防犯上のこともあり、部外者が入ってこれるのは受付のある外エントランスまでだ。宅配や郵便物もこの受付で一括して受け取られ、個々に配布されるし、入寮者に面会したい場合は、受付で呼び出してもらうことになっている。
そしてアンジェリークの帰宅時、オスカーは、いつもこの外エントランスー部外者が入ってこれるギリギリのところまでアンジェリークを送り届けてくれる。
「本音を言えば、君を部屋の中まで送り届けたいところだけどな、お嬢ちゃん。けど、このガードの堅さがあるからこそ、俺も安心できる、痛し痒しだな」
微笑みながらオスカーはアンジェリークの両頬と唇に軽くキスをすると、手を振って立ち去る、それが常だった。
そして、外エントランスの扉が閉まるや、アンジェリークは身を翻し、急ぎ自分の部屋に戻る。名残を惜しまないのではなく、その逆だ。急いで部屋に戻り、すぐ窓を開ければ、オスカーを見送るのにまにあうのだ。自室の窓から、もう1度オスカーに大きく手をふると、オスカーはキスを投げ返してくれ、安心したように笑って帰っていく。アンジェリークが、無事、自室に戻ったのをみて安堵しているのがよくわかる態度であり表情だった。特に最近、オスカーの心配性の度合いが増しているような気がしていたアンジェリークは、オスカーを安心させるためと、オスカーを見送りたい気持ちとで、ほとんど小走りで内エントランスにとびこんだ、その瞬間だった。
「アンジェ!アンジェリーク!」
「きゃ…え?何?どうしたの?」
ロビーに入った途端、大きな声で自分の名を呼ばわれ、アンジェリークは面食らって、立ち止まった。
「アンジェ、私、アンジェに話があるの、お願いがあって、ずっと、あなたの帰りを待ってたの、あなたに聞いてもらいたい話があるのよ」
砂色のおさげを振り乱し、いかにも待ちわびていたという必死の形相で駆け寄ってきたのはエンジュだった。
アンジェリークを驚かせたことは気にとめず、アンジェリークが急いでいる様子だった事も気にかけず、どころか、お帰りの挨拶もすっ飛ばして、エンジュは自分の言いたいことを一息にアンジェリークに訴えかけてきた。
「あ、ああ…エンジュ?だったの?何?私に話?」
アンジェリークは諦めたようにバッグを1度下に置いて、改めて、エンジュの方に向きなおった。オスカーの部屋に2泊し登校、授業を受けて帰ってきた処だったので、大荷物を抱えての帰寮だったし、そのまま立ち話するのはちょっと大変だったのだ。無論、エンジュは、アンジェリークの状況ー今、帰ってきたばかりで、大荷物を持っていることなど目に入らない、ましてや、先に部屋に荷物をおいてきてもらって、話は落ち着いてからにしたほうがアンジェも助かるかも、なんてことは、考えも気付きもしない。とにかく、自分の用件は一大事なのだから、何をさておいても優先しなくては、と考えるのがエンジュだった。とはいっても、エンジュは、決して高慢ちきでもなければ、偉ぶってるわけでも驕っているわけでもない。悪気もない。ただ、自分にとって重要な要件が他者にとっても同じとは限らない、という客観的な視点を持てないが故に、傍からみると、自分本位で我儘な言動を結果としてやらかしてしまうのである。
だから、この時もエンジュは、他意も悪意もなく、アンジェリークの状況も都合もお構いなしに、興奮した様子で、アンジェリークに向かって、こう、まくしたてた。
「ええ、アンジェにしかできないこと、アンジェにしか頼めないことがあるの、アンジェ、前に、私に言ったわよね、助けを必要としている人がいて、自分にできることがあれば力になりたいと思うって」
「え、ええ…それは確かにそう言ったし、実際、そう思ってるけど…」
異様に興奮しているエンジュの様子と、話の展開が見えないことに、少したじたじしながらも、アンジェリークは同意を示す。
すると、それこそ鬼の首を取ったように得意げに、エンジュは
「そうよね、アンジェならそういってくれると思ってたわ!絶対、力になってくれるって!私、信じてた!」
「あの、エンジュ?何のこと?を言ってるの?エンジュは、私に話があるって言ったけど、それは、一体、どんな話なの?」
「あ、ううん、今スグにって訳じゃないの…どっちにしろ、準備があるって言われてるし…でも、どうしても話を聞いて、力を貸してほしいことがあるのよ」
「?…今すぐじゃなくて、いいことなの?」
「ええ、アンジェに聞いてほしい話があって、力を貸してもらいたいことがあるんだけど…じっくり話を聞いてもらいたいの、そしたら、きっとアンジェも事情をわかってくれて、事情がわかれば進んで力を貸してくれると思うし…それで、あさって、授業の後に時間を作ってほしいんだけど」
「え、ええ、それは構わないけど…」
「じゃ、その日は教室まで迎えにいくからよろしくね、お願いよ」
自分のいいたいことだけいい、約束の日時も一方的に指定すると、エンジュは、さっさと自室に引き揚げていった。顔には高揚感がありありと浮かんでいた。使命を果たした充実感と、アンジェリークが自分の思った通りに行動してくれるに違いない、という一種の全能感に満たされ、エンジュの自尊心ははちきれんばかりだったのだ。
だって、アンジェリークは以前「困っている人がいたら、力を貸してあげたいと思う」と宣言したのだし、今も「話を聞くと言った」以上「アンジェが銀髪さんの事情を知ったならば、困っている銀髪さんの要求を飲んで、進んで手助けしてくれる」ことはエンジュの脳内ではもう必然ー決まったも同然だった。
アンジェリークは「話を聞いても構わない」と言っただけで「話を聞く」つまり耳を傾けることと、話を聞いてその要求どおりに動くというのは、全く別物なのだが、エンジュの中ではその2つは区別がついていなかった。
エンジュは「誰しも自分と同じように考え、感じ、行動するのが当然」と信じて疑わないー自分の考えや感覚は万人に共通する普遍的なものだと無邪気に無意識に考えていたので「自分が銀髪の青年を助けたい」と思うのだから、他の人も青年の事情を知れば青年を助けたくなるのが当然だと信じて疑わなかった。
