Before it's not too be late 41

普段ならとうに寮で夕飯を終えている時刻であったが、アンジェリークは、空腹感を微塵も感じなかった。眼前に食事があるのだが、手をつける気になれない。

怪しい物が入っているのではないかと、疑っていた訳ではない。食物を粗末にする気もない。出された物に手をつけないのは気が引けるが、それでも、どうしても食物を口に運ぶ気にはなれず、アンジェリークは諦めて、盆を脇に追いやった。自らの不遇を嘆いたり、不安に胸が押しつぶされそうだから、食べ物がのどを通らない、というよりは、集中して考えなくてはと思う事が多々あって、食事にまで気をふりわける余裕がない、と言う方が近いか。

アンジェリークが気になるのは、この青年の心情ー何故、こんな恐ろしい大それたことを考えたのか、その原因が何なのか、だった。原因がわからなければ、対処法も考えられない、どうにかして、この青年の内実を知ることが、聞き出すことができないか…何か、話すきっかけ、手掛かりがないものか…

そんなことを考えながら、見るともなしに青年の様子を見ていると、彼は、供された食物には手をつけず、キャビネットから酒を取り出し、無造作に生のままグラスに注いでは煽っていた。酒を味わうとか、楽しむという雰囲気とは程遠い。アルコールを、燃料のように、体にただ流しこんでいる、そんな印象を受ける飲み方だった。

傍目から見ても無茶な飲み方だ。いかにも体にも悪そうだし、程なく酷く酩酊するのではないか。

人質を抱えている誘拐犯としては、油断しすぎというか、無防備な振る舞いだとアンジェリークは思う。

なにせアンジェリークはいまだ拘束されていないのだ。強制的に室内に招き入れられ、ソファに掛けさせられたが、結局、そのままだ。エンジュを解放させたかったあまり、1度口が滑って、自分を拘束すればいいと口走ってしまったが、それを言質にとられることもなく、だから、未だ、腕も足も縛りあげらていない、その気配もない。部屋内なら、自由に過ごして構わないと言わんばかりの扱いだ。さるぐつわをかまされてもいないから、しようと思えば、いつでも自由に会話もできる。

誘拐犯が、人質をここまで無造作に扱うものだろうか?

その上、人質の眼前で酒をあおる、その神経が、アンジェリークには全く理解できない。

私を縛り上げた上で酒を飲むなら、まだ理解できるが、この青年は、自分は絶対酔いつぶれない自信があるのかーあんな飲み方をしても大して酔わないなら、無茶飲みが日常化しているということで、荒んだ生活が察せられるがーもし、酔いつぶれたとしても、どうせ私は逃げられない、とタカをくくっているのか…もし、そうなら、それは、この部屋が外から厳重に、何重にも施錠されていて、私が多少、部屋の中を探ったり逃げ道を探したって、どうせ逃げられやしないとみなしているが故の、余裕ある振る舞いなのか。

しかし、青年の酒の煽り様を見ていると、余裕ある態度の表れというよりは、自暴自棄とか捨て鉢とか投げやりとか…何か鬱屈し、荒んだ心情が感じ取れてしまうのは気のせいだろうか。

青年は誘拐犯であり、監禁者であり、今のアンジェリークに対しては絶対上位者の筈だ、そして、実際、彼は傲岸不遜で人を人とも思っていない発言を繰り返しているが…なのに、どこか、そう言いきれない物をアンジェリークは感じ取る。

ここで、アンジェリークは思い出す。青年がオスカーに要求したものは、直接的な武力・戦力であることを。その意味を考えてみる。アルテマツーレから引き出す武力で故国の殲滅させろと、彼は言った。彼の目的は故国の壊滅、だが、今の彼には、その力がない。だから誘拐という卑怯な手段で、他人から武力・戦力を引き出そうとしているわけで…それは、つまり、この青年は実際は無力なのではないかしら?力がないからこそ、力を持っているオスカーから、それを引き出そうと画策したいのではないかしら?

そして青年が、私を拘束しないのは、この部屋は強固に施錠されており、内側からは絶対開かない、どうあがこうと逃げ出せないと、彼がよく知っているから…だとして、彼自身はどうなの?私たちを置いて、自由に外出できるの?

だって、思い返してみると、この青年は、自身で部屋に施錠する素振りを見せなかった。つまり、この部屋は外から誰か第3者に施錠させているーもしくは施錠させられているとしたらーそれは、誰に?そして、もし、そうなら、彼は鍵を持っていないー管理していないということになる、監禁するものがロックシステムを管理していない、なんて、そんなおかしなことがあるだろうか?

状況を鑑みるほどに、アンジェリークは、不可解な、おかしな点ばかりが見えてくる。

虜囚の身である自分たちと同じ糧食を供されている、まるで、彼自身と私たちは立場が同じであるかのように。酒を飲むのも、それ以外にすることがないから、もしくは、アルコールの酔いでうっぷんを紛らわしたいだけなのではないかという気がしてくる。もしかして、この青年は、私と大して変わらない境遇・身の上ではないのか、という気すらしてくる。つまり、彼自身もまた、無力で、自由を制限されているのではないかという気さえ、してしまう。

そういう視点から見ると、彼には、どこか落ち武者のようなみじめさとか卑屈さを感じさせる部分がある。まるで、彼もまた、アンジェリークと同じ虜囚ー自由を奪われた者であり、酒をあおるのも、自身の境遇に対しての鬱屈から、酒をあおらずにいられないだけとでもいうような…

だが、彼がどんな境遇にあろうとも、これだけははっきりしている。

とにかく、この人は、私が、いくらじたばたしても、逃げられっこないと確信している、それだけは間違いないと、アンジェリークは嫌々ながら結論せざるを得なかった。恐らく、隙をみたり、青年が油断していたとしても、自力で脱出するのは難しいだろう、と。

