オスカーがコールするや否や、不自然なほどの素早さで、電話は、即座に繋がり、リモージュ氏の応答があった。
「やぁ、オスカー、こんな時間に何の用だい?今、こちらは少々取り込み中…急ぎの仕事で立て込んでいてね、今でなくてもいいことなら、後刻、掛け直して欲しいのだが」
声は朗らかだったが、言わんとすることは明白ー「今、君にかかずらってる暇はない」ーだった。
「待ってください!緊急の…一刻、いえ、1秒でも早く報告し、対処せねばーあなたに対処してもらわねばならぬ事態なんです、アンジェリークが某国の王子…あなたの保護監察下にいるあの青年に拉致された、現在、ヤツの住居に監禁されているんだ!」
慌てて、オスカーは勢い込んで一気にまくしたてるように核心を告げた。リモージュ氏にコールを切られてはならじとの焦りで頭がいっぱいだった。
元々、リモージュ氏にコールした時、オスカーは平常心とは程遠い心境だった。だから、リモージュ氏のいる国と自国との時差も失念していたし、時差を考えれば、リモージュ氏が間髪いれずにオスカーからの電話に出る、というのは、いささか不可解なことだと、いつものオスカーなら、すぐに気付いた筈だ。
が、緊急事態で気持ちに余裕のないオスカーは、そこまで考えが及ばなかった。アンジェリークを手中にしているヤツの動きを牽制せねばならない、が、警察をあてにできない以上、それができるのは外務省からの上意下達しかない。急ぎ、リモージュ氏に現況を報告し、動いてもらわねばならぬと必死だったのだ。
そこに、リモージュ氏から、いかにも取り合う気の無さげな素っ気ない応答を返され、オスカーは尚更に余裕を失ってしまった。報告も、冷静さを欠いた慌てふためいた口調で、事実を羅列しただけの子供の作文のようになってしまった。後で思い返せば「何をばかなことを」と一笑にふされ、それこそ、取り合って貰えなかったかもしれない拙い報告だった。
それでなくても、緊急事態というのは、声を大にしても、明白な事象があってさえ、中々に受容・理解されづらい。非常ベルや警報が信じてもらえず被害が拡大することは、現実に多数ある。人の心理は、酷い惨事や不幸を、無意識に「否定・否認」しようとするから、どうしても「悪いニュース」は信用されにくい。悪いニュースを人に信じさせるには、信じてもらえるよう伝えるには、冷静にして断固とした態度と論理的かつ客観性を思わせる物言いが肝要なのだ。
が、焦りで取り乱し気味だったにも関わらず、オスカーの報告をリモージュ氏は、疑ってかからなかった。それどころか、オスカーにとって幸いなことに、打てば響く素早さでくいついてくれた。
「なんだって?オスカー、今、なんと言った?!アンジェが、あの青年と、どうしただと…?」
「ですから!アンジェが…俺のアンジェリークが、あの男に攫われ、ヤツの宿舎に連れ込まれてしまった、と言っているんです!」
激昂しかけて、オスカーははっと我に返る、うろたえ、取り乱してはならない、俺が冷静さを欠けば、アンジェリークを救いだすのが、その分、遅れると、かなり無理やり自身に言い聞かせる。冷静に順序立ててリモージュ氏に状況を説明、理解してもらわねばと、必死に、頭の中で報告すべき事柄を整理する。
「アンジェリークは、大学からヤツの迎車に乗せられ例の宿舎に連れていかれた、その一部始終を、俺の学友が目撃しています、宿舎の守衛も連れてこられたアンジェリークの姿を見かけている筈です、何なら、今、リモージュ氏から、アンジェリークの携帯にコールしてみてください、彼女は…電話には出られない状況下にあることが、すぐわかるはずです」
「ちょっと待ってくれ、それでは、彼の協力者の1人はうちの娘だったというのか?」
「は?なんですって?お言葉の意味が、わかりかねます、アンジェリークは無理やり、力づくで車に乗せられ、ヤツに拉致されたんと俺は言っているんです、彼女から、助けを求める信号もずっと出ている、それが、何をどうしたらお嬢ちゃんがヤツの協力者だなんてことに…?」
「私が先刻受けた報告では、確かに、今日、彼は大学から女子学生を2人、宿舎に連れてきたとのことだった…だから、彼には協力者が2人いるのだと思い、その身元確認と、彼女たちがどの程度の事情を知り、どんな意図で彼に協力・加担しているのか調べるよう、命じたところだったのだが…その内の1人がうちの娘?だと、君は言うのか?報告では、女子学生2人はどちらも抵抗せず、進んで宿舎に入っていったとのことだが…」
「ばかな!抵抗できなかったのは、ヤツから「騒ぐな、抵抗するな」と脅迫され、脅されていたからに決まってるじゃないですか!…え?……待ってください、何故、あなたは、ヤツの宿舎に女子学生が、しかも、2人?入室したと?俺はアンジェが攫われたとしか告げていないのに…何故、現況を俺より詳しくご存じなのですか…?そして、そこまでわかっているのに、その内の1人が自分の娘とは知らなかった?これは一体どういうことですか!?」
女子学生が2人ということは、その内の1人はアンジェリークで、ならば残るもう1人が誰なのか…オスカーにはもう察しがついていたが、今の今まで、オスカーは、あの青年の走狗ーエンジュ・サカキも同行しているとは知らなかった。アンジェリークの安否を確認することだけに頭がいっぱいで、現場を目撃していたゼフェルに、その場に他に誰がいたかまでは確かめていなかったし、ゼフェルも、何も言っていなかったー当たり前だ、ゼフェルはエンジュ・サカキを特に注視していた訳ではないから、その姿を見かけても誰かわからなかったろうし、やはりアンジェリークの安否が最優先課題だったろうからーなのに、リモージュ氏は、その場の状況を、ある面では、俺以上に詳しく、既に知っていた、ということは…
一瞬間の沈黙、そして、短いが深い吐息の後、カティス・リモージュの重々しい声がーそれは、いつもの軽妙にして洒脱な彼の口調とはかけ離れたものだったーこう語った。
