青年は、しばらくの間、不思議な物を見るかのようにーそれが何なのか、何の用途に使う物か、何故、けたたましく音を発しているのか、何もかもわからないというような顔をして、テーブル上に置かれた携帯電話を見つめていた。
着信音から、そのコールがオスカーからのものだとー少なくとも、それはオスカーの携帯電話から発信されたコールだとすぐにわかったアンジェリークは、青年が、魂を抜かれたように携帯電話を見つめるばかりで電話を取ろうとしない様子に、やきもきじりじりしていた。自分で電話を取りたくてたまらない、思い切って青年の傍まで行き、さっと手を伸ばして携帯を取ろうか、取ってしまおうか、そう、決意しかけたその時、青年は、のろのろと腕を伸ばし、眼前の携帯電話を手にとると、大儀そうに通話ボタンを押した。
「こちらはオスカー・クラウゼウィッツだ」
「ああ…」
相当執拗なコールの末に、青年は、心ここにあらずというような、やる気のなさげな声で、短く相槌を打った。
オスカーは、青年のその素っ気ない応対をどう受け取ったのか…もったいぶっているか、焦らそうとしていると捕えたか…だとしても、オスカーは口調にいら立ちや焦りはにじませず、落ち着いた冷静な声音で言葉を続けた。浮足立ち、動揺すればするほど、青年に足元を見られる、と警戒した故かもしれなかった。
「良く聞け、おまえの要求を実行する準備は整った、俺がGoサインを出せば爆撃機が発進する」
「ほぅ?」
青年の眉がぴくりと動いた。
「この短時間でよく準備を整えたものだ、この女がそれ程に大切か?」
「無論だ。俺が命じ次第、爆撃機が飛び立つ手筈を整えた。その後、早ければ30分、遅くとも1時間以内には臨時ニュースが流れると思う。時差を考えれば、あの国は今、未明、最も静かで人出人目も少ない無防備な時間帯の筈だ。当直の見張りも疲れや気の緩みが生じる頃合いだろう。奇襲をかけるには最適な刻限と考えた。言いかえれば、この機を逃したら、また、24時間、無為に機を待たねばならなくなる。俺は一刻も早く婚約者を助け出したいんだ、無駄に時間を費やす気ははないし、やるからには確実を期す」
「ふん、最速の機を逃さないよう、死ぬ気で間にあわせた、ということか。本当に必死だな」
青年は鼻であしらい嘲笑を声に含ませて、皮肉気に言葉を続けた。
「確かに、あの国では今、夜明け少し前と言った刻限か…攻撃に適した時間帯まで計算するとは、嫌々脅されてやるにしては周到なことだ」
「ステルスはレーダーは撹乱するものであって、機体が透明になるわけでもなければ背景と同化するわけでもない、しかも爆撃が目的だから、侵入はある程度低空でやらざるを得ん、その条件下で、ギリギリまで目視で発見されぬこと、攻撃前に撃墜されることを避けようと思えば、なるべく人目につかない時間帯を選ぶのは当然のことだ。そして…襲撃するからには、成功させねば意味がない。機を飛び立たせたものの爆撃は失敗し迎撃されましたとか、見つかって攻撃前に逃げ帰ってきました、では話にならんからな」
「…皮肉か?まあいい。我としても、爆撃が成功するに越したことはないからな」
「ただ、周辺各国のTV放送も未明の時刻は放送休止中の処も多い、有事にも、報道に多少の時間差が生じるだろうから、爆撃後、何分で報道番組が始まるかまではわからない。そちらは、今、テレビ・ラジオの類はついているか?つけてないなら、放送が始まり次第、わかるように電源をいれておけ。ニュース報道がされ次第、アンジェリークを解放する、という約束なんだからな。よもやたがえるなよ」
「ふん、準備が整ったというなら、さっさと実行するがよかろう。我が必要なのは結果だ、過程の…経過報告など、どうでもいい。こんな無用の連絡で我を煩わすな」
「俺がこうして前もって連絡しておかなければ、いつ、ニュースが流されるか、見当がつくまい。俺は一刻も早く、アンジェリークを救い出したい、だから、おまえには第一報を確認してもらわねばならない、おまえの気まぐれで、好きな時刻にテレビをつけて確認する、では、悪戯に監禁を長引かされる。そんなことは許さん」
「ああ、承知した、今これからテレビとラジオは電源を入れっぱなしにしておく、いつ、臨時ニュースが流れても、即座に、わかるようにな。ではさっさと出撃命令を出すがいい。俺はその結果報告を楽しみにしているからな」
青年は鬱陶しそうに通話を切る気配を見せた。
「待て!命令を下すのは、俺が、人質の安否を確かめてからだ!アンジェリークが無事かどうか、この電話に出せ!俺と直接話をさせろ!俺に出撃のGoサインを出させたいなら、アンジェリークの無事を俺に確認させろ!さもないと、出撃命令は出さん!」
「図々しいことだ、おまえは己の立場がわかっているのか?何かを我に要求できるとでも?」
