アンジェリークは頭の中で何を優先するか、すべきかを、考えた。
眼前の青年の狙いはオスカー、その目的はクラウゼウィッツからの援助を引き出すこと、そこまではわかった。
アンジェリークの行動原理および優先順位は明白・厳密だ。オスカーが幸せであること、充実していること、総じて笑顔でいてくれること、それを念頭においていれば、行動や判断に迷った時も、自ずと進むべき道が見えてくる。
なら、今の状況で、自分はどう動くべきか。基本、オスカーに累が及ばないようにしたい。でも、それは、オスカーに全て秘密裏に事を処理したい、ということではない。オスカーに知らせたほうがいいと思えば、アンジェリークは躊躇わずそうする。そして、この青年が、オスカーに対しどんな腹蔵があるのか、まだ、自分にはわからない。この青年がよからぬことを考えているなら、当然、オスカーには紹介・仲介はしないで、無作法だろうが、今後のエンジュとの関係を考えると頭が痛くなろうが、速やかに席を立つ。そして、即刻オスカーに連絡をいれ、善後策を相談するのがいいだろう。
一方で、この青年が純粋に民の幸福、国の復興を目して、クラウゼウィッツの支援を欲しているのだとしたら、私が、その邪魔をしたり口出しする権利はない、援助するかどうか、するならどの程度か、それはオスカーの判断に任せるべきだ。
だから、私がまずなすべきは、この青年の目的、意図を探ること。
たが、青年に質問を投げかけたとて、素直にありのままを私に答えるとは限らないから、私は青年の口調や態度、言葉の端々から、この人の真の意図を読み説かねばならない、かもしれない。
とりあえずはこのまま話を続ける、本音をいえば「探りをいれる」と、アンジェリークは結論した。
青年がどれほどきな臭く、胡散臭く思えても、それは自分個人の主観であり、感情の赴くまま振舞っていい理由にはならないと考えたからだ。
実をいうと、感情に任せていいのなら「私にお役に立てることがあるとは思えません」と、アンジェリークは即座に席を立ちたかった。眼前の青年のまとう空気は不穏この上なく、アンジェリークの体は無意識のうちになるべく距離を置こうとしていた位で、この場を立ち去りたいという誘惑は強烈だった。衝動に任せてこの場を逃げ出せたら、どんなに楽だろうとも思えた。
だが、目の前にエンジュが存在したことがブレーキとなって、アンジェリークに衝動のまま振舞うことを良しとさせなかった。
エンジュがその時々の思い込みや一時の感情・感覚の赴くままに衝動的な言動を繰り返してきたその感覚を「こういうものだったのか」と初めて理解できたのは、アンジェリークにとって、ある意味収穫であったし、○○したい、という衝動に身をゆだねるのは、基本、とても快く心地いいのだろう、ということも理解できた。けど、同時に、これは我慢できないものではない、とも感じた。感情的な衝動は誰でも、いつ感じてもおかしくない、しかし、それは制御・コントロールできないものではない、とアンジェリークには思えた。そのことをエンジュに理解してもらうためにも、今、自分が、客観的根拠のない感情や一時的な衝動に任せた振る舞いに走るわけにはいかない、とアンジェリークは自身に言い聞かせた。
ただ、それは「ここは学校内なのだし、目の前の青年がいかに胡乱そうではあっても、一応、エンジュも一緒にいるのだし、自分の身に危険が及ぶようなことはあるまい」という理屈もセットで自分に言い聞かせ、かなり力づくで、警戒警報をあげている直感を抑え込んだ結果ではあったのだが。
アンジェリークは自身を落ち着かせようと、意識して小さく一息ついてから、青年に対しこう尋ねた。
「それで…ええと、なんとお呼びすればいいでしょう?」
「我のことは…アリオス、さもなくば、好きな尊称で呼ぶがいい、王子でも殿下でも閣下でも」
どうでもいい、という様子で青年は語った。そういえば、入学オリエンテーション時、学部ごとの座席分けで、この青年は自分と座席が近かった、ということは、アリオスという名は嘘ではないのだろう。父の赴任先のあの国にアリオスという名の王族がいたという記憶はアンジェリークにはなかったが、留学の際にはミドルネームや母方の姓を敢えて名乗って出自を隠そうとする王族は珍しくないし、アンジェリークも、あの国の王族の名全てを網羅してる訳ではないので、彼の名乗った名だけでは、その素性は判断しがたかった。
ただ、口調から、人に命令をし慣れている雰囲気は、感じ取れた。もしかしたら命令形でしか会話をしたことがないのでは、とさえ感じさせる、人を人とも思わぬ態度が素なのであろうことは透けて見えた。
アンジェリークはとりあえず無難な呼び名を用いることにした。
「では王子、王子は具体的に、どのような援助をクラウゼウィッツにお望みなのですか?」
「それは、おまえのようなものが関知するところではない、おまえは、ただ、クラウゼウィッツの子息に連絡を取り、援助を要請すればいい、我が望むのはそれだけだ、容易かろう」
青年が「厚かましい」とでもいわんばかりの尊大な様子で告げた。
「それなら、私が仲介する必要はないと存じますが…オス…クラウゼウィッツの令息に、直接、連絡なさった方が話が早いのではございません?」
「失礼なこと言わないで、アンジェ、王子みたいな身分の方が、気易く、見も知らぬ男性に自分から声をかけて、援助の話を持ちかけられるわけがないでしょう?だから、あなたに間に立ってもらうんじゃないの!」
エンジュが得意顔で割って入ってくる。
「どんな援助をご希望か、目的も使途もわからないのに、オスカーに、ただ、望むまま、言われるがままにに援助してくれと頼むなんてこと、私にはできないわ」
アンジェリークは静かに、だが、きっぱりと言うべきことを告げた。
すると、エンジュは、自分がいきなりひっぱたかれた、とでも言うように、気色ばんだ。
「アンジェ、どうしてよ!なんで、そんなこと、いうの!街頭募金とかだって、使い道を一々質して募金したりしないでしょう?まず、援助ありき、気の毒な人を助けたいって気持ちでお金を出すのが大事なんじゃないの!集めたお金のその使い道は主催者を信じて任せるのが慈善行為ってものじゃないの!」