そも、アンジェリークが母とこの部屋に類する宿舎を借り上げ滞在していた時、施錠形式はごく普通の一般的なものだった。部屋の中から施錠も解除もできた。が、この部屋が外から施錠されているということは、鍵そのものが、自分たちが滞在した時とは変わっているということで…もし、それが最新鋭のセキュリティなら、ここを施錠しているのが誰であれ、登録された声紋や網膜認証でのみロックが解除されるということも考えられる。

自力での脱出は難しい、エンジュを伴っては尚更だーエンジュに、一緒に逃げようと促しても肯かないかもしれないし、さりとて、エンジュを置いて逃げるのは、アンジェリークとしてはあり得ない選択なので、逃げる逃げないで揉めれば、それだけ青年の警戒を強めるだけだーならば、下手に動かずー諦め消沈しているふりをして、オスカーが救出してくれるのを待とう、結局、そう落ち着く。

なら、それまでの間、無為に過ごす以外に、私にできることはないかと考える。なれば、やはり、この人がこんなことを目論見しでかした動機を、原因を、理由を探りたい。

この人に話しかけ、考えを聞き出し…叶うなら、気持ちを少しでも変えること、軌道修正をすることができないだろうかと思ってのことだった。

この人の要求は、私には恐ろしくおぞましいだけの企みだけど、この人が、そんなことを望むようになったのには、何かしらの訳、理由、きっかけ、そんな物があったはず。その動機とか理由とかがわかれば…無辜の民ごと1国の殲滅を望み図るなんて恐ろしいこと、どうにか思いとどまらせること、少しでも考えなおさせることはできないかしら…

今からだって遅くない、ううん、今しかできない、故国を、無辜の民を爆撃するなんて恐ろしいこと、実行されてしまったら取り返しがつかない…だって、彼が自称する通りその国の王子なら、彼の行為は紛れもなく内乱・内戦を起こすことに他ならない、どんな戦乱だって悲惨だが、内戦は身内同や知り合い同士が殺しあう可能性があり、どちらが勝っても残るのは疲弊した国土と同じ国民間での尽きせぬ恨みになってしまう、そんな恐ろしい行為を仕掛けると言うからには、それなりの理由があるはずだろうが、それでも、避けられるなら避けた方がいいのだ、そんな戦いは…

それに、この人の野望は絶対に潰える、少なくとも今回は。オスカーが絶対に私を救出してくれるし、オスカーは第3者を犠牲を良しともしない、それは絶対確実だから。だけど、この人が今後も野望を諦めなかったら、私やエンジュみたいに、巻き込まれ、危険なめにあう犠牲者が続出する可能性がある、そんなことにならぬよう、できるなら、ここで…私のところで、その危険を絶ち切りたい、そのためにできる限りの努力してみよう、と、アンジェリークは結論付けた。

酒を続けざまにあおっている青年に声をかけるきっかけを探し、アンジェリークは青年を見つめる。

その、物問いたげなアンジェリークの視線に気付くと、青年は、どんな気まぐれか…待つしかない故の無聊を紛らわせたくなったのか酒のおかげで、口が滑らかになったのか、

「…なんだ?俺に何をされるか、恐ろしいのか?安心しろ、クラウゼウィッツからの解答待ちの間は、何もせん。もっとも、交渉期限が過ぎた後は保証できぬがな」

と、厭らしい含み笑いを交えつつ話しかけてきた。

青年の奢り勝ち誇った口調は、むしろ、アンジェリークの背を押した。彼は自分の優位を確信して、良い気分になっている、これなら、問いかけに応じてくれるかもしれないと。

「一つ、尋ねたい…教えてもらいたいことがあります。あなたは、何故、故国の壊滅を願うようになったの?その理由は何?」

「お前には関係ない」

「関係なら、あるわ。あなたの要求が通れば、私の身柄と引き換えに、多くの見知らぬ人たちが戦禍に巻き込まれるかもしれない、命を落とす人がたくさん出るかもしれない、私は、その当事者なのよ。関係ない筈ない」

「だとしても、その理由など、お前が知らなくてもいいことだ。とにかく、お前は、お前の愛しい男が、お前を助けるために○○国王宮に爆弾を落とすか、それだけの度胸が、覚悟が、その男にあるか、もしくは愛もなく、おまえを見殺しにするか、固唾を呑んで待っていろ。どうなるにせよ、48時間後にお前の運命は決するのだからな」

ぴしゃりと青年が言い放つ。

アンジェリークは瞬間、すくみそうになりながらも

「だから、関係なくない!私と、○○国の多くの人の命が引き換えにされるかもしれないというなら、無関係の筈ないじゃないの!1度失われた命は、決して取り返しが利かないのよ?」

「!!!」

と、その言葉に、青年は、一瞬、打ちひしがれたようにーアンジェリークの目には、ぐらりと体がよろめいたように見えた。

何か、自分の言葉が青年の心に響き、訴えかけるものがあったのか?とアンジェリークは希望を抱き、たたみかけるように続ける。

「あなたはあの国の王室が消えるのが望みだとオスカーに告げて、その結果、多くの人が巻き添えになってもいい、なんて恐ろしいことを言ってたけど、そんな恐ろしいことは、考えなおすことはできないの?今なら、間にあうわ。どうか、考え直して。あなたの望みが何であれ、人の命を犠牲にしないで済む方法はないの?よかったら、私も一緒に考えるから。そのためにも、あなたが、何故、そんな恐ろしいことを思いつめるまでになったのか、訳があるなら教えてほし…」

