しばらくの後
「私のせいじゃない…私のせいじゃないわ…」
呪文のように同じ言葉をぶつぶつ呟く声が青年の耳に入った。
青年は、のろのろと顔を声のする方向に向けた。真っ青な顔でぶるぶる震えながら、その目はTV画面に釘付けになりながら、懸命に自分に言い聞かせよるように、必死に自分を落ち着かせようとするように、同じ言葉を繰り返しているのは、彼の人質である少女ではなくー彼の手駒の少女の方だった。
青年は、少女のその様を、どこか茫漠とした表情のまま、ただ、見やる。手駒として利用してきた少女が、今、パニックに陥る寸前と見てとれても、青年は何の感慨も抱かない、否、抱く余裕がない。彼は、自分の気持ちの在り様を持てあましている、自分でも自分の心が不可解でたまらない。目的を達成した筈なのに、何の高揚も達成感も湧いて来ないことに、何の充実も心を満たないことに焦り、戸惑っている。なんとか、己が気持を鼓舞せんと努めているが、巧くいかない。焦りと戸惑いばかりが募ってゆき、そんな自分の気持ちをどう扱えばいいのかわからず、正直、もう、用済みの少女の心情などに構ってはいられない。青年は、いつも、いつでも、基本、自分のことしか考えずに生きてきたし、今は、気持ちに余裕がないから、なおさらだ。
一方、アンジェリークも、青年同様、涙にぬれたままの顔をあげ、声の聞こえた方に向けた。青年の手駒として利用された少女の哀れな姿が目に入ってきた。
その瞬間、アンジェリークの胸は、彼女への憐憫でいっぱいになった。
かわいそうなエンジュ、自分が何をしているのか、何に加担しているのか、自分の行動がどんな結果をもたらすか、何も考えず。その挙句、今、降りかかった現実に、怯え慄き、その重さに息も絶え絶えになって、無益と知りつつ、自己弁護せずにはいられないのだ。
私は、これが、オスカー先輩たちの仕組んだことと、もう、わかっているから、落ち着いていられる。けど、これがもし本当に現実だったら…と思うと、私だって恐ろしくて仕方ない。自分の無思慮と迂闊さ故に、人の命という取り返しのつかない物を、それも数え切れないほど、損なってしまったと思ったら…それこそ、恐怖と後悔と慙愧の念で、正気を保っていられないかもしれない。
恐怖と後悔と怯えに気が違いそうになっているであろうエンジュに、これが、オスカー先輩の仕組んだことなのだと教えてあげたい、けど、今はまだ教えてあげられない。私を無事救い出すために、オスカー先輩たちが、知恵と力の限りを尽くしてくださったこの仕掛けを無駄にする訳にはいかないから。この報道がフェイクだとわかれば、エンジュはどれほど安心できるか、ほっとするか、わかっていても。
だけど…それとは別に…。偉そうに聞こえるかもしれないけど、エンジュ、今のあなたなら…今、後悔に打ちのめされているあなたなら、身にしみてわかったのではないかしら、不幸な人、いえ、自分を不幸・不遇だと思っている人は何をしてもいい、誰を何を攻撃してもいい、だって悪いのは周りなのだから…という理屈が、いかに甘ったれた考えか、利己的な思いあがりか…そして、その思いあがりが暴走すると、どういう結果をもたらすか…嫌というほど感じているのではないかしら、わかりつつあるのではないかしら。そして、同時に、不遇を装う人に、考えなしに同調・同情し、その傲慢を煽るのが、どれほど危険なことだったか、取り返しのつかない結果を招くこともあるのだということも、どうしようもなく思い知ったのではないかしら…
これが、現実だったら、本当に取り返しのつかないことだった。けど、私は知ってる、今、間違いに気付いたのなら、間違ってたと思えるのなら、エンジュ、あなたは大丈夫、間にあうの、いくらでも何でもやりなおせるし、取り戻せる。そして、あの王子も、また、取り返しがつくのだと。いきすぎた甘えと無思慮・無分別は、時として、人の命を損なうという怖さ、一度喪われた命は決して取り返しがつかないという、その重さ怖さを身をもって感じることができたなら、今回に限り…取り返しのつかない事態を招く前に戻れるのだと。
だから、もう、気付いて。耳をふさぎ、目をそらし、本来克服すべきもの、立ち向かうべきものから逃げて、本当は敵でもなんでもない別の何かを敵視して攻撃しても、幸せにはなれない、満足感もえられない、結局、苦しい現況は何も変わらないことを。もし、一瞬、満ち足りたものを感じたとしても、それは嘘の、まやかしの充足だということを。
それを思い知ることで、自己憐憫に基づく無闇な攻撃性は、自らの不幸な状況を何も改善しないこと、むしろ悪化させるだけだったり、最悪の場合、取り返しのつかない悲劇を招くこともあるのだと、気付いてほしいーまさにその身でもってわかってもらうのは今しかない、と、アンジェリークは思う。