一理ありそうで、まったく、筋の通らない意見だった。恐らく、この理屈でエンジュは言いくるめられたのだ。けど不特定多数の善意に頼る募金と、わざわざ「クラウゼウィッツ」を指名しての支援要請は、まったく意味が異なる。クラウゼウィッツを指名してきた、ということは、何か、特定の目的や意図がある、と考えるほうが自然だ。単純に援助を必要としているなら、それこそ、募金のように広く薄く支援を集める活動をする方が、口コミなどで周知もされやすく効果的だ。一方、一個人が出せる金額は上限があるーましてやオスカーは学生の身で、普通に考えれば多寡が知れているーなのに、敢えて「オスカー・クラウゼウィッツ」一個人を指名して、援助を求める、ということは「クラウゼウィッツ」にしかできない援助を必要としている、ということではないのか。
それを確かめるため、アンジェリークは意識して明るい口調で、エンジュに逆に提案してみた。
「そう思うなら、エンジュ、学内で王子のために、募金活動をしてみたら?オスカー1人に頼るより、多くの援助や多彩な協力を得られるかもしれないわよ?実際、学内で、色々な名目で募金活動をしている人たちがいるわ、孤児のためだったり、難病の子を救うためだったり。そして、たしかに、募金する時、集まったお金の使途まで追求しないことが多いわ、そのお金が学費に使われるのか渡航費なのか治療費なのか…、けど、それでも大きな目的、名目は掲げられている募金が大半だわ。そして王子が何かの理由で、援助を必要とされているなら…その大義や目的をきちんと掲げて、募金活動をしてみるのはどうかしら?広く賛同を得られたら…この学園には恵まれた家庭の子も多いから、クラウゼウィッツ一家門を指名して援助を請うより、多額の寄付が集まるかもしれないわよ?」
この王子の言に、真実、大義があるのなら、その要望が利他精神に基づいた正真正銘の慈善活動だというのなら、その主張を堂々と喧伝し、不特定多数から賛同者を募ればいい。それこそ、この学園は良家の子弟子女が多数在籍しているのだから、彼らを納得させられるだけの根拠、理由があれば、彼らはー「持てる者」の義務を刷り込まれている彼らは、進んで援助に応じてくれよう。
その時、エンジュが先ほど主張したようにー『お金持ちは「慈善活動」を枕詞につけた活動には、何であろうと盲目的に言われるままの金額でお金を出すべきだ』と、エンジュが信念をもっているのなら、そう訴えて見ればいいと思う。反対意見を表明されても、逆上して感情的に個人を攻撃したり、反論できずに逃げ出したりせず、きちんと持論を展開できれば、であるが。
アンジェリーク自身は「私は『富裕層は言われるまま援助しろ』という主張には賛同しかねるし、何に使われるかわからないお金、ましてやポケットマネーならともかく、大金を出す人がいるかどうかも疑問だと思うけど…だって、私の知っている所謂お金持ちの方々って、皆さん、しっかり自分なりの判断基準や信条を持ってるし。けど、それでもお金持ちなら目的も使途も何も追求せずに、言われるまま要求されただけお金を出すべきだとエンジュが思うなら、そう、自分の考えをきちんと主張、アピールしてみればいい。そして、自分の主張を受け入れてもらえるよう努めてみればいい。人には、それがどんなに極端で偏ったものであろうとも、自分の意見を表明する権利がある、周囲に受け入れられるか、どうかは、別問題として。そして、自身の主張が、周囲に「常識」として受け入れられなかった場合でも、それはそれで、エンジュには、いい社会勉強というか、経験値になるんじゃないかしら」と考えた。
それに、エンジュとこの青年が「募金」という提案に乗ってくるようであれば、アンジェリークは一安心できる。それなら、クラウゼウィッツを単なるお金持ちの1家名と見て、とりあえず最初の援助を請うてみただけで、オスカーをピンポイントで狙っての援助要請ではないということになる、そうだとすれば、アンジェリークも、そう警戒しなくてすむ。自分を呼び出したのも、単に、身近なツテを安易に頼ってみた、というだけならむしろ安堵できる、と、アンジェリークは考え、エンジュと青年の出方を待った。
いやな不安に脅かされてはいたが、自分でも不思議なほど、アンジェリークは冷静だった。眼前の青年が「オスカー・クラウゼウィッツ」との接触を望んでいる=オスカーが狙われている、という懸念と危機感が、いつも以上にアンジェリークの思考を鋭敏に、心を強くあらしめていた故だった。これが自分本人を狙っての企みだったら、アンジェリークはこうも冷静に知的に対処できたかどうか、わからない。もっと無様に慌て、うろたえていたかもしれない。けど、狙われているのがオスカーだとしたら…自分の不用意、不注意でオスカーに危険や累が及ばぬよう、私がここで砦になって、何が何でもオスカーを守らねば、守ってみせる。その決意と気概がアンジェリークの勇気と知恵を支えていた。
が、エンジュはそんなアンジェリークを「何もわからない可哀そうな人」と哀れむような視線と口調で、にべなく、こう返してきた。
「なんで、そんなことしなくちゃならないの?そんなことしたって仕方ないわ、無意味だわ、王子は、お金が必要なんじゃないのよ。だって王子ですもの。高貴な方はお金のことなんて考えないものよ」
エンジュの返答は、アンジェリークの淡い期待をあっさり打ち破った、同時にアンジェリークは緊張の度合いを強める。援助を請うていながら、お金は必要ではない?なら、何が必要だというのか、それも、クラウゼウィッツを指定して…アンジェリークは慎重に問い返す。
「なら…資金援助でないとしたら、王子はどんな援助をお望みなんですの?わざわざクラウゼウィッツをご指名なさっての援助で…何をご希望なのですか?」
