「お嬢ちゃん、よく顔を見せてくれ、本当にどこも痛む処ははないか?苦しかったり辛かったりする処はないか?」
まだまだ安心できぬ、心配でたまらぬ、そんな気持ちがひしひしと伝わってくるオスカーの声音と口調に、アンジェリークははっとして顔を上げる。見るからに張りつめて、安堵と不安がない交ぜに揺れているオスカーの瞳と目があった。その顔は、緊張と心配に未だ強張りが解けておらず、常のオスカーならぬどこか煤け憔悴した雰囲気もまた、ここ半日の彼の心労の程を如実に表していた。
「あ、はい、大丈夫、私は大丈夫です」
「本当か?お嬢ちゃん。だって君の頬に涙の跡がある、俺を心配させまいと、無理をしたり、我慢をしたりはしていないか?」
「はい、本当にどこも何ともありません、オスカー先輩のおかげです…オスカー先輩が、私を全力で守ってくださったから…絶対、私に危害を加えるなって、王子に強く言ってくださったから…そのおかげです」
気丈に答えを返したものの、その言葉を裏切るように、アンジェリークの瞳にじわりと涙が滲んだ。オスカーの顔を見た途端、わかったのだ、どれ程、オスカーが自分を案じていたか、自分の無事を痛いほど祈ってくれていたか、危害が加えられていないか恐れていたか、が。けれど、オスカーは、その心痛を圧して、不安と恐怖を抑えて、王子と一歩も退かぬ交渉をし、工作してくれていたのだ、すべては自分を救い出す、そのために。オスカーがどれほど心を砕き、力を尽くしてくれたことか…歓喜と安堵、いまだ消えぬ不安と恐れがない交ぜになっているオスカーの表情から、瞳の色から、声音から、すべてが痛切に伝わって来て、アンジェリークの胸をいっぱいに満たした。満ちて溢れた気持ちがそのまま涙になった。
もう、アンジェリークは、オスカーのこと以外、何も考えられなくなった。父が何故この場に現れたのかとか、オスカーとどうして一緒にいるのかとか、その他にも疑問は山のようにあったが、そういう諸々はもうどうでもよかった。会いたかった、信じてた、だから、怖くはなかった…何から伝えていいかわからなくて、言葉に詰まる。とにかく、この掛け替えなく愛しい大切な人に心からの感謝の気持ちを、酷く心配をかけてしまったお詫びを、そして、自分の無事を伝えて安心してもらいたい…アンジェリークの頭の中は、オスカーに伝えたい気持ちと言葉、それだけでいっぱいになった。
「…オスカー先輩…オスカー…オスカー……あ、ありが…ありがとうござ…ます…私のこと、助けにきてくださって…助け出してくださって…本当にありがとうござます…信じてました、私、先輩が絶対、助けにきてくださるって……だから、怖くなかった…先輩を信じてたから…」
「当然だ、当然のことじゃないか…けど…よかった…お嬢ちゃん、無事で本当によかった…もう、大丈夫だ、何も心配しなくていい…」
「でも…ごめんなさい…私、いっぱいご心配をおかけして…ごめんなさい…本当にごめんなさい…」
「いいんだ、お嬢ちゃん、お嬢ちゃんさえ無事なら、それでいい。君は何も気にしなくていいんだ、謝るのは俺のほうだ、助けに来るのが遅くなって済まなかった、怖かったろうに…不安だったろうに…君が攫われたのも、もとはと言えば、俺の所為…実家の家業の所為なのだし…」
「いいえ、いいえ、オスカー先輩は何もちっとも悪くないです、そんな、すまなさそうな顔なさらないで、呼び出されるままに、のこのこ出て行ってしまった私が、迂闊だったんですもの、私、先輩に身辺に気をつけるように言われてたのに、実感としてわかってなくて、バカで考えなしで…それで、こんなに心配かけて、ご迷惑かけて、本当にごめんなさ…」
「いや、君は何も悪くない、君が心を痛めることはない…そうだ、その心痛といえば……今更だが、もしや、あのニュースを見て、君は酷くショックを受けていないか?心を痛めていないか?今ここで、詳しいことは言えないんだが、君を助け出すためだったとはいえ、あんなものを見せられた君の心痛はいかばかりだったかと、それも俺は心配で…」
「…あ!大丈夫です、私、わかりました!先輩が、ヒントをくださっていたから、王子と交渉して、私と直接、話してくださってたから…先輩がお声がけしてくださっていたから、私、ちゃんとわかったんです。先輩、本当にありがとうございます、あんな…あんなすごいこと…思いついてくださって…実行してくださって…何より…何も、誰も損なわず、傷つけず、私を助け出してくださって…本当にありがとうございます…」
「そうか…わかって…気付いてくれていたのか…事前に限られた情報しか伝えられなかったから、あんなニュースを見せられて、君が酷くショックを受けるのではないか、自分を酷く責めるのではないかと、それも心配していたんだ…けど、気づいてくれたのなら、よかった…本当に…」
「はい、はい…信じてましたもの、先輩のこと…先輩がどんなお人かも、わかってますもの、けど、だから、最初は…本当に最初の最初は、こんなことあり得ないって…どんな事態になっても、先輩があんなことをお命じになる訳ない、先輩はこんなことができる方じゃない、けど、じゃあ、この映像は何?って、少しの間、混乱しそうになりましたけど…先輩のお言葉のおかげで…「よくニュースを聞いてくれ」って言ってくださってたおかげで、わかったんです、気づけたんです…報道のアナウンスが、その声が、私のよく存じ上げてる方々のものだって…」
「君なら気づいてくれるのではないかと期待はしていたが…それでも100%の保証はないし、事情を後で説明するにしても、それまでの間の君の精神状態が心配だったから、気づいてもらえていたのなら…その方がよかった…本当に…」
