Before it's too be late 36

オスカーが万に一つの望みをつないでかけたアンジェリークへのコールは…主観ではかなりの時間呼び出し続けたが、半ば予期した通り、繋がらなかった。

予測していたとはいえ、一挙に危機感、不安、懸念、焦慮、そういう諸々がこみあげ押し寄せた。胸つぶれ、うまく呼吸できない気がする。

一方で、オスカーの体は一層機敏に反応する。その動きに迷いは微塵もない。「危機」が明白となった以上、ぐずぐずしている時間はない、不安がり心配する暇があったら1秒でも早くアンジェリークの元に駆けつけ、彼女の安全確保を最優先とする、そのための行動を最速に、そして最善を為すだけだと明確に意図する。

オリヴィエの手回しの良さに感謝しつつ、車止めに用意されていた車に乗り込む、エンジンをかけるや、即、ギアをトップに叩きこむ。

矢も盾もたまらぬ思いを肌身で思い知る。気はこれ以上無いほどに急いている。

街の真ん中から学園まで、大した距離ではない、が、都心ならではの信号の多さがもどかしい、もっとアクセルを踏み込みたい、けど、万が一、事故を起こしたり、交通警官につかまったら…アンジェリークを速やかに助けに行けなくなってしまう。きりきりと胸と胃が焼け焦げるような焦燥を無理やりのように抑え込むために、オリヴィエに遂次『アンジェリークに動きはないか?』と尋ねる。オスカーに運転に集中させるため、アンジェリークの動向はオリヴィエが液晶を注視しているので、動きがあれば、オリヴィエが報告するし、オリヴィエが何も言わないということは目立った動きはないということだと頭ではわかっている、わかっているのだが、尋ねずにはいられないのだ。

が、その度に、オリヴィエの返答は

「動きなし、こちらからのコールに応答もなし」

で、連絡がつかないことは相変わらず予断を許さないが、それでも「動きがない」という状況は、オスカーをいくらか安堵させてくれた。

アンジェリークと連絡の取れない現時点では、彼女がどんな危難に直面しているか、確かめるすべはない。が、彼女に動きがないイコール彼女は動きが取れない状況なら、自分たちがその場に駆け付けることで、危難から助け出せる公算が大きいと考えられたので。

だが、一方で、オスカーは、この件には、先刻までオリヴィエと話題の俎上に上げていた人物が関わっている、そんな気がしてならなかった。

あの学園内に出入りができ、アンジェリークに危害を及ぼしそうな人物は1人しか思い当るところがなかったからだ。

そして、もし、ヤツが関わっているとして、アンジェリークに動きがあったら…かなり、まずい…

その焦慮が、懸念が、何度でも

「動きはないか?」

という問をオリヴィエに投げかけさせる。

と、幾度目の問いかけだったろうか、オリヴィエの返答がいきなり緊迫した。

「アンジェを示す点は学生会館の隅から動いて……あ!動いた、アンジェに動きがあった!会館内をジグザグして…今、学生会館を出た!」

「何?どっちに向かっているか、予想できるか?」

「止まったり急に早くなったり、動きが一定しない…いや…あっちこっち動きながらも、なんとなく目指してる方向はあるような……あ!わかった!駐車場だ!オスカー、アンジェは会館を出た後、不規則にだけど、駐車場の方に向かってるみたいだよ!」

「駐車場だと…?」

アンジェリークは、誰かかの手から逃げ出そうとして自分の判断で駐車場に向かっている?いや、ありえない!彼女は車を持っていないし、救難信号を出しているのだから、じっとして助けが来るのを待つのが最も効率的で賢いやり方だ、なら、この動きは彼女自身の判断ではない、彼女は駐車場に無理やり連れていかれようとしてる!違いない!

「アンジェリークなら俺たちの助けを信じて待つ、今、彼女が動いているなら、誰かに無理やり駐車場に連れていかれようとしてるってことだ!」

「駐車場、といえば車…てことは、その誰かは、逃亡用の車を用意してるってこと!?じゃないの?!」

「ああ、恐らく間違いない」

と言いいかけてオスカーは、はっとした、先に調査社を使って調べたヤツの住処、いや、それ以前に、ヤツが使っていた車と言えば…

「まずい!オリヴィエ、すぐゼフェルに連絡を入れてくれ、アンジェリークが車に乗せられるのを、なんとしても阻止してくれと!もし、アンジェリークを連れまわしているのが、俺の考えてる通りのヤツなら、彼女を迎えの車に乗せて連れ去るつもりかもしれん。彼女がひとたび車にのせられたら、容易に救出できなくなる!車の足止めは考えなくていい、彼女を車に乗せない、それが最優先だ!」

「わかった!逃亡の阻止より、アンジェの乗車阻止優先だね!」

即、ゼフェルのナンバーをコールしつつ、逃亡の阻止じゃなく乗車阻止が優先?と、オリヴィエは瞬間、疑問に思ったがーというのも、万が一、アンジェリークが車に乗せられたとしても、その車の発進・逃走を阻止できれば、アンジェリークの救出は可能ではないのか、駐車場の出入り口に、このオスカーの車を横付けして止めてしまえば、先方が大型トレーラーでもない限り、無理やり乗り越えて行くのは不可能なのだから、アンジェリークを助け出すことは容易にできよう、なのに、アンジェが車に乗せられることを、第一に阻止する意味って何だ?と。

ただ、オスカーは理屈に合わないことをする男ではないことをオリヴィエは知っていたし、今、疑問を呈してオスカーの運転への集中を乱すのは何の得にもならない、オスカーに理由を解説してもらう余裕もない。オスカーの言葉にはそれ相応の理由や根拠あってのことだろうと、オリヴィエは疑問は胸の内に、ゼフェルを呼びだした。

 

ゼフェルはアンジェリークを示す点の動きを注意深く追っていた。単車のハンドル部分に携帯の液晶画面がよく見えるよう設置し、自分と目標の現在位置を確認しながら単車を操る。

