Before it's too be late 42

人は、胸中に抱え込んだものを、吐き出したくなる時がある。

重荷をおろしたくなる時がある。

弱音を吐きたくなる、抱えていた秘密を語りたくなる時がある。

青年は、不思議に思う。

今まで、誰かに、自分のこと、そして彼女のことを話そうと思ったことなどなかった。王宮襲撃に失敗した後、厳しい取り調べを受けた時も、逆に懐柔するような猫撫で声で水を向けられても、何も話そうなどと思わなかった。

なのに、何故、今、話してみたくなったのだろう、何故、この女に、おまえならどうするか、と、聞いてみたくなったのだろう。

こちらの要求は伝え、後は、相手の出方待ちーとりあえず、することのなくなった無聊を紛らわせるためか。

この女が、こんな状況下でも動じたところを見せない、むしろ、こちらを包みこむような大きな力を感じさせる故か。

そして、結果がどうあれ、この女とはこの件が終わったら2度と顔を合わせることはないだろう、という、気易さ故か。

気付いた時には、青年は、これまで自分でははっきり意識していなかった、心の奥底に隠し持っていた、いや、腹の底にあっても自身は見て見ぬふり、実在していても無い振りをしていた感情を、吐き出していた。最初は少しずつぽつりぽつりと。言葉が重ねられていくにつれ、彼の語勢は徐々に激しさを増していく。あたかも、堰に小さな穴が開き、水が漏れでるかのように、1度漏れ出始めた水は、少しづつ、だが確実に量も勢いも増していくように。そして1度勢いづき奔流となってほとばしるようになった言葉は、多分、心の堰に溜まっていた物、全てが放出されるまで止まることはない。

 

その事実ー彼女が死んだ、しかも自死だったーは、彼は酷く打ちのめした。重く、したたかに殴打されたかのような心持がした。その衝撃が余りに大きかったので、他の感情が入り込む余裕がなかったのか、心はマヒしたように凍りついた。次いで虚脱が訪れた。膝から下に力が入らず体がぐずぐずに崩折れてしまいそうな程の。そして、最初の衝撃が薄れるにつれ、青年の胸中に徐々に湧きあがってきた思いは、酷く混沌としていた。単純に、悲しいとかさびしいと一言でいえる物ではなかった。

何故だ…何故なんだ。

信じられない、実感がない。

もう2度と会えない。声がきけない。話しかけられることも、話かけることもできないなんて…

絶望と喪失感に打ちひしがれたことは嘘ではない。同時に、この現実を否定したい、認めたくないという思い、疑問や不信も渦巻いた。

が、彼女は、もうこの世にはいないのだ、ということがひしひしと胸に迫るにつれ、否応なく認める他なくなるにつれ、彼の胸中には、悲しみでも嘆きでもない、死んだ彼女への哀れみでもない感情が湧き出してきた。怒りという感情が。

そう、彼は怒った。彼女の死を悲しみ嘆き、喪失感に打ちひしがれるよりも強く、怒ったのだ。

こんな急に…俺をおいて…俺を1人にして…最後の言葉さえ残さず…勝手にいなくなってしまうなんて…酷い、酷過ぎる、あんまりだ…

何故、俺を置いていった…俺を捨てていった…俺が…残された俺が何を思うか、どう感じるのか、おまえは全く考えてもくれなかったのか。おまえがいなくなってしまえば、俺は1人だ、また1人になってしまう、それが、わからなかった筈はないだろうに…

それでもお前は死んだ。死ぬことで、お前は何を目した?死ぬ目的は何だったんだ…死によってしか解決しないと思いつめた問題は、一体、なんだったんだ?

現王の命令と俺の願いとの間で板ばさみになったからか?俺の立場を守ろうとして、自分さえ消えれば万事解決だと考えたのか?

だとしても…だとしてもだ。

俺の立場は、側仕えのメイドにその命で贖ってもらわねばならぬ程脆弱なものか?

おまえが死んで…俺が何か助かるとか、得になることでもあるというなら、おまえの自決は俺を思ってくれてのことだと、無理にでも思うことができたかもしれない、が、おまえは誰かの人質でもなければ、俺の秘密や弱みを握っていたわけでもない、その時、俺が命の危機にさらされて、思わず己が身を呈したり、助けに入ったわけでもない。

死ぬことで、結局、おまえは何をしたかったんだ?何かを守ろうとしたのか?守ろうとしたものは何だ?俺か?それとも、自分か?死によって、何かから逃れようとしたのか?逆に何かを得ようとしたのか?…わからない、俺には、わからない。

だが、俺にもわかることはある、死は究極の逃避、ということだ。どんな悩みも苦痛も困難も…死んでしまえば雲散霧消する。

けど、その前におまえは誰かに…いや、この俺に何も相談しなかった、助けを求めなかった。悩みを解決する方策は他にないと1人決めして、勝手に死んでしまった。

つまり、俺は、それほどに頼みにならぬ、あてにもならぬ存在だったということか…

そうだ、お前が死を選んだのは…所詮、俺を頼みとしていなかったから、信頼していなかったから、どうせ何もしてくれない、助けてなどくれない、と、俺を見縊っていたから、そういうことではないのか?

俺ではお前を助けられない、お前は俺を信頼も信用もしていない、だから、何も言わず1人で死ぬしかないと思いつめ、おまえが自死を選んだのなら…

おまえは、俺に『あなたは無力無能だ』と突きつけ、『あなたは私を助けてはくれない』と思い知らせ、責め詰り、糾弾したかったのだとしか思えない。

おまえは残される俺のことなど何も考えてはくれず、俺の悲嘆など想像もしなかったのだから。

俺を置いて死ぬというのは、結局、そういうことだろう?