「はい、すべて先輩のおかげです、だから、私、落ち着いて、安心してられました…ほっとしすぎて、感激しすぎて、皆さんのお気持ちが嬉し過ぎてありがた過ぎて…しばらくの間、涙が止まらなくなってしまいましたけど…あ、だから、涙の跡はその時のものなんです、私、確かに泣いちゃいましたけど、それは、辛い涙や悲しい涙ではなかったんです、私を助け出そうとしてくださった先輩と皆の…皆さんのご尽力とご厚意が、あまりに嬉しくて感激して、それで涙がどうしようもなく溢れてしまったんです、本当に、皆さんのおかげで、私…なんてお礼を言えばいいのか……」
「ああ、確かに俺1人ではどうしようもなかった…あれも元はゼフェルのアイデアなんだ、俺1人では、あんな手を思いつけたかどうかもわからん…恥ずかしながら、君が拉致されて、俺はかなり動揺していたというか、冷静さを欠いていたしな…気分的に追い詰められた揚句、バカな判断を下していなかったとは言いきれん。周りに仲間がいてくれたおかげで、俺は熱くなりすぎたり、動揺の余り、短慮に走らずに済んだんだ。それに、例えあのアイデアを思いついたとしても、俺1人では、それを実行に移すことはできなかった…本当にヤツらには、感謝してもしきれん」
「それも…皆さんが、お力添えくださったのも、先輩のお人柄ですね」
アンジェリークが涙がまだ止まらないままに、にっこりとオスカーに微笑みかける
「いや、君だ、囚われたのが君だから、君を助け出すためだったからこそ、皆、何も言わず協力してくれたんだ…カタルヘナの姫様も、俺を思いきり怒鳴りつけ罵りたかったろうに、黙って堪えて、即座に力を貸してくれ…!!しまった、ヤツら、君が…俺が君を無事保護したという連絡を今や遅しと待っているんだった!とりあえず、オリヴィエに今、電話するから少し待っていてくれ」
「あ、はい、私も、みなさんにお礼と…心からのお礼と、いっぱい心配をかけたお詫びをしたいです…」
「何度でも言うが、君は何一つ詫びることなどない、君は純粋な被害者じゃないか。悪いのは、寂しい少女の心の隙に、君の優しさに、そして、俺と君の深き熱き情愛に付け込もうとした輩…あの卑劣漢なのだから」
「あ、そうだわ!あの…王子は?それにエンジュのことも…エンジュを早く安心させてあげないと…」
アンジェリークはようやく王子のことを、そして、軽率にも王子に加担してしまった少女のことに思い至る。オスカーが携帯電話でオリヴィエに連絡を取っている間に、顔をあげて周りを見回す。
自分の背後の回廊で、アンジェリークの父カティス・リモージュが、王子と相対し、何か諭すように、こんこんと語りかけている様子が、そして、いまだ王子の部屋の扉の内に、外に出るでも屋内に戻るでもなく、途方に暮れた様子で立ちすくんだままの、やせぎすの少女の姿が目に入ってきた。
そのエンジュはといえば、いきなり現れてその場で複数の人間に命を下している壮年の男性が何者か、ということは、全く知らなかったし、想像することもできなかった。が、その大人の男性が人に命令を下しなれている様子、とはいってもその態度は高圧的でも強権的でもなく、口調も表情もむしろソフトなのだが、彼の言葉には、聞く者に有無を言わせぬ、どころか、むしろ自分から従わせてしまうような迫力と圧力があるのを感じて、エンジュは金縛りにあったように立ちすくんでしまっていたのだった。
それでなくても、エンジュは、先刻から、様々な意味で打ちのめされ打ちひしがれていた。TV報道を見て初めて、王子の企みの恐ろしさを理解した。その結果を映像でまざまざと見せつけられて初めて、自分がなんという恐ろしい計画に加担していたのか、ということを実感として理解し、恐怖と悔恨に心底慄いた。それでも自分を守ろうと必死に責任転嫁と言い訳を試みてはみたが、それは、アンジェリークの静かな言葉に、木端微塵に砕かれた。けれど、アンジェリークを恨む気持ちは不思議と生じなかった、今までのエンジュなら、自分の言い訳をどんな形であれ否定されたら、反射的に頭に血が昇って、我を失う程に激昂していたのに、だ。あの報道を前にしては、流石にどんな言い訳も通じないことは、頭では理解していたからだろう。エンジュに、これはどんな言い訳も通じないと思わせる程に、あの映像の迫力は圧倒的だったのだ。だからこそ、その結果の重大さは、責任の重さは、否応なくエンジュにのしかかってくる。こんな大それたことになってしまって、これから自分はどうなるのだろう、直接、自分がやったことではないが、王子に協力したのは事実なのだから、自分は、どの程度の罪に問われ、どんな罰を受けることになるのだろう、王子の企みによる犠牲者に、自分は何と言って詫びればいいのだろう、この惨劇は自分の所為ではない、爆撃を命じたのは王子だと言い張りたい気持ちもいまだ頭の片隅にはあったが、そんな言い訳が、世間で、それこそ法廷のような公の場で通用するかといえば、それが難しいことは、アンジェリークに諭されて、さすがにわかっていた。
だからこそ、なおのこと、エンジュは恐れに身も心も竦んで動けなり、しばらく前から、ただ泣くことしかできなくなっていた。途方に暮れていたその時、王子に「ここから出ていけ」と言われた。
この部屋を出ろ?確かに、これ以上、ここに居ても仕方ない、でも、その後、私はどうなるの?どうすればいいの?何もわからない、何も考えられない。こんな具合に、頭も体も動作不良を起こしていたエンジュは、アンジェリークに促されるまま、それこそ機械人形のように立ち上がり、足取りも覚束なく、アンジェリークに手をひかれるまま、どこに向かうかもわからぬまま歩み出した。と、その途端、この場での唯一の心のよりどころだったアンジェリークー何も考えられない自分の替わりに、どうすればいいか考えてくれて、だから、気持ちの上で頼りきりすがりきっていたアンジェリークとつないでいた手を、半ば力づくで、王子に解かれてしまい、頭も体も完全に麻痺した。動力源を絶ち切られた機械同然だった。王子に部屋から乱暴に放りだされたアンジェを助けなくちゃとか、アンジェが転んで怪我などしていないかなどと思いいたる余地など微塵もなく、ひたすらに己の孤立無援な気持ち、寄る辺なさに目の前が真っ暗な気持ちで、その場から動くに動けなくなっていた。