「ああ、俺はおまえの交渉者であり取引相手だからな、正当な取引であれば、物資の確認および担保を求めるのは当然・正当な権利だ、俺は空手形を振る気はないし、ましてや、人質の無事も確認できていないのに、大量虐殺者になるのはごめんこうむる。おまえが、俺の婚約者の無事を確認させないというなら、俺は、ここで、交渉を打ち切る。おまえがこの取引を成約させたいのなら、自分の持ち分を…取引材料を交渉相手の俺に確認させろ。契約するからには当然の行いだ」
「嫌だと言ったら?」
「対価を提示できない要求は取引ではない、詐欺行為とみなす。そうとわかれば俺はどんな手段を使ってでも、その場に乗り込み、全力でアンジェリークを奪取する。どんな手段を使っても、だ」
「強硬手段に出れば、おまえの婚約者の命が危険にさらされるかもしれないぞ?」
「おまえが今、俺に彼女の安否を確認させないということは、既に…アンジェリークの身が脅かされている、だから、おまえはアンジェリークを電話に出せないのだと俺は解釈する。この取引は、人質の安全が大前提、必要条件となる。人質の安全をおまえが保証できないなら、この交渉は、この場で決裂だ、その時点で俺が遠慮しためらう理由はもはやなくなる。されば、俺は…アルテマツーレの総力をあげて、おまえを叩きつぶす。おまえの居場所は既に把握している、逃しはせん」
「あのバイク小僧からのご注進が、ようやく御曹司に届いたとみえるな。が、その場に、人質がそのまま留められていると思うのか?」
「はったりは俺には利かん、おまえがアンジェリークを拉致監禁した時点から今まで、建物内から人の移動はない、おまえもアンジェリークも、建物内にいることはわかっている。お前の言う通り、俺はアルテマツーレの御曹司だぜ?配下には不自由せん、そんな俺がおまえのアジトを見張らせてないとでも思ったか。所在地の割れているアジトなぞ、アルテマツーレの力をもってすれば、いつでも占拠は可能なんだ。俺がそれを命じないのは、ひとえに、アンジェリークの安全を慮ってのことだ」
ここまでは言っても大丈夫だ、という線引きを綿密に計算して、オスカーは虚実取り混ぜた強気の交渉で青年を揺さぶった。こういう手合いは、弱気な態度を見せるほど図に乗ると思ってのことだ。一学生であるオスカーに、命令一下で動く配下や兵隊は実際にはいない、それこそハッタリだ。当然、見張りなど立てられない、けれど、アンジェリークの居場所は、装身具から発信されているビーコンでわかっているから「おまえの居場所は把握している」と、いう台詞に限れば事実であり、だからこそ、ハッタリにも真実味や説得力が出る。ヤツのアジトに乗りこむ攻撃力は、現時点では、実際には持ち合わせていないが、ヤツに「もしかしたら?」と警戒させ、つけ上がらせず、こちらを見縊らせないためだった。
「は!できるものなら、やってみるがいい、おまえは、この場所には手は出せない、決してな」
が、青年も、ちょっとやそっとの脅しでは怯まない。これも駆け引きだと、オスカーも、あくまで強気の姿勢は崩さず、交渉を続ける。オスカーは、アンジェリークの安否を確かめたい、というだけでなく、どうしても直接アンジェリークに伝えたい言葉、知っておいてもらいたい事があり、譲歩することは絶対にできなかった。
「だとしてもだ、今、俺にアンジェリークの安全を確認させない限り、俺は決して爆撃機を発進はさせないし、交渉は決裂とみなして、おまえのアジトを包囲、どんな手段を使っても、全力でおまえを叩きつぶす。アンジェリークがもはや無事でないのなら…俺には、もう恐れる物も失う物も何もない、されば、おまえは、自分の望みや計画を叶えるどころではなくなる、そのアジトにこもったまま、志半ばで潰えるがいい。さあ、俺にアンジェリークと話をさせるのか、させないのか!?」
「…ふん、まあいい」
青年は突然、毒気を抜かれたような顔になると、無造作に、アンジェリークに携帯電話を放ってよこした。
「おまえの男がおまえと話をさせろと言っている。おまえの無事が確認できたら…爆撃機を出撃させるそうだ」
抑揚もなく、さも、なんでもない雑談のように淡々と青年がアンジェリークに告げた。
アンジェリークは一瞬、大きく目を見開くと、はじかれたように慌てて携帯電話を耳に押しつけ、愛しい人の名を呼んだ、いや、叫んだ。
「オスカー先輩…オスカー先輩ですか!?」
「!!!…っアンジェリークっ!!」
同じくらいに切羽詰まった声がアンジェリークの名を呼んだ。
「アンジェリーク、無事か?無事なのか?」
「はい、はい、私は大丈夫です、無事です、オスカー先輩、どこもなんともないです、何もされてません、縛られてもいないから、どこも痛くも苦しくもありません」
「っ…よかった…無事で…よかった、アンジェリーク…」
一瞬、オスカーが声を詰まらせる。嗚咽をこらえているような口調で、短く、安堵の言葉を繰り返した。
