Before it's too be late 6

今日は大学の入学式、アンジェリークは、弾む心でこの日を迎えた。まるで、初めて学校にあがる子供のようだと、自分でも少し気恥かしくなる程に、ウキウキとしている。

だって、この入学式に、愛するオスカーだけでなく母も一緒に出席してくれるのだ。彼女の母・リモージュ夫人は、娘の入学式に出席するため、今日までオスカーの元に滞在してくれていた。

アンジェリークが高校入学後、領事職にある父は、任地で、いつ何があっても即対応できるよう、バカンスをとっても日帰りできる距離の保養地までしか遠出しないし、加えて両親は常に仲睦まじく、丸1日以上離れていることがない、だから休暇といえば自分の方から父の駐在国に尋ねていくのが、ここ数年来アンジェリークには当たり前のことだった。しかも、オスカーと恋仲になってからは、帰省時に大概オスカーも同行してくれたので、道中も両親宅に滞在中も殊の外楽しく過ごせていたし、この年度替わりの休暇も同様の予定だったから、高等部の卒業と大学部への入学時に両親の出席がなくとも、寂しいとは思っていなかったし、それを嘆くほど子供ではないつもりだったーだって、自分には、オスカーという大切な人が傍にいてくれるしーそれでも、母が入学式に出席してくれる、というのは、アンジェリークには予想外だったからこそ、望外の喜びにもなった。

そして、その母の滞在が純粋な喜びとなった、いや、喜びにしてくれたのはオスカーだった。オスカーの尽力が、母の滞在を喜びに変えてくれた。オスカーが迅速かつ大胆かつ的確な助言でアルテマツーレを動かしてくれ、その結果、父の駐在国で起きた騒乱が極めて速やかに鎮圧されたおかげだった。父の安否、及び、かの国の情勢が掴めず落ち着かない時間を過ごしたのは、過ぎてみればたったの3日間で済んだのだ。

支社から、S国軍の軍事行動の終息=騒乱鎮圧の知らせを受取ったオスカーは、アンジェリーク母娘にその旨を伝え「安心してください、これでリモージュ氏の身に危害が及ぶ危険は、ほぼ消えたと言えるでしょう。程なく、君のパパと連絡もつくと思うぜ、お嬢ちゃん」とウインクを添えて、告げてくれたのだった。

アンジェリークとリモージュ夫人は、ただただ涙にくれ、オスカーに最大限の感謝を示した。無論、動乱そのものを鎮圧したのはS国軍だが、限りある軍事費から対費用効果も考えて弾薬・糧食の補給をせねばならないS国軍が大胆で思い切った軍事行動を取れたのは、アルテマツーレからの破格値での潤沢な補給の確約、それが大きな助け、後押しになったのは間違いない。そして、そのアルテマツーレからの援助を引き出したのはオスカーだ、オスカーの与えた情報と言質あったればこそ、アルテマツーレは動いてくれた。そも、オスカーの働きかけがなければ、S国軍はアルテマツーレの協力を得られたかどうか怪しく、あったとしても、それはあくまで利潤をあげるためのビジネスとなったろうから、もっと限定的・暫定的なものにとどまっただろう。なれば、王宮の占拠と騒乱状態がもっとずっと長引いたかもしれないし、そうなれば、父に限らず他の外交官たちの身に危険が及ぶ可能性は乗数的に高くなっていただろう。しかし、事態は急速な解決を見た。この速やかな事態の収束は、アルテマツーレの後援、つまりはオスカーの尽力あってこそだと、母娘はとてもよく理解していたから。

尤も、感謝の言葉をありったけ伝えても、オスカーはあくまで謙虚な態度で、しかし、わざと軽めの口調で

「俺は当然の、かつ、俺にできる、それもほんの僅かばかりのことをしたにすぎません。騒乱を早期に収めたのは、S国軍の手柄ですし、それはリモージュ氏の的確な情報あったればこそ、ですから。でも…微力ながら、俺のおせっかいが少しでもお役にたてたのなら、これに勝る喜びはありません。リモージュ氏に、多少は、頼りに思っていただけていたらしいことも励みでしたし。リモージュ氏ご本人は、まっぴらだとお思いかもしれませんが、俺は氏を、心の中ではすでに「お義父さん」と呼んでますし、まだまだリモージュ氏に教えを請いたいこと、議論させていただきたいことが山のようにあるので、俺自身、氏のご無事が心よりうれしいのですから、お礼を頂戴するには及びません。息子が父を助けようと尽力するのは、当然のことですから」

