アンジェリークが信じられない思いで眼前の建物に見入っている間に、運転手が後部座席の扉を外から開けた。銀髪の青年・アリオスが座っている側の扉だ。
青年は黙って車から降りると、アンジェリークの方を向き直り
「さっさと降りろ」
と告げた。
アンジェリークは瞬間、逡巡した。
車に乗っていた時間は正味10分たらずだったと思う、この間に、もう、爆発物の処理は済んだろうか…それさえわかれば…と思いながら、車の外に目をやった。扉の傍で青年が、手ぐすねを引くようにアンジェリークの降車を待ち構えている。そのすぐ後には運転手の男性が控えている。今、車から降り立ち、思い切って、いきなり走って逃げ出したとして、大の男2人から追いかけられて逃げきることができるか…かなり難しそうだ。
けど、住居に連れ込まれてしまったら、逃げ出すのはもっと難しくなる、なら、今、車から降りて、建物に入るまでが最大にして最後のチャンスかもしれない。ダメもとで、車を降りたら、即座に守衛の詰所まで走ってみる?すぐ捕まるかもしれないし、運よくゲートの守衛の処までたどり着いたとしても、守衛が自分の味方になってくれるかどうかも5分5分…それでも何もしないよりはマシかもしれない。それに、何か様子が変だと守衛が感じれば、警察に通報してくれるかもしれない…ただ、車同様、彼自身に外交官特権が付与されていたら、通報は取り合ってもらえない…結局、無駄になるかもしれない、けど、それだってやってみなくちゃわからない。
そう覚悟を決めて、車から降り立とうと、足をそろえて地面につけた、その時、背後からアンジェリークを急かす声が聞こえた。
「アンジェ、早く降りて、銀髪さんが降りろって言ってるじゃないの、あなたが降りてくれないと、私も車から降りられないじゃないの、なんでかわからないけど、こっち側の…私の席の方の扉、内側から開けられない、開かないのよ、だから、あなたが降りてくれないと私も降りられない、私がぐずぐずしてるって思われるじゃないの」
アンジェリークは、はっとして振り返った。
そうだ、エンジュが一緒にいたのだ、連れて来られた先が知っている場所ー自分も使ったことのある外務省が管理する短期滞在用宿舎だったことに驚いたあまり、エンジュの存在を失念していた。何故か、自ら車に乗り込み、ここまでついてきてしまったエンジュ、そのエンジュを1人置いて逃げることなど、アンジェリークにはできない。心情的にも、向後のことを考えても。
「エンジュ、一緒に逃げましょう、1、2、3でゲートまで走るわよ」
だから、アンジェリークは迷いのない口調で、ただし小声で、エンジュに、こう告げた。
「え?何で?何を言ってるの、アンジェ、それより早く降りてよ」
が、返ってきたのは、いぶかしげな声で、アンジェリークをせかす言葉だった。アンジェリークは溜息をついた。ダメだ…エンジュに現況が、自分の立場がわかっているとは、とても思えない。これでは、私が走り出したとして、彼女が付いてくるか疑問だし、運よく、反射的に体を動かしてくれたとしても、現状や理由をきちんと理解してないから、全速力で走るとも思えないから、すぐ捕まってしまうだろう、そして、私が首尾よく逃げ出せたとしても、エンジュが1人後に残ったら…こう言ってはなんだけど、あの王子にとって人質として価値のないエンジュが残されてしまったら、エンジュは王子にどんな目にあわされるか…いえ、酷いめにあわされなくても、私の呼び出し役に使われたように、今後も、良いように利用され続けかねない。
アンジェリークは暫時黙考した後、車から半身乗り出し、地に足をつけると、青年を見上げる形でこう言った。
「あなたが用があるのは、私でしょう?エンジュはこのまま寮に返してあげて」
途端、背後から、恐ろしく切羽詰まった叫び声が聞こえた。
「何…何言ってるのよ、アンジェ!」
エンジュは、車に乗ってからずっと、夢見心地だった。
だって、記憶にある限り、初めてだったのだ、銀髪さんが、自分の名前を呼んでくれたのは…
アンジェを呼び出した後、銀髪さんとアンジェとの間で交わされていた話は、自分にはよく理解できなくて、エンジュはおろおろするか、おいてきぼりな気持ちになっているかのどちらかだった。そこに、騒がしい単車が突然現れて、慌てて銀髪さんが逃げ出してー当たり前だ、建物の中に単車で乗りこんでくるなんて、危険極まりない真似をされたら、誰だって後ろも見ずに逃げ出したくなる、だから、銀髪さんが私の方を見ないで、逃げたのは当然で、だから、エンジュは必死になって追いかけた。言われなくても命じられなくてもはぐれないように、銀髪さんの後を必死についていった。
そしたら最後の最後で、自分の名を呼ばれた、銀髪さんが名を呼んでくれたのだ。だから、慌てて車に乗り込んだ、呼ばれたのだから、最後までついていくのが当然だと思って。
今も、エンジュの胸中はその多幸感で満たされていた。いつも「女」とか「おまえ」としか呼ばればかったのに、銀髪さんが、ついに、ちゃんとエンジュって名前を呼んでくれたという幸福感に。
と、突然、その幸せな夢想は、銀髪さんの鋭く男らしい声に中断された。
「さっさと降りろ」
降車を促されたと思って、慌てて体を動かそうと思ったら、銀髪さんはもう車を降りて運転手に付き従われている、エンジュもすぐ付いていきたかったが、銀髪さんと自分の間にもう1人ーアンジェリークがぐずぐずと座席から動かずにいるので、エンジュも車から降りられない。
『もう、アンジェ、早く降りてよ、あなたが降りないと私が降りられない、私がぐずぐずしてるみたいに見えるじゃないの』
しかも、アンジェリークは、エンジュには訳のわからない変なことを提言してくるし、で、少しイラつく。それでも、彼女が、ようやく、何か諦めたような風情で車から半身乗り出したので、エンジュは『これで私も車から降りられる、ぐずぐずしてるって思われずに済む』と安堵した矢先、アンジェリークは、いきなり、銀髪さんに向けて、こう言ったのだ。エンジュだけを寮に返せと。
エンジュは叫びそうになった、いや、実際叫んでいた。何を言うの、アンジェ、私だけ寮に返すって、どうして!どういうこと?!と。銀髪さんが間に受けたら大変だと思い、慌てて銀髪さんの顔をみると、青年は、瞬間、意表を突かれたという顔をし、ついで面白くてたまらないという顔で笑いながらーエンジュにはわからなかったが、その笑みは「しめた!」とでも言いたげな…舌舐めずりせんばかりの狡猾さをたたえていたーアンジェリークを通りこし、まだ車の中にいるエンジュに向かって声をかけてくれた。
「おい、エンジュ。この女がおまえを寮に返せと言っているが、おまえは、どうしたい?」
「あ…また…私の名前…」
青年の言を内容より、名を呼んでもらえたことが嬉しくて、幸せをかみしめるような表情で、エンジュは的外れな反応を示す。
エンジュは確信した、青年はまた私の名を呼んでくれた、アンジェに用があるのは事実だとしても、私だって用無しなんかじゃない、だって、名前を呼ぶってそういうことでしょう?