が、部屋と回廊の境目に立ちすくんだままでいたからこそ、その壮年男性と王子が交わす言葉を、意図せずともエンジュはすべて耳にしていた。2人がやり取りする様子を目にすることになった。
そして、エンジュはその過程で更なるショックを受けた、両脇をがっちり固められて動きを封じられ、それでも反抗心むき出しで壮年男性に噛みつく王子が…あんな大それた、恐ろしいことをしでかした後なのに、アンジェリークに諭されて動揺する様子を見せていたのに、一転、目の前に権威が立ちはだかったらーそう、壮年男性が身にまとっていたのは真実の「権威」であり、エンジュは、それを初めて肌身で感じ、慄いていたのだったーには、彼我の力量差も解せず、とりあえず反射的に反抗せずにはいられない王子の様子が、何故か、とてつもなく幼稚に見えてきた。王子の命令で、数え切れない人命が失われているやもしれないのに、恐れも後悔も見せず、もはや、自由を奪われ囚われの身であるのに、自分のやった悪さを勝ち誇って誇示するような態度と口調は、いきがっている不良少年のようだった。
この人は、なんと幼く、小さい…つい先刻までは、王子を自分のカリスマとあがめ、王子の言に従ってさえいればいいと盲従し自分の言動すべてを丸投げして思考停止していればよかったのに、今や、アンジェリークが、王子を「弱くて悲しい人」と評していた言葉が、エンジュにも肌身で実感されはじめていた。エンジュは、もはや、王子に全てをゆだねられないと感じており、そんな自分の心の在り様の変化にエンジュ自身がショックを受けていた。
両腕をしっかりと拘束されているにも拘わらず、青年は、壮年の男性の姿を認めた途端、激しくもがき、その男性に対し、まるで牙を剥きだして噛みつこうとする獣のように暴れた。
「貴様…総領事!何故、貴様がここにいる?!」
罠にかかった獣のような様子の青年とは対照的に、その壮年男性ーアンジェリークの父にして、王子の故国に派遣・駐在中の総領事であるカティス・リモージュは、どこまでも冷静で落ち着いた態度と口調を崩さなかった。
「私が、あなたの後見人であり、身元引受人だからです。国王に、この国でのあなたの後見を依頼され、この国の役人としてあなたの身元を引き受け、2重の意味で、私はあなたの保護者だ。被保護者が不始末を起こした場合、保護者が身柄の引き取りに呼び出されるのは当然のこと、義務の一つです。自明のことでしょう」
その瞬間、カティスから、それまでの飄々とした態度が霧消した。いや、表情も態度も変わらないのだが、その眼差しが、氷のように刃のように鋭くきらめいた。
「王子、この部屋は、確かに、言わば、あなたの領土といえましょう。が、領土といっても、この一室は、あくまで我が国から王子に一時的に貸与された、いわば居留地、便宜上、治外法権を認めてはおりましたが、ご自身の領地そのものではないし、たとえそうだったとしても、領内でなら君主は何をしてもよい、ということにはならんのです。己が領地内であっても、無法悪逆の限りを尽くした領主ーそれこそ罪なき人民の大量虐殺をしでかすような領主は、歴史上でも、裁きにかけられ最終的には処罰されております、領主や君主は神ではない、何をやっても許される、決して罰せられない、などというのは、甚だしい思い違いですぞ、王子。それでも…あなたがテロの計画を立てていたとしても、それがこの部屋の内部で単に計画を練っているだけなら、かつ、あなたの攻撃対象があなたの祖国に限定されているなら、あなたのしていることはあくまで内乱の準備ー○○国人が、互いに自国内で殺し合いをする、というだけなら、他国が介入や干渉するのは、よほどの大義名分がない限り難しい、内政不干渉の原則に照らし合わせ、大事にならない限りは黙認すべしという意見も上層部にはあり、故に、このまま見て見ぬふりもあり得たのですが…王子、あなたは内乱の軍備を整える方策としてこの国の婦女子を誘拐略取した上で、この国の青年を脅迫し武力の提供を迫った、しかも、留学先の大学に、爆発物を仕掛けたと言って騒ぎを起こしたのは度が過ぎました。あなたが大学から少女を拉致する際、その少女は、あなたが爆発物を構内に仕掛けたことを友人に大きな声で伝えており、その声を当時学生会館内にいた多数の学生が見聞きしておりました、また、その声を受けた学生が爆発物処理を公的機関に依頼したため、もみ消す、いや、外務省内のみでこの件を処理するのが難しくなった。そして依頼を受けた公的機関により学内が徹底捜索され、実際に不審なガラス瓶が数個発見された。中身の薬剤は実際に爆発するようなものではなかったそうなので、あなたは、その少女が、抵抗した時、見せつけ脅しに使うだけのおつもりだったのでしょうな、実際に危険物でなければ…単に何かの液体の入っている瓶というだけなら塵介処理され、証拠も翌日には消えていたのでしょうが…けれど、ガラス瓶はその前に発見されてしまい、調査分析された。結果、内容物に問題はなかったものの、それについていた指紋が、入国の際、押捺していただいたあなたの指紋と合致した。こうなっては、もう、どうしようもありません、下世話な言い方になりますが、あなたは、少々、やり過ぎたのです」
「…貴様、俺を…俺の言動をどうして、そこまで詳しく…逐一監視しては、報告させていたのか…」
