銀髪の青年との打ち合わせは、前もって指示されていた日時、場所にエンジュが赴く、そういう形で行われていた。曜日も時間帯もその時々でまちまちなら、場所も学食、点在するカフェテリアの一つ、留学生会館を指定されることもあれば、一般生徒が待ち合わせによく使うで学生会館で、ということもあった。青年の気まぐれな待ち合わせ指定は、彼なりの陽動だった。決まった曜日や決まった場所で少女との打ち合わせを続ける、つまり行動がパターン化すれば、どうしても人目につきやすくなる、それを嫌ってのことだった。エンジュは彼の気まぐれの背後に意味があるかも、などとは考えず「忙しくて空き時間が一定しないのだろう」位に思っていたが。
その打ち合わせが、今回はたまたま週末ー土曜の午前中だった。
エンジュはこの日、彼女にしては珍しく意気込み、固い決意を抱いて、打ち合わせに臨んでいた。
過日、アンジェリークからもらったレクチャー「人の助けになりたいなら、その人の望む処をきちんと知ること、見当がつかなければ、教えてもらうといい」という教えを実践するつもりだった。
銀髪さんは、初めて私を必要としてくれた、この人のためにできることをしたい、そのためには、女子学生との接触を図る真の目的は何か、教えてもらいたい、その方がきっともっと役に立てるから、そうエンジュは青年に訴えるつもりだった。
なので、エンジュは青年と顔を合わせたらすぐにでも話を切り出すつもりだったのだが、席につくや青年に「預けてある名簿を出せ」と言われてしまった。反射的にその言いつけに従い名簿を差し出すと、彼はそれに目を落としたまま、黙り込んだ。
青年は、調査を始めて以降、名簿をエンジュに預け保管させていた。そして打ち合わせの時、目を通し、次に接触すべき人物にチェックをいれた後、再び名簿をエンジュに返してくる。それは、エンジュにとって「信頼されている」証に思えた。自分を信じてくれているから、大事な名簿を預けてくれ、接触する手段も任せてくれているのだと。
青年が自分の武器でもあり、取引材料にもなりうる所謂「証拠物件」を己の手元におくリスクを避けー自分が緩やかな軟禁と監視下にあること、かつ学内に居る時のみ、比較的監視が緩むことを彼は自覚していたのでーいざという時のための「意外な隠し場所」に大事なものを「保管」にしているだけなのだ、などということはエンジュの頭には、ちらとも浮かばない。
とにかく、エンジュにとって預けられた紙片は「信頼の証」だった。それをざっと眺めた後、青年から次の指示が出される、それが通例だったので、青年がこちらを見てくれたら、すぐにでも青年に質問をぶつけ、彼の真の目的を聞きだす、エンジュはそう決めていた。じりじりしながら、青年が紙片から顔をあげるのを待つ。
が、青年は、今日に限ってーエンジュが詳しい話を聞き出そうと一大決心をしたこの時に限って、難しい顔をしてリストを眺めるばかりで、目があうどころか、顔をあげようとさえしない。
その場の状況を全く鑑みず、自分の言いたいことを一方的に言い募るのが基本のエンジュにしても、言葉を発するのをためらうほど、今日の銀髪さんは難しい顔をしていた。
それも無理はなかった。
相変わらず女子学生との接触は捗捗しく進まず、しかも、エンジュが手づから作成した女子学生のみを抜き出した名簿はもう、半分以上、打ち消し線が入っているーそれを眺めて、青年はしかめ面をしていた。
打ち消し線の入っている名前はランダムでーつまり名簿の上からとかアルファベット順とかいう明らかな法則性は見出せなかったが、青年が接触する人物を何らかの優先順位をつけて選んでいるのは確かなようだった。
優先順位の高い人物との接触は悉く失敗に終わり、しかも名簿の残数は半分を切っている、のが現況だ。そして、それは、彼の判断基準でいえば「あまり有望でない」女生徒との接触しか残っていないということでもあり、しかも、今までの実例を鑑みるに、彼の内部で有望でない人物との接触も、上手くいくかどうかはわからないー何せ、彼らは、何故自分が接触しようとした人物からは、なべてよそよそしくすげなくされる一方で、眼中にない女生徒に限って積極的に近づいてくるのか、その理由がいまだにわかっていなかった。
彼らには共に友人と呼べる人物が学内にいないー自分から人との接触を避けてきたという点で2人は同類だったからーために、富裕層の女子の間で出回っている「資産家令嬢なら誰でもいいとばかりになりふり構わず婿入りしようとしているらしい傍流王族」に関する噂を耳にする機会が全くなかったからだ。富裕層の子女と直接の知遇がなくとも、その友人知己を通じて、普通の人付き合いさえあれば自ずと伝わってくる話題や情報が、彼らには全く入ってこなかった。