アンジェリークの動きは一直線ではなく建築物の間を縫うようにジグザグに軌跡を描いていた。あの男…アンジェを連れ去った男が自分と言う追手を警戒してのことだろう、また、彼女の動く速度も一定しない、止まったり、急に素早く動きだしたり、だ。アンジェが抵抗し、足を踏ん張り、けど、その度に力づくで引っ張られるか脅されて走らされる、を繰り返しているのだと、ゼフェルはみてとった。その動線は一定せず、動きは不規則だが、当初の予測通り、彼らの目標地点は学園の駐車場で間違いない。

人を拉致するなら足ー移動手段の確保は必須だ。歩き歩かせの逃亡など、すぐ追いつかれ人質を奪還されてしまうは自明だから。

「て、ことはヤツは予め逃走用に車を用意してやがったな」

と考えたゼフェルは単車ならでは機動性を生かして駐車場に先回りし、男がアンジェを連れてくるのを待ち構えようと考えた。

ゼフェルはあの男の正体を知らず、アンジェをさらった目的も見当がつかなかった。あの青年を学内で見かけた覚えはなかったし、ましてや、オスカーとオリヴィエが男の素性を調査していたことも、彼が毎日学園に送迎されている身分だとも知らなかったー知らされていなかったので、男が車を用意している、となれば自分で車を運転して逃亡する気なのだと判断した。ゼフェルの常識では車は自分で運転する物であり、運転手の送迎という使い方を思いつかなかったのは、無理からぬことだった。

何より、性根がまっすぐ、かつ、合理的な思考をするゼフェルが、今、重要と見なしていたのは「アンジェが無理やり拉致られた」事実と「アンジェを助け出す」という目的、この2点のみだった。あの男が誰かとか、アンジェを拉致した目的は何か、などは2の次ーというと語弊があるが 『考えてもわかんねーことに頭悩ますのは時間と労力の無駄だ、ヤツの正体や目的を突き止めんのは今じゃなくていい、そんな暇あったら、アンジェ助け出す算段に頭使え!俺!』と考え動くー無駄な労力はそそがない、その分、今できることに全力を傾けるのがゼフェルの「冴えたやり方」だった。

そこで、ゼフェルは反射的に最短距離を計算して駐車場の裏手に向かった。裏手から駐車場の敷地内に入り待ち伏せすることにしたのだ。

ゼフェルの考えた計画はこうだった。

駐車場に到着した時点で、警察に通報、警察が到着するまでの間、人の出入りがあれば、すぐわかるよう、自分が入口を見張る。ヤツはアンジェのブレスレットが救難信号を、ピアスとペンダントが位置情報を出していることを知らない、学生会館方面から俺が追ってこないとなれば「うまく追手を巻いた」と油断して、無警戒に駐車場に現れるはずだ、そこで待ち伏せしていた俺がアンジェを奪還、警察の到着を待ってあの男を捕縛してもらう。万が一、男が車で逃げたとしても、俺が車の形状やナンバーを見て知らせれば、検問ですぐ捕まるだろう。

「完璧だぜ」

と、ちょうど、駐車場敷地に着き、警察に通報しようと携帯電話を取り出した途端、着信音が鳴りだした。無視しようかと瞬間考えたゼフェルだが、待ち伏せしてる最中にしつこくコールされて、あの男に気付かれ、回れ右されたら元も子もねーと思い、電話に出る。

「俺は今、アンジェの行方を追ってんだ、邪魔すんじゃねー!」

着信音から友人だと知れていたので、出鼻に遠慮なく言いたいことをいう。

「てことは、あんた、アンジェの姿、確認してるんだね?!アンジェは無事?」

慌てて、友人が最も知りたいであろうことを問うてきた。

「ああ…だが、すまねぇ。一度は視認したのに、あいつを助け出せなかった…色々あって、変な男に目の前であいつを攫われちまった、面目ねぇ」

その男が爆発物を仕掛けたとアンジェリークを脅していたらしいことや、そっちの処理を優先してくれと頼まれたため、即座にアンジェリークを追えなかったという事情は今、話す余裕はないし、どっちにしろ言い訳にしかなんねーと思って端折り、ゼフェルはシンプルにこう伝えた。

「けど、もう、すぐ、あいつを取り戻すかんな!間もなく、あいつが姿現すだろうから、もう切るぜ。おっさんに、心配すんな朗報まっとけって伝えておけ」

「て、ちょっと待って、ゼフェル、アンジェをさらった変な男って、見た目、どんなだった?」

「あ?銀髪の若い男だったぜ、学生にしちゃトウが立ってる感じだったが、かといってぜってー教職員じゃねぇってナリだった」

一瞬、息を呑む気配が電話の向こうから伝わってきたかと思うと、いきなり、電話からきこえてくる声がオスカーのものに変わった。

「ゼフェル、ヤツはアンジェリークを車に乗せて連れ去るつもりだ!アンジェを絶対車に乗せないよう、どんなことしても、邪魔してくれ!」

「んなこた、とっくに予測して、俺ぁ、もう、駐車場に来てる!あの男がアンジェ連れてのこのこ現れた処をとっ捕まえてやるから安心しろ!それでも、万が一、車に乗りこまれた時は、この単車ぶつけても、車を出させないようにしてやらぁ!今も警察に通報しようとしてたとこだ、足止めしてる間に警察がくりゃぁ…」

しかし、ゼフェルの意気盛んな返答に、オスカーは更なる怒号を返す。

「それではだめだ!警察への通報も、車の発進を阻止しても無駄だ!彼女が車に載せられて、扉を閉められてしまったら…手が出せなくなる!とにかく彼女を車に乗せないことを最優先にしてくれ!」

いつもより少し声が遠く発声が明瞭でなかったが、必死な様子が口調からはっきりとわかった。どうやらオスカーは運転しながらオリヴィエの携帯電話に向かってどなっているらしい。

