それまでもアンジェリークは、青年の言葉に驚き呆れ、怒りを抑えきれない思いだった。が、青年がいましがた放った一言「自分の命が、一国の命運と等価だと知った感想は?」という言葉は、アンジェリークにかつてない程の怒りー義憤という方が近いかーの感情を湧き起こし沸騰させた。その感情の奔流は、アンジェリークに「喝」をー誘拐犯に物申さずにいられない心境は蛮勇とも言えたがー与えた。
「…っ…私の身柄が1国の命運と等価と知って、光栄のあまり声が出ないのか?ですって…?あなたは…人を…人間を何だと思っているの!?人の命を何だと思っているのよ!」
「人により軽重が大きく異なる物、だろうな。誰かにとってある者の命は何と引き換えにしてもいい程重く、一方で、同じ命が芥子粒より軽いこともある。人により立場により、これほど価値が変容する物は他にあるまい。そして、女、クラウゼウィッツの若造は、お前1人の命は○○国の見知らぬ人間数万の命と同じ、いや、それ以上に重く価値がある、とみなした、だから、我の出した条件に乗ってきたのだろう?」
青年はここで一息つくと凄惨とも言える笑みを浮かべ、こう続けた。
「実際に我の宿願が叶った時…お前1人の命と無辜の民数万の命との取引が成立した暁に、お前は、その事実をどう感じるのだろうな?無数の命の重みを栄誉としてその身にまとい、クラウゼウィッツと共にしゃあしゃあと生きていくのか…それともその重圧に耐えかねて自滅するのか…我には、どうでもいいことだが…多少、興味をそそられないでもないな」
アンジェリークは、青年のその言葉に、心底ぞっとした。
この人は、人の命を、真実、ゲームの駒としか認識してない…?故国の民の命だけでなく、人質の私が、取引成立後にどうするか…重圧を背負ってそれでも生きていくのか、重圧に押しつぶされて自ら命を絶つかを、興味本位で観察してみたいと言っているの?
もし、本当に無数の人の命と自分の身柄が引き換えにされたら、それは恐ろしい…なんてレベルでは済まない、私1人の命が、何千何万の命と引き換えになったりしたら、私は…私でなくても、その罪悪感・責任・重圧に…とても耐えられると思えない、悪いのはそんな要求を突き付けた犯人だと言うのは簡単で、しかも道理かもしれなくても、だ。
それでも…もし、そんなことが現実になったとしてーオスカーはそんな取引に乗らない、取引に乗って検討しているのは、あくまで「振り」だとアンジェリークは信じているがーオスカーが断腸の思いで、取り引きに応じたとしたら、そんな思いをしてまで助けてくれたこの命を、罪悪感や重圧に負けて、おいそれと無駄にむげにできるものではない。オスカーの気持ちを考えたら、自殺なんて絶対にできない。
でも、そのまま生き続けても、私もオスカーも罪悪感に一生苛まれるだろう、無数の人の命の重みで息もできない苦しみを味わうだろう。心から笑ったり喜んだりもできない、いつ、もうこれ以上は耐えられない、という時が来てもおかしくない、そんな人生を歩まねばならなくなるだろう。
この人は、それをどうでもいいという、精々、多少の興味をそそられる位だと…
実際、この人は何とも思ってないのだろう、王室が壊滅さえすれば他はどうでもいいと自分で言っていた…巻き添えで故国の何千何万の命が失われようと、結果、私やオスカーがどんな気持ちでどんな人生を送ることになろうと…それこそ、知ったことではないのだろう。
「…あなた、自分は○○国の王子だと言ったわ、王族なのに…自国に…国の民に何をしてもいいと思ってるの?!」
「王族だからこそ、だ。なにせ、我の本当の名「レヴィアス=ラグナ=アルヴィース」はアルヴィース王家の正統なる者という意味をもつ、本来なら、我こそが王家の正統であり正当なのだ、我はあの国に対し正当な権利をもつ、つまり、あの国を、そこに住まう民をどうしようが我の自由だ」
「…違う、そんなの間違ってる!王国ではあっても、国民や国土を、王家が好き放題にしていい筈がないわ!例えば、親が…親権者だからといって子供を自分の好きに扱っていいわけじゃないし、不当に苦しめていいなんてこともないように!王族と言うのは、その国を、土地を、民を守り育む者ではないの?民の幸せ、国の充実を喜び、生甲斐とする、それが王族というものではないの?ましてや、あなたは、あの国の統治者でも主君でもないのでしょう!何の権利があって、そんな恐ろし…」
「黙れ!」
アンジェリークの反駁は、感情的な怒声で遮られた。
「そうだ、おかしいではないか!我は正統なる者、その正統なる者が玉座についておらず、こんな異郷に追いやられ…このこと自体が…この現実の方がおかしい、間違っているのだ!だから我は壊す。今の王家、王室の在りようが間違っているのだから、壊してやる…壊す他ないではないか!?」
「だって…そんな…あなたが王族であるなら、王宮は自分の育った場所、お家ではないの?親しみや懐かしさ慕わしさはないの?それを爆撃するなんて…」
「そんなものは微塵もないな、あの国が、王宮もろとも跡形もなく消えれば、我は、さぞかしせいせいするだろう」
「そんな…あの国は、あなたの故郷なのでしょう?親は?友達や大事な人はいないの?…」