「あなたの護衛も、この部屋も、我が国の外務省が、王子のためにご用意させていただいたもの。そして王子はこの国の賓客、大切な御身に何かあっては外交問題になってしまいますから、大事なきよう護衛し、見守らせていただくのは当然の義務と我らは考えております、無論、護衛は24時間、あなたの言動は常に注視され、片時も目を離されることはない、それ位、あなたの御身分を考えれば、先刻ご承知のことと思っておりましたが…だからこそ、真実、捲土重来を図るなら、あなたは、もっと、慎重にことを進めるべきだった、何より、この国の国民を巻き込むべきではなかった。あなたをお預かりする省庁としても看過できる事と、できないことがあるのですよ、あなたは、その辺り、何をどう勘違いなさったのか…我らを見縊り、甘く見て、ご自身は、何をしようと、罰せられることも拘束されることもないと思いあがっておいでだったのかもしれませんが…。また、それとは別に、本日、王子は外から来客を迎え入れられた。王子に接触を試みる者の素性は、厳密に調査されます、これも大切な御身を預かる上では、当然の措置です。そして、彼女たちは、同じ大学の1年生、と判明したために、あなたの学友として、とりあえず入室が許されたのですが…それは、いわば「来客が不審な動きや発言をしないか様子を見る」ためでもありました。王子に害をなそうという意図があって近づいてきた人物でないという確証がすぐにはとれなかったので、王子の御身に危険が及ばぬよう、室内の言動はリアルタイムで監視…というと聞こえが悪いですな、常にも増して綿密に、会話の類は、逐一チェックし、記録させていただいておりました。その辺りの対応も、あなたの身分を考えれば、当然の措置です、真のセレブリティに、プライバシーは存在しない、その辺りもご承知のこととばかり…」
「ふん…で、監視の結果、我の犯罪の証拠が取れたから、我を拘束しに来た、というわけか。だが、我を拘束する根拠は、この国内でこの国の民に対して、我が何をやったかであって、俺が故国にしでかした事に関しては、あくまで内乱扱いか?内政不干渉の原則に応じて、不問に処す、のか?あの大量虐殺を?は!これだから、大国の論理というのは信用ならん、自国の損得に関わらないことはすべて目をつぶって頬かむり、とはな。それも、領事、おまえが、俺のお目付け役として帰国していて、自分が命拾いしたからこそか?その余裕は…」
「命拾い?はて、何のことやらわかりかねますが…」
「とぼけるな!我の言動を逐一見張っていたお前たちなら知っている筈だ!もっとも…知っていても異国のことなので何もできず手をこまねいておりました、所属不明の爆撃機が非戦闘員を虐殺する計画を止めだてすることもできず看過していました、何人死のうと、自国民ではないからいいとばかりに放置していました、とは口が裂けても言えぬだろうがな!」
「物騒なお話は、後ほど改めまして。どちらにしろ、こんなところで、立ち話もなんですから…さて、王子、そろそろ参りましょう」
「後ほどか…ふん、では「後ほど」おまえたちは、我をどうするつもりだ?参るとは、どこに我を連れて行くつもりか?このまま厄介者は闇から闇に葬るか?」
「めっそうもない、我らは犯罪組織ではないのですよ、ましてや、今、ここに、これだけー複数の目撃者・関係者がいるのです、もし、本当に人1人を闇に葬ろうと考えるなら、もっと目立たぬ刻限に、関係者も最小限にとどめ、あなたをあの部屋から連れ出したでしょう、我らには、そうしようと思えばできた、と王子がお考えなら、逆にできるのにやらなかった我らの誠意、及び法を遵守する気持ちをいささかなりとも信じていただきたいものですな。とりあえず、王子には改めて入国審査のための査問を受けていただきます、あなたは、今、出入国管理の許可得ずして部屋から出た、つまりは、入国審査を経ずに入国しようした現行犯です、同じことを空港や港湾でやれば…入国管理の審査及び許可を受けずに、足一歩分であれ、無理に踏み入ろうとすれば、職員により拘束され別室に連れていかれ、取り調べを受ける、それと同じことです。その結果、あなたが、既に、この国で何か騒ぎを起こしていたとか、よからぬ企みを計画中だった等が判明すれば、あなたをこの国に入国させることはできない、と、いうことになるかもしれない、そういう結論になれば、母国に強制送還もありえましょう。入国希望者に問題アリとみなされれば、出入国管理局は権限により、その人物を拘束したり、故国に送還する権利を持ちますのでね」
「あの廃墟と化した故国に我を送り返し、我のしでかした…いや、成し遂げた偉業を肌身で知らしめ、こらしめようとでもいうのか?無駄なことだ、何せ、我のやったことは、そう容易く余人には真似できるものではない、まさに歴史に残る偉業だ、小なりといえど、一国家を完膚なきまでに灰燼に帰し、一夜にして葬り去ってやったのだからな、は、はははは!反省?後悔?罪悪感?さような物、微塵も感じぬ、感じさせようとしても無駄なことだ!」
「…うそつき」
青年の背後から耳に届いたのは穏やかな声音だった、が、その痛烈な一言は、青年をぎくりとさせた。両腕をしっかと絡め取られてはいても、顔の向きは変えられる、青年は、声のした方に振り向いた。自分が捕えていた、そして、先刻部屋から叩きだしたはずの少女ーもう、とっくに逃げ去ったと思っていた少女が、赤毛で長身の青年の腕の中で、静かにこちらを見据えていた。目が合うと、その少女が口を開いた。
「もうやめて、嘘をつくのは。自分を大きくみせようとするのも。そんなことを続ければ、あなたは、追い詰められて、もっと苦しくなっていくだけなのに…」
「…女…おまえ、まだ、いたのか…もう、おまえに用はない、と言ったはずだ。ふん…もしや、そいつがクラウゼウィッツ、おまえのために大量虐殺までやりおおせた男か…その愛しい男と、さっさと去ぬがい…」
そこまで言うと、青年ははっとして顔をあげ、みるみる勝ち誇った笑みを浮かべると、回廊の端でいる2人の男女の男の方を顎で差し示した。
「そうだ!おまえたち、何故、あの男は拘束しない!?我は、確かに爆撃の計画を立て、その命を下した、その意味では主犯だ、拘束されるも止むなしであろう、が、実際の実行犯はそこにいる男、クラウゼウィッツだぞ!女1人の命のために、自分に無関係の人間なら何人死んでも構わぬと結論し、実行に移したのはその男だ!我ばかり拘束するのは片手落ちであろうが!」
名指しで糾弾されたオスカーは、微塵も動じず、ただ、心底うんざりした様子で青年にこう問い返した。