こんな考え方自体、傲慢かもしれない、けど、今、酷く痛い目にあって、それを後悔してるなら、これを機に、エンジュは思考の偏りを、バランスを欠いた物の見方考え方を変えられるんじゃないか、そうすれば、きっと、エンジュはこれからずっと生きやすくなれる、自ら進んで不幸の渦中に飛びこみ、不幸を手繰り寄せていながら、周囲を恨み、攻撃してはうとまれ、より不幸になっていく、そんな負のスパイラルを描く生き方から、脱することができるのではないか、そう、アンジェリークは考える。
この負の連鎖ー自ら不幸を招きよせる行為を繰り返し、より不幸になっていくスパイラルを絶ち切るのは、今、この時を置いて他にない。
そして、それは多分、この青年も同じだ。
自分がたてた復讐の計略は、成功した(ように見える)のに、結局、彼は「すかっとした」気分も「ざまを見ろ」というしてやったりな気分も味わえてはいないようだ。計画が成功したのに、己が望み、得られる筈だった爽快感も達成感も得られていないということは、最初にたてた計画そのものが的外れだったということに他ならない。『故国を滅ぼし、王を弑すれば、自分は気が済んで、無念が晴らせる筈だ』という前提そのものが、間違った思い込みであり、酷い考え違いだったということで、それに薄々気付き始めてるように見える彼が、より明確にその自覚を持てれば、彼もまた、生き方を変えられるのではないか。
今、この青年が、もし、自分が「正当な復讐だ」と信じていた行為が、虚しさしかもたらしていないとはっきりと自覚してくれたら…こんな大それたことをしでかしても、何の達成感も充実も得られていないことを、彼が不可解に感じているのなら、自分は、何か、どこか、間違えていたのではないかということにも気づける筈だ、そして、間違いに気付いて、自分でそうと認めることができれば…それこそ、彼は脱皮するように、生まれ変われるのではないかと、アンジェリークは思うのだ。彼の計画が現実に遂行されていれば、それこそ数え切れないほどの人命が失われており、どんな大事な教訓を得たにしても、重すぎ大きすぎる対価となる処だったが…彼が仮想のニュースを現実だと信じている今なら、実際には何も損なうことなく、彼は大事な何か気付くことができるかもしれない、それは新たな血肉となって、彼もまた、生き方を変えることができるかもしれない。
無論、自らの過ちを、考え違いを認めるのは、とても苦しく辛い、苦い物が喉元に込みあげて口中を満たすような嫌な思いをするだろう…けど、でも、今、気付かなければ、彼は、ずっと苦しいまま、否、もっと苦しくなって、人を傷つけ虐げ続けることだろう。だって、彼が本当に許せないのは、故国でも王制という国体でも、国王個人でもないはずだから、けど、それを彼自身が認め、自覚しない限り、彼は、きっと同じ過ちを、執拗に、それこそ神経症の患者のように、無意味で、害悪にしかならない他者への攻撃を執拗に繰り返す、そう、せずにはいられない筈だ、現実から目をそむけ続けたまま、苦しみを一時だけでも忘れるために。そんな彼は、下手すると…個人レベルではシリアルキラーになりかねないし、もし、軍事力さえ得られれば、故国を蹂躙したにとどまらず、近隣周辺諸国を次々と殲滅ー征服や支配するためではなく、破壊のための破壊を続けかねない。
だから…私が今、無事に助かりさえすれば、オスカーが巻き込まれなければ、彼の攻撃対象が父の赴任国でなければそれでいい、後は放っておいていい、というものではない。
王子にもエンジュにも、自分のしでかした事の意味、いや、無意味さという方がいいか、それを考えてもらい、気付いてもらわないと、目を開けてもらわないと。
ただ、彼が自覚する前に、この報道がオスカーたちのでっち上げたフェイクだとわかったら…この青年は「だまされた事」に怒り狂いー大量殺戮者にならずに済んだことに安堵するよりも、プライドを傷つけられた腹いせに、また別の生贄を探し、同じような悪巧みを、意地になって繰り返し試みるかもしれない。自分たちが助かれば良しとして、彼をより危険な大量殺戮者にしてしまったら…その強力な後押しをしてしまったら、それこそ最悪の事態だ。
オスカーが約束を果たしたと考えられている現状、私は、もう間もなく解放される筈だ、そして、解放されれば、程なく、真相が露見するだろう、それまでに、あまり、時間はない。私がここから解放されるまでの間に…この報道がフェイクだと気付かれる前に、彼らに自分のしようとしていたことの意味を考えてもらわないと。そして、できれば、考え違いに、気付いて欲しい…
そのために、私ができることは…いえ、急ぎやらねばならないことは…
一息、息をついてから、アンジェリークは涙に濡れた顔のまま、静かにエンジュに話しかけ始めた。
「そう、エンジュ、これは、直接にはあなたの所為ではない、と私も思うわ…」
そう言うと、エンジュはばね仕掛けの人形のように飛び上がり、勢い込んで、アンジェリークの方に身を乗り出した。
