「えっと、これはゼフェル様の処、こっちはクラヴィス様ね…お二方とも執務室でお待ちだろうから急がなくちゃ…」平日の聖殿、女王補佐官アンジェリークは今日も大忙しで、女王の執務室と守護聖の執務室棟を行ったり来たりしている。手は、これから守護聖に渡す資料と守護聖からもらった報告書でいっぱいだ。というのも、守護聖が揃いも揃ってアンジェリークに直に書類を手渡したがる、もしくは、手渡してもらいたがるからだ。そして、今は聖地の暦でそろそろ「年の瀬」、年度の終わりが近い所為か、常にも増して決済を要する書類の数が多かった。
だが、今、手元には夫であるオスカーへ届ける書類、もしくは引き取るべき提出物はなかった。ので、執務にかこつけて夫の執務室を訪ねられないのが、アンジェリークはちょっぴり残念で、寂しい。
無論、オスカーは特に用事がなくとも、心からアンジェリークの来訪を喜んでくれるし、アンジェリーク自身、仕事の手の空いた時や、ぽっかりと時間ができた時は、その足は、自然とオスカーの執務室へ向いている。時間潰しという消極的な意味合いでなく、アンジェリークは気付くと極自然にオスカーの執務室を訪ねているし、進んで訪ねたいと思ってしまう。そういう心情は、女王候補生だった頃と少しも変わらない。
しかも、この、年度終わりが近い時期というのは、もうすぐオスカーの誕生日がやってくるということとイコールだ。だが、今現在、アンジェリークは今年のオスカーへの誕生日プレゼントを未だ決めあぐねている処だったので、尚更、少しでも多くオスカーと会って話して、プレゼントのヒントを得られたらな、と思っていた。「お誕生日に何が欲しいですか?」とオスカーに尋ねることは簡単だが、オスカーは決まって「お嬢ちゃんが俺の傍にいて笑ってくれていること、それが1番の贈り物だ、それ以上にほしいものなどない」と言ってはばからないし、アンジェリークもこんな嬉しことはないとしみじみ思う。けど、アンジェリークにとって「オスカーの傍にいる」のは当然のことーというより、それは何より自分自身の望みでもあるので、それが「オスカーへの贈り物」では物足りないし、自分の気が済まない、だから、アンジェリークはオスカーとの会話から、オスカーがもらったら喜んでくれそうなものを推し探りたいと考えていた。
でも公私混同は慎まなくちゃ、夫婦で同じ職場にいる以上、けじめはきちんとつけないと、この忙しい時期に、用もないのに、オスカー様の執務室を訪ねちゃダメよね、と、アンジェリークは意識して自分に言い聞かせる。こうして、きちんと意識していないと、自分の足は自然と、いつのまにかオスカーの執務室に向かってしまっている、そんなことがままあるからだ。
オリヴィエにもよく
『家に帰ればいつでも会えるのに、そんなに四六時中、一緒にいたいかねぇ、家でも職場でも同じ顔突き合わせて、嫌になっちゃったり飽きちゃったりしないのぉ?』
こんな風にからかわれるのだが、アンジェリーク自身に限っては、そんな気持ちは皆無である。
『だって、本当にオスカー様は素敵なんだもの、いくら見惚れても見惚れ足りない、触れる程に触れたい、触れてほしいと思う…私、オスカー様にずっと恋してるんだもの…』
そして、幸福なことに、オスカーも自分を愛しく大切に思い、慈しんでくれていることをアンジェリークは日々感じている。オスカーの方からも、折につけ、補佐官執務室に立ち寄り顔を出してくれるし、愛の言葉は出し惜しむどころか浴びせられるようだ。そういうわかりやすい愛情表現のみならず、オスカーの慈しみの気持ちは言葉の端々、さりげない優しい態度や振る舞い、愛情溢れる眼差しに自ずとにじみ出、アンジェリークの胸を温かいもので満たしてくれる。アンジェリークがオスカーを恋い求める気持ちと、オスカーが自分を欲し慈しまんとする気持ちは、その深さも熱さも全き同調しているようでーありきたりな言い方なのは承知だが、アンジェリークには、まこと、それは奇跡としか思えないのだ。