Before it's too be late 39

オスカーがオリヴィエ、ゼフェルの両者から窘められ、慰められた後、待ちの体制に入って、そう長い時間はまだ経っていない。そのはずなのに、何も起きない1分1秒がオスカーには限りない苦悩そのものだった。詮方ないとわかっていても、つい、色々と考えてしまうせいだ。

何よりも恐ろしいのは、自分にもリモージュ氏の処にも犯人からの接触がなかった場合だ。その場合、犯人の目的は単純にアンジェリークを苦しめ辱め、最悪の場合、命を奪うことかもしれず…それを考えると、オスカーは叫び出しそうになってしまう。リモージュ氏はヤツの言動は監視しているし、ヤツは凶器の類は一切所持していないとは言ったが…大の男なら、素手でも華奢な少女の命を絶つのは難しくない。監視役が異変に気付き、止めに入って間にあうかどうか…絶対の保証はない。

だから、これがシンプルな営利誘拐であってくれと、オスカーは心底祈っていた、何でもいい、とにかく、動きが、変化が欲しかった。自分の処に脅迫が来ないなら、せめて、リモージュ氏に接触があって欲しい、それが政治犯の釈放を要求する類だったら、自分にできることは、ほとんどない、どれほどヤキモキしようと交渉の経過も知らせてはもらえないだろう、それはそれで気が狂いそうな1分1秒になってしまうだろうが、それでも、何の動きもないよりはマシだ、と、考えていた、ちょうどその時だった。

オスカーの携帯電話が着信を知らせた。着信音から、これがアンジェリークの携帯電話からのコールだとすぐにわかった。

考えるより早く、オスカーの手は着信ボタンを押す、勢い込んで機器を耳に押し当てる。

瞬間、アンジェリークの声が聞こえてこないかと淡い期待を抱いたが、それは、即、裏切られた。

「クラウゼウィッツか?」

初めて聴く男の声だった。

男性的で響きのいい、美声といっていい声音だった。が、こちらを誰何するような、様子を探るような口調がどことなく品性の卑しさも感じさせる。

間違いない、こいつだ!こいつがアンジェリークを…

そう悟った途端、オスカーの腹は座り、精神は戦闘モードにスイッチした。敵がこちらに仕掛けてきたこと、しかも、当の本人からの接触であること、これでようやく応戦できることに、それら全てにオスカーは震えるほどの喜びを覚えた。が、それは当然声には出さない、頭の中で、ヤツへの応対をシミュレートする。なるべく多く長く、こいつにしゃべらせるんだ、何も知らぬふり、物分かりの悪いふりをして、可能な限りの言質を引き出せと計算し、オスカーは緊張と不信を織り交ぜてーそれは偽りないオスカーの心境でもあったので装う必要もなくー応答した。

「そうだ…お前は何者だ?何故、俺の婚約者の携帯を使っている?俺の婚約者はどうしたんだ?!」

「なんだ、まだ知らなかったのか?どこかの小僧が車を尾行けていたから、てっきりご注進が行ってる頃かと思ったが、まあいい、お決まりのセリフで恐縮だが、お前の婚約者は我が預かっている」

「なんだと?どういうことだ、それは!」

「はっきり言わねばわからんのか?お前の婚約者は、我が誘拐した、今、人質として預かっている、と言っている」

「なんだって!?彼女は無事なのか?」

「ああ、大事な人質だ、今のところ、丁重に扱ってやっている、今のところはな…」

「貴様…何者だ!?何が目的でこんなことを!」

「我が誰かなど、おまえには関係ない、もとより、お前は我に質問をしてよい立場ではない、人質が大事なら口を慎むことだ」

「っ…」

青年がこう告げると、交渉相手であるクラウゼウィッツの男が言葉に詰まった。その事実に青年はゾクゾクずる程の喜びを覚える。自分が絶対的優位に立っていることが間違いなく感じられて。

さぁ、この優位を保ったまま一気に交渉を進めてやる。

いよいよだ、いよいよ故国に、現王に復讐する方策を手にすることができるのだ、クラウゼウィッツの力を借りて…利用して。

と、絞り出すような苦汁に満ちた声が青年に問うてきた。

「貴様…何が目的だ…?彼女と引き換えに、俺に…クラウゼウィッツに望むものは何だ!?」

「ああ、それを今から教えてやろう」

舌舐めずりせんばかりの心境で、青年は電話の相手ー若きクラウゼウィッツにこう告げた。

「いいか?よく聞け。我はおまえの婚約者を預かっている。この女を無事に返して欲しければ…戦略爆撃機1機。パイロットと爆撃装備込みで、用意しろ」

「!!!…なんだと?!」

クラウゼウィッツは、予想外の要求を突き付けられたせいか、思わず、尋ね返してきた。その声には驚愕と不信がにじみ出ていた。誘拐した人質と引き換える要求の定番といえば、まず金、さもなくば、クラウゼウィッツに限り兵器の供給はありうるとまでは予想していただろうが…それにしても爆撃機は想定外だったのだろう、小火器類と異なり個人、特に素人が扱えるような物ではない上、一機ばかりあったところで戦局を左右するほどのものではないー核兵器でも搭載していない限りは。そんなものを入手して、一体、どうするつもりなのか、と考えるのが普通だ。