「そ、そうよ、そうよね!最初からアンジェが王子に協力してくれていればよかったのよ、あなたが、婚約者に連絡を取るのを渋って嫌がるからこんなことになったのよ、アンジェ、あなたが、快く、あなたの婚約者に王子を紹介してくれていれば、こんなことにはならずに済んだ、そうよね?」
必死に同意を求めるーいまだ甘えを見せるエンジュに、アンジェリークは、静かに、だが、きっぱりと首を振った。
「いいえ、それは違うわ、私が、安易に王子に同情して、即座に協力していたら、同じ結果が、もっと早まっただけ。だって、王子がオスカーに頼みたかったのは…その要求は、結局のところ、故国を壊滅させるための武力だったのだから。けれど、私もオスカーも、無辜の人々を傷つけ不幸にするよう真似に進んで協力することなど決してない、だから、王子は、私を誘拐するという強硬手段に訴えただけ。私が快く引き受けようが、渋ろうが、また、王子が、オスカーの協力を引き出そうとしてとった手段が、穏当な要請であろうと卑怯な脅迫であろうと…王子の望み自体に変わりはないし、その望みが叶った結果も…時間差や、被害の差こそあるかもしれないけど、王子は故国に攻撃を仕掛け、故国を灰燼に帰すことを望んでいた以上、結果に違いはないのよ、エンジュ、あなたにも、それはわかってる筈よ。認めたくないからといって、詭弁を弄しても、見ないふりをしても、現実は変わらない。エンジュ、あなたが王子の企みに協力すれば…ううん、王子の望みがかなえば、こういう取り返しのつかない結果がもたらされた、それは変わりないの、あなたの仮定は、もたらされた結果を、あなたが、直に目にせずにすんだかもしれない、知らずに済んだかもしれない、というだけだわ…」
「だって、だって、私、知らなかったんだもの!まさか、こんな…こんなことになるなんて…!」
「いいえ、それも違う、エンジュ、もう、自分を誤魔化すのはやめて?エンジュ、あなたは直接、手を下した訳じゃない、けど、あなたは、王子の目的を知ろうと思えば知ることもできた、尋ねても王子が正直に教えてくれなかったとしても、自分で、事の是非を考えることはできた。王子が何をしようとしているのか、少し立ち止まって考えればわかったはず。だって、あなたは総代を務められる程、無償の奨学金をもらえる程、優秀なのだから。けど、どんなに頭の良い人でも、自分からは何も知ろうとせず、何も考えようとしなかったら…正しい答えは導き出せないわ。だから、エンジュ、自分の頭で考えようとせず、現実を見ようとしないことが、時に、どんな結果をもたらすか…どうか、きちんと受け止めて。王子の目的がわからなかったとしてもよ?王子はあなたを使って私を呼び出し、オスカーを利用しようとした、私が応じないとわかると私を拉致して人質とし、オスカーを脅迫して、望みの物を手にいれようとした…あなたは、その過程をつぶさに見ていたでしょう?人を捕えて閉じ込め、人質をとって脅迫して、欲しいものを入手しようとする、そんな卑怯な真似をして手に入れようとするもの、やろうとすることは、正しい行いの筈がないと、こうなる前に、どこかでわかった筈よ。だけど、あなたは、その事実から目をそむけ続けた。王子が間違ったことをしている、正しくない行いをしていると薄々わかっていたでしょうに、見ないふりをしてきた。諌めることも、再考を促すこともしなかった。あなたは、王子の役に立ちたかったのでしょう?人の役にたちたいと思う、それ自体は間違ってない、善良な考えだと思う。けど、身近な人が、大事な人が良くない行いをしようとしているのをわかってて止めない、窘めないのは、本当にその人を思ってのことといえるかしら?正しいことは正しい、間違っていることは間違っている、と気付いてもらえるよう努める、それこそが、人のためにできることじゃないかしら?盲従するのと、人の役にたつことは違うと私は思う、そして、時として無思慮な盲従が何をもたらすか、それを、エンジュ、あなたには、わかって欲しい…自分に都合の悪い事実に目をつむり、目をそむけるのは、もうやめて?そして、本来、戦い挑むべき対象を間違えないで。克服すべき対象でないものを攻撃しても、あなたは、幸福にはなれない。一時、すかっとするかもしれないけど、それは、まやかしの、嘘の満足感だから…嘘は、すぐ霧散霧消してしまう、すると、何度でも、繰り返し、まやかしの満足感を求めずにいられなくなってしまう、そんな、泥沼に…無限の苦しみに陥る前に、どうか、気付いて、目を開けて、エンジュ」
「だって…だって、もう、手遅れじゃないの!今更、何をどうしたって、遅いじゃないの!こんなことに…こんな恐ろしいことに、なってしまった後では…」
エンジュの言葉は続かず、言葉はすすり泣きに、苦しげな嗚咽に替わる。その憐れな様子に、アンジェリークは思わず身を乗りだし、エンジュの手を取る。『そうじゃない、手遅れじゃないの、ここで、気付けば大丈夫、間にあうの、いくらでもやり直しできるの』と、とアンジェリークは喉まで出かかった言葉を、ようよう押さえ、心の内にとどめる。今は、まだ、その事実を告げていい時じゃない。エンジュが、王子が、立ち向かう相手を間違えた戦いでは、まやかしの満足では、決して、幸せになれないことに、はっきり自分で気付いてくれた後でなければ…