そして同じ程の深さ熱さで互いを欲しあっている、その当然の帰結として、アンジェリークは、ほぼ毎晩、時には昼日中も、オスカーと愛を交わす。愛を交わす程に喜びは際限なく深まりゆく。純粋な性愛の愉悦は無論のこと、日々、オスカーが情熱的に自分を求め、熱意をもって愛してくれる、その幸福に、アンジェリークは日毎夜毎、目がくらむほど、めまいを起こしそうな程に酔わされ、酔いしれてしまう。相身互いに、愛する程に愛される、激しく愛されて己の恋情も一層募る、それが2人の愛の形だった。そう、昨晩も…とつい、甘くとろけるような愛の交歓を思い出しかけ、白桃のような頬がほんのり熟したように染まったその時、アンジェリークの火照りかけた身にはなんとも心地よい、だが、その分、少し強めの風が吹きつけ、アンジェリークの髪と補佐官のヴェールをいたずらに巻き上げた。
「きゃ…」
反射的に髪とヴェールを抑えようと手をあげかけ、しかし、手は書類でいっぱいだったことにすぐ気づく。でも、気づいた時にはもう書類は束の形が崩れて、手からこぼれそうになっていて、
『あ、だめ、もうバラバラになっちゃう…』
アンジェリークは諦めと途方にくれる、ないまぜの気持ちになった。と、その瞬間、ふぅわりと、背後から、とても好ましい、うっとりするような良い香りが漂ってきた。
『え?なに?この、いい匂い…すごく好きな香り…どきどきうっとりするような、なのに、ほっと安心もするような…私がとても好きな香り…』
慕わしい香りに胸の奥深い処で情動が揺り動かされる。ときめくような思いが自ずとわきあがり胸を満たして、アンジェリークの気持ちをこの上なく幸せな色に塗り替える。と、その時、今にも散乱させる寸前だった書類の束は、とても大きくて男性的だけれど、どこか繊細なつくりの手にひょいとつまみ上げられていた。
「おっと、ぎりぎりセーフってところか」
そして耳朶をくすぐる、大好きな声。甘くて、男らしくて、なんともいえぬ艶と深みのある、大好きな人の声。
「オスカー様!」
アンジェリークが反射的に顔をあげ、ふりむいたのと、
「すごい量の書類だな。少し俺によこしな、お嬢ちゃん」
とその声に言われざま、手にしていた紙の重みと厚みがいきなり半減したのは、ほぼ同時だった。
「あ、ありがとうございます、オスカー様」
アンジェリークは突然のことにどぎまぎしてしまい、一言礼を言うのがやっとだった。呆けたようにオスカーのことをぽーっと見つめてしまう。思いもよらずオスカーに会えてうれしいのと、いきなりのことで驚いたのと、オスカー様って私が困った時、必ず、絶対助けに現れてくださる、本当に物語のヒーローみたい、不思議、だけど、すごくうれしい…なんて感慨にふけってしまったので、上手く言葉がでなくなっていた。
そんなアンジェリークにオスカーは優しく微笑みかけた。
「執務室棟に向かうところだったんだろう?さ、一緒に行こう」
「は、はい!ありがとうございます、うれしいです、オスカー様」
アンジェリークは心のままに正直な気持ちを、そのまま口にしていた。すると、オスカーも心から嬉しそうな笑みで、アンジェリークに応えてくれた。
オスカーは、たまたま、この時間に回廊を歩いていて、愛しい妻が山程の書類を抱えて難儀している処に出会えた幸運を天に感謝した。
アンジェリークの抱えていた書類の量は結構なものだった、だから、気まぐれな風のいたずらにもとっさに対処しかねたのだろう。それもこれも、(自分も含めてだが)守護聖たちが臆面もなくアンジェリークの訪れを請うからだ。