が、彼の目的は政権の転覆や奪取ではない…だから、爆撃機一機あれば十分なのだ。

「たかが爆撃機一機、クラウゼウィッツなら、用意するのは容易いだろう?」

「ちょっと待て、仮に調達できたとしてもだ、そんなもの、一体、どこで、どうやって引き渡すというんだ?!」

「我に直に渡せなどと、誰が言った?そんな物、手渡されても、我とて始末に困る」

厭らしい笑いを含ませつつ、青年は、こう続けた。

「いいか?肝心なのは、ここからだ。爆撃機の準備ー爆装が完了次第、○○国を空爆しろ。王宮を主目標として、がれきも残らぬ程完膚なきまでに破壊しつくせ。それが我の望みだ。この望みが叶うのと引き換えに人質を解放してやろう」

この言葉を口にしながら、青年の魂は宿願がほどなく叶うという期待と喜びに、そして、人を言うなりにさせる快感に、人の運命をこの手に握っているのだという全能感に酔いしれていた。

彼の背後からは、少女が慄き息を呑む気配が伝わってき、それも、彼をいい気分にさせた。

こんな気宇壮大にして独創性あふれる要求と引きかえられるのなら、人質の少女も囚われた甲斐があるというものだろう。おまえは、ありきたりでありふれた営利誘拐の人質ではない、己が身が金などというつまらぬものと交換されぬことを名誉に思え、なにせ、この少女の身柄と引き換えに小国といえど一国家の中枢が壊滅するのだからな、と、青年は、その様を想像して、それはそれはいい気分に浸る。と、せっかくの良い気分をぶち壊すように、電話口からクラウゼウィッツの怒声が聞こえてきた。

「なんだと!?貴様…正気か…そんなこと、できるわけがないだろう!」

「ほう?2つ返事で「やる」と言わぬのか?まぁいい、できるか、できぬかは我には関係ない、お前がやるか、やらぬか、だ。やらぬと言うならば、おまえの女は無事な姿では帰れなくなる、それだけだ」

「っ…きさま…」

「簡単なことだろう?アルテマツーレ程の企業なら、○○国の近隣に戦略爆撃機の1つや2つ、在庫を持っている筈だ。我は煩い事は言わぬ、メンテナンス中のものだろうが、引き渡し前の新品だろうが、動けば…爆撃さえできればいい。この条件、アルテマツーレなら容易かろう?我は爆撃機を10も20も用立てろなどと言っているわけではない、新品か中古かも問わぬ。それも1機で良い、それで○○国の王宮を中心に爆弾を落としさえすればいいと言っているのだ。王宮をピンポイントで爆撃しろとか、他の施設を誤爆するななどと面倒なこともいわん。あの国は小さいから、王宮を爆撃すれば、どちらにしろ国土のほとんどが無事では済まぬ。だからこそ、精密な爆撃は必要ない、誤爆も気にしなくていい。これならパイロットの錬度も度外視できる、人選に苦労がなかろう?しかも、我の要求は極普通に爆撃するだけでいいという単純至極なものだ。爆弾の種類も問わぬ。我は何も核を使えなど無茶は言わぬ、どこまで拡散するかわからぬ残留放射線で他国民を害するのは我の本意ではない、我は、○○国さえ…○○国の王室さえ叩きつぶせれば良いのでな、それには普通の爆弾で十分だ。そして、所謂普通の爆弾なら、クラウゼウィッツなら、それこそ、掃いて捨てるほど保持しているだろう?複数の国家に売りつけても余るほどなのだからな。どうだ?これほど容易い交換条件は、そうあるものではないぞ。慈悲深いとさえ、言ってもよかろう。よもや、呑まぬとは云えぬ筈だ。我はクラウゼウィッツになら可能なことしか、要求しておらぬのだからな」

青年の面白おかしそうな物言いに、オスカーは歯がみすると同時に、青年の出した要求に、心底、驚き呆れていた。信じられなかった。

ヤツの要求がろくでもないものだろうことは、予想していた、が、銃・火器類の融通かクーデターの資金援助くらいだろうと、ある意味、タカをくくっていた事は否めない。

ところが、青年の要求はオスカーの想像とは、余りにかけ離れたものだった。

○○国は、放逐されているとはいえ、こいつの故国だ、それを爆撃しろ??王宮を中心に国土が焦土と化しても構わん?だと?信じられない、どころではない、為政者としてあり得ない!

住民に銃を向け弾圧する独裁者は古今、いくらでもいる、それでも国土そのものを壊滅させる為政者はいない、国土は富を生み出す源だからだ。それに王宮といえば、王国の象徴であり、国民の敬意や崇拝の的だ。それを王族自らが破壊するなど狂気の沙汰だ。国民の反発と消沈は想像するに余りあり、そんなことをしでかした人物に国民が付き従うとは到底考えられない。求心力を失った小国は、国体その物が瓦解してしまうかもしれない。

それは、つまり、この男は…王国を、その国体を壊滅させたい、と考えいる?ということか?