「何でだ?車なんて、小回りきかねーし、出口ふさがれたら二進も三進も行かねーんだから、足止め優先すべきじゃねーのかよ!それに俺はもう駐車場にいて待ち伏せしてる!ヤツをみすみす逃がすようなこたぁしねぇ!」

ゼフェルの声が負けじの音量で応答したが、オスカーの更に切迫した怒声がゼフェルの声にかぶさった。

「ダメだ!ヤツは恐らく駐車場には向かわない!ヤツには迎えの車が来る!行くならロータリーの方だ!」

「んだとぉ!マジか!?」

「ああ!しかも、その車は外交官ナンバーの可能性が高い…外ナンバーの車に1度乗りこまれ、扉を閉められたら最後、こちらから一切の手出しができなくなる!だから、とにかくアンジェリークが車に載せられるのを阻止せねばならんのだ!」

「あ!そうか!ヤツを送り迎えしてるのは、外ナンバー車…大変、この国の警察じゃ車を止めることはおろか、中の確認も扉を開けさせることもできないじゃないか!アンジェを返せって言っても強制できない!」

「そうだ!外ナンバー車には治外法権が適応される!この国の警察ができるのは任意で協力を依頼することのみ、強制力がないから、拒否・黙殺されたらそれで終わりだ、だから、足止めは無意味なんだ!」

突然割って入ってきたオリヴィエの声は酷く切迫していた。オスカーの声はもはや怒号に近い。その必死さが何を意味するか、ゼフェルは即座に察した。『こいつら、アンジェをさらった男にアテがあるんだ、てことは、この情報精度はかなりの高さ…やべぇ!』ということを。

「わーった!!どんな手ぇ使っても、アンジェを車には載せねー!」

「それは確かなのか」なんて聞き返す無駄はせず、ゼフェルは頼もしい一声を返し、通話を切った。

『まったく俺としたことが策に溺れたぜ』

車を使うヤツぁ駐車場に向かう、なら先回りして駐車場で待ちぶせしてりゃ絶対捕まえられる、と思い込み、決めつけていた自分をどやしつけたい気分だった。迎えの車が外から来て、しかも、それが外交官ナンバーのものかもしれないなんて、想定外もいいところではあるが、既成概念で自身の思考が硬直していたのは否定できない。

最初から反応の課程・道筋、実験結果を決めつけちゃなんねぇ、ありとあらゆる可能性を多方面から検討・考慮するのは研究実験の場では普通にやってることなのに、それが「車」「運転」みたいな日常の事象になると、科学的な思考ができなくなるようじゃ…

「天才科学者を自称するには、まだまだだな!俺も!」

一人ごちながら、地面すれすれまで単車を傾げ、鋭角に綺麗なターンを描いた後、ゼフェルはエンジン全開でー待ち伏せはなくなった、時間も厳しいとなれば、排気音を警戒する必要もねぇとばかりに、駐車場を突っ切って抜け、まっすぐロータリーに向かった。

そしてゼフェルとの通話が切れた、その直後のことだ

「って、ちょ…待って、たった今、アンジェの動きが止まった!」

オスカーの携帯電話でゼフェルと通話しながら、自身の携帯でアンジェリークの動きを目で追っていたオリヴィエが叫んだ。

「場所は?!駐車場の中か?ロータリーの方か?」

オスカーが怒鳴るように問い返す

「ロータリー!」

「…迎えの車がくるな、外ナンバー車が…」

万が一の時は、この車をロータリーの入口に横付けして、足止めする気構えはある、だが、アンジェが車に乗せられてしまっていたら、外交官ナンバーの車に実際にそれができるかどうか…。

『間にあってくれ…』

ハンドルを握り、前方を凝視しながら、オスカーは祈った。今はゼフェルだけが頼りだった。

 

「さっさと歩け、もたもたするな」

青年はアンジェリークの手首を跡がつくほど強い力で握り、遠慮なく引きまわす。

せっかく、目当ての人物の方からコールが入ったのに、とんだ邪魔が入ってしまった、あのコールは、絶妙のタイミングだったのに、という苛立ちもあって、こめる力に容赦がない。

折り返し、こちらから電話を掛けさせたいのは山々だったが、時計を見ると、もう、あまり時間がなかった。後刻、場所と時間を改めて仕切りなおすしかなさそうだ。

間もなく迎えの車ーといえば聞こえがいいが、彼にとっては囚人移送車でしかない、黒塗りの高級車は鉄格子こそないものの、ウィンドウはスモーク強化ガラスで銃撃にも耐え、外から車内は見えず、内から外の景色も見えない、しかも、一度扉を閉めると内側からは開かないのだからーが、来てしまう刻限だった。

彼は、決められた時刻には大学の車寄せに居て、即、車に乗り込まねばならなかった。

彼は、表向き留学のためこの国に滞在している賓客だったので、登校時から下校時まで、大学構内では行動の自由をゆるされていたが、実質的な扱いは囚人ー多少言葉を飾るなら幽閉された虜囚のそれだった。決められた時刻に決められた通りのことを懲課として行わねば、行動の自由は保障できなくなる、と管理者から告げられている、つまり、決まりを破れば大学に行く自由もなくなり、禁固されると脅かされていた。彼のタイムスケジュールは履修すべき授業にあわせ登校時刻、下校時刻も曜日毎にきちんと分刻みで決められている。それらを守らなかったら、程度にもよるが、今のささやかな自由すら、取り上げられるとあって、彼は、今まで、登下校時刻は、きちんと守ってきた。

ひとたび大学構内に入ってしまえば、肩書が留学生の彼に護衛名目の監視役はついてこないので、今まで、彼は、キャンパスの中では、比較的自由に動くことができ、その自由を確保し続けるには、見える処で所謂『模範囚』を彼は演じる必要があったからだ。ために彼は『登下校時刻』など、わかりやすい指示にはきちんと従ってきた。頭の中で何を計画していようと、目に見える部分では反抗せず、模範囚を装っていた甲斐あって、この国に連れてこられた当初、移動の際は運転手とは別に監視役がつけられていたが、最近、登下校時には監視がつかなくなったー運転手のみで送迎されるようになっていた。これは、彼の素行が信頼されて、監視が緩んだ、もしくは油断している証だと彼には思えた。彼にとっては好都合なことに。当然、彼は大学構内では自由を保持し続けられたし、だからこそ、授業に出席せず、その時間をある計画の準備にあてることが可能だったのだ。