「女、何度も言わせるな、それはお前には関わりないこと、知らずとも良いことだ。下々…失礼…民は王族に奉仕するため存在し、命には無条件に従うもの、異議や疑問をさしはさむなどもってのほかであり、命令の意味や内容など、考える必要も知る必要もない。故に、女、我がクラウゼウィッツに何を要求するか、おまえは知らずとも良い。お前は我に言われた通り、我の望むものを命じられるままに差し出すよう、クラウゼウィッツの男に告げればいいのだ」
青年は同じ主張を繰り返すばかりだった。青年は、どうあっても、アンジェリークに援助の内容を言う気はないらしかった。
『この人は決して援助の内容を公言しようとしない、それは、つまり、ここでは…人前で口にするのは憚れるようなことを要求する気だからではないのかしら、そして、公言が憚られる要求だからこそ、無条件で援助に応えるよう、オスカーに約束させようとしている、そんな気がしてならない』
青年の態度と言葉から、アンジェリークはこう直感した。要求の内容は明言せず、オスカーに援助を要請しろ、ということは…この人はオスカーに白紙委任状を出させたい、ということだ、私からオスカーに対し「この人のいう通りにするという白紙委任状を出して」と働きかけろと言っているのだ。それは、オスカーに契約履行のサインだけをさせ、白紙の部分に何を書きこむか、どんな望みを記すかは、サイン後に明かす、と言っているのと同じだ。
きな臭い。きな臭くてたまらない。こんなこと、承諾できるはずもない。
だからこそ、アンジェリークは怯まず退かずの気持ちで、きっぱりとこう言いきった。
「王子から、オスカーに直接、交渉していただけるのでしたら、私も何も詮索するつもりはございません、けど、あくまで、私を通じて、オスカーと連絡を取りたいと仰せでしたら…クラウゼウィッツに何をお望みなのか、それを明らかにしていただけないでしょうか。明らかにしていただけるのでしたら、私は、今、ここでオスカーと連絡をとります。けど、援助の内容をお教えいただけないようなら、私から、オスカーに連絡を取ることは、恐縮ですが、致しかねます」
なにせ、他でもないクラウゼウィッツを指名しての援助の要請だ。世界有数の企業のオーナー一族、富裕層はこの学園内にも数多くいるが、その中からわざわざクラウゼウィッツに白羽の矢を立て援助を請い、しかも、その内容は明かせない、ということは、この青年の狙いは、エンジュのいう通り、金融関係や資金の援助ではなく…もっと直接的、アルテマツーレで扱っている物品を融通しろということではないのか…すなわち、極安価、もしくは無償での武器の提供…
そして、この仮定が正しければ、この衆人環視の場で、青年が用件を口にだせないのもわかる。「武器を言われるがままに提供しろ」など、犯罪者やテロリストの台詞である。まっとうな援助要請などとと言えたものではない。
そして、争乱終結直後で、いまだ国情不安定な国の王族が「私的に武器を入用」なのだとしたら、その理由が…国民のため、公益のためとはアンジェリークには、とても思えない。
だから、アンジェリークは静かに毅然と、青年に相対して「援助の内容を詳らかにしない以上、仲介はしない」と言いきった。「後ろ暗い要求でないのなら明言してみろ」と青年に挑戦状をたたきつけたも同然の振る舞いともいえたが、それは「私は、オスカーを、やましいことや正しくないと思える行いに巻きこんだり、加担させたりは、絶対にしない」というアンジェリークの強固な意思の表明であり、その強い意思を支え、力を与えているのは、オスカーへの深い愛情に他ならなかった。
が、アンジェリークの宣言に対し、青年は応でも否でもなく
「我の望みは聞けぬ、と、あくまで、そう申すか…」
と、プレッシャーをかけるかのように、アンジェリークの言葉をかなり乱暴に短縮・意訳して繰り返す。
「はい、内容のわからない用件で、私からオスカーに連絡を取ることは…そんな無責任なことはできません」
それでも、退かず折れずの気持ちで、アンジェリークはきっぱりと拒絶の言葉を繰り返す。青年は、それでも激しはせず、むしろ、面白がるような様子を見せた。が、それ以上、言葉は発さずー恫喝するでも懇願するでもなく、暫し、沈黙した。すると、黙り込んだ青年の替わりというように、エンジュが噛みついてきた。
「なんで!どうして、そんなことが言えるの、アンジェ!酷いじゃないの!王子がお願いしてるのに、助けてあげないなんて!王子がお気の毒だと思わないの!自分の彼氏に連絡を取るなんて、大した手間じゃないじゃない、すぐ、できることじゃない!それ位、やってくれたっていいじゃないの!」
「…エンジュ。連絡を取るのは、確かに、ほんの数分できるわ、けど、今のお話では、実際に動く…王子に援助をするのはオスカーでしょう?しかも、何をどう援助するのかもわからないのに、ただ「お願いを聞いて」なんて言えないわ」
「どうしてよ!オスカー・クラウゼウィッツってアンジェにとても優しいんでしょ?あなたのいうことなら何でも聞いてくれるんでしょ?だったら…それ位、簡単なことじゃないの!」
「エンジュ、人を仲介するということは、紹介する人にもされる人にも責任が生じるから、軽々には応じられないわ、これが、私自身への要望なら、即座に、できる、できないを検討することができるけど…それと、エンジュ、あなた、オスカーの実家…クラウゼウィッツがどんな産業に従事しているか、知ってて、クラウゼウィッツに援助要請をお願いしているの?」
「知らないわよ、そんなこと!何よ、田舎者の物知らずって、また、私をバカにする気!?」
一方的に興奮しているエンジュを落ち着かせるように、アンジェリークは努めてゆっくりと静かな口調で噛んで含めるように、言い聞かせる。
「何を作っているかも知らずに企業に援助を要請しても、必要な物が得られるとは限らないでしょう?たとえば、被災地で不足してる物が食品なら被服産業より食品企業に援助を頼む方が理にかなってるでしょう?医薬品が不足してる場合なら、食品メーカーに援助を頼むより製薬会社にお願いする方が合理的だろうとか、そういうこと。だから、王子はクラウゼウィッツが何を生業としているのか、ご存じの上で援助をお求めなのか…そして、援助として何を必要とされているのか、ミスマッチがないかどうか、確かめたいと思ったの、それだけよ」