「彼には学内に協力者がいると、先日、君が私に言ったんだよ、オスカー。されば、こちらは、その協力者は何者か、どういう意図で彼に加担しているのか、彼の素姓諸々の事情を知った上でのことなのか、調べるのは当然のことだろう?また、彼がその協力者を使って何を企み目論んでいるのか、管理監督者としては、それも調べねばならない。それが不穏当なものであれば、阻止するためにね。君も知っての通り、彼は…一言でいえば、危険人物だ。今、彼が甘んじて軟禁下にあるのは、彼が配下である手足をもがれ力を失っているからに他ならない、言いかえれば、力を得れば、彼は、再び、なんらかの不穏な行動を起こすと、我々は考えている。ゆえに…彼を保護監察下に置いておかねばならぬ我々としては、彼が新たな手足や力を手にいれたら、それが誰で、また、何をするつもりなのか探り、その内容次第で彼の計画を阻止した上で、彼の処遇を見直さねばならない。そのために、まず、彼の手足がどこの誰で、どんな人物なのか、知る必要があった、それによって対処の仕方も変わってくるのでね」
「!!!」
オスカーは瞬時に全て悟った。本来、護衛と同時に監視も兼ねているはずの運転手が、ヤツの命令・言動を窘めも不審がりもせず、女子学生2人が連行されるに任せ、黙認した訳。ゼフェルが守衛に喰ってかかっても、全く取り合ってもらえなかった訳。全てー前もって周到に仕組まれ、おぜん立てされていたのだ。監視が緩んだとみれば、ヤツがどんな行動を起こすのか、ヤツのやりたいようにやらせてみろと。ヤツの目的と協力者をあぶりだすために。
「あなたはわざと…ヤツがアジトに誰を連れ込むのか、連れ込んで何を命じ、やらせるつもりなのか、知るためにヤツを泳がせていたのか!恐らく、故意に監視も緩め、ヤツが何をしようと、邪魔立てするなと…そして、最終的に何を目論んでいるのか、見極めるつもりだったんだな!?」
怒鳴るようにリモージュ氏に真相を突き付けつつ、オスカーは無意識に呻いていた。
なんということだ、俺の意図・判断は悉く逆張りに、悪いほうへと作用してしまっていたのだ…ヤツへの警戒を強めてほしかったから、俺は、リモージュ氏に、ヤツには学内に協力者がいるから油断ならないと知らせた、ところが、外務省は「協力者」の存在を知ったーだが正体は分からなかったが故に、それが誰か、その目的は何かをあぶりだすために、俺の意図とは逆に、ヤツの監視と手綱を故意に緩めた。外務省の思惑通り、それが、ヤツを大胆な行動に走らせた。そこまでは、外務省の、そしてリモージュ氏の計算通りだった筈だ、しかしヤツの協力者は、アンジェリークと同じ年の女子寮生で、アンジェリークとは知己の間柄だった。俺は、アンジェリークの安全を考えてー彼女には何も知らさずにいる方がむしろ安全だと考え、アンジェリークにエンジュの言動に警戒するよう、注意を促さなかった、それが更なる仇となって、アンジェリークはエンジュに誘い出され…挙句、拉致されてしまったのだ…
完全に俺の失策だ…俺は得た情報を抱え込んでいた、アンジェリークともリモージュ氏とも、情報の共有をしていなかった、最初から全ての情報を関係者全員に提供し、調査の協力を依頼していれば、ヤツの監視が緩むこともなく、アンジェリークが拉致されることもなかったかもしれないのに。アンジェリークにも、エンジュの言動には気をつけろと、言っていれば、彼女だって、まんまと呼び出されたりせずにすんだかもしれない…俺の責任だ…「ヤツには学内に女子の協力者がいる」と俺が中途半端に情報を開示したせいで…その半端な情報のせいで、アンジェリークも協力者の一員かと疑われ、ヤツに拉致されるに任せてしまった…なんということだ…
思いあがっていた、奢っていた、自分でなんとかできると。その上、愚かにも、得た情報をリモージュ氏との取引材料に使えないかと、さもしいことを考えていた、そのばちがあたったのだ。
同時に…俺は、アンジェリークを庇護すべきか弱き存在とみなし、自分は保護者気どりになっていなかったか?彼女を軽んじたり、侮ったりしていたつもりはなかった、けど、アンジェリークに知らせるべきことを知らせていなかったのは、結局、そういうことではないのか?
そのしっぺ返しが…あまりに手痛いしっぺ返しがこの結果か…
「報告では、連れてこられた女子学生は2人ということだった。では、オスカー、その内1人は不本意に拉致されたうちの娘、もう1人が協力者ということか…」
自己嫌悪のどぶどろに沈みかけていたオスカーを、カティス・リモージュの冷静な声音が、我に返らせた。
呆けている暇も、自身に憤っている暇も、ましてや自己嫌悪で自分を甘やかしてる暇はもっとない、オスカーは拳を握りしめ、奥歯をかみしめた。気持ちを切り替え、必要な情報をリモージュ氏に伝えねば、と自身に言い聞かせる。
「そうです、同行したもう1人の女子学生は、恐らくエンジュ・サカキ、アンジェリークと同じ、寮住まいの1年生です、アンジェリークは今日、自分と同じ寮生と会う約束をし、待ち合わせていると言っていました、そしてアンジェリークはエンジュがヤツの手先と知らなかった、だから、普通に友人と会うつもりで待ち合わせ場所に赴き、恐らく、そのまま…何らかの形で抵抗を封じられ…その後、車ー外交官ナンバーの車に乗せられ、宿舎に連れ去られてしまったんです」
「彼は…私の娘と知って、アンジェを攫ったのか?」
「…それがまだわからない、クラウゼウィッツの婚約者だからなのか、あなたの娘だからなのか…だが、どちらにせよ、アンジェリークが危険なことに替わりはない、だから、早急にヤツの動きを抑えてもらいたくて、俺はあなたにお知らせしたんです!あなたが、現況をご存じだとも、ましてや、それが、あなたの思惑通り…あなたにはめられたヤツが迂闊に動いた結果とも知らずに!」
言葉が皮肉気になってしまうのは、自身の馬鹿さ、驕りへのいら立ちもあってのことだ。それを抑制できないのは、自分の未熟さ、若さなのだろうとオスカーは思う、リモージュ氏をやりこめて溜飲を下げても、何の解決にもならないとわかっていて、皮肉を言わずにはいられなかったのだから。けれど、こんなバカげた真似は、ここで仕舞う、と、オスカーは真に言いたいことを、一気に言った。
「だが、どんな事情があれ、外務省の宿舎に、一介の大学生の俺では手出しできない、あなたの方から、ヤツのやりたいようにやらせろと根回しがしてあればなおさらだ…なので…けれど、そういう事情なら…ヤツの動きは逐一見張られていると思っていいのですね!?なら、女子学生のうち1人は不本意に攫われてきた被害者だと、見張っていれば、すぐわかるはずだ!今すぐ、彼女を助け出してください!あなたにはその権限があるでしょう!」
「っ…今は…まだ、それはできないんだ、オスカー」