まず、青年は頭から普通の学生に立ち交わることなど考えていなかった。彼にとってこの学園は一種の軟禁場所でしかなかったことに加え、彼は自分以外の人間を3通りしか知らなかったー敵と、自身のために働く配下、および自身に搾取されるためにいる名もなき民衆、その3者だ。そして後二者は彼に奉仕するために存在しているという意味で一括りなので、つまり、彼は、他者との間の関係性は「敵対」か「自分に奉仕する存在」の2種しか知らない。この両者とも彼とは対等でなく、敬意を払ったり、好意を寄せたり、手を取り合って協力して何かを為す存在でもない故に、彼の精神世界には、交友関係や人づきあいという概念そのものが、元来、存在しなかった。存在しないゆえに、彼はその必要を感じたこともなかった。
一方エンジュはエンジュで、自分さえ胸襟を開いていれば、女子寮の縦横の人脈は様々な面で有用、硬軟取り混ぜた情報交換にも不自由しなかったのだが、彼女にはその価値も喜びも楽しさもわからなかったので、とても恵まれた立場に居ながら、それを全く活用できていなかったし、本人はそれに気付いてさえいなかった。
優越感と劣等感の振幅が激しすぎ、言葉を交わせば、人を不愉快にさせるか自分が傷つくかという両極端な人間関係しか結べないエンジュは、入学式とオリエンテーションを終える早々に頑なに周囲に心を閉ざし、そして、今もそのままだ。心を鎧で覆い、人との関わりを敬遠することでしか自分を守れない、エンジュはそう思い込んでいた。そんな人間に普通の人づきあいを望むのはおよそ無理というものだった。
そして青年は、自身が「交友」や「社会性」というものを意識したことがなかった故に、眼前の少女が、人づきあいとか人間関係に関しては、うすら寒いレベルだということにも気づいていなかった。
こんな訳で、周囲に目と耳と心を開いていれば自ずとわかることが、この2人はそれぞれにわからなかったし、自分たちが、情報を得ていない、得にくい立場を自ら取っていることにすら、気付いていなかったし、ましてや「何故、目当ての女生徒は自分との接触を避けるのか」の理由を探ろうなどと考えたこともなかった。
他者との関係を軽んじ敬遠してきた、それは報いであったが、その傲慢さ、もしくは被害者意識故に彼らは自分たちが情報貧者であり弱者である自覚がなかった。いつだって彼らのような人種は「自分のシナリオ通りに動かない周りの人間が悪い」と考え、周囲を恨むか、不遇を嘆くばかりで「もしかして自分にも何らかの原因があるかも」などとは、ちらとも考えない。過去「不当に王位から遠ざけられた」と拗ね、周囲を恨み、酒浸りの日々を過ごすばかりだった青年と、「自分は何も悪いことをしていないのに、誰からも必要とされてこなかった」と己の不遇を嘆き、怒るか逃げるばかりだった少女は、確かに「同類」「似た人種」であった。その意味でエンジュがこの青年に親近感を抱き、惹かれ心酔したのは、ある意味当然の帰結だと言えた。
ただ、どれ程周囲に責任転嫁をなそうとも、事態が彼らの思い通りに上手くいってないないことだけは、否定しようがない。ために青年の苛立ちは募るばかりだ。
その苛立ちを少しでも紛らわせるためにか、青年は、忌々しげに名簿を眺め小さく舌打ちをしながら、誰に聞かせるともなくこうつぶやいた。
「クラウゼウィッツの子弟が女でありさえすれば、こんな、いらぬ苦労をせずにすんだものを…」
「クラウゼウィッツ?…って、あの、オスカー・クラウゼウィッツ?」
エンジュが半ば驚き、半ば嫌悪を感じさせる口調で、思わず、青年の漏らした言葉を聞き返した。
エンジュは、自身の決意ー彼の真の目的をどうにかして知りたい、今日こそ教えてもらいたいということで頭がいっぱいだったので、青年の苛立ちを感じても、気を悪くすることも萎縮してもいなかった。エンジュの神経は、いつ、どうやって己の質問を切り出すか、自分が口を開いていいタイミングを計ることに全て注がれておりー自分のやりたいことにのみ気が行っており、目の前の青年の機嫌や考えにまで気が回らないし、回さずにいたからこそ、遠慮も躊躇もなく、青年の言葉に即座に反応した。
もともとのエンジュは、自分の考えに囚われてしまうと、周囲の言葉は何も聞こえないし、状況も見えなくなる。そして、思い込みが臨界点を突破すると、考えていたことを言葉にして口にせずにはいられないし、やりたいと思ったことは行動に移さずにはいられない。だから、唐突に場違いな発言や質問をしたり、状況にそぐわない行動をいきなり起こして、周囲を当惑・困惑させてきた。そして「いきなり、何を言い出すんだ」「今がどういう状況かわかっているのか」と窘められたり、怒られたり、呆れられたりを繰り返してきた。今また、このまま、青年の苛立ちには頓着せず、エンジュが自分の聞きたいことだけを聞きだそうとしていたなら、それはいつも通りのエンジュの振る舞いといえたのだが…
しかし、この時、青年がつぶやいた「クラウゼウィッツ」の一言は、珍しく、エンジュの耳を素通りせず、意識野に届いた。エンジュにとって「クラウゼウイッツ」の名は、良い意味でなく聞き逃せないものだったからだ。今、エンジュの唯一の話し相手であるアンジェリークは、週末は寮に居らず、相談したいことがあってもできない、それは全てこの人の所為だ、と、エンジュはある種のライバル意識と被害者意識と反感の混交をオスカーに対して抱いていた。その上、名簿性別チェックをしていた時、見とがめられ、問い詰められ、バカにされ、嫌な思いをさせられた、とも思っていたので、なおのこと、その名はエンジュの神経にひっかかったのだった。