俺は、こいつの目的はクーデターを起こして、自らが王位に就くことーいわば王権簒奪が目的だと思っていたが、その前提自体が間違っていたのか?こいつは、元々、権力者や為政者になることなど眼中になく…○○国の王家殲滅、および、国体の壊滅のみが目的だったのか?

信じられない、正気の沙汰とは思えない、そんな行為にー破壊のために破壊に何の意味がある?

が、青年のあくまで限定的、そして、認めたくはないが、ある意味現実的な要求が、オスカーに、青年が本気であり、かつ、狂ってもいないことを否応なく知らしめる。

こいつの要求は気狂いじみている。が、同時に、理性と計算高さを感じさせる。あの国は都市国家で、領土はごく小さい、確かに、軍用機1機で、それも核など使わずとも、所謂普通の爆撃だけでほぼ壊滅させられるだろう、それをわかっていて…同時にアルテマツーレなら何ができるか、どこまでなら可能かーアルテマツーレといえど、軍用機を一時に数十機用立てるのは難しい、が、1機だけなら、必ずどこかの格納庫にあるはずだと、計算づくで要求しているのだ、この男は。それもわざわざ「攻撃装備は核でなくてもいい」などと、いかにも恩着せがましく…まるで譲歩してやっているとでも言いたげに。

オスカーは重々しく嘆息すると、青年に念をおした。

「おまえの目的は…○○国の政権を奪取して自らが君主になることでも、民主化を掲げて現王制を覆すことでもなく…単純に故国を壊滅させ焦土と化すことだというのか?」

「我の望みは王室の…王統一族の殲滅、その結果、国土が壊滅したとて、それはそれでやむをえぬ」

「一体なぜ!?何のために!?」

「お前には関係ないことだ、お前が考えるべきは、我の要求に従うのか、従わないのか、それだけだ」

「馬鹿を言うな!第一、そんな暴挙が可能だと、貴様は、本当に思っているのか?!あの国は軍事大国のS国が隣接しているんだ、所属不明の爆撃機が単独飛行なぞしても、目標に到達する遥か前に撃墜されるのがオチだ!内陸国だから空母で近づき艦載機を飛ばすこともできん!空爆なぞ不可能だ!」

「なら、ステルス性能を持つ爆撃機を用立てるなり、おとりの攻撃機を複数用意して航空機連隊でも組むなりすればよかろう。良いか?我の要求自体は単純極まりない。女を無事に帰してもらいたくば、○○国の王宮を王族もろとも壊滅させろ、それだけだ。そして、本来、その方法は、お前が考えるべきことだ。我に必要なのは結果のみであり、我が作戦まで考えてやる義理はないのだ。ただ、お前が良い方策を思いつかないと可哀そうだから、我が教えてやっている、空爆ならわかりやすく結果も早くでる、だから、爆撃機で爆撃しろ、それが最もてっとり早い方法だとな。我の英知と慈悲に感謝するがいい、恐悦のあまり、感謝の言葉も出て来ぬかもしれぬがな」

青年は、面白おかしそうに、そして、小馬鹿にするように、勝ち誇った笑みを声に含ませながらオスカーに宣告した。

「念のため、もう一度言っておいてやろう。お前が婚約者が大事に思い、無事に…預かった時のままの姿で返してほしいと願うなら、我の要求を呑み、望む結果を提示しろ。期限は今から24時間。その間に、あの国の王宮が空爆されたというニュースが外電で報道されれば、女を解放する。が、24時間たっても、あの国が爆撃されたという報道が見受けられなかった場合、女の命は保証しかねる」

「ぐ…王宮を爆撃などすれば、あの都市国家はほぼ壊滅する!貴様は本気で己の故国を壊滅させたいと望んでいるのか…しかも、他人の力を利用して!」

安い挑発に乗るオスカーではなかったが、要求を耳にした時の衝撃は、今や、耐えがたい不愉快さへと転じ、それは青年が言葉を重ねるごとに募る一方だった。

あの国は王宮を中心にした所謂城下街がそのまま国家の態を為している、而して、王宮と市街地は密接しているから、王宮を爆撃するというのは、王宮周辺に住まう無辜の人々もひとまとめに爆撃するも同じ…非戦闘員の大量虐殺を命じたのも同然だ。しかも、見知らぬ他国に対してでさえおぞましい命令なのに、攻撃対象がよりによって故国の民に対して…その上、少女を人質に取って脅迫することで、他人の力を搾取・利用して、故国を攻撃しようとするなど…こんな卑劣な方法を恥とも思わないのか。

