オスカーの誘いに肯きそうになってしまい…だって、それは余りに誘惑的で、アンジェリークだって嬉しいし待ちわびた過ごし方で、何より、オスカーの声音も眼差しも目眩がするほど色っぽくて魅惑的で抗しきれるものではなくて…けど、すんでのところで、「オスカーの体調が気がかり」という気持ちが砦となって、アンジェリークは流されるままに頷ずかずに踏みとどまった。オスカーの誘いを「オスカーの体調を整えるのに、良いかどうか」の視点から、かろうじて、なけなしの理性を総動員して考えてみる。

『えっと…オスカー先輩のお家に行ったら、外で遊ぶより体力を使わないで済みそうな気がするけど、けど、現実は、絶対、そうじゃない、だって、先輩は寝室というかベッドに私を抱きあげて直行なさるだろうし…それに私は絶対あらがえないっていうより、あらがう気なんてないし…むしろ、多分、嬉しいって体中で表しちゃう、だって、いつだってオスカーと肌を合わすのは、私にとってもこの上ない喜びだから…けど、それじゃオスカー先輩のお体は休まらないわ、気持ちはリフレッシュするかもだけど…きっとクマだって薄くならないわ…けど、ただ単純に休みましょうって言っても、先輩のおうちで、ただ休むなんて、多分無理だし…先輩はずっと屋内にこもりきりだったみたいだから、少しの時間でもいいから、外で過ごす時間を取った方がやっぱりいい気がするし、かといって、普通に遊びに行くのでは…体が休まらないのは同じになっちゃうかもだし…』

外に遊びに行く過ごし方でも、オスカーの部屋で肌を合わせるのも、オスカーの気分はリフレッシュするだろうとは思う、でも、それはやっぱり「アクト」であって「レスト」ではない、ほんとの意味での休息にならないのではないか、という気がする。疲れをとってエネルギーを補給して体と心をリセットするために、オスカーには、きちんと休息をとってもらいたい。それも、できれば屋外で。ゆったり息のつけるような場所って、何か、どこか、なかったかしらとアンジェリークは考え、閃くように、意識するより前に、口から、この言葉が飛び出していた。

「はい、私も、早く先輩と2人きりになりたい…けど、なら…あの…そうだわ、先輩、あの東屋に行きませんか?」

「東屋?」

唐突なアンジェリークの誘いの言葉に、オスカーは虚をつかれたように聞き返してきた。何のことか、ぴんとこなかったらしい。

一方、アンジェリークは、反射的に発したこの提案が、自分でも思いのほか名案に思えてきた。

「はい、先輩のお宅にお邪魔する前に、少しの時間でいいんです、先輩と初めてお会いした…先輩と思いを確かめあった、あの東屋まで、とりあえずお散歩しませんか?えっと、今週、私、あまり外に出なかったので、少し、外の空気が吸いたいな、なんて思って。そして、あの東屋のベンチで、少しゆっくりして、それから、先輩のお部屋に伺うとかって…あの、どうでしょう?」

「…ふむ…あの東屋か…そういえば、そうだな、お嬢ちゃんと初めて会ったのは、あの東屋でだったんだよな…」

オスカーは少し遠くをみやるような眼差しになった。何かを懐かしむような、柔らかな笑みが口元に浮かんだ。

「そうだな、たまにはのんびり散策と言うのも悪くない。ここからあの東屋までなら、遠すぎず近すぎず、いい距離だしな、よし、行くか」

「はいっ」

アンジェリークはにっこりとオスカーに微笑みかけ、オスカーの腕に己の腕をからませようとして…逆にその手をとられ、しっかと握りなおされ、そして2人は歩き始めた。互いに互いを愛しそうに見つめながら。

 

週末のこととて、キャンパスに学生はまばらだった。

ましてや元々大学構内でも端の方にある女子寮から、高等部の敷地方面に向かう学生はほとんどいない。しかも高等部の裏手にあり、周囲に他に施設もない東屋へ続く遊歩道に入ってしまうと、その道のりには、オスカーとアンジェリークの他に、人影はまったく見当たらなくなった。

日差しは少しづつ強くなっていっているようだったが、高等部裏の遊歩道の周囲は昔と変わらず植栽豊かでーうっそうと茂る一歩手前位の繁茂ぶりだー葉影に適度にさえぎられ、木枝の隙間からちらちらと降り注ぐそれは、目に柔らかく、心地よい温みを2人にもたらす。