そして、このエンジュのオウム返しの問が、これも珍しく、青年の興味を喚起した。許可無しに少女が口を開くことなど、本来、許されざるべき無作法なのだが、青年にとっても「クラウゼウィッツ」は、看過しえない名だったのだ。
「その口ぶり…おまえはクラウゼウィッツの子弟を個人的に知っているのか?」
「あ、ええと、言葉を交わしたことがあります」
「この学園に在籍しているクラウゼウィッツは男だ、残念なことにな…子女であれば、真っ先に接触を試みたのだが…そして、俺は男に接触しろと命じていない、なのに、お前は、何故、どこで、クラウゼウィッツの子息と言葉を交わす機会があった?調査対象と勝手に接触したのか?それとも、この男の方がおまえを目にとめ、向こうから声をかけてきたとでもいうのか?ならば重畳なのだがな。お前を通してクラウゼウィッツとの接点ができる。で、おまえは、真実、クラウゼウィッツの子弟と知り合いなのか?もし、そうなら、どういう…どの程度の関係だ?単なる顔見知りか、それとも…」
青年の口調は半ば詰問、半ば嘲笑の色がにじんでいたが、エンジュは、それを気にするどころではなかった。「クラウゼウィッツ」の一言から思いもよらぬ方向に話が展開し、たたみかけられるように問い詰められたことでーそれは青年の焦りと苛立ちの表れだったのだろうがーエンジュはパニック寸前になってしまった。
『なんで、銀髪さんは、あの赤毛の青年の名前を出すの?クラウゼウィッツは女性ではないのに、何故、こんなに気にしてるの?銀髪さんは元々、女性との接触が目的ではなかったの?なのに、何故、ここでアンジェの彼氏のオスカー・クラウゼウィッツのことを、こんなに突っ込んで尋ねてくるの?オスカー・クラウゼウィッツと私がどの程度の知り合いって…そんなの何もないわ、なのに、何故、銀髪さんは、そんなことを知りたがるの?どうして?どういうこと?』
青年が、自分の言葉に喰いついてきたーこんなにも興味を示してくれたのは初めてで、しかも、一時に幾つもの問いを投げかけられ、その一方で自身の頭の中は「何故?」「どうして?」という疑問が渦巻いていて、エンジュは混乱の極みだった。それでも、なんとか、青年の問にきちんと返答せねばという義務感で
「いえ、あの、その、私は親しいわけじゃなくて…オスカークラウゼウイッツは、私と同じ女子寮に居る子の恋人…彼氏で、よく、その子を寮まで送り迎えしてるので、女子寮では有名人で…」
青年の問いかけに対し、しどろもどろに、脈絡のない、自分の知っていることを羅列した。そんな返答をするのが精いっぱいだった。名簿の性別調査中に、見つかって声をかけられてしまったことは言いだし辛かったし、オスカーと言葉を交わしたことはあるが、それだけーオスカー本人とは何の知遇も関係性もないので、どう説明したらいいのか、窮した末だった。が、幸い、銀髪の青年は、エンジュをとがめることなく、オスカークラウゼウィッツに更なる興味を示しただけだった。
「寮生の恋人?クラウゼウィッツの男は、女子寮にいる女生徒と交際しているのか?」
「ええ、私と同じ年で、同じ寮住まいの女の子が、その、オスカー・クラウゼウィッツって人の彼女ー恋人なんです」
青年は一瞬見せた興味を、急速にしぼませたようだった。
「クラウゼウィッツは世界有数の資産家だ、その一族の男なら周りに女が群がってくるのは当然のこと、金目当ての女に不自由はしない、その女も、そういう類の一人だろう」
「そ、そんなことないみたい…です、だって、オスカーって人は、その女の子とずっと付き合ってて、熱愛で有名で、婚約してるも当然だって他の寮生が騒いでいたから…」
「婚約?その女は、クラウゼウィッツの婚約者?だというのか?一時の遊び相手ではなく…」
一呼吸おいて、青年はねめつけるようにエンジュを見据え
「それは確かなのか?」
と念を押してきた。
「は、はい、確かです、だって毎週末に、その、オスカーって人は、必ずアンジェを寮に迎えに来て一緒に週末を過ごしているし…確か、入学してから、ずっと、そうだし…あ、そうだ、そういえば知りあって三年とか…そう言っていた覚えがあるから、入学してからどころか、ずっと長いことおつきあいしてるに違いないわ、そうにきまってます」
クラウゼウィッツとデュカーティの性別を調査中、その奇態を見とがめられ、よりによってアンジェの知り合いだったその2人に『何用か』と問い詰められて、嫌な思いをした時のことをエンジュははっきり思い出した。
あの時、オスカーって人は、アンジェから、何か、私のことを聞いていた、そうにきまってるのに、「アンジェから人の悪口を聞いたことは、この三年、一度もない」って偉そうに言い切った…そうよ、そうだったわ、私、よく覚えてるもの!