エンジュは心中で、そう理屈をつけた。今の彼女は「おいてきぼりにされまいと必死な子供」だった。おいてきぼりにされたくない一心で、それ以外何も考えられない、何も見えない、聞こえない。どうやって追いすがるか、どうしたら置いていかれないで済むか、それだけで頭がいっぱいで、そのためなら、どんな屁理屈でも無理なこじつけでもやってしまう。
なにせ銀髪さんは、初めてエンジュに「役にたつ悦び」を教えてくれ「自分を有用・有能だとおもわせてくれた人」だった。自身の孤独を忘れさせてくれ、孤立から救ってくれた人だった。周囲は自分を理解しない、どころか、自分をバカにし、軽んじる敵ばかりと(自分1人勝手に)思い込んでいたエンジュにとって青年は、初めて共感を感じさせてくれた人物だった。
エンジュは利用されているなんて露ほども思ったことはない。エンジュの主観では、青年と自分は同じ目的を持つ仲間だったから。周囲の無理解と敵意の中で、青年と同じ目的のために動いている、と思うことで、青年との共有感や絆(と信じ込んでいる物)は一層深く濃く強く感じられ、甘美な充実をもたらしてくれた。
エンジュは孤独で孤立していたからこそ、その偽りの共感・絆に、溺れる者のようにすがりつき、依存したのだ。その充実が失せるのは恐怖でしかなかった。銀髪さんに見捨てられたら、私は、気の利かない、みっともない、役立たずー居てもいなくてもいい存在に逆戻りしてしまう、そんなことには耐えられない、銀髪さんに見捨てられたら、私にはもう何もない、後がない、と。
だから
「どうするかはエンジュ、お前が決めろ、寮に帰るならこのまま送り返してやるから、そのまま車に乗っていろ」
そう青年から言われると、エンジュは慌てて車から降りた。
「エンジュ!」
アンジェリークが信じられない!という声と顔で叫んだ。
エンジュは挑戦するようにアンジェリークの顔を見返した。
『あなたにはわからない、いつも、当たり前みたいに名前を、それも親しみを込めて愛称で呼ばれてーあの単車の男にもー誰にでも愛され必要とされているあなたなんかに私の気持ちは…』
「アンジェ、私は困っているこの方をお助けしたい、お手伝いがしたいの。この方は私を必要としてくださったし、私の手助けを喜んでくださったのだもの。アンジェだって言ってたじゃないの、困ってる人に手を差し出すのは悪いことじゃないって。私は、そうしてるだけ。だから、アンジェ、あなたも困ってるこの方になんとか力になってあげて欲しいかったのに…なのに、あなたが恋人に連絡するのをぐずぐず嫌がっていたから、変な邪魔が入ってしまって…だから、もう、邪魔されないよう、王子はあなたをお家まで連れてこなくちゃならなくなったのよ、でも、もう、今度こそ恋人に連絡してくれるわよね、だって、困ってるこの方を助けるためだもの、困ってる人を助けるのはいいことよ、そうでしょう?」
青年は半ば勝ち誇り、半ば見下すようにアンジェリークを見て笑い、エンジュに向かって念を押す。
「エンジュ、つまり、お前はお前の意思で…自ら進んで我の部屋までついてくる、のだな」
「え、あ、はい、だって、今も私の名前を呼んでくださったし…名前を呼ぶのはご用がおありだから、ですよね?」
「と、いうことだ。女、これでわかったな?俺は、エンジュに何も無理強いしていないし、強制もしていない。常にエンジュは自らの意思で自ら決断して、自ら進んで我に付き従ってきた、今も、エンジュは自分の意思で、我の部屋についてきたい、我の手助けをしたいと言っている」
ここで青年は声を落として、アンジェリークにだけ聞こえるように言った
「聞いたな、女、これで、お前たちを我の住処に招き入れても、拉致にも監禁にもならない、つまりは違法行為にはならん。にも関わらず、おまえが暴れたり大声を出したりしたら…そうだな…その分、エンジュにその負債を払ってもらうことにしよう。お前には、これからクラウゼウィッツに連絡してもらわねばならんし、その時は元気な声を聞かせねばならんから、我はお前を痛めつけることはしない。しかし、懲罰が必要だと思われるような無作法な振る舞いをしたら、それは、あの女が贖うことになる、そのことをよく肝に銘じておけ。おまえは人質だということを、よくよく自覚し、言動には気をつけることだな」
その言葉にアンジェリークが息をのみ、悔しそうに歯噛みしたことも、もちろん、エンジュは知らないし、知ってもその意味を理解しなかったろう。
「さて、では我の部屋に来てもらおう、我の用件はまだ済んでいないのでな」
エンジュは、相変わらず夢見るように、青年の後に付き従った。アンジェリークが唇を噛んで痛ましい物を見るような目で自分を見ているのにも気付かない振りをして。訳がわからない、という顔をしてー装って。
と、その時だった。何やら騒がしいーどなり声が背後から聞こえてきた。
「ここを通せ!通しやがれってんだ!アンジェが…俺の友人の女の子が中にいるんだ!その子を返せ!車に乗せられて、無理やりここに連れこまれた、っつってんだろー!!」
「君、ダメだ、ここは許可証のない者を通すことはできない」
「だから、アンジェを返せっつってるんだよ!邪魔すんじゃねー!」
「君、しつこいと警察に通報するぞ」
「ゼフェ…!」
アンジェリークが、はじかれたように声のする方に体を向けた、少年の名を呼び、自分の所在を、無事を少年に知らせようと身を乗りだし手を挙げようとした、が、その手首を青年に、むんずとつかまれ、無理やり下に降ろされた。アンジェリークの身を自分の体で隠すように青年はずいと前に出ながら、随身に母国語でこう告げた。