「いいえ…エンジュ、諦めないで、自暴自棄にならないで。大抵のことは、手遅れと思い込んで諦めなければ、取り返しのつく物よ、けど…そうね、人の命だけは違う、どんなことがあっても、決して取り戻せない、取り返しがつかない…」
言いたい事を全部は言えない、そんなもどかしい思いを抱えつつ、エンジュにそれだけ告げると、アンジェリークは、その顔をー涙に濡れたままのその顔を、改めて、青年に真っすぐに向けた。
「王子、ご満足ですか?故国ががれきと化して。動く物がない一つ見えない廃墟と化して…あなたの叔父君である王様と、多くのー見知らぬ人かもしれないけど、故国の民の命が失われたかもしれないことに、満足を覚えていますか?」
「あ、ああ…無論…だ」
「その割には、あなたは全然嬉しそうには見えないわ。目的を成し遂げた喜びも達成感も充実感も、何も、あなたからは感じられない」
「っ…」
「あなたは、今、達成感どころか、空虚さしか感じてないように見えるわ。こんな筈じゃなかったっていう顔をしてるもの。何故だか、私にはわかるわ。あなたの本当の目的は…望みは、故国の壊滅なんかじゃなかったから。あなたが怒っているのは、許せないと思っているのは故国じゃない、叔父である王様でもない。だから、故国を破壊しつくしても、嬉しくも満たされもしないんだわ、だって、あなたが本当に許せないのは、あなたを置いて1人で逝ってしまった女性、そして、その女性を救えなかったあなた自身なのだから…」
「!!!…な…何を…」
「もう、自分でもわかっているのでしょう?こんなことをしても…何をどれ程壊しても、誰かを傷つけても、あなたは楽にならない、幸せになどなれない。今、全然、嬉しくも手ごたえもないでしょう?それは、あなたが怒りを向ける対象を間違えていたから…いえ、故意に、怒りの対象を認めまいとしてたから。自分は何に怒っているのか、何を許せないのか気付かないふりをしたきたからよ。本当に許したい、許してもらいたい相手を見ていない、向き合っていないからよ。けど…自分を誤魔化したままでは、何をしようと、何も得られはしないわ、決して。だから、もう、自分を誤魔化さないで。自分の怒りを、後悔の在りかを、見つめて、認めてあげて」
「う、うるさい!何を、訳のわからんことを!」
「いいえ、あなただって、本当はわかってる筈よ、自分が、全く満たされてないことを。目的を果たした筈なのに…満願成就の果てにあったのは喜びどころか、虚しさだけとわかって、それで途方にくれてるって、顔を見ればわかるもの!」
「そ、そんなことはない、俺は王を、故国を恨んでいる…我が嬉しそうでないとしたら…それは、我がこの手で、この自分の手で、王に、故国に引導を渡せなかった、から…そうだ、そうに決まってる…」
「あなた、自分で大事なのは結果だ、って、オスカーに言っていたわ、それが真実なら、過程がどうあれ、誰の手で行ったことであれ、あなたは満足している筈よ、けど、実際は…現実はそうじゃない、あなただって、おかしい、こんなはずじゃなかったって、戸惑っているんでしょう?憎い仇を討った筈なのに、どうして、自分は全然嬉しさも達成感も感じられないんだって思ってるんでしょう?そんな顔してるもの、それは、あなたの本当の望みが、故国の壊滅とか復讐じゃないからよ!」
「う、うるさい!黙れ!」
「いいえ、黙らないわ、あなたにも気づいてほしいから、わかってほしいから…。あなたの計画は、どこか成行き任せで…今思えば、私を拉致した経緯からしてそうだったし、私という人質の扱いも徹底していなかった、大切な取引材料である私の自由を奪うどころか、自死を勧めたりして、言ってることもやってることも行き当たりばったりで矛盾だらけで…それは、あなたの目的が最初から、故国の壊滅でも、王さまの命でもなかったからよ。あなたの真の望みは別にあるからよ!私、あなたの話を聞いてわかった…いえ、感じたの。あなたは、あなたを置いて1人逝ってしまった人に対して怒ってる、許せない、酷いと非難してる、けど、同時に、その人を助けられなかった自分を責めている、どうすればよかったのか、その答えがみつからず、今でも苦しみ悩み迷っている、そして、その人に許しを請うてもいる…怒りと罪悪感と後悔と懺悔の気持ちが混とんとして、押しつぶされそうで、あなたは苦しくてたまらないのではなくて?その苦しみから逃れたくて…苦しまぎれに、王様を弑すれば、その人はあなたを許してくれるし、自分もその人を許せる、そんな気がしたのではなくて?そんな思い込みにすがりついたのではなくて?けど…本当は、何を犠牲にしても…どんな貴重な物を供物としてささげても、死者は返ってきてはくれない、何をしても、死者はあなたを許すとは言ってくれないし、あなたの怒りを受けとめてもくれない…あなただって、本当はわかってるはずよ、けど、そうと認めることができなくて、認めるのは辛すぎて苦しすぎて、何かせずにはいられなくて、何か、替わりに別の物を手に入れれば、自分の苦しさがまぎれる様な気がして…故国と王の命を奪おうとした…いえ、ささげようとした、かしら?…でも、それはあなたの本当の望みじゃないから、あなたは満たされないのよ、故国は壊滅し、願いは叶った筈なのに、嬉しくもなんともないのは…それが、元々、あなたの真実の望みじゃないから。ニセモノの望みだからよ」