そして、まだ、計画準備が完全に整っていない段階、目的を成し遂げていない現況下で、行動制限が強化されるのは好ましくなかったので、今日も、決められた時刻に決められた場所には、きちんと戻るつもりだった。

望みがかなうまでは雌伏期間と割り切って、おとなしくしているーおとなしくしていると見せかける必要があるのだ。

自分が何を目論んでいるのか追求されたり、勉学に励む気がないと露見して拘禁されたりは、今はまだ困る。

今、何もできていないこの時点で、それは避けねばならなかった。どんな小さな矢でもいい、一矢なりとも報いぬ内は決して引き返さない、と彼は心に決めていたので。

しかし、それも後少し…後少しの時間、管理者を誤魔化し、だまし、乗り切ればいい処まで来ている、ようやく、ここまでこぎつけた。

なにせ、もう、格好の「エサ」である少女は確保している、我が手中にあるのだ、一度は、餌のターゲットー目的の人物の方から電話がかかってきており、少女の携帯電話は押収してある、なれば、この電話を使って少女にコールさせれば、ターゲットといつでも交渉できるー要求をつきつける準備はもう整ったと言えた。自分の望みに大きく近づけた。後は、実際に、この女を餌にクラウゼウィッツにある要求をつきつけるだけだ、そして、先刻の電話は、ターゲットと交渉するのに絶好の機会だったのだ、なのに…

「あのバイク小僧のおかげで、とんだ番狂わせだ」

クラウゼウィッツにこの女を餌に要求を突き付け、望みがかなえば…それがかなった後なら、何がどうなろうと構わなかった、必要なのは、あと、ほんの少しの時間だったのに。

それだけでも苛立つのに、捕えたエサー女の抵抗はいまだ激しく、それが一層彼を苛立たせた。

「いや!離して!」

懲りずに何度でも同じ言葉を繰り返すこの餌ー大事な人質は、彼がその腕をつかみ走りだした直後から、なんとかその腕を振りほどき、逃げ出そうと悲しいほど虚しい努力を、今も執拗に続けていた。この細腕で、男の力を振り切れると思っているならお笑い草だし、うまく腕からすり抜けても、男の足に追われればすぐ追いつかれ、再度捕らわれることもわかっていないようだ。だが、彼には、今、時間の余裕も遊ぶ気分もなかったので、女を僅かでも手放す気ー1度逃がして再度捕え、絶望を味あわせるような余計な時間や手間暇をかける気はなかった。

「手間をかけさせるな、痛い目に…」

と言いかけてやめる、この女には、彼女自身への脅しはさして効果がなかったことを思い出す。それに餌はイキが良いほうがいい、生き餌でなければ、役に立たないのだから、この餌自体を痛めつけるのは、今は得策ではないと思い返し、こう告げた。

「無関係の学生たちが痛い目にあってもいいのか」

一瞬、少女の動きが止まる。が、少女はすぐに抵抗を再開する。

「ゼフェルに知らせたもの!ゼフェルならなんとかしてくれる、だから、もう、あなたのいうことなんて聞かない!放して!今すぐこの手を!」

「ちっ…」

単純な脅しではもう効果がない、というなら、矛先を変えればいい。

「なら…試してみるか?今すぐ、ボタンを押してもいいんだぞ。学生の避難が完了してるかどうか、俺には関係ないし、爆発物を処理する人間が、もう、この学園に到着していたとしても、処理にどれくらいの時間がかかるものだろうな?たった今処理の真っ最中、もしくは探索中だったら…今、起爆スイッチを押したら犠牲になるのは、そのプロたちかもな…おまえが逃げ出したら俺の両手は空く、つまり、すぐさま起爆装置を取り出してスイッチをいれられる。爆音が聞こえるのは、お前が逃げ出した何秒後になるだろうな?けど、この学園の学生でなければ、誰が死のうが構わんというのが、おまえの考えなら…止めはせん、さあ、逃げたいなら逃げ出すがいい、そして、その耳で爆音と悲鳴を聞け」

思い切り皮肉気に言ってやる。と、少女は一瞬、はっとし、そして、みるみるしおれた花のようにー容姿の愛らしさ故にまさに文字通りー生気をなくし、抵抗しなくなった

「そうだ、おとなしくしていれば、誰も死なずに済む…かもしれん、おまえが軽はずみに動かぬ限りはな」

少女は、一瞬、燃えるような強い視線で、まっすぐに青年を見据えた。その瞳は、少女が真実、しおれても萎んでもいないことを示していた。

今の脅しは、あと、せいぜい10分位しか効かないだろう、僅かな時間稼ぎでしかないと、青年にもわかっていた。なにせ、爆発物の存在は第3者に知れてしまっている、爆発物処理人が到着し、処理が完了した頃合いだろうと素人にも推測できるまでの時間しか、この女の抵抗を抑え、行動を縛ることはできない、だから、そうなる前に、誰も手だしのできない場所、クラウゼウィッツと交渉する間、この女を保管できる場所に連れていく必要がある。それまでは、この女に抵抗される訳にはいかない、どんな手段、ハッタリでもいいから、女の動きを抑えねばならない。

まずは車止めにこの女を連れて行き、迎えの車にこの女を押しこむ。

その後は、この女を餌にクラウゼウィッツに要求を突き付け、その要求を呑みこませる、その時まで、抵抗を封じねば。

青年は少女を引きずるようにして歩かせる、少女は黙ったまま足を踏ん張ってなるべく抵抗しようしていたが、それでも、男の力には敵わず、引っ張られ、動かされる、それを幾度も繰り返す。