死んだおまえの唇は、何も告げない、だが、お前の死は、俺を責め、俺の無能無策を詰っているとしか思えない。

俺にこの苦痛を悲嘆を味わせることで、何かの意趣返しをしたかったのか、とさえ思ってしまう。

いっそ…どうせ、死ぬなら、おまえが誰かに殺されてくれていたのならよかったのに。

さすれば、俺はその仇を恨み憎めたのに。

なのに、お前は自死した、では俺は誰を恨み、憎めばいい?おまえをこの世にいなくしたのは、お前自身だ、なら、俺はおまえを恨めばいいのか?…そんなこと、できない、できるわけない…

なら、悪いのは誰だ?この俺か?俺が悪かったのか?おまえが信じてくれなかったのは、俺が頼りないからか?俺がダメな男だった、これは罰か?もとより、俺の世話に、この離宮にこなければ、お前は死なずにすんだというのなら…悪いのはやはり俺か…?悪いのは俺なのか?俺は、彼女が死んだと聞いて、殺されていればよかったのに、なんて、ちらとでも考えてしまうようなどうしようもない人間で、俺がこんなだから、彼女は死を選ばざるを得なかったのか?

そう、囁く己の中の声を、彼は聞きたくなかった。彼女が、自分を信頼してくれなかったことを認めたくなかった。自分がだらしないから、彼女は死んでしまったのかもしれない、そんな考えがふときざす瞬間が恐ろしくてたまらなかった。

彼はそれまでも1人だったが、彼女という話の聞き手が消えてしまったことで、もっと1人になってしまった。聞き手のいなくなった1人は、聞き手を見いだす前の1人より、タチが悪く、辛く、耐えがたく思えた。

彼が、彼女の死を嘆き悲しんだのは本当だ。一方で、彼は彼女を詰っていた、非難していた。1人置いて行かれた自分を哀れみ、自分を置いていった彼女を恨んだ、どうしても許せない、そういう気持ちがあった。

1人勝手に、俺を見限って死んでしまうなんて、酷い、酷過ぎる、あんまりだ…と。どうして、こんなに俺を苦しめるんだ、そんなに俺が憎かったのか、と。

だが、その声を認めてしまったら、彼女は自分を信頼していなかったことも認めねばならない。自分が、ちっぽけで、頼りにならないーメイドにすら頼りにされないろくでなしだと認めねばならず、自分がろくでなしだから、彼女は死を選んだのだと認めねばならない。

当然、彼にはそんなことはできなかった。ただ1人の理解者、聞き手を失っただけでも痛恨なのに、それは、つまるところ、自分の所為だとー自分の無為無能に責任があったのかと思わされるのは、もっと辛く嫌だった。だが、彼の内部に怒りは厳然と存在する以上、このやり場のない怒り、―本来なら自分と彼女に向かう怒りを、どこかに矛先を向けてやらねばならなかった、はけ口をなんとしてでも見いださねばならなかった。

そして、怒り以上に彼を苛んだものがあった、恐怖だった。もしかしたら、彼女は…俺にうんざりしていたのかもしれない、王の命令を無視して自分の処にとどまれと我儘を言う自分を厭うて、何もかも面倒になって、嫌になって死を選んだのかもしれない、もし、そうなら、我儘を言った俺を恨んでいるかもしれない、憎んでいるかもしれない、という恐ろしい憶測が、時折頭をもたげて、彼を苦しめた。根拠があったわけではない、が、彼は、それが恐ろしくてならなかった。この恐怖から逃れたく、忘れたくてたまらない。そのためには、彼女の死を、是が非でも、自分でも彼女自身でもない「何か」「誰か」の所為にする必要があった。

そうだ、悪いのは俺ではない、おまえでもない、俺でもお前でもない誰かが悪いんだ…ならば…そう、悪いのは、あいつだ、俺の不幸の元凶だと、彼は怒りと恐怖の対象をすり替えた、彼の叔父である、現国王に。国王が、俺からあいつを奪うため、本宮勤めに配置換えさせようとした、だから、あいつは死ななくてはならなくなったのだ、と。その少女が彼の世話係になったのも配属で決められた故であり、彼が彼女を見いだし引き立てた訳ではなかったし、宮仕えの常として、異動・配置換えはいつあっても不思議ではないのだがーそのことは、彼は、無視した。悪いのは、異動命令を出した者、つまり現王だと、彼は決めつけた。

彼は現王に常にうらみがましい気持ちを抱いていたからー生来の彼の権利を奪った上、無理やり働かせようとしたり、王族の義務を説く煙たい存在だったー彼を仮想敵とするのは、とても容易だった。

そして、逆恨みした。王にひと泡吹かせるため、王権を転覆し、自分が支配者となってやろうと、最初は思った。自分が支配者であったら、彼女も俺を信頼してくれたはずだと考えた。自分が支配者であったなら、彼女を異動などさせなかったし、そんな命令がどこかから出ても覆せた筈だ、権力とはそういうものだ、俺には権力がなかったから命令には逆らえない、配置替えを命じられた彼女に直接「行くな」と言うのが精々だった…だから、支配者になれば何かを取り返せるような気がした、何かをリセットできる気がした。

けど、それも上手くいかなくて、もう、何もかもがどうでもよくなった。いや、武装蜂起が失敗する前から、心のどこかに、諦念と投げやりな気持ちが潜んでいて、だから、最初から、武装蜂起も本気ではなかったのかもしれない、だって、支配者になったとしても、結局、彼女の信頼は取り戻せないー彼女は死んでいるのだから。死者は信じることも頼ることもできないのだから。いや、そも彼女には俺への信頼なんて最初からなかったのだ。だからこそ、彼女は死んだのだし。そして、今更何をしようと死者は決して帰ってこないし、時間は巻き戻せない。あの時、あの時点で自分は信頼されるに足る存在でなければならなかったが、現実にはそうではなくて、事が起きた時にはもう手遅れで…今となっては何をどうしようとー自分が王になったって時間を遡ってやり直すことは不可能でーだから、もう、何もかも、どうでもよくなった。けど、一方で、俺にこんな思いをさせ、俺をこんな目に合わせた、この世界の諸々をそのままにしておくことは、腹にすえかねた。泣き寝入りなどしてたまるか、俺は怒り、傷ついているのだと、どうにかして思い知らせ、意趣返しをしてやりたくて…全てを壊してしまえと思った。