もとより、友人のいない少女の孤独に付け込み、利用し、結果、アンジェリークを誘い出し、誘拐・監禁するようなてあいだ。その挙句、このオスカー・クラウゼウィッツに突きつけた要求は恐らくこいつが生まれ育ったであろう王宮とその国土を爆撃しろという、おぞましいもので…それも自らは手を汚さず、他者の力を使ってとは、どこまでも呆れはて見下げ果てる。己は高みの見物を決め込んで、他者の手で、故国の国民を虐殺させるなど、これほどの卑怯・卑劣を俺は見聞きした覚えがない。反吐が出そうだ。まだしも、武器の要求をしてくる方が俺には理解できる。少なくとも普通のテロリストは、自分で悪事を働き、己が手を汚す覚悟があるという点で潔いとさえ言える。

人質を取って脅迫する悪党は珍しくはないし、テロリストにとっては資金稼ぎの王道だろう。が、それなら、何故、己が力で戦いを仕掛けない?他人の武力をアテにし、それを借用して故国を攻撃しようなどと…男の…大の大人の戦い方ではない!卑怯で甘ったれた悪ガキの姑息で邪悪な悪巧みでしかない!

憤怒に黙ってしまったオスカーに、青年は、更に勝ち誇ったように言葉を続ける。

「ああ、我は、とにかく、あの国の王室が叩きのめされさえすればいい。巻き込まれる民もいようが、仕方あるまい、臣民が王室のために命をささげるのは当然だし、それはいわば殉死となるから、むしろ名誉なことだ、気にすることはない。それでいえば、王室をつぶす方法も、本当は、なんでも良いのだ、なら、爆撃が一番手っとり早かろう?結果も早く出るし、見た目派手だから報道も早いだろう。あんな小国でも国連加盟国だ、爆撃なぞされたらいやでも外電にのるだろうからな、我も時をまたずして結果を知ることができる。報道を通して結果がわかるから、おまえが口先だけで「やりました」といっても通らんぞ。だから○○国への空爆のニュースを我が確認できたら…この女は解放してやる、と言っているのだ、どうだ?爆撃が最も迅速におまえの女を解放してやれる手段だと、我は慈悲と親切心で言ってやっているのが、改めてよくわかっただろう?」

あまりに殺伐とした要求にオスカーは返す言葉が見いだせない。先ほどまで、オスカーを支配していた怒りは、若干だが勢いをそがれ、替わりに、うすら寒さ、薄気味悪さがオスカーの胸中にわきあがってくる。

こいつは一応王族のはず、ならば王宮内に見知った顔も多数あるであろう、なのに、その殲滅を願う。自分の故郷が壊滅しても、国民が巻き込まれ殺傷されても「仕方ない」で片づける、この青年の精神は、いかようなものなのだろう。

こいつの標的は、王宮・王室なのは間違いなかろう。言葉の端々に、王室に対する深く暗い恨みつらみが見える。王室への復讐心?呪詛?どろどろと腐臭を放つような感情が、やつの要求から自ずと伝わってくる。

王室を憎む余り、現王室の統治を良しとしている国民にも冷淡ー巻き込まれて死んでも構わないと思っているような非情さがうかがえるのは、その所為か。

王室への憎しみがあまりに深いからこそーその殲滅のみが目的として先鋭化してしまい、過程も手段も問題とせず、それが誰の手によるものであるかも問わないーそういうレベルに達してしまったのかもしれない。以前は、自ら王宮を襲撃したのだから、そうではなかった筈だが、今は、王家が消滅さえするのなら、それが、自ら手によらずともよいーと考えているのなら、それは執着が薄れたからではない、恐らく、憎しみ執着する心が強すぎて、逆に手段を問えないほど、追い詰められ、ここまで卑怯卑劣な人間になり下がったのか。

少なくとも、こいつの目的…動機は単なる家督争いとか王位の簒奪ではないことははっきりした、ヤツは後の事はどうでもいいと考えているー王宮という王家の象徴をがれきも残らぬほど破壊しつくせというのは、そういうことだ、こいつは「王族」と言いながら、後日、国を支配・統治する気などないのだ、恐らく。王家の殲滅だけが目的だから。核を使わずとも良いというのは、人道上、道義上のことではなく、単に入手が難しいから、そんなものを使わずとも、もっと単純な兵器で、てっとり早くヤツの目的は果たせるから、それだけにすぎないことが、オスカーにはよくわかった。

その情動はどこまでも乾ききり、荒廃しきっている。憎悪と狂気のみで、この男は成り立っているのではないかとさえ思う。

「きさま、そんなこと、本気でできると思っているのか…」

破壊と破滅しか頭にない相手と、交渉する余地や妥協点があるとは思えなかったが、それでもオスカーは抵抗を試みる。

「ふん、クラウゼウィッツならできることはわかってる。要はやるか、やらないか、だ。クラウゼウィッツ、おまえにその気概、決意があるか、そして、何と比べてこの女が大事なのか…見も知らぬ他国の王室と、大事な女の無事、おまえはどちらを選ぶ?おまえの地位および会社の命運と比べてもいい、お前が、お前の女を何と比してどの程度大事と考えるのか、お前が何を第一のものとして選び取るのか…決めるのは、おまえだ」