と、それまで打ちひしがれた様子でアンジェリークがしゃべるに任せていた青年は、ゆらりと顔をあげると、幽鬼のような禍々しい気を腹の底から吐き出すようにこう言った。

「煩い女だ…そんなに他人の命が気になるなら…他人の命が大事だというなら…なら、おまえが今、この場で死ねばいい」

「っ…なんですって…?」

「おまえが、今、この場で、自ら死を選べばいい、そう、言ったんだ。おまえの命と引き換えに、何千何万の命が失われるかもしれない、ああ、その通りだ。それが嫌だというなら、おまえが、今、ここで勝手に死ねばいい。おまえが死ねば、我は、脅迫の手段を失う、クラウゼウィッツもあの国を爆撃する理由がなくなるぞ?全て、丸く収まるというものだ」

「…!!!」

「おまえは人質だ、我が自ら手を下すことはしない、人質を損なったら、我の要求が通らなくなるからな。が、おまえが自ら死を選ぶというなら、それは我の責任ではない、我が手を下す訳ではないのだからな。おまえが、無辜無関係の民の命を犠牲にするに忍びないと思うなら、勝手に死ねばいい。おまえの自死で…おまえ1人の命で、多数の人命が救えるやもしれんぞ」

「…あなたは…」

アンジェリークは絶句した。この人は一体、何を考えているの?

故国の王室を壊滅させたい、何人を巻き添えにしようとも、と、そう語った時、この人の体からは瘴気が立ち上っているかのような禍々しさだった。

それはこの人の抱える恨みつらみの根深さを否応なく感じさせた。

そして、その執念?が拘りが強ければ強いほど、この人は目的を果たしたい、復讐したいと思うはずで、そのためには人質である私の命は、少なくとも、要求が叶うまでは守ろうとするー人質に死なれないよう努めるのが普通じゃないの?

先刻だって、私に少しでも危害が加えられた気配があったら、クラウゼウィッツが取引を反故にするだろうから、何も手を下してない証人にさせるため、エンジュを一緒に止めおくと言っていたくらいだ。それだけ、この青年は、なんとしてもあのおぞましい野望をかなえたいのだと、思っていた。

なのに、何故、今更、自分の野望を根底から覆すようなことを口走るのか?全く言動が矛盾している、一貫していないにも程がある

そういえば…アンジェリークは、今更ながらに思う

アンジェリークは、結局、拘束もされず、さるぐつわもかまされない。これもおかしい、おかしいとか不可解どころじゃない、考えるほどに異常だ。

この部屋のセキュリティは完璧に万全で、どうやっても私が逃げる恐れはない、その余裕ゆえに、私がある程度動けても気にしないのかと思っていたが…そうだ、本来、誘拐犯は人質の逃亡に気をつけるだけでは片手落ちだ、目的の物品との交換が済む、その刻限までは、人質の命、無事を保証せねばならないはずだ

誘拐犯が人質を縛りあげるのは、逃亡を防ぐためだけでなく、絶望から人質が自殺しないよう、自由を奪うという意味合いもあるはずだ、特に営利誘拐の場合、人質を損なったら、望みの物と交換できなくなる、つまり本来の目的である利が得られなくなってしまうから、人質の命は、最優先かつ強制的に、それこそ縛り上げて自由を奪ってでも守るべきー管理すべき物の筈だ。

なのに、この人は、人質である私をー大事な交換物資である筈の私を保全する意思がない、それどころか、掌を返したように…私を誘拐した目的など、脅迫の成就など、どうでもいいかのように、私に自死を迫る?青年の言葉は、まるで私に自殺させたいかのようだ。私が自殺するよう追い込みたいかのようだ。

誘拐犯としてあり得ない行為だわ、だって矛盾してるもの、人質に自殺させるのを良しとするなら誘拐した意味がない、自分の望みがかなわなくなるだけなのに、私が自殺するをの良しとせんばかりのこの言動は一体何?

青年の言の不可解さに、人に自死を迫るその不気味さに、気押されながらもアンジェリークは毅然と応えた。

「…いいえ、私は、何があろうと、自ら死を選ぶことは決してしません」

「ほう?なら、おまえは何千何万の無辜の民の骸の上を踏み越えて、自分1人助かって幸せになろうというのか、大したものだな」

「…そんなことにはならないわ、絶対!オスカーが、そんなことを、良しとする訳がないのだから!」

と強い言葉で反駁する。

もちろん、実際にそんな事態になったら、平常心でいられるわけないし、他者を犠牲にすることで、自分の幸せを追求するのは、間違ってると思う。

けど、オスカーは…どんな方法でかは、わからないけど言われるままに、無辜の民への爆撃なんてする筈ない、そして、私を見殺しにする訳もない、だから、その2者が並立するような手段を、術を、何か考えている筈、それはもう絶対に信じられた。

けれど、青年には、そのアンジェリークの言は根拠のない強がりか、それこそ負け犬の遠吠えとしか受け取られなかった。青年は、アンジェリークを嘲るような笑みを浮かべつつ、こう言った。

「ほう?なら、ヤツは、俺との取引に応じるふりをして、お前にいい顔をしておきながら、実際には、お前を見殺しにするということか?大企業の御曹司殿には、自分の女より、その地位や名誉の方が大事ということになるな。まあ、そうなったとしても、我は驚きはせぬがな。そう考え、判断する方が、むしろ普通だろう、ただの女1人の命より、名誉、地位、後継ぎとしての立場、そういうものの方が大事で価値があると…女など、いくらでも替えが利くが、地位や名誉は、そうはいかんとな…」

そう嘯く青年の顔に底なしの虚無と自嘲を、アンジェリークは見た、ような気がして、うすら寒い気持ちになる、それでも、己を励ますように、なんとか、この一言は言い添える。