「そんなものは…おらぬ。いた時もあったやもしれぬが…その時は、わからなかった。失くしてみて、初めてわかった…とにかく、今、我には何もない。あの国の王室は、王子である我に何も与えなかった…大事にしていたはずのものも…いつの間にか我の前から消えうせた、いなくなってしまった…否、奪われた。だから、我は復讐する、我に何も与えなかった、それどころか、正当な権利を我から奪っただけの王室に…正統なる者である我を玉座から遠ざけただけではない、我は何もかも失ったのだ、一矢なりとも報いねば…大事な物全てを失うとは、どういう心持がするものか…叔父貴…王に思い知らさねば、気が済まぬ…」
「奪った…?失った…?一体、あなたは…故郷であなたに何があったの?王子であるあなたが、自分の故国にそんな恐ろしい復讐をせずにいられない、なんて…一体、どうして…?」
アンジェリークがこう問うと、青年の顔から、一瞬にして感情がー口惜しさや怨み、抑えきれない怒りといった負の感情全てが拭いさられたように消えうせた。その面は、厳しく硬く冷たく強張った。
「っち…しゃべり過ぎた…どうも、おまえと話していると調子が狂う…いいか、女、おまえには関係ない。関係のないことに首を突っ込むな」
「関係ない?ですって?」
アンジェリークは思わず尋ね返した。どう考えたら、私が無関係だなんて言葉が出てくるのだろう。人質の私が無関係の筈、ないではないか。自分の身柄が恐ろしい要求と引き換えに取引されようとしているのだから。
けど…とアンジェリークは考える…でも、この青年は、本当に、人を人だと思っていない、他者を自分と対等の、尊重すべき存在だと認めていない。自分以外の人間は、全て、駒とか消耗品とでもいうのか…取り換えの利く物としか思ってないようだということが、言動の端々から否応なしに伝わってくる。自分以外の他者に感情や心の動きがあるとも知らないーいや、知っていても、それを想像しないし、ましてや、慮ろうなんて思わない。その必要を感じないのだ、きっと。他者の感情や思惑など、この青年には無価値かつ無意味なものでしかないから。同じ理屈で…この青年の論理では、人質である私は言わば「交換物資」だから「物は黙っていろ」ということになるのかもしれない。
この青年の対人認識の歪み?偏向?は、王族特有の気質なのか。
貴族の友人はいても、王族に知己のいないアンジェリークには、判断がつかない、が、とにかく感覚的に、この青年の対人認識ー自分以外の他者を対等な人間とみなさないことにアンジェリークは反発したくなる、「それはおかしい」と言いたくなってしまう。
だけど…この人は他人を「自分と同じ、感情もあれば思考もする、尊重すべき存在」だとみなさないのだから…今『人質の私が無関係のはず、ないじゃないの』と反駁しても、この人に私の言葉は恐らく通じない、理解不能かもしれない。
それでも「あなたの考え方は、私には納得できないし、間違っていると思う」と言わずにはいられない気持ちで身を乗りだしかけた時、エンジュの姿がアンジェリークの目に入った。青年の人でなしな脅迫内容に、あまりに傲岸不遜な言動に、怒り心頭に発してしまい、この時まで、アンジェリークは正直、エンジュの存在を失念していたのだった。
エンジュはソファの隅っこに縮こまるようにして腰かけ、現況を理解しているのかいないのか、おろおろ、おどおどと落ち着かない様子で、言い争うアンジェリークと青年を交互に見比べていた。
エンジュの姿を認識したことで、アンジェリークの頭が冷えた。青年のあまりに傍若無人な態度、禍々しい言葉の数々に、自分でも意外なほど頭に血が上っていたこと、少しばかり冷静さを欠いている今の自分の状態に気付き、と同時に、もう一つ大事なことに思いいたった。
『そうよ、関係ない、というなら、エンジュこそ、今、この状況に関係ない存在じゃないの』
ということに、だ。
「関係ないというなら…なら、エンジュこそ、関係ないはずだわ。王子、今すぐ、エンジュは解放してあげてください。あなたは私を人質にしてオスカーを…オスカーを通じてアルテマツーレを脅迫した、後は、その結果を待つだけだというなら、エンジュはもう関係ないはず、彼女をここから返してあげて!」
アンジェリークの言葉に、青年は一瞬、虚をつかれたような顔をしたが、すぐ、人を小馬鹿にしたようなうすら笑いを、その口元に取り戻した。そして、したり顔でこう告げる。
「女、おまえは、バカだな。その手にのるか、と、言いたいところだが…我は親切なので、そんなことをしても、無駄だと教えてやる。エンジュを解放しても、お前の思い通りに事は運ばんぞ?エンジュを解放すれば、お前がここに囚われていると誰かに知らせてくれると思って、おまえはエンジュを帰せと言ったのだろうが、この女にそんな気の利いた真似はできん、エンジュを解放しても無駄だ、それでお前に助けが来ることはない」
「そんな!そんなつもりで言ったんじゃないわ!」
この人は…人は「自己の利」のみを考え「自己の利」のみを追求する行動しか起こさないと、本気で思っているんだ、つまり、それは、この人自身が「己の利のみを追求し、己を利する事以外、価値がない、する気もない」と思っているということだ、と、アンジェリークは悟る。だから、私がエンジュを解放してあげてほしいと言った言葉も、私自身が助かりたいがために、エンジュを解放しろと言っているとしかとらえられない、この人の頭脳にはそういう思考回路ーある意味単純にして明快なーしか、ないのだ。
「そういう意味で言ったんじゃない!エンジュは人質じゃないのだから、無関係でしょう!だから、帰してあげて!と言ってるだけよ!」