「けど、あの、先輩、今、王子が…変なことを…信じられないことを言った気がしたんですけど、あの…一体、どういうことなんですか?王子と、どんなお話をなさってたんですか?…まさか…」
と懸念をためらいがちに示すアンジェリークの言葉に、すぐに、オスカーの声が真剣そのものに変わった。
「アンジェリーク、いいか、良く聞いてくれ。これから、何が起ころうとも…君には信じられないようなことが起きるかもしれない、テレビで恐ろしい報道が流れるかもしれないが、どうか、落ち着いて、心を静めて、注意して、ニュースの音声を聞いていてくれ。その内容がどんなものであっても、決して絶望したり自暴自棄になったりしないでほしい、そして、頼む、俺を信じてくれ。何が起ころうと、どんな信じられない事態になろうと…俺を信じてほしい」
「は…はい…はい!オスカー先輩、もちろんです、私はオスカー先輩を信じてます!」
アンジェリークは、正直、オスカーの言っている事が、完全に理解できてはいなかった。けれど、オスカーが何かとても大事なこと、重要なこと、どうしても自分に伝えたい事を言っているのだと、直感的に悟った。
「ありがとう、アンジェリーク。俺は、絶対に君を救い出す、もう少しの辛抱だから…待っていてくれ」
「もう十分だろう」
突然に携帯電話を取り上げられた。
「あ!いやっ!オスカー先輩と、もっと話をさせて!…オスカー…オスカー!」
「クラウゼウイッツ、もう、十分わかっただろう?おまえの女は、こうして我に臆せずくってかかるほどに…はねっかえりと言っていいほどに元気で気丈だ。これで我が約束を守っている…取引に足る相手だということがわかっただろう?さあ、次はお前が約束を実行する番だ」
「よかろう。いいか、テレビでもラジオでもいい、この電話の後は、つけっぱなしにして、ニュースが流れるのを待っていろ。そして、ニュースが流れ次第、アンジェリークを解放しろ、わかったな!」
「報道で、あの国が壊滅したと、知れたらな。おまえは爆撃機を出撃させる、としか我に言っていない。爆撃すると明言をしていない以上、まだ信用するにたらんな。たとえ爆撃したとしても、それが形だけの物ではないという保証はないし、我に確かめる手段はない。出撃はしました、爆弾も落としました、けれど、それは空砲でした、だったら、それこそ話にならん。我を、そんな姑息な手段でだまそうとしても、そうはいかぬからな。我がこの女を解放する条件はあくまで一つ。きっちり実弾で王宮が爆撃されること、そして、王宮が壊滅したと、はっきりと報道されること、だ。良いな?」
「承知した、報道を待っていろ」
そこで電話が切れた。
『オスカー、オスカー、オスカー…』
両手を祈るように組み合わせ、オスカーの名を心のなかで唱えていたアンジェリークの顎が掴まれ、無理やり顔を上げさせられた。
「どんな気分だ、女?おまえの男はおまえ1人の命を助けるために、大量虐殺者になる決意をした…と、我に告げたぞ」
「!!!…う…そ…うそよ!」
「嘘なものか、喜ぶがいいさ、尤も、我は、ヤツの言葉を頭から信じている訳ではない。ヤツは爆撃機の出撃準備を整えた、とは、言ったが爆装に関しては、何トン級の爆弾を落とす等、具体的なことには言及しなかった。丸腰の爆撃機をあの国の上空に飛ばしただけで、おまえを…大事な人質を解放しろと、我をたばかるつもりだったのかもしれん。が、そうはいかん、我はそこまで甘くもお人よしでもないのでな、きっちり王宮が爆撃で壊滅した、という報道が流されるまでは、おまえを解放はしない、と言ってやった。お前の解放は、あくまで、王宮の壊滅と引き換えだ。ヤツが口先だけでなく、小手先で誤魔化すでもなく、おまえのために、真実、大量虐殺者になるのかどうか…そして、その暁には、おまえはどうするのか…楽しみにまたせてもらうとしよう」
青年は、勝ち誇ったような笑みをアンジェリークに投げざま立ちあがり、居間のTVセットの電源をいれ、チャンネルを衛星放送の世界ニュースに合わせた。地域別国別の報道を順次エンドレスで流している報道専門チャンネルだ。
「さぁ、これで、いつ臨時ニュースが放送されるか、楽しみに待つことにしよう」
青年は再びどっかとソファに腰を下ろすと、新たにグラスに継いだ酒を一気にあおった。今夜、初めてみる陽気な楽しそうな飲み方で。
その様をおぞましいものでも見るように眺めていたアンジェリークは、混乱しそうな気持ちと頭をなんとか落ち着かせよう、整理してみようと、オスカーの話をもう1度反芻して考え直そうとしていた。
『王子はああいったけど、オスカーは絶対、そんなことはしない、オスカーは、そんなことをする人じゃない…けど、オスカーは、もう少しで私を助け出す、待っていてくれと言ったわ、そして、俺を信じろ、とも…』
ということは、間もなく、オスカーは私を救い出すために、何らかのアクションを起こすつもり?…その準備をしているということじゃないかしら?