「オスカーは、そんな人じゃないわ、きっと、私を救い出してくれる」

他人の犠牲など出さない方法で、必ず、という言葉は心の中でのみ付け加え。

が、青年は同じようなことしか言わぬアンジェリークに興味を失ったのか、それきりそっぽを向くと、黙りこくって、続けざまに酒をあおった。

と、何杯目かの酒を飲み干し深いため息をついた後、青年は、グラスを見つめたまま、こう、ぽつりと言った。

「…そうなればなったで…女、お前は、あの国の命運と引き換えに命を長らえるということになる…ならば、確かに無関係とはいえぬな、だが、無関係でないなら、どうだというのだ」

「…あなたは、○○国の王室を破滅させたい、その臣民は死んでも仕方ない、なんて恐ろしいことを言ってたけど…破滅させなければならないなんて、どうして思うの?人が死んでもいい、なんて、めったなことで願うことじゃない、なのに、そんな願いを抱くようになったからには、何か、理由があるでしょう?なのに、さっきは、一転して、私が死ぬなら死んでもいいなんて、投げやりに思えることを言ってた…もしかしてだけど、あなたは、大事な物を失くしたって言ってた…そのことが関係してるの…?」

すると、ほんの一瞬だったが、痛みにこらえるように、青年が目を眇めた。

「…お前には関係ない」

「関係ならあるわ、さっきも言った通りに。私の命は…身柄は、何と引き換えにされるのか…私の今後の人生が、無数の人の命と引き換えられるなら、もしくは、48時間後にあなたに殺されるのかもしれないというのなら…その、どちらになるにせよ、あまりに重い運命を背負わされるなら、その理由を知りたいと思うのは、当然のことじゃないの!」

「ふん…道理といえば道理だが…おまえが死ぬにせよ、解放されるにせよ、知ってどうする?知ったからといって、どうなるものでもあるまい」

アンジェリークは考える。

オスカーが私を必ず助け出してくれる。いつになるかはわからないけど、近いうちに絶対に。

今後、別の犠牲者が出ないように、というのが、青年の動機を知りたいと思った第一義だが、救助が来るまでに、この人が自棄になったりしないように、また、悪戯にエンジュを痛めつけようなんて気を起こさないように、何か、別のことに気持をそらしておいた方がいいような気が、アンジェリークはするのだ。

この人の精神はどこか危うい、均衡を欠いている、そんな気がする。私を誘い出し誘拐してオスカーに恐ろしい要求を突き付けた位だから、冷徹で計画的なのかと思えば、人質の私が自殺しないよう拘束するわけでもなく、むしろ、自棄のように思いつきのようなことを口走る。この計画そのものが、どことなく、詰めが甘いというか、綿密さに欠ける気もする、それが、この青年の心がもろく、弱く、幼い故だとしたら…心の弱い人や子供ー精神的に未成熟な人ほど、追い詰められたり、後がないと思うと、とんでもない無茶をすることがあるから…オスカーの助けがくるまで、この人の気持ちを落ち着かせておいた方がいいんじゃないかしら。

そのためにも、この人に話をしてもらおう、この人の話を聞いてみよう、何故、あんな恐ろしいことを願うようになったのか。人に話すだけでも…心にためた物を吐き出す事で、落ち着いたり、気が楽になったりすることがある、おちついたら、もしかしたら、あんな恐ろしいことをするまでもないって思い返してくれるかもしれないし…

「よかったら、話してみてくれませんか?あなたの大事な人のこと、どうして…あなたの前から消えうせてしまったのかを…そして、どうして、あなたが、あんな恐ろしい計画を思いつめるまでになったのかを…」

「おまえの運命は48時間以内に決する。何も知らずに死なせてもいいんだ…」

と、ここで青年は、もったいぶった様子で、アンジェリークを思わせぶりに見やった。

「が、おまえの男からの回答待ちの間…その無聊を紛らわせたいというなら、いいだろう。聴きたいことがあれば聞くがいい、我が応えるとは限らんがな」

その時、アンジェリークは、直感的に感じた。

この人は、本当は、何か訴えたがっているんじゃないだろうか、水を向けられるのを待っていたんじゃないだろうか、そんな気がする、何か聴いてほしい話しがあって…けど、責めたり、なじったりせず、もしかしたら、同情も、共感も、激励とかも交えずに、ただ、単純に聞いて欲しいと思うことがらが、あるのではないかしら。

そう考えたアンジェリークは

「あなたが、何故、故国の壊滅を願うようになったのか、よければ、教えてください」

と静かに言った。

 

囚われの身だとというのに…その身は華奢で『かよわい』という言葉がにあう外見なのに、その少女は弱弱しさを感じさせなかった。

怯えも慄いてもいない。今も、面差しは凜然、その表情からうかがえる精神は凛冽という言葉がふさわしく、一方で、その眼差しは、どこか暖かく優しい。それは慈しみと労りのぬくもりだったが、青年は、そのような感情を己が身の内にもたないので、少女の心情は理解できず、少女の瞳が、なぜか、どこか温かみがある、という漠然としたとらえ方しかできなかった。それでも、青年は、少女が彼が持ちあわせてもいない何かを持っていることは、なんとなく察した。

何が、この少女を、このように心強くあらしめているのか。この少女は何を持っているのか。何がこの少女を支えているのか…

それは『愛』と『信頼』だということを、青年は、絶対認めたくはなかった。それを認めたら「負けだ」という気がした。

その一方で、憧憬にも羨望にも似た、まぶしいものでも見るかのような気持ちが、青年の中に芽生えていた。少女の瞳や様子は、何故か、どこか懐かしく慕わしい物を、青年に感じさせもした。

何故、この女は、こうも凛々しく、迷いなく、自分の男への愛を、信頼を口にできるのか。少女の態度は決然として揺るぎないが、それは、それだけこの女のあの男への愛と信頼が強固だからか。愛と信頼の強さ故、この女の言動は、こうも確固として、ぶれないのか。