だから、アンジェリークの困惑に全く気付いていなかった。
そのアンジェリークはといえば、嵐のように現れて、言いたいことだけ言って去って行ったエンジュの後姿に暫し茫然としていたが、すぐに、はっと気を取り直し
「いけない、急いで、オスカー先輩に「無事部屋に戻りました」ってメールしなくちゃ!」
と、荷物を持ち直し、急ぎ自室に向かった。向かいながら、今のエンジュの様子を考えずにはいられなかったけれど。
『エンジュの様子、あれは一体、なんだったのかしら…熱に浮かされたみたいな顔で、言いたいことだけいって、有無を言わさぬ様子で約束を取り付けたら、満足そうに部屋に引っ込んじゃった、私が何か口をはさむ暇もなかったわ。あ、そういえば、オリヴィエ先輩のモデルのこと、エンジュに会ったら話そうと思ってたけど、それ、思い出す暇もなかったわ…』
だが、この時、アンジェリークは、いつにもましてエキセントリックなエンジュの様子に、少々首をかしげたものの、エンジュの一度思い込むと周囲が見えなくなる性質をすでによく知っていたこと、そして、サークル選びが進んでないので「エンジュの話」とは、そちら方面の相談でもあるのだろう位に考えてしまった。
「準備」という言葉、しかも、話があるといいつつ、どこか他人事のような口ぶりであったことになんとはなしの違和感を感じないでもなかったが、どちらにしろ、後日、じっくり話を聞くことになるみたいだし、自分の方からも、その時オリヴィエのモデルをやってみないかと持ちかければいいだろう。そういうお願い事は、エンジュの性格を考えれば、こんなロビーで立ち話としてではなく、落ち着いて話をする方が多分いいだろうし、今になって思えば、すぐ話を切り出さなくてよかった気もするし。詳しいことは、また、日を改めてというなら、その方が結果的によかった、とアンジェリークは考えた。モデルの誘いは、デリケートな話題だ。よくよく言葉を選んで、丁寧に順序立てて用件を伝えないと、話の持って行き方や何かの言葉尻に引っかかり、エンジュがまた「私をバカにして!」と癇症を起こさないとは限らないから。そしたら、せっかくの誘いが逆効果になってしまうから。
それに、アンジェリークも、自室に引き上げて早くオスカーに連絡したい、という気持ちで急いていたので、エンジュの奇妙な振る舞いをそれ以上考えるのはやめにした。
寮内に入ってしまえば安全な事は、オスカーも知っているが、それでも、今日は窓からお見送りができなかったし、一刻も早くオスカーに「今、自分の部屋に無事、戻りました」というメールを送らねば、きっと、オスカーが心配している、と、アンジェリークはその事の方が気になった。
オスカーの心配性ぶりは、このところ、神経質といってもいいレベルだった。無論、オスカーにはそうならざるをえない理由があるのだが、アンジェリークは事情を知らされていないので、オスカーの様子を不可解に思わないでもなかった。それでも、基本、人が良くて優しいアンジェリークは、オスカーに心配をかけないよう、オスカーを安心させるよう、意識していたし、そう努めていた。自分が心配をかけると、オスカーの集中を乱し、勉強の妨げになってしまう、それはいけない、そんなのは嫌だった。オスカーには大事な目標がある、それにまい進してもらうためにも、自分は余計な心配をかけてはいけないと、アンジェリークは考えていた。本音をいえば、ゼフェルのくれたGPSもあるし、そんなに心配しなくても大丈夫、とも思ってはいたが。しかも、そのGPSも、今は、最初に渡された物より更にバージョンアップされていたので、なおさらだった。
最初に渡されたペンダント型GPS1つでも、アンジェリークは自分のような普通の学生には十分すぎるほど高性能だと思っていた。けど、それでもアンジェリークの身をー特に自分が一緒にいられない時のそれをオスカーが案じている様子なので、アンジェリークは
「私が学外にいても、即、危険ってわけではありませんから、そんなに心配しないでくださいね。本当に困った時、助けてほしい時は、必ず、先輩に連絡しますし」
と何度かオスカーに言ったのだが、それでもオスカーは
「本当に危険な目にあった時は、とっさに助けを呼ぶ暇がないかもしれないだろう?携帯電話を取り上げられたり壊されたりする危険だってないとはいえない」
と、すぐ身近に、危険を及ぼす人物がいるかのような口ぶりで、アンジェリークへの心配を隠さなかった。
なので、アンジェリークは、本当に軽い気持ちで
「うーん、なら、危険を知らせられる機能もGPSについてれば、安心ですけど、そこまで求めるのは贅沢すぎですものねぇ、そうだ、警報装置でも持ち歩けば、先輩に安心していただけるかしら。そしたら、逆に、知らせがない限り安全、ってわかっていただけますものね…どこかの警備会社で、そういうの、出してたかなぁ。そういうのがあったら、安心ですよね、今度調べてみますね」
といったことがあった。
すると、後日ー1週間経つか経たないかという頃合いだったーオスカーはゼフェルと共に「お嬢ちゃんの言葉をヒントにこいつに作らせた、GPSバージョン2だ」といって、更に2種のアクセサリーを持ってきたのだーペンダントとお揃いに見える緑のドロップ型イヤリング1対と、やはり緑の石がついていて、揃いにみえるブレスレットだった。
ゼフェルの説明によると、最初にアンジェリークがもらったペンダントは平面の位置情報を示すが、それだけでは、例えば高層ビルに入った場合の階数特定が難しい、ために、新たにイヤリングに言わば高さー3次元の位置情報を補助情報として発信する機能を持たせた、とのことだった。イヤリングは2個1セットなので、ペンダントとの組み合わせで、位置情報の精度もより高まるし、万が一、一つが機能停止に陥っても残りの機器でカバーできるので
「これで全方位、死角なしだぜ!」
と、得意満面でゼフェルは言った。