周囲は風にさやぐ葉ずれの音と、ときおり聞こえる小鳥のさえずりばかり。この場所が多数の学生を擁する学園のキャンパスの一角とは思えない程、静かで、落ち着いている。オスカーもアンジェリークもその静けさに浸り、堪能するように、自然と言葉少なになった。

程なくーというのも、オスカーは以前、アンジェリークが見つけて教えた東屋への近道をちゃんと覚えていたのでー2人の目の前に東屋が現れた。

いつも人気がない高等部の裏山であるが、きちんと定期的に手入れはされているらしく、東屋も古びたり荒れたりという気配はなかった。ぴかぴかに綺麗とまではいかないが、周囲の下草も整えられ、柱やベンチも埃じみていたり、薄汚れてはいない。屋外のベンチにしては、こぎれいな方とさえいえた。

「お嬢ちゃん、少し、休むか」

「はい、先輩」

オスカーが極自然にアンジェリークの手をとり、先にアンジェリークをベンチに座らせて後、自分もその隣に腰かけた。そのままアンジェリークの肩に手をまわし、やはり極自然に、軽く触れるだけの口づけを落とした。

「君と、初めて…ちゃんとした口づけを交わしたのも、このベンチでだったな、お嬢ちゃん」

「はい、先輩…私、嬉しくて、幸せすぎて、夢みたいで…夢だったらどうしようって思ったら怖くて…」

「それは、俺も同じだ…そして、今も、その気持ちは変わらない…」

柔らかくオスカーの唇が再び触れてきた。そのまま優しく抱き寄せられ髪をなでられて、アンジェリークは、安堵の気持ちと嬉しさがない交ぜになる。

オスカーがこの静けさを楽しみ、くつろいでくれているらしい様子が、なんとなく肌身に伝わってくる。

東屋は、直に日差しが差し込まないので、暑すぎず、まぶしすぎもしない。屋根と柱だけで壁がないから、明るいし、解放感もあり、涼しい風が吹き抜けて、歩いてきた肌にすがしく爽やかだ。期待していた以上に、心地いい。これならオスカーも、ゆったり安らいでくれるかも、そう、アンジェリークが考えていると

「…さて、お嬢ちゃん、しばらく、のんびりしたいって言っていたが…一休みした後はどうする?…もし、特に希望がないようなら…まっすぐ俺の部屋に君をさらうぜ?」

アンジェリークの巻き毛を掌でもてあそびながら、オスカーがこう言った。口調は冗談めかしていたけれど、強い眼差しでオスカーはアンジェリークを見つめた。

アンジェリークは、その眼差しの熱に浮かされて、思わず肯きたくなったが、そんな自分をどうにか抑えると、無意識のうちにオスカーの大腿部に手を置き、甘えるようにオスカーを見上げた。

「あの…オスカー先輩…私、ちょっと先輩にお願いがあるんです…聞いていただけますか?」

「ん?お嬢ちゃんからのおねだりとは珍しいし、嬉しいな、なんでも言ってみな、お嬢ちゃん、お嬢ちゃんのおねだりなら、なんだって喜んできくぜ?」

オスカーは一瞬、面白がるような表情をしたが、言葉通り、真実、嬉しそうに応えた。

「ありがとうございます、先輩、じゃ、少しの間、私の言うとおり…にしてくださいます?」

アンジェリークは、己の肩に回されていたオスカーの腕を名残惜しそうにほどき、ほんの少し、オスカーと距離を置いて、ベンチに腰かけなおした、きっちりと足をそろえて。そして、少々いぶかしげな顔になったオスカーに向かってこう言った。

「はい、先輩、そのままベンチに横になって、ここに…私の足の上に頭を載せてください」

「ちょ、お嬢ちゃん、一体、何を…」

「お願い、先輩、私のおねだり、聞いてくださるって約束ですよ?」

重ねて懇願され、オスカーは戸惑いながらもゆっくりと体を傾け、アンジェリークのそろえた足の上に、その頭を遠慮がちに載せた。

「…重いんじゃないか?人の頭ってのは、存外、重いものだぜ、かわいいお嬢ちゃんの足に負担になっては…」

「大丈夫です、それに先輩の重みは、私には、幸せな重みだし…いつも、私、オスカー先輩に抱かれて眠ってしまうでしょう?だから、たまには、私からもお礼っていうか、お返しさせていただきたいんです。はい、それじゃ、そのまま目をつむってください、先輩」