「こいつが無関係?は!笑わせる!女、おまえ、本気でそんなこと思っているのか?お前を呼び出したのは誰だ?我に引き合わせたのは誰だ?それに、エンジュは自ら進んでここまでついてきている。エンジュは、我の共犯…いや、協力者だ。エンジュはそれを光栄な名誉なことと考えている筈だ、そうだな?エンジュ」
「え?あ…あの…」
「エンジュ、ダメ!返事しないで!」
珍しい程の剣幕で、アンジェリークがエンジュの言葉を遮った、と、青年が忌々しそうに舌打ちした。
この青年は、エンジュを共犯者か主犯にしたてあげるか…少なくとも、自分と同じ犯罪者に引きずり降ろそうとしているのが明白だった。
確かにエンジュの行為は酌量の余地が少ない、それでも不要な言質はとられないほうがいい。
でも、自分のしていることも立場も理解していないエンジュは、これからも、いいように青年に誘導されたり、利用されかねない、この青年の恐ろしい企みに、どれほど加担させられるか、しれたものではない、だから…ここから少しでも早く解放させたいのに…
アンジェリークは歯がみする。無駄かもと思いつつも重ねて訴えずにはいられない。
「とにかく、私という人質がいるなら、エンジュはもういいでしょう!一刻も早くエンジュを寮に帰してあげて!」
「エンジュを解放するその隙に、自分も逃げようとでも思っているのかもしれぬが…そうはいかん」
「なら、私を縛りあげるなり、すればいいでしょう!その上で、エンジュを解放すればいい」
「ほう?こいつはいい、女、おまえ、その提言を我が聞き入れた場合、どういう状況になるか、分かって言っているのか?もし、その言を我が了承して、エンジュを解放したら、お前は我と2人でこの部屋に残されるのだぞ?しかも、縛り上げられて、抵抗を封じられた状態でだ。それが恐ろしくはないのか?我は、おまえを人質として、この場に止めおいてはいるが、拘束もせず、さるぐつわも噛ませず、苦痛も与えていない。この部屋から出て行くことは我の許しなくば不可能だが、この空間内ではある程度自由に動けるという寛大な条件下での拘禁だ。なのに、お前は、そのささやかな自由をささげて、エンジュを解放しろと我に言うのか?いや、言えるのか?」」
「っ…!」
不用意な発言をした、と、アンジェリークはほぞをかむ。エンジュを解放させたいがために、譲歩し過ぎたか?
確かに、アンジェリークの現状は「軟禁」であり、今にいたるまで、苦痛は与えられていない。ただ、それは、この青年が、基本、他人に無関心だから生じた結果に過ぎない気がしたがー彼に重要なのは、この誘拐から導き出される利益であり結果だけなので、積極的に人質に関わらない・働きかけようとしない、だから苦痛を与えられることもなかっただけだと、アンジェリークは思う。
そういう意味で、この青年は、積極的な残忍性は持ち合わせてはいないのかもしれない。けれど、自分の目的のために、無関係の他者を巻き込み、故国の民を戦禍で蹂躙しても構わないとする傲慢かつ自己中心的な性格であり、他者への共感能力や他者を尊重する認識は皆無に等しいことは、もう、察せられている。そんな人物と、一切の抵抗を封じられた上で、2人きりで、密室に閉じ込められる、という状況は正直ぞっとしない。
けれど、自分が不安だから、誰でもいいから誰かが傍にいてくれれば心強いからという、利己的な理由でエンジュにここに一緒に残っていて欲しいなどと考えるアンジェリークではなかった。アンジェリークはエンジュの方をちらと見やって考える、誰だって監禁なんて、されたくない、されないほうがいいに決まってる、自分が嫌で恐ろしい状況にさらされているからなおのこと、アンジェリークは、人にそんな目にあって欲しくないと思う。
自分が不遇を知れば、人にはそんな思いを、なるべく、して欲しくないと考えるのがアンジェリークだ。
自分が不幸だから他人の不幸など知ったことではない、むしろ他人も同じように苦しめばいい、と考える人種と、それは対極・真逆の心性だった。
今、青年は、黙りこんでしまったアンジェリークに対し、嵩にかかった物言いで、言葉を重ねた。
「さあ、どうする?女?我と2人きりになるのが恐ろしくはないのか?クラウゼウィッツからの解答待ちに飽いて、時間をもてあました我が、お前を弄びたくなるやもしれぬぞ?人質を痛めつけないように遊ぶ術などいくらでもある。他に人目がない方が、我も気が散らなくていい。それでも、エンジュを解放しろとお前は言えるのか?エンジュを解放して後悔せぬのか?」
アンジェリークに己の無力さを思い知らせ、人質というみじめな境遇を思い出させようとしている、そんな言葉だった。
と、同時に、アンジェリークは、青年の言に、不可解さを覚えた。
何故、この人は疑問形を使うー私に問うてくるのだろう?エンジュを解放するか否かが、まるで、私に決定権があるかのように?…私に決めさせたい?いえ、違う…答えを自分の望む方向に誘導したいのだ、多分。何度も何度も「エンジュを解放していいのか?」と問うてくるのは、私が不安や心細さから前言を翻して「やっぱりエンジュを解放しないで」と言いだすのを期待しているからじゃないの?自分の不安からエンジュに私と同じ虜囚になってくれと頼むのは、自分可愛さのあまり、他人に犠牲を強いるってことだけど、この人は、私にそう振舞わせたいの?そういう方向に誘導したいの?