「私は知らないけど、王子はご存じに決まってるわ、だって、最初からクラウゼウィッツの名前を出してらしたもの、そうですよね」
「…して、女、我はクラウゼウィッツが何を扱っているか、知った上で、敢えてクラウゼウィッツに援助を要求している、のだとしたら?どうする?」
青年は、慌てもせず、ふてぶてしいほどに堂々と、アンジェリークに尋ね返してきた。口元に張り付いた笑みは「わかっているだろうに」といいたげだ。
「援助するかしないかは、私が判断できることでも進言できることでもありません、なので、王子におかれては、やはり、直接、オスカーと話していただいた方が、よろしいかと存じます」
「なによ、オスカーって人の連絡先を教えるから、自分で電話しろとでもいうの!?王子に、そんな真似させられる訳ないでしょう!」
「ええ、私も、勝手にオスカーの連絡先を教えるなんてこと、もちろんしないわ。連絡先を教えるなら、オスカーに許可を取った上でないと…○○国の王子とおっしゃる方が、クラウゼウィッツ、いえ、アルテマツーレを指名して援助をお願いしたく、オスカーとお話したいとおっしゃっている旨を、オスカー自身に伝えて、その上で、オスカーが連絡先を王子にお教えしてもいい、と言えば、私、この方に、オスカーの電話番号をお教えできるわ。そういう形でいいなら、今、私、オスカーに連絡を取るわ」
アンジェリークは携帯電話をバッグから取り出した。
青年は、アンジェリークの先刻の提言を黙殺したまま、援助の内容を口に出そうとしない、かといって、自分でオスカーと交渉するとも言い出さない。思わせぶりな言葉や態度をとるだけで、話が進まない。埒が明かない。
そこで、アンジェリークは、一つの賭けに出たのだ。
ここで、青年が、自分がオスカーと連絡を取ることを許すのなら、それも白紙委任を請う内容ではなく、青年が自称する素性とその用件までは明言するという条件で、オスカーと連絡を取ることを良しとするなら、まだ、彼の要望や考えは私が危惧するほど後ろ暗いものではないかもしれないと、判断できる。
それに、○○国の王族が、今、私に接触してきていることを、オスカーに伝えることができる、それが何より、意味としては大きい。オスカーなら、その意味をきっと汲んでくれる。私は「アリオス」という名の王族を聞いたことがない、けど、オスカーなら耳にしたことがあるかもしれないし、信用できる人物かどうかも知っているかもしれない。それに、建前上、オスカーとの連絡がつけば、この人たちは、私に用は、もうなくなるはずで、そうしたら、私を解放するはず、しなければおかしい。なのに、もし、オスカーと連絡がついても、言を左右に、私が席を立つのを許さないような素振りを見せたら…たとえば、オスカーと連絡するだけでは満足せず、承諾の返事を得られるまで私を引き留めようとでもしたら…これは、相当怪しい。
この時、アンジェリークは無意識に「解放」という言葉を頭に思い浮かべていた。
それは、アンジェリークが今、自身の置かれた状況を相当危ういものと認識しているということを意味していた。
とにかく、アンジェリークは、合法的に、自然な形で、自分の現況をオスカーに知らせたかった。そして、青年が素性と大まかな用件ー詳しい内容は本人にだけ直接告げたい、というのは在りうることなので、素性と用件までは隠しだてせずにオスカーと連絡を取ることを良しとするならば、この青年を、それほど警戒しなくてもいいと、自分は認識を改められる。
さあ、青年はどう出るのか?
アンジェリークが携帯電話をバッグから半ば取り出した時、青年は、瞬間、狡猾そうな物欲しそうな視線で、そのツールを見やった。
銀髪の青年アリオスは、少女が携帯電話をテーブルの上に置かないかと期待し、暫し、少女の動向を注視していた。が、彼女は、それをしっかりと手に握ったまま、しかもカバンから半ば出しただけの状態をキープするという用心深さを見せたので、心中、舌打ちした。
この少女、見かけの印象と裏腹で、どうにも扱いづらい。今まで交わした言葉と態度から、かわいらしいだけの少女でないー芯の強さ、ゆるぎなさ、落ち着き、頭の回転…どうにも侮れないものを感じざるを得なかった。
自分が王族だと名乗っても、驚いたり興奮したりもせず、雲上人とみなして恐れ入る風でもない。王族と知己を得られたと浮かれる軽薄な人種なら、ちょっと持ち上げるか、同情心をつつけば2つ返事で我の要求を呑むと思ったのに当てが外れた。かといって尊大に振る舞ってみても、怯んだり恐縮する気配もみせない、ふわふわとした綿菓子のような外見の少女だ、ちょっと圧力をかければぺしゃんこにつぶれて意のままになると思ったのに、とんだ目算違いだ。
しかも、この少女、生意気にも我に交渉、取引を持ちかけるような言動をーあくまで礼儀を失しない折り目正しい言葉づかいと態度でではあるが、しかけてきた。故国で我の起こした争乱も知っていたようだしーどこまで我の正体に気付いているのか…侮りがたい。しかし、気付いているなら、むしろ、それを逆手にとって、反応をみてみるというのも手か…
エンジュが少女に噛みつき一方的に感情的な言葉をぶつけ、少女は落ち着いてなだめ、をしている間に考えをまとめた青年はあくまで尊大な態度で、少女にこう告げた。
「それには及ばない。女、おまえがヤツに連絡を取る時、口にしていい言葉は「我の望み通りに援助に応じてくれ」というもののみ、そして、我が聞きたいのはその望みに応じる、その一言だけだ。それ以外の用件で、クラウゼウィッツに連絡を取る必要はない、また、我はそれ以外の言葉を聞く気はない」
『我は『正統なる者』、一介の少女風情が我と同じ立場で交渉しようなどと…そんなことができると考えたこと自体片腹痛いにも程がある。おまえたち下賤の者は何も考えず高貴なる者に奉仕、搾取されていればいい、クラウゼウィッツだとて所詮同じ、おまえたちはそのためにのみ存在するのだから…』