「なんですって!どういうことなんだ!それは!」
「彼は、誰にも危害を加えていない、女子学生2人は監視カメラで見ていて抵抗の様子がないと報告がきている、音声の拾えた会話内でも、彼は脅迫や恫喝に類する言葉を今のところ発していないそうだ。つまり、女子学生たちは自主自発的に入室しているようにしか見えない、これでは、拉致監禁したという証拠にならない」
「!!!…では、あなたは、アンジェリークが実際に危害を加えられるまで、指をくわえて見ているつもりなのですか!?あなたには…いや、あなたにしか、ヤツを止める権限はないというのに!」
オスカーは完全に激発した。怒りと焦りで息がとまりそうだ、脇でオリヴィエが「落ち着きなって!」 と言っているのも耳に入らない。
「オスカー、私は法治国家の公僕だ、法律の遵守は義務であり責務だ。犯罪証拠のない人物を拘束する権限は行使できない。…証拠さえ出そろえば…話は別だが…」
「証拠!?証拠だと!?アンジェリークが傷つけられ、その身が損なわれるという確たる証拠がそろうまで、待てというのか!」
「落ち着いてくれ、オスカー、私に焦りや苦汁がないと思うのかね?」
「っ…」
「彼が娘を攫ったのが…クラウゼウィッツの財力目当ての営利誘拐なら、ほどなく人質と引き換えの要求…脅迫が君の元に来るだろう、その要求を彼本人がしてくれれば話は早い、最も簡潔単純にカタがつくのだが…とにかく、何か、明らかな犯罪行為を犯してくれない限りは、私たちには彼を管理監督する以上のことができないんだ、それが、彼を預かるにあたっての某国国王との約束でね…」
「そんな思惑通りに上手くいくと思うのか、あなたは!何のために、ヤツが協力者を抱き込んでいると思ってるんだ!汚れ役を押し付けるつもりだからに決まってる!なら、脅迫だって、その少女にやらせるかもしれない!ヤツの目的だってわからない、これが、あなたの娘を痛めつけ、辱めるだけが目的の誘拐だったら?彼女が被害を受けてからでは遅いのに、彼女が傷つかないと動かない、傷つけられて初めて動くのが、あんたたち役人か!よしんば、ヤツの目的が資金ならいい、金を渡すまで、彼女の命は保証される、だけど、それは命だけだ、命さえ奪わないのなら、誘拐者が人質に何をするか知れたものじゃないんだぞ!」
営利目的の誘拐であっても、金が手元に届くまで、生命に支障のない範囲で少しづつ人質を傷つけていくと宣言し、実行した犯罪者は多数いる。ネット全盛の現代なら、その過程を動画で見せつけることさえありうる、早く要求を呑まないと、それだけ人質が多く傷つき苦しむことになるぞ、という脅しとして実況中継ほど効果的な物はあるまいから。そして、事実、もし、アンジェリークが僅かでも傷つけられる様子を見せつけられたら、オスカーは、自分は正気を保っていられないし、どんな要求でも2つ返事で呑んでしまうだろう、一方で、どんなことがあっても、その犯人を決して生かしておかないだろうと言い切れた。しかも若い女性が人質の場合、レイプ被害は表に出ずとも数え切れないほどだろう。誘拐の危険を幼いころから叩きこまれてきたオスカーはおぞましい被害事例も多数知っていた。それは、あまりに恐ろしく不吉で、頭に思い描くのも口に出すのも厭わしかった。
が、オスカーの焦慮に満ちた声音を聞いても、アンジェリークの実父カティス・リモージュは揺るがない。
「…今は…ダメだ、オスカー。彼が何らかの動きを起こすまでは、耐えてくれ、耐えるしかないんだ。そして、こちらが動いてよい時はー遅くても早くてもダメだ、厳密な一刻を見極めねばならないんだ」
「…一体、何があなたをそこまで押しとどめている?何故、そこまで及び腰なのです!」
「察してくれ、としか言えんのだ、事は極度に高度な政治的判断と外交の問題、それが背景にある、としか…」
リモージュ氏の苦しそうな歯切れの悪い答えに、オスカーは、はっとする。
「そうか!あの国の国王と、あなた方は官僚は何らかの取引をしているんじゃないのか?一体、どんな裏取引をしたんだ!ヤツを匿う替わりに、あなた方は…この国は何を対価に得るんだ!?」
最初は、ふとした思いつきを口にしただけだったが、オスカーはこの時点で自分の言を確信していた。
国際法上の危険人物を匿い、保護するなら、それに見合った代償・対価があるに決まっている、国の運営は慈善事業ではないのだから。そしてヤツの故国は租税回避地…この国の富裕層も相当数資産管理を任せているだろう一方で、昨今の不況で税収が落ちている国としては富裕層の資産をしっかり把握し、税金逃れを阻止したい、となれば、あの国の国営銀行の顧客データは喉から手が出るほど欲しいのではないかと俺は以前考えたことがあったではないか、その時は、それこそ、思いつきの域をでない、数多の可能性の一つに過ぎなかったが…リモージュ氏のこの歯切れの悪さ、腰の重さ、タイミングの見極めが重要と言う言葉は、おいそれと彼らが動けないことを示している、それは、かの国とこの国との間で、ヤツの保護に関する何らかの取引があるからだ、そして、その取引を破棄・反故にするには、有無を言わせぬ程明白なヤツの不法行為が必要なのだー言いかえれば、今、彼ら官僚は、俺の告発や状況証拠だけでは動くに動けない…ヤツの行動が明白な犯罪と言うには弱く、同時に、ヤツの保護監督を見返りに得られる対価を、まだ、得られていないからだろう。恐らく、あの国は、虎の子の顧客データをのらりくらりと小出しにしか開示していないのだろう、されば、その間、テロを企むような厄介物の王子の世話をずっとこの国に押し付けられるのだから。そして、欲しい情報を全て入手できないでいるから、この国は、彼を保護する約定も破棄できないのだろう。
ならば、外務省にヤツの保護を放棄させるにはどうすればいい?一つは、どうやっても庇いきれないような明白な犯罪行為をヤツが犯すこと、もう一つは…国は富裕層の顧客データが欲しいのだから、そのデータを与える、もしくは、国が入手できるよう仕向けること。欲しいものを得てしまえば、国がヤツを保護する理由もなくなるはずだ。そうなれば…国の保護なくして治外法権の行使もあり得ない、治外法権の付与さえ取り下げてもらえれば、この国の司法でヤツを取り締まれる。
そして、俺は、ヤツの接触者をリスト化していた、それは、彼ら官僚が欲しているデータとかなりの近似値のはず、これを今使わずに、いつ、使うんだ!