そして、くどい位「俺を信じてくれ」と言っていた。それは、つまり、普段のオスカーなら、しそうにないようなことを、準備計画してるってこと?けど、その様子を見て、私がうろたえたりパニックになったりしないでほしいって、そういうことを、私に伝えたかったんじゃないかしら?
アンジェリークの信じるオスカーは、自分の幸福のために人を踏みにじって良しとする人ではない。信じろ、というのは、オスカーと言う人の、その人となりを、人間性を信じて欲しいということではないのか。
あの王子は、オスカーが大量虐殺者になる決意をしたと言っていたが、オスカーが、本心で、そんな決意をするわけがない、何か、考えがあるのではないか…いや、きっと、そうだ。だから、オスカーは、私に何が起ころうと落ち着いて、絶望したりしないで欲しいと言ったんじゃないの?傍に監禁者がいるから、詳しいことは言えず、けど、精一杯、何か伝えようとしてる、それも大事なことを…そんな気がしたもの。
「私は…私はオスカーを信じます、信じています」
王子に聞かせるともなく、アンジェリークは大きくはなかったが、しっかりと、信念の強さを感じさせる口調で言い切った。
とにかく、何か変化・動きがあるのを待とう、それは、きっとオスカーが私を救い出すための術策であろうから…何が起ころうと、始まろうと、出来る限り落ち着いて、様子を良く見て、よく考えて行動しよう、そう、アンジェリークは心に決めた。
隣に座っているエンジュは、相変わらず、状況がよく呑み込めていないのか、事の深刻さが未だわかっていない、もしくは、わかろうとしていないのか、戸惑ったような顔で、青年とアンジェリークの顔を見比べて黙りこくっているばかりだった。
誰も何もしゃべらない、聞こえてくるのは、TVとラジオからの音声のみ。ラジオからはイージーリスニングが、TVからは、様々な言語が順に流れてくる。各国のニュースが各々10分位づつ、順次放送されているのだろう、青年は、興味のないような顔で、しかし、時折、ちらっとTV画面に目を走らせる。臨時ニュースが始まらないかと待つ気持ち半分、本当にニュースが流れるのか疑う気持ち半分というところか。
青年が、半信半疑でニュース報道を待ち構えているとすれば、アンジェリークは、オスカーの仕掛け?手立て?それが具体的に何かはわからないが、きっと何かが起きる、何か動きがある、と信じて、それが起きる瞬間を待っている。何が起きても、うろたえず、咄嗟でも冷静な判断・行動ができるように、心の準備をしている…つもりだ。エンジュは、そわそわと、青年とアンジェリークの顔を見比べては、声をかけようという素振りを見せては、躊躇い、尻込み、やめているようだった。
音楽もテレビの音声も、全く、場を和ませない。ピリピリとした、嫌な緊張感と不安感が部屋中に充満して、息苦しい。互いの沈黙が肌に突き刺さるようで、痛い。
この緊張感と沈黙に耐えきれなくなったのか、ただ「黙って待つ」ということに辛抱ならなくなったのかーこの3人の中では、エンジュのみが「今、皆は何を待っているのか」その意味を理解していなかったし、重要性もわかっていない。それ故の鈍感さと蛮勇で、エンジュは、おずおずと、青年に声をかけた。
「あの…王子、本国に交渉をなさらなくていいのですか?そろそろ、連絡を取ったほうが…」
「何の話だ?」
「え?あの…王子が王位に就くための、交渉です。王子は本当は「正統なる者」なのに、今、王様じゃないのっておかしいことなんでしょう?だから、ご自身が王様になるために、今の王様をやめさせるために、その…クラウゼウィッツ…さんに力を貸してもらっているのでしょう?なら、そろそろ、その事を連絡しないと…」
「俺の望みは、王国の壊滅であって、王の退位ではない」
「え?だって、あの…国が滅んでしまったら、王子は王様になれないじゃありませんか…爆撃しろって、脅しなんでしょう?今の王様に王位を譲らせる交渉のための方便にきまっている、そうですよね」
エンジュがアンジェリークに救いを求めるように目顔で問うてきた。アンジェリークは思わず
「…そうなら、まだ良かったかもしれないわ…」
と、つい、突き放すように応えてしまった。何時、どのタイミングで、どんなことが起きるかわからない、程なく「何かが起きる」だろうというのも推測にすぎず、この状況下での待ちの体制に、流石のアンジェリークも心の余裕が減じていた。
エンジュは慌てて青年に確かめる。
「ねぇ、そうですよね、王子?」
「我は故国を脅すとも交渉するとも言ったことなぞないぞ、我の望みはただ一つ、王国の壊滅だ」