『この女を我の部屋に連れて…いや、お連れしろ、大事な客人だ、くれぐれも丁重ににな』
「お嬢様方、こちらへ」
エンジュが夢みるように随身に促されるままに付いていく。アンジェリークは男性の体に阻まれながらもー自分があからさまに抵抗したら、何も知らないエンジュに累が及ぶと脅された故に、目立ったことはできないが、それでも必死に後ろを振り向こうとする、が、その時、青年が守衛に対し、こう言った。
「その小僧は我がお連れした女性のストーカーだ、女性をお助けした我を逆恨みして、ここまで後を追ってきたのだ、ご苦労なことにな、それ以上、騒ぎ立てるようなら警察に通報してもらって構わないぞ」
「んだとぉ!てめぇの方こそ、誘拐犯の癖に盗人猛々しいにもほどがあらぁ!ああ、いいぜ、通報してみろってんだ、そっちが略取誘拐拉致監禁で、警察にぱくられるだけだぜ」
青年は全く取り合わない。堪えた様子もない、アンジェリークの手首をとらえたまま、建物に向かって歩み始めた。一方、守衛はゼフェルの動きを抑えながら
「何をばかなことを言ってるんだ、君は。あのお方は某国からの賓客でいらっしゃるんだ、それを事もあろうに…変な言いがかりをつけると名誉棄損か侮辱罪か、とにかく警察に通報されて困るのは君の方だぞ、それに、お連れの女性を追いかけ回しているのも事実なら尚更、君には困ったことになるんじゃないか」
と諌める。
「っち、くっそー、覚えてろよ!」
悔しそうな声にエンジン音と重々しい排気音がかぶさって聞こえ、そして遠ざかっていった。
『ああ…ゼフェル…』
単車で、ここまで追って来てくれたのに…けど、実際、このまま守衛と押し問答してたら…青年が外交官特権を付与されていたら、警察に勾留されるのはゼフェルだけになってしまう…それを考えたら、ゼフェルが一度引き下がってくれてよかった、とアンジェリークは思った。ゼフェルにしては、あっさりした引き下がり方だと、思わないでもなかったけど。けど、私が「ここ」にいるのは、もう、確実とわかれば、オスカーがきっと手を打ってくれる、助け出してくれる、私はそう信じている、今は、虜囚となるも…そう、アンジェリークは自分を励まし、心を強く持とうと自身にいい聞かせ、随身に促されては、しぶしぶと歩を進めた。
そのゼフェルは、立ち去ったと見せかけて、宿舎周辺を単車で周回していた。様子を探るように、慎重に一巡した後、1つ先の角を曲がったところで、ゼフェルは単車のエンジンを一度止め、携帯電話を取り出しコールした。すかさず応答がー出たのはオスカーだーあった。
「お嬢ちゃんは…アンジェリークは無事だったか?姿は確認できたか?」
「ああ、ちらっと後ろ姿だけだがな。自立歩行させられてるみてーだったから、意識はしっかりしてる、とりあえずは無事そうだ、ただ俺の声が聞こえてた筈なのにこれといって反応がなかったから、腕とか拘束されてるか、静かにしろとか脅されてはいたかもしんねー」
「そうか…周辺の様子は?侵入経路はありそうか?」
「いや、おめーの予測通り、入口は1か所、ゲート付きで守衛がガチ警備してるし、周囲の塀はえれぇ高さで無理やり押し込むのは厳しい、守衛には、かなりごねて、ねばって、警察呼ぶなら呼べと啖呵切ってみたが、無駄骨だった」
「いい、それは想定済みだ、それで、十分すぎるほどに、ごねてみせたんだな?」
「おうよ、物分かりのわりーわからんちんな馬鹿な若造、演じ切ったぜ、お約束の捨て台詞もばっちりだ、けど、こんな小芝居、なんか意味あんのか?」
「ああ、ヤツをいい気にさせて油断させるためだ。おまえが後をつけていたのはバックミラーで気付いていたろうから、それで何もせずに引き下がったら、むしろ、怪しまれる。こちらはヤツの正体がわかっていないふりをしつつ、俺たちには打つ手がない、何も手出しできないってことを、おまえが派手にじたばたして見せつければ…口惜しいことに今は事実だがな…彼女を救い出す手立ては、こちらにはないとヤツに思いこませられるし、そうすれば、ヤツはいい気になって油断するだろう、その間に水面下でこちらは打てる手を探る。おまえも今から俺の家に来てほしい、お嬢ちゃんを救い出すに当たり、改めて、おまえに協力を要請したい。俺の住所は今、そっちの端末に送った」
「今更みずくせーこと言うなってんだ、俺も色々、聞きてぇことがあるから、おめーんちに行くのはやぶさかじゃねぇが…その前に、取り急ぎ、確認してぇんだけどよー、おめー、アンジェさらった誘拐犯に心当たりがあるな?」
「ああ」
「なら、犯人の目当ては、さらったアンジェ本人じゃなく、おめーか?」
「それに関しては、まだ、はっきりしない。俺…というかクラウゼウィッツ目当てである可能性は高い、が、もう一つの可能性として、彼女の父であるリモージュ氏への意趣返し、逆恨み、その線も現時点では捨てきれない」
「あぁ?!どういうことだ、そりゃぁ…」
「その辺りの事情が少々込み入っててな、電話では話しづらい、彼女が拉致された時の状況も詳しく教えてほしいので、こちらに来てほしいんだ」
「わーった。ただ、アンジェがおめーにとって有効な人質だってことで、攫われたかもしんねーてことは…当然、何らかの要求を突き付ける脅迫がおめーんところに来る筈だよな…よし、オスカー、俺ぁそっち行く前に、用意してー物がある、おめーんちに無いようなら、俺はひとっ走り研究室寄って取ってくるから、今から挙げる機器と機材が、おめーんちにあるかねーかを教えろ」