と冗談めかしていい、リモージュ夫人に泣き笑いの顔をさせたのだった。

そんなオスカーへの信頼、感謝、愛情、尊敬の想いが、アンジェリークの中で無限大に膨らんだのはいうまでもない。今までだって、オスカーを好きな気持ちは、大きすぎ、深すぎ、熱すぎて、どう表し伝えたらいいのか、わからないほどだったのに、それがさらに厚みを増し、膨らんだ心持だった。

母がどんなに長期間にわたり滞在してくれていても、入学式の日まで母が一緒にいてくれたとしても、その間、父の安否がわからない状態では、とてもではないが、その状況を喜ぶ気持にはなれなかっただろうが、オスカーのおかげで、その心配は霧消したのだから。

もっとも騒乱が収まったと思われるその直後、当の父からは極短いメールが1通、母であるリモージュ夫人の携帯電話に来たきりだった。「私は無事だ、心配無用、領事館の職員にも負傷者はいない、ただし事後処理に暫く忙殺されそうなので、君はそのまま暫くアンジェの処にいるといい。落ち着いたら連絡する」と、文面も極シンプルで内容は淡白・事務的ともいえるものだった。それでも、リモージュ夫人は、こんなそっけなさこそ、夫の無事の徴と感じたようで、何度も文面を読み直しては、深く安堵しきった吐息をついた。

が、アンジェリークは、この父からのメールを母から見せられると、彼女にしては珍しく膨れた。

「パパったら、ママのことしか書いてない、私やオスカーだって、ずっと、パパのこと、すっごく心配してたのにー!」

オスカーは苦笑しつつ、アンジェリークをなだめた。膨れてむくれて拗ねることができるのも、父の無事がわかって、安心しているからこそだ、そして、アンジェリークもそれをわかっていて、幸せを再確認するようにーこんな他愛無いことで、拗ねられる幸せをかみしめるために、拗ねてみた、という感じで、小さくかわいく舌をだして、オスカーにいたずらっぽい笑みを返したりしたのだ。

こうして、今日、オスカーのおかげで、大学部の入学式をアンジェリークはしみじみと幸せな気持ちで迎えることができた。母とオスカーが揃って列席してくれるなんて、思ってもみなかったので、なおのこと嬉しい。その母とオスカーとは、大講堂の入口で「行ってきます」の挨拶と共に別れる、アンジェリークは新入生席に、オスカーと母は後列の保護者席へと。

新入生の席は、名前の綴り順に並んでいるようだったので、Aで始まるアンジェリークの席は会場でも前方端よりだった。着席して程なくすると入学式開会の宣言がなされた。学長による挨拶は、新入生に対する祝辞で始まった。学長の祝辞の後は、オーケストラ部とグリークラブによる校歌斉唱である。スモルニィのグリークラブは、発足当時は男声合唱であったが、今は時代の趨勢及び在学生の男女比にしがたい男女の混成合唱となっている。高校生の時から合唱部の歌声で校歌を聴きなれている持ち上がり組の学生でも、高校生と大学生の差というだけでこれほどレベルが違うのか、と感嘆するほどその歌唱は、ハーモニーが素晴らしかった。歌の伴奏がオーケストラ部で組織された室内管弦楽団であることも歌声の魅力を高めている一助ではあったろう。校歌斉唱も高等部はピアノ単体の伴奏だったが、歌の伴奏がオケ部による管弦楽演奏に変わったというこの1点も「ああ、私、大学生になったんだなぁ」と、内部進学生に自覚と誇りを与える一助になるのかも、とアンジェリークは考えたりした。内部進学生は、同級生も顔なじみなら、学び舎はすぐ隣、校歌も変わらないので、のほほんとしていると、大学生になったという自覚を、人によっては持ちにくいのかもしれない、だから、こうして「高等部とのレベルの違い」みたいなものを、演出するのかな、なんてアンジェリークは思う。

校歌斉唱が終われば、今年の新入生代表のあいさつ、となるのだが、これもそうだ。

新入生の挨拶は伝統的に外部からの入学生で、成績優秀なものが行うことになっていた。内部進学者も混みで選定するとなると、成績の比較・序列が付けにくいことと、内部進学者の最優秀生徒は高等部の卒業式の時、挨拶をするので、その点でもバランスをとっているのであろうが、「こんなに優秀な生徒が新たに君たちの仲間になるのだ」と学校側が、どうしてものんびりしがちな内部進学生に活を入れる目的もあるような気が、アンジェリークはする。高等部から、しかも帰国子女枠で入学したアンジェリークは、内部生とはいえスモルニィの生え抜きとは言いきれず、だからこそ、無意識に、少し離れた視点から客観的に母校を眺める気持を持っており、それゆえに、見えること、わかることも多かった…のだが、その点、本人は無自覚であった。