この女なら…彼女と同じような境遇下におかれたら、どう感じ、どう考え、どう行動するのか。また、彼女のとった決断をどう考えるのか。

確かめたい、聞いてみたい、そんな気持ちが青年の内に生じ、その思いが、頑なだった青年の唇をほどいた。

そして、気付いたら彼は、ぽつりぽつりと身の上を語り始めていた。

己の父は長兄だったのに弟である叔父に王位を譲ってしまったこと。故に長兄の長男であるにも関わらず、自分は王位という当然の権利から遠ざけられた不遇の身であったこと、などだ。

そんな中、自分の不遇を理解し同情し慰めてくれるのは離宮仕えの小間使いの少女だけだったこと。ある日、その少女に、己の住まう離宮から本宮への異動が命じられ、自分は唯一の理解者を奪われることに怒り慄き、阻止しようとしたら…その少女が死んでしまったーそれも自らーことを。

話が佳境に入るに連れ、青年は感情が激してきたのか、言葉を吐き捨てるような、投げつけるような口調になってきた

「叔父貴が我から何もかも奪った。王位を奪っただけじゃない、我を国から厄介払いする気だったのだろう、「王族の義務だ」といって下々の仕事をさせたり「外交で役にたて」とか、訳のわからんことを抜かして、どこかの国の顔も知らない女との縁談を持ちかけてきたりしたこともあった。当然、我は断った、我を国から追い出そうとしても、その手に乗るものか、と。すると、王は、叔父貴は次に、我からあいつを奪おうとした。あいつを本宮仕えにと召しあげようとしたんだ。叔父貴は俺から何もかも奪ったくせに、あいつまで俺から取り上げようとした、我はあいつに行くなといった…我には、あいつしかいなかった。王位を弟に譲っちまうような腰ぬけのオヤジ、王兄の妻という地位に満足して楽して贅沢することしか頭にないお袋、ろくでもない身内しかいない我の周りで、唯一、親身になって我の話を聞いてくれたのは、あいつだけだった。なのに、なぜ、わざわざあいつを王宮仕えの女官にしなくちゃならないんだ、これは、叔父貴の我への嫌がらせだ、そうにきまってる。それに王宮付きになれば、女官は、王のお手つきになることがある、そういう暗黙の了解がある、だから、我は、おまえはそんな目にあってもいいのか、とあいつに本宮仕えを思いとどまるよう言ったんだ、そうしたら…あいつは、死んでしまった…だから、俺は誓ったのだ、あいつが死んだのは、叔父貴の所為だ、叔父貴が、あいつに配置換えなど命令しなければ、あいつは死なずにすんだ。叔父貴が我からあいつを奪ったんだ。だから、我も、あいつから大事なものを奪ってやる、復讐してやるんだ、王国をめちゃくちゃにして国を焦土と化してやる…もとより、我は王子、しかも我の父は長子だ。我は生まれながらにして王家を継ぐ「正統なる者」だ。なのに国は今、父の弟・叔父貴の物だ。正統なる者ではない者に統治されるなど、今の国体は正しくない、ありえざる状態なのだから、そんなものは消滅させてやる方が理にかなう、そうではないか」

「……」

アンジェリークは懸命にもコメントを差し控えたー彼には否定的な言葉をかけてはいけないという直感故に。

が、心の中では、耳を疑っていた。

彼は己の不遇を嘆いていた、一方的に。そして、唯一の理解者を失った、その悲嘆と心痛故に故国を壊滅させるのだと、そう、聞こえたが…それは、つまるところ私怨だ。私怨で、彼は故国が内戦で荒れ果てようが、その結果、何人の人死にが出てもいいと考えている?これが「正統なる者」の考えること?一国を統治したいと願う人の考えることなの?と。

アンジェリークは、エンジュは、この青年の言葉をどう受け止めているのかしら?と気になった。自分には、青年の言葉は、精神の未熟を思わせる幼稚で自己中心的な物としか思えなかったが、エンジュは、青年のこういう心情を知っていたのか、知っていて加担していたのか?それとも、知らずに加担していたのか、気になったのだ。

しかし、エンジュは顔中、体中で、青年への同情をあらわにしていた。青年を悲劇の主人公と捕えていることがありありと察せられた。

そして、アンジェリークは悟る。そうか、エンジュのような少女にとって、青年は、同情し応援してあげたくなる悲劇の王子なのだと。そういう見方捉え方もあるのだと。

青年の持つ強烈な自負と尊大な信条、その傲慢さは、確かに彼が生まれついての王族だと、アンジェリークにも思わせる。その支配者としての雰囲気が、エンジュを幻惑するのかとも思う。

確かに、支配者・統治者は全体の方針を考え、決定し、指示する。そのリーダーシップは強引さに通じることもあろうし、尊大だと受けとめられることもあろうかとも思う。が、支配される側の者たちを、好きに踏みにじっても構わない、場合によっては仕方ないというこの青年の思想・価値観は余りに険呑で、アンジェリークには肯けるものではない。だって将来、企業のトップに立ったとして、オスカーやオリヴィエが従業員をこんな風に扱う訳がない、ジュリアスやロザリアが爵位を相続したとして、領地をこんな考えで統治するはずがない。

青年の主張は、今のところアンジェリークには肯首しかねるものだが、それでも、これは彼なりの主張であり、話を聞くことで、彼の行動原理、思考の癖を理解できれば、彼のしようとしていることをやめさせる…までは行かずとも考えなおさせる契機位は提示できるかもしれない、そう、考えて、アンジェリークは、黙って彼の言葉に耳を傾け続けた。

 