そして共に渡されたブレスレット、これが一種の警報装置、とのことだった。もし、何か緊急で助けてほしい時、メールや電話する暇もないような緊急時や、携帯電話を壊されたり取り上げられたりした時でも、そのブレスレットにはめ込まれている石ー実際は樹脂らしいのだがーを強く押す、壁や床に叩きつけてもいい、とにかく、そこに強い力が加えられると、自動的に救難信号を発するようにした、とゼフェルは言った。
「おめーのいう通り、便りのないのは無事の証ってシステムにしておいた、そうすりゃ、おめーも、いちいち出先を報告しなくてすむし、連絡を忘れたり、する暇がない時でも、このおっさんを心配させずに済むだろー?おめーも知ってたみてーだが、警報装置自体は、民間の警備会社や企業で作ってるところもあるんだよ、けど、そういうのは、もう一目見て「位置発信器」「警報装置」ってわかっちまう形状なんだな、したら、見とがめられて、その場で壊されたり、取り上げられるかもしんねー、それじゃ、意味ねーからよぉ、GPSと同じで「身につけて不自然に見えず、一見では本来の用途がわかんねー」警報装置を作ってみたんだぜ。つっても、今回は、こいつが(といってゼフェルは、オスカーの方を顎で指し示した)急がせるもんだから、メインの部品は既存の警報装置をばらして、それを組み込みなおしたものだから、100パー俺のオリジナルメカってわけじゃねーんだけどな、けど、だからこそ、こんな短期間で、イッパシのもんができたんだぜ」
少し面映ゆそうにゼフェルは言った。どうも「完全なオリジナル」でないことに、忸怩たるものがあるらしかった。しかし
「すごいわねぇ、ゼフェルは。今まで、みたことなくて、けど、あったらいいなって思うもの、ぱぱっと作れちゃうなんて。しかも、既にある機械を応用流用したなんて、無駄がないっていうか、柔軟性があるっていうか…流石だわ」
とアンジェリークは心から感心して言った。既存の警報装置を分解、主要部品を装飾品に再セットしただけだと、ゼフェルは謙遜したが、その応用力はむしろ思考の柔軟性と、既存の製品への研究を怠らない真面目な努力の結果だとアンジェリークは思ったし、そうゼフェルに率直に告げると、ゼフェルは、耳まで真っ赤になってしまったが。
次いで、オスカーに
「私が、こんなのあったらいいなって思ったもの、オスカー先輩が、すぐにゼフェルに伝えてくれたんですね、ありがとうございます」
と礼をいうことも、アンジェリークは、無論、忘れなかった。
アンジェリークの身を案じて、オスカーが、機敏にゼフェルに働きかけてくれたから、ゼフェルはこうも迅速に新製品を作れたのだろうと察したからだ。もしかしたら、オスカーからゼフェルに資金や資材の提供ーゼフェルが利用した既存の警報装置というのは、アルテマツーレ社製のものだったのであったかもしれないし、そうであっても不思議ではないと考えたこともあって。
しかも、この警報装置は、ブレスレットの形状を持たせた、つまり、手首に接するという特性を生かして、脈拍と体温のモニタリングもできるようになっているとのことだった。アンジェリークに急激かつ異様な脈拍の変化があった場合ー脈が異常に亢進したり、逆に酷く弱くなったりした場合にも、自分の手元にある親機とオスカーの元にあるモニターに警戒警報が行くようになってる、と、ゼフェルは付け加えた。
「だから、このブレスレットは、特に、くれぐれも、気ぃつけて扱えよ。とはいえ、防水にしてあるし、ちょっとぶつけた位の衝撃で誤作動するようなことはねー。注意点はただ一つ、身から離す時は、かならず、このポッチを引っ張ってモニタリング機能をオフにしろ、その一点だ。さもないと、いきなり、おめーの体温を検知できなくなった、すわ、一大事だ、と俺とオスカーと、あと、オリヴィエの携帯に緊急アラームが送られてきちまうからな。オフ機能を引っ張る動作にしたのも「引っ張る」ってのは意識しねーとできねー動作だからだ、押しボタンと違って、うっかり触った、ぶつけた、物を落としたとかでの誤作動が少ないからな。だからこそ、忘れんなよ、もし、軽い気持ちで「うっかりオフにし忘れた」を繰り返したりしたら、おめー、狼少年ならぬ狼少女って思われて、本当に危機一髪って時に「また、うっかり動作か」って思われて、警報機が意味ねーってことになっちまうからな、だから、くれぐれも、いいか、くれぐれも丁重に扱えよ。どんな高性能の機械だって、それを使うヤツの意識がきちんとしてなけりゃ、きちんと動かないし使えない、いいか、どんな機械も道具も、要は、使う側の心がけ次第、なんだかんな!」
ただし、これもあくまで試作機だから、使い勝手の悪いところや、こうするといいと気付いた処は、即・遠慮なく報告してくれ、という注釈もつけて念を押されたアンジェリークだった。
そして、これを貰った時、アンジェリークは感謝と感心すると同時に、こういうゼフェルの姿勢ー機械や道具は、要は、使う人の心がけと使い方次第という一種の職人気質が、オスカーと気があい、また、お互い信頼される所以なのだろうなと、思ったものだ。機械も道具も、正しく用いられるか、邪に用いられるかは、使う人の心がけや目的に依るもので、本来「悪い道具」「良い道具」があるわけではない。それでも、武器というのは、どうしても「まがまがしい、悪い道具」とみなされがちで、それに関わってきたオスカーの半生を思えば「機械は機械であり、要は使う側の問題」と明快に断じるゼフェルの考えは、むしろ小気味よく快いのだろう、ことは容易に想像がついた。
ともあれ、アンジェリークは感謝し恐縮してそれらのアクセサリーを受取、即、身につけ、その日以来ずっと、欠かさず身につけている。正直、ここまで警戒する必要があるのか、ぴんとこない部分もあるアンジェリークではあるが、クラウゼウィッツの一族は、それだけ、身の安全に神経質にならざるをえない、ということなのだろうと、解していた。一般的な富裕層として当然警戒すべき営利誘拐に備えるだけではない、扱っている品物の性質上、逆恨みや復讐という危険にも備えねばならないということなのだろう、それが厳しくも容赦のない現実、せねばならない覚悟なのだろう、と。