何もかも壊れてしまえばいい、壊れないなら、俺が、この世界そのものを壊してやる、彼女が消えた時点で、世界は終わってしまった、だからもう何もかもどうでもい、滅んでしまえばいいんだ。彼女を失って後、彼は心の奥底でいつもそんな呪詛を唱えていた、そして、その呪詛を彼は心の奥底で唱え続けている、今、この時も。

青年の話は、行きつ戻りつし、繰り言は取りとめのない時もあったが、要約するとこんな処だった。彼は己の感情に自家中毒を起こして吐きもどすかのように言葉を連ね続け、彼の越し方を語った。何処か、たがが外れてしまったかのように饒舌だった。

溜まりに溜まっていた澱のような感情を吐き出したことに痛快さや心地よい清涼さはなかったが、一種の虚脱を伴うすっきりした感覚があるのは否めなかった。それは、自慰行為における射精後の感覚に少し似ていた。

 

 

1度、語り始めた彼の言葉は、濁った奔流のようだった。己の不遇をナルシスティックに語ったかと思うや、露悪的・自嘲的に己に酷いダメ出しをする、自分がダメ男だから、彼女は俺を捨てたのだと憎々しげな顔をするかと思うと、悪いのはやはり自分なのか?と1人問うて、泣きだす寸前の子供のような頼りなさを見せる。

彼が自分は間違っていないと言い張るために、己の立場に同情や憐れみを催させ、自分に共感させねばならない、と考えて、饒舌になっているのだろうか。彼の選択は、起こした行動は、無理もない、仕方ない、それしかやりようがなかったのだと、眼前の少女に認めさせねば負けだ、とでも思っているのかーとにかく、彼は己が出自、己が境遇を、己1人の視点から、一気につぶさにアンジェリークに語り続けた。

が、アンジェリークの印象としては、彼の饒舌は、人に聞かせるため、というより、感情の吐きもどしが止まらなくなったかのようにみえた。彼は、自分では意識していないようだが、アンジェリークには、甘やかされ間違った考えに浸り、甘ったれた泣きごとの中に己を置いて「嘆く自分」に酔い、楽しんでいるようにも見えた。だからこそ、ここまで饒舌なのだと思えた。

というのも、彼の言葉の多くは呪詛と怨嗟、責任転嫁と現実逃避が行きつ戻りつしていたからだ、が、そんな言葉の奔流から、アンジェリークは、それなりに事の真相らしきもの、そして、彼が何故、こんな大それた、恐ろしい計画をたてたのかを理解出来たような気がして…ゆえに、深く嘆息した。

アンジェリークは王子の言葉が途切れた時に、静かに尋ねた。

「王子、あなたは、その女性を愛していたの…?」

「……俺には、あいつしかいなかった…」

「あなたは、自分の気持ちを、その女性に伝えていた?きちんと告げたことはあった?2人で生きていくことを、将来を話しあったことはあった…?」

息を呑む気配があった。返事はなかった。アンジェリークは、再度、より深く嘆息した。

彼は、そのメイドの女性に自分の不遇をぶちまけ、嘆き、甘え、慰められたのだろう、だが、彼は自分から彼女にはっきりと「あなたが必要だ、大切だ、愛しく思っている」と告げたことがあったのだろうか。メイドは王族に仕えて当然、思慕も情愛も捧げられて当然とは思うばかりで、自分からも与える物だと考えたことはあったのだろうか。

人からの誠意も愛も真実も、所詮、己の鏡なのだと言う。自分から愛さなければ、人の愛は得られない、自分から心を開くことなしに、人は心を開かない、自らが誠意をもって当たらねば、己も誠意を持って扱われることはない、とてもシンプルで、でも、容赦のない原則が、そこにある。

人から愛されないのは、人を愛することなく愛を請うだけの、物乞いだからではないのか。

自ら与えることをせず、分け合うことも知らない、与えられても、それを当然と考え、感謝することもお互いさまと思う気持ちもない。

その姿勢が、心構えが己を愛から遠ざけてることも知らず、気付かず、考えようとしない。

誠実さだって同じだ。己が不実だから、誠意を返してもらえない。自身が不実だからこそ、人に誠意を示されても信用できない。裏がある、なにか魂胆がある、と真っ先に思ってしまう。

もとより、自身が世界一不幸だと信じている彼は、他人を顧み、思いやる余裕は全くない。彼は、積極的に人の幸福を踏みにじったり、人の苦痛を自分の満足と感じるほど変態的な嗜好は持ち合わせていないらしい、それは人質である自分への扱いを見てもわかる、とアンジェリークは考える、が、自分のことだけで頭がいっぱい、大事なのは自分だけだから、他人そのものに無関心であり、どうでもいいもの、取るに足らぬものとみなしている。だから、他者に積極的に苦痛を与えることはないが、心の痛みも喜びも罪悪感も後ろめたさもーつまりは感情の揺れを一切に感じずに、彼は誰でも何事でも平常心で無自覚無意識に踏みにじることができる。アスファルトの道を踏みしめても、人は、なにも感じず何も思わぬ、それと同じことだ。そういう感覚で、彼は巻き込まれる人民を考慮せず、クーデターを起こし、今、故国を爆撃させようと画策した…そういうことなのだろう。

アンジェリークは彼の発する言葉からしか、彼の人となりを判断できなかったが、彼の被害者意識と自己中心性は、彼をより不満・不幸のスパイラルに追いやっている気がした。青年が何故、王位継承から遠ざけられたのか、彼は正当な権利を奪われたとしか考えていないようだったが、それにはそれなりの理由があったのだろうと思わざるを得なかった。

アンジェリークは預かり知らぬことであったが、事実、青年は、少年から青年へと長じる頃には、幸福な人種を見ると、自分の正当な取り分、分け前を理由もなく奪われたように感じ、ひがみそねむ心で破裂しそうで苦しくてたまらなくなるようになっていた。だから酒を飲み、一時の憂さ晴らしをせずにはいられなくなった。そんな誤魔化しで、心が満たされるわけはないので、苦しさは募る一方で、人の幸福が己の不幸であると感じるようになるのは、そのほんの半歩先の心情だった。そしてエンジュの中にも確かにそういう暗い心の動きがあって、その意味で、エンジュは惹かれるべくして、銀髪の青年に惹かれたのかもしれない。