美しい和声の校歌を耳にしながら、何とはなしに、アンジェリークは、式次第のパンフレットを見やり、挨拶をする新入生の名前を見る。

無論、外部生だから知った名ではないし、名前の字面から何がわかるというのでもないのだが、とにかく、今年の優秀者は、名前から判断するに女性のようだった。しかも、自分とちょっと似た名前の子だな、とアンジェリークは思った。名前の綴りが近い、というか、似ているので、もしかしたらすぐ近くに座っているかもしれないと思って控え目に会場内を見渡す。新入生は、みな、小さな薔薇のコサージュを記念に配布され胸につけているが、新入生代表だけは、校章である翼広げた鳥の意匠のブローチも一緒にもらって付けている筈なので、近くにいれば、わかるかも、と思ってのことだ。

が、厳粛な入学式の最中に、あまりおおっぴらにきょろきょろするわけにもいかず、新入生でいっぱいの講堂は見通しが利かないので、アンジェリークは、すぐに探すのをやめる、探さなくても、間もなく、壇上にあがる人を敢えて今探すこともないと思いなおして。

と、校歌が1番と2番の間奏の演奏に入り、オケ部がその技術を新入生に惜しげもなく披露し始めたころ、2、3列前方で、だれかが突然、他の生徒を押しのけ、無理やりかき分けて、椅子と椅子の間を少し開けてしつらえられている形ばかりの通路にまろびでてきた。くすんだ艶のない薄茶の髪をおさげに結わえた女の子だった。その子は、顔はあげず、視線を床に落したまま、おさげ髪を勢いよく揺らして、猛然と後方の出口に向かい始めた。

入学式の校歌斉唱の最中に中座して、会場から退出しようとするなんて、あの人、気分がすぐれないとか…ううん、すごく具合が悪いんじゃないかしら、大丈夫かしら。もし、気分が悪くなったのなら、外部生だったら、メディカルセンターの場所とかわかるかな、場所を探してるうちに倒れたりしたら大変だし、私、付き添ってあげようかな、それとも、先生のだれかにお願いした方がいいかしら…

心配になったアンジェリークは、うつむいたまま自分のすぐ脇を猛烈な勢いで通り過ぎようとしたーその足取りは怒っているかのように力強く、具合が悪そうとか、弱弱しいところは皆無だったが、ちらりと見えた顔の血色は決していいとは思えずーその少女が気になって、つい見つめてしまった、と、彼女の胸元のブローチがきらりと光をはじいたのがアンジェリークの目に入ってきた。アンジェリークは、びっくりして、思わず、その少女に声をかけてしまった。

「あなた…もしかしてエンジュさん?新入生代表の?どうしたの?気分でも悪いの?体調がすぐれないようだったら、保健室の場所、わかります?ご案内しましょうか?」

すると、その少女は、驚いたというよりは何かに脅えたかのように、びくっとして脚を止め、怖いものでも見るかのように目を見張って、アンジェリークをじっと見返してきた。

その顔は今にも泣き出しそうに心細げで、なのに、一方で、その瞳には抑えきれぬ怒気、もしくは敵意とも取れそうな険呑な強い光を宿していた。そして声をかけたアンジェリークに、いきなり、噛みつくように食ってかかってきた。

「何で、私のこと、知ってるんです?私の周りにいた人もそうだったわ、みんな、じろじろ、私の方を見て…」

「え?あ、それは、そのブローチを貰えるのは、新入生代表の人だけだから…」

アンジェリークは周囲をはばかりー何せ、今、校歌演奏の真っ最中なのだー声を落としたが、その少女は、周囲の状況はおかまいなしという風情で、叩きつけるような口調で言い返してきた。

「そんなことを知ってるってことは、あなたは、内部生なんですね、だったら、あなたみたいになんでもわかってる人が、新入生代表になればよかったのに…どうして、私なんか…私が、新入生代表なんて、何かの間違いなんだもの、さもなければ、私みたいな田舎者を壇上にあげて挨拶させて、みなで笑おうとしてるんだわ、だから、帰るの。私、もう、こんなとこ、帰るの」

「え?え?え?あなた、いったい、何を言ってるの?具合とか気分が悪くて、中座しようとしてたんじゃないの?」

「気分なら悪いわ、最悪よ、私を田舎者だと思ってみんなで馬鹿にして。ちらちら、こっちを見て、くすくす笑って。絶対、あんな田舎者が代表なんておかしい、何かの間違いだって思ってるのよ、さもなくば、わざと笑ってやろうとして、私みたいなみっともない子を選んだに違いないのよ!だから、馬鹿にされる前に、私は帰るの!」