「っ…!!!…な、何を…わかった風なことを…」
「王子、どうか、自分の怒りに、悲しみに、後悔に、目をつむらないで…目をそらさないで認めてあげて?あなたは、とても可哀そうな人、弱くて悲しい人、大事な人を失ったのだから、悲しくて当然よ、しかも、その大事な人は、あなたを見捨てるような形で、自ら、あなたを置いていってしまったというのなら…あなたが傷つき、怒りを覚えるのも無理のないことだと思う。なのに、自分の大事な人を救えなかった事実は、あなたを打ちのめし、自分を置き去りにした彼女を怒り恨む気持ちを認められなくしてしまった…彼女に対する怒りは、彼女を救えなかった罪悪感を一緒に伴ってしまう、だから、あなたは彼女への怒りを認められないし、彼女に怒りを覚えると罪悪感も同時に生まれて、そんな自分を許せないと感じてしまう。あなたは2重に自分を許せない、彼女を救えなかった自分と、彼女に怒りを感じてしまう自分と…だから、あなたは、どうしようもなく苦しい、苦しすぎて、手負いの獣が暴れるように闇雲に暴れ、周囲を傷つけてしまう、私には、そんな風に見えるわ…けど、あなたはもう十二分に苦しんだ、だから、もう、自分の怒りを、悲しみの在りかを認めてあげて?あなたの怒り…大事な人に置き去りにされて、見捨てられたような裏切られたような気持ちになるのは、自然なことよ、信じてもらえなかったという悲しみも怒りも、自然な、当然の感情だから。私だって、あなたの立場にいたら、きっと悲しみと怒りに打ちのめされたと思うから。あなたは怒っていい、悲しんでいい、辛かった、苦しかったって、言っていい、あなたの大事な人は、どんな動機や理由があったにせよ、あなたを1人置いて逝ってしまい、あなたはその事に酷く傷ついた、それは事実なのだから…」
「だとしても…だとしてもだ!今更…それに気付いて、言いたてて、どうするっていうんだ!おまえの言う通り、喪われた命は決して取り戻せない、取り返しがつかない!あいつの命も…今、俺が奪った無数の命もだ!」
「そう…その通りよ、喪った人は何をしても…帰ってきてはくれない、惨いけど、それはどうしようもない、逃れようのない現実、決して、取り返しのつかないもの、それが人の命だから…だからこそ、もう、わかるでしょう?あなたが、真に欲していた物は…故国の命運でも、王様の命でもなかったと。どんなに望んでも欲しいものを得られないのは苦しいことでしょう、けど、だからといって何かを身代わりにしても、どんな大事な物を差し出しても…他人の命という、掛け替えのない犠牲を捧げさえしても…大事な人は帰ってこない。あなたが何を供物として差し出そうと、彼女は、あなたを許すとは言ってくれないし、あなたは自分を、そして彼女を許せるようにはならないわ、真の怒りも、己の望みも見つめないまま、目をつむって、やみくもに、手あたり次第に何を壊そうと、あなたの怒りは解けないし、何を生贄にささげようと、許しも救いも得られない…だから、もう、意味のない攻撃や破壊をやめて?間違った戦いを挑み続け、戦いで得た何をささげようと、あなたの大事な人は喜ばないし、帰ってこない、あなたも決して救われない、楽になどなれないわ。あなたが、何に怒り、何を許したく思い、何に許してもらいたがってるか、率直に何も誤魔化さずに認めない限りは…」
「煩い!わかった風なことを言うな!それに…それが、おまえに何の関係がある!我が救われようが救われまいがお前には関係なかろう!お前を拉致し、監禁したような手合いだぞ、我は!むしろ、もっと苦しめ、決して楽になどなるな、と考えるのが当然だろうに、何故、我の救いのことなど、気にかける?お前には関係ないことだ!放っておけ!」
「いいえ、関係なくない!ここで、あなたが気付いてくれれば…たくさんの命が、何より、あなた自身が救われれば…自分も他者も、苦しめ虐げ続ける無限地獄から抜けだせるはずなんだもの!逆に、ここでも、あなたが、自らの怒りの在りかに気付かないふりをしたら…許しを請いたい相手に向き合わないままでいたら…あなたは、しばらくしたら、また同じようなことを繰り返すわ、きっと。自分の苦しみと悲しみを一時、誤魔化すために。真に克服すべき物に立ち向かわないでいる限り、その間、あなたはいつまでも苦しいし、その苦しみから逃れるために、違う相手と戦い続けずにはいられなくなってしまうわ、だって、間違った相手と戦っている限り、何度勝利をおさめようと、その勝利はまやかしだから、ニセモノだから、真の満足や幸福は得られない。けど、苦しいと、人は何かせずにはいられないから、きっと、相手とかやり方とか、何かが間違っていたからだと、あなたは自分を誤魔化し続け、新たな攻撃対象を無理やりにでも見いだし、無限に戦い続けなくてはならなくなるから…まやかしの戦いには終わりがない、あなたは血反吐を吐きながら終わりのない戦いを続けることになってしまう、そんな状態、誰にとっても幸せな筈ないじゃないの!そんな行為が何を生み出すの?誰を幸せにするの?!」