というと、ゼフェルは幾つかの電子機器の名を挙げた。と、オスカーは
「それは俺も考えていた、いつ連絡が来てもいいように、機材はもうセッティングしてある」
「よし、んなら、直接そっちに行けるから、今から5分…遅くとも10分以内には着けると思うぜ」
「了解した、俺の住居情報の入った端末をかざせば、ゲートもガレージも開くから、勝手にあがってきてくれ」
「おう」
ゼフェルはオスカーとのコールを切るや、エンジンを全開にして、指示されたオスカー宅に単車を向けた。
一方、ゼフェルとのコールを終えたオスカーであるが…
GPSで追跡していたアンジェリークを示す点が歩行速度ではありえない速さで移動を始めた時、オスカーはアンジェリークが車に乗せられてしまったと悟り、即座にゼフェルに連絡、故意に目立つようにアンジェリークの後を尾行してくれと、そして、アンジェリークを乗せた車はほどなく止まるだろうから、そうしたら、そこで「アンジェを返せ」とこれ見よがしな小芝居をうってくれと予め指示してあった。ゼフェルに告げた通り、青年を油断させる一助になればと思ってのことだ。驕りは油断を招き、敵の油断が増すほどに、こちらが付け込む隙は大きくなる。
そして、ヤツとアンジェリークを乗せた車は、オスカーが調査済みのヤツの住まいに真っすぐ向かい、しかも、そこで、乗客を降ろした。ヤツにはそこしか拠点がないのは、これでほぼ確実だ、と、オスカーは判断した。
それは、不幸中の幸いー朗報であり、死中に活を見いだす足掛かりになる、というのも、こちらにはヤツの「家主」であり「監督者」である人物とコネクションがあるのだから。
現状を速やかに監督者に報告し、そちらから、人質に危害が加えられぬよう、それとなく見張り、行動を牽制してもらわねばならない。ゼフェルの言によれば、アンジェリークは抵抗を封じられていた、となると、部屋への入室は合意だったとヤツは言い張るだろうし、さすれば、強制的に踏む込むのは難しい、明らかに拉致されたという証拠のない現時点では、牽制と警告が精いっぱいだろう、しかも、あの場所は外務省の管轄で現在の状況ー誰が何のために使用しているかは省外秘である可能性が高く、その住人にこの国の司法は手が出せない、となれば、彼の管理監督者に手を打ってもらうーしかも早急にだーしか、手がない。
が、その間に、俺は…俺たちで、絶対にヤツが言い逃れできない犯罪の証拠を取りそろえる…そして、ヤツの動きを封じ、アンジェリークを救い出すのだ。
アンジェリークを拉致した青年の狙いが、今の時点では、自分なのか、彼女の父への意趣返しなのか、明らかでないので、その善後策を相談もせねばならないーどちらに脅迫が来るか、もしくは来ないかで、ヤツの狙いがある程度絞れるから、パターンごとに対処策を考える。ましてや、リモージュ氏は、攫われた少女の実の父である。即座に現況を連絡、報告をせねばならない。
そこで、オスカーは、すぐさま、新たなコールを開始しようとした。が、意に反して、指がうまく動かず、ボタンが正しく押せなかった。一度携帯を閉じ、意識して深い呼吸を数度行う。
『落ち着け、彼女はヤツに囚われてはしまったが…居場所も、とりあえずの無事もわかっているんだ、俺が取り乱して、冷静な思考を欠けば、それだけ彼女の身に危険が迫る、そう、自戒するんだ』
自分の動揺はアンジェリークの危難に直結する、と考えるその危機感が、オスカーになんとか冷静さを取り戻させた、すかさずオスカーは、ヤツの住居の本来の借主ーリモージュ氏に電話をかけた。
アンジェリークが青年に連れていかれた建物、そのエントランス、ロビー、エレベーター、全てにアンジェリークは見覚えがあった。エレベーターから降りた階の廊下も、随身が開けた扉の形状もーキーの形とロックの番号は見覚えが無いものだったが。「入れ」と促され、部屋内に足を踏み入れた時には、もう、疑いようがなく「ここは、私とママがしばらく滞在した宿舎の…何室かあるうちの1室だ」と確信した。
無言のアンジェリークに、青年は観念したと思ったのか、怯えていると思ったのか
「静かにしているのはいいことだ、無駄に悶着を起こさずに済むからな」
と蔑むように笑いかけ、来客用らしいー誰も座ったことがないような真新しいソファを顎で指示し「そこにでもかけろ」と言った。アンジェリークはのろのろと、エンジュはさっさと腰かけた。
ちらりと横目で見やると、エンジュは、周囲を落ち着きなくきょろきょろと見まわしてはいたが、その顔に警戒や不安は皆無で、その表情はむしろ夢見心地という方が正しい。初めて見る王子の住居の様子に、自身が招き入れられたと思うことに舞い上がっているのだろう。
人から尊重されずにきた子は、初めて大事にされる境遇を知ると、一時、全体重をかけるほどにもたれかかってくるという、どこまでも際限なく甘え、依存し、すがる…それを知らなかった、知識として聞きかじったことはあっても、その実態をわかっていなかった。その結果が今のこの状況だ…と、アンジェリークはほぞをかむ思いだった。
私は入学式以来、エンジュの振る舞いが気になってた。人への接し方がわからない…攻撃するか逃げ出すかの2つしか人との関わり方を知らないのは、それこそ、不幸なことだ、自分にとっても周囲にとっても。だから、人との接し方は他にもあるんだよ、他の接し方を知って、勇気を出して踏み出してみれば、自分は不幸だと思うことも、他者を攻撃せずにはいられない気持ちも薄れて、自分も楽になれるかもしれないよ、って、気付いてほしくて、私を話し相手にして、練習してみるのはどうかなって思った。