「もし、あなた方が、国営銀行の顧客リストを欲しいのに入手できておらず、それがヤツを匿う対価…保護を放棄できない理由だというのなら…俺がそれに類するデータを持っている、としたら、どうだ?俺はあの国の国営銀行の、とある年度の顧客リストと思しきデータを入手済みだ、もしその類の資料が、ヤツを匿う対価なら、俺がその代替物を提供する!」
「なんだって?今、なんと言った?オスカー」
「俺は、あなた方が欲しがりそうなデータを持っている、それを提出するから、アンジェリークを今すぐ救い出してくれ、と言っている!」
オスカーの声は絶叫に近い。もう、本当にギリギリなのだ、今にも、心の糸が…緊張・不安・焦慮・恐怖にぶち切れてしまいそうなのだ。
「それでも、あなた方が動けないというなら、俺が今すぐ、あの宿舎に、乗り込む!俺が、アンジェリークを救い出す!」
「彼は治外法権に守られていると、前にも言ったはずだよ、オスカー、君が彼の住居に立ちいることはできない、それは国境侵犯に相当するからだ。そして、君が持っているというそのデータだが…詳細な検討なしに、軽はずみな約束はできん、データの精密さや重要度を君の言葉だけで証明することはできないし、こちらも鵜呑みにはできない。が、君の提案は考慮に値する…なら、私も約束しよう、彼に僅かでも不穏な気配が見えた時は、こちらの監視を気付かれない範囲で、という制約下でのものとはなるが、可能な限り、彼を牽制、動きを制すると」
リモージュ氏の声はあくまで静かだった、その冷静さが、逆にオスカーを刺激した。ここまで譲歩しても…こちらが手持ちの札をすべてなげうち提供すると言っているのに、その程度のことしかしない、できないというのか…と。オスカーの心は怒りと絶望に沸騰した。
「そんなことは当然だ!あなた方役人は、国民を保護し守る義務があるんだ、ましてや、拉致監禁されているのは、あなたの娘なんだぞ!しかも、あの場には、ヤツの協力者がいるんだ!その少女が、ヤツに命じられてアンジェリークを害そうとした場合は?アンジェリークが害された挙句、その少女だけが、罪を着せられ、ヤツはのうのうと無実を主張する可能性だってある。それでも…ここまで言っても、ヤツが動くまで、あなた方役人は手をこまねいて見ているというのか!俺は、そんなことは我慢できない!公務執行妨害に問われようと、国際法上でトラブルになろうと、もう、俺は我慢できない、今から、ヤツの住まいに踏み込む!アンジェリークさえ、無事、助け出せれば、俺が犯罪者になろうと知ったことじゃ…」
ぱん、と、オスカーはいきなり、だが、軽く頬をはたかれた。
「馬鹿言ってんじゃないの、アンジェを助け出すために、あんたが犯罪者になったら、アンジェがそれ、喜ぶと思うの?」
「!…オリヴィエ……」
オスカーは、今の今まで傍らのオリヴィエの存在を失念していた。オスカーの部屋の電話は、いつでも誰からのコールであれ、その会話が録音できるようスピーカーその他の機材に接続されていたー先刻、ゼフェルが電話で機材が整っているか確かめたのも、この録音準備ができているかどうかだったのだが、確認されるまでもなく、オスカーとオリヴィエは、必ず電話での会話は録音が必要かつ重要となると踏んで、その準備は怠りなく完了させていたのだ。だから、オリヴィエも、オスカーとリモージュ氏2人のやり取りを逐一耳にしていたのだが、オスカーは、それらのすべてを失念していた、それ程頭に血が昇っていた。が、オリヴィエは、2人の会話に耳を凝らし、不穏になっていくやり取りに心痛め、ずっと、2人の話に割って入る機会をうかがっていたのだ。
「あんたの気持ちは痛いほどわかる、マジ、切羽詰まってるのも、けど、力押しじゃ上手くいかないこともある、犯人を警戒させ、まんまと逃げられて終わり、おまけにあんた自身も犯罪者ってアブハチ取らずになる可能性だってある。とにかく、人質がいる以上、力押しは下の下だよ、最悪の場合、強硬突入の末に犯人人質もろとも全滅って話も稀じゃない、そんなこともわかんないあんたじゃないだろう?」
「…すまん」
「仕方ねーだろ、アンジェはこいつにとって弱み中の弱みだ、俺がとっくに部屋まであがってきてたのも、脇で全部、話聞いてることにも気づいてなかったみてーだしな」
「ゼフェル、いつのまに…来てたのか…」
「やっぱり、存在すら認識してなかったな、視界には入ってたはずだったのによー、その電話、アンジェのオヤジだろ?ちょっとかわってくれ」
いうや、返事をきく前に、ゼフェルはオスカーの手から携帯をもぎ取っていた
「時間ねーから、要点だけ言うぜ。俺は、アンジェが銀髪のやろーに拉致られた現場を目撃した。同行してた女子学生は、オスカーの言う通り…名前聞いて思い出したんだが、そのエンジュ・サカキでまちがいねー。それとアンジェが抵抗を封じられていたのは、ヤツに、学内に爆発物を仕掛けたって脅されてたからだぜ。俺が、アンジェを助けにいった時、あいつは、俺を見るなり、真っ先に爆発物の処分をしてくれといった。それだけを、くどいほどにな。大方、犯人はアンジェに、抵抗したら爆発物を爆破する、無関係の人間が傷つくぞともでも脅しやがったんだろう、姑息なやろーだぜ。あいつが無抵抗だったのはそういう訳だ、ただ、そっちの処理を優先したせいで、アンジェをみすみす攫われるに任せちまった事に関しては…現場にいたのに面目ねぇ」
「いや、君の判断は正しい、同時に、私は私の娘の判断を誇りに思うよ」
「ああ、あいつ…アンジェは確かに「助けて」なんて一言も言ってねー、それは、当座の自分の救出より重要なことを、俺に知らせようとしたせいだ。見知らぬ大勢が人質にされたと思ったせいだ、多分、今もな。なのに、無抵抗に見えたから助け出せねーって…上っ面だけみてんじゃねーよ、お役所仕事も大概にしとけ、おっさん。けどよぅ、そのアンジェの英断のおかげで物的証拠ってヤツを、こっちは入手できた。爆発して粉々に飛び散って証拠隠滅する前に押収できたブツだ。おっさん、ヤツをふんずかまえるにぁ、確たる証拠がいるっつってんだよなぁ。ヤツが仕掛けた爆発物じゃ、その「証拠」になんねーか?俺が処理頼んだ業者が爆発物を回収済み、どう処分したもんかって聞いてきてるんだけどよぉ、それ、そっちに提供してもいいぜ。すげぇちゃちぃ、正直、殺傷能力はねー、音で人を脅かすのが関の山つー程度の性能の爆発物だが、調べれば、誰かの指紋がどっかにあるかもしんねー。誘拐犯が保護監察下に置かれてた人間だってんなら、指紋の1個や2個、捺印させてんじゃねーの?その指紋と回収した爆発物に付着してた指紋を比べてみるってのはどうだ?」