「…ステルス性能を持つ軍用機の本来の用途は、偵察だ、攻撃用の装備は自衛用の貧弱なものしかついていない、その装備を今すぐ対地爆撃用に変更・整備するのは…24時間以内にというのは到底無理だ」

「24時間では厳しいというのなら…そうだな、最大48時間までは待ってやってもいい、それ以上は不可だ」

青年の言葉が時間の交渉へと変わったことで、アンジェリークはオスカーが何かを譲って交渉に応じたのだと察した、察すると同時に思わず叫んでいた。

「オスカー!ダメ!」

それまでは、青年の余りに恐ろしくおぞましい要求に慄き、息を詰めていることしかできなかったアンジェリークだった。

この人は自分で「王子」と名乗った、なのに、その王室を、王宮を爆撃しろ?ですって?王宮って言ったら、たくさんの人がー王室の人以外も多くの人がいる場所の筈なのに。しかも、王宮周辺が爆撃されても構わないって、そうも言ってた…無関係の、無辜の民が巻き混まれて死んでも構わないって確かに、この人は言った、王族が、統治者が、自らの臣民を「死んでも構わない、巻き込んでも仕方ない」存在とみなすなんて…そんな…そんなの為政者のすることじゃない!王族と名乗って民を率いる人がしていいこと、考えていいことじゃない!

こんな恐ろしい要求にオスカーが本気で応じる訳がない、王宮にいる人や無辜の周辺住民への攻撃なんて承服する筈がない。非戦闘員の犠牲を限りなくゼロにしたくて、そのためにあえて兵器産業の跡を継ぐと決めたオスカーが、無関係な人への爆撃など了承する訳がないと、アンジェリークは、そう、理性ではわかってはいた。オスカーの反応も、多分、駆け引きと時間稼ぎだと思ったのだが、それでも、オスカーが交渉の余地を感じさせる返答をしたらしいと感じさせるやり取りに、反射的にアンジェリークの体は動き、声が出てしまった。

「黙ってろ、痛い目にあいたくなければな」

横から口を出したアンジェリークに、すかさず、青年が脅しをかける。

それの音声全てを、携帯電話は拾っていた。

耳慣れた愛しい声音が遠くから小さめに、その声を打ち消しかぶさるように、少しだけ遠のいたー顔を電話とは別の方向に向けて発したのだろう青年の声がオスカーの耳に聞こえてきた。その瞬間、オスカーは一切の計算も駆け引きも忘れて叫んだ。

「アンジェリーク!!貴様!アンジェリークに指一本触れてみろ!彼女に、僅かでも危害を加えたら…命の保証は当然の大前提だ、彼女に傷一つでも、僅かでも苦痛を味あわせたら、いいか、この取引はなしだ。そして、俺は、必ず、どんな手段を用いても…お前を破滅させる!」

「ふん、面白い、やれるものならやってみろ」

「ああ、そして、おまえは、永久に自分の望みを果たす機会を失う。クラウゼウィッツを敵に回して、タダで済むと思うな。お前の目的が○○国と、その王室を壊滅させることなら…そんなことは1個人の力では到底不可能、強力な破壊兵器が必要だとわかっているからこそ、きさまは俺を脅迫しているんだろう?手製の爆弾では、建造物の破壊がいいところで、国家の殲滅は不可能だからな。だが、この件で、軍需産業界全社にお前に関する回状が回る…いわばお尋ね者になったおまえに、強力な武器を入手する機会は永遠に失われる。代金の回収が危ぶまれる破滅志向のテロリストに武器を卸す大手業者はいないからな。お前にスポンサーがついているとも思えんしな。資金提供者がいるなら、こんな回りくどい手を使わず、顧客としてクラウゼウィッツと交渉すればいい。俺との直取引なぞ、するわけがない。おまえは無力、孤立無援なのだろう。だから、お前は少女を拉致監禁するなどという、卑怯・卑劣な手段を使わねば、戦う術を得られない…持てないんだ」

「よくしゃべる男だ」

「図星を指されてぐぅの音もでない故の負け惜しみか。いいか、お前がどうしても、俺に要求をのませたいなら…決して彼女に手を出すな。もし、彼女に毛一すじでも傷つけてみろ、例え傷を残さずとも、彼女を僅かでも辱めたり苦しめてみろ…お前は、お前の本来の目的を果たす機会を永遠に失う、そして、代わりに得るのは、クラウゼウィッツの復讐だ。それは肝に銘じておけ」

「ふん、なら、さっさと動きだすのだな、我の気が変わらぬうちに我の要求を…望みを叶えろ。余りに待たせると、我は焦れて、この女で遊びたくなるかもしれんぞ。結果、我が手を下さずとも、この女が自ら命を絶ちたくなるかもしれんが…それは、我の関知するところではないからな」

ぶつりと突然に通話が切れた。言わば、お互い、足元を見てのやり取りを終え、1度、コーナーに戻ったというところか。

このやり取りを通じて、オスカーは思い知らされた。あいつは…俺が考えていた以上に危険だ、と。リモージュ氏がヤツを「危険人物」だと評したのは、比喩でも誇張でもない、そのままの意味だったのだと痛感させられた。