その記憶と、クラウゼウィッツに意趣返ししたいような気持がない交ぜになって、エンジュは、鬼の首を取ったように意気揚々と、断言してしまった。
加えて、せっかく銀髪さんが、珍しくも、自分の話に興味を示し、耳を傾けてくれている、この機会を逃したくない、そんな気持ち、欲がエンジュの心に芽生えた所為もあった。
自分の言葉に興味を示し、積極的に耳を傾けてくれる聴衆がいると、語り手は、もっと聞き手の気を引きたい、もっと注目されたいという誘惑に抗しきれず、話がついつい大げさになりがちだ、しかも、エンジュは人に話を聞いてもらうという経験自体が、ほとんどない、ために、聞き手である青年に迎合するように、大きくうなずき…調子づいて、更に、こんな言葉を付け加えた。
「だって、私が週末にアンジェに用があっても、いつもその人がアンジェを連れ出して、週明けまで寮に帰さないから、私、アンジェとなかなか話もできなくて…女子寮でもアンジェ…その女の子とオスカークラウゼウィッツの熱愛は有名です、誰でも知ってます」
周囲の女子が羨望と憧れのあまりきゃーきゃー騒いでいるのを、エンジュは思い出し「うん、これも本当のこと、私、嘘は言ってない」と自分に言い聞かせた。
青年の瞳がほの暗く輝いていることに、エンジュは全く気付いていない。
「ふむ…それで、お前はその少女とは、どうなのだ?それなりに懇意だというのか?」
「え、ええ…」
ためらいがちにエンジュは肯く、実際、唯一といっていい話相手だ、これも嘘ではない。
「ふん…なら、お前に命じる、そのクラウゼウィッツの婚約者とかいう女と我が会って話せるよう、段取りをつけろ」
「え?ええ?どうしてですか?だって、アンジェは、リストにのってないし…第一、もう婚約者がいるし…」
「だからこそ…いや、それが何か問題か?」
「だって、アンジェは、元々リストの中にいないじゃないですか?なのに、いきなり、どうして…それに、さっき、気にしていたのはクラウゼウィッツの名前で、クラウゼウィッツは男性で…なのに、アンジェと話してみたいって、どういうことなんですか?」
「そんなことはお前には関係ない、おまえは我に命じられたことをしていればいい」
「でも、でも、その、人の役にたつには、その人の目的とか希望を知ってないと、手助けが的外れだったりすることもあるから…そう、そうです、私、今日は、銀髪さんに、その、ほんとの目的とか教えてもらいたくて!そしたら、もっと、上手に役立てるようになれるんじゃないかと思うから…あの、教えてください、銀髪さんの目的?目指すものって何なんですか?クラウゼウィッツを気にしてたのは、どうしてなんですか?なのに、実際に、会いたいのはオスカークラウゼウィッツじゃなくて、アンジェって、いったい、どうしてなんですか?何故…?」
エンジュは胸にためていた疑問をこの機に一気に解き放った。
疑問を感じたら口にせずにはいられないし、結局のところ自分のことしか頭にない、という鈍感さが、蛮勇ともいえる力をエンジュに与えた。
すると、意外なことに、青年は多少皮肉気な笑みを浮かべつつも、快くエンジュの問に応えてくれた。
「ふん…なら、教えてやる。我の必要とするもの、を、クラウゼウィッツが持っている」
厳密にいえば青年の欲する物を持っているのは「クラウゼウィッツ」だけではない、世界中に同業他社は無数にあろう。
が、取引を有利に進めるカードをみつけたのなら、それを使わない手はあるまい?
先刻までの苛立ちが、嘘のように晴れ渡った気分、見えなかった展望がいきなり開けた気持ちで、青年は、笑みが浮かぶのをこらえられなかった。
「我はクラウゼウィッツと取引するために資金を必要としていた、今までの人探しも、結局はそのためだ、が、我とクラウゼウィッツを橋渡ししてくれる存在があるなら…それでもう十分だ。恐らくその女は我の役にたってくれるだろう…」
「あの、それ、どういうことですか…もっと、あの…詳しく、教えてもらえませんか?」
青年は、珍しく上機嫌にエンジュの問に
「よかろう」
と言葉をつづけた。
月曜日の朝、最寄駅からスモルニィ大学正門へと続く道は、登校する学生の群れでごった返し、大層にぎやかだ。
しかしオスカーとアンジェリークは、その喧騒に巻き込まれることなく、キャンパスに向かっていた。
オスカーの自室は、大学を挟んで駅と反対方面の、しかも遠すぎずの距離にある。なので、月曜の朝はそこから2人、徒歩で登校するのが、恒例となっていた。
車の方が無論早いのだが、オスカーとしては、運転に気を取られ、アンジェリークの顔も見られない車登校より、アンジェリークの顔を見つめながらそぞろ歩き、時折肩を抱き、ふとした拍子に軽く唇に触れたりもできる徒歩での登校の方が、明らかに楽しかったのだ。
この週末の密で幸せな時間の余韻を楽しみつつ惜しみながら、オスカーはアンジェリークを比較文化学部棟に送り届け、昼食の約束をした後、己の経済学部棟に向かっていった。
そして、この日、極平穏に午前の授業が終わり、オスカーと待ち合わせしているカフェテリアに向かおうとした時、アンジェリークはオリヴィエから昼食を一緒にお願いしたいというメールを受け取った。アンジェリークは「喜んで」と即、場所と時刻を返信する。