「それが確かなら、かなりよい物証になる」
と、ここでゼフェルの目つきが険しいものになった。
「ただしだ、こっちも虎の子の物証渡す以上、それを、きっちり役立ててくんねーとなぁ。高度な政治的判断とかで、その証拠物件、もみけされちゃたまんねー訳よ、だから、提供すんのは回収した爆発物の1部だ、もし、それをなかったことにしたりしたら…俺が、その残りをどう使うかは、よくよく、考えさせてもらうからな」
「君の言わんとする処は理解した」
「よし、そんなら、とりあえず、この話は終わりだ。おっさんのところか、オスカーんとこのどっちかに、そろそろ脅迫の要求が来てもおかしくねー時間だろうからな」
「ああ、私もそれが気になっていた、ところで、君は…名はなんというのかね?」
「あぁ?俺はゼフェル、アンジェと同い年だ」
「ありがとう、ゼフェル君、君みたいな友人がいてくれて、私の娘も、未来の私の息子も、幸せ者だ。では、彼をよろしく頼む、と、共に、彼に伝えてほしい、気休めにしかならないかもしれんが、あの青年は、武器・刀剣など、金属類は一切所持していない、宿舎の出入りの度に金属探知機で入念に調べているのでね。料理もさせないので、部屋にナイフや包丁、火気も無い。そういったもので娘が傷つけられることだけはないと保証できる」
「だとよ、オスカー」
声をかけられて、オスカーは、ゼフェルから携帯をひったくる。
「人は素手での殴打でも、水を使ってでも、痛めつけ苦しめることができる…それをわかった上での気休めですね?」
「そう、だから気休めだと言っているんだよ、オスカー」
「では、俺からも最後に一つ…俺が情報を提供するための条件として、ヤツおよびヤツの住居への治外法権付与の再検討をお願いしたい。建前上、ヤツの保護を放棄できないにせよ、治外法権を付与するかどうかは、また別問題として検討できるはずだ。違いますか?こちらにある俺のデータとゼフェルの物的証拠、この2つを入手できるなら、治外法権付与の再検討は、決して悪い取引ではないと思いますが?ちなみに、お渡しするデータは無論コピーです、原本をどうするかは…ゼフェルの言い草ではありませんが、そちらの対応次第にさせていただく」
「…ふ…君がいつもの冷静と明晰を取り戻してくれたこと、心から嬉しく思うよ、オスカー。事態が何かしら動いた時は、こちらからも連絡する、それは約束するよ。では、お互い楽しくない電話を待つとしよう」
この言葉を最後に、コールが切れた。
「くえねーオヤジみてぇだな、あんなオヤジから、アンジェみてーなのが産まれて育ったって、なんか、信じらんねーや」
一人語ちてから、ゼフェルはオスカーの方に向き直った。
「で、こっちのおっさんも、ちっとは頭冷えたみてーだな。アンジェのオヤジと言い争いしてる暇ねーだろ、通話回線ふさいでたら、やつが脅迫電話かけてきても繋がらねー、脅迫したくてもできねーってイラつかせたら、気の短い野郎だったら、それだけで、キレて人質に何するかしれたもんじゃねーだろーが。今、俺たちにできることは、予め、網張ること、その上で、ヤツが動くのを待ち構える、それしかねーだろ」
「ああ、おまえの言うとおりだ、ゼフェル…」
オスカーは、自分がどれ程動揺し、上ずっていたのか、今は、もう、十分思い知っていた。
脅迫の電話が、いつ、どちらに来るかわからないのに、何をやっていたんだ、俺は…。リモージュ氏と言い争意をしている場合ではなかったのに、と。リモージュ氏は、俺の要望に従ってすぐ動いてくれるものと勝手に思い込んでいた、が、彼にすぐには動けないと言われたことで、勝手に裏切られた気持ちになって、発作的な怒りに我を忘れた。人が自分の思い通りに動かない、予想通りに事が運ばないというだけで、制御困難な怒りに襲われるとは…我ながら情けないにも程がある…。
人質を愛しすぎている人が交渉の窓口に立つのはかくも危険なのだと、嫌というほど思い知る、相手が犯人でなかったのに、激発して、このざまだったのだから。
誘拐、人質というのは、それを愛している人物に有効だからこそ、犯人はそこに付け込む。一方で、人質をとられた側の狼狽・悲嘆・逆上ははなはだしい、そして、逆上して我を失えば、かえって人質が危険にさらされる、すべて、理屈ではわかっていたのに、だ。
「いやいや、この状況下でオスカーがずっと冷静だったら、それはそれで、あんただって、オスカーの神経疑うだろ?多めにみてやんなよ。少なくとも、私は、何事にも動じない鉄面皮な男より、これ位人間味溢れる男の方が好みだねぇ、今は、頭冷えたってんなら、それでいーじゃない?」
「っ…」
ただ、このオリヴィエのフォローは、オスカーを慰めるよりも、より、消沈させただけだったが。
「すまん、色々と…その、手間をかける」
「勘違いすんな、俺がおめーに協力すんのはだなぁ、言わばアフターケアっつーか、製造物責任ってやつだ、俺が作ったGPSも警報装置もきっちり作動した、なのに、その所有者を救い出すに至ってねー…なんて事態、この俺様が納得できるわけねーだろ!俺の作ったものは最高だって示すためにも、所有者を助け出さなきゃ、話になんねーんだよ、それだけだ」
ぶっきらぼうにそっぽを向きながら、ゼフェルが語る。所謂善行は、照れ隠しなしには自ら語れない、その若さと実直さが先輩2人は好ましくほほえましい、が、今は、ゼフェルの純粋さに心温めている余裕はない。
「で、そのために今の俺らにできることは、とりあえずは、脅迫が来たときのための録音準備だが…言うだけあって、もう、しっかりできてんじゃねーか」
「ああ、それなら、あんたが来る前に固定電話の方にも、携帯にもレコーダーセットしといたよ、機材は全部そろってるって、オスカーも電話で言ってただろ?だから、あんたもアンジェパパとオスカーのやりとり、一部始終聴けてたわけだし?」
「まぁな、あの、くえねーアンジェのおやじんとこでも、逆探知…は必要ねーな、居場所はわかってっからな、そいつの監視と会話録音の準備は万端だろう。とりあえず、あっちが動いてくれねーとこっちも動けねーってんなら、動き出すまで待つしかねーからな。できれば、そいつが、さっさと動くよう突いてやれるといいんだが…こればかりは、な…」