ヤツの目的は、よくある政権の簒奪や既存権力の横取りではなかった、それなら、交渉する余地もあったのに。欲の深い人間ほど付け込む隙も大きいから。が、ヤツの目的は破壊のための破壊、破滅と虐殺と判明した。故国の王室を壊滅させさえすればいい、という要求は、ある意味、投げやりでさえあり、その後のビジョンが見えない。破壊の後、どうするかの展望がない。破壊さえすればいい、というのは、その先を考えていないということだ。

破滅願望に見入られた人間は、とてつもなく危険だ。自棄になったら何をするかわからない。

一刻も早く、あいつが破滅願望に身をゆだねる前に、手を打たねばならない。

とりあえず、俺が要求を呑む姿勢を見せているウチは、アンジェリークの身柄は無事だろう、破滅願望に取りつかれているらしいヤツの唯一の執着が「王室の壊滅」のようだから…ならば、それを、とことん、引き延ばし、利用する。

そして、その間に、必ずアンジェリークを助け出す、それは決意するまでもないこと、そして絶対に成し遂げることだ。問題は、そこに至るまでの時間を、いかに短縮するか。救出時、アンジェリークの安全を100%確保する手立てを、今から、どれだけの時間で確立できるか、だった。

警察は当てにならない、頼れない。場所が外務省管轄の公館である上に、ヤツは治外法権に守られている、現時点では捕縛はおろか、あの部屋に踏み込むことすらできまい。あくまで自主的な協力を前提に、任意で部屋を改めさせてほしいと懇願することまでしかできず、それも拒否されれば、そこまでだ。この条件が続くならヤツは、単に彼女を監禁するだけなら、かなりの日数、持ちこたえられるはずだ。この国で得たGFだと偽れば、それが見え見えの嘘でも、建前を押しとおすことが可能な地位にヤツはいるのだから。

無論、リモージュ氏がヤツに与えられた特権を撤回できれば、話しは別だ、前提条件が変われば、警察権力を頼れるようになる。が、不確実・不確定なそれを当てにしているだけでは、心もとないにもほどがある。

何より…他人の力だけを当てに、他人の力任せで、この件を解決するのでは、アンジェリークを拉致したあの卑怯者と自分が同じレベルのようで、オスカーは我慢ならない。

俺は、俺の持てる力すべてを活用して、彼女を救い出すべく、やれることをやる。

アンジェリークの声は遠かったが、格別よわよわしい印象は受けなかった。今の時点では、彼女はヤツのいう通り、無事らしいことは朗報だった。

問題は…オスカーには青年の要求に乗るつもりなど微塵もない、が、彼女を救い出す手立てを立てている間、ヤツの要求を誤魔化しかわし続ける間に、ヤツがじれて、もしくは、こちらに己の優位を示すために、アンジェリークを傷つけるような振る舞いに出られること、それがオスカーには一番怖い。それだけは、何がどうあっても阻止せねば。

あいつの捨て台詞「この女で遊ぶ」という言葉が、オスカーには気がかりだった。

人質は、脅迫相手に無事を確信させこそ有効なのだし、自分はかなり強くアンジェリークを僅かでも傷つたら容赦しないと訴えておいた。それにヤツが「王室の壊滅」という望みに固執する限りはーアルテマツーレの助力なしにヤツの望みが叶う可能性は皆無なので、アンジェリークに暴力を行使するようなことはすまい。

ただ、心配なのは、あいつが、俺の決意を甘く見て、彼女に性的暴行を加えたりしないかということだった。性暴力は…単純な暴力よりよほど女性を傷つける…が、性暴力を行使する側は「レイプは暴力ではない、痛い目にあわせてなどいないから」と嘯くことがある。そんな真似…絶対にさせるわけにはいかない、とにかく急がねば。ヤツを拘束できるための手立てを整えねば。

と、その時、ヘッドフォンを外して録音機器を止めたゼフェルが一人ごちた。

「…なんなんだ、こいつはよぉ…人質との交換要求が金でも武器の融通でもねー、どっかの国の王宮を爆撃しろってのは…予想の斜め上どころじゃねー、どういう料簡なんだ…ったく」

「ああ、そういえば、おまえにはヤツの素情をまだ知らせてなかったからな、その辺りの事情を、わかっている限り説明してやりたいが…時間が惜しい、これをざっと見ておいてくれ」

オスカーは以前、オリヴィエが調べ上げてくれた青年の身上書とでもいう書類を取り出し、ゼフェルに差し出す。

「って…んだよ、これ…あいつ、○○国の王の甥っ子…って、あいつ、自分が爆撃を命じた国の王族?それが、自分の故郷を爆撃しろって言ってきたのか?ますます、信じらんねー!」

その2人のやり取りにオリヴィエが、我に返ったように話に加わって来た。オリヴィエも青年の要求の禍々しさに、最初はあっけにとられ、徐々に嫌悪の表情を浮かべ、最後の方では毒気に当てられたようになっていたのだった。