しばらく疎遠になった後、エンジュが自分から、私に声をかけてくれたから尚更に。私も、手助けできることは、してみようと思った。
彼女が不幸なのは、もちろん彼女自身の責任で…その振る舞い自体も、自分の行いを決して省みないできたことも…だから、ロザリアが放っておきなさいっていうのもわかるし、オスカー先輩が、そこまでしてやることないっていうのもわかる、自分でも、やっぱりおせっかい?余計なお世話かなって思わないでもなかったけど…
けど、目の前で、同じ年頃の女の子が、自分が不幸な原因に気付けないで、更に不幸になっていこうとするのを、そのまま見ているのは、私が嫌だった、なんか、我慢できなかった。
ただ、それは私個人の気持ちの問題だったから、それでなくても忙しそうなオスカーやロザリアを煩わせるつもりはなかった。だから、余り詳しく話してなかった…最近、エンジュに色々相談されて、助言してたことを。それがあだになった…まさか、こんなことになるなんて…
私の中に「エンジュが助言を求めてきた」ことで、頼りにされて喜ぶ気持ちがなかったか。それこそ「1人でなんとかしよう」という驕りがなかったか。エンジュへのお節介に苦言を呈されること、くぎを刺されることを厭う、煩わしいという気持ちがどこかになかったか。100%なかったとは言い切れない。
私がうかつだった。エンジュの態度が変わった、私に助言を求めてきた、その意図を、背後にある物を私は見抜けなかった、不可解だなと感じたことはあったのに、深く考えなかった…調子に乗っていた自分の責任だ。
後悔と口惜しさ、見通しの甘さにアンジェリークは唇をかみしめた。
エンジュみたいなタイプは、言葉を徹頭徹尾額面通りに受け取るのだ、私は以前「困っている人に、自分にできることがあれば、手助けしたい」と確かに言った、でも、オスカーの私への愛情を利用し、付け込んでオスカーを思い通りに動かそうとすることー私からオスカーに援助を依頼させようとするのは、突き詰めればそういうことだー私がしていい「手助け」じゃない、ましてや、私の身柄を人質にして、オスカーに言うことを聞かせようとするなんて…絶対にしてはいけないことだ。けど、エンジュには、多分、その区別、違いがわからないー私の言葉を盾にとって「困っている人を見たら助けたいってアンジェが言ったじゃないの」と、エンジュは自分の正当性を主張していた。学生会館に居た時から『クラウゼウィッツの助けを必要としている人がいて、クラウゼウィッツの御曹司に言うことをきかせられるのは、アンジェだけだっていうのに、アンジェは、オスカー・クラウゼウィッツになんで連絡してくれないの?酷いじゃないの、嘘つき!』と、私を詰りたい気持ちでいっぱいだったのだろうな、と思う。
なじられるのは別にいい、気にならない。私は、それは間違っていると、根気よく繰り返すだけだから。
問題は、エンジュは、多分、心の底から信じている、もしくは無理やり自分に言い聞かせていることだ、「自分は人助けしている」「人助けのために、アンジェにお願いしているだけ」だと。エンジュは恐らく、私の誘拐に片棒担がされたーいえ、むしろ、現実にはエンジュこそが実行犯にみなされるべく、動かされたことにも気付いてない…
トラブルは、悪意からではなく、無知や愚かさによって生じることが多い。
たとえば、気易く、考えなしに「この鞄を運んで誰それに渡してくれ」という依頼を善意で引き受けて、それが麻薬だったりした場合「運び屋」は「知らなかった」「そんなつもりはなかった」と言っても、それは通らない、実際に加担ー「行動」したという「事実」があれば処罰を受ける。
今のエンジュはそれと同じだ、エンジュに私を害しよう、私を人質にしてオスカーを脅迫しようなんて意図は微塵もないだろう、先刻も今も、それは確かだ。けど、現実に、私の拉致に彼女ははっきり関わっている。甘言にのせられ考えなしに利用されたエンジュが迂闊だったといってしまえば、それまでで、しかも、自分がとかげのしっぽとして、利用されそうだということにも、多分、エンジュは気付いていない、もしくは、気付かない振りをしてるけど…。
とにかく…無知や愚かさ故の行為であっても、悪意がなくても、罪に問われることはあるし、今、私が直面しているーさせられている状況も解決しない訳にはいかない。
けど、エンジュを無自覚なまま犯罪の共犯者に仕立てあげ、私を人質にした…本当に悪いのは…「人との共感に飢え」「人に必要とされたかった」エンジュの気持ちに付け込んだこの青年だ。エンジュは稚く、生真面目で単純ー単細胞で、馬鹿正直で融通がきかない、そんな性格・性質を利用したこの男のやり方が私は我慢ならない。
ただ…今のままでは…彼は某国の王子で、この国では治外法権に守られているといったー彼は全ての罪をエンジュにかぶせて、自分はのうのうと第3国に脱出してしまうかもしれない。そして、別の国でまた同じことを繰り返すかもしれない。
私はエンジュを罰したい訳ではない、エンジュに自分のしでかしたことの意味には気付いてほしいけど…
でも司直の手が入ったら、エンジュだけがスケープゴートとなって、首謀者はまんまと逃げ出す可能性がある。