と、突然に青年が歩みを止めた。

青年から己が腕を抜き取り、なんとか逃げ出そうと試みることで精いっぱいだったアンジェリークは自分がどこを目標に連れまわされているのか、この時までよくわかっていなかった、が、見回してみれば、よく見知った場所ーそこは、大学の駐車場の入口付近にあるロータリーだった。駐車場には入らない送迎車ータクシーを含むーが一時停止のために使う車止めの場所というか、人が車の乗降にのみ使う場所だった。良家の子女が多数在籍しており、車で送迎される学生が一定数いるこのスモルニィならではの施設だ。大学側も、車通学は駐車スペースの関係上、原則禁止しているが、送迎に関しては規制はなく、むしろ、学生の乗り降りで、送迎車が一般道路上に一時駐車すると、他の車の通行を妨げる恐れがあるため、積極的にロータリーと車止めを整備していた。

車止めまで連れてこられてしまったことに気付き、アンジェリークはさっと青ざめた。青年が、この場に自分を連れてきた目的が予想できてしまったからだ。

一方で目的地に辿りついたことで、青年は勝ち誇ったようにアンジェリークに笑いかけた。

「とんだ邪魔が入ったおかげで、落ち着いて話ができなかった、が、我は、どうあってもクラウゼウィッツとせねばならぬ話がある、とはいえ、我は王子だ、このように開けた場所で国家安泰に関わる機密事項をそうおいそれとは口にできぬ、お前もこんな落ち着かぬ場ではクラウゼウィッツに連絡しづらかろう?慌てふためき言うべき言葉がでてこないと困るからな、そこでだ、落ち着いて話ができるよう、これから、おまえを我の住居に招待してやろう。じっくり、腰を落ち着ければ頭も冷え、さすれば、クラウゼウィッツに連絡をとるほかないと、おまえにもわかるだろう」

「…なんですって?」

「まさか、嫌とは言うまいな?」

青年は片手はしっかりとアンジェリークの手首を握ったまま、己の懐を探る仕草を見せた。実際、懐に起爆スイッチの類をしのばせているのか、それがブラフなのか、アンジェリークには判断するすべがない。

「迎えがきたようだ」

驚くほど静かにロータリーを巡ってき、アンジェリークの目の前にとまったその車は…ウインドウが全てスモークで中が見えないようになっている、見るからに高級車だとわかる黒塗りの車だった。だが、アンジェリークが驚き慄いたのは、その車の外観ではなく、ナンバープレートだった。

「外交官ナンバー…」

「のれ。余計なことはしゃべるな、無論、暴れたり騒いだりもだ。もし、お前がいささかでも不審な動きを見せたら、俺は即座に…」

青年が再び懐に手をやる。アンジェリークは瞬時に目まぐるしく考えを巡らす。思い切り暴れて抵抗すれば、多少の時間はー爆発物を処理するための時間を稼げるかもしれない。けど、今、少々の時間稼ぎに意味はあるのか?

アンジェリークは逡巡する、自分の決断が、選択が、自分以外の他者の安否に関わってしまう、それがアンジェリークを悩ませ、迷わせる。

せっかく、自分を探しに来てくれたゼフェルに対し、爆発物の発見と処理を優先してくれとアンジェリークは頼んである、それは絶対に間違ってなかったと思っている。そして、自分が、抵抗して時間稼ぎををしている内に爆発物処理が完了すればいい、けど、処理が今、どの程度進んでいるか、教えてくれる人も術もない、もし、思ったより処理に時間がかかっていたら?私が抵抗したことで、却って見せしめに爆発物を爆破されたら?処理する人の装備が思いのほか軽装だったら?ifは無数にあり、万が一、根拠のない甘い見通しで犠牲者が出てしまったら…私、悔やんでも悔やみきれない。

十分な時間さえ経てば、危険は掃討されたと確信できれば、ゼフェルから、その連絡を貰えればどんな抵抗だってできる、してみせるけど…決断を迫られているのは今だ…抵抗し逃げ出す努力をする?その結果、起爆スイッチを押されたら?その時の爆発の規模は?被害はどれくらいになりうる?

「…っ…」

でも、車にのりたくはなかった。外交官の娘であるアンジェリークは、外交官ナンバーの車に乗り込むという意味をよく知っていたから。治安の悪い外国で、父が、時折自分も、その恩恵を受けてきたから。

外ナンバーの車は、1度扉が閉められてしまえば、その車内は異国と同じになる。その国の司法が、警察力が及ばない、なんの権限も強制力も通用しない。治安の悪い国では、その力が邦人を守る。

しかし、一方で、この車に載せられてしまったら、私が「助けて」と声をあげても、この国の警察は車を止めることも、助けることもできない…ましてや、もし、連れていかれる先がこの青年の母国の公館内なら…そこは車内以上に異国そのものだ、その領内にいる邦人は、外務省が保護が要請し、その要請が受理されて初めて保護が受けられる、逆に、その国が「出さない」と言えば公館から出ることもできない、そんな処に監禁されてしまったら…全てはこの青年の気持ち次第になる…オスカーに連絡をとるまで、下手すると、オスカーが要求を呑むまで、この青年は私を開放しないのでは…という懸念が更なる現実味を帯びてアンジェリークを苛む。

それを思えば、絶対に車に乗る訳にはいかない。今すぐにでも逃げ出したい。

けど…その結果、もし見せしめに起爆スイッチを押されてしまったら…その周囲に人がいたら…そして爆発物がもし複数あったら…

それに…車内には運転手がいる、外ナンバーの運転手がこの青年の配下なら…彼が自称通り王族なら、王国における王族の権限がそれ相応のものであること位、アンジェリークも知っている、そして異国人の見知らぬ少女が助けを求めたとしても、王子の命がそれに相反した場合…私を車に乗せて某所に連れていけと命じたら、運転手は王族の命を優先させるだろう。抵抗は、もとより無駄かもしれない。