猜疑、嫉妬、不満、怒りで己が心を満たし、人をそねみ、ねたみ、自分はなにものも信じぬ、愛さぬのに、周囲には「自分を愛せ」「大事にしろ」と無い物ねだりを繰り返し、けど、当然、求めたものは決して得られぬので、周囲への恨みばかりを募らせていく…己が身を顧みることは決してなく、その点で、エンジュと青年はたしかに似ていて、それゆえに、エンジュはこの青年に親和性を感じたのかしれなかった。

とまれ、青年が、自身はつらい思いをし、初めて得た大切な存在を奪われたー誰に?−と恨み、その恨みを晴らさんとして、最初はクーデターを、今は、故国への爆撃を画策した。彼には彼なりの理があったとしても、無辜の人々を踏みにじっていいはずがないのだが、そんなことも彼はわからなかった、知ろうとしなかった。何を犠牲にしてもーただし、自分以外のー他を踏みにじるための力を欲した。

武力ー力づくによる支配、それは手っ取り早く、わかりやすい方法だ、だが、それはある意味落とし穴のような選択肢なのに。落ちたら2度と明るい場所に戻れない、武力による支配は忠誠も一体感も生み出さない、後に残るのは猜疑と不信と、更なる力に破滅させられるかもしれない恐怖だけなのに。

困難ではあっても、明快な道ー学び、鍛え、努力し、支配者としてふさわしい力を、佇まいを、考え方を身につけるという、地道な努力を重ねる道を選ばず。忠誠も信頼を得るにふさわしい自分になる努力など一切せず。

自分は何も持っていない、本来あるべき正当な権利を与えられていないとひがみ。

そこで、彼はその境遇を打破すべく、権利を手に取り戻すために、何をしたか?酒を飲んでくだを巻き、周囲に当たり散らした、それだけだ。その時点では、彼は戦おうと思わなかったし、人に己が能力や才を認めさせるべく努めることをしなかった。

彼は、己に何も与えようとしない周囲が全て悪いのだと考えた。己が陥った境遇ー陥れられたを拗ね、酒に逃げるばかりで、そこから自力で這い上がろうと努めたことなど絶えてなかった。

努力を厭い、自らの運命を切り開こうと戦う気もない怠惰、我儘で身勝手な物の考え方や振る舞いは、それなりに常識のある人間には自ずとわかる。彼は、己が振る舞いにより、周囲から同情されたり共感される余地すら自ら捨てたのだともいえた。

王家に限らず名家なら、お家騒動、跡目争いなど、付き物であるし、それこそ、何の落ち度も咎なくとも、継承者争いに脱落する王族など古今東西に掃いて捨てるほどいる。それでも、そんな境遇を跳ね返すべく、自ら学び精進して政治能力を磨いたり、周囲に己の能力を認めさせることができれば、自ずと、賛同者・支持者は集まってくる。「彼を後継者に」という声が周辺から上がる場合も少なくない。古来、直系の後継者より有能な傍系の親族がいる場合、それぞれに支持者がつき対立する事例は無数にあり、そこまでこぎつければ、クーデターもそう困難ではなかったかもしれない。真実、政権を得たいと思うなら、彼には、やりようは、できることは、いくらでもあったのだ。

が、それもこれも「彼こそ後継者にふさわしい」という周囲の評価や賛同、後押しあればこそであり、そのためには、彼はそれに相応しい人間性や能力を示すなり、精進し粉骨砕身努力する姿勢なりを示さねばならなかったのに、彼はそういう地味で地道な努力を一切、しようとしなかった。彼がしていたことは、己の境遇を拗ねて、ひがんで、酒に溺れるーしかも血税を費やしてーそれだけだった。

幸せや権利を自らつかみ取ろうと努力することなど考えもしなかった。何も得られないのは「そのための努力を自分でしていない」のだから仕方ない、なんてちらとも考えたことなどなかった。悪いのは全て「何も与えてくれない周囲」だった。そこに、メイドの少女の自死が追い打ちをかけた。彼女は、彼が弱音を吐いても黙ってきいてくれる存在だった、初めて「かわいそうな自分」に同情し、共感してくれた相手に思えた。彼の主観では、彼女は初めての理解者であった。面倒がらずに彼の世話をしてくれ、かといって煩く意見したり窘めたり彼を否定することなしに、彼の言い分を黙って100%聞いてくれた。それまで否定的な扱いばかり受けてきたと感じていた彼が、自分を受容してくれた存在に思い切り依存したのは、無理のないことと言えた。それは、エンジュが「初めて自分を必要としてくれた」と青年のことを過大に評価して、べったりとのしかかるように依存した構図と全く同じだった。

その依存対象が突然に奪われーたと彼は認識したー実際には彼女は自死を選び、自らの意思で、己が境遇や運命から逃げ出した訳だったが時、彼にとって世界は、存在する意味などないもの、否、積極的に「消えてしまえばいい」「滅びてしまえばいい」とみなすもの、踏みにじり殲滅すべき敵となったのだ。

そして彼は、自分を取り巻く周囲を恨み、計画性皆無の戦いを挑んだ挙句、あっさりと破れ、しかも、此度は、自分の力ではなく他人の武力をあてにして、己の逆恨みを晴らそうとしている。捲土重来の武力ですら、誘拐という、自分自身は努力も鍛錬もせずに済む安易な方法で得ようとしている。しかも、爆撃は、故国を滅ぼすことが目的だから、その後のことは何も考えていない。無論、踏みにじられる民のことなど、唐突に理不尽に平穏を奪われる民の悲嘆など眼中にない。自分こそが最も不幸だと思っている彼は、他人も自分と同じように「いきなり幸せを無理やり奪われる苦痛を誰も彼も味わえ、そして俺の苦しみを思い知れ」と、むしろ積極的に考えているのかもしれない。自分がこんなに不幸なのに、一方で、ぬくぬくと幸福を享受している人間がいる、そのこと自体が許しがたいのかもかもしれない。