オスカー自身、恵まれた体格を生かしての護身術と、個人で携帯できる武器の扱いは幼少時から一通り叩きこまれたという話も、聞いたことがあった。交際が深まり、オスカーから色々話を聞くうちに知ったことだった。オスカーはフェンシングが上手だったが、それも実践剣術の余技だというし、その気になれば銃器も扱えるらしい。自分の身は自分で守るようにと、クラウゼウィッツの男は叩きこまれるらしかった。
だが、自分はと顧みれば、武道や体術向きの体格ではないし、その才能もない、一方、オスカーの婚約者同然ではあっても、正式なクラウゼウィッツ一族にはまだカウントされていないからSPもつかない、つけられない。それを心配して、オスカーはできる限りの安全策を取ろうとしてくれているのだと、アンジェリークはわかっていた。だから、素直にオスカーの勧めに従って、GPSを身につけ、その扱いに細心の注意も払っていた。
が、それでも、アンジェリークには、オスカーの危機意識が、どこか、まだよそ事であったことは否めない。
オスカー先輩は、大企業の御曹司で次期後継者で、仕事で扱う物が物だし、身用心深く慎重に振舞うのは道理であると理解できていたし、アンジェリークも父の赴任で政情不安定な国の所謂ゲイテッドシティ内ー頑丈な塀で囲まれ、守衛が住人の出入りをチェックするような隔絶した町で暮らしたこともあり、そういう国では、外国人のましてや女子供の1人歩きは命取り、移動は車のみで、護身用の装備は必携という状況もあることを、その身をもって知っていたので、所謂普通の学生よりはずっと危機意識は身についていたのだが、なんといっても、ここは平和な本国で、自分の住まいは大学構内の寮で、しかも、いつも優しく強く頼りがいのある恋人に友人に諸先輩方が身近にいて…という状況にいるアンジェリークに、いつアブナイ目にあうかわからないから、常に危機感を抱いていろというのは、酷なことであった。その上、オスカーがアンジェリークに持たせた護身用のGPSと警報装置が、ある意味、逆に、アンジェリークを油断させてしまった面もあった。何かあっても「これがあるから大丈夫」とおもわせてしまったのだ。
そんな訳で、この時、アンジェリークはエンジュの言葉遣いに感じた違和感ー「話がある」「力になってほしい」と言いつつ、その願い事が彼女本人のものではなく、第3者からの要望を単に言伝てしているだけのような機械的で、それでいて妙に強圧的で「その願いを聞いて当然だ」とでもいうような雰囲気ー例えが極端だが狂信者が己の信じる教義を他者に強要するが如き熱狂的かつ強圧的な態度を、深く考えることもなく、そのままにしてしまった。
アンジェリークはもっと突き詰めて考え、エンジュを追求するべきだったとーせめて「誰が力を貸してほしいというのか」を確認すべきだった、エンジュがきちんと答えずとも、言葉を濁すようなら、何か変だ、おかしいと、自分ももうちょっと慎重に振舞えただろうに、と後に悔やむことになる。
エンジュと約束した日の昼食時、アンジェリークはオスカーに「今日の放課後は同じ寮の子とちょっと約束してるので、その子と一緒に帰ろうと思うんですけど」と告げた。
オスカーは最初、諾としなかった。アンジェリークの用事が済むのを、図書館で勉強しながら待つのはやぶさかでない、どころか、むしろ進んでそうするぜ、と言ったのであるが、アンジェリークは
「その子の用事が何時に終わるのか、ちょっとわからないので…いつまでとわからない状態で、先輩をお待たせするのは申し訳ないですし、その間、勉強の集中を妨げそうな気もしますし…そんなに心配なさらなくても大丈夫ですよ、同じ寮の子だから、帰りはずっと一緒で、私が1人になることはありませんから」
と、オスカーを安心させるように笑って、オスカーの申し出を重ねて固辞した。
オスカーが毎日自分を寮のエントランスまで律儀に送り迎えしてくれることを、嬉しく思いながらも「オスカー先輩はとてもお忙しいのに、そしてご自身は全然負担じゃないとおっしゃってはいても、オスカー先輩のお時間を費やさせてることに変わりはないわけだから…今はGPSもあるし、心配いりません、大丈夫ですよ、ってことがはっきりすれば、先輩が忙しい時はご自身の都合を優先してくださいって、自信をもって言えるようになる。先輩はご自分からは決して「今日は忙しい」とか「送れないんだが」って言わないけど、私は、先輩に、もっと気楽に、ご自身の都合を優先していただきたい」と思っていたから、ことさらに明るく朗らかに自信をもって「寮の子が一緒だから、大丈夫ですよ」と太鼓判を押したのだった。一番仲良しのロザリアとは学部も違うし、彼女は自宅生で寮まで一緒に帰らない、それもあって、オスカーは毎日自分を送り迎えしてくれている訳だが、オスカーが都合のつかない時でも心配ないということを示せれば、オスカーの気も軽く楽になるのではないかと思った、ということもあって。
そして、アンジェリークに重ねて「大丈夫ですよ」と請け合われてしまったので、オスカーも、これ以上ごねるのは我儘かと、しぶしぶではあったが、己が主張を引っ込めた。今日用事があるという友人が同寮の子でなかったら、つまり、アンジェリークが帰路、どんなに僅かな距離・時間でも1人になる可能性があるのなら、オスカーは「何時になってもいいから一緒に帰ろう、寮までは俺が責任をもって送っていく」と言って、譲らなかったろう。しかし、今日の約束は同じ寮の子、というのなら、その用事が終わるや否や俺が顔を出せば、先方が気まずく感じるか、変に気を回すかして、帰宅する先が一緒なのに別道程をとったりするかもしれない、これではアンジェリークの居心地も悪くなろうし、彼女の知り合いにいたたまれない思いをさせるのも気の毒だ、と、オスカーの方が気を回し
「じゃ、今日は、お嬢ちゃんを寮まで送り届ける名誉ある使命は、諦めるとするか」と退いたのだった。
この時、アンジェリークが「待ち合わせ相手」を、同じ寮の子と言ったたでで、エンジュの名を出さなかったのは、オスカーが彼女に良い感情を持っていないことをアンジェリークが知っていて、変に心配をかけたくないと思ったゆえだった。