「ああ、お前が回収した爆発物に合わせ、音声の証拠がそろえば…かなり有利に事を運べる、ヤツがエンジュを使わず、直接、接触してくれるよう、今は祈るばかりだ」
「ん、今は待つしかないのが、もどかしく歯がゆいけどねぇ…」
オリヴィエの言に頷きながら、オスカーは祈るような心持になっていた。
爆発物が証拠になるかどうかは、指紋があるか、あってもその状態次第だから、確実とは言えない、ならば、今はいっそ、アンジェリークの拉致がクラウゼウィッツ目当ての営利目的の誘拐であってほしい、ヤツが直接、こちらに電話をかけてくれば、ヤツの肉声と言う証拠が手に入るかもしれないし、それがダメでも…少なくとも俺が要求を呑むまで、彼女の無事は保証されるだろうから。
けれど、もし、単なる逆恨み、仕返し、腹いせの誘拐だったら、彼女は何をされるか…あの場には協力者の少女もいるなら、ヤツが己の手を汚さず、その少女を使って、アンジェリークを酷い目に合わせるかもしれない、過去、人質同士で傷つけ殺しあうよう仕向けた監禁犯の例もあるのだから…武器類がないという情報はせめてもの慰めだったが、オスカーが自身で言った通り、道具なしで人を傷つける方法など無数にあり、あの青年が、そういう方法にどれ程精通しているのかしてないのか、こちらに知るすべはなく…おぞましい想像は抑えが利かず、その恐怖で、オスカーの心臓はつぶれそうだった。今となっては、誘拐者に早く動いてほしい、そんな倒錯した心境にすらなっていた。
青年は、アンジェリークが従順に命に従って当然という態度だった。
人質となったアンジェリークは、唯々諾々と命に従うに決まっていると信じて全く疑っていない様子だった。
「さぁ、クラウゼウィッツに…おまえの婚約者にコールしろ。我に無条件に協力、命に従うように。要求を呑み実行しないと、自分は返してもらえないのだと、な。何なら…さもないと、自分がどんな目にあわされるかわからない、だから言うことを聞いてくれ、と付け加えてもいい。助けて、と、哀れな泣き声で言えば、更に良いぞ?」
青年は、面白おかしそうにアンジェリークにこう命じた。
その言葉を耳にして、目を見張り『信じられない、嘘よね?冗談でしょう?』という顔をしたのは、エンジュの方だった。
命じられた当のアンジェリークは動じず、気丈に、青年をまっすぐに睨み返し
「お断りします」
ときっぱり言い放った。
「おまえは人質だ、人質は監禁者の命に従うものだ」
「なんと言われようと、私は、あなたには従いません、オスカーに連絡はしません」
「どうあってもか」
「私が、オスカーに連絡をするとしたら、その条件は先刻お話した通りです、クラウゼウィッツに対する要求を明言し、それに私が納得共感した場合のみ、オスカーに連絡、協力を依頼します、けれど、白紙委任は絶対にしません」
「おまえが抗えば、この女が痛い目にあうやもしれぬぞ」
と、青年はいきなり矛先をかえ、エンジュを顎で指ししめした。当のエンジュは、びっくり顔のまま、青年とアンジェリークの顔を交互に見比べている。
アンジェリークの顔は、苦しそうに歪んだ。が、苦汁に満ちた顔つきながらも、アンジェリークは、きっ…と青年をねめつけ、一語一語をはっきりと、青年の真意を確認するように、こう言った。
「私があなたの指示に従わなければ、あなたはエンジュを痛めつける、そう言うのですか?」
そう言ってからアンジェリークはエンジュの方を向く。エンジュ、私と王子のやりとりを聞いた?あなたの王子が、あなたを、どう扱うつもりか、どうか理解して、もう、現実に目を閉じないで、耳をふさがないで、という思いを込めて。
一方で青年は、エンジュに対し誤魔化したり取り繕う様子もなく、むしろ得意げに、アンジェリークの言葉を肯定、強調さえする。
「そうだ、女、おまえが我の命に従わない以上、我はお前に罰を与えねばならぬ。王族への不従順・不服従は大罪だ。本来なら、おまえ自身に厳罰を与えなくてはならぬ処だが、おまえが人質である以上、そう、酷く痛めつける訳にもいかん。加減を間違って、死なせてしまったりしたら、クラウゼウィッツに要求を付きつけられなくなってしまうからな。人質は、無事でいてこそ価値がある。おまえは、それなりに聡明なようだから、自身の価値をよくわかっていそうだ、故に、我がおまえには酷い仕打ちはできないと、タカをくくっている。だから、そう強気でいられる、違うか?一方で、我が見るに、おまえは、自身に与えられる痛みより、他者に与えられる痛みを、より辛く苦しいと感じる人種のようだ、奇特なことにな。となれば、有効な手段を使わぬ手はあるまい?おまえが強情を張れば張るだけ、この、エンジュが痛い目や苦しい目にあうやもしれぬぞ、それでもいいのか?」
王子は、ある意味、アンジェリークの望む通りの言葉、エンジュに現実を認識してもらうにはうってつけの言葉を発してくれた。彼は、きっぱりと「エンジュを痛い目にあわせるぞ」とアンジェリークに脅しをかけたのだから。エンジュも、これで王子の正体を思い知るだろう、これで彼女が目を覚ましてくれれば…と思う。
しかし、アンジェリークの口からこぼれたのは、苦しげな呻きだった。青年が、自分の思惑通りの言葉を口にしても、アンジェリークは、とても喜ぶ気にはなれなかった。実際に、目の前で同じ年の女の子が、大の男に酷い目にあわされるのかもしれない、しかも、それは、私が青年の命に従わない所為だと思うと、今にも心が折れくじけそうだった。
この青年、人の弱みに付け込むのが、本当にうまい。実際、私は、自分自身への脅し、多少の責め苦には耐えて見せると思っている、けど、目の前でエンジュが酷い目にあったら…私、本当に、耐えられるだろうか、青年の要求を拒みとおすことができるだろうか…自信がない。
それでも抗える限りは抗いたい、それも真実なのだ。私が時間を稼げば、それだけ、オスカーの方も、色々準備ができるかもしれないし…と、考えたアンジェリークは、はた、と気付いた。
時間…そうよ、時間!今は何時?まだ、そんなに遅い刻限ではないだろうから、寮の門限にはまだ間がある。けど、遅くなって寮生2人とも未帰宅となれば、舎監の先生や寮長が心配して心当たりを探す、周囲にも私やエンジュを見かけなかったか、話を聞くだろうし、もしかしたらすぐ捜索願を出してくれるかもしれない、騒ぎになればなる分、目撃情報だって集まる、それはきっと極秘裏に事を進めたいこの人にとっては、嬉しくない筈だ。