私に利己的な言動をさせるべく誘導しているってことは、この人は、私に利己的な行動をさせたいってことで…では、それは何故?
この人は、とても利己的な人だと、私は感じている、他人の行動も全て利があるかないかで判断しているし。
だからなの?人は、自分に限らず己の利のみを考え行動するものだと確かめたいの?私もまた、この人と同じなのだと証明させたいの?私が、自分可愛さに利己的な言動をするのを待って「やっぱり、それ見たことか」と、あてつけたい?人を自分の次元までおとしめ、愚弄したいのだろうか…。
青年の真意を測りかねながらも、アンジェリークは慎重に言葉を選び、しかし毅然と返答した。
「っ…それでも、よ。それでも、私はエンジュを解放してあげて欲しい。人質は私1人で十分事足りるはずよ。それに、私が人質である以上…エンジュと言う第3者がいてもいなくても、あなたは私を弄んだり辱めることはできない筈だわ。もし、そんなことをしたら、オスカーはあなたを決して許さない、交渉は決裂し、あなたの野望は頓挫するのだから」
「…ふん、聞いてきたようなことをいう」
青年は、凛然と揺るがない少女に舌打ちした。
クラウゼウィッツとの電話でのやり取りはそう詳細に明確には聞き取れた筈がないのに、この女、あの男が言ったのと同じことを言う。さも、当然のように、相身互いに心が通じ合っているかのように…心から信頼しあっているかのように…気に食わん。
青年は、男と女が、打ち合わせをしたわけでもないのに、異口同音に同じようなことをいってきたのが、とても気に障った。
意地でも、人質の提言など聞き入れるものかという気になる。
確かにエンジュは、もう、この場にいてもいなくても、どうでもいいー当初の役目は終えたからーだから、解放しても、どうということはない。
何せ、我は、この国の法律では裁かれることはない、拘束・干渉も受けない。この小さな住居は、言わばこの国の中にある異国、誰も我の許しなしには踏み込めない。だから、エンジュを解放しようと、エンジュが誰に何を注進しようと、誰も何も我には手をだせない。だから、何の影響も問題もない。
あのバイクに乗っていた小僧を黙って帰したのも、この場所がわかっても、誰も何もできないとわかっているからだ。クラウゼウィッツの女がここにいると誰に知れたとて、この国の者は誰もこの女を助け出すことなどできないからだ。
だから、エンジュを帰しても別に困ることはない、だが、人質の女の言うなりになるのは論外だ、癪に障る…それにいればいたで、エンジュに使い道もあろう、唯々諾々と帰してしまうのはつまらない、と青年は考え…エンジュの「使い道」を思いつく。
「まぁいい。女、お前がなんと言おうと、エンジュを帰すことはできない。エンジュには…ああ、そうだ…目撃者…証人になってもらわねばならなぬのでな」
「目撃者?ですって?」
「そうだ、今、お前自身が言った。クラウゼウィッツは、お前の命が無事でも、我がお前を苦しめたり辱めた痕跡や訴えがあれば交渉を決裂させると。言いかえれば、お前が自分は被害者だと偽証をすれば取引は不成立となってしまう。クラウゼウィッツは何も支払わず、我は何の成果も得られぬ、ということになりかねない」
「私は、そんな嘘なんて!」
「おまえが嘘をつかない?とどうして言える?女はしたたかだ。自分で服を切り裂いて悲鳴を上げれば、即、自分は被害者に、そしてその場にいる男を加害者に仕立てあげることができる、女が男を陥れる…冤罪をなすりつけるのは、いとも容易だと、我が知らないとでも思ったか?エンジュを解放すれば、この中で起こることは他に知れなくなる、我が何をしてもわからぬと同様に、お前が嘘をついても、それを嘘だと証明することは難しくなる。お前に偽証させぬためには第3者の目、証言が必要…そこで第3者であるエンジュに証言してもらう、我はお前に対し、何もしていない、少なくとも、今後48…そろそろ47時間になるが…その間は、単に、ここにとどまってもらっていただけだ、とな。エンジュなら、我の望む証言をしてくれる筈だ。無論、自発的にな…エンジュ、おまえは我の証人になるか?」
「え?あ…はい、銀髪さんはアンジェに対し、何もしてないって証言すればいいんですよね?私がいないと、それを証言する人がいないんですよね?」
「そう、そういうことだ」
「!?エンジュ!ダメ!」
「どうして?実際、銀髪さんはアンジェに何もしてない、自室に招き入れただけでしょう?尋ねられたらそう言えばいいのなら…私、それはできるもの」
エンジュは嬉々として返答した。
ようやく自分にも理解でき、参加できる話が展開したから。さっきから2人の間に交わされる話は映画か小説のようで、頭が付いていけてなかった。到底、本当のこととは思えなかった。