また、オスカー自身もその友の名をあえて確認しなかった。アンジェリークには彼女の交友関係があろうし、俺がその全てを逐一把握しようと、根掘り葉掘り聞いたらいかにも俺は彼女に微塵の自由も許さない横暴かつ独占欲を愛情とはき違えてる馬鹿男になってしまうではないか、という、ちょっとした見栄があった。
それにアンジェリークが最近エンジュの名を口に出さなくなっていたので、もし、あの少女と疎遠になっているのならそれに越したことはない、「まさかと思うが、今日の約束相手はエンジュ・サカキじゃないだろうな」などと下手にあの少女の名前を出して、その理由を尋ねられても困るし、アンジェリークのお世話心とか親切心に火をつけたら、藪蛇だと警戒したためもあった。
しかも、折よくというか折悪しくというか、昨晩、オスカーはオリヴィエから「話があるから、時間を作ってほしい」というメールをもらっていたという偶然が重なった。
オリヴィエのメールによると「親会社のオートクチュール経由で収拾を試みた某国の傍流王族の噂話」にそれなりの収穫があったらしかった。オスカー自身、あの青年の情報はなんでも知っておきたかったことに加え、オスカーはオスカーで、かなり根を詰めてエンジュの接触リストを比較検証検討したおかげで、エンジュを操っているあの男が、何年度のデータを元に接触相手を決めているのか、ほぼ結論が出たところだったので、それぞれに情報交換して今後の方針をオリヴィエと話しあいたいとオスカーも考えていたため「丁度よかったのかもしれん」と
「じゃあ、お嬢ちゃん、今日は送れないが、明日の朝はいつも通り迎えにいくからな」と快く、アンジェリークを送り出したのだった。
そしてその日の放課後、エンジュは約束通りアンジェリークを教室まで迎えにくると「一緒に学生会館に来てほしい、そこで話を聞いてもらいたい」と言ってきた。
それは「エンジュの聞いてもらいたい話」というのが寮のロビーでできるような、すぐ済むような話ではないことを示唆していたし、もし、サークルのことでの相談なら、話を聞いた後、サークルの活動場所まで「一緒についてきて見てもらって意見を聞かせてほしい」ということかもしれない、だから、寮ではなく学校内で話をしたいということなのだろうと、アンジェリークは推測した。
となると、話が終わっても、いつ帰路につけるのか、帰宅時刻が全く読めなかったので「オスカー先輩と約束してなくて幸いだった、先輩を待たせるようなことをしなくて良かったわ」とアンジェリークはこの時、心の底から思った。
学生会館に入ると、エンジュは、入口扉からは観葉植物の鉢に視界を阻まれて見えにくい、奥まった一角に、迷わず向かっていった。
『なんで、こんなに奥まったところにわざわざ…』
と思った次の瞬間、アンジェリークは固まった。見覚えのある男性の姿が視界にはいった。
『あの人…あの銀髪は…比較文化学部の留学生のあの男性?めったに授業に出てこないから、申し訳ないけど少々ほっとしていた、エンジュがボランティアで手助けしたいと願っていた、あの人じゃないの…?エンジュ、最近、あの人のこと話題にしないから、接点はないのだと思ってたけど、ボランティア、続けてたの?ううん、それより、あの人、どうして、ここに?あそこに座っているのは偶然?…』
即座に「偶然の訳がない」と、心の声がした。だって、エンジュの足は迷いなく、その男性のいるほうに向かっている。アンジェリークは、心の中で声にならない、音にならない警戒警報が鳴り響いてるような心持がした。が、それでも、アンジェリークは即座に踵を返したい気持ちを我慢した。
この平和な国での生活と常識が、そして生来の優しい、分け隔てのない心が「第一印象が何か怖いというだけで、何の根拠も証拠もないのに、いきなり逃げ出すなんて失礼なこと、できる理由がないし…偏見で人を判断してはいけないわ」とアンジェリークに考えさせてしまった故だった。
エンジュの「話を聞いてほしい」という言葉は、絶対、この青年に関することだ、ともはやアンジェリークは確信していたが「この青年の話なら聞きたくない」と言い張るだけの理由をアンジェリークは持ち合わせていなかった。入学オリエンテーションで見かけた、どこか得体のしれない、険呑な雰囲気の青年ということしか知らず、ただ「胡散臭いから」という自分個人の印象で「この人の話など聞きたくない」「聞いてみたって、どうせ、ろくな話じゃないに決まってる」と言いきってしまうには、アンジェリークは優しすぎ、人が良すぎ、理性的でありすぎた。
これは『見かけの印象や雰囲気だけで人を判断したり、最初から思い込みや偏見をもって相対してはいけない、それでは異文化を持つ人々と理解しあえない』という父・カティス=リモージュの教えー外交官ならではの教えがアンジェリークに浸透していたためでもあった。そして、それは、父の転勤に伴い多くの国で過ごしてきたアンジェリークが穏当に現地に溶け込み、その国の人たちと上手くやっていくため実際に確実・有効な処方箋であった。ために、アンジェリークには「見た目や自分の感じた独りよがりな印象のみで人を判断してはいけない、異なる価値観や容認できない考えでも、最初から「あり得ない」と排除するのではなく、納得できないにしても、理解しようと話に耳を傾ける努力は必要だ、その上で自分の「これは譲れない」という意見を主張してみなさい」という父の教えが、言わば上位自我としてアンジェリークの行動規範になっていたことが、アンジェリークに「この場から、即、立ち去ってしまいたい、この青年の話を聞きたくなどない」という感情を、押し殺させることになってしまった。
それでも、アンジェリークが彼の正体を知っていればー彼が父の赴任国の王族であり、過日あった争乱の首謀者らしいという知識があればー彼の姿を認めた時点で「約束はなかったこと」にしてくれとエンジュに告げて、なんと言われようとアンジェリークはその場で踵を返したかもしれない、そして、オスカーなり父なりに、かの青年がエンジュを介して自分に接触を求めてきたことを知らせて相談、善後策を講じる位のことはしたであろう、が、アンジェリークは、彼のことを何も知らなかったのだ。