「っ…それこそ、お前の知ったことじゃない!」
「いいえ、いいえ!見知らぬ人でも、溺れてたら、どうにかして助けなくちゃと思う、車に轢かれそうな人がいたら、危ない、避けてと言う、それと同じよ、目の前で、みすみす不幸になろうとしている人がいて、どんどん苦しく辛くなろうとしている人を、そのままにしておけない、私にはそんなの、耐えられない!しかも、あなたが不幸だと感じる限り、あなたの不幸に巻き込まれる人も無数に生じてしまうのだもの!放っておけるわけないじゃないの!」
「余計なお世話だ!お節介はたくさんだ!お前は、おまえの大事な人とやらの幸せだけを考えていればいいだろう!」
「そうじゃない、そうじゃないわ!あなたの不幸は、誰かの不幸に繋がるの!あなたが救われなければ…辛いのはあなただけにとどまらない、巻き込まれる人達が無限に連鎖してしまう。関係なくないのよ!人と人は、どこかで、何かで繋がっているんだもの!繋がって行くのだもの!今、ここにいるエンジュだってそうよ!あなたと知りあって、私と知りあって、だから利用されて、それで今、苦しんでるじゃないの!人と人の繋がりは、時として、不幸をも、つないでしまうこともある…確かに、私は、オスカーが、友達が、家族が大切、大好きな人たちには、幸せでいてほしい、理不尽な不幸や暴力から、出来る限り守りたいと思う、でも、大好きな人たちだけ幸福なら、それでいいなんてことはない、だから、あなたをこのままにしておくことはできない!人は、世界は、どこかで何かで繋がっていくものよ、あなたが、自分と周囲を不幸の連鎖に追い込むことを止めなければ、あなただけじゃない、不幸な人がどんどん繋がって増えて行く…それは、私が直接見知っている人ではなくても、私の大事な人の知り合いかもしれないじゃないの!そんなの、そのまま、見てなんていられない!」
「だから!それがお節介だと言っている!」
「お節介で何が悪いの!苦しくなくなるなら、辛くなくなるなら、お節介したっていいじゃないの!」
「…黙れ…黙れ、黙れ!黙らないなら、出ていけ!」
自分の言葉に青年ははっとして、肯く、そうだ、この女をここにとどめておく必要も理由も、もうない…俺の心をかき乱し、迷わせー無理やり目を覚まさせようとする、何かに気付かせようとする、煩い鬱陶しい…恐ろしい存在を今すぐここから放りだせ!そして…また、俺は、繭の中にこもるのだ、静かで、誰にも邪魔されない、何も考えずに済む1人だけの世界に戻ればいい…
「おまえには、おまえを待っている者がいるんだろう!そこにさっさと帰ればいい!お前はもう、用済みなんだ、早く…すぐさま、ここを出ていけ!」
「出て行くわ、もちろん!私の居場所はここじゃないもの!けど、今はまだダメ!あなたが、気付いてくれないと…いえ、もう気付いては居る筈よ、気付いたことをきちんと認めて、受け入れてくれないと!」
「煩い、煩い、煩い!…放っておけ!俺を放っておいてくれ!…俺は何も気付きたくない、何も考えたくないんだ!」
「そのほうが楽だから?いえ、楽そうに思えるから?」
「!!!」
「けど、それは楽などではないわ、楽だと思い込もうとしてるだけ…薄々、あなたもわかっている、気付き始めている筈よ。何かの所為にし続けてきているのに、何故か、自分はずっと苦しいままであることに、辛いままでいることに。本当に楽になりたいなら…苦しいのを終わりにしたいなら、自分は何を怒っているのか、何が悲しくてたまらないのか、認めて、その上で、そう感じている自分を許してあげて。もし、自分を許すことに、まだ、抵抗が、わだかまりがあるなら、せめて、自分の感情を否定しないで認めてあげて。そうしてあげていいの、自分を許しても、自分の怒りを認めても、その結果、あなたが苦しむことを終わりにして、楽になっても…楽な気持ちになってもいいの、あなたが楽になっても、あなたの大事な人は、あなたを責めたりはしないわ、きっと…そして、自分が楽になれば、その人のことも、許してあげられないかしら?自分を置いて逝ったことに、恨みごとを言うでなく…自分は置いていかれて寂しく思った、辛かったって認めたうえで、その人が、そうするしかないと思い込んでしまったことも辛かったろう、出口のない袋小路に追い込まれたと感じてしまって辛かったろうって、その辛さに気付いてやれなくて、他の道を一緒に探してやれなくて済まなかったって思って、心の中で、そう語りかけることができれば…あなたも、その人も救われる、私はそう思う、生者(せいじゃ)が死者にしてあげられることは、悼み、思い出し、語りかけること位しかないかもしれない、けど…それで、その人もあなたも楽になれるのではないかしら…だから…」