「馬鹿にするって誰が?なぜ?何のために、そんなことをするって言うの?新入生の代表は、その年の外部入学生で優秀な人が選ばれることを知ってる人も多いから、そのブローチを見かけたら、つい、興味をもって、どんな人かなって、ちらちら見ててしまう人もいるかもって思うけど…そして、それは、不作法かもしれないけど、それが、どうしてあなたを馬鹿にする?とか、わざと笑ってやろうとしてるってことになるの?」

「わかるわ!だって、私の周りの人、みんな、にこにこしてるのよ!私の方をちらっと見る人もいっぱいいるし…だから、私のことを笑ってるんだって思って…」

少女の言葉は、急にしおたれたように力なくなっていき、最後はつぶやきに近くなっていた。

アンジェリークには少女の思考の道筋が、どうにも理解できない、でも、周りの子がにこにこ顔な訳はわかる、少なくとも、誰かを嘲笑うための冷笑ではない、だから、その誤解だけは解いた方がいいと思って、こう言った。

「だって、今日からスモルニィの大学生になれると思ったら、うれしくて、つい、にこにこしてしまわない?私も、嬉しくて、つい、顔が綻んじゃってたから、あなたのまわりの人も、たぶん、そうだったんじゃないかしら。それとも、あなたは、この学校の学生になるのが嬉しくないの?嫌々とか不承不承、この学校に入ったの?」

アンジェリークは穏やかな笑みと言葉で少女に問うた。オスカーと同じ大学生になれる希望と喜びでアンジェリークは心から嬉しくてたまらなかったから、その笑みは何の飾り気も腹蔵もない純粋で健やかなものだった。少女は眩しそうに瞳を眇め、慌てたように言いつのった。

「そ、そんなことないわ!だってスモルニィは、この国1番の学校だもの!試験を受けたら特待生に選ばれて、奨学金がもらえるってわかって、私、どんなにうれしかったか…」

「じゃ、あなたは、この学校に来たかったのだし、入れてうれしいし、それに、やっぱり優秀なんじゃない?なら、新入生代表に選ばれたのも不思議じゃないじゃない?なのに、どうして、帰ってしまうの?」

ぐっ…と、少女が詰まった。

アンジェリークは「新入生代表の生徒だというのに、挨拶を放り出して帰ろうとしたこと」を非難したり、諭したりはしなかった。そんな空気をにじませもしなかった。眼前の少女の思考の道筋も、いきなり「帰る」と結論を出した論理の飛躍も、少々の言葉を交わしただけでは、やはり、全く理解できず、不思議で仕方なかったから、それを問うただけだった。

田舎者って、ここ首都以外の出身ってこと?なら、学生にそんな人は高等部にもたくさんいたし、大学なら更に多いだろうし、それがどうして「馬鹿にされる」ことになるの?しかも、いったい誰が?何の目的で?何の理由でそんなことをするって言うの?新入生代表を選ぶのは、学校関係者で、学校関係者が代表者を「間違って選びだした」とか、ましてや「地方出身者を侮り馬鹿にする」のを目的で、代表を選んだなんて、この子は本気で思ってるの?だから、新入生代表として挨拶するのは、馬鹿にされることで、それが耐えられない屈辱だと思うから、拒否して帰ろうとした?でも、この学校に入れてうれしいし、誇りに思ってるとも言ってる。なのに何かの間違えで選ばれたに違いないから帰るって言い張る。わからない。代表の重圧に尻ごみするのなら、まだ、わかるけど…私が、オリヴィエ先輩のモデルに選ばれた時、ちょっと尻ごみしたのとは、この子のは違う気がする。だって、この子は怒ってる…ううん、ひどく攻撃的?になってるけど、ひどく怖がってるようにもみえる、まるで、人に手ひどい扱いを受けた動物の子が、怖いのを我慢して、なんとか自分を守ろうと、必死に、闇雲に、周りに牙をむいてるみたい。威嚇しながら、でも、体は後ずさりして、何かから逃げだそうとしているみたい。逃げるって、本来、自分を守るための行動のはずだけど、今、この場から逃げ出すことで、この子は、何を守りたいのかしら?