オスカーは、一瞬、驚いたように目を見張ったが、意外なほど素直に、アンジェリークの言葉に従ってその瞳を閉じた。アンジェリークの意図するところをなんとなく察してくれたのかもしれない。おねだりを聞くと言った手前もあったのだろうが。

アンジェリークはオスカーが己の膝の上で落ち着いてくれたと見るや、バッグから扇子を取り出すと、軽く、ゆったりとした手つきで、オスカーの胸元あたりに風がいくようにあおぎ始めた。と、律儀に瞳を閉じたままのオスカーの口元が、ふっと柔らかくほころんだ

「…風が…お嬢ちゃんの香りがする…なんだか…ほっとするな…」

「和紙でできた扇なんです、先輩がくださったコロンを少し振っておいたので…それで…あの…よかったら…嫌じゃなかったら、このまま少しお休みになって、先輩。少しの間でもいいですから…」

「お嬢ちゃん…俺はそんなに…」

疲れてるように見えるのか?とオスカーは問おうとしたのだろう、が、アンジェリークは指先で、オスカーの唇にそっと触れて、オスカーが言葉を発しようとするのを遮った。

「私がこうしたかった…好きな人に膝枕してみたかったんです。オスカー先輩が、私のおねだり、聞いてくださって嬉しい。ありがとうございます。それで、このまま寝顔を見せてくださったら、もっと嬉しいな、私」

「そうか…お嬢ちゃんには、叶わないな、まったく…」

オスカーは手を伸ばして、アンジェリークのほほをそっと包むようになでた。そして、アンジェリークの膝の上で、ゆったりと深く息をついた。とても嬉しそうに。

そんなオスカーの緋色の髪をアンジェリークは指で優しく梳くようになでた。癖のないオスカーの髪は硬質そうに見えるが、実のところ、さらさらと柔らかい。

「お嬢ちゃん、君の手は、とても心地いい…どうか、そのまま…いい夢がみられそうな気がする…」

「はい、喜んで…」

そう、アンジェリークが応えると、オスカーは促されるままに休もうと決めたのか、やはり、疲れていたのか、一息、深呼吸し、楽な姿勢を取り直した、しばらくすると静かな寝息が聞こえ始めた。

そのままオスカーの髪を愛しげになでながら、アンジェリークは時折、扇で柔らかな風を送った。

アンジェリークは、オスカーが自分の我儘な言い分を聞いてくれ、自分の膝に頭を預けて休んでくれていることが、嬉しくて仕方なかった。

この前、エンジュに言った言葉がアンジェリークの頭によみがえっていた。エンジュに「誰かの手助けをしたい時は、どうするのがいいと思うか」と問われて、思考を明確に言語化していたことが役にたったと、思えた。

私はオスカー先輩が、どんなに忙しそうでも、お疲れに見えても、その勉強を肩代わりすることはできない、家業を継ぐと心に決めて、そのために頑張っているオスカー先輩、その諸々の努力を代わりにしてさしあげることや専門的な勉強のお手伝いはできない、けど、私にもオスカー先輩を支えたり、助けたりできることがあるはず、無理をしがちなオスカー先輩にゆっくりくつろいでいただいたり、お疲れのご様子だったら、のんびり休んで英気を養っていただいたり…

だから、私は、オスカー先輩ご本人以上に、先輩の体調を、顔色とか表情とか、そういうものに気をつけよう。

そして、自分自身は…オスカー先輩に心配掛けないよう、体には気をつけて、体調を整えて、いつも元気でいられるようにしよう。自分が元気でないと、オスカー先輩を気遣うこともできなくなっちゃうから。

そう、改めて、アンジェリークは思った。直接的なことでなくとも、愛する人のため、できることはある、それを探し見つけようと努めるのは、幸せなことだと心から思えた。

その、愛する人に無用な心配はできるだけかけないようにしよう、という決意も、好きな人のためにできることは、何でもしたいという思いも、本来なら、何の問題もない、むしろ、美しく、ほほえましい、健気なものだった。

そして、オスカーとアンジェリークは、2人それぞれが、お互いに同じように相手を大切に思いあっているのが、周りの目にも明らかで、だから、2人の仲は、憧れられ、応援されてきのだが…。

その美しい気持ちに付け込もうとする、そんなことを考える人物もこの世にはいるのだということを、アンジェリークは思ってもいなかった。想像したことすらなかった。 

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