だから…私が無事逃げ出すだけじゃダメ、解決にならない。この人が2度と同じようなことができないよう、この国の司直の手に委ねられないなら、この人の故国の司直でも、とにかくこの人の行動に制限をかけないと、裁きの手にかけないと…さもないと、この人は、またエンジュみたいな子を利用して、他の人を私と同じような目に合わせるかもしれない。
私にはこのGPSがある、助けてくれるオスカーがいる、けど、他の人には、そこまでの力を持つ味方がいないかもしれない、他の女の子は、今の私より、もっと怖い目にあわされるかもしれない、そうしたら、この男の要求するままに、誰かがこの青年を援助をしてしまうかもしれない、そんなことになったら、この青年は、絶対に恐ろしい事件ー人を傷つけたり殺してしまうような事態を引き起こす…事実、過去に内乱まがいの騒ぎを起こしているのだから…そんなこと、絶対、許しちゃだめだわ。
私のところで断ち切れるなら…この青年が何をしようとしているか突き止めて、誰かに知らせることができたら、この人の野望?を阻止できるかもしれない…エンジュをスケープゴートにさせず、あくまで、この青年が、全ての首謀者なのだと動かぬ証拠を突きつける形でないとだめだけど…そうしたら、この国で縄をかけるこは無理でも、手綱を締めることだけでもできるかもしれない…少なくとも、私同様の被害者を出せないような手だけは打ちたい、打たないと…。
アンジェリークは、オスカーが自分をほどなく助けに来てくれることを露ほども疑っていなかった。こういう事態に備えて、オスカーはゼフェルにGPSを依頼、それを私につけさせていたのだから。そしてオスカーが先刻まで、私が乗せられた車を追尾してくれたのはーその必要はないのにだー私を励まし、勇気づけるためだったと私は確信している。オスカーは私の所在地を知っているし、必ず、何らかの方法で私を助け出してくれる、多少の時間がかかったとしても、絶対、どうにかしてくれる。
そう、確信しているからこそ、アンジェリークは恐怖に支配されることなく、うろたえ恐慌にも陥らず、冷静に状況を見極め、自分はどうすべきかに考えを馳せることができた。信頼と愛情がアンジェリークをしっかりと支えていた。
とにかく、問題は、目の前のこの青年が私に何をさせたいのか、いえ、私を人質にとって、オスカーに何をさせたいのかという、この青年の目的、そして背後関係と持つ力だ、それが、どの程度のものなのか、ということだ。
この青年がオスカーに、否、クラウゼウィッツにさせたがっていることが、正しいことのはずがない、こんな手段で…人をだまし、拉致し、脅迫で意のままに動かそうとするような人が、無関係の人が傷つけることも厭わず、爆発物を設置するような人が、心正しき行い、目的を持っているとは到底信じがたい。
その、彼がいっていた爆発物は、どの程度の物だったのか…数は?規模は?多数の人を殺傷するほど強力だったのか、それとも単なるこけおどしだったのかも、今のアンジェリークには知る術がない、せめて、それがわかれば…この青年の「戦力」がわかれば、それをオスカーに知らせることができれば、打てる手も、効果的に的を絞れるだろうに、と思うのだ。
その意図、背後関係、そういう諸々をできるだけ多く、オスカーと父に伝えられれば、今後の禍根を絶つ助けになるかもしれない、クラウゼウィッツ、外務省、それぞれで対処・対応できることもあろうし…何せ、この住まいは外務省管理下にあるはずで、犯罪の拠点として使用するなど外務省が許すはずもない、となれば、この青年の行動は、絶対に極秘裏で…これが露見すれば、手の打ちようもあろうに。
だから、ここが…私が連れて来られたこの場所が外務省管轄の官舎だってことも、オスカーに知らせる手段があるといいのだけど…ここは官舎であるがゆえに、オスカーの動きは制限されるかもしれないー警察へ通報しても有効か疑問だし、オスカー自身が私を助けに駆けつけるのは難しいと判断すればプロに頼むかもしれないし…それでも、だからこそ、情報はきっとあればある程いい。
けど、私が外務官僚の娘で、この場所のことも見知ってることは、あの青年に知られないほうがいいような気がするし…。
まこと、情報が、戦いを、策を左右するのだと実感する。こちらはなるべく多く相手の情報を得たいし、一方で、相手側には情報を与えないほうがいい。
『この青年との会話をそのままオスカーに知らせられればよかったんだけど…非常通報後だけでもいいから、音声送信する機能も付けてもらってればよかったわ』
そんなことをーGPSの改善というか新機能付加を考えられる位、アンジェリークは落ち着いていた。得体のしれない青年の暗渠のような瞳は、目線が合うほどに恐ろしかったし、これから何をされるのだろうという不安が無いと言えばうそになる、それでも、オスカーが自分を救い出すため全力を尽くしてくれると信じているから、恐慌に陥ることも、泣きわめくこともなかった。自分ができること、それは、オスカーの助けが来るまで、この青年の思い通りにならず、かつ、自分の身を守ることだと、アンジェリークは確信していた。オスカーは自分が少しでも傷つけられたり損なわれたりしたら、怒りで我を忘れようし、私を守れなかったと酷く自分を責めるだろうからだ。オスカーを守るためにこそ、アンジェリークは自分を守ると強く心に決めた。それが第一に優先することだ。
そして、可能な限り…エンジュの身柄も守りたい…この子をこのままにして置いちゃだめだ、自分の心のありように気付かせないと、彼女は同じような過ちをきっと繰り返す、そして、その内、今よりもっとひどく取り返しのつかないことをしでかしてしまうかもしれない、その時、犠牲になるのは、私みたいに絶対に助け出してくれる味方のいる人とは限らないのだから。