アンジェリークは眼前の少女が何を考え、行動しているのか、まったく理解できなかった。入学式が進行している今この時点で代表挨拶を放り出したら、無責任という誹りを受ける可能性が高いし、式次第も滞るだろうし、私だったら、その結果の方がずっと怖いけど、この子は、そういう結果より、今目の前の何かから逃げる方が自分にとっては大事だと思うから、逃げだそうとしたのよね?でも、その軽重の判断がわからない。逃げ出した結果受けるかもしれないマイナス評価より、逃げ出してでも守りたいものって何だろう?そもそも、彼女が何に怒り、否、怯え、警戒しているのか、自分から敵意をむき出しにし、逃げ出すことで、何を守ろうとしているのか、アンジェリークにはまったくわからない。この学校の何が彼女を脅かしているのか、アンジェリークには理解できなかったが、何か誤解とか間違った思い込みがあるのではないかと感じたので、彼女が何に脅えているのかわからないと誤解を解くこともできないと思って、純粋な問いかけをなげたのだった。アンジェリークはスモルニィという学校が好きで、そこで知り合った人たちが大好きだったからこそ、誤解を解いてほしかったのだ。この学校は怖い場所じゃないし、あなたを無闇に脅かしたりしないと。

すると少女は傲然と頭をあげた。

「だって、なんで私が選ばれたのかわからないんですもの…私みたいに、綺麗でもなくて、やせっぽちで、みっともなくて、不器用な田舎者が新入生代表なんておかしい、みんな、そう思ってるに違いないのに。私ったら、馬鹿だから、特待生に選ばれたって通知を受け取って、浮かれて、舞い上がって、のこのこ上京しちゃって…こんな…恥をかかされるだけなのに…」

「恥をかかされるって、誰が何のために、あなたに恥をかかすの?新入生代表は、学校関係者が決めるのに?あなたに恥をかかすために、学校関係者が、あなたを選んだって言うの?それとも、学校関係者は、本当に選定を間違ったとか、人を見る目がないから、自分が選ばれたんだって思ってる?」

アンジェリークは、オスカーに諭された時のことを思い出す。何かに抜擢された時「私なんか」と自身を貶めるのは、選んでくれた人を貶しめることに通じるのだと、強い言葉ではなかったけど、きっぱりといさめられたことを。それは『私のようなつまらない人間を選ぶなんて、あなたは人を見る目がない』と言うのと同じで、失礼極まりない振る舞いでもあるのだ、と。謙譲と卑屈は違う、選ばれ、必要とされた事実を誇りに思い、精一杯、自分の務めを果たそうとすることが、礼節であると、アンジェリークはオスカーから教えられていたから。きっと、この人には、そういう風に教えてくれる人が周りにいなかったんだ、と、アンジェリークは思う。だからといって、私が教える、なんて姿勢は、おこがましいけど、ちょっと考えなおしてみて、それで、気づいてくれるといい…そう思って、疑問形で話しかけた。

「それは…」

少女は再び言葉に詰まった。考えてみれば、いや、考えてなどみなくても、そんなばかげた理由で、代表が選ばれるわけなどない、そんなことをして、いったい誰に何のメリットがあるというのか、わかりきったことなのだから、抗弁できないのも道理だ。代表者選定だって、1人や2人で決めるわけではなかろうし、それを落ち着いた口調で、優しく指摘され、恐らくは、根拠のない被害者妄想で頭がいっぱいになっていた少女は、少し落ち着きを取り戻したようだった。元々、特待生に選ばれるくらいなのだから「頭のいい」子であろうし。だからアンジェリークは

「あなた、この中で1番優秀だから、選ばれたのではなくて?みんな、それを知ってるから、興味をもってあなたをちらちら見てしまっただけだと思うわ、だから、大丈夫、挨拶、がんばってね」

と、少女の瞳が、少し落ち着いた光を取り戻した様子を見てとり、タイミングよくにこやかに、とん、と背中を押すように告げた。

すると少女は、突然に

「そ、そうよね、私が選ばれたのなら、何か理由があるのよね。それに、ここで挨拶を投げ出したら、私、特待生の資格を無くしちゃうかもしれない、そしたら、大学にだって通えない…」

少女は、突然、くるりと踵を返した。折よく、オーケストラの奏でる校歌の後奏が終わろうとしていた。

おそらく壇上の司会からは動向は見えていたのではないかと思う、もしかしたら、校歌の演奏も少し延長するようにとの指示が出されてたのかもしれない、が、司会は、式次第に何も滞りはないとでもいうように「続いて新入生代表の挨拶です」と宣言し、少女の名を呼びあげた。

その時、少女は、またも、びくんと一瞬跳ね上がり、立ちすくみ、アンジェリークの方を、救いを求めるような瞳でみた。アンジェリークは反射的に、励ますような笑みを浮かべ、頷いた。すると、次の瞬間、その少女は傲岸といっていいほど頭をそびやかして、壇上に向かっていった。後ろにひとつで結わえたおさげ髪が、ぶんぶんと勢いよく揺れていた。