青年はバカにするような顔でエンジュを一瞥すると、吐き捨てるように言った。
こいつはもうこの舞台ではエキストラ、いてもいなくてもいい存在、お前の出番は本当なら既に終わっているんだ、それをお情けで袖に返さず、そのまま舞台上にとどめてやっているのにー青年は、人質の少女の意見を容れたくないがために、いいなりになったと思われたくないという幼稚な意地のためにだけ、エンジュをこの場に残したことも忘れーいや、なかったことにして、エンジュの存在とその口出しに、あからさまな苛立ちをみせた。
「え…え…だって、そんな、嘘…でしょう?それじゃ…国が滅んだら、王様になれない…なら、なんのためにこんなこと…」
「王?なろうと思ったこともあったさ、なれば、何かが取り戻せるような、埋め合わせができるような気がしたさ、けれど…今更王になったとて、どうする?何も変わらない、何も取り返しはつかない…ならば、王国、王位、そんな物はクソ食らえだ!そもそも、王国なんてものが、王宮なんてものが、王位なんてものがあるから、俺は!見せつけられるだけ見せつけられて、けれど、お前には、それは決して手が届かないと思い知らされるためだけの物なぞがあるから、俺は!王宮もだ、王宮がなければ、あいつが宮仕えすることもなかった、本宮に移されることもなかった。王宮なぞあるから、使用人がいる、そんなものがあるからいけないんだ。全て…王宮も王国も王族も…何もかも、消えてなくなってしまえばいい、清々する」
「あなたって人は…」
青年の露悪的な物言いに、アンジェリークは呆れ絶句する。瞬間、何か事が起きるのを待機している状態だということを忘れた。
この人も、オスカーも、出自は俗にいう「セレブリティ」で、恵まれた環境で生育された富裕層なのに…どうして、ここまで違うのだろう、人間性に天と地程の差異が生じてしまうのは…どこで道を違えてしまうと、こうなるのだろう。
オスカーは私に言ってくれたことがある
この世に戦争も人殺しも争いごともなくならない、なくせない
なら、自分はせめて無辜の人が言われなく傷つき殺されるような事態を防ぎたい、一つでも多く減らしたい
そのためにこの仕事をー武器商の経営者たる道をー敢えて選ぶのだ、と。
その一方で、人殺しも争いごとも、どうせ、なくならない、だから、自分だって、それに乗じて何をしてもいいのだ、と考える人もいる。
世界が自分に冷淡だ、世間は自分に惨かったと感じてきた、だから、自分も見知らぬ他者を傷つけても踏みつけてもいい、自分は不幸で不遇で辛い目にあってきたのだから、他者を酷い目にあわせてもいい、否、その権利が自分にはあると思いこむ人もいるのだ、この人のように。
自ら、境遇を変えようとする努力は何もしようとせず、ただ嘆く…を通り越して、自分は不幸だと思っていて、その不幸は全て、自分以外の何ものかの所為ー環境とか周囲の人の対応とかーだと思い怒っている、だから、周囲の何気ない言動にも過剰反応したり、自分から攻撃を仕掛けたり、当たり散らしたり…それで、ますます孤立を深めてきたんだろう。自分の置かれている境遇をどうにかしようと力を尽くして戦おうとするのではなく、何の敵意も悪意もない周囲に攻撃性をむき出しにする、これって…そうだわ、エンジュの振る舞いに似ている。この王子も、エンジュも、いつも戦う相手を、対象を間違えてきたんだわ、きっと。戦う相手を間違えているから、自分の状況は一向に好転せず、むしろ、対人関係や周囲の状況は悪くなっていく一方で、ますます、不幸の度合いも深まっていくばかりだったんだろう…。
本来なら、戦うこと…困難に立ち向かうこと、承服しがたい状況を克服せんと努めること、それ自体は悪い事じゃない、十全の幸福な環境にずっと生きていける人など、めったにいないのだから。程度の差こそあれ何かしらの問題とか困難とかを抱えていない人なんていないから、それを、どうにかしようと尽力することはーあがいても、もがいても、自分の幸福は何かを見つめ、そのために努力することは正しいことだと、私は思う。オスカーの生き方を見ていれば、それは、とてもよくわかる。
でも、他者を攻撃することは、自分の幸せのために努力するってこととは違うと思う…他者を攻撃したり、他者を不幸にすると…もしかしたら、その行為は一時の慰めをもたらすのかもしれない、爽快感すらあるのかもしれない、けど、それで自分が幸福になれるわけじゃない、自分の境遇や問題が解決するわけじゃない。それは全く別物なのに、エンジュも、恐らく、この王子も、同じことをー拗ねてひがんでねたんで、他者への攻撃を繰り返し続けてたのだろう。そして何度も何度も、そういう間違った振る舞いを繰り返してきたからこそ「誰からも必要とされない、されたことがない」人になってしまったんだろう