その待ち合わせ場所ー経済学部棟から近いカフェテリアの窓際の席だーに到着すると、すでに、オリヴィエが人待ち顔でテーブルについていた。アンジェリークは、急ぎ、そのテーブルに駆け寄ると、着席する前にぴょこんと頭を下げてオリヴィエに挨拶する。
「オリヴィエ先輩、こんにちは!お待たせしちゃいました?」
「いやいや、私が早かっただけー」
オリヴィエがひらひらと手を振り、自身の向かいの席に『ま、座んなよ』と促すので、アンジェリークは素直に着席した。
「あれ?でも、オスカー先輩はまだ、いらしてないんですね、ご一緒じゃなかったんですか?」
「あいつは単位上限ぎりぎりまで授業取ってるから、忙しくてねー、けど、もう、おっつけくると思うよ、あんたと過ごす時間は、あいつにとって最優先・最重要だからね。じゃ、その貴重な時間の邪魔にならないよう、あいつが来る前に私の話を済ませちゃうかな」
「そんな、オリヴィエ先輩…あ、けど、私に何かご用事だったんですか?」
「ん、実はねー、近々、キャンパスで、ミニファッションショーをやりたいと思ってるんだ」
と、オリヴィエは「アンジェリーク知名度向上作戦その1」と密かに命名していたアイデアをアンジェリークに告げた。無論、その真意は伏せて、だが。
「ミニファッションショー?ですか?オリヴィエ先輩」
「そ、次のシーズンの新作のモニタリングをしたいんだよねー、スモルニィ女子の間で評価が高ければ、市場に出してまず間違いない、逆にうちの女子に受けないのは、要・再検討のデザインってことだからねぇ、そういうの、早めにチェックしたいんだ、だから、アンジェもそのつもりでいてほしんだ」
「はい、わかりました。それで、具体的な日程のめどは、もう、立ててらっしゃるんですか?」
「細かい日程は、学生自治会からメインストリートの使用許可が降りてから。だけど、小規模でいいから、できるだけ早めに…文化祭準備が本格化する前にやっちゃいたいんだ」
なにせミススモルニィの予備投票前に、アンジェリークの認知度および好感度UPのための計画なのだ、投票締め切り後にショーを行っても意味はない。となると、十分な準備期間があるとはいえないが、まあ、服はなんとか用意できるだろう。オリヴィエの頭の中には無数のデザインのアイデアが詰まっている、今回に限り、制作はアウトソーシングも考えよう、裁断・縫製はある程度の外注もやむを得ない、とオリヴィエは計算する。
すると、アンジェリークが少し心配そうに、オリヴィエにこう言った。
「はい、じゃ、いつでも大丈夫なように、お肌とか、いつも以上に念入りにお手入れしておきますね!あ、でも…ファッションショーだと、私1人ではどうしても着替えの時間に、観覧の方をお待たせしちゃいそうな気がするんですけど…」
「ん、そーなんだよね、撮影と違って、ショーは、その場での時間勝負になるからね、もちろんあんたは私のブランドのメインモデルだから、1番多く登場してもらう、ただ、衣装チェンジの合間につなぎのモデルは確かにどうしても必要になる。なので、とりあえず1人はロザリアにお願いしようと思ってる。できれば、あと1、2人、サブのモデルが欲しいところだけど…というわけで、アンジェ、あんたと仲良しで、ショーに出てもいいよって言ってくれそうな子に心当たりあったら、声かけてみてくれる?あくまで、うちうちのイベントなので、学内で公募とかはしない…あんまり大仰なものにしたくないから、声かけるのは知り合い位にとどめたいんだ」
今回のショーは、アンジェ以外のモデルはあくまでステージのつなぎであり、言わば、アンジェの引き立て役になってもらわないと困るわけで…そんな条件を明示して募集をかけてもモデルが集まるとは思えないし、その意図を隠して募集をかけ、現場で「引き立て役」と察せられたら…アンジェへの反感を募らせてしまっては元も子もない。だから公募はしないと、オリヴィエは決めていた。アンジェと仲良しで、アンジェに気持ち良く協力してくれそうな、元々友達の子とかのほうが安全だ、ならば、アンジェ本人に推挙してもらうほうが確実だろう、そして、そういう子が見つからなければ無理にモデル増やすことはない、とも。
「けど、急な話だから、贅沢はいわない、無理はしなくていいからね。他にモデルがみつからなかった時には、ロザリアがサブ、あんたがメインモデルとして相当頑張ってもらわなくちゃならないけどね?いい」
「はい!がんばります!」
「よし、いいお返事!」
アンジェリークにオリヴィエの真の思惑がわからないように、この時、オリヴィエは、自分が何の気なしにいった一言「できれば、あと、1,2人、サブのモデルが欲しい」という、ショーの円滑な進行を考えれば当然の言葉を、アンジェリークが聞いて、何を思いついたかまでは、気付く由もなかった。オリヴィエの本音は、今回に限れば「モデルは信用できる人物だけでいい、人繰りも進行も難しい事は承知だ」というもので、「できれば」という言葉は「いなければいないでOK」という意味合いであったが、そんな底の底にある本音をオリヴィエは漏らすはずもなかった。「モデルは多い方が、ショーが円滑に進むのは自明なのに、いなければいなくてもいいと考える理由は何か」と、アンジェリークにいぶかしがられても、説明できないからだ。