アンジェリークは、今、更なる壁にぶつかった気持ちだった。私は、この青年が、己のやろうとしていることを、少しでも考えなおして欲しい、できれば、思いとどまって欲しいと思っていたが…これだけ己の不幸に酔い、自分以外の世界の全てを恨んでいる青年に、考え直させることなど、できるだろうか…。

辛さも苦しみも何もかも、自分のうちに閉じ込めて、耐えることはない、話をしてー言語化することで心の外に出して、己の悲しみを外に流しだすだけでもずいぶんと楽になる、心の嘆きを受け止めてあげること、それは、囚われの身でもできる。心は、精神は自由であり、包容する器に限りはないから。そうして、この青年を苦しめている心の痛みを少しでも軽くできれば、彼も、自分のやろうとしている事の恐ろしさに気付いたり、考え直してくれるかもしれない、と思ったが…

アンジェリークは青年の話を聞けば聞くほど、辛くなった。

青年の自暴自棄には、1人の女性の死が関わっていると知ったことで。死は、何をどうしても覆せない、取り返しのつかないことだから。その現実の前に、言葉がどれ程の力を持つのか。

青年は確かに甘ったれで、幼稚で、自己中心的だったかもしれない、けれど、今、眼前の彼の苦悩は本物、真実だ。その苦悩が1人の女性の自死に起因しているのなら…アンジェリークは、その女性は、この青年に本当に惨いことをしたと思わざるを得なかった、部分的にではあっても、青年に同情しそうになった程に。、

『生きていれば、辛いこと、苦しい事もある、誤解や行き違いだってある、でも…それをいとうて、死んでしまったら、我が身と心を殺してしまったら…理解し合える喜び、心を寄り添わせ共感する喜びも失ってしまうのに…』

不慮の事故や病を得るなど、誰にとっても死は避けられないし、予測もつかない。いきなり、理不尽に生を奪われることは、世の中に多々あろう

そして、身近な人の死がもたらす悲嘆は、それが病に依ろうと突然の事故や事件に依る物であろうと、残された者の悲嘆や苦悩にそう大きな違いはない、その死を純粋にーというと語弊があるかもしれないが嘆き悲しめるという一点において。残された者の逝ってしまった人への愛情が損なわれることはないという点において。恨むべき、憎むべきは事故や病や、時によっては犯人ーとにかく、愛する者とは別に存在する、ある意味、遠慮会釈なく、恨みつらみをぶつけられる対象がある故だ。

けど、自死を選ぶことは、決定的に違う

自死の場合は…自分の愛したその人自身が、自分が愛していた人の命を終わらせた仇でもある、という2重の存在になってしまう。その上に、遺された者には「何故、自分を救ってくれなかったのか」という無言の怨嗟が後に置いていかれる。現実に、そんな遺言があったかどうかは問題でない。残された者は、自責の念から、そう感じてしまうのだ、どうしても。この青年と同じに。ゆえに、残された者の気持ちは、引き裂かれてしまう。愛した者を救えなかったという事実を突き付けられ悔悟し、愛する者が最後に自分に残していったのは当てつけか、怨嗟か、どちらにしろ負の感情だったのかもしれないという救い難い現実に苦しみ、また、時には、自分との関わり一切を一方的に断ち切ってしまった相手への怒り、恨みを感じてしまう場合もあろう、そして、そんな感情を抱いた自分への激しい自己嫌悪にさいなまれよう。

だから、自死により遺された者は、その死を純粋に悼むことができなくなる。死んだ者に責められるような気がする方で、死をもたらした存在に恨みごとも言えない、恨みつらみは故人に、延いては故人を救えなかった自分に向かうからだ。そんな苦悩の中、それまで愛していた相手に対し、怒りや恨みの感情がきざす時があれば、そんな自分を許せないと遺された者は、更に苦しむことになる。

自死というのは、これほどに深い傷を残されたものに刻みつけるのだ。

死んでしまえば、これ以上苦しまないで済む、と、自死を選ぶものは思うのだろう。それだけ追い詰められた末の選択なのだから、同情してほしいと思っているかもしれないし、もしかしたら、自分が楽になりたいからではなく、本人の主観としては純粋に「あなたのためを思えば、私はこの世に居ないほうがいい」と考えた末の結論で、自死を選ぶこともあるのかもしれない。

そして、話を聞く限りでは、その女性も彼女自身の主観では、もしかしたら、この青年のためを思って「死を選んだ」のかもしれない。

「自分さえいなければ、王子に迷惑がかからない」「自分がいるから、王子は王に逆らい、仲が険悪になってしまう」イコール「自分は王子の幸せを阻害している、不要どころか有害でさえある存在」と思って、純粋に自己犠牲の気持ちで自死を選んだのかもしれない。自分の存在を消せば、王子が幸せになると思ったのかもしれない。

けど、その考えは…とてつもなく独りよがりで傲慢だと、アンジェリークは思う。

誰にも相談せず、自分だけの考え、判断、価値基準で「死ぬしかない」と思って実行してしまうってことは、「死ぬ」ことがが唯一無二の正解と信じたからこそで、それは同時に他の人に相談したり話あったりしてもどうにもならない、他の解決方法なんてあるわけないと結論したようなもので…自分は知らないけど、何か、良い方法があるかもしれないし、知ってる人がいるかもしれないとは微塵も考えなかったってことだ。自分1人で出した「自死」という結論だけが正解だと、心のどこかで思っていたから、誰にも相談せず助けも求めず別の解決法を模索することもせずー自分は何でも知ってるわけじゃない、世の中には自分の知らないことがたくさんあるし、自分の知らないことを知ってる人もたくさんいるって謙虚な気持ちが少しでもあれば、自分の出した結論が「自死」であっても「他の方法があるかもしれない」と考えることもできたはずだ。死は絶対の不可逆で取り返しがつかないのに…彼女は外に助けを求めず、内に自分1人で出した取り返しのつかない結論だけが唯一無二の正解だとして死んでしまった…