爆撃だのなんだのが真実の訳がない、銀髪さんは、確かにアンジェを「誘拐した」「大事な人質だ」と言った、そして、アンジェが言った通り、○○国の王宮を爆撃しろって言ってたけど…そんなの本気の筈がない、何かの駆け引きか、はったりとか、そう、何かの作戦よ…そんな恐ろしいことが目の前で進行している訳がない、何か言葉の上だけのことよ、そうに決まってる。
ずっと、自分にそう言い聞かせていた。そこに青年から「アンジェリークに何も危害を加えないという証人になれ」と言われ、エンジュは嬉しさのあまり、よくその言葉の意味も考えずに飛びついた。青年は、やっぱり悪いこと、酷いことなんてする気はないし、そんな人でもない、この言葉から、エンジュはそうと信じることにした。
本当は、頭の片すみでは、今、眼前で起きているのはフィクションではないとわかっていたし、青年の要求がもし本気だったらと考えないでもなかった、けど、それは余りに恐ろしくて、エンジュには理解不能な、あり得ない世界の話だったので、理解したくなかったし、あえて何も考えないようー会話の内容を吟味しないよう意識して努めていた。そこに、突然、自分に理解できる言葉と提案がなされたことで、エンジュは、大喜びで飛びついてしまったのだ。
「決まりだ、エンジュ、ここにいれば、おまえは我の役にたつことができる、色々な意味でな…」
「あぁ…エンジュ…」
アンジェリークは言葉を失った。
精神的にこの青年に取り込まれてしまっているエンジュは、青年の誘導する通りの言葉を発するだろう、それが例え虚偽の証言であっても、いいように言いくるめられて、青年が望む通りの発言をしてしまうだろう。けど、それは無駄かもしれないのに…エンジュが青年の走狗とわかっていれば、エンジュの言葉はどんな場でも証言にはなるまい、身内の言葉はアリバイにも証言にもならないし、エンジュは青年に利する言葉しか紡がないに違いないのだから…。
そして、青年に与する言葉を発するほどに、エンジュは青年の共犯者として言い訳のきかない立場に追いやられてしまう…この青年は、そこまでわかって、エンジュを証人に仕立てあげるつもりなのかもしれない。
それに先前この人は言っていた、私は…目の前で他の人が苦しむのは耐えられそうにない人種だと、そして悔しいことにそれは的を射ており…ならば、この人は私の反抗や抵抗を封じるくさびとして、どちらにしろエンジュを解放する気などなかったのだろう。多分、この青年は骨までしゃぶりつくすように、エンジュを利用しつくすつもりなのだろう。
エンジュに「あなたは利用されているだけだし、これからも利用され続ける恐れがある」と言えたら、そして、理解してもらえたら…せめて、自身の立場に、青年の自分への扱いに疑問を覚えてくれたら、この事態もどれ程好転するだろうと、アンジェリークは思う。
でも、それがない物ねだりだともわかっていた。
エンジュの不明を指摘するような言葉を言えば、エンジュはその言葉にのみ激しく反応するだろう、「バカにされた」とやみくもに反発し、一層、青年に傾倒するだろうと思えたから。
『ならば…少しでも良い処を…考えるしかないわ』
青年の味方をするであろうエンジュではあっても、少なくとも今は『青年はアンジェリークに何も危害を加えない』証人になると自分で言っている、ならば、エンジュの存在は、多少なりとも抑止力の意味合いを持つだろう。エンジュが解放される方が大局的には良かったが、青年にその気がない以上、現状をなるべく肯定的にとらえるようにするしかないだろう、とアンジェリークは覚悟を決める。
オスカーは自分を助け出してくれる、今もそのために奔走してくれているに違いない、となれば、それまでの時間、自分を守ること、それが私の務めだ。無事な姿をオスカーに見せることが私の為すべきことだから…エンジュの存在がその一助となってくれると信じよう。
と、心を決めたその時、ごとり、と音がして、玄関の扉の下部に設えてある開口部ーポストより大きく、小型の犬猫なら通れるほどのーが開き、平べったい形状のものが続けざまに3つ差し入れられた。食物の香りがしてきて、それが食料の差し入れなのだとアンジェリークは悟り…同時に衝撃を受けた。
「ようやく来たか…食え。おまえは大事な人質だ、死なれたり、あまりに早く衰弱されては困るからな」
青年自身は食物にあまり興味がなさそうで、トレーを取りにいくでもなく、ちらと視線を投げたきりそのまま放置していた。
『これはまるで、囚人の食事ではないの…』
自分は確かに囚われの身だ、その自分たちの食事があたかも囚人食のようだとしてもそれは納得いく。しかし、自分の監禁者である筈の青年も同じような扱いを受けているのは、どうして?おかしいではないか…