オスカーはアンジェリーク救出に向けて、己の作業に没頭しながら、つねにアンジェリークの事を考えていた。彼女の精神状態が心配でならなかった。

極度のストレス下で頭を働かすのは難しい、それを覆す最高の方法は何度も繰り返し練習したり、シミュレーションをすることだ。

適切な事前の計画と準備は最悪の行動を防ぐ、は軍隊の標榜する言葉だが、それは一般人が災害に遭遇した時にも多いに有用かつ有効な理念だ。

その理念をもって、オスカーは幼少時から、誘拐の危険を減らすべく護身術を叩きこまれ、同時に、万が一誘拐された時のための備えー冷静に状況を観察し、可能なら犯人や監禁場所などの情報を集め、一方で、犯人を刺激せぬよう振る舞い、救助が来るまでの時間を稼ぐという、システマティックな行動を取れるよう訓練されていた。その目的は危機的状況から必ず生還するー可能な限り五体満足でーそれに尽きる。最優先事項が明確かつ明白なので、その際の行動に迷いやぶれは生じない。

それは、オスカーが、それこそ幼少時から、その類のシミュレートを嫌というほど繰り返し、反射的に対処できるほど訓練されている故だ。生存に不適切な振る舞いを生じさせないために、訓練されてきたのだともいえる。

が、アンジェリークは違う。そういう類の訓練やシミュレーションの経験は皆無の筈だ。危険への備えは、夜道や不審者および不審車に注意するとか、そういうレベルが精々だろう。

無論、オスカーは、自分と恋仲になった時点で、アンジェリークにも誘拐される危険があることを言葉では伝え、注意を喚起したことはある、が、それだけだ。危機的な状況下に適切に振舞う訓練など受けていない彼女が、現実にこの苦難にあって、どれほど冷静でいられるか、恐怖や不安からパニックに陥ったり、その意図はなくとも犯人を下手に刺激したりしないか、それが、オスカーに案じられてならない。

現実に、交渉期限が限られているから急ぐのもあるが、アンジェリークの精神状態、そして身体的危険、どれをとっても余分な時間、無駄な時間は一刻もない。

早く、早くと急いて、できることは全てやる。背後で友人たちもそれぞれに為すべきことに取り組んでいる。その友人たちの支えをひしひしと感じる、心強い。だから、時として叫び出しそうになってしまう焦燥を、ともすると、アンジェリークの安否に胸つぶれ、心が折れそうになる一瞬を、なんとか宥め、やり過ごすことができている。

それでも、オスカーとオリヴィエの作成する素材が一通りそろえばー友人たちの全面協力の元、そして、自身も必死に取り組んでいるので程なく必要な素材は全て出来上がりそうだーされば最後の加工はゼフェルに任せる他なく、その時、手持無沙汰になるのが、今、オスカーは一番怖い。悪い考え、嫌な想像ばかりが頭に浮かび、頭を占められ、冷静な思考・判断ができなくなるのが何より怖い。

彼女は今、どれ程怖い思いをしてるだろう、どれ程不安でいるだろう、ヤツはアンジェリークの身の安全を保証はしたが、それがどこまで本当か、少しでも痛い目や苦しい目にあっていたないだろうか、きつく縛りあげられたりはしていないか、食事は、睡眠はとらせてもらえるのか、と考えだせばきりがない。

けれど、不安や恐れで思考や判断を鈍らせ曇らせてはならない、アンジェリークが頼るのは、アンジェリークを助け出せるのは俺だ、俺しかいないのだから。絶対、俺が助け出す、無事に、傷一つつけることなく。

そう、常に意識して念じることで、オスカーはなんとか冷静さと正しい判断力・思考力を維持していた。

友人の助力が、横からの支えなら、その信念が、オスカーの縦の支えだった。

『待っていてくれ、アンジェリーク、どうか、無事で…』

と、その時、オスカーの携帯にメール着信の合図があった。反射的に開くと、リモージュ氏からのメールだった。

『こっちの手持ちデータを送信すれど、音沙汰なしだったのに、今頃何だ…?』といぶかしみつつも、オスカーは即、メールを開いた。

『君のPCの方に、今回の犯人の来歴ーこの国で彼を預かる事になった経緯を記した資料を送付しておいた、それを見れば、彼の出した要求が理解できるだろう。対処方の参考になればと思う。なお、この資料は、当然、破棄しておいてくれ、消去ではなく、ハードディスクごと叩き壊すという方法で』

リモージュ氏からのメールは素っ気ないほど簡潔だった。

「無茶を言う…」

と、言いながら、オスカーは、ある意味、救われた気分になった。

送られてきた資料は、恐らく俺が差し出したデータへの対価だ、つまりは、俺の出した資料が有用かつ有効だったということだ、同時にリモージュ氏は、俺が、俺たちが独自にアンジェリーク救出の策を練っていることを知っているからこそ、何か役にたつ、と考え、ヤツの来歴という資料を送付してきたのではあるまいか。

いや、そんな裏の目的なぞなくてもいい、俺は今、手持ち無沙汰になる無為に耐えられそうにない、何でもいいから検討する資料があるのは幸いなことだと、オスカーは考えた。

オスカーは、自分の作業を一通り終わらせると、友人たちに、これからリモージュ氏から送られてきた資料を検討するが、何かすることができたら即、声をかけてくれと告げた。

そして、自分のPCのデータを外付けのHDDに移してのち、オスカーはリモージュ氏から送られてきた添付書類を開けた。専用の解凍ソフトは、別便でついていた。

資料には、あの王子の成育歴、および、彼の企てたテロの詳細ないきさつー発生から鎮圧までの時系列に沿った経過と、鎮圧・拘束後の彼の取り調べ調書があった。

彼のテロは王宮を、王宮だけを小火器類での武装のみで急襲するというものだった。そのテロが頓挫し、身柄を確保された後、その国の調査期間は彼の動機を探ろうとしたが、彼は現王への恨みつらみを述べるばかりだったので、資料は「王位から遠ざけられ傍系王子の怨恨」と結論していた。そう、結論するしかなかったのだろう。