高貴な出自を自負する青年は「おまえに交渉する権利などない、己の立場をわきまえろ」というつもりで、少女に嘲笑を浴びせかけた。
が、立場の違いを強調しても、この少女ー見かけと違い、強い意思と豊かな知性を持つ少女が恐れ入って己の指示通りに動くわけではないだろうことも、もう、理解していた。
では、この少女を命に従わせるには、どうすればいいか…青年は、己の手持ちのカードを頭の中で整理し、次なる一手はどうするかを考えた。
アンジェリークは青年の取り付く島のない返答に、一瞬、大きく目を見開いた。
彼には交渉する気、譲歩する気は皆無なのだ、あくまで、傲岸不遜に己の要求を繰り返すのみで。
ならば、私がここにいる理由はない、すぐにここを立ち去り、オスカーに事情を報告、今後、どうするかを相談してみようと結論する。
アンジェリークは毅然とした態度でまっすぐに青年を見つめ、こう告げた。
「なら、私がお役にたてることはないと存じますので、これで失礼いたします」
半ば腰を浮かし、席を立とうとする金髪の少女。エンジュが慌て、引き留めようとするかのように少女に対し、腕を伸ばす。
しかし、銀髪の青年は慌ても急ぎもせず、皮肉気な笑みを浮かべて、席を立ちかけた少女にこう告げた。
「女、おまえがあくまでクラウゼウィッツの男に、我の望む言葉を伝える気はない、しかも、今、席を立ちこの場から去る、というのなら…我は、クラウゼウィッツに頼むはずだった援助をカタルヘナの令嬢…ロザリアとか言ったか…その者に依頼せねばならなぬことになるが…それでも、席を立つと申すか?」
「!…なんですって…」
「もう1度いう。お前が、今、席を立つ、クラウゼウィッツの男に連絡もしない、とあくまで言い張るなら、我は、援助の要請をロザリア・デ・カタルヘナにすることになる、と言っただけだ。カタルヘナは金融一族で我の欲する物は持っておらぬ、資金援助させて購入するのでは手間と時間がおしいと思い、クラウゼウィッツと渡りがつくなら、カタルヘナの令嬢には接触するつもりはなかったのだがな、女、おまえがあくまでクラウゼウィッツに連絡しないと言い張る以上、仕方あるまいな」
全責任はアンジェリークにある、とでもいうような素振りで、青年は薄笑いを浮かべながら、こう続けた。
「今、この場で、この女をー」
といって青年は顎でエンジュを指し示す。
「ロザリア・デ・カタルヘナの処に走らせる、何、カタルヘナの令嬢の動向は調査済みだから、今この時間なら、令嬢がどこで何をしているか…学部にいるのかオーケストラ部で活動しているか把握済みだ、それ程待つこともなく連れてこれよう。そうだな、女…アンジェリークとか言ったか、お前が来てくれと言ってここで待っている、とでも言えば、令嬢は簡単に、いや、急いで、この場にやってくるのではないか?」
訳知り顔で、にやにやとしながら青年は言った。
そして、悔しいことに青年の言葉をアンジェリークは否定できなかった。
この男はその気になれば、怪しまれないようエンジュを使って、私にしたようにロザリアを誘い出すのが可能なのだという事が否応なくわかってしまった。エンジュはサークル見学の名目で、かつてロザリアを訪ねているし、サークルのことをもっと詳しく教えて欲しいと持ちかけられれば、ロザリアは話に応じてしまうかもしれない、その時、エンジュが「アンジェも一緒に会いたがっている」とロザリアに告げたりしたら…ロザリアがその言葉を怪しみ自分に確認を入れてくれればいい、私が電話にでなければ、何か変だと察してくれよう、が、ロザリアはオスカーと同じくらい、いつも、自分のことを気にかけてくれている、エンジュの言葉を信じて、そのまま、ここまでー自分のようにおびき出されてしまう可能性がないとはいえない…
でも、ここにはこの男が…今は一応、紳士的と言えないこともないー言葉を荒げることもなく、粗暴な行いも見せないこの青年ではあるが、その彼が手ぐすねひいて待っている。だが、この青年は、さっき、はっきりと「クラウゼウィッツが自分の求める物を持っている」と明言した。間違いない、この人は、武器を欲しているーしかも、恐らくは正当な取引を通さず非合法にだ。さもなくばクラウゼウィッツから無条件の援助を引き出そうなどとするはずがない。
こんな「危険人物」がロザリアを呼び出す?「援助を請う」といいながら、何をするか知れたものではない!ダメ、そんなこと、絶対にさせない!エンジュがロザリアの処に使いに出される前に、注意を促さねば!
「そんなこと…ロザリアに、私から連絡しておけば済むことです、何を言われようとエンジュの誘いには乗らないで、と」
アンジェリークはその手に握りしめていた携帯電話を急ぎ開き、ロザリアの番号をコールしようとした、その瞬間だった。あっと思った時には、手の中にあった携帯電話を力づくでもぎ取られていた。
「あっ!何するの!返して!」
「我は言ったはずだ、おまえが連絡していいのは、クラウゼウィッツの男に対してのみ、他の者に連絡を取るというのなら、少々の間、これは預からせてもらう。何、案じずとも、壊したりはしない。おまえの携帯電話の価値ーこの中に、世界有数の富豪の子弟の連絡先が幾つ入っていることか…を、我は誰より理解しているからな。粗末に扱ったりはせぬ」
青年は、見せつけるように、アンジェリークの眼前で彼女の携帯電話をもてあそんだ。
もしかしたらこの人は最初から私の携帯電話を奪うつもりだった?と、アンジェリークはほぞをかんだが、後の祭りだった。
私はカバンから完全に出さない状態で、携帯電話を握りしめていた、それでは、流石に無理やり奪うことは難しい。でも、1度携帯を開いた状態で手に持ってしまえば、そう、強い力で握るものではない、男の力でなら簡単にもぎ取られてしまう。その機会を狙って、私は電話をかけざるを得ないよう、誘導された…?確かに私の携帯には、オスカーだけでなく、ロザリアやオリヴィエ先輩やジュリアス先輩…この人のいう通り、世界有数の富豪の子弟の私的な連絡先が幾つも入ってる。この人の狙いはそれ?ロザリアを呼び出すというのは、はったりだった?