『この人は一体…王子だといいつつ、故国の王室の壊滅を願い、それでいて自らの境遇はまるで囚人のそれ…私を人質にしてオスカーを脅迫したこの人自身もまるで囚人のような扱いを受けている?何故…』
「食えと言っている、我はおまえを…お前たちを飢えさせて脅すような真似はせん。なにせ大事な人質だからな」
勧められて唯々諾々と食事をとる気などなかったが、無理強いされる前にと思い、アンジェリークはトレーを受け取り、一つをエンジュに手渡した。とはいえ、アンジェリークは、この青年の立場とか事情への不可解さで頭がいっぱいで、カトラリーを手に取ることもせず、青年の様子をそれとなく見つめていた。
とてつもなく自己中心的な人物ではあると思う、けれど無闇に残酷な訳ではなさそうで、王族の出といいながら、自らが王位につく努力をするよりも現状を壊すことが主目的らしい…どうして、そんなことを考えるようになってしまったのだろう。王位に即けない王族が王位をねらうというのは、古今東西、史実にもフィクションにもいくらでも事例がある、けれど、自分が王位に即けないからといって王室そのものを壊滅させようとする王族なんて寡聞にしてアンジェリークは聞いたことがない。
『なんで、そんなことを思いつめるまでになったのだろう、そして、王国と王室を壊したとして…その後、この人はどうするつもりなのだろう…』
その原因?理由?をアンジェリークは看過しえないと感じた。
だって、オスカーは絶対に私を助け出してくれる、そして、それはこの人の野望の頓挫を意味する。
でも今回の野望が挫折したとて、この人が野望そのものを諦めるとは限らない。1度クーデターを画して失敗し、それでも懲りずに、私を誘拐軟禁してアルテマツーレから武力を引き出そうとしている位だ、今回の脅迫がまた失敗したとしても、更に根深い恨みを胸に捲土重来を図ろうとしないと、どうして言えるだろう?
ならば…オスカーが私を助け出してくれたとしても、この人が、その恐ろしい考えを改めない限り、後日、私みたいな犠牲者が他に出ないとも限らない。
この人がそんな恐ろしい望みを抱いた理由がわかれば…そんなことをして何になるのかと思わせることが、少なくとも、少しでも考え直させることができないかしら。どうしてそんな恐ろしい計画をたてたくなったのか、何か、話を聞き出せないかしら…
この人の考えを改めさせることは難しくても…
頑なな心に…復讐とか恨みとか、そういうどろどろしたものでいっぱいの心に少しでも風穴を開けられないか、そんなことをして何になるのかという疑問を僅かでも植え付けられないものか…
アンジェリークは食事をつつき回すふりをしながら、青年から話を聞き出せそうな手立てはないものかを考え始めていた。
一方でエンジュはエンジュで、まったく別の想いで、頭がいっぱいだった。
青年は、アンジェリークをこの部屋に閉じ込めはしているが、危害は加えないと言った。それに食事も用意してくれた。それは、やはり、青年が心底悪い人物ではない証左だとエンジュには思えた。青年は、面白がって悪戯に人を苦しめたりするような人じゃないのだと、エンジュは、そう信じたかった。
けれど、青年がやっている事ーどんな理由があれ、女性を自室に閉じ込めていることや「爆撃」なんて言葉は、誤解の余地なく「悪いこと」だと思う心も確かにあって…でも、エンジュはそれを青年の「方便」だと信じたかった。
銀髪さんが本気の訳ない、本当にそんな恐ろしいことをする筈ない。脅迫っていうのも、きっと、計略だわ。だって銀髪さんは王子様なんだから、王様になるための手段として、ちょっと今の王様に脅しをかけて…そう、駆け引きしてるだけに違いないわ、脅すなんて悪いことかもしれないけど、実際に悪いことをしなければいいのだし、銀髪さんが王様になれば、全て丸く収まる筈よ、うん、そうよ、そうにきまってる。
王子は「自分は本来与えられるべき王位を不当に奪われたから、助けて欲しい」と私に言ったのよ、それって、物語には本当によくあることで…正統な後継ぎが王位を継ぐのが物語でも当たり前で、それを手助けするような功績があった人は、ご褒美をもらったり、重臣に取り立てられたり、結婚したり、とにかく、良いことをすればよいことで報われるものだわ。正しいことをして、可哀そうな王子様を助けたら、助けた人は幸せになれるのよ、その筈だわ…
青年の要求の奇妙さや禍々しさにエンジュは目をつむった。敢えて考えないことにした。王宮を爆撃っていうのは、お城を壊すことで、お城がなくなってしまったら、王子はどこに住むの?王子はどうやって王様になるの?と、考えないでもなかったが、考えたら怖いことになりそうなので、そこで思考を停止することにした。