父・カティスも、オスカーも、不安や心配や警戒心でアンジェリークの学園生活を曇らせたくないと考えていたし、何も知らないほうが、却って安全だろうと考えていた、この点、2人の男性は似た思考回路の持ち主であり、アンジェリークへの愛情および彼女を守ろうとする気持ちは、同じくらい強く深かったのだが、今回は、この心遣いが、見事なまでにあだとなった。
何も知らない、知らされてなかったからこそ、アンジェリークは自身の本能的な直感ー目の前の青年から感じとれる危険性や胡散臭さを理性で抑えつけ、「この青年に関わってはいけない、これ以上近づいてはいけない」という心の声を押し殺してしまった。
そして、天性の優しさから『とりあえずエンジュとこの青年の「話」を聞く、聞くだけは聞いてみる。思い込みや偏見を排して客観的に判断するよう心がけ、結果、その話に納得できない、力になれないと思ったら、感情に走らず、なるべく理性的に答えよう、少なくともそう努力してみよう』とアンジェリークは結論した。
ただ「できる限り理性的・客観的に対峙する」と覚悟を決めたことで、最初に感じたやみくもな忌避感や理屈でない恐怖心はおかげでかなり薄れ、気持ちは落ち着いてきた。逆に「きちんと、逃げずに立ち向かってみよう」と、一種の闘志とでもいうような気持ちが胸に湧いた。
生来の親しみやすさや人懐こさは一時封印して、アンジェリークは、彼女にしては、そっけないほど淡泊にその青年に挨拶をした。何事にも退かぬ気持ちで、まっすぐにその青年を見つめて。
エンジュは、青年の隣に立つと得意げに
「オスカークラウゼウィッツの婚約者、アンジェリーク・リモージュを連れてきました」
と、言った。
「はじめまして」
とだけいって、その少女は軽く頭を下げた。
なんとなくどこかで聞いたような名だと思った、が、リモージュというのはそう多くもないが珍しくもない性だ、有名な窯元もあるから、聞いた覚えがあっても不思議ではなかった。少なくとも、青年の持っているリストに無い名なのは確かだった。
無作法なほど短くはなく、大仰でない程度に十分礼儀正しい所作の会釈だった。とりたてて愛想よくはないが、かといって、つんけんしているわけでも横柄な様子もない。おどおどしたりびくついてもいない、人の出方をうかがうような、おもねるような気配もない。落ち着いて冷静かつ客観的であらんと努めている、そんな感じだった。そして
『見かけは…造作は悪くないが、思っていたよりも平凡…どこにでもいそうな少女に見える』
というのが、青年の抱いた印象だった。
確かに愛らしい少女、なのだろう。ふんわりとした金髪や極上の翡翠を思わせる瞳など「かわいい女の子」という印象に必要十分なアイコンを備えている。
が、特別ゴージャスな美女というわけではない、男心をそそる色気がある、というタイプでもない。身なりは極普通の庶民的な装いだ。服装は仕立ても品質も悪くはなさそうだし、清潔できちんとはしているが、アクセサリーはジャンクのようで、金のかかっているものを身につけている様子はない。取り立てて良家の子女というわけではなさそうだ。これで本当にあの、クラウゼウィッツの婚約者なのか?…と思った時、青年は少女の左手に、ダイヤのリングを見いだす。小粒だがグレードの良い石だ、それなりに値の張るシロモノだろう、と青年は判断した、ろくでもない上流階級婦人ーその筆頭は実母だーが、こういう類の石を腐るほど持っていたので、貴金属にはそれなりに目利きだった。この指輪をもってして、この少女がクラウゼウィッツの婚約者というのは事実なのだろうと判断する。
そういえば、この少女、友人にはカタルヘナの令嬢までいるらしい、ということを合わせて思い出す。この少女の事で知っていることを話せと尋ねた時、エンジュが複雑そうな顔でー青年の役にたてるのは嬉しいが、話題自体は面白くないといった表情で、そんなことを語っていた。
とはいうものの、エンジュの話なので、どこまで信憑性があるか怪しかったが。が、エンジュの話が真実なら、この一見、単にかわいらしいだけの平凡そうな少女は、とてつもない人脈を持っている、ということになる。どこからどう見ても、一般庶民にしか見えないが、一体、この少女の何が世界のVIP(の子弟だが)をひきつけるのだろう?この少女には、一見ではわからない、何か特別な魅力でもあるというのだろうか。
そう思って、青年はもう1度、不躾に鋭い視線で金髪の少女を見直した。
が、しかし、我には、そんなことはどうでもいいことだ、と、すぐに思いなおす。
この女が、どんな人物かなんてどうでもいい、肝要なのは、この女の持つ力ー人脈と知人への影響力、それがいかほどのものか。そして、エンジュ同様、単純で与しやすいかどうか…つまるところ、彼にとって「使える人材」「利用しやすい存在」であるのか、どうかだった。
エンジュのように深く物事を考えない、そのくせ思い込みが激しいタイプは、思考を誘導してやれば、容易く操れる、そうであれば、楽でいい。わかりやすく同情を引きやすい話をしてやれば、ころりと参るだろう。そして「困ってる人を助けてあげられる、すばらしい自分」に酔いしれたいタイプ、自分の影響力を過大に評価したい見栄張りなタイプなら、なお、話は簡単だ。そこを見極める。あとは、クラウゼウィッツの男が、どこまで、この女に骨抜きになっているか、がポイントだ。エンジュの話によると、かなり、見込みはありそうだが…この、どこにでもいそうな、ただ愛らしいだけの少女に骨抜きになっているとしたら、クラウゼウィッツの男も大したことはない、が、そういう人種なら我が助かるのも事実だ。我だとて、事を楽に運べるならそれにこしたことはない。いいように、いいなりに利用させてくれれば…俺に「力」を分け与え、役に立ってくれるのならば、それ以上は望まないし、この女に無体なことなど何もしないーする必要もないのだが…さて、どうだ?