見るからにぎくしゃくとぎこちなく手足を運び、今にも泣きだしそうな顔で、同じ側の手足が出ていたが。その緊張ぶりは、傍で見ていてかわいそうなほどだったが、それでも、少女は、まっすぐに壇上に歩を進めた。

『優秀な成績で入学してきたんだから、もっと、自信をもっていいのに…でも、私も転校ばっかりだったから、初めての学校で、いきなり挨拶するのってどうしたって緊張するのは、わかるわ、しかも、ただの転校生の挨拶じゃない、新入生総代として挨拶するんですもの、かなりのプレッシャーなのは、確かよね…でも、みんな、きっと、そういうこと、わかってくれると思うから、がんばって』

と、アンジェリークは心の中でエールを贈った

そして、その少女は、壇上に立つと周囲を挑戦的に見渡しつつも、はきはきした口調でー少し投げやりというか、自棄になっているのかと思えるほど、きっぱりとー用意した紙を広げて、あいさつ文を読み始めたのだった。

 

壇上でまばゆいライトを浴びるなんて、少女…エンジュには、生涯で初めての経験だった。それ以前に、こんな立派な建物に入ったこと自体初めてだった。ここの講堂は、村で1番大きい建物だった公会堂の何倍の広さがあるかわからない、天井の高さだってゆうに2倍はあるだろう。ライトの眩さが、観客ー新入生やその保護者ーの顔を見えなくしてくれているのが救いだが、それでも、自身の冷や汗と脂汗が気持ち悪い、火照っているのか、血の気の失せているのか、自分でもよくわからない。自分の声も遠くから聞こえてくるようだ。

入学するまで、いや、入学式の今日まで、校舎を見たことがなかった、そもそも大学構内に脚を踏み入れたことがなかった、それがいけなかった。

スモルニィは遠隔地に住む学生が受験に不利にならないようー受験のための移動や宿泊の費用はばかにならないーそして優秀な生徒が、距離や移動の費用で進学をあきらめることのないよう、いくつもの地方都市で入学試験を行ってくれていた。しかも、その試験で優秀な成績を収めれば、成績に応じて、学費が減免されたり、奨学金が支給されることがある。交通インフラの整っていない地域の出身でも、学費の工面が難しい生活レベルでも、能力次第で「もしかしたら首都で勉強できるかも…」と夢を与えてくれる学校、それがスモルニィだった。

少女の生活は決して豊かではなかった。一般生としての学費はとてもではないが工面できないし、合格後のことを考える前に、受験のため、首都までの交通・宿泊費のねん出が、正直、厳しかった。だから、スモルニィの受験制度は、少女にとってどれほどありがたかったかわからない。移動の費用がかからない上、もしかしたら学費免除で大学に通わせてもらえるかもしれない。否、自分が大学に行こうと思ったら、このスモルニィで奨学金をもらう他、手だてはない、そう思った、思いつめた、そのために懸命に勉強に励んできた。

というのも「勉強」の世界のルールに従うのが、少女には、とても生き易かったからだ。勉強は自分を裏切らなかった。必ず正解があって、しかも、その正解はたったひとつで、正解を出せば称賛されるわかりやすい世界だった。でも…勉強以外の世界は少女には、わかりにくい、混乱することの多い世界だった。○×があいまいなことが多々あった。あれも正しいけど、こういう見方も正しい、という酌量の塩梅が、少女にはよくわからないことが多かった。一方で、世間一般には「正しい」ことのはずなのに、それを言葉にすると嫌な顔をされる、そんな場面も多々あった。「嘘をついてはいけません」「正直なのはいいことだ」と教わってきたのに、正直に事実を口にすると、苦笑いされればいい方で、うとまれることも多かった。正しいことを言ってるのに、正しいことをしているのに、うとましがられて「私は何も悪くないのに、何も悪いこと、してないのに」と反発を覚え、一方で、自分のどんな部分が揶揄されたり、うとんじられているのか理解できないことに脅えた。自分は正しいことをしているのに、揶揄されることが続けば、どうすればいいのかわからなくなってくる、かといって、根が真っ正直な少女は、開き直って「悪いこと」もできなかった。少女は、どんどん自分に自信がなくなった。そのうち、誰もかれもが、自分の言動を笑って、馬鹿にしているような気がしてきた。