なので、アンジェリークが生来の親切心と素直さから「私が忙しいのは全然構わないけど、ショーの円滑な進行を考えたら、ロザリア以外にもモデルがいたほうがいい。私も心当たりの人にすすんで声をかけてみよう」と考えてしまうのは、ある意味、自然な流れだった。
そして、この時、アンジェリークは、今だ、いたずらにサークル見学を繰り返すばかりで、所属サークルを決められず、そも、勉学に専念するのか、課外活動にも励むのかすら決心できていなさそうな同学年の女生徒のことが、頭に浮かんでいたのだ。
最初から諦めるか、言い訳するばかりで、自ら動こうとしなかった同学年の女生徒が「やらない・できない理由」をあげつらうのをやめ、まず、実行とばかりに、外に目を向け始めたのは、とてもいいこと、健全なことだと、アンジェリークは考えていた。幾つもサークル見学をし、そのうちのどこかに所属すると決めれば、学校は勉強する場でもあると同時に、学生時代でしかできない様々な経験をできる場でもあることも、その楽しさも、エンジュにもわかるだろうし、広い世界や多くの人をしるほどに、目が開き、心が開いていけば、エンジュの頑なさ、狭い視野での思い込みの激しさも緩和されようし、それは、彼女自身も周囲にも喜ばしいことだと思い、アンジェリークはエンジュのサークル見学を全面的に応援してきた。心のうちで応援するのみならず、実際面ー見学手続きの方法とか、サークルの活動場所や時間がわからない時の調べ方を教えてあげたりなど、具体的な支援を惜しまなかった。
が、最近、アンジェリークはエンジュの行動を、訝しみ、おかしいと思い始めていた。
次から次へと、様々なサークル見学をしたい、と言いだす。ここまではいい、エンジュは、自分が何をやりたいとか、何に興味があるとか、何が得意とか、自分で自分ことが、よく、わかっていなさそうだったから。エンジュは、自分自身と向き合ったことが、多分、ない。内省をした経験がない、と言い換えてもよかったが、エンジュは自分が何を望み、何に自分は興味をもっているのか、考えてみたこと、自分に問うてみたことが、恐らく、ないように思えた。
だから、自分のやりたいこと、自分に向いていることが何なのかわからない、それなら、片っ端から、試してみるしかない。少なくとも動く気になったのだ。「どうせ」といって何も動かないよりずっといい、と思ったから、アンジェリークは惜しまずバックアップをしてきた。
しかし…エンジュは一向にサークルを決める気がなさそうだった。ただ、ひたすらに見学を繰り返すばかりで。
見学にはしょっちゅう行くのだが、アンジェリークが「どうだった?」と印象を問うても、はかばかしい返事が返ってきたためしがない。気にいらなかった、自分に合わないと思った、というのなら、わかるのだが、気に入ったのかそうでないのか、エンジュの態度ははっきりしなかった。妙に曖昧に言葉を濁すばかりで。エンジュが、はっきりと意思表示したのは、よくも悪くもロザリアのオケ部に行って「案内を断られた」と激昂した時だけだった。
気に入らない、興味が持てないと断言するでもないのに、エンジュは次から次へとサークル見学に出向き続けた。そして、どのサークルを見にいっても、どこにも入部したがる気配を見せない。
それ以上に、エンジュの行動が不可解だと思わせることがあった。おかしいな、とアンジェリークがはっきり感じたのは、1度、見学に行って、良いとも悪いとも判断しなかったサークルを、再度ーこれはまあ、決めかねてもう1度見てみようということはあるだろうと思うのだがーどころか、3度も4度も、間をおいて同じサークルを見に行きたいと言い出した時だった。
それは、エンジュのサークルの選定方法ゆえ、のようだった。
エンジュは「興味がある」サークルを見学している、というよりは「○○さんがいるから」ー知人がそのサークルに属しているから、という理由で見に行くサークルを選んでいた。アンジェリークにサークル見学の助言を求める時、「○○さんがいるのは、なんて言うサークルか、わかるか?」という聴き方をし、調べ方を教えると、そのサークルを訪ねるという方法をくりかえしていたからだ。
そして、いつも決定打を得られないのか、この人を訪ねて色よい返事をもらえなかったから、次はあの人を頼っていく、というばかりに見学を繰り返す、ために、同じサークルを2度3度と見に行ったりする。それでも所属サークルを決めない、決められないのだ。
迷っている、とか、決め手にかけて悩んでいるという風でもなく、単純に知人の様子を見るために、サークル見学を繰り返しているようにすら、アンジェリークには見える。
まるで、サークル見学それ自体が…ううん、知り合いの名が変わる度に、エンジュは同じサークルでも、必ず足を運ぶのだもの、「あのサークルはこの前見にいったから、雰囲気はわかってるわ」なんて、1度でも言ったことあったかしら?つい最近見学したサークルなら、そういう反応でもおかしくないのに、エンジュは必ず、馬鹿正直に、違う知人の名前を挙げて、そのサークルの活動場所に赴く。サークル見学そのものより、まるで知人を尋ねること、それ自体がエンジュの目的であるみたい…でも、そんな行動に何の意味があるの?