青年の眼差しから鋭さが薄れた。代わりに、物の価値を見極めようと値踏みするように少女を見据える。
が、少女は、怯むことも、おどおどすることもなく、まっすぐに青年を見ていた。その物怖じしない様子、曇りない美しい瞳は、青年を少しイラつかせ、落ち着かなくさせた。
だが青年は、自らは口を開かず、手はず通り、まずは、エンジュから自分の紹介をさせようと、エンジュに顔ー顎の動きで、話を始めるよう促した。友人からの紹介となれば、警戒心を解き親近感を感じようし、我が自身で身の上を語るより、信憑性も増すだろう、と思ってのことだ。また、彼の素性ー無論、限定された1部のみ真実のーを聞かされて、この少女がどのような反応を見せるか、観察する必要があった。
その青年のぶしつけな視線、値踏みされているような目つきが、アンジェリークには、どうにも、不愉快だった。
しかも、エンジュが自分を紹介する時の肩書?に「クラウゼウィッツの婚約者」という言葉を使ったのも、なんとなく、嫌な感じを覚えた。
と、青年が僅かに顔を動かした。
「アンジェ、座って、聞いてもらいたい話しがあるの」
エンジュが慌てたように言ったので、アンジェリークは彼らの真向かいではなく、斜め前の席に浅く腰かけた。
アンジェリークは、やみくもに逃げたり、恐れたりはしない、と、ある種の覚悟を、もう、してはいたが、それでも、この場が楽しそうとか、居心地いいとは、お世辞にも言えなかったので、ゆったり深く腰かける気にはなれなかったのだ。
それでもアンジェリークが着席するのを待ちかねていたのか、それが合図であったかのように、エンジュは得々とした様子で、青年のことを話し始めた。
「アンジェ、実はね、この方は、○○国の王子様なの。お忍びで、留学してらしてるのよ。それで、アンジェ、この方は、あなたの力を借りたいと仰せなの」
「…なんですって?」
アンジェリークは耳を疑った。
そのエンジュの言葉は、アンジェリークを予想以上に驚かせた。
あまりに思いがけない情報に、頭の中での処理がおいつかない。
この青年が、単にどこかの国の王族というだけなら、格別に驚いたりはしなかったろう、珍しくはあっても皆無ではない、スモルニィはそういう学校だと、わかっているから。
けど○○国という、その国名が問題だった。
○○?○○国っていったら、パパの赴任先の国じゃないの?この前、内乱ともクーデターともつかぬ争乱で、パパの安否が一時期危ぶまれた…あの国の…王子?この人が?その国の王子ですって?何?どういうこと?だって、あの国は先の争乱の事後処理で大忙しだって、パパが言ってた…その国の王族なら…今時分、本国を離れて留学なんてしてる余裕があるの?故国の立て直しに力を尽くしているはずじゃないの?なのに、何故、今、この国に?そも、王族って…本当に?
「ちょ、ちょっと待って…話が、あまりに恐れ多いお話なので…○○国の王子?でいらっしゃるの?この方が?」
アンジェリークは半信半疑だった。…単なる詐称?なり済まし?でも、そんなことする意味、どこにあるの?なら、もし、この人が本物の王族だというのなら…それこそ、何故、今、この国に?
「無理もないわ、私も初めて聞いた時はびっくりしたもの、でも、本当なのよ、この方は○○国の王子様なの」
一方のエンジュは、わがことのように得意顔だ。その顔は使命感に輝いているのが、傍目にもよくわかる。
「あの…○○国といえば、確か、お国元で、ちょっとした事件というか騒ぎがあったっていうようなニュースをみた記憶があるのだけど…その国の王子様だとしたら、大変なお立場にいらっしゃるのではなくて?」
その青年にとも、エンジュにとも特定せずにアンジェリークは尋ねる、というより様子を窺うような言葉を発した。アンジェリークは元々は人に対してオープンかつ屈託ない性質なのだが、今は、どうしても、そうする気持ちになれなかった。失礼かも、と思いながらも、疑うような態度をみせないよう意識しつつ、控えめな質問をするのが精いっぱいだ。
すると、アンジェリークの言葉に青年の表情が変わった。「ほぅ」とでも言いたげだ。平凡な女子学生にしか見えないアンジェリークが多少なりとも、○○国の国情を知っているとは思いもよらなかったのだろう。初めて、アンジェリークを「人」として認識した、という顔をした。
一方、エンジュは自分がセンセーショナルな情報を知人に打ち明け、驚かれ感心される、というシチュエーションに酔っていたので、アンジェリークの言葉の意味を考えるどろこか、話し半分に聞き流した。人の話を聞くより「自分の言いたいことを訴えるのが何より大事」がエンジュの基本姿勢だったから。
「そうなの?でも、大変なお立場にあるのは、確かにあたっているわ、実は、この方は、本当は王位継承権があるにも関わらず、不当に王位から遠ざけられるお気の毒な方でね、というのも、この方のお父上は長男であるにもかかわらず、弟であるおじさんが王位についてしまったんですって。そのせいで、長男の王子であるにもかかわらず、この方ご自身も皇太子になれないという、お気の毒な方なの。それで正当な地位を取り戻す方策を探しに、この国にいらっしゃったのだけど…それで、あなたの力を貸してほしいのよ、アンジェ」
「え?ちょ、ちょっと待って」
アンジェリークは滔々と更に話を続けようとするしたエンジュを遮った。エンジュがあからさまにむっとしていたが、この際、かまっていられなった。
というのも、この青年の素性が「語り」でなく「本当」−かなり一方的で偏った見方はともかく、その身分が本当なら…不当に王位から遠ざけられた王族だと、自称しているのだとしたら…
過日あの国に起きた争乱、その原因をアンジェリークは詳しくは知らなかった、首謀者がどんな人かも、その目的も詳しい報道はなかったし、父も何も語らなかった、国家機密に関することは、父は家族にも何も言わないのが普通なので、無理に尋ねたりはしなかったし、それはよくあることだったから。けど、あの過日の争乱の原因が、もし、あの国の跡目争いに起因してたとしたら、そして、もし、この青年がエンジュのいう通り、もしくは、それに近い生まれなのだとしたら…まさか、この人は…
自分が容易ならざる事態に巻き込まれつつあることが、アンジェリークにはいやというほどにわかった。
もし、この人が、ほんとにあの国の王子だとして…そんな人が、私に力を貸してほしい?ですって?一介の大学生の私に?しかも、正当な地位を取り戻すため、ですって?…確かにエンジュはそう言った…
そんな状況で貸せる力など、自分は持っていない、平々凡々な女子学生なのだから。王族の跡目争いや政権闘争に関わるような力やできることなど、あるはずもない。見込み違いをわびて、丁重かつ控えめに申し出をお断りさせていただくのが、穏当な対応だろう。
しかし、残念なことに、いや、恐ろしく厭わしいことに、アンジェリークには、自分に白羽の矢の立った理由ー思い当ることが幾つかあった。
直接自分が、ではなく、自分に極近しい人があの国と関係してるから。
父はあの国に駐在してる外交官で、母も一緒に赴いている。しかも、父はこの国の現王を助けたことで、褒章をうけている。そして、また、私の父があの国にいたからこそ、オスカーは、争乱の際、父の安全を図り、争乱を早期に終結させるため、クラウゼウィッツの流通網を用いるという手段で間接的に騒乱鎮圧に介入した、いや、させてしまった。
つまり、多分、この人は、私本人、私個人の助力を必要としてるんじゃない、私に関わる人…それは、父?オスカー?どちらかの助力を、当てにしてる…?ってこと?