青年は、私がロザリアに連絡を取ろうとしたから、それを阻止しただけだと言ってるけど、それが真実である保証もない。
青年がロザリアを本当にここに誘い出すつもりだったのか、私に携帯を取り出させるための方便としてロザリアの名を出したのかは、真意はわからなかった。けど、ロザリアの動向は調べてある、という言葉、そして、その気になればロザリアをおびき出すことができる、という彼の言葉を「でたらめだ」と否定することができない、だって、私自身がロザリアがいつどこで、サークル活動に参加しているか、とか、詳細な調査に協力してしまっている。
そうだ、エンジュはサークル見学に行く際、いつも人名を出して、その人を訪ねる、ということを無軌道に繰り返していた、その目的はーサークル見学などではなかったんだ、目当ての人物との接触が主目的で…そして、その人選が、オスカー、ロザリアと来れば…多分、この学園でも選り抜きの富裕層の子弟…
この男は、エンジュを通して、この学園の富裕層の子弟の動向を調べ接触を図っていたんだ、多分、そして、馬鹿な私は、まんまと、その片棒を担いでしまっていたんだわ…
アンジェリークは瞬間、果てない程の後悔に襲われた、しかし、後悔の海に、どっぷり浸っている暇などないことも嫌というほどわかってもいた。
知らぬこととはいえ、エンジュを通じてのこの男の企みに一部協力してしまった自分だが、この男が真っ先に接触したのが私なら…クラウゼウィッツが第一の狙いなら、少なくとも、まだ、他の人に迷惑はかかってない、この男の魔の手は伸びてないはず、それはかなりの救いといえた。
私のところで、食い止められれば、いえ、食い止めねば…その気持ちがアンジェリークに力を与える。
どうする?どうすればいい?考えるのよ、アンジェ
携帯電話を取り戻せないかを、まず考える。携帯を取り上げられたままでは、オスカー、ロザリアを始めとする令嬢や子弟たちに警戒を促すこともできないし、皆のプライベートの連絡先を知られてしまうのも痛い。けど、青年に真っ向から向かっていくような真似は無駄だ。力では男性にかなわないのは自明だ、オスカーほどではなかったが、青年と自分とは身長差もそれなりにありそうだ、携帯電話を頭上に差し上げられれば、大事な物を取り上げられた子供のようにあしらわれるだけだ。
ちらとみやったエンジュは全く当てにも頼りにもなりそうになかった。元々突発的な状況の変化に対する理解も遅ければ、対処するのも苦手なエンジュは、ぽかんとするばかりで、事態が呑みこめていない様子だ。王子は一体何をしてるの?え、何故、唐突にアンジェの携帯なんて、取り上げてるの?という顔をしているし、たとえ、彼女が冷静でも、この王子に心酔している様子では、彼に加担して、命令されるがままに動くだけでー私の味方になってくれそうな理由が見つからない。
では…いっそ、携帯電話を取り返すのは諦める?その場合は、どういう状況が考えられる?
もし、携帯電話を奪われたまま、あの青年に使われたとして、先方には私からのコールだと表示されるから、オスカーもロザリアも電話にはでてしまうだろう、けど、そこから聞こえてくる声が私の物ではなかったらー私からの伝言だと偽られたとしても、多分、あの2人は「おかしい」と思って変事を悟ってくれるはずだ。
なら、むしろ、この場で、このまま、この青年に電話を使わせた方がいいかもしれない。ただ、アドレスだけを開かれ、連絡先を控えられた場合は…時間との勝負になる、この青年がオスカーやロザリアに接触する前に、どうにかして、こちらから事情を知らせて注意を促し、電話番号を変えてもらわねば。
そう考えが及んで、アンジェリークは肝が据わった。自分の安否ー自分はこれから、どうなるのだろう、彼らは自分をどうするつもりなのだろう、ということは、正直念頭になかった。まず、名指しされている=狙われているとしたら優先度が高く、それだけ危険も高いオスカーとロザリアをこの災禍に巻き込まずに済むにはどうすればいいか、だけに思考が鋭化していた。
とにかく、誰か…できれば、オスカーが1番いいけど…とにかく、今の私の状況を知らせたかった。
アンジェリークは、彼に、今ここで携帯電話を使わせるべく、投げやりになって諦めたふりをしてみた。
「そうまでして…力づくで取り上げてまで、私の電話をお使いになりたいのですか?ご自身でオスカーに連絡なさるのでしたら…その電話はどうぞご自由にお使いください」
「いいや、女、なぜ、我が…王子である我がそんな真似をする必要がある?電話をかけるのは、あくまで、女、おまえだ」
青年は、アンジェリークの眼前で携帯電話をぶらつかせ、口の端だけの笑みをみせた。
「だが、女、おまえが酷く強情なのは、よくわかった、だから、我も譲歩しよう、クラウゼウィッツの男に連絡するなら、何を言ってもいい。言葉を選ぶことを許す。「無理を言われて困っているから助けてくれ」でも「今すぐ来てくれ」というのでもいいぞ。ただし、あくまで、おまえ自身が電話をするんだ、これは譲れぬ。さもなくば、カタルヘナの令嬢をこいつに呼びにやらせるが…さあ、どうする?女、クラウゼウィッツの男とカタルヘナの令嬢、おまえはどちらを取る?決めるのはおまえだ」
「…いいえ、私はオスカーを呼び出しません。電話をなさるのなら、あなたがご自身でなさってください、その電話はお貸ししますからご自由にお使いください、私は、これで失礼いたします、ロザリアのこともご心配には及びません、ロザリアがおびき…呼び出される前に私がなんとかします」