そんなことは…どうやって王様になるかは私が考えることじゃないのだから、銀髪さんは、王子様は、全てわかってやっているに違いないのだから、と。
それより、エンジュは青年が自分を解放しなかったこと、その上、青年が証人になってくれと言ってくれたことが、とびきり嬉しかった。
青年の行動には悪い部分もある、けれど、極悪というほど酷い訳じゃないし、それも訳あってのことー不可抗力なのだと、そう証言してあげられるのは自分だけだ、自分はそのために残された…頼られたのだと思えた。
『私が銀髪さんは、そんな悪い人じゃないって…ちょっと悪く見えることもしちゃったり、言ったりしたかもしれないけど、それには理由があって、本当に悪い人じゃないって、私が証言してあげなくちゃ』
それに…自分が呼び出したことで、アンジェリークをこの件に巻き込んだことを、エンジュは、少しばかり、気に病んでいた。
とはいえ、こんなことになったのは、元はと言えば、アンジェリークの所為だ、私は単に王子への援助の口ききをお願いしただけなのに、お願いを聞いてくれるどころか、頑なに抵抗したアンジェが悪い、アンジェが快くその場でクラウゼウィッツに連絡を取ってくれれば、こんなにことにならなかったのだから、今の事態はアンジェの招いた自業自得なのだ、と、エンジュは心の中で、ずっと強弁しており、アンジェリークへの負い目が2分、アンジェリークが悪いのだと責任転嫁する気持ち8分というところだった。
それでも、アンジェが寮の門限に帰してもらえないのに自分だけ帰るのは、どうにも決まり悪い、という気持ちもあった。それに、エンジュが自分1人で帰寮すれば「アンジェはどうした?一緒じゃないのか」と根掘り葉掘り周囲から尋ねられそうなのもわずらわしかったし、だから、帰されなくてちょうどよかった、と…エンジュは、結局、現状をそう考えることにしたのだった。
こんな事態は、そう長く続く訳がない、王子が脅迫…ううん、交渉の末、自分の正当な権利を取り戻したら、私とアンジェも数時間の後には、きっと帰され…それで一件落着だわ、だって、これは正しいことなのだもの、正しいことに、皆、最後は従うものよ、多少抵抗したって、結局、従うしかないんですものと、エンジュは無神経なまでに楽観的な見通しを立てていた。
同じころ、オスカーはオリヴィエ、ゼフェルと共に、所謂「偽報道番組」の作成にやっきになっていた。
世界ニュースをそれぞれに各局ザッピングして、使えそうなニュース画像を拾う。
ゼフェルは主に、戦闘や、廃墟・がれきの画像を。幸か不幸か、世界中に紛争の種は無数にあるので、必要な画像は、そう苦労せず揃えられそうだった。
その間、オスカーはニュース番組を見つつ、独特の報道用語を抜きだし、原稿を数通りー少なくとも3カ国語は必要だと考え、それぞれに用意しようと考えていた。アナウンサーが一つ一つのニュースを読む時間はそう長くないことを見てとり、簡潔にしてインパクトのあるニュース原稿を言い回しを少しづつ変えて作成する。出来上がった原稿は、まずはオリヴィエに朗読してもらう。その音声を録音した後、ゼフェルが画像と音声をミキシングし、必要とあれば効果音を合成して付けたら、3人で、1度、出来栄えをみてみるー客観的に見て緊急報道のニュース番組に見えるかどうかを確認する、というのが、当座予定している流れだ。できれば第3者の見地が欲しいところだがー自分たちの作成したものを、どこまで客観的に評価できるかどうかわからないのでーそこまでの贅沢は言っていられまい。
しかし、アナウンサーの声がオリヴィエ1人のものでは信憑性が欠けるーオリヴィエが多少声色を変えたとて限界があるので、まずは、以前にあの王子の正体を知らせて、ヤツの行動を牽制する協力を依頼したことがあるーつまり、ある程度の事情を知っているロザリアにコール、原稿朗読を依頼することにした。
2、3回のコールで、ロザリアはすぐ電話に出てくれた。何の用だと問われる前に、オスカーは、簡潔に、今、アンジェリークの置かれている危機的な状況、犯人の正体と目的、つまり自分が突き付けられた要求を伝え、ロザリアが息を呑んだその一瞬間に、アンジェリーク救出のために力を貸してほしい、本来なら、直接懇願に出向くのが筋だが、1分1秒でも早く対策を講じたいので、失礼を承知でこうして電話で依頼していると告げた。
オスカーはどんな酷い罵倒も叱責も怒声も覚悟していた、実際に、今回の不始末、不手際は自分の責任だと誰よりもわかっているつもりだったから…が、ロザリアは呑んでいた息を静かに吐き出すと、即座に「では、私は、具体的に何をすればよろしいんですの?」と尋ねてきてくれた。