そして、とっさにそう考えが及んだことで、アンジェリークはうろたえさせたり、恐慌に陥らずに済んだ。
これは…自分1人、私個人の問題じゃない、恐らく。自分の大事な人ー両親、そして、オスカー、私の大切な人に関わることかもしれない、だから、迂闊なことをしたり言ったりしたら、ダメ、その人たちにどんな危険が及ぶか、わからない。
一方で、まだ、そうと決まったわけじゃない、決めつけちゃいけない、とも考えた。
だったら、なおさら、こちらから迂闊に何か言ったり動いたりしてはダメだ。
落ち着くのよアンジェ、この人は本当にあの国の王子なの?あの争乱との関係は?あるの?ないの?私に力を貸してほしいって…その目的はなに?私に何をさせたいの?
「あの…一体、何故、私なの?私、普通の学生で、お金持ちでもないし、王子様の力になれそうなことなんてあるとは思えないのだけど…」
アンジェリークは、訳がわからない、という態度を見せた、半分以上実感なので、難しくはなかった。
私は何も知らない、何もできないという振りを押しとおして、この場から立ち去れないか、と僅かに期待しつつ。
できればそれが1番いいのだ。
すると、エンジュがやはり得意顔ーこの青年の代弁者として説得を努める役目を仰せつかっていることが名誉で仕方ない、という顔つきで、言葉を引き取った。
「ええ、もちろんよ、あなた自身に何かしてもらいたいんじゃないの、アンジェ、王子様はね、あなたの婚約者であるオスカー・クラウゼウィッツの力を借りたいのよ。それで、アンジェ、あなたにオスカー・クラウゼウィッツとの仲立ちをしてほしいっていうか、この方をオスカーって人に紹介してほしいの、そして、クラウゼウィッツにこの方のために援助をしてくれるよう、お願いしてほしいの。オスカー・クラウゼウィッツって、すごく、あなたに優しいんでしょ?あなたのいうことならなんでも聞いてくれるのよね?しかも、世界有数のお金持ちだっていうし。それなら、困ってる人を助けるのは当たり前よね?だって、お金持なんだから!それに、アンジェだって言ったわよね、困ってる人がいて、自分の力になれることなら、助けたいと思うって。なら、アンジェは、オスカークラウゼウィッツに「この方を助けてあげて」ってお願いしてくれるわよね?アンジェがお願いすれば、オスカークラウゼウィッツは、2つ返事で、その願いを聞いてくれるでしょう?ね、そうよね?アンジェ?そうするのが当たり前、当然よね?アンジェ、だって、これは人助けだもの、良いことなんだもの」
「エンジュ…」
アンジェリークは、溜息をついた
エンジュの饒舌のおかげで、この青年の狙い、それがオスカーにあることはわかった。それだけは収穫だといえた。
ああ、だから、エンジュは私を名前でなく「オスカーの婚約者」と言ったんだ、と、腑におちた。エンジュが必要としているのは、私個人の力ではなく、私の立場?肩書?そういうものだったからだ。
けど、エンジュの瞳は自信と確信の光に満ち輝いていた。アンジェリークが青年に会いさえすれば、アンジェリークは自分と同じように、青年に同情し、彼を助けるために動いてくれる、と信じて疑っていないことが、ありありとわかった。エンジュにとって、他人は必ず「自分と同じように考えるのが常識」で「同じように行動するのが正しいことであり、かつ当たり前」だったので、自分の脳内シナリオ通りにアンジェリークが行動するのも当然のことだった。もし、他人が自分のシナリオ通りに感じない、考えない、動かなければ、エンジュは控えめにいっても気分を害するし、激発することもままある。「何故、○○してくれないの!そうするのが当たり前でしょう!」というのがエンジュの論理だから。
そして、多分、彼女は、純粋に「善行」を施しているつもりなのだ。
だから「エンジュ、あなたが頭で考えた計画通りに、人は動くとは限らないのよ、人には人の感じ方、考え方、判断があるのだから」と言っても理解できないだろう。
それに、エンジュはこの青年の意に従っているだけだ、恐らく。
なら、見極めるべきは、この青年の真の意図。
この青年…己は沈黙を守り、エンジュに代弁させて「クラウゼウィッツ」からの援助を取り付けようとしている、らしいが「援助」とは何を要求する気なのか?もし、この青年があの争乱に関わっている人物なのだとしたら…「援助」という名目で、一体、オスカーに何をさせるつもりなのか。
いや、けど、まだ、わからない。決めつけてはいけない。
この人があの国の王族の一員だとしても、争乱の首謀者とは限らない、それに援助を求めているのも、国が内乱で荒れた後の復興支援の要請ということはありうる、なんといってもクラウゼウィッツはあの内乱終結に尽力しているし、それを当て込んでのことかもしれないし…
けど、それなら正式に、国の代表・王族としてクラウゼウィッツに援助を申し出ればいい。
なのに、まだ代表権のないオスカーに?…創業者一族の一人で、大株主であることは知ってるけど、まだ経営者ではないオスカーに、しかも、私を介してー非公式というか情実で、援助をお願いするって、それはどういうこと?
最初から偏見を持って人を断じてはいけない、けど、青年のもつ空気は、酷く非人間的で、険呑で、胡乱で、きな臭い。
アンジェリークの背筋を冷たい汗が流れた。自分の一挙手一投足、言葉の一つ一つに細心の注意を払わねばならない、アンジェリークは唇をかみしめ、毅然と顔をあげた。