もう、何を言われようと、とどまる気はなかった。とにかく、急ぎオスカーとロザリアに連絡を取る、おびき出される危険のあるロザリアが先だ。私の電話を使われたとしても、ロザリアはきっと迂闊な誘いには載らないでくれると信じて、私は電話を探すか、借りるか、それもダメなら、とにかく心当たりを探す。きっと間に合う、大丈夫、そして、オスカーはもっと大丈夫、そうに違いない、どんな呼び出しをされても、オスカーなら迂闊に誘いにのったりしない、それに、オスカーはGPSで私の所在地がわかる、私の携帯電話から不審なコールがあっても、電話のある場所と私自身の位置情報が食い違えば、携帯電話を悪用されたことは、すぐ察してくれようし。
オスカーが、私にGPSを持たせてくれていてよかった、オスカーはこういう不測の事態を予見していたんだわ、そして、私も、オスカーに何かあれば、いつでも連絡できる、見守ってもらえてるという安心があるから、こんなに落ち着いていられたのだと思う。オスカーのその先見の明に報いるためにも、オスカーにもロザリアにも累が及ばぬよう、全力を尽くさねば、と、アンジェリークは自分に言い聞かせつつ、今度こそ、席を立とうとする。
が、青年はあくまで余裕の態度を崩さす、こう言った。
「どこまでも強情な女だな、見かけとは大違いだ。胆力、強い意思、機転もきき思い切りも良い、我の側近に欲しい位だ、だが、そうだな…女、おまえがあくまで強情を張ると、この学園の連中がどうなるか、我は責任がもてなくなるぞ」
「……どういうこと…?」
「最初に言っておく。何を聞いても大声を出すな。さもないと、今すぐに何やら騒ぎが起きるかもしれんぞ、そうだな、メインストリートかカフェテリアで爆発騒ぎ、なんていうのはどうだ?今は丁度下校する学生も多い、カフェテリアもにぎわっていよう。場所とタイミングによっては…怪我ではすまない者もいるかもしれぬな」
「!!!…なんですって!…」
初めて度を失った様子を見せたアンジェリークに、青年は、いかにもおもしろくてたまらないという顔になった。
ビンゴだ。この女の弱点がようやくわかってきた。
この女、どんな言葉や態度でプレッシャーを与えても、不安げな様子や、救いを求める様子は微塵も見せなかった。脅したり圧力をかけても動じない。屈する気配がない。携帯電話を取り上げたら、少しはうろたえ、御しやすくなるかと思えば、即、考えを切り替えたのか、携帯電話をあっさり捨てようとした。まったく大した女だ、付け込むすきを見せない。が、ふと、思い出した、この女、カタルヘナの令嬢のことを口に出した時だけ、動揺し、瞬間、無警戒に動いた、おかげで携帯電話を取り上げられたのだ。その時は、友人の名を挙げて脅しがきけば、位の気持ちだったが…どうやら、この女、自分への圧力には驚くほど頑強な精神力をみせる、が、自分以外の者へに危害や危険を与える、という脅しは、驚くほど有効なようだ…奇特なことにな。
自分以外の人間が傷つこうが、死のうが、関係ないのに、全く理解不能な心情だが、下賤の者は助け合わねば生きていけぬから、そんな風に感じるのかもしれぬ、が、とにかく、これを利用しない手はない…。
「どういうこと!?あなた、一体、何を…」
青年は、得意そうな顔でこう言葉をつづけた。
「大声を出すなと言ったはずだ。いいか、女、よく聞け。イイことを教えてやる。硝酸塩系の肥料と窒素系の肥料、カルキ、硫酸、それにライフルの雷管。この国では、簡単に手に入る物ばかりだ。わざわざ買い物に行かなくても、この学園内にもあるだろう、肥料類は園芸部に、カルキは水泳部、硫酸は化学部、そしてライフルの雷管は射撃部の部室に。そしてこれらの物は、それぞれ単独では取り立ててなんでもないものだ」
青年が突然、物の名前を列挙しはじめた。いかにも、得意げな顔と態度で。彼が何を言わんとしているのか、アンジェリークは、最初、わからなかった。が、青年がそれはそれは得意そうに言葉を続けていくにつれ、アンジェリークの背筋に冷たいものが流れた。
「では、これらの物質をこんな順序で組み合わせる実験をしてみよう、まず、ガラス容器に半ばまで硫酸をいれ、漏れないようコルクできっちり栓をしたのち、コルク蓋にライフルの雷管をセットする。次いで、そのコルク蓋の上に粉末状にしたカルキ、硝酸塩系の肥料、次いで窒素系の肥料を順次投入、封して、ガラス瓶を反転させる、つまり、硫酸が容器の上部、肥料類が下部、液体と粉末を仕切るのがコルク蓋ということになる。その状態で瓶を水平に置くと、容器上部の硫酸は徐々にコルクを溶かし始め、しかるべき時間の後、雷管に達する。すると雷管は硫酸に反応して発火、カルキと硝酸塩および窒素系肥料が連鎖的に爆発を開始する…これが、何を意味するか、わかるか?女」
「…わかりません、と申し上げましたら?」
アンジェリークは、嫌な予感、いや、これはもうすでに予感ではなく、明らかな危惧に体は凍りつきそうだ。青年の挙げた物は確かに学園内でもありふれたもので、ことに肥料やカルキなんてそれほど厳密に管理されているとは思えない。硫酸などの劇薬や雷管は流石に管理されてはいようが、学校内ということが油断となって、その管理がどれ程徹底しているかは、部員ではない者には知りようがない。容易に入手できるのか、きちんと管理してあって、部外者は入手不可なのか、それを判断する基準がアンジェリークにはない。そして、こんなありふれたものを組み合わせるだけで、爆発物が作れる?それを「嘘だ」とアンジェリークは言いきれない、ゼフェルなら即座に理解できるのかもしれない、そして、それが嘘であればいいが、もし、真実であれば、より絶望が深まるだけだ。