「…おまえ、そうして、ようやく巡り合えた俺たちを引き裂き、不幸に陥れたいか?何故だ?」
「破滅するなら諸共だ…おまえだけ…お前たちだけ、我を踏み台にのうのうと幸せになどさせてなるものか…」
「無辜の民を踏みにじって私怨私憤を晴らそうとしていた男が何を言うか!お前、本来、俺に恨みは無い筈だろう?俺とお前の間には、誘拐犯と被脅迫者という関係しかないし、まみえるのも今が初めてだ、なのにお前が俺を許せないと思い、不幸に陥れたいと願ったのは何故だ?」
その問に王子は応えない。
「誰彼構わずではなく、お前は「俺」が幸福になるのが許せないと感じ、糾弾した。何故だか、俺にはわかる気がするぜ。お前は俺が羨ましいんだ。女1人のために、一切の未練なく何もかも捨てようとし、その代わりに愛する女の命を救った俺が、果断に、迷いなく行動した俺が妬ましくてたまらないからだ、違うか?お前が彼女を攫い、俺を脅迫したのは、無論、俺が兵器産業の御曹司だったから、というのが第一だろう、俺を攫うよりは、華奢なお嬢ちゃんを攫う方が容易かったというのもあるだろう、しかし、お前は、この誘拐劇の最中、どこかで、俺を試したい気持ちが生じたんじゃないか?婚約者を攫われた俺が、どう出るか、見てみたくなったんじゃないのか?男が、愛する女と恵まれた環境、どちらを取るか、女と引き換えに、地位や身分を捨てる勇気があるものか、ましてや犯罪者になる勇気などある訳がない、所詮、男は自分の地位やら野心やらの方が大切で、女よりそっちを選んでしまうものだと…そっちを選んでしまうのは、自分だけじゃない、皆、同じだと思いたかった、そして、自分に言い訳をしたかったんじゃないか?自分は悪くない、自分だけが悪いんじゃない、とな」
「…き、貴様、何を…」
「お前のこと、調べさせてもらったぜ。敵を知れば、百戦危うからずだかからな、それで、わかったことがあった。お前、自分の過去を振り返ってみてどうだ?俺と比べて自分はどうだ?愛する女のために、お前は何をした?何もしなかったんじゃないか?自らは何一つ自らは動かず、何一つ捨てようとしなかったんじゃないのか?自らの身分と待遇を捨てる勇気もなく、市井で生きて行く気概も見せず、与えられた環境に甘え、くだを巻いて愚痴をこぼしていただけじゃないのか?愛する女のために、お前は、自分から、何かしてやったか?何もしなかった、してやらなかった…その結果、愛する女を失った、違うか?」
「黙れ…だまれぇええ!」
「身分違いの恋、など、古今東西、いくらでもある、その恋を貫くために、王族の地位を、王位継承権を捨てた男だって実際にいる、が、お前はどうだ?王族の地位も、安楽な暮らしを捨てる気もなく、市井の人となって額に汗して働く気もなかったんだろう?街の酒場で、税金で飲んだくれては愚痴をはきくだを巻いていたらしいじゃないか?結構な御身分だ、そういう安楽な立場を捨てたくない、王族の地位も捨てる気はない、そうと決めたのなら、それはそれでいいさ、なら、その気持ちを、その女性にお前は伝えたことはあるのか?その上で、作法やしきたりや差別感情で苦労をかけるかもしれないが、王族の一員となってくれ、と、その女性に懇願したことが、一度でもあったのか?」
「っ…煩い、煩いっ!」
「お前は、こんないい年になるまで、拗ねて甘えているだけで、何一つ、自ら動こうとも、選びとろうとも、捨てようともしなかった、その挙句、愛する女を失った、その情けない在り様をお前は言い訳したかっただけじゃないかのか?俺が婚約者を見捨てて、大企業の御曹司の地位にしがみついていたら…もしくは、爆撃を命じる決断を下せず彼女を見殺しにしたら、お前はさぞかし安堵し、心慰められたことだろうな?男は皆、お前のように、卑怯で小ずるく、身分や地位に恋々とするさもしい存在だ、安楽な暮らしを捨てられず、勇気も決断力もなく、自らは何一つ動こうとせず、その結果、女を失うのは自分だけじゃないんだと、安心できただろうからな。だから、お前は俺の婚約者を攫って俺の出方を伺った、他人をー俺を過去の己と同じ立場に追い込み、自分と同じように、俺が卑怯でさもしく心弱い振る舞いに出ることを期待した、そういう気持ちも心のどこかにあったんじゃないか?そして、俺が過去のおまえと同じようにふるまえば、おまえは悪いのは自分だけじゃない、皆、似たようなものだと思えるものな?仕方なかったと言い訳も出来るし、安心もするものな?」
痛烈な皮肉を、オスカーは休むことなく青年に浴びせ、最後に力強くこう言い切った。
「だが!あいにくだがな、俺には、このアンジェリークより大切なものなど何もない!何一つ比べるものなど存在しない、何とも引き換えに出来ない大事な存在、それがアンジェリークだからだ!この気持に迷いや躊躇は微塵もない!」
ぐっ…と、青年が詰まった。一瞬、痛い処を突かれた、という顔をして、悔しそうにー今にも泣きだしそうなのを必死に堪えているようにも見える顔をあげ、ムキになった様子で、ただし、あまり力のない声で反駁しはじめた。
「はっ!その挙句、おまえは大量虐殺者ではないか!確かに貴様はご立派だよ、クラウゼウィッツ、女1人のために、大企業の御曹司の地位どころか、何人の命を顧みず、人殺しになるのも厭わなかったんだからな!我にはとても真似できん、確かに我は何もしなかったかも知れん、その結果、1人の女の命をみすみす失った…が、無量大数の命を犠牲にするより、まだマシではないか、我の方が…我の方がまだマシではないか…」
「ほう?なら、お前にも、私怨からー己が無念を晴らすために内乱を起こして無辜の民の命を多数犠牲にしようとしたのは間違った考えだったという気持ちが多少はあるんだな?…あの映像を見て、流石に思い知ったか…故国を壊滅させても、何も得る物はなかったと…」