ああ、でも…

ぐずぐずしているアンジェリークに、青年があからさまな苛立ちを見せ始めたその時、激しい排気音をとどろかせ、凄まじい勢いで単車が近づいてき、少女の名前を再び呼んだ。

「アンジェー!」

「!!!…ゼフェル!」

「ちっ…早く乗れ!」

青年は再び現れた単車に驚きを隠さなかったが、追手が現れたことで、更にアンジェリークをせかし、その身を車内に押し込もうとした。

が、ゼフェルの姿を認めたアンジェリークはがぜん、勇気を出し、車のドアに手を突っ張って、なんとか抵抗する。

バイクはロータリーの出入り口をふさぐ気はないようで、まっすぐに車に向かって突っ込んでくる。

ゼフェルも、あからさまに直進するのは危険だとわかってはいた。もし、車の助手席側に誰かいて、突然ドアを開けられたら、バイクは扉に激突、あっけなく転倒させられる、が、躊躇したり、背後から回り込む余裕もない、まっすぐに突っ込まないと、今にも少女は車に押し込まれそうだった。今は可能な限り急ぎ、少女と車の間に単車を割り込ませ、少女の乗車を阻止、その上で、すり抜けざまに少女の身柄の掬いあげるように奪還するしかない、そう判断した上でのゼフェルの特攻とも見まごう猛ダッシュだった。

青年は、単車が出入り口をふさぐようなら、強引に力押しで単車を踏み越えさせる腹積もりだったが、バイクがまっすぐにこちらに突っ込んでくるのを見て、あの少年が短絡的に動いて(と青年には思えた)くれたおかげでむしろ却って助かった、と、ほくそ笑んだ。バイクを車で乗りこえるのは可能でも、そんな手間はかけないで済むに越したことはない、今は、とにかく、急ぎ少女を後部座席に載せねばと、更に力をこめて少女を無理やり押しこもうとする。

「いや!」

ところが、ここにきて一段と少女の抵抗が激しい。

「どうしても爆音と悲鳴が聞きたいらしいな、おまえは。とにかく乗れと言っている!」

青年の恫喝に少女は一瞬怯んだ、が、少女が抵抗を諦めた訳ではなさそうなのは、その顔を見れば明らかだった。業をにやした青年は、少女と立ち位置を変えて自分が先に車に乗り込み、車内から、少女を引っ張ろうと考えた。押し込むのに抵抗するなら、引きずりこめばいいとばかりに、車の後部座席から少女の腕を思い切り引っ張り、引き連れ入れようとする。車に乗せられるまいと、おされる力に抵抗していた少女は、加えられる力のベクトルがいきなり変われば、ふんばりが効かない、そのまま後部座席にまろびこませる形で車に乗せよう、そう考えた。

青年は車に乗り込み、車内から少女を見上げる。視点が変わったその時、金髪の少女の背後にいたもう1人の少女ーひょろっと背が高く、やせぎすで、砂色の髪をふり乱し、おどおどとしている少女の姿が目に入った。

そして、この時、ようやく、青年は協力者の少女の存在を意識したー思い出した。この少女は、先刻から、金髪の少女と自分との押し問答を、ずっと途方に暮れたように眺めていたー両手を振りしぼり、祈るように合わせ、泣きそうな顔をして、揉み合う2人をおろおろした様子で眺めていた。

そういえば…と、青年は思い出す、金髪の少女を学生会館から連れ出し、ロータリーまでひきずるように連れてくる間も、この少女は何をするでもなく、ただ、置いていかれまいという形相で後をついてきていた。確かに青年は「来るな」とは言わなかったがー単に言う暇がなかっただけだがー当然「ついてこい」とも言っていないのに、だ。青年は、金髪の少女をとらえた時点で、協力者の少女の存在を意識から消し去っていた。用のなくなった、役目の終わった少女の存在など、意識にとどめる必要はないからだ。意識野から排除した存在だから、青年は何の声かけもしなかったし、その少女の姿が視界に入っていても、全く意識していなかった。ついてこようが、ついてこまいが、どうでもよかった、その辺りの木や石を見ているのと同じだった。

そして、この少女自身、今の今まで、青年に協力するでもなく、かといって、自分が呼び出し捕えられた金髪の少女を助けようとするでもなく、指示を仰ぐでもなく、声をかけるでもなく、ただ機械人形のように後を追ってくるだけだった。少女は、自分では、すべきことも言うべきわからぬ様子だった。

その少女が、今、泣き出しそうな顔で、車に乗り込んだ青年を、腕をひっぱられている少女を、交互にみやりながら、途方にくれた様子でたたずんでいた。

青年は舌打ちしー全く気のきかないことだ、と言わんばかりに

「エンジュ、この女を車に乗せろ、そちら側から女をおしこめ」

と命じた。

すると

「え?あ、はいっ!」

エンジュは、青年に声をかけられた瞬間、はじかれたように反応し、何を思ったのか、そのまま、飛び込むように自身が車の後部座席に乗り込んできた。

「な!?」

「きゃぁっ」

いきなり、そして、かなり無理やり後部座席に乗り込んだことで、図らずも、エンジュは、ドアのところで踏ん張り、車に載せられまいと抵抗していたアンジェリークに体当たりをするような形になった。近づいてくるゼフェルに向かい手を差し伸べていたため、その分、突っ張る力が弱まっていたアンジェリークは、エンジュの体当たりで、思わぬ方向から力を加えられて踏ん張りきれずによろけ、結果、車の後部座席に倒れこんでしまった。

ちょうど、バイクですり抜けざま、アンジェリークの体を抱え掬い上げようとしていたゼフェルの腕は虚しく宙を切った。 

「アンジェ?!」

急ぎターンをした時には、やせぎすの少女がお下げ髪をふり乱し、慌てふためいた様子で、アンジェリークの体の上に倒れこむようにして、車の後部座席に姿を消したところだった。

「やべぇ!」

ゼフェルはターンさせたバイクを急加速する。あのドアを閉じさせちゃなんねぇ!