彼に、素直に助けてくれ、どうしていいかわからないと頼っていたら…彼はもしかしたら何でもしてくれたかもしれない、それまでは甘ったれの他力本願の不平屋でしかなかったかもしれないけど、そこで覚醒して自ら動きだしたかもしれないのに…でも、彼女は彼に頼らなかった、頼らないということは見限っていた、信頼に足りなかったと、突きつけたのと同じだ。彼が恐れ悔いている通りに。

その上、残された者が「あなたのために私は死にました」と突きつけられて、救われたり、嬉しく思ったり、感謝する、なんてこと、あるのだろうか?その女性は「俺のために死んでくれてありがとう」と、青年が感じると思ったのだろうか?もし、大事な人が己を犠牲にしたことを喜んだり感謝して、嬉々として野望を追うような人は…私にはろくな人じゃないと思えるし、それこそ、そんな人、死んでまで守る価値がどこにあるっていうの?

無意識に、アンジェリークはつぶやいていた。

「本当に…可哀そうだわ…かわいそうな人だわ、その女性も、あなたも…」

同時に、どうしようもなく愚かだ…いや、愚かだったとも思ったが、アンジェリークはそれは口にはしなかった。今更、言葉にしてもどうにもならない、更に苦悩を深めるだけだとわかっていたので。

だって、自分に置き換えてみればわかる。

私の存在が、オスカーの夢の実現の邪魔になる、と仮定する。でも、オスカーは私を愛していて、私と一緒の人生を選んだら、オスカーは彼の夢をあきらめなくてはならないかもしれない。けど、オスカーは自身の夢のために、私と別れる気もないとする。でも、一方で、私はオスカーに夢を実現してもらいたい、と思ったら…一瞬、確かに「私がいなければ、オスカーは夢を実現できる」と、私は、身を引く誘惑に駆られる可能性はある、それは否定しない。

けど、それで私が死んだとして、オスカーが喜ぶか?死んでしまったものは仕方ないし、ならばいっそ、その死をむだにすまいと気持ちを切り替え、心機一転、夢を追いかけられるか?私の命を踏み台にして、その犠牲を無駄にする方が罪深いとばかりに、より一層の高みを目指そうなんて、考えるか?否、否、絶対、否だ。

私が何らかの理由で先だったとして、辛さを乗り切ろうと努める過程で、気持ちを合理化せんと「おまえの死を無駄にしない」と自身に言い聞かせる場合はあるかもしれない、けど、私が自殺した後「その死をむだにしない」と気持ちを切り替えて夢を追うような人じゃない、オスカーは。

それに、好きな人、大事な人に「おまえの死を無駄にしない」なんて言わせる事自体がむごいーそんな状況に追い込むのは残酷ではないか。しかも、その死が止むに止まれぬものとか、避けられぬ物だったのならまだしも、わざわざ自ら死を選んで、好きな人をそんな辛い状況に追い込むなんて…酷い仕打ちとしか、私には思えない。

私なら、オスカーと話しあって、一緒に考えて、夢も愛も、共につかめる道がないか模索する、努力する。決して自分から諦めたり自棄になったりしない。あがいても、もがいても、遠回りになったとしても、結局、頓挫したとしても、それでも、進める限りは進むだろうし、道を探そうとするだろう。自分から命を投げ出したり、人生を諦めたりはしない、それだけは言い切れる。私の犠牲の上にオスカーの幸せはないし、オスカー犠牲の上に私の幸せもないからだ。

何があっても、生きていてほしい、私のそばにいてくれれば嬉しいけど、そばにいなくても、無事で、生きていてさえくれればいい。

愛する人の無事を願うというのは、突き詰めればこういうことだと、自分は思う、オスカーもきっと同じだ、だから、絶対自死は選ばない、私はもちろん、オスカーも。

でも、その女性は、自分の犠牲の上に、この王子の幸せはあると考えたのか?それは言いかえれば、この青年を「愛する女性を犠牲にして、自らの幸せを追求することを良しとする」種類の人間だとみなしたということではないのか。彼女自身は意識してなかったとしても、つきつめれば、そういうことだ。そして、自分の人生を投げ出した、ううん、自分の人生をこの青年に丸投げしてしまったのだ。思考停止して。幸せになろうとする意思を、権利を、目指すもののために足掻く苦労も、考えたり、工夫する努力もーそれは確かに面倒で、大変だけど、そういう有象無象の全てを何もかも投げ出した、ともいえる。

けど、死ぬ勇気があるなら、そんな思い切りがあるなら、なんだって、できただろうに。

死はいつか必ず訪れる、誰でも、いつかはわからずとも、どうしたって死んでしまうのに、その不可避のゴールを先取りするより他に、できることは、いくらでもあったろうに。

黙っていても、人は必ず死ぬのだから、進んで命を絶ち、周囲の人に悲しみと無力感を味あわせ、罪悪感に苛ませる必要がどこにあろうか。

人が愛する人と一緒にいられる時間がどれくらいあるものか、誰にもわからない。過ぎてしまえば、なんて短い時間だったのかと思うかもしれない、もっと、一緒にいられる時間を大事にすればよかったと思うのは…そんな後悔をしたくない

1度死んだ者は決してよみがえらない、どれ程悲しんでも、愛しても、愛されてもー愛されていたと思っていても…もう、傍にいることも、優しくすることも、怒ることも、許すことも何もできなくなるのだ。傍にいたいという望みも、傍にいてほしいという願いも、もう、叶うことはなくなるのだ。