「っ!う、煩い!今更、それが…そうとわかったしてもどうするというんだ!もう、どうしようもないではないか!我はお前を使って故国を壊滅させ、お前は大量虐殺者となった…お前のようなバカがいたおかげでな…この結果は覆らぬ、我が何を思おうが、考えようが現実は変わらぬ…今更、何も、どうしようもない…」
何もかも破壊し尽くし、焼き尽くしたとしても、自分は何一つ得る物はなかった、無念が晴れた爽快感もなく、復讐を成し遂げた達成感もない、少女は実際には王に殺された訳ではないから…自分では仇討が内乱を企てた大義名分のつもりだったが、実際は、単なる逆恨みだ、逆恨みで内乱を起こされ、死んでいった故国の人民はまさに殺され損なのだろうが…それを口にして認めるのは、事ここに至っても、青年にはいまだ肯じえなかった。ちっぽけなプライドが、いや、肥大しきっているが、内実は何もないすかすかのプライドが、いまだ、青年に自分の過ちをはっきりと認めることを許さなかった。
けれど、口にはできぬが内心では…という青年の心の動きをくみ取ったかのようにオスカー・クラウゼウィッツがぽつりと言った。
「…それが…それだけでもわかったなら…無駄じゃなかったと思うぜ」
オスカーの腕の中に収まっている少女も、ぶんぶんと勢いよく肯いた。
「そ、そうよ、王子!自分で間違ってたと思ったなら…口にしなくても、思うだけでもいいの、そう思ったところでやり直せばいいじゃない!何度でもやり直せるのよ、人は!生きてさえいれば!」
「!……そうかもしれぬな、生きてさえいれば…か。その命を絶つというのは、己の物であっても罪深い、ましてや、他者の命をや…だ」
「そうだ、実際に内乱が起きていたら…無数の人の命が失われて初めて、自分は間違っていたとわかりました、気づきました、では、取り返しがつかなかった、おまえの「気づき」のために殺された人は、たまったものじゃないからな…どうやっても償えない代償、高すぎる代償になるところだった…」
「それは、お前とて同じではないか、クラウゼウィッツ!お前とて、高すぎる、償いも贖いもできない代償を女1人のために、支払っているではないか!お前は大量虐殺の実行犯ではないか!命じられてだろうが、脅迫されてだろうが、やったことに、その事実に変わりはなかろう!」
青年の弾劾の言葉に、当然のように、オスカーを全く動じない。
『ふ…俺がこの愛しい女性の顔を2度と見られなくなるようなバカな真似をすると思うか?』
寸前まで出かかった言葉をオスカーはとどめた。
それは、今、俺が明かしていいことじゃない、真実を告げるべきと思った時に、リモージュ氏が真相を明かすだろう、その時まで、せいぜい、自分の計画が実行されていたら、どれ程の惨事になっていたか、その結果にどれ程後悔してもしきれぬ思いに苦しむか、身にしみて思い知るといい。今、こいつが、自分の無思慮・決断力のなさ・責任転嫁癖ーつまることろ大人になり切れておらぬ精神の未熟な人間が、下手に力を得たら、挙句、どういう事態を引き起こしうるのか、肌身で学ぶことができれば、こいつも一皮むけるだろう。なれば、俺は、図らずもこの幼稚な青年が学び成長するための良い教材を提供したことになるのだろう。それは、こいつのため、ではないー俺にこの男を成長させてやる義理はないし、そこまでお人よしじゃないーけど、今回の件は、将来、こいつの悪巧みに巻き込まれ、迷惑を被る被害者を無くせたか、少なくとも減らすことに役だった筈だ、それを良しとしよう、とオスカーは考える、その考えがオスカーに余裕の態度を取らせる。
しかし、多少なりとも、クラウゼウィッツにやましさとか後ろ暗さを感じさせたいと願って非難の言葉を口にした青年は、当てが外れた。青年の弾劾に、反応を示した者は誰もいなかった。何より、当のクラウゼウィッツは、青年の糾弾などどこ吹く風で泰然としている。その、しゃあしゃあとした態度に、青年は退くに退けない様子で、周囲に喚き散らした。
「おい!なぜヤツを拘束しない!?」
と、カティスが、わからず屋の駄々っ子を宥めるがごとく、噛んで含めるような口調で、青年に語りかけた。
「我らは外務省の役人ですよ、王子。入国の際に問題を起こした異邦人であるあなたを拘束する権限はありますが、自国民を拘束・拘禁するような権限は持ち合わせていないのです、彼にも裁かれる罪状があるならば、しかるべき機関・関係省庁に連絡はしておきますゆえ…さ、もう、参りましょう」
にこやかに、だが反論を許さぬ口調と態度で、リモージュ氏が青年を黙らせた。
『まったく、リモージュ氏は、役人というより役者だな、それにしても俺に裁かれる罪状なんてあったか?ああ…電波法違反で厳重注意か罰金ってとこか』
オスカーが言葉を口には出さずに、思わずにやけそうになる口元を押さ様とした、その時だ
「まって、待って…」
と、己が胸の中にいたアンジェリークが、王子を連れ去ろうとした父カティスを呼びとめた。すると
「どうしました、お嬢さん?あなたもこんなことに巻き込まれ、さぞ怖い思いをされたことでしょうし、酷くお疲れのことでしょう、お友達と一緒に早く寮に帰ったほうがいい、寮には、万事、問題なきよう、手配しておきましたから、帰寮が遅れても、そう、酷く叱られることはない筈です、帰りの足の都合がつかなければ部下に命じて車でお送りしますが?」
と、慇懃に他人行儀に父が応えた。
アンジェリークは、はっとして悟る、父は、今「自分の父」ではなく、一官僚として自分に接している、つまり…私的な関係を明かさぬ方がいいのだ、と。
「あの、あの…その王子が画策したことは、確かに、いけないことで、取り返しのつかないことで…けど、王子も、今は多分、自分の考えが間違っていたって、もう、気づいてると思うので…あまり、酷いことはしないであげてください、それと、あの、エンジュは…エンジュはどうなるんでしょう…」
「もう1人のお嬢さんも、同じ大学の寮生でしたね、こんな処に閉じ込められてさぞ、不安だったことでしょう、もう大丈夫、心配せずとも寮までお送りしますよ」