その青年の来歴を見渡し、彼の越し方を知った時、オスカーが真っ先に感じたのは『ヤツは、人生が己の思い通りにならないことに癇癪を起して周囲に当たり散らす幼児と同じじゃないのか』ということだった。青年は、その幼児性ゆえ、故国の王室に対しテロを画策したように、オスカーには思えた。

一般的に、テロというのは物理的な戦争ではなく、基本、心理戦だ。物理的な戦闘力で自分の方が劣っていると自覚する弱者もしくは貧者の戦いがテロである、ともいえる。

言いかえれば、敵対者は己より力に勝る者であるがゆえに、テロで、敵を武力により圧倒したり完膚なきまでにたたきのめすのは元々難しい、最初から完勝を諦めていながら仕掛ける戦い、それがテロなのだ。

そして、勝ち目がないとわかっているのにテロリストがテロを仕掛けるのは、敵を恐怖と無力感に襲わせるためだ。それこそがテロの目的ともいえる。そして最も有効に恐怖を感じさせるには「脅威があると、まず、敵に気付かせ」そして「その脅威に対処する力がないと意識させる」の2点が肝要であり、この2つがセットでできた時、テロは最も大きな威力を発揮する。脅威は恐怖を喚起し、対処する力がないという認識は無力感へと変わる、その恐怖と無力感が相互に巧く作用すれば、絶望と無気力が成員を覆い、組織を内部からじわじわと浸食、腐食させていく、さすれば敵は内部から瓦解、自滅させられることもあろう、その確率は低くてもゼロではない、だから、力において劣る組織は敵に打ち勝つ僅かな可能性を求めてテロという戦いを仕掛ける。真っ向勝負で勝つ確率はゼロ、何もせずにいても勝てないのは同じ、けれど、勝てなくても敵にどうしても一矢報いたい、自分たちは屈しないと戦う意思を表明したいと思ったら、その人、もしくは組織はテロに走らざるを得ないのだ。

その意味で、青年の戦いー一介の傍系王子でしかない青年が、王室に挑もうとすれば、必然的に彼はテロリストにならざるを得ない、そこまでは道理に叶っている。

そして、あの王子は「自分たちは脅威である」と敵である現王に気付かせることまではできた、王宮を襲撃することによって。しかし、その襲撃方法は稚拙にして無計画であり、敵に「脅威に対処する術はなし」と思わせるには至らなかった。目的性も周到な計画も欠いた襲撃はあっさり鎮圧され、彼は国王を拉致することも、傷一つ負わすこともできなかった。

これが、王位をねらってのクーデターなのだとしたら、無謀もいいところだと、オスカーは感じた。

例えば、当時の皇太子が父である国王を追放して王位に就いた国が中東に実際に存在する。一王子ではなく皇太子である以上、いつか王位は自ずと転がり込んできたはずなのに、その皇太子はその時まで待てず、現王を放逐するというクーデターに打って出た。皇太子は当時の国情を憂う気持ち、改革を進めたいとする気概にあふれ、無駄に時を費やすのが我慢ならなかったらしい。が、若さと理想と熱意だけでは、守旧派や国王派を抑え込むのは難い、皇太子には国政に関する明確なビジョンとそれを実現するための具体的なアイデア、保守派を説得するための人脈、それらをフルに駆使して、ようやくそのクーデターは成功した。言いかえれば、将来が約束された皇太子でさえ、現王を退けようと企てるなら、緻密な計画、人望と人脈が必要だったのだ。

が、この青年はそういう諸々の下準備や計画がきちんとしていたとは、お世辞にも言い難かったようだ。王宮を小火器で襲撃するだけで、政府の主要機関や報道機関を制圧しようとした気配すらない。

自らの有能、国政に対する明確な展望ー現政権はダメだという批判だけなら誰でもできる、なら、現状の問題に対し自分ならどう手を打つか、という対案を出してこその有能な政治家なのだー改革への情熱、気概、ここからは一切、そういうものが見当たらない。こんな人物に国政を任せるなど、常識があれば不安で仕方なかろう。それでも、この国が酷い為政者や軍部の圧政にあえいでいた、とかいう特殊条件下にあるならともかく…この国の現国王に目立った失策は見受けられない。尚更、何の実績も人望もない若造に王位を譲つべき理由が、誰にも見つけられない、こんな状況で、クーデターを起こすなど…単なる考えなしの馬鹿だ。

だが、なればこそ、あの「爆撃機の要求」も理解できた、と、オスカーは思う。

最初のクーデターにしても、こいつは、元々、王権の奪取など考えてなかったのではないか、単純な破滅願望の持ち主で、どうせ王になれないなら、最後に一花咲かせたい、自分に冷たかった世間に一矢報いて死んでいきたい、そんな気持ちで死に場所を求めての蜂起、だったのかもしれんが…そんな自殺行為に巻き込まれた一般人はいい迷惑だ、無関係の他者、いや、国民は他者じゃないな、その生命や権利を守る替わりに税を納めてもらう協力者、言わば仲間同胞だーそれを巻き込み、踏みにじってもいいとみなしていた時点で、こいつに人の上に立つ、指導する資格はない。ましてや、国民を苦しめる権利ー戦乱に巻き込み、傷つけ、経済活動を麻痺させて困窮させる権利が、こいつのどこにあったというんだ、ふざけるな、ってのが、俺の率直な感想だ。