だからこそ、自分から命を絶ってはいけない、と、この青年の苦しみ様をみていたら尚更に、と、アンジェリークは改めて強く思った。

「愛する者に傍にいてほしい」「愛する者の傍に居たい」と願うのは身勝手なことではない、当然のことだし、それは胸をうつ美しいおもいでもあるのだから。

愛する人と幸せになりたい、共に人生を歩みたい、と思うのも当然のことで、正当な権利でさえある。

正当な権利を持ち、守り、そのための努力を怠らず、同時に人としての義務をわきまえ、行うことが、正しい人の在り様だとアンジェリークは思う。

でも、同時に、幸せのために努力することは楽しいばかりではない、それは事実だ。

もとより、生きていくってことは、楽しいことと苦しいことのつづれ織で…楽しい喜びだけの世界がないように、苦しみだけの世界でもない、言いかえれば、苦しさと喜びは織物の縦糸と横糸で、人生はそれが組み合わさって紡がれてできていて…その割合は人それぞれかもしれないけど、一切の苦しみを切り捨てようとすることは…横糸全てを取り去ろうとするのと同じ、でも縦糸だけでは布でなくなってしまうー布として存在できなくなってしまうーつまり、人生として成り立たない。苦しみや悲しみとか苦労とか、そういうもの一切を取り去ろうとしたら、生きてはいられなくなってしまう…

ああ、それが自死を選ばざるをえなくなってしまう心境なのだろうか。

けど、それは、私には、どうしてたって共感はできない心境だ。彼女の立場に同情はしないでもない、でも、決して共感はしない。同情の余地も…ほんの僅かだ。

だって、死んでしまえば、苦しいことはなくなるだろうけど、同時に愛することも、愛するゆえの喜びも失ってしまう。自分が死んだ場合はもちろんだけど、愛する人に死なれてしまった場合でもだ。

愛する人が自ら死んでしまったら、悲しいし、悔しい、そして、多分、怒りの感情も湧く、そんなことをされて、私が喜ぶとでも思ったのかと、きっと、いいたくなる。けど、死んでしまった人には、もう2度と自分の気持ちは伝えられない、やり直し、取り返しはきかない、思いつめていたことを気付かずに、死を選ばせてしまった悔恨は手遅れで、思い違いをただすこともできず、伝えたい気持ちは行き場もやり場も失って、昇華も消化もされないまま、ずっと溜まってもたれて…やりきれない思いで、残された者は苛まれ続けるのだ。

悲しみに正面から向き合えず、直視もできず、受容することも同化することもできず、己を責め、時に、己を切り捨て見捨てた相手を許せず恨む気持ちがきざしてしまったりすると、更に自分を責め…

好きな人に、大切な人に、こんな苦痛をーしかも、死は不可逆だから、どうあがいても、決して取り返しがつかない、後からできることは何もないのだーそんな苦痛を味あわせることがどうしてできよう。こうして、残される側の苦しみを、悲嘆を、目の前の青年を置いて一人自死してしまった女性は、彼のこの苦しみを想像しなかったのか、できなかったのか。

残される彼の苦しみに考えが及ばぬほど「愛する人のため命をも犠牲にする健気な自分」に陶酔していたのか。

アンジェリークは、直接その女性を知らない、だから、一方的に断じるのは公平ではないとわかっている。

それでも…彼女は自分を犠牲にして満足だったかもしれないが、アンジェリークには、その女性の独善、想像力のなさ、思慮の無さばかりが目についてしまう。

だって、彼女の選んだ自死という結果が誰を幸せにしたのか?彼女の選択、行為が残したもの、もたらされた物で、良くなったことが一つでもあるのか?

その女性の心中では、彼を大事に思う気持ち、残される彼の苦悩を慮る気持ちは、どれ程のものだったのだろう。

彼女は…死者はもう何も語れない、釈明もできない、「死」という行為が残すした結果を、言い繕うことはできない。この青年も、「彼女の自死」という現実を直視すれば、結局のところ、彼女は遺された彼が大して苦悩しない、と考えていたのではないか、彼を「女を犠牲に平気で野望を追求する男」としかみなしていなかったのではないか、もしくは、彼女は、王子は自分を救ってはくれないと見限っていた、だから死ぬしかないと思ったのではないか、何もしてくれないと王子を恨み責めて死んでいったのではないか…遺された者には、そんな憶測が浮かび上がるばかりで、そんなことを思い知らされるばかりなのやもしれない、だからこそ、彼も、こんなにも苦しんいるのではないかと思う。

だって、どんなに苦悩しても、彼女に死を選んだ理由を問いたくても、何をしてほしかったのか、何がしたかったのか、彼女は何も答えてくれない。俺に悪い処があったのか、足りない処があったのか、それを教えてくれと請うたとて、既に何もかもが手遅れだ。俺を許してくれと懇願しても、死者は生者を許すこともできない。死者はその「自死」という不可逆の行為によって生者を責め苛み続ける。

なんというむごい仕打ちだろう…

そして、青年が語るように、彼女が彼を見縊っていた、とか、どうせ何もしてくれない、助けてはくれないと、恨みに思い心中で責めていたのかもしれない、等のネガティブな推測を認めない、認めたくないと思ったら…彼女が死んだ原因を、何か他に求めねばならない、他の何かー何でもいいから仮想敵を作り上げ、それを恨み、敵視し、攻撃するしかあるまい。本来、彼女か、自分自身に向かう攻撃性を良しとしないのであればー現実から逃避しようとするなら、代わりの攻撃対象を、なんとかして、見つけ出すか、創り出さねばならない。さもなくば苦しくて、苦しすぎて生きていけないのだ、きっと

それが多分、この青年が故国で争乱を起こした理由なのだ、そして、今現在、自分が軟禁された原因なのだ。

あの国で内乱ともクーデターともつかぬ争乱があり、母はそのために一時オスカー宅に避難してき、父は邦人保護と事後処理に追われていたが、もし、その首謀者が目の前の彼なら、その国の国体か王室そのものが、彼がどうしても創り出さねばならなかった攻撃対象だったのだ。けど、その攻撃は失敗し、彼はその失敗を武力不足だと思い込もうとして、だから、より強力な武力さえあれば、攻撃対象を殲滅できるし、殲滅でれば、自分は楽になれる、と、思いこみたがっている、もしくは信じているのだ、自覚があるかどうかは別として。