「え?!」
「…ええっ?」
アンジェリークと、少し遅れてエンジュ自身も驚きの声をあげた。
「い、いいんですか…このまま帰れるんですか?エンジュも…」
「無論です」
「で、でも、私、私、取り返しのつかないことを…いえ、それは、私が直接したことじゃないけど、けど、私、王子にアンジェを会わせてしまって…私がアンジェを会わせなければ…アンジェがここに連れて来られることもなくて、閉じ込められることもなくて、そしたら…あんなことに…ならずに済んだ…だから、私…」
「あなたは、こちらのお嬢さんと顔見知りだった、そして、こちらの留学生とも知遇を得ていた、そして、留学生に、自分の知人であるこのお嬢さんを引き合わせ紹介した、そうですね?」
「は、はい…」
「自分が仲立ちとなって、知り合いに知り合いを紹介する、というのは、世間一般でも、よくあることで、それ自体は、何も問題はない、しかも、その後、こちらのお嬢さんを車に載せ、ここまで連れてきたのは、あくまで、この王子だ。あなたは、自分の判断で、こちらのお嬢さんが1人連れ攫われるのに任せておけず、とっさについてきてしまった、そうですね?そして、このお嬢さんを施錠した部屋に閉じ込め、婚約者に脅迫電話をかけたのも王子の単独犯行で、あなたは、それらの件には何も加担していない、違いますか?」
「そ、そう言われたら、厳密には、そう、なるんですか…?」
「あなたは、この誘拐劇にいささかの関わりはあったものの、基本は、巻き込まれた人物、というのが、我が省の判断です、室内での会話は逐一傍聴・記録されており、あなた方の背後には、何らの組織、人物、国家も関与していないことも既に判明している、そして、自国民であるあなたを、外務省である我々は時と場所により保護することはあれど、処分を下したり、ましてや罰する法的権限を持ち得ません。故に、私共で、お嬢さんに何ら関与は致しません。ああ、それとも、今、どこか、お加減の悪い処でもおありか?その場合は、国民を守る役人の義務として、医療の手配をいたしますが?よろしいか?」
カティスの言を即座に飲み込めていない様子のエンジュに替わり、アンジェリークがとっさに自分たちには何も問題が無い旨を返答した。
「いえ、王子は、私に、私たちに、本当に何も酷いことはしませんでした、指1本触れなかったし、縛られたりもしなかった、本当です、だから…」
その言葉にカティスがにっこりと笑う、目じりに人好きのする笑いじわが生じた。
「了解しました、お嬢さん、彼の紳士的な振る舞いは、きちんと評価され、酌量されることでしょう、あなた方は何も心配せず、お帰りなさい、そして今日のことはすべて忘れて、明日から、普通の学生生活を送られるといい、私はそう願い…望みます」
立ち去ろうとしたカティスを、今度はエンジュが取りすがるように必死に呼びとめた。
「でも、だって…私、このまま、おとがめなしで、済んで良い訳ないんです!私、あの国の人たちになんといってお詫びをすればいいか、どこで、どう、何をして償えばいいか…どうすればいいんですか?私は、どこに行って、どう訴えたら、きちんと償えますか?裁きを受けられますか?」
「う…む、どうしても、とおっしゃるなら…そちらの男性、クラウゼウィッツ氏にしかるべき処に、連れて行ってくれと頼んでください、彼なら、万事、首尾よく手配してくれるでしょう、では、失敬、さ、王子、参りましょう」
カティスは有無を言わせぬ態度で、先ほどから黙りこくって、見るからに消沈した様子の王子を、優雅にエスコートするように引っ立てて行った。
去りゆく彼らの姿を見送った後、オスカーはアンジェリークの肩を抱いてこう言った。
「さ、帰ろう、お嬢ちゃん、仲間たちには君の無事はもう知らせておいたから安心しな?ヤツら、君の無事な姿を確認したがっていたが、すでに寮の門限も過ぎていることだし、今夜はまっすぐ君を寮に送り届けるってことで納得してもらった」
「あ、じゃあ、せめて、取り急ぎ、電話で皆さんにお礼だけでもしたいです」
「ああ、そうしてやれば、カタルヘナの姫さまもオリヴィエもより安心するだろう、車に乗ったら、電話をするといい、さ、そちらのお嬢さんも行くぞ、寮までは俺が送ろう」
すると、エンジュはきっ…とオスカーをにらみつけた。
「あなた…オスカー・クラウゼウィッツ、どうして私を責めないの!詰らないの!あなたの大事なアンジェを危険な目に合わせた私を、挙句、一つの国を滅ぼすことになっちゃって…多くの人が死んだかもしれないのに…なんで、そんな平然として、私を寮まで送るなんて言ってるのよ!…私を責めてよ…怒ってよ…おまえの所為だって…それで、私の行く先は寮じゃないでしょ!?警察?あの国の大使館?どこ?どこに行ったら、私、謝れるの…償えるの?教えてよ…」
「う…む、確かに俺は、君に言いたいことが山のようにあった、が、君も、もう、色々なことが、十分に身にしみていることだろうし、第一、俺のお嬢ちゃんは、君を詰るとか責めるなんてことは望んじゃいない。実際、誰1人死んでもいないし、何一つ壊された物もないからな、誰に何を謝るっていうんだ?」
「ふざけないでよ!あんたが!…ううん、あなたに、あんなことをさせたのは王子だし、その切っ掛けを作ったのは私だけど…けど!だからって!私をからかって、バカにして!ふざけないでよ!私が悪かったこと位、わかってるわよ!もう、嫌って言うほどわかってるわ、だから、謝りたいの、償いたいの…お願い、どうすればいいの、教えて…」
と、オスカーが応えるより先に
「それ位にしといてやれよ、その態度じゃ、この女、あんまり、懲りてねーみてーに見えるから、オスカーの腹の虫も収まりわりーのかもしんねーがよぅ」
という言葉とともに、コードをぐるぐると巻きとりつつ、チューナーのような機材を抱えたゼフェルが、回廊の向こう角から現れた。
「ゼフェル!ゼフェルも来てくれてたの!」
アンジェリークが驚きと喜びの声をあげる。