と、アンジェリークが話を続けようとしたその時、テーブルに置きっぱなしになっていた携帯電話が、けたたましく着信音をならした。
3人が同時に携帯電話を注視した、着信音はオスカーからのコールだと瞬時に悟ったアンジェリークが、反射的に電話に手を伸ばそうとする、が、それより先に、その電話は、すぐそばにいた青年が手にとってしまった。彼は、まるでその電話に救いを求めるような顔をして、震える指先で通話ボタンを押した。
「おい!アンジェリークを…俺の婚約者はどうした!もう、報道は流れている筈だ、約束通り、彼女を即刻、解放しろ!」
間髪いれず、焦りと苛立ちをあからさまにした怒声が送話器から爆発した。
「オスカー先輩!」
「煩い!」
思わず身を乗り出して叫んだアンジェリークに、青年も負けじとばかりに向かってどなり返し、その勢いをそのまま携帯電話にもぶつける。
「言われずともわかっている!今すぐ、追い出してやる、俺だって、こんな女にもう用はないんだ、なのに、お前の女が煩く我に説教を…」
「なんだと?何を言っている?俺は約束を果たしたんだ、今すぐ、アンジェリークを解放しろ!今すぐにだ!」
「くどい!黙って待っていろ!」
青年は、乱暴に通話を切ると、自身を落ち着かせるように数回深呼吸を繰り返した後、部屋のインターフォンを取り上げて、こう告げた。
「客人がお帰りになる、退出するのは2人。今から室内側の施錠を解除する、外のロックを外せ」
通話器を手にしたまま、青年は10キーを幾つか押す。その時は何も起きない。しばらくして、部屋の扉の外から、硬質な微かな機械音が響いた。
『この人は…』
アンジェリークはその施錠システムを見て理解した。この部屋は、内からと外から、2重にロックされており、施錠はそれぞれ異なって管理されていたのだと。だから、青年は、私を拘束する必要もなかったし、絶対に私が逃げられっこないと自信満々だったのだ、内側から解錠しても、外からも解錠してもらえない限り、何人たりとも外には出られないシステムになっていたから…
つまり…青年はこの部屋の主、この小さな空間では君主であるが、この部屋から勝手には出ることは許されない、外にいる管理者が良しとしない限り、外出の自由はないのだ。外からのアクセスも、彼自身の出入りも、彼の意思と、この部屋を外から施錠している者の意思、2つが同時に揃わなければ成り立たない、2者が同意しなければ通路は開かない。彼は自室に他者の侵入を許さない権利をもち、同時に、入室した者の退出を裁可する権利を持つ、彼が許可した者だけが、この扉を行き来できる。同時に、彼は外の施錠者の許可がなければ扉の外には出られない。部屋の中の者は、施錠者の許可を請い、認められて初めて扉の外に出られる。このシステムは…そう、国境だ。まさにこの扉1枚が国境であり、あのインターフォンは言わば入国管理だ。この人が一国の王子であり、この部屋が治外法権というのは、確かにその通りなのだろう、ただし、彼も扉の外には自由には出られない、あちら側の入国管理者が良しと認めなければ入国ー扉の外の世界に出ることは許可されない。
それを肌身で実感して、アンジェリークは改めてぞっとする。拉致され、一度、国境を越えて、異国に連れ込まれてしまえば、外から奪取することは難い。外交手段にうったえることはできても、強制力はないし、それこそ戦争覚悟の武力での侵攻でもしない限り無理だろうが、一民間人の救出に国はそこまでのことはしないだろう。今更ながら、青年の強気が虚勢とばかりは言えなかったのだと理解し、そしてまた、この部屋に連れこまれてしまった自分は、オスカーが、偽報道番組を作り上げ、この青年が自ら解放する気になってくれなければ、真実、ここから2度と出られなかったかもしれなかったのだと、改めて恐怖した。
一方で、今、ここで解放されてしまって、いいのか?という思いもアンジェリークには残る。オスカーが心臓がつぶれそうな程、自分を心配してる、案じていることはわかっている、急がないとー時が経つほど報道がフェイクと露見する可能性も累数的に高くなっていく。本来は一刻の猶予もないのだ、彼が解放するというなら、喜び勇んで、駆けださんばかりに自分は出て行くべきなのだ。
けど、あと少しで、彼が何かに気づいてくれそうな…という気もして…ためらうような後ろ髪を引かれるような思いを抱いていると
「さあ、もう、扉は解錠されている、さっさと出ていけ、その女を一緒に連れていくのを忘れるなよ」
と、ぶっきらぼうに言われた。