「なんか、あいつの出した要求って…テロリストにしても尋常じゃない…憎悪?怨恨?なんか、すごいドロドロしたものを抱えているみたいで、聞いててうすら寒くなった…でも、ヤツが自分の口ではっきり犯罪予告してくれたのは、うちらにとっては、好都合、じゃないかい?」

「その点に関しては、まったくだ、で、録音は、巧くいったか?」

「おう、ばっちりよ!これだけの時間、録音できりゃ、声紋の分析もいけるはずだ」

「とりあえず、急ぎ音声コピーを取ってくれ、そいつをリモージュ氏の元に送信する。それで、リモージュ氏が動いて、最低、ヤツへの治外法権を取り上げてくれれば、こちらもかなり有利に動けるようになる」

「って、アンジェを誘拐監禁してるって断言した上で、こんな、あからさまな脅迫してんだから、こいつはもう犯罪者確定じゃん、なのに、特権が取り消されない、保護もそのままなんて、そんなことありうるの?」

「ああ、いくらでも抜け道はある。なぜなら、この声の主は、己の素性を明かしていないし、今の俺たちは、こいつの正体・素性を誰誰だと、特定する証拠を持っていない。録音音声から、こいつの声紋の分析ができたとしても、こいつの声が○○国の王子の物だと証明はできない。この音声は、現時点では、あくまで、どこの馬の骨とも知れない留学生「アリオス」の物でしかないんだ。留学生アリオスが○○国の王子「レヴィアス」と同一人物であると、もし、外務省が認めなければ、こちらでそれを証明せねばならないかもしれない…そのための方策をどうしたものか…」

オスカーは考え込む。

常識で考えれば、この録音音声は明白な犯行声明だった、犯人は自ら「少女を誘拐・人質として監禁し」その解放の条件として「○○国の王宮への爆撃」を明言している。が、この犯人は素性を名乗っていない。この音声が誰のものか特定できなければ、犯人が誰かもわからない。

俺たちには自明のことであっても「その証拠は?」と言われると弱い。この青年の声が、留学生アリオスの物だということ、同時に、留学生アリオスが○○国の王子レヴィアスであること、この2点がそろって同時に証明されて、初めて、この録音音声が、王子レヴィアスの犯罪の物的証拠になるのだ。

そして、外務省がその気になってくれれば、この声が誰のものか証明するのは容易いだろう、が、証明したくないと外務省が判断すれば、証明しないことも同じくらい容易だ、それが問題なのだ。

レヴィアス王子がアリオスと言う偽名で、この国に留学生として滞在している事を示す書類や、入国時のヤツの指紋や肉声を外務省は持っているかもしれないが、それをきちんと証拠として用いてくれる保証はないし、外務省がこちらと同じ思惑で動いてくれる保証もない。先刻のリモージュ氏との電話でのやり取りで、オスカーは、他人が自分の思惑通りに動くとは限らないことを痛感させられている、よしんばリモージュ氏個人が奮闘してくれたとしても省益の壁というものに阻まれて、官公庁が都合の悪い証拠ーテロリストを極秘に亡命させ、保護していたというのは、どんな理由があれ声高に言えることではなかろうし、表ざたにしないため、うやむやにするおそれがあるからーを隠匿・隠滅する例は無数にある。

だから、こちらはこちらで、独自に、この音声が王子レヴィアスのもの、最低でも留学生アリオスのものだと証明できた方がいい…この音声以外に、ヤツの肉声ーできれば王子レヴィアスとしての肉声が何かの媒体に残っていれば…それが入手できれば一番いいんだが。さもなくば、○○国の王子があの住居に滞在していると証明することで、アリオスとレヴィアスが同じ人間だと証明するか…ただ、これは状況証拠の積み重ねになるから、論拠としては弱い…やはり本人の肉声が何より有効な証拠になるのは間違いない。

「オリヴィエ、おまえの実家、○○国の王侯貴族を顧客に多数持ってるって言ってたよな、王子レヴィアスの肉声記録を所有してる人がいないか、ダメもとであたってみてくれないか?」

「王子の肉声か…まじダメ元だけど、私の親会社に顧客データとか王子の映像とか残ってないかも当たってみよう。服の注文を本人がすることはないだろうけど、仮縫いとかで誰か社の者が、直接ヤツに接してるかもしれないし」

「ああ、どんな小さな可能性でも、可能なら、当たってみてくれるか?ただ、これはあくまで外務省が動いてくれなかった場合の保険だ、優先度は低くていい」

「合点」

と、書類をざっと見とおしたらしいゼフェルが顔をあげた。

「とりあえず、要点整理してーんだが、ヤツの素性特定は、ヤツを逮捕だか拘束するために必要な情報で、それは、今、オリヴィエが担当する、ただし、優先度はそんなに高くねーってことで、俺の理解は間違ってねーか?」