でも、勉強は別だった。がんばればがんばるだけ、きちんと結果が出た。自分が正しいと思うことを行動に移し、そのままストレートに称賛されるのは勉強だけだった。だから、尚更頑張った。そして、その努力は報われた。スモルニィは、自分の頑張りを、初めて、奨学金の授与という、誰にでもわかる形で認め、称賛してくれた。その上、新入生の総代として入学式で挨拶をするという栄誉まで与えてくれた。

それは本当に希望へのパスポートだった。首都では、スモルニィでは私はちゃんと認めてもらえる。勉強できる人ばかりが集まるこの国1番の大学だから、私の頑張りを認めてくれたんだ、そこでなら、私は笑われない、馬鹿にされない、努力してきた自分を、正当に評価してくれた、そう思って、嬉々として上京した。奨学生なので賃料が格安の学生寮に住まうことになっていたが、それこそ金銭的余裕はなかったので、寮に入居したのも、寮費からまかないを出してもらえる入学式前日の夜だった。

そして朝になって大学構内に初めて足を踏み入れ、その広さ、整然とした美しさ、施設の立派さにあっけにとられた。学校の構内に道路があって、交差点があって(流石に信号はなかったが)、番地があることに驚き、圧倒され、それこそキャンパス大路のど真ん中で、少女は立ちすくんでしまった。とんでもないところに来てしまった、と、空恐ろしくなった。学生寮だって、きれいで、清潔で、住み心地が良さそうで、何もかもに気後れしかけていたのだが、この広大なキャンパスは、理屈抜きに少女を圧倒した、何より、自分以外の学生たちが、誰もかれも、みな楽しそうで、にこやかで、明るくて、自信に満ちて闊歩しているようで、きらきらと輝いて見えた。

入学式の会場である大講堂で、少女の気後れ、慄きは決定的になった。周囲の学生は、皆、自分と同じ新入生の筈だ、先輩ではないのに、落ち着いていて、あか抜けていて、おしゃれで、ゆとりがあって…全然自分と違ってみえた。一張羅の地味なワンピースが、なぜか、すごく、気恥かしくなった。

このきらきらした人たちを前に、私が挨拶するの?こんな、地味で、貧相で、野暮ったくて、田舎者丸出しの私が?

悪夢としか思えなかった、いや、しくまれた悪意としか思えなくなった。

こんなきらきらした人たちが、自分を代表に選ぶとしたら、底意があるとしか考えられなくなっていた。

そこに荘厳な管弦楽の音が聞こえー少女は管弦楽の生演奏を耳にしたのも初めてで、こんなにも美しい旋律の混成合唱を聞いたのも初めてだった。建物自体が音響効果を計算しつくされた造りだったのだろう、少女は天上の楽のような音色にしばし我を忘れて聞き入り、この時ばかりは、己が卑小に思えて仕方ない心細さを忘れかけたが、その時、すぐ傍で聞こえた他愛無い会話が少女を更に打ちのめした。

「グリークラブの歌声、素晴らしいわね、グリークラブって名前が変わるだけで、合唱部とこうも響きが違うものかしら」

「オケ部の演奏も素晴らしいわよね」

「この校歌演奏のあとは、新入生代表の挨拶ね」

「代表に選ばれるくらいなんだから、すっごく優秀なのよね。どんな人なのかしらね」

悪意も他意もない会話だった。ただの雑感、腹蔵も何もない単なるおしゃべりだった、でも少女は「グリークラブ」なんて初めて聞いた言葉だった、オケブって何?この人たち、何を話しているの?会話の中身が理解できず混乱した、でも、恐ろしい事実だけはわかった、この素晴らしいと称される演奏が終われば…この後に、私が壇上にあがらされる…これを悪夢と言わずして、悪意といわずしてなんというのだろう。

きっと、がっかりする。この会場にいる人全員、私が壇上に上がったら失望する、だって、私は全然きらきらしてない、当り前に交わされる会話の中の言葉もわからない、きっと、また、故郷の時と同じ…自分では正しいつもりなのに、なにか、場違いなとんちんかんなことを言って、笑われる、馬鹿にされる、そんなことは耐えられない。

少女は逃げ出そうとした、逃げ出したら、入学式が混乱し、式の進行に支障をきたすかも、とか無責任で迷惑をかけるとか、何も思いつかなかった、自分のプライドを守ろうとするだけで精いっぱいだった。そう、少女は自分でも気づかぬ程プライドが高かった、自分は精一杯の努力をしてきたという自負があり、なのに、努力だけでは認めてくれない、認められないことに、腹を立てていたし、なぜ認められないのか、自分ではわからないから、おびえてもいた。この場にいなければ、値ぶみされ、笑われることもない、それしか、考えられなかった。