それとほぼ同時、無理やり乗りこんできたエンジュの姿に一瞬、度肝を抜かれた青年は、即座にエンジュに「降りろ」というつもりだった。

が、単車の少年が、再度、車めがけて突っ込んでくるのが見えた。

押し問答している暇はない、ましてや、この女を降ろそうとしたら、その間、ドアが閉められない、このまま車を無理に発車させられないこともないが、ドアを開け放したまま車体が急な旋回をすれば、ドア付近のエンジュが転げ落ちるーのはどうでもいいが、そのまま、人質の少女も一緒にまろび出てしまわないとも限らない。

人質の少女は、今、エンジュの体が障害物となりストッパーとなっているから、上手く身動きがとれず、逃げられずにいる。ここでもたついていたら、せっかくの餌に逃げられる!

「ちっ…エンジュ!今すぐ車のドアを閉めろ」

間をおかず、運転席の男性に青年は異国の言葉でこう告げた。

『扉が閉まり次第、車を出せ』

承諾の声と車のドアが閉まり音が重なり、ほぼ同時に、車は急発進した。

『お連れする女友達はおひとりと伺っていましたが』

『王族の我に女が自然と群れ集まるのは仕方なかろう。どうしてもついてきたかったらしいのでな、仕方ない、2人共連れていく、食事の用意を1人分増やすよう、伝えておけ』

『はい』

エンジュには、青年と運転手の交わす異国の言葉は耳慣れないもので、全く理解できていなかった。彼女はいつでも、自分のことで、いっぱいいっぱいだったが、今は尚更にそうだったので、たとえ知っている言語での会話でも、内容を理解できたかどうかは怪しかったが。とにかく、彼女は自分の行いが何を意味しているのか、自分が何故、2人についてきてしまったのか、自分でもよくわからない衝動に突き動かされ、今はとにかくついていかねばならない気持ちになって、車に一緒に乗りこんでしまったのだが…今の状況が、良かったのか悪かったのか、何もかも判然とせぬまま、混乱の極みにいた。

しかし、アンジェリークは…結局車に乗せられてしまったアンジェリークは、別の意味で、青ざめていた。

アンジェリークは、青年と運転手が交わした言葉を知っていた、流暢に話せるほどではなかったが、彼らの言葉の大意はつかめるほどには理解していた。それは父の赴任国の言葉だったから。

(エンジュは、この人を○○国の王族だと私に紹介した…そして、この言葉は、間違いなく、先に内乱があったあの国の言葉…この人は…もう、間違いない…)

エンジュの言葉を信じられなかったというより、信じたくなかった、エンジュがだまされているのであってほしかったのだが…この言葉、そして外交官ナンバーの車に乗せられてしまった今、彼の正体・素性はもう疑いようがなかった。

アンジェリークは忸怩たる思いだった。捕まってしまった、絶対、捕まってはならなかった人物に…この人はオスカーに連絡を取れと、執拗に私に迫っていた、私を人質にした今、オスカーに何を要求する気なのか…考えるだに目の前が真っ暗になる思いだった。

そして、アンジェリークは、同時に、今、自分の隣で息をきらし、白昼夢を見ているかのように呆然と宙空の一点をみつめているエンジュの事も、気がかり…どころではない、エンジュがこれからどうなってしまうのかを思うと、胸ふさがれる思いだった。

木偶のように、ただ、自分たちの後を追いかけ、追いすがってきていたエンジュが、自分を助けてくれる気がないだろうー悪意から傍観しているのではなく、単に思いつかないだけなのだろうがーとは思っていた。だが、これから監禁されるであろう自分についてきてしまって、どうする気なのだろう…私は人質だから、少なくとも、オスカーと連絡がつくまでは、そう無体なことはされないだろう、公館に監禁されてしまったら、何をされても外から干渉することはおろか、調べることもできないから、何をされるか、楽観はできないけれど…それでも、いきなり殺されるようなことはないだろう。

でも、犯罪の片棒を担いでー意図せず担がされてしまって、しかも、人質でもないエンジュは、この先、この青年にどういう扱いを受けるのか…

アンジェリークは自身の境遇以上に、エンジュの向後を考えると途方に暮れた。

と、運転手が青年に話しかける声が聞こえた。

『追われています』

『あの小僧か?』

『はい、それと、この車を追っているのか、はっきりしないのですが、先刻から黒のポルシェが1台、ぴたりと後ろについてきています』

『あの小僧は放っておいてかまわん、この女が我に心変わりしたことが許せなくて追ってきている未練がましいだけの男だ、どうせ手出しはできん、車も無視していい、警察車両でさえ、この車に停車は命じられんのだからな』

『御意』

その短い会話後、青年はいきなりアンジェリークの方に顔を向けた。

青年は、言葉をこの国のものに戻してアンジェリークに話しかけてきた。

「おい、女、俺たちを追ってきたあの小僧、名は何と言う?」

「…ゼフェルよ」

アンジェリークは、短く、ぶっきらぼうに答えた。気持ちが別の処に行っていたからだ。

黒いポルシェが後をついてきてるって、そう聞こえた…

オスカーだわ!オスカーが追って、おいついて来てくれたんだわ!きっと!

アンジェリークは喜びと期待をあらわにしないよう、彼らの言葉を解していることも気付かれないよう、うなだれた様子を装い、顔を落とした。膝の上でぎゅっと手を握りしめる。

私の位置情報はオスカーにきちんと送受信されているっておかげで確信できた、すごく心強い。それを追えば、私が連れて行かれる先はわかるはず、それでも今、追ってきてくれてるのは…きっと私を力づけるため、勇気づけるためだ、絶対、助ける、助け出すって伝えようとしてくれてるんだわ。

アンジェリークはそう思った、たまらなく胸の内が熱くなった。

「ふん、聞いたことのない名だな…」

一方で、言葉少ないアンジェリークを、打ちひしがれていると解した青年は、特に不審も覚えず、自身の考えに沈む。

あの小僧がこの車を追ってくるのは、当然としても…今になって不可解に思う、何故、あの小僧は、2度までも、この女の居場所を付きとめることができたのだろう?まるで正確に居場所をつかんでいたようだった…俺はこの女に誰とも連絡をとらせていないのになぜだ?