アンジェリークは周囲をそれとなく見回す。自分たちが滞在したことのある部屋と同じ作りだから、どこに何があるか、ある程度は推察できる、となれば、部屋には時計も据え付けであるはず、と思い、探す…あった!居間の壁、奥のほうに掛けられた時計によると、今はまだ夜の8時少し前だ、寮の門限は10時だから、あと2時間…なんとか、時間稼ぎをする…できる限り。
とにかく、まず、エンジュが酷い目にあわされないよう、そんなことをしても無駄だと、この青年に思わせねば。
「…そんなことをしても無駄です…そんな卑怯な真似に私は屈しません、私自身に何をしようと、どんな脅しをかけようと、私はオスカーに連絡はしません、そして、オスカーは、私を損ない傷つけたものを決して許しません、私の命が無事だったとしても。それは断言できます」
とにかく強気に出てみる。相手に、こんなことをしても無駄だと、すりこもうとアンジェリークは試みる。
「怖いことだ、ならばなおのこと、おまえを傷つける訳にはいかなそうだな、ますますエンジュの方を痛めつけるしかなさそうだ」
青年は、嘲弄するような笑み、自身が絶対優位にいることを疑っていない笑みを、アンジェリークに見せる。
が、アンジェリークは怯まない。
「無駄です。あなたが、私に言うことを聴かせようと、エンジュを痛めつけても、私はあなたの命には従いません、従わないと決めています」
「そんなことができると本気で思っているのか?この女の悲鳴を聞かされても、おまえは動じないと?」
青年がエンジュの髪を手に取り、無造作に手の甲に絡めて軽く引っ張った。エンジュが体を硬直させ、目を見張り、息を呑む。恐る恐る青年の顔を見やる。その表情は、不信か不安か恐怖からか、ひきつれたように不自然に強張っている。流石に不穏な気配を悟り始めたらしい。
その様に、アンジェリークの顔は今にも泣き出しそうに歪む、自然と顔がうつむく。
「…長い時間は無理かもしれない…」
青年の顔が勝ち誇る。けど、そこで、アンジェリークはきっと顔をあげた。ハッタリでも、強がりと見え透いていても、退いてはダメ、怯んではだめだと、一歩も引かない覚悟でこう言い放った。
「けど、数時間なら耐えられる…我慢できるかもしれないわ。そして、あなたがそんな無駄なことをしている内に時間はどんどん過ぎていって、そうしたら、ほどなく寮の門限の刻限になる…私とエンジュ、寮生が門限を過ぎても2人共帰らないとなれば、騒ぎになるわ。心当たりを探されるでしょうし、その中で、私がエンジュと一緒にいたのを見かけた人だっているかもしれない、そうすれば、私が不本意にここに連れて来られ、とどめられていることも、時をおかず露見するでしょう。さっきは、ゼフェルの言葉も守衛さんに信じてもらえなかったけど、私が連絡もなしに帰寮しなければ、私たちの行方はどこに?ってことになるし、ゼフェルの言葉も信じてもらえるようになるわ。そうなれば、あなた自身は、自分は治外法権に守られていると強弁しても、この場所に、捜索の手が入るかもしれない、あなただって任意で事情を聞かれる位のことにはなるでしょう、それもあなたの立場なら強硬に断ることもできるでしょうけど…そうしたら、やましい処があるから事情聴取に応じられないのだと、不審な目でみられ、警戒されるようになるわ。そうなれば、あなたは、オスカーに…クラウゼウィッツに援助を要求するどころではなくなる、そんな時間も余裕もなくなるでしょうから。だって、私がここに囚われていることは、もう、私の学友、ゼフェルが知っているんだもの、あなたが、私に言うことを聴かせようと、エンジュを痛めつけるなんて無駄なことをしている間に、門限の時間がくれば、確実に捜索が始まる。そうすれば、ここも騒ぎになる…」
本当は、ゼフェルだけでなく、オスカーも、私がこの場に囚われていることを知っているんだもの、オスカーが色々な方面から手を打ってくれている、私を助け出す方策を今も探してくれているに違いないのだから。そう、アンジェリークは確信している、だから、言葉に力がある。
その上、とにかく、今は、エンジュを痛めつけるのは無益・無効だと青年に信じ込ませねばならない、だから、なおのこと、アンジェリークの言葉には力がこもる
「っ…女…」
そして、青年は痛いところをつかれ、一瞬、黙り込んだ。
その沈黙は、アンジェリークに、彼女が彼の痛点を正確に射たことを証明した。
やっぱりだ、この人は時間を気にしてる、元々、寮生2人を誘拐したらほどなく騒ぎになるのは目に見えてるのだから…できれば、騒ぎになる前にカタをつけたい、オスカーを脅迫して言うことを聴かせたいと、きっと、そう考えている筈、なら…この人をじらして、焦らせることができれば、この人は、何か、焦りから、下手をうってくれるかもしれない。
が、青年は、すぐに気を取り直したようで、アンジェリークを小馬鹿にするように、こう告げた。
「そんなハッタリは無駄で無意味だ、こんな時のために、エンジュがいるのだからな」
青年は、手の甲に絡ませていたエンジュの髪をほどくと、そのままその手を宥めるような仕草でエンジュの肩におき
「エンジュ、学寮に、おまえとこの女2人、一緒に今夜は外泊をする、という連絡をいれろ」
と命じた。
「ダメ!エンジュ、聞いていたでしょう?この人は、目的のためなら、あなたを酷い目にあわせることも厭わない、そういう人なのよ!そんな人に従ってはダメ!」
「…私…私…」
急に青年に名指しされたエンジュは、おろおろするばかりだった。すっかり惑乱しきっていた。
耳に入ってくる言葉は知っている、けど、その意味する処がわからない、理解できない、学生会館での2人の会話を聴いていた時以上に、この部屋に通されてからずっと、2人の間に交わされる言葉の全てが、エンジュには理解不能だった。痛めつけるとか酷い目に合わせるとか人質とか悲鳴とか脅しとか…そんな言葉、フィクションの中でだけ聴く言葉の筈だ、それが我が身に関係している筈がない。なのに、時折、その会話の中に、自分が…自分の扱いに関する事柄が入ってくる、こんなこと、現実にあるはずないのに、何故?!