エンジュの行動が、その背後の意図が、アンジェリークにはどうにもわからなかった、不可解だった。
それとも見学して、知り合いに会ったら、それだけで何かやった気になって満足しちゃうのかしら?それとも、知り合いを訪ねてサークルを訪ねたはいいけど…たとえば、実際には興味もやる気もないのに「○○さんがいるから、入部する」なんて理由で参加されても嬉しくない、むしろ迷惑だ、というサークルもあるだろう、特に真面目に技術を追求したり、競技に勤しんでいる厳しいサークルなどは…けれど、エンジュは、やんわりと「そういう理由での参加希望は困る」と言われても意味がわからないのかもしれない。もしかしたら、それで、エンジュのサークル選びは迷走しているのかもしれない。
そも、エンジュに、名前だけとはいえ、そんなに多くの知り合いがいたのかということ自体が、思えば不可解なのだが…
けど、やる気も興味もないけど、知り合いがいるから、という理由だけでうちに来られても困る、というサークルもあるのだ、と…諫言してエンジュがそれを理解できるかどうか…仲良しと一緒に活動したい、というのが動機として、幼稚ではあっても、悪いとは言い切れないし、そういう人やサークルも実際あるだろうし…
けど、このままじゃ、何によせ、よくない、とアンジェリークは思っていた。
やみくもに知人を頼ってサークル見学をしているばかりで、このまま、何もしないまま…サークルが決まらないまま、ずるずると時間が経って試験や休みに入ってしまったら、時期を逸した、気がそがれたといって、あの子はまた引っ込み思案に戻ってしまいそうな懸念があった。
だから、サークルが決まらない、決められないなら、何でもいい、とにかく、とりあえず、場つなぎ的に何かのイベントに参加したほうがいい、人と繋がって何かを成し遂げて、達成感とか充実感を味わって…多くの人と協力することで初めてできることがあるという気付ければ、仲間と一緒に一つのことを作り上げていく楽しさを1度でも知ることができれば…もっと、本気で…「○○さんがいるから」なんて理由でなく、自分がやりたくてサークル活動してくれる気になるかもしれない。サークル選びが今以上に長引いても、風船がしぼむみたいに、いつの間にか尻込みしたり、やる気を失ったりしないよう、勢いをつけるっていうか、エンジンをかけておいた方がいい。
『うん、声をかけてみよう、エンジュに』
そんな風にアンジェリークは考え、心に決めた時だった。
「オリヴィエと、何をそんなに熱心に話しこんでるんだ、俺のお嬢ちゃんは…」
低く甘くしっとりとしてセクシーな声音が耳に響き、同時に柔らかく暖かなものがアンジェリークの頬に触れた。
「!!!…オスカー先輩」
遅れてやってきたオスカーは、アンジェリークを後ろからはがいじめするように抱いて、逆の頬にも口づけた後、ようやく、アンジェリークの隣の席につき、優しく悪戯っぽい笑みをアンジェリークに投げかけた。
「…あの、その、ファッションショーの話です…」
その笑みと予期せぬ頬へのキスで、ドキドキとときめきにくらくらしてしまって、アンジェリークは要領のえない返答しかできない。そんなアンジェリークに助け船を出すように、オリヴィエが
「妬かない、妬かない。事実、お仕事の話してただけだしー。とはいっても、あんたのお嬢ちゃんを更に綺麗に魅力的にして、学内でお披露目しちゃおうって計画だから、結局、あんたをヤキモキさせることには変わりないかも、だけどねー」
と、いささか悪い笑みを浮かべて告げた。
すると、オスカーもにやりと笑い返しーオリヴィエの真意を汲んだがゆえに
「ほう、それは楽しそうな計画だな、俺にも詳しく聞かせろ」
と、余裕綽々の構えをみせる。
2人が話す間にようやく人心地つきかけたアンジェリークが
「オリヴィエ先輩が、学内でファッションショーをなさりたいんですって、それで、その打ち合わせを…あ、でも、お話の前に、ご飯、取りにいきません?私、お腹すいちゃいました」
と、無邪気に朗らかに2人の青年に話かけ、青年たちの優しい笑みを誘った。
この愛くるしい少女の笑みを守りたい、何の憂いも心配も感じさせたくない。オスカーとオリヴィエは改めてそう思う。
彼女なら十中八九ミス・スモルニィの決勝に残るだろうし、されば学内での知名度・注目度もあがり、文化祭が終わるころには、プライバシーは多少犠牲になるも、彼女の安全度は相対的に増すだろう。
『文化祭が終われば、一安心だ』
2人の青年はそう考えていた。
彼らが、綿密にじっくりと、さりげない形で彼女を守ろうとした、その方法は、本来なら、決して間違っていなかった。事態や状況が急変する予兆や、そう予測するだけの判断材料は彼らにはなかったのだから。
『大変なことを聞いてしまった…』
エンジュは週明けの授業を終えて帰寮したところだった。
過日、銀髪の青年から話を聞いて以来、何度、そう思ったかわからない。そう、思いながらも、エンジュは、酷く興奮し、高揚しており、その高揚は週末からずっと続いている。その瞳は熱に浮かされたようで、足取りは急いているのに、どこかおぼつかない。
今日は授業中も身が入らず、うわの空もいいところだった。