私は、エンジュの振る舞いが不思議でならなかった。自分を不幸に追い込むばかり、苦しくなるばかりの振る舞いをどうして執拗に繰り返すんだろうって。
けど…不幸ゆえに周囲を攻撃することで得られるある種の爽快感があるのなら…理解できないこともない。けれど、それは一瞬の、しかも、まやかしの爽快さで、その場限りの誤魔化しでしかないからこそ、そういう人は同じ振る舞いをー無意味な攻撃を繰り返す、繰り返さざるをえないんだわ。それこそ麻薬みたいに。根本的な解決にはならず、長い目で見れば、自分に悪い結果しかもたらさないと理性ではわかっていても、爽快感が一時でもあるのなら…それにすがるしかないのかもしれない。
自らの問題や困難を直視し、真っ向から取り組み、克服しようとするのは、多分、苦しくて辛いことだから。それより、一時、逃避したり問題を忘れて棚上げにするほうが、楽だから、なおさら、目先の、一瞬の「ああ、すっとした」という感覚に満たされた気になってしまうのかもしれない。
けど、それは、目の前の苦労や困難を忘れるため、麻薬におぼれるのを同じだ。いや、もっとタチが悪い、この青年は、無関係の人々を巻き込み、不幸にしようとしているのだから。そんなことをしても、あなた自身は幸福になれない、満たされもしない、だから、また、無限に、同じようなことを繰り返してしまうかもしれない、というのに…
あまりに自分勝手な、そして蒙昧な青年の言い草に、アンジェリークが驚き呆れ、エンジュはエンジュで、青年の目論見が自分の考えていたものとは異なることに漸く気付いて呆然としている、その時だった。
つけっぱなしになっていたテレビから、チャイムのような、人の注意を喚起する音が流れ、その直後に女性の声で、こんなアナウンスが流れた
「番組の途中ですが、臨時ニュースをお伝えします」
アンジェリークと青年は、期せずして、同時にばっと顔をテレビの方に向けた。画面にはアナウンサーの顔はなく、一面のがれきの山が映されていた。がれきの山の大きさ高さはまちまちで、あちこちで煙がくすぶっている。完膚なきまでに、めちゃくちゃに破壊された市街地のように見てとれた。それも未だ火の手が収まりきっていないようだ。背景は全体的に暗い。と言っても、ぬばたまの闇という程の暗さでない。目を凝らせば、建築物のなれの果てであろう、がれきの山の輪郭が目視確認出来るほどには、ほんのりうっすらと明るい。深夜というよりは、暮れて間もなくの夜か、未明か、のどちらかの刻限であろうと思われた。
アンジェリークが凄まじい破壊の跡を映しだす画面に目を奪われていると、落ち着いた女性の声が続いた。
「ただいま緊急の外電が入って参りました、欧州中央部に位置する○○国が、現地時刻未明、正体及び所属不明の航空機により、突如、爆撃を受けた、とのことです。爆撃は王宮を目標に行われており、王宮は外観をとどめないほどに破壊された模様です。現在のところ、被害の規模、及び、死傷者数はわかっていませんが、爆撃の中心目標だったと思しき王宮内に生存者のいる可能性は極めて低いものと思われます、なお、市街地にも多大な被害が及んでいる模様です。繰り返し、臨時ニュースをお送りします…」
と、ほぼ同時にラジオの音楽が途切れ、こちらからは男性のアナウンスが始まった。
「番組をお楽しみの聴視者の皆さまには申し訳ありませんが、番組内容を変更しまして、臨時ニュースを申し上げます。本日未明、○○国が王宮を中心に正体不明・所属不明の航空機により空爆を受けた、とのことです。○○国は、欧州中央部に位置し、君主制をひく都市国家ですが、外交に目立った問題はなく、また国内での宗教・民族対立問題なども見受けられず、テロ組織からの犯行声明も、現在の処、皆無であるため、何者が何の目的で王宮を爆撃したのか、一切の詳細はわかっておりません。爆撃を受けた王宮を中心に都市部の被害は甚大で、死傷者も多数出ている模様です」
3人が3人とも、押し黙った。
直後、青年は狂ったように笑いだした。
「ふ…は、はは…やった、やりやがった、やっちまった…ははっ…」
一方、アンジェリークは蒼白になって、崩れ落ちるようにソファにへたり込んだ。
「嘘…嘘よ、オスカーが、こんなことするわけがない、命じる訳がないわ…」
「嘘ではない、間違いではない証拠にに…そら、テレビもラジオも国際ニュースは、これ一色ではないか」