「まあ、そういうことだ」

「じゃ、それとは別件で、俺からの提案だ、ヤツの要求のことなんだが…ヤツは、○○国への空爆・壊滅の様子がニュースで流れた時点で、アンジェを解放するって言ってたよな?なら、オスカーが要求を呑んだふりして、ヤツを油断させて、うまうまとアンジェを解放させるって、手が使えるかもしんねーぜ?俺たちの目的のまず最優先は、アンジェの身柄確保だろう?ヤツへの処分とか拘束とかは、俺らの本分じゃねーはずだ。そういうこと抜きに、アンジェだけを解放させるための細工なら…そう難しくねーかもしんねーぜ」

「本当か?!」

「ああ。オスカー、アンジェのオヤジに聴けば、ヤツの部屋の電波機器ーテレビ、ラジオ、PC、電話…とにかく、外と電波のやり取りができるものは、何が幾つあるのか、わかるよな?ヤツが、部屋の中に人質と一緒に籠城して、外には出ねーってんなら、ヤツは情報源を電波媒体に頼るしかねー訳だから…」

「…そうか!おまえの考えてることが、わかったぞ!」

「なぁるほど。情報戦はいつでも戦争の要だもんね」

「映像の作成には、ちっとばかし時間がいるが、交渉の期限は48時間あるし…ま、俺なら24時間でも余裕だけどな。ことに音声だけなら、そう、時間はかからねー。まずはラジオ用の音声作成といこうじゃなねーか。キャスターとかニュースアンカーみたいなしゃべりができるヤツのアテ、あるか?おめーら」

「ここに超絶美声の私がいるじゃないさー、男性アナ1人は、この私で、いいだろう?」

「あとは…俺の声はヤツにわれているから、頼むならジュリアス先輩がいいか…ルヴァやクラヴィス先輩のしゃべりは、アナウンサーって感じじゃないからな、女性アナの声もあるほうが信憑性が増すかもしれん、ロザリアにもアナウンスを頼もう」

「やつら、深くは問わずに協力してくれっかなー」

「アンジェの危機で、アンジェを救い出すためだと言えば必ず」

「よし、んなら俺は今から画像探してミキシングして、それっぽい映像を作る。オスカーは、それらしいアナウンス原稿作って読ませて録音を頼む」

「おっと、その前に、ヤツの要求を録音をしたものをリモージュ氏に送らないとな。そのメールで、あの部屋映像・音声の備品を至急教えてくれ、と尋ねよう。その上で、氏に任せるところは任せ、俺たちはできることをやるぞ、さぁ。反撃だ」

「おう!」

彼らは三者三様、即座に為すべきことに着手した。何もせずに悶々と相手の出方を待つ時間が終わったことが、オスカーは心から有難かった。目的は明確、そのための方策、道筋ははっきりしている、ならば、突き進むだけだった。無論いささかの遅滞も躊躇もなしに。

 

 

青年は、オスカー・クラウゼウィッツとの通話を切ると、アンジェリークに向き直った。その顔にはうすら笑いが張り付いていた。

アンジェリークが蒼白な面持ちで、わなわなと唇を震わせているのと対照的だった。

「…なんで…なんで、あんな恐ろしいことを…だって、あなたは、その国の王子なのでしょう!?なのに自分の国の王室を壊滅させろなんて…王宮を爆撃しろだなんて!そんなことをしたら、どれほどの人が犠牲になるか…」

アンジェリークが震えるほどに唇をかみしめずにはいられないのは、青年の要求の恐ろしさ以上に、非道さ悪辣さに怒りを抑えられなかったからだ。

自分が誘拐されたのは、私がクラウゼウィッツの嫡男の婚約者だからだと、アンジェリークは嫌というほどわかっていた。自分を人質にして、この人は、クーデターに必要な資金か、もっと直裁に武器を提供しろと、オスカーに持ちかける気ではないかと予想していた。それだけでもー最初から他人の力を当てにして、しかも、それを監禁と脅迫という卑劣な手段で搾取しようとするだけでも、唾棄すべき行いだと思っていた。

それでも、クーデターを企図したり政権の転覆を図る人物には、彼らなりの主義主張や正義や信念があり、その信念により、彼らは自らの犯罪行為を正当化することが多いのだが…けど、この人は違う…違ってた…単純に王家を殲滅したいのだと言っていた…しかも、他人から脅迫で得た武力でもって!その上、巻き込まれる無辜の民の犠牲を仕方ない、と言い切った!

この人は、自分を何だと思っているの?何の権利があって、他者の生命を脅かしてもいいと思っているの?他人の平穏な生活を踏みにじってもいいと思う、その傲慢さは、一体何なの?

しかし、アンジェリークが真っ青になって小刻みに震えている様子を、青年は、恐怖に慄いているとみなしたのだろう、勝ち誇った笑みを浮かべて、アンジェリークにこう嘯いた。

「女、どんな気分だ?自分の命が、小なりといえど一国の王室の命運と等価だと知った感想は?光栄のあまり…それとも、恐ろしさのあまり、声もでないか?」

青年は、どこまでも人を小馬鹿にした態度だった。彼が自分の絶対的優位を信じて疑っていない故であった。

戻る  次へ     パラレルINDEXへ    TOPへ