わき目も振らず講堂の扉めがけて歩き出したとたん、突然声をかけられ、呼び止められた。反射的に視線を向けると、目の覚めるような愛らしい少女が、心配そうに自分を見ていた。ふわふわで艶やかな金の髪、若葉を思わせる碧緑の瞳、白桃のような頬、桜ん坊のようにみずみずしい唇、むきたてのゆで卵みたいに肌理の整った透きとおるような肌…美女というのとはちょっと違うが、とにかく華があって、ひどく愛くるしい少女だった。かけられた声も、容姿に似つかわしく、金の鈴を振ったような綺麗に澄んだものだった。

少女は訳もわからず、反発した。こういうキラキラの子が壇上にあがればいいのに、なんで、よりによって私が…という、どこにぶつけていいかわからぬ恨み辛み僻みを、思わずぶちまけていた。

自分が激発をぶつけた愛くるしい少女は、落ち着いて、ゆったりと、自分の言葉をそのまま繰り返すように、問い返してきた。自分の耳で聞いてみて、自分の言がいかに混乱した、支離滅裂なものであったか、わかってきた。少女はものすごく恥ずかしくなった。

その恥ずかしさをごまかすように、頭をあげた。負けるものかと挨拶に向かった。

自分は奨学金をもらう特待生なのに、挨拶をすっぽかしたりしたらーしかも、その理由は、自分では今も自覚がなかったが、何の根拠もないただの僻み根性、もしくは、たちの悪い被害妄想だったーが、とにかく、あまり、胸をはって言える理由ではないし、万人を納得させられる根拠もないということだけは、わかっていた。

こんな理由ともいえない理由で挨拶を投げ出したら、奨学金資格を失ってしまうかも…このきらきらした環境や学生たちになじめそうな気は微塵もしなかったが、かといって、自分ではわからぬ理由で、笑われてきた故郷に戻るのは、もっと嫌だった。

そう、私はスモルニィに求められたんだもの、認められたんだもの。故郷では認められない私も、ここでは認められる…はず、だもの、帰ることなんてできない…

その一念だけで少女は、新入生代表の挨拶の言葉を述べていた。

 

保護者席の隣に座っているリモージュ夫人に

「今年の新入生代表は女の子なんですね」

と、小声で話しかけられたことで、オスカーは黙考を中断し、相槌をうつことで夫人に応えた。そして、初めて壇上、いや、保護者席用に壇上の様子を映している大モニターに目をやった。地味ないでたちの少女だった。背丈は標準だが、肉薄なので小がらに見える。ぐいと顎を上げて、自分を堂々とみせようとしているのが、かえって、一生懸命自分を大きく見せようと背伸びしている風に見えてしまっていた。余裕のなさが、そのまま、あか抜けなさ、野暮ったさにも通じている。いかにも、オリヴィエあたりが「腕の振るいがいがありそうな子だねぇ」とコメントしそうな雰囲気の子だった。

『今年の新入生代表はあの子か…いかにも郷里の期待を一身に背負って上京・入学しました、という風情だな』と、なんとはなしに思った。昂然と頭をあげ、あたりを睥睨するような視線で挨拶を読んでいるのが、いかにも「侮られまい」「飲まれまい」と虚勢を張って突っ張っているようで、見ていて少々痛々しかった。自分もあんな時期がー「死の商人風情が」と軽侮の念をぶつけられるのに慣れていなかった頃ー自分の境遇と周囲の視線、その両方に納得いかず、反発していた頃には、あんな雰囲気だったのかもしれないと思うと、少々、尻のあたりがむずかゆく、落ち着かない気分にさせられた、が、それは自分個人の事情であって、あの少女の所為ではない、と、すぐに気持ちを切り替えた。

オスカーのいる保護者席から、アンジェリークとその少女の間に短いやりとりがあった様子は、その距離と人垣の厚さゆえに見えていない、なので、少女が1度、挨拶を放り出して退出しようとしたことも、それを図らずもアンジェリークが翻意させたことも、この時のオスカーは知らない。

なので、オスカーは、新入生代表が、緊張でかちかちの様子であることなど、すぐ思考の外に追いやってしまう。新入生総代は代々外部生が務めるので、世慣れず硬い雰囲気なのは、今に始まったことではないし、オスカーにとって、そんなことは、正直、どうでもいい。

オスカーは、あの騒乱の後の、リモージュ氏言うところの「後始末」で気になることがあり、その事が、ずっと思考の片隅に引っかかっていた。そのため、この式次第の最中にも、ついつい、その「後始末」について、オスカーは考えを巡らせてしまう。そして、決まりきった式次第をBGMにして、オスカーは、どんどん自分の考えに没頭していった。


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