青年が、狂気じみたぎらついた瞳で、テレビをザッピングしてみせた。TV画面が、ぱっぱっと目まぐるしく変わっていく、放送言語も英語・独語・仏語と多岐にわたっていたが、画面は、角度ー上空から俯瞰した構図や、地上からの目線のものかという違いや、画面そのものの明度・彩度は異なれど、一様に硝煙がくすぶる様も生々しいー焼け焦げた匂いが画面から漂ってくるようながれきの山、廃墟と化した市街地の様子を映しだしていた。TVのチャンネルを一巡させると、青年はアンジェリークに向かって勝ち誇るようにTV画面を指差した。
「ふ…は…ははは、やった…やってやった…やってくれた!どうだ?見てみろ?この完膚なきまでに破壊された町並みを!動く物が何一つ見えないがれきの山を!どのテレビ局も、さっきから同じようなことを繰り返すばかりだが、無理もない、あの国を叩きのめしたのは誰か、その正体も目的もわからない、わかる筈がないのだからな。ましてや、それが、異国の地に漂着している、この我が…あの国の正統なる者からの命によるものだなど、誰にもわかるまいよ、は、ははははっ…」
今も、テレビからもラジオからも、繰り返し、同じニュースが流れていた。1度みたら忘れられないような、目をそむけても、残像が焼きついてしまいそうな、がれきの山、廃墟…アンジェリークもエンジュも、食い入るように、呆然と、TV画面に目をくぎ付けにされたまま、身動きができない。2人共蒼白となり、無意識に手を握り締めていた。画像が遠目からなのでー爆撃後はがれきが崩れる危険もあるし、普通の爆弾であっても、所謂爆心地は、人体には危険なほど高温になっているだろうから、まだ望遠でしか画像が撮れないからだろうか、人の骸らしいものは見当たらない。テレビもラジオも執拗なまでに「臨時ニュースをお伝えします」と、同じような内容の文言を繰り返し流している。青年のいう通り、あの国に爆撃を仕掛けた組織の正体なぞ、そう、やすやすとわかるわけがない。黒幕が、海を隔てた異国の地にいることや、その武力は所詮借り物でしかなく、つまり、継続的な戦力投入はできないことなぞ、わかる筈もない。オスカーなら…これが、本当にオスカーのしでかしたことなら、オスカーなら、そう易々と足がつくような証拠を残すとも思えない、オスカーは、賢く、聡明で、明確な目的には用意周到に臨める人なのだから。
けれど、同時に、オスカーは優しくて、とても優しくて、立派な人で、オスカーが、こんな恐ろしいこと、命じてやらせるわけがない。
けど、なら、この画像は何?このニュースはどうして、しつこいほどに流れてくるの?
ニュースの音声は執拗なまでに、同じ内容を繰り返している。まるで、何が何でもアンジェリークに事の顛末を聞かせたいかのように、ニュースの音声が耳に入ってくる。
オスカーはこんなこと命じるわけがない、絶対に、では、この映像は何なのか、この報道はどういうことなのかと、アンジェリークの頭は、衝撃と混乱でぐるぐる渦を巻くようだった。
そんなアンジェリークをあざ笑うかのように、青年は、更に追い打ちをかける。
「そら、みてみろ、あの国は、完膚なきまでに壊滅した、王宮はもうがれきの山だ、さあ、よく見ろ、聞け、おまえの男がおまえのためにやったことを…しでかしたことを。この惨状を、しかとその目で確かめろ。ほら、また、おまえの男がおまえのために何をしでかしたか、親切にも、ニュースが繰り返し詳しく教えてくれている、よくその耳で聞いておけ、そして、その身に刻みつけろ!」
「っ…」
打ちひしがれる、泣きそうになる、けど、泣いてはダメ、泣いたって何にもならない。信じられないようなことが起きても、落ち着いて、心を静めて、報道の音声を聞いてくれって、さっき、オスカー先輩に言われたばかりじゃないの、なのに…
そう、懸命に自分に言い聞かせようとして、アンジェリークは、はっとした。
そうだ、これこそまさにオスカー先輩の言っていた「信じられないような事態」じゃないの?そして、先輩は、なんとおっしゃってた?俺を信じてくれ、と。そして、落ち着いて、冷静に、注意して「ニュースの音声を聞いてくれ」って言ってたわ…
「聞く…聞く…?」
アンジェリークははっきり思い出す、衝撃のあまり混沌としていた思考がクリアになっていく。そうだ、オスカーは言っていたではないか、信じられないことが起きる、けれど、落ち着いて、聞いてくれと…何故、ニュースを「見てくれ」ではなく「聞いてくれ」?だったの?それは、ニュース音声に何か意味がある?ってこと…?