こんなにも気持ちが昂ぶるのは、大学に合格した時以来だった。実際に入学式を迎えると、エンジュは大学の雰囲気ー人の多さ、皆が自分より華やかで自信ありげに見えることなどに気押され、怖気づいてしまい、誰とも交わらないという頑なな鎧で身を覆うばかりで、せっかくの大学生生活だというのに、「自分は1人で何でもできる」と虚勢を張りつつ、実際には身を縮めこめて生きていたのでー楽しい、とか、心が躍るとか弾む、なんて状態を、まったく忘れていた、というのにだ。
エンジュは、今、思い切って青年に尋ねてみて、本当によかったと思っていた。
思い切って、銀髪さんに真意、目的を尋ねた、役に立ちたいからだと明言したおかげか、銀髪さんは、きちんと答えてくれた。
『アンジェの言った通りだったわ。人の役に立ちたいとか、助けになりたいって、きちんと伝えて、望むところを尋ねれば、教えてくれるって、少なくとも、その気持ちは通じるってアンジェの言った通りだったわ…』
その結果、驚いたことも多かったが、すっきりしたことも多かった。
何よりの収穫は、銀髪さんは「お嫁さん」を探していたわけではない、と、わかったことだった。
『だって、銀髪さんは、言ったもの、本当はクラウゼウィッツに援助を求めたかったんだって。クラウゼウィッツとわたりがつくのなら、もう、これ以上女子学生に会う必要などないって…』
なのに、何故、自分自身でクラウゼウィッツに直接、接触を図ろうとしなかったのか、それは、その時、エンジュが感じた疑問だったが、青年に「女性の方が、困った人間には、優しく、親身になってくれるものだ」と言われ、更に
『我は、クラウゼウィッツの扱っている物を必要としている、しかし、それは非常に高価なものなので、我は、資金援助に応じてくれそうな資産家の協力が必要と考え、資産家の息女に接触を試みた、困難を抱えている異邦人を見捨てておけないような性情は、男性より女性に多かろうと考えてのことだ。が、クラウゼウィッツから直接協力がえられるのなら、資金援助はもはや必要ない、ゆえに、おまえももう、リストに挙げた子女に接触する必要はない』
と言われ、あっさり納得してしまった。
『そうよ、銀髪さんは、困っている、可哀そうな異邦人なのよ、そんな困ってる人を助けるのは、良いこと、正しいことで、それに協力してくれないわけがないわ。でも、あの、オスカーって人は、少し、気難しそうだったし、私が、性別を調べてて、たまたま、言葉を交わした時も、ちょっと意地悪な感じだったし、銀髪さんが、直接、援助をお願いしても、いい返事はもらえないかもしれないって思うのも無理ないわ』
だから、アンジェにークラウゼウィッツの婚約者に仲介、橋渡し、紹介、なんでもいいけど、そういうのをしてもらう必要があると言われれば、それはそうだろう、とエンジュは、更に納得してしまった。
その上で、エンジュは、自信満々だった。
『アンジェはきっと、ううん、絶対、協力してくれる、私が頼めば、銀髪さんに会ってくれるだろうし、銀髪さんが、あのオスカーって人に紹介してくれって言えば、喜んで協力してくれるにきまってる。だって、アンジェ自身が私に言ったんだもの、私、よく覚えてるもの。困っていそうな人には、助けてくれって言う人には、手を差し伸べるって。その人が、ものすごく親しい人じゃなくても…人と人は、色々なところで知らない処で繋がってたりするから、助けあうことって、決して悪い事じゃない、むしろ、良いことだって、アンジェ自身が言ったのだもの。同じ寮生だっていうだけの私の相談にのってくれたアンジェだもの。銀髪さんに会って、話を聞いて、あの人が、不当に虐げられて困っている可哀そうな王子様だってわかれば、きっと、喜んでオスカーって人に、銀髪さんを援助するよう、頼んでくれるに違いないわ』
エンジュは、アンジェリークに早く銀髪さんのことを話したくてたまらなかった。
けど、アンジェは、土曜の朝から、あのオスカークラウゼウィッツと過ごして、月曜はそのまま登校してしまうことも多く、アンジェリークが帰寮するのは、月曜の夕刻が多い。
早く、アンジェリークが寮に帰ってこないかな、それで、アンジェに「ちょっと一緒に行ってほしいところがあるんだけど」って頼んで、銀髪さんの処に連れていってあげなくちゃ。
エンジュは、これから自分が行う「人助け」のことを思うと、胸がわくわくした、使命感に燃えていた。
エンジュは、この時、心から思っていたのだ。私は人助けに頑張っている、人助けのために頑張るのって、なんて充実して、気持ちのいいことなんだろう。と。
それが自分の力ではなく、他人のーアンジェリークの、ひいてはクラウゼウィツの力を当てにしての「人助け」であることを、エンジュは考えもしなかったし、アンジェリークもオスカーも自分のシナリオ通りに動いてくれるのが大前提であり当然のことである、とエンジュは微塵の疑いも持っていなかった。自分が頼めば、アンジェは、自分の思うとおりに動いてくれるに決まってる、そして、アンジェが頼めば、オスカーって人も、私の思った通りに動いてくれるに違いない、と、エンジュは信じきっていた。それは酷い思いあがりだったが、エンジュは「自分は人助けに尽力する善人」である境遇に酔いしれていたので、自分では、その思いあがりに気づくはずもなかった。