「あったりめーじゃん。この俺様が!直々に!現場でリアルタイムで回線調節しねーで、あれほど見事な電波ジャックができるかっつーんだ。しかも、あの番組、すげー臨場感だっただろ?すぐにバレるようなちゃちいもん、作る訳にもいかねーからよぅ、かなり徹底的に作りこんじまったが、その分、おめーが怖がってねーか気になってたんだが、けど、さっき、おめー、ちゃんと気がついてたって声が聞こえたんで、安心したぜ」
「ああ、そうよ、そうよね、ゼフェル、ありがとう、本当に本当に色々な意味でありがとう、なんてお礼を言ったらいいかわからないわ、あの国のたくさんの人を救ってくれて、オスカーを救ってくれて…このエンジュも、あの王子も、戦争犯罪人にしないであげてくれて…全部、ゼフェルのおかげよ」
「礼を言うなら『私を助けてくれてありがとう』が、真っ先にこなくちゃおかしーだろーが。おめーときたら、いつでも、自分の事は後回し、つーよりハナから念頭にねーんだから、困ったもんだぜ、ったく」
「全くだ、いつでも、周囲のことを真っ先に考えてしまうお嬢ちゃんは、もう少し、自分のことを優先して考えてくれた方がいいんだぜ?けど、そこがお嬢ちゃんのお嬢ちゃんたる所以、俺が惹かれ焦がれて止まない美点の一つなんだから、困っちまう」
「あ、そうか、そうだったわ、ゼフェル、助けてくれてありがとう、ゼフェルのくれたペンダントのおかげで、すぐSOSも出せたし、だから、すぐ駆けつけてくれたんでしょう?私、どんなに心強かったか…それに、オスカー先輩に協力してくれて、いいアイデアを出してくれて本当にありがとう…」
「…あんたたち、何言ってるのよ!あんなに町が壊れて!人が大勢死んじゃったかもしれないのに、ありがとうも何もないじゃないの!」
エンジュが、大人の話の輪に入れない幼児が地団太を踏むような態度を見せた。アンジェリークだけは申し訳なさそうな顔をしたが、オスカーとゼフェルはやれやれという顔をした。
「…こいつ、本当に身にしみてんのか?ここで逆切れするって在りかよ。この態度で、反省してんのかぁ?いっそ真相教えねーほうが、いいんじゃねーか、真相知って、おとなしくなるともおもえねーし、真相知らないでいる方が、まだ謙虚でいるんじゃねーの?」
「何言ってるのよ、訳わかんないこと言わないでよ、私が悪いのよ、そうよ、私が悪かったのよ!だから、謝りたいって、償わせて言って言ってるのに、なんで、あんたたちは、のんきにのほほんと笑いあってるのよ!」
「ああ、ごめんなさい、エンジュ、知らせるのが遅くなって。あのね、大丈夫、大丈夫なの、誰も何も壊れてないし、傷ついてもいない、亡くなった人なんて1人もいないの、だから安心して、そんな気を張り詰めなくていいの」
「な…何言ってるのよ、アンジェ、あんた、私と一緒にニュース見たじゃないの!泣いてたじゃないの!なのに、いきなり、何言いだすのよ!」
「仕方ねーなぁ。それはだなぁ。あのニュースが全部、嘘っぱちだからだよ」
「あのニュースは、TVのもラジオのも、ここにいるゼフェルとオスカーが作って、流した偽の報道番組だったの!王子に私を解放させるための。誰1人傷つけずに、私を解放させるためのフェイクのニュースだったのよ!」
「俺様という稀代の天才いてこその作戦だったけどな!」
「その点に関しては素直に謙虚に認めるぜ、ゼフェル、お前がいなければ、そして、多くの友の協力なくして、この無血解放はありえなかった、心から感謝する、感謝している」
「っち、そう面と向かって言われたら照れるだろーが!そこはさらっと流せよ、さらっとよぅ!実際、ニュース原稿読んでくれたヤツらのそれっぽさも半端なかったしよぅ!俺1人でも、オスカー1人でもできねー作戦だったかんな」
「…嘘…?あのニュースが嘘?ニセモノ?」
「そう、そうなのよ、エンジュ、あの廃墟の画像も、ニュースの音声も、全部、作り物なの」
「作りもの…?…あのニュースは本当のことじゃなかったの?…じゃ…じゃ…王子を…だましたの?」
「ええ、だますっていうと悪いことみたいだけど…王子のあの要求を呑むことはどうしてもできない、決して受諾してはいけないことだったと、エンジュ、今のあなたならわかるでしょう?あのニュースは確かにフェイクだけど、王子の要求を真実飲んでいたら、あの画像は本当のことになる処だったんですもの、けど、そうはさせないために、誰1人傷つけず、何も損なず、私を、私たちを救い出すために…オスカー先輩が、ゼフェルが…先輩方やお友達が協力してやってくれたことだったの。だから、安心して?誰も亡くなってないし、何も壊れてないの、王子の故国は平和で平穏な朝を今頃迎えているはずよ」
「……」
「わっと、ととと!」
エンジュの膝ががくりと砕け体がくず折れた処をゼフェルがすかさず支えた。
「て、こいつ、気絶してやがる」
「安心して、気が抜けたんだろう、責任とか罪悪感やらのプレッシャーに耐えかねて、張りつめたハリネズミみたいにキリキリカリカリしてからな」
「って、ごたくはいいから、おめー、手伝えよ、オスカー!俺ぁコードや機材も抱えてんだぜ、しかも、この女、やたら重ぇんだよ!やせっぽちなのに、なんで、こんなに重ぇんだ!」
「どうせなら、お嬢ちゃんを運んでやりたかったがな、じゃ、悪いがお嬢ちゃん、1人で歩けるか?外に車を待たせてあるから」
「はい、オスカー先輩、私は大丈夫です、エンジュを運んであげてください。エンジュは、ずっと緊張して、罪悪感に苛まれて、押しつぶされそうな気持ちだったろうから、無理もないですもの、私は、あのニュースがフェイクって気づいたから、ショックを受けずに済んでましたから」
「ああ、お嬢ちゃんをこの手に抱いて運ぶのは、次の機会までの楽しみにとっておくとしよう」
ばちんとウインクしながら、オスカーはゼフェルと2人がかりでぐったりと人事不省になってしまったエンジュを、オスカーのポルシェの後部座席に押し込んだのだった。