真っ青になったアンジェリークを見て、青年がしたり顔で笑み、
「女、おまえは感心なことに、○○国での争乱の模様をニュースで見知っていたらしいが…その詳細は知っているか?あの争乱は王宮の…王宮内の破壊をもくろまれてのものだったのだが、あの小国は軍隊を持たないが故、国の武器庫にあるのは、自動小銃とかそういう類の小火器類だけでな。それでは、建築物や強固な外壁を壊すにはあまりに効率が悪い、かといって、鉱山もないあの国は爆雷やダイナマイトなんていう爆発物も備蓄されてなかった、それで、首謀者はどうしたと思う?無い物は作ればいい、とばかりに爆薬を作った…作らせたのだ。爆薬と言うのは、初等の化学知識と簡単な薬品が数種ーそれこそ薬局や園芸店で買えるようなシロモノが数種あれば容易に調合できる。しかも、この簡易爆弾の素晴らしい処は、薬品の量やコルクの厚みの調節で、爆発の規模や爆破時刻を簡単に調節できることだった。あの争乱の首謀者はそれを使って騒ぎを起こした。あの国の王宮にはありふれて転がっていたワインの空き瓶に手製の爆薬を詰め込み、目立たぬ処に設置、機を見て爆発させ、騒ぎを起こしたんだ」
「…何故、あなたはそんなに詳しく争乱の様子をご存じなのですか?」
「我はその国の王子だと言っただろう?争乱の詳細を知っていて何の不思議があろう」
青年は、皮肉気な笑みを口元に浮かべた。
「人間、日常見慣れているものは、視界に入っても、別段気にならない。多少数が増えようが、いつもと違っている形状をしていようがな、例えば、この学園内では、ゴミ箱、カフェテリアのそこここにある鉢植えの脇に、飲料の瓶が捨ておいてあったとして、目にとめる者がどれ程いよう?」
「…っ」
はったりか?けど、彼の言が全て真実だとしたら?走狗となっていたエンジュが、用途も考えずに、指示された物を集め歩いていたとしたら?アンジェリークは思わずエンジュの方をみた。が、エンジュは、青年の話を真実、ただの雑談とでも思っているのか、どうも、要領を得ない顔をしているばかりだ。言葉を額面通りにしか理解できないエンジュには、彼が何を示唆しているのか、理解できていないのかもしれない。今、ここでエンジュを問いただしたとして、信頼できる答えが返ってくる保証がない。
「…あなたの目的は一体…」
「我は最初から告げている。とても、簡単なことだ。クラウゼウィッツの男に連絡を取れ、それだけだ」
アンジェリークの顔が苦悩に歪んだ。青年は、それをさも愉快そうに見下している。
ここで大声を上げる?青年の言葉を嘘だと決めつけて、強引に席を立つ?この場で踵を返して逃げ出したら、その後、どうなるのか…。
それが得策なのかどうか、アンジェリークには判断材料がなかった。
青年の言葉は全て嘘だと思いたい、この男の言うことは悉くはったりなのだと…
けど、この人が、本当にあの争乱の首謀者なのだとしたら…あの爆発物作成の詳細な知識を聞く前から、もしやと思っていたが、もう、疑う余地がない、そして、故国で発砲爆破を厭わないテロを起こした人物なら…故国の住人の命さえ、どうでもいいと考える者だ、異国の縁もゆかりもない学生の命など、何とも思わないだろう
テロリスト同様の所業をしてきた人物なのだ…何を準備しているか知れたものではない。
エンジュからこの会見を申し込まれた時、そうだ、その場ですぐ出かけるのかと聞いたら、即日ではなく…エンジュは「準備がいるから」と確かにそういっていた、それで、明後日の今日に約束した、その準備が、その類のものだったら?絶対ないとは言い切れない、それにエンジュが何もしてなくとも、薬品の調合、ガラス瓶の設置くらい、青年1人でもできようし、エンジュは詳細は何も知らされておらず、ただ時間を置けと言われていただけかもしれない、エンジュに何かを問いただしても、何も知らない可能性も高い。
絶対、周囲の人を巻き込みたくはない、オスカーやロザリアも巻き込むわけにはいかない…どうしよう…どうすれば…
「さあ、女、いい加減、覚悟を決めたらどうだ。クラウゼウィッツに、我が言う通りの言葉を伝えると約束しろ、さすれば、すぐ、この電話は返してやる。しかし…いつまでもぐずぐずしていると…どこかで、火の手があがらんとも限らんぞ?そうだな、サークル棟で火事が起きるかもしれん。そこからカタルヘナの令嬢を我が救出してやって信頼を得、命の恩人として援助を請うのも手だな。救出が間に合えば、の話だが。そうすれば、わざわざお前を介す必要もなくなるから、ここから返してやらんでもない、もっとも火事の犠牲者が何人かでるかもしれんが、ま、おまえには関係ないことだと思うなら…このまま、頑固に黙っているがいい。我はどちらでもいいのだからな」
青年はおかしくてたまらない、という調子で言葉を続ける。
青年の言葉が全て嘘だと、爆発物などしかけられるわけがない、はったりだと言い切れればいいのに、そうできない。アンジェリークが「オスカーに連絡するしかないの?」と絶望しかけ、視線を落としたその時、腕のブレスレットが目に入った。
「ダメ!そんなこと!他の人は巻き込まないで、絶対に!」
アンジェリークは動揺のあまり感情を激発させたのか、いきなり、バン!とテーブルを手で強く叩きざま、立ち上がった。
それが『お願い、気付いて』祈りながらの行為であったことに、青年もエンジュも無論、何も気づかなかった。