自分の身も危うい立場でおこがましいとは思いつつ、アンジェリークは心からそう思っていた。
この宿舎は、青年にとっては牢獄同様だったが、今、この国の司直は手を出せない、という一点において、有用なことこの上なしだった。
そう、官僚のみならず、この国に俺に干渉できる者、手出しできる者はいないーあの小僧のように。そう思うと、青年は酷く気分がよくなった。
なにせ、今、大事な人質を、取引材料を我は手にしているのだ。この部屋は一度入室すれば外から施錠される、彼が登校の意思を示さない限り開かない。而して、招き入れた客人は自動的に監禁されたも同然となるのだから。
当初予定していたほどには、事態は進展していなかったが、餌はここにあるのだから、まあ、計画は順調と言っていいだろう。
なにせ、彼の計画は、つい先日まで頓挫寸前だったことを思えば、現況は、できすぎと言っていい位だった。学校内に富裕層の子弟はそれこそ星の数ほどいるのに、彼には、賛同者、甘言に乗ってくれるもの、その素振りを見せる者さえ見つからないまま日々が過ぎていたのだから。彼の計画は今の彼一人の力では絶対に実現不可能で、だから、協力者の存在が必要不可欠だったのに、だ。
すると、どうだ、手詰まり寸前だったその時に、彼の手駒がー普段は大して役に立たないのだが、素晴らしく有用な情報を持ってきたのだ。
彼が真っ先に目星をつけていたクラウゼウィッツの子弟、これは男だったから用無しだと思っていたら、この男の婚約者が学園内に居り、しかも彼の手駒がそれなりに親しい知り合いだというではないか。
それを知った時、青年の頭の中で、一挙にこの計画ができあがった。
その上、最近、監視も行動の制限も緩んできていたことが、更に青年を後押ししたー長らく『よい子』を演じてきた成果が出てきたのだろう、監視者は油断したのだ、俺が軟禁状態に参ったか、諦めきったかで、完全に牙を抜かれたとみなしたに違いない。模範囚を演じていた甲斐があった、これは絶好のチャンスだと青年は考えた。
案の定、大学で親しくなった女友達と今夜は一緒に過ごすという名目で、この女ー女たちを部屋に連れ込むことにも簡単にOKが出た。
元々、表だって不穏な動きをみせない限りは、大学内で行動の自由を保証されていたが、実際、学友?女友達を官舎に招待したいと申請したら、拍子抜けするほどあっけなく許可が出たのだ。
そして1度、獲物を室内に連れ込んでしまえば、部屋は外から施錠される。俺が逃げ出せないように、この女も逃げ出せなくなった。
自身が虜囚であることが、この場合、逆に有効に働いたー官舎の扉は外から施錠され、内側から開かないのだからーつまり、この女たちを監禁しているのは、国そのものということだ。この女たちを俺は客として住居に招待しただけで、俺がこの女を監禁しているのではない、この国が俺と俺の客人を幽閉監視している、という図式なのだ。俺は一切の不法行為、犯罪行為は犯していない。他の場所に連れ出し、閉じ込めたら、略取誘拐・監禁という罪状がつけられたかもしれんが…この部屋の中であれば、その図式は適用されない…と、非難・糾弾された場合、彼は、こう言い逃れるつもりでいた。
だが、それが詭弁だ。彼はこれからこの少女を監禁するつもりだったからだ。自らの要求が通ったと確信が得られる時まで。
ただ、彼は自分の立場…「賓客」というレッテルを張られてはいるが、実態は幽閉されている身だと自覚もしていたのでー高貴すぎる身分・血筋の持ち主は、明らかな犯罪行為を働いても処罰できず、流刑や幽閉されることが多々ある、そういう立場だー幽閉されている者が、人を監禁するなど滑稽な話だし、もとより、この監禁は長くは続けられまいこともわかっていた。
しかし、彼の目的は「少女を拉致監禁すること」ではない、それはあくまで手段だ。この女を餌に俺はクラウゼウィッツにある要求をつきつけ、承諾させ、火急速やかに俺の要望を実行させる、それが目的だ、そして、その実行に大して時間はかからないはずと、彼は考えていた。
確かに彼は切り札と言うべき餌を入手した、しかし、この餌をいつまでも生かしてこのまま保管しておくのは難しい、彼自身が軟禁中の身の上で、しかも、今回あくまで「女友達と遊興」として連れ込んでいる以上、1、2日ならともかく、週単位での監禁は難しい、流石に怪しまれようし、監督者に介入された時点で計画はぱぁだ、ということも、ちゃんとわかっているのだ。
だから、短期決戦を目指す。クラウゼウィッツの男に速やかに要求を呑ませるためには、この餌をどう扱うのが、最も効果的だろうと彼は考え始めた。
けど、彼は割と楽観していた。
この少女に「おまえは人質だ」と宣言している。
そして、彼は知っているのだ、極めつけの異常な境遇である「人質」とされた人間が、どのようにふるまうかを。
何故か、人質は、自身を監禁する犯人に、共感したり、同情したりして、監禁者に進んで協力するようになるという。そういう事例が過去、実際にあったのを、彼は知っていた。
なら、この少女を人質にした時点で、彼の目的な半ば達成されたようなものだった。この少女が、婚約者であるクラウゼウィッツの男への連絡を渋り拒否したのは、自身が人質だと思い知らせなかった故だろうから。
最初、クラウゼウィッツの婚約者という小娘ー少女を簡単に御せると、甘く見ていたことは否めない。