「信じられない」「信じたくない」「嘘でしょう?」「本気ではないにきまってる」、ぐるぐると堂々巡りの思考でエンジュの頭はいっぱいだ、それ以上に回らない、動かない。
と、それでなくても混乱していた時に、いきなり髪を引っ張られ、思考も体も完全に硬直した。青年が、ご機嫌をとるように、エンジュの肩に手を置いたことは、そのフリーズを解くどころか、一層、強化した。事態は、もう、エンジュのキャパを圧倒的に超えてしまっていた。だから、エンジュは、反射的に、命じられたことが可能かどうか、表面的なことだけを答えた。そうすれば、重大な認識を先送りにできる、重要な結論を出さずにすむとばかりに。
「あの、外泊届けは、前もって…じゃないと受け付けてもらえないんです、当日、急な外泊なら、なおさら、本人か、その親御さんからじゃないと…だから、私は、自分の外泊届けは出せますけど、私がアンジェの外泊を連絡することはできないんです…」
「ちっ…」
青年はあからさまに舌打ちした。
厳密な原則・規則にのっとればそうなのだろう、が、寮の規則を破るか破らないかが問題ではない、外泊届けが受領されるかどうかは、どうでもいいのだ、騒ぎにならぬよう、もしくは、騒ぎになるのが少しでも遅くなるよう、カムフラージュのために連絡しろと、言っているのが、その意図が、この女ーエンジュには分からないのだ。はっきりと「嘘でいいんだ、受け付けないと言われてもいい、騒ぎになるのを少しでも遅らせるため、本人が自分の意思で帰寮しないのだと、周囲に思わせるため、今しばしの時間を稼ぐため、寮に連絡しろ、と我は言っている」と言わねば、エンジュには通じないのだ。
青年は溜息をついた。と、同時に青年の瞳に仄暗く険呑な光が宿る。
時間稼ぎにも使えないのであれば、エンジュは、この人質の女を精神的に脅かし苦しめるため、もしくは、我の身代わりにする位しか、まこと、使い道がない。
彼にエンジュを壊れてしまうまで痛めつけることに躊躇はない、身代わりで罪を着せることに罪悪感もない。エンジュは「道具」でしかないからだ。道具を壊れきるまで使ってやるのはむしろ慈悲だとさえ思っている。最後に、我のため、役立つならエンジュも本望だろう。走れなくなった猟馬は、最後は馬肉になって猟犬を養うことで役に立つ、それと同じだ。
しかし、時間に余裕がないのは、癪なことに人質の女の言う通りだ。騒ぎになる前に、我は、クラウゼウィッツを動かしたい。クラウゼウィッツに要求を呑ませることが、目的、何より肝要なのだ。
門限になっても帰らない女子学生2人の所在が騒ぎになるまで、連絡をいれずば精々2、3時間、騒ぎになった後、人質をとらえておけるのは…何日だ?下手すると一昼夜もないかもしれない、その間、エンジュを痛めつけたとして、この女が、その精神的苦痛に耐えきってしまったら?途中で折れたとしても、存外長い時間持ちこたえてしまったら?それだけ貴重な時間を無駄にすることになる、それは、得策ではない。
どうせ、時間がないのなら有効に使わねば。目的さえ完遂されれば、後のことはどうでもいい、元々、我はそう考えていたのではなかったか。ならば、他のことをしている余裕はない、大事なのは、要求をつきつけ、呑ませることだ。
「くそ…もう、いい、女、おまえは人質だ、それ以上は望むべくもない、クラウゼウィッツを我の要求通りに動かすため、それに役立てば良しとしよう…」
アンジェリークは、青年に気付かれないよう、安堵の吐息をついた、よかった、どうやら、彼はエンジュを痛めつけるのは時間の無駄だと思ってくれたようだと。
しかし、青年は、エンジュに対し、何か含む処のある厭らしい目つきを、いまだ向けている。
青年はエンジュを見やりながら、こんなことを考えていたのだ。
エンジュを痛めつけるのは、時間が惜しいからやめる、なら、我の替わりにエンジュに脅迫電話をさせるか…婚約者を人質にした、無事に帰して欲しければ、我の要求に従えと、エンジュの口から言わせる…人質がこの場所に連れ込まれたことまでは、学友を通じ知ることはできても、クラウゼウィッツは、ここが治外法権であることも、婚約者を攫ったのが誰かもー我の存在や正体はしらないはずだ、なら、エンジュが我の傀儡だと知る由もないだろう、エンジュに脅迫電話をかけさせれば、我の素性を隠す、良い撹乱にもなろう。
が、エンジュの様子は、といえば、先ほどから、不安げに体をソファから浮かせ、小刻みに揺らし、自分の方をすがるように見つめ、何か言いかけては口を閉じる、ということを繰り返していた。落ち着きなく挙動不審なことこの上ない。
言うことをきかないと痛めつけるという脅しは、流石に言葉通りに理解した故だろう…脅すのが早すぎたか…これでは、メッセンジャーとして使い物になりそうにない。落ち着いて、嫌味なほど余裕たっぷりに脅しをかけねば、脅しが脅しとして受け取られない、軽くみられ侮られたら、人質がいても、クラウゼウィッツがこちらが何もできないと侮り要求を蹴る可能性もある。このエンジュに脅迫コールをさせるのは…逆効果になりそうだ。
仕方ない。
青年は、自ら、アンジェリークの携帯電話を手に取った。
「おい、ヤツの…クラウゼウィッツの1stネームはなんという?」
「…」
アンジェリークは頑なに答えない。
「オスカーです、オスカー、オスカーって、いつも、アンジェが言ってましたから」
が、エンジュがここぞとばかりに得意げに答える。自分の理解できる言葉、応えられる質問をされるとほっとする、飛びついてしまう。その瞬間だけ、世界がエンジュに理解可能なものに戻る気がして。
実のところエンジュは、青年が考えていた程、怯えていた訳ではなかった。
怯えるというのは恐怖を感じた結果の振る舞いだが、エンジュは恐怖を感じる余裕がないほど混乱していたのだ。自分には関係ない遠い世界の言葉が、王子とアンジェリークの間にずっと交わされている、無関係な筈なのに、時折、自分のことを2人が言及するから酷く混乱する、なのに2人は…特に王子は、自分に直接は何も言ってくれないので、混乱はいっかな解消せず、むしろ募るばかりで…だから、説明してほしかった。「心配しなくていい」「気にするな」というだけでもよかった。それが「お前は黙って言われた通りにしていればいいんだ」という横暴な言葉だったとしても、青年が、直接言葉かけをしていれば、エンジュはそれなりに落ち着き、いつものレベルの思考停止状態に落ち着き、青年の指示に従える程度の冷静さは取り戻していたかもしれない。
が、青年はエンジュを「単なる道具、しかも一向に役に立たない」とみなしたので、当然のように、何のフォローもしなかった。役立たずの道具を手塩にかけるなど、彼からしてみれば、無駄でしかないからだ。こうして、青年は、エンジュをないがしろに、ぞんざいに扱ったことで、真実、エンジュを使い物にならなくしてしまい、結果、自身で動かざるを得なくなった。
そして、これは、アンジェリークの必死の抵抗と交渉・誘導が導き出した結果だった。
青年がエンジュを痛めつけるとアンジェリークを脅し、エンジュを混乱させたのは、アンジェリークが、青年の言いなりにはならないと必死に抵抗したゆえだった。そして、アンジェリークの交渉・誘導により、青年は自身に時間の猶予がないことを思い知らされ、その結果、エンジュは混乱したまま捨て置かれて使い物にならなくなり…結果、青年は、今、自身で、要求のための電話をかけざるを得ない。
オスカー達の望む方向に青年が動くように、アンジェリークは、意図せず、青年をつついたー誘導したのだ。
これは転換点だった。
オスカーが助けに来てくれると信じ、それまでは決して諦めず屈しないと、同時に、可能な限りエンジュの身も守らねばと心に決めて、そのためにはどうすればいいか、考え抜いたアンジェリークの勇気と気概と不屈が、状況を望ましい方向に一押しした。
それは、本当に小さな一押しで、今後、状況は、まだ、どう転ぶかわからない、けれど、確かに彼らにとって有利な方に風向きが変わった、そうと知らぬうちに、アンジェリークが変えたのだ。
「ふむ、確かにオスカーと言う男から何度も着信があるな、クラウゼウィッツは、お前が虜の身になっていることをもう知っているのだろうか。なれば、話が早くて助かるのだがな…」
青年は着信履歴をそのまま利用して、オスカーのナンバーをコールした。