意識して抑えた様子のロザリアの吐息に、却って、オスカーは、ロザリアのはらわたが煮えくりかえっているであろうこと、俺が付いていながら一体何をしていたのだと、声を限りに罵倒したいであろうこと、しかし、今は、オスカーを責めて罵っても埒が明かないーアンジェリークが救いだせるわけではないし、そんな時間すら惜しいことを一瞬にして悟り、罵声を呑み下してくれたのだろうことを感じ取った。今、何が最も重要かつ優先させるべきかを一瞬にして判断し、感情を抑制してくれたロザリアのその聡明さ、現実感覚にオスカーは限りなく感謝したー自分が罵られずに済んだからではない、叱責や説得のために貴重な時間を全く空費・浪費せずに済んだからだ。ことが解決した暁には、ロザリアに、安心して、いくらでも思う存分、叱責罵倒罵声を浴せてくれて構わないと、後刻、告げよう。
そこでオスカーは、すぐさま、自分たちの計画をロザリアに告げ、即、原稿をメールで送るから、それをニュースキャスターよろしく読みあげて欲しいと依頼した。音声が録音できれば、後は、ゼフェルが効果音を加えて報道番組っぽく加工すること、人間の肉声と機械で作った電子音声は、やはり臨場感や抑揚に大きな差があり、特にニュース原稿は、どこの国の放送でもキャスターがオンタイムで読みあげるものなので、どうしても肉声での朗読が欲しいのだとも付け加えた。
「了解しましたわ、けど、そういう事情なら、私以外にも読み手が必要ではございませんこと?」
「ああ、だが、俺とゼフェルはヤツに声を知られちまってるんで、オリヴィエが英語と仏語の朗読を担当する…にしても、後はジュリアス先輩に事情を話して協力をお願いするつもりでいるんだが…」
「ジュリアス先輩は、どの程度、今回の事情ー犯人の正体ですとか、アンジェとの関係をご存じですの?」
「ほとんど何もご存じない。エンジュが富裕層の調査をしている時、エンジュから接触があったかどうか尋ねたことがある位で、その時は、こちらも何もわかってなかったし、ジュリアス先輩は、結局、ヤツのリスト対象外だったので、何も知らせていなかったんだ」
「それでは事情を呑みこむまでに、私よりは時間がかかりそうですわね…けど、それは今この状況では、あまり喜ばしくないことですわね…一刻を争いますのでしょう?」
「ああ」
「では、ジュリアス先輩には私からお話して、お願いしておきますわ、何も言わず問わずオスカー先輩方に協力してくださいますように、と。私からの依頼の方が、角もたたないでしょうからも」
「ありがたい…心から感謝する」
「全ては、あの子のため、ですわ」
「ああ、今回の件、後で埋め合わせは必ず。ファイルは今、送信した、受信して開けるかどうか見てくれ。ざっと目を通したら、読み合わせを頼みたい」
「承知いたしました、では、この通話は1度切らせていただきます。原稿に目を通したら、折り返し、即、連絡いたします」
「その際は、すまんが、携帯電話の回線を開けておきたいので、有線の電話の方にコールバックしてもらえるだろうか」
「了解いたしました」
その言葉と同時に通話が途切れる。
オスカーは一息ついて、携帯電話を閉じる。
数分後にかかってくるロザリアからの電話はオリヴィエに出てもらい、録音作業を進めるつもりだ、というのも、オスカーは、アンジェリークの父・リモージュ氏からの着信がないものかということもかなり気がかりだったから。
先刻、ヤツがよこした脅迫電話の音声、そして、こちらの持っているデーターヤツが○○国国営銀行の何年度の顧客データを持っているらしいかを、リモージュ氏に知らせておいた。同時に、あの部屋の電子通信機器類ーTV、電話、ラジオ、PC等の設備で何が何台あるか、また、その回線の種類を質問しており、その解答は、ほどなく、住居設備のマニュアル様の事務的な返信があったのだが…それ以外の返信は皆無だった。こちらの送った資料が使えそうなデータだと見れば、そして、録音音声から、ヤツの行動を牽制できるとなれば、リモージュ氏から、その件に関しても、こちらに一報があってしかるべきなのだが…無情にも携帯電話は、その後、リモージュ氏の着信を示してはくれず、沈黙を保っていた。
オスカーは小さく嘆息すると、気持ちを切り替え、新たなージュリアスに読んでもらう分のニュース原稿作成に取り掛かる。他人をーリモージュ氏はまったくの他人とはいえないがーあてにするより、まず、自分たちにできることに全力を尽くそうと。今、自分たちの取り組みで、アンジェリークの救出は叶うはずだから。犯人の逮捕・拘束はできないが、それは、ゼフェルの言った通り、俺たちの責務ではないと割り切るしかない、俺に、俺たちにとって最も重要なのは、アンジェリークの無事の確保だから、と、オスカーは自身に言い聞かせ、自分の為すべき作業に没頭した。