アンジェリークは、エンジュに小声で「もう泣かないで、大丈夫だから、寮に帰りましょう」と宥めるように声をかけ、エンジュの手を取り、立ち上がるよう促す、エンジュは為されるがままに、子供のように、アンジェリークにすがりつく。
「私たちが出て行った後、あなたは…どうするの?」
エンジュを支えるアンジェリークの口から、図らずも、彼の今後を案じるような言葉がついてでた。
「おまえには関係ない、我がどうしようと、どうなろうと…」
「!…あなた、まさか…」
彼は今、一時的な目標喪失状態だ、自分の間違った思い込みに薄々感づいていながら、それをはっきりと自覚して潔く認め、目を開くまでには至ってない気がする、その状態で、目標を見失ってしまうことは、そのまま希望を、生きる縁を見失ってしまったことにならないか?彼の大事な人はこの世にはいない、彼は故国を壊滅させ(と思い込んでいる)目的を果たした、なのに、何も得るものはなかった。最初の目標はまがい物だったと、今、ようやくわかりかけてはいるが、真の望みを見つめ認めるには至ってないなら…彼の心は空虚なまま、いや、今、心中にあるのは、取り返しのつかないことをしてしまったという思いだけだとしたら…今の彼には、これから、生きて行くための展望も希望もない…?となれば…
「ダメ!ダメよ!自ら命を絶っては!それだけは!そんなことをしても、亡くなった人は喜ばない!」
「今更だ…」
「ダメよ!許されたいなら、自分の中に在る怒りを消したいなら、自分はどうすべきだったのか、何が足りなかったのか、きちんと見据えて考えなくちゃ!それはとても辛くて苦しいと思う…けど、それをしない限り、あなたは自分を許せないし、その人のことも許せなくて、ずっともっと苦しいままよ!自らを滅して、人生を放棄して、全てを諦めても、そこに救いが在るとは思えない、あなたが、自分のしたこと、できたのにしなかったことを償いたいなら、その気持ちが少しでもあるなら…ああ、どうしよう、どうするのがいいのかしら…このまま、あなたが、あの部屋に1人で残るの、あんまりよくない気が…」
「だから、もう、いい!もう、我のことは放っておけといっている!何をぐずぐずしている!?お前が自分の足ででないというなら、我が、力づくでもこの部屋からおまえを追い出してやる!」
「ちょ…ま…」
アンジェリークの声は無視され、部屋の扉が勢いよく開かれる。青年に乱暴に腕を掴まれ、力任せに引っ張られ、アンジェリークはよろける。咄嗟にエンジュの方に腕を伸ばし、エンジュと手をしっかりつなごうとするが、それ以上のことー青年にあからさまに抵抗したり、足を踏ん張ったり、室内に後戻りするような動きはしない、できない。頭の片隅で、青年がこの後、どうなるのか、どうするつもりなのか気にはなるが、一方で、一刻も早くこの部屋の外に出たい、オスカーに、皆に会いたい気持ちは焼けつかんばかりだし、何より、オスカーのしてくれたことを無駄に無為にするような真似はできないから。
その時、青年が扉の外に一歩足を踏み出した。室内にとどまったまま、少女2人を一時に屋外に放りだすのは難しく、青年は、廊下に出たところで、更にアンジェリークの腕を強く引っ張った。そのはずみに、アンジェリークの手はエンジュから離れてしまう。物を外に投げ出すように、一時に少女2人を放り出そうとしていた青年の力が、結果、アンジェリーク1人に作用した。
「きゃ…」
勢いよく放りだされてつんのめり、床に倒れ込みそうになって、思わずアンジェリークは目を閉じた。頭や顔を酷くぶつける痛みを覚悟した処を、ふわりと、だが、力強い腕に受け止められた。同時に耳に飛び込んできた懐かしい声。
「無事か!?怪我はないか!?お嬢ちゃん!」
「!!!!…オスカー先輩!?」
と、その瞬間、ダークスーツ姿の男性数人が、2人の脇をすり抜けていき、扉の外に足を踏み出していた青年の腕をがっしと両脇から支えーいや、捕えた。金髪を綺麗に撫でつけた長身の壮年男性が、一歩前に出て、渋くも涼やかな声で、心底残念そうにこう語った。
「王子、今、あなたは、許可を得ずに、我が国の領土に足を踏み入れた、先刻、入国要請があったのは、あなたが拉致した我が国の国籍を持つ少女2人のみであり、あなたの入国申請は提出されていませんでしたからな。よって、不法入国の嫌疑により一時的にあなたの身柄を外務省で拘束させていただく。尤も…既にあなたには、争乱準備の嫌疑が掛けられていたので、それだけでも拘束の理由としては十分だったのですがね、ここ数刻の間に、あなたの口から容易に看過しえない不穏当な発言ー犯罪を想起させる言葉が多数発せられていましたから。ただ、それだけでは、こちからからは、あなたの部屋に踏み込むことまでは難しかったのでね、あなたが、たかが足1歩分とはいえ、部屋から出て来てくれたおかげで手間が省けました」
「パ…!」
その瞬間、アンジェリークの腰にオスカーの腕が回された、ぐっと力強くその胸にかき抱かれ「パパ!」と叫びかけたアンジェリークの驚きの言葉は、オスカーの胸の中にとどめられた。