アンジェリークは今一度、耳を凝らし、注意してー目を開いていると、がれきの山に気をそらされて集中できないので、目をとじ、ニュースを耳だけで聞こうと試みる、真剣に、注意して、集中して…
「!!!」
一瞬後、アンジェリークは、信じられないという面持ちで、テレビに近づいた。青年は、それを小馬鹿にするように、勝ち誇ったように笑いながら眺め、好きにさせた。アンジェリークは、食い入るようにテレビ画面に目を凝らす、ふりをして、再度、耳に全神経を集中させた。
『これ…この声、この女性の声、私、知ってる…この声は…』
ニュース音声をじっくり聞くほどに「まさか」という驚きが「間違いない」という確信に変わっていく。アンジェリークは呆然とTVの前で立ち尽くす。TVニュースを読み上げるその声が、自分のよく知っている、最も親しい友の声にしか聞こえない、その意味するところが何なのか、懸命に理解しようと努める。一つの可能性に思い当り、その自分の考えに間違いがないか、念のため、TVを別のチャンネルに変えてみる。すると、男性の声で、独語のアナウンスでの報道がなされていた。アンジェリークは、男性アナウンサーの声を耳にした瞬間に、その声もまた、自分が慣れ親しみ、よく聞き知っている声だと、瞬時に悟った。この低く響く、何ともいえぬ品と艶のある澄んだ声質は、聞き間違い様がない。
ならば、もしやと思い、次いで急ぎラジオに駆け寄り、そのボリュームを上げた。スピーカーに耳を押し付けて、その声をよく聞き取ろうとする。
ラジオでニュース原稿を読んでいる男性アナウンサーの声も、聞けば聞くほど、アンジェリークの良く知っている慕わしい声だったと、今、気づいた。凄く真面目に、落ち着いた口調で原稿を読んでいるから、最初はわからなかったのだ、だって、あの先輩は、いつも朗らかで、洒落っ気と茶目っ気に溢れてて、私には姉のように兄のように優しく接してくださって、私は、そういう先輩に慣れ親しんでいたから。けど、そうだ、あの方は、時と場合により辛辣にも厳しくもなれる、とても男っぽい方だ、華やかなのに男らしい、ラジオから聞こえてくるのはその人の声だった。
その瞬間、アンジェリークの両眼から、どっと涙があふれた。
青年に捕えられ、閉じ込められて、初めて見せた涙だった。
アンジェリークは、涙顔を見られたくない、とでもいうように、慌てて顔を伏せ、深くうつむいた。
青年は、その様を、さらに勝ち誇ったように眺めた。少女は酷い衝撃を受け、打ちひしがれているように、青年には見えた。
少女がうつむいたため、顔が見えなくなった青年にはわからなかったが、その時のアンジェリークの表情は、実は、青年が期待するような、絶望や悲嘆にくれたものではなかった。その瞳には、確かに驚愕が溢れていたが、それは感嘆と感激に満ちた驚き、喜びと期待も伴った驚きの表情だった。
どんなカラクリか、どんな仕掛けで、こんなことができたのか、アンジェリークにはわからない。
けれど、そうだ、ゼフェルがいる、ゼフェルなら、室内のTVに、外から配線に割り込んで、複数の電波帯で任意の画像をそれぞれに流すような電波ジャックも可能だろう、様々な画像をコラージュし、加工し、報道番組のようなフィルムを…フェイクの報道番組を作ることも、あの器用なゼフェルならお手の物だろう。
そして、その画像に命を吹き込んだような音声、それは、懐かしく慕わしく大好きな友人と先輩の声だった、間違いない…
だから、だから、オスカー先輩は私におっしゃんたんだわ、「良く注意して聞いてくれ」と。
『オスカー先輩、オスカー先輩が、皆さんに声をかけてくださって、協力を仰いでくださったんだわ…私を助け出すために…そして、皆さんが、協力してくださって、力を貸してくださって、こんな、すごい…途方もない仕掛けを…誰も傷つけず、何も損なわずに、私を解放させるための方法を編み出してくれたんだわ…間違いない…』
アンジェリークは、頭では、この見事なからくりが青年にばれないよう、自分は、悲嘆に、絶望に打ちひしがれ、酷い衝撃に罪悪感に耐えかねる、今にも絶えなんという風情を青年に見せねばならないとわかっていたが、今は、まだ無理だった。オスカーの、ロザリアの、ゼフェルの、オリヴィエの、ジュリアスの思い、迂闊にも囚われてしまった自分を助け出すためにしてくれた尽力を思うと、感動と感激で胸が震え、胸が詰まり、自然と涙があふれ出て、上手に演技できる自信がなかった。こうして、打ちひしがれたふりで、顔を見られないように俯いているだけで精一杯だった。
青年は、そのアンジェリークの様子ー小刻みに震え、しゃくりあげるように肩を上下させ、顔を深く俯かせている、時折、涙のしずくらしきものが、ハラハラとその俯いた顔から滴り落ちている様子に、少女が、絶望、罪悪感、信じられないという思いに打ちのめされ、打ちひしがれているのだと思った。
先刻まで生意気なほどに、凛然としていた金髪の少女は、今、完全に、打ちのめされている、TV画面に映された故国のありさまと同様に、我の企みによって…青年は、そう信じて疑っていなかった。
なのに、どうしてだろう?
不思議なことに、報道が流れた瞬間こそ感じた「やってやった」「それみたことか」という高揚や達成感、のようなものが、青年の胸中に、今は、ほとんど残っていなかった。いや、むしろ、完全に消え去り、しかも、打ちひしがれた少女をいくら眺めていても、その高揚、充実感がこみあげて来る気配が微塵もないことに、青年は、少々、戸惑いを覚え始めていた。
一方、エンジュはエンジュで、テレビ画面を食い入るように眺め、こちらも、信じられないという顔で、哄笑を口元に張り付けたまま固まってしまったような青年を、恐ろしい物、理解しがたい物を見るような目で見つめていた、見つめるばかりだった。