彼は怒りの持って行き場、恨みつらみをぶつける場、彼女が死んだのは○○の所為だ(イコール決して自分の所為ではない)と言い張るために、現王を殺さねば、と思ったのだ、きっと。それはひとえに…仮想敵を叩いていれば、本当の怒りをぶつけたい対象から目をそらせる。されば、自分を見縊り見限り捨てた彼女への怒りを直視せずに彼女との想い出を美化できる。また、自殺というのは、意図せずとも遺された者には「あなたでは私を救えない」と突き付けたも同然である故に、青年は彼女から無為無能とレッテルを張られたようなものだが、自殺の原因を、第3者に責任転嫁できれば、彼は自分のふがいなさ、情けなさを、見つめずに済む。青年が、少女の自殺の原因を他者・他所に無理やりにでも求めたのは、彼の自己防衛本能がきちんと働き機能した当然の帰結だったといえよう。

けど、彼の攻撃対象ー故国と現王は「本物の攻撃対象」ではないから…故郷の国体を攻め滅ぼし、国土を焦土にしても、恐らく彼の攻撃衝動は止むことはないだろう、一時、鎮静化はしても、だ。だってやっつけたのは、所詮「ニセモノ」「代替物」でしかないのだから。彼が本当に許せないのは、彼を置いていってしまった女性であり、その女性を助けられなかった自分自身なのだから。仮想敵である故国を叩きつぶせば、彼は一時、達成感や爽快さを感じるかもしれない、けど、それはまやかしであり誤魔化しだから…根本的な問題の解決ではないから、多分、彼は「仮想敵のでっちあげ」と「その殲滅」をこれからも強迫的に繰りかえすだろう、繰り返さざる得ないだろう。何かを攻撃していないと、現実が、彼に押し寄せ、飲み込んでしまうから。彼女は彼の苦悩を軽んじていた、愛する女を救う度量もないと見くびっていたのではないかという疑い、そして、彼は自分を見捨てた彼女に、怒り、怨んでいるのだという現実を、彼は、受け止め、認めるだけの強さがないから…。

悲しみは真正面から向き合い、受け入れることでしか克服できないのに。1度受け入れねば、許すこともできないのに。その課程は、辛くて痛くて苦しいだろうけど…でも、苦痛を嫌がって誤魔化してやりすごうそうとしていたら、その誤魔化しを無限に繰り返すしかなくなってしまい、そこに心の平穏は決して訪れないのに…

本当なら、彼が自分の苦痛を受容し、消化し、彼女と過去の彼自身を許せるようなるのが一番いいのだ、きっと。

けど、待ってあげる時間が今はない。彼は強大な力を欲し、それを手中にしかけているからだ。事ここに至っては、一人彼の問題にとどまらない。

彼の現実逃避をそのままにしていたら彼の強迫観念は恐らく、無限に連鎖・拡大していく。私1人が今、軟禁されて、終わり、で済むわけない。彼の祖国だけじゃない、その隣国とか、そのまた同盟国とか、どんな理屈をつけてでも、彼は自分が破滅するまで、何かを攻撃し続けるだろう。何の咎も関係もない無辜の民を大勢巻き添えにして。

そんなこと許されない、己の心の弱さゆえ、現実を受け入れられないことは、別に非難されるべきものじゃない、けど、現実を受け入れたくないとあがくが故に、他者の平穏や生命を、生きる権利を踏みにじり、蹂躙してもいいと思うその心根は決して容認されていいものじゃないし、現実に、そんな行為を許してはいけない。

確かに目の前の青年は、苦しくてたまらない、苦しすぎて、どう生きればいいのかわからない、そんな顔をしている。苦しくてたまらないから、他者の痛みを想像することもできず、他者を苦しめても平気ー自身の痛みで心がマヒしているから、何でもできてしまう。だから、どんな非道も卑劣も無体も、平然と行えるのだ。その非道、卑劣な行いが、彼の愚かさ、洞察力や想像力の無さ、自分の心痛、苦しさに根ざしているものだとしても、それら全てを言い訳にして、免罪符にして、他者を傷つけ苦しめてもいい…なんてこと、決してないし、許してはいけない。

ただ…そのためにどうすればいいだろう、話を聞くだけでは、彼は気付いてくれそうにない、彼は本当は、彼自身と彼女に対し怒っているのだと。それを認めたくないから、別の攻撃対象を仕立てあげているのだと。でも、ニセモノを攻撃しても、本当の心の平穏は得られない、彼の苦悩はきっと続き、彼が苦悩する限り、巻き込まれ不幸になる人がこれからも出てしまう…どうにかして、あなたが攻撃しようとしているのはニセモノで、ニセモノを殲滅しても、あなたの心が晴れることはないって、気付かせることができないか…彼を責めず、けど、間違っていることは間違っていると、なんとか気付かせる方法はないものか…どうしよう、どうすればいい…

青年は溜まった感情を吐き出して、一種の虚脱状態に陥ったのか、静かになっていた。黙りこくって何か考え込んでいるようにも見えた。

『オスカー、私…絶対に、決して屈しない、諦めない、この人は可哀そうな人ではあるけど、だからといって、こんな理不尽を決して許してはいけないと思うから…オスカーが助けに来てくれるまで、私、絶対負けないから』

正直、今は、何をどうすればいいか、全く良い方法が思いつかない。

けど、今、この時もオスカーは私を救い出すために全力を尽くしてくれているはず、だから、私は私で、できることをやらなくちゃ、と、アンジェリークはくじけそうな自分を、気持ちを、必死に励まそうと、自分に言い聞かせようとしていた、その時だ。

アンジェリークの携帯電話から朗らかな着信音が流れ、静かな室内に鳴り響いた。室内の3人は、はじかれたように、同時に顔をあげた。

『オスカー先輩?!』

着信音はそのコールがオスカーからのものだと告げていた。

それまで心ここにあらずという風情で呆けていた青年は、どこか戸惑いがちに、携帯電話に手を伸ばし、受信ボタンを押した。

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