自分の置かれた状況に十全に満足できる人間など、そう多くはいない、身分、出身地、貧富、美醜、健康状態…など不満な点は人それぞれ様々だろうが、状況や環境が己の意に沿わぬなら、どこがどう変われば自分は幸せになれそうか、そして、不満な点を変えるにはどうすればいいのか、自ら考え、そのための努力すればいい。が、ヤツは自らは何も考えず、何も努力せず、自身を取り巻く環境が悪いと不平をこぼし、ただ壊そうとするだけー自分の思い通りにならぬと、床にひっくり返って泣きわめく子供と一緒ではないか。

そして、事態が自分の思い通りにならないから、腹立ち紛れに何もかもをぶち壊そうとするとは…まさに、おもちゃが思い通りに動かなくなったといって癇癪を起して壊してしまう幼児といっしょだ。

しかも、今回は、その癇癪まで、他人の力頼みときてる。それも、人を卑怯な手段で脅迫して得た他力で勝負しようとしている、とことん人頼みの甘ったれた身勝手な生き方だ。

こんな青年が、国の跡目争いからはずされていたのは、むしろ当然、先代か現国王が炯眼であったにすぎない、とオスカーには思えた。彼には国の指導者であることはイコール国民の下僕となること、自分のことは二の次として、民のためにそれこそ滅私奉公するのが王であると理解できなかったろうし、だからこそ、その可能性を絶たれていたのだろう。

だが、あの青年は、その責が己自身にあるとは考えなかったのだろう。己の未熟さ幼稚さゆえ、王の器でないと判断され、後継者からはずされたなどとは考えず、「故なく不当に本来の権利をはく奪された」と考えた、だからこそ、無謀なクーデター…というより私怨晴らしの争乱を起こしたのだろう。

そして、今、性懲りもなく同じことを繰り返そうとしている。

これも、ヤツがとことん甘やかされスポイルされた悪ガキだからこそ、だと、オスカーには思える。

なにせ、最初のヤツのクーデターに対する王家の対応が、いかにもまずい。

恐らく、ヤツの起こした騒ぎが、テロとしては稚拙な物だったこと、それを容易に制圧できたことで、現王側ー本人か側近の意思かまではわからぬが、欲が生じたのだ。反発分子の処分を単なる王家内部ーいわば身内の不祥事として表ざたにせず内々に処理したくなったのだろう。金融国家は信用が何より大事な財産であり、租税回避地はこの国以外にも多数あり、しかも、諸外国から銀行業務の情報開示を執拗に迫られてるいた当時の国際情勢を鑑み、彼らは、この事件が周知され、スキャンダルとなり、国家事業の信用を落とすことを恐れた。しかし、この危険分子の王子を狭い自国には置いておけない、正式な裁判を開くこともせず、而して、正式な処罰も処分も下さず、かといって金融国家の信用を落としかねない獅子身中の虫を飼う余裕もない。

ということで、扱いかねたヤツの身柄をこの国に預けた。内密に、恐らくは、この国の国籍を持つ預金者情報を開示することと引き換えに。

その結果、ヤツの企んだ悪事は、単なる火の不始末から起きた軽火器庫の火事と爆発、というとで責任者も当事者もはっきりしないまま、対外的にはうやむやに処理され、クーデターそのものがなかったことにされた。

ヤツが何故クーデターを起こしたのか、王宮内で騒ぎを起こしたのか、その詮議もされないままーつまり、ヤツは自分の動機を訴える場も与えられないまま、厄介払いをされたのだ。留学という口実なら、外聞は悪くなかった。

これは…悪ガキの不祥事を、内々に処理して、尻ぬぐいしてしまう、ダメな親のやり方だ、とオスカーは感じた。

悪ガキにも、悪ガキなりに、何故、悪さをしたのか、その理由があり原因がある、それがどんなに甘ったれた理由であってもだ、そして、自分がいかに性根の腐った甘ったれなのかを第3者から思い知らされなければ、悪ガキは何度でも同じ悪さ、過ちを繰り返しかねない。悪いのは自分ではない、周りが悪い、誰かが悪い、と、悪ガキは必ず主張するものだから。

本当に更生させたいのなら、恥をかこうと、嫌な辛い目にあおうと、公の場で、司直などの公正な第3者によって己のしでかした行為を客観的に評価され、裁かれた方がいいのだ。「今回だけ」といって大目にみたり、うやむやにしたり、親が後始末やしりぬぐいをするのは、悪さを助長するだけだ。

その結果がこれだ…ヤツは密かにエンジュという手駒を囲い用いてアンジェリークを誘拐監禁し、アルテマツーレから武力を引き出すべく俺を脅迫してきた…全ては、やつを周囲がよってたかって甘やかしきてきた結果としか、オスカーには思えなかった。

だが、クーデターの経緯がうやむやにされ、ヤツの証言では現王への恨みということしかなく、結局、この資料でも、ヤツが最初のクーデターを起こした理由・原因は今一つ、はっきりしない、という印象をオスカーは受けた。

ただ、青年の来歴には、オスカーが知らなかった事実もあった。青年がクーデターを起こす少し前に、青年には、王族の義務として縁談が持ち上がっていたらしいことだ。実務で役に立たないなら、せめて、外交で役にたてということだったのだろう、腐っても王族は王族だからな、とオスカーは解釈した。その話も、当然、今はなかったことになっている、表向きの理由は未だ遊学中の身の上だから、ということだ。

逆に、オリヴィエが王室内の醜聞として集めてきた、ヤツ付きのメイドが自殺した、という情報の記載はなかった。

オスカーには、その2点が、青年の起こした争乱の原因に繋がっているとは、この時は、まったく、わからなかった。

確かに彼がクーデターを企てた原因は「逆恨み」「私怨」によるものだったが、実情は少々異なっていた、少なくとも青年の主観では。

同じころ、その辺りの事情を、アンジェリークは知らされていた。青年自身のかなり一方的な見方からの言葉によって。

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