先ほどから、この女が何度か口にしていた名ではある、が、彼のリスト内には無い名だった。だが、この女が口に出すより前に、その名に聞き覚え、いや、見覚えがあった気がする…

「あの小僧、おまえの無事を確かめに、おまえを探していたようだが…今も、この車を追ってきているぞ、だが、先刻は、どうして、おまえの居場所がわかったのだろうな?おまえは我も知らぬ間にヤツに助けを求めていたのか?恋人でもない男に?」

いちいち皮肉っぽく青年は尋ねてきた。

アンジェリークははっとして、考えを巡らし、言葉を探す。位置情報が発信されていることに気づかれてはいけない。

「ゼフェルは高校生の時分…昔からの友達よ。あなたは、さっき、私の電話を取り上げ、着信を無視、拒否した。けど、私がゼフェルからかかってきた電話を無視するなんてありえないし、ましてや着信拒否なんてするわけない、それがわかっているから…何事かと思って…私に何かあったんじゃないかって安否を確かめようと、探しだして来てくれたんだわ…ゼフェルはそういう人よ」

「あの着信か…」

少女の言葉が嘘でないか確かめるために、青年は取り上げたままの彼女の携帯電話を開き、着信記録を見る、確かに「ゼフェル」という表示で、執拗なまでに複数回、着信があった。そうだ、あまりにうるさかったし、コールをされ続けているとこちらから携帯電話を使えないので、着信拒否をした、その内の1人が、確かZで始まる名だった、それがあいつかと得心した。

親しい友人に、いきなり着信拒否をされたからといって、何事かと無事を確かめにくるとは、なんとおめでたいことだ、親しい友人と思っていたのは自分の方だけで、自分がいきなり見限られ見捨てられたなんて思いもしないとは…まるで…まるで、昔の俺みたいじゃないか、実際に見捨てられるまで、親しいと思い込んでいたなんて。人は、いつ見限られ見捨てられるか、しれたものじゃないのに、そういう経験をしたことがないから、わからないんだ。

そう考えると青年は酷く気分が悪くなった、むしゃくしゃして、面白くなくて…故国に居た時なら、人事不省になるまで酒を食らっていたところだった。今は軟禁中の身ゆえ、アルコールすら自由に入手できないが。それがまた癪に障った。

が、うなだれた様子の少女を見ているうちに、思いなおす。考えてみれば、どんなに必死になって追いすがろうと、あの少年はこちらに手は出せない。

あの少年の目前で、悠然と宿舎に入ってやろう、そして、あいつには何の手出しもできないこと、それどころか、この国の官警すら、何の手出しもできないことを思い知らせてやろう。

そう思うと、青年は、少し、気分がよくなった。

青年が、アンジェリークの説明に納得したようだったので、アンジェリークはほっとした。

ゼフェルも、そして、オスカーも自分の救難信号を受け、また、身につけたアクセサリー類から、位置情報が発信されていることは決して知られてはならなかったから。

ただ、もし、連れていかれる先、監禁されるのがこの人の故国の在外公館だったら…居場所がわかっても、すぐに救出はしてもらえないかもしれないが、それでも、居場所がわからないより、はっきりわかる方がいいにきまってるのだから。

と、その時、運転手がまた青年に話しかけてきた。

『殿下、黒のポルシェが、今、角を曲がっていきました、何の関係もなかったようです。が、単車は相変わらず、この車を追ってきています』

『構わん、放っておけ』

と、青年が答えた、そのすぐ後ー時間にして1分経つか経たないかという頃合いに、車が減速し、そして止まった。エンジンが切られた。

「降りるぞ」

トータルで正味10分も走っていない気がした。

ということは、ここはまだかなりの都心…大学ロータリーから車で10分以内の場所なら、どの方向であろうと、都心の一角だ、そしてほとんどの在外公館は、都心にある…

自分はやはり、この国の人には干渉できない在外公館に監禁されてしまうのか…とアンジェリークは更に暗澹たる思いに捕まりそうになった。

顔をあげると、フロントウインドウの正面に、これから自分が連れていかれるのであろう建物があった。

「…え?…ここは…」

驚いたことに、アンジェリークはその建物に見覚えがあった。

「ここがどこか、はお前には関係ない、さ、降りろ」

ちらと後ろを振り返って門扉の形状を確かめる。リアウインドウ越しに見えたゲートには警備員がおり、バーが降りていて、車の出入りは自由にできない。あの脇を抜けて逃げ出すのは厳しそうだ。ゲートの周辺は高い塀に囲まれている。愛想のないつるんとした塀で、つまりは手掛かり足ががりになるようなものがない。普通の人では乗り越えることはまず不可能ー物語に出てくる怪盗でもなければ無理と自然と思わせる形状だ。

アンジェリークは目を見張った、いや、己が目を疑った、その厳重そうな警備ゆえではない。『自分は、この建物を知っている』と確信したからだった。

改めて眼前にある集合住宅状の建物ーその外観をみる、色、形状、オートロックのエントランスにも見覚えがあった。

間違いない、私、ここ、知ってる。中に入ったことがある。

正確にいえば…滞在したことがある、だった。

スモルニィの高等部を帰国子女枠で受験するため、一時帰国して、その時ママと2人で泊った宿舎…

そうよ、確か、パパが外務省の職員やその家族が一時帰国する際、申請すれば使える宿舎だと言ってた…短期滞在用の…それで、試験とその発表を待つ間、滞在させてもらった、その宿舎だ…

○○国の王子だと言ったこの人、なぜ、その国の公館でなく、外務省の宿舎に?私を連れてきたの?

アンジェリークには、全く理由も事情もわからなかった。

が、監禁される場所が在外公館でないなら…まだ、少しは希望がある、希望が見えてきた、と、アンジェリークは思った。

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