その女に会って話をし、我が境遇に同情させ、鼻もちならない使命感や慈悲の心を刺激してやれば、簡単に我を援助する気になるだろうと思っていた、エンジュのように。高所から「貧乏でかわいそうな王子を助けてあげる」と思わせ、いい気分にさせてやろうではないか、と。クラウゼウィッツの婚約者は元々庶民だというし、成り上がりの庶民は、高貴な血筋に劣等感を持つ者が存外多い。そういう輩は自らの劣等感をなだめ、同時に血筋という努力や才覚だけでは手に入らない物をもつ高貴な生まれの者に対し、優越感を感じたいがためにこれ見よがしの慈善行為や多額の寄付をする。そうすることで「高貴な生まれ」の者を見下し、現在の自分の優位を確認したがる、さもしい性情を持つ者が多い。だから、そういう心理を利用、クラウゼウィッツに連絡をとらせ、援助の確約を取り付けるつもりでいたのだ。
その目論見は上手くいかなかった。学生会館では、事態は全く彼の思惑通りに進まなかった。
この女は、思いがけず聡明で機転もきき、度胸もあり…自分の甘言には乗らず、脅しには屈せず、我に交渉を持ちかけ…富裕な男を捕まえて舞い上がってる馬鹿女なら簡単に御せると思っていたのにアテが外れた。その後も、予期せぬ追手が現れたり、人質の女に抵抗されたりし、多少は焦ったが…この女を官舎に連れて帰ってこれた時点で、自分の勝ちは、もはや疑いようがなかった。
だって、人質というのは監禁者に進んで協力してしまうものなのだ、歴史がそう証明しているのだから。
もし、万が一、それでもこの少女が、我の意に従わなかった場合でも、策はある。もはや用無しだと思っていたエンジュ、図々しく勝手に付いてきたエンジュが、そこで役にたつ…いや、利用できることに彼は気付いている。人質の少女が、自分の身を案じるより先に「エンジュを解放してやってくれ」と彼に請うたことで、エンジュの利用価値に彼は気付いたのだ。
最初は「信じられない、どこまでお人よしなんだ、この女」と思ったが、すぐ、はたと気付いた、この女に言うことを聴かせようと思ったら、この女自身を脅すより、第3者を傷つけると脅す方が効果的だったことも思い出した、となれば、エンジュを傍に囲い「エンジュを痛めつける」と脅す方が、この女を従わせるに効果的なのではないかと…。
エンジュが付いて来た時は、全く余計な邪魔者が…と思ったが、今となっては災い転じて福となるというか、結果オーライというか…エンジュが考えなしでー解放してやると言ったのに、わざわざ自分から付いていくと言い張るほど愚かで、本当に助けられた、これで、エンジュは自発的な協力者ーありていにいって共犯者となることを自ら選んだのだから。そして、この国の法律は自分に適用されないし、そも、自分は、この国には本来いない人間ーきちんとした入管を受けていない密入国者だから、外務省は我の存在を公にする訳にはいかないーつまり、何か事件が起きても、刑罰を受けるのはエンジュだけになるのだ、これが笑わずにいられようか、と青年はほくそ笑んだ。
エンジュを利用することに青年は全く罪悪感を感じていない。
彼から見ると、エンジュは、一見、彼のいいなりになっているように見えて、実のところ、彼を「かわいそうな人」とみなし「助けてあげる」と上から見下ろしているのだとしか思えなかったから。「かわいそうな王子様」と憐れまれるのは、虫酸が走る、が、自分がどれほど失礼な態度を取っているか、あの女は無自覚だ、そうして人を見下していながら、自分は「善人」「良いことをしている」といい気持ちになっている、鼻もちならない女、それがエンジュだと青年はみなしていた。が、だからこそ、遠慮なく利用させてもらえるというものだ。あの女は我を見下しているつもりで、我に利用されることで、あんなにもいい気分にならせてもらっているのだ、感謝してほしい位だと、彼は思っていた。
さて…とばかりに、彼は自分の部屋を見渡した。餌の少女、我の身代わりになって処罰を受けることになるだろう少女が、2人並んでソファに座っている。我の手には、餌の少女の持ち物だった携帯電話もある、これで状況は完璧に整った、そろそろ交渉を始める時だ、そう思うと、自然と口元が緩む。
今まで、彼は外部への連絡手段がなかったー正確にいうとあてがわれた部屋には電話があったが、彼は外部と連絡を取ったことがなかった。連絡を取りたい相手がいないということが一つ、下手なことを言って、行動を制限されたくなかったのが一つ。有線の電話での会話など、傍受録音が可能だろうし、彼は、部屋に電話があること自体怪しんでいた。その手にのってたまるものか、弱みを見せてなるものかと思っていた。
だが、今、彼は捕えた女の持ち物ー素晴らしい情報源となる携帯電話も確保・保持している。クラウゼウィッツを筆頭に、デュカーティ、カタルヘナ…1stネームでの登録なのではっきりはしないが、調べればまだまだ他にも利用できる人材の連絡先が入っていそうだ。どれほど金を積んでも欲しがる輩がいるだろう、俺が使った後は、そういうヤツらに高値で売り付け…と考えたところで、彼は頭を振った。いや、もう、資金を集める手立ても必要ない、もうすぐ俺の宿願は叶うのだから。
「さて、女、おまえの立場はもうわかっているな、改めて命じる。この電話でクラウゼウィッツに連絡を取り、我の計画ー事業に無条件の協力を要請しろ」
青年は、少女が、今度は唯々諾々とーエンジュ同様に無批判無定見に自分の命に従う物と信じて疑っていなかった。