サクリアの実勢値や調整の報告など、データの送受信だけなら、本来、指1本で済むことなのだ。守護聖の出仕時には馬車が往来を闊歩するようなアナクロな聖地ではあるが、それは表面上のこと、執務に必要な施設、機器類等、インフラは可能な限り技術の最先端で整えられている。だから執務の省力化は容易なはず、つまり、アンジェリークの負担を減らすー聖殿と守護聖の執務室棟を行ったり来たりする回数は、減らそうと思えば減らせるはずなのだ、が、守護聖は誰1人、データの授受をボタン一つで済まそうとしない。そんなことをしても自分には何の得もないーアンジェリークと会って話す機会は減り、一方で、他を利することになるー自分以外の守護聖がアンジェリークと一緒に過ごす時間を増やしてやるだけになるからだ。
オスカー自身「かわいいお嬢ちゃんに何度も執務室まで脚を運ばせるのは、かわいそうだ」と思っているのだが、現実には、やはり、ボタン一つで仕事を済ませる気になれない。
というのも、オスカーが、データの送受信でお嬢ちゃんの仕事の手間を省いても、その空いた時間を、他の守護聖&女王陛下がもっけの幸いと奪うだけというのが目にみえているからだ。仕事の簡素化で生じた空き時間を、アンジェリークが全て自分の元で費やしてくれればオスカーとしてはノープロブレム、しかも、アンジェリークなら進んでそうしてくれるだろうとも思えるのだが、実際にはそれは困難だろうー各方面から凄まじいブーイングが出るのは明白だからだ。アンジェリークが彼女の空き時間を夫である自分の許で過ごしたとて、文句を言われる筋合いはない、とオスカーとしては強弁したいところなのだが、何せオスカーには誰より手ごわいライバルとして女王陛下がいる。陛下と自分以外の守護聖一同にタッグを組まれたら、どんな悪だくみで、自分からアンジェリークが遠ざけられてしまうか知れたものではない。それ位なら群雄割拠の現状の方が望ましい。それに、例えアンジェリークに新たな空き時間が生じても、結局、陛下とのお茶の時間に組み込まれて終わり、という気がする。だから、オスカーとしては妻の執務簡略化に協力してあげたいのはやまやまなのだが、ついつい、やはり、合法的にアンジェリークと一緒に過ごせる時間を役得として、他の守護聖同様、彼女に執務室まで足を運んでもらうことをオスカーも望み、実際そうしてもらってしまうのだった。
それでも一応、自身の仕事は可能な限り早めに、かつ、一時に済ませるようにして、何度も妻を呼びつけるようなことは自重する、これがオスカー精一杯の妥協点だった。だから、アンジェリークはオスカーへの提出物も引き取り物もこの時持っていなかったわけだが。
なにせ
『お嬢ちゃんは俺のお嬢ちゃんなんだからな!』
と、オスカーはいつだって主張したいし、周囲に誇示したいのだ。
「おめーは家に帰ればアンジェを一人占めできるんだからよー、執務時間中の聖殿内でくらい、俺たちにアンジェを貸せよなー!」
などと言われ「それもそうだ」「はい、どうぞ」などと頷けるはずがない。
アンジェリークと顔を合わせ、言葉を交わし、聖殿の廊下を並んでそぞろ歩く。彼女の髪が風にさやとそよぐ瞬間、ふぅわりとくゆる花にも菓子にも似た彼女の甘い香りに鼻腔をくすぐられ、胸熱くする、この一時の楽しさ、執務時間中のオアシスを、なぜ、わざわざ他人に譲らねばならぬのか。オスカーは強くそう思うのだ。
そんなわけで、オスカーが最愛の妻と並んでの聖殿の廊下のそぞろ歩きという、楽しく心弾む時間をしみじみ味わっていると、アンジェリークが慕わしげな眼差しでオスカーを見つめてきた。目が合うと、アンジェリークは、はにかんだように笑んで軽く頭を下げた。
「オスカー様、改めて、ありがとうございます、書類を散らばしかけてたところを助けてくださって、今も、手つだってくださって…」
「なんの、礼を言われる程のことじゃない。他愛無い風のいたずらとはいえ、お嬢ちゃんを守れてよかったけどな」
オスカーは屈託ない笑みをアンジェリークに向ける。アンジェリークの前でだけ見せる少年のような笑顔だ。
「でも、私、ぽーっとしてて、さっきはろくにお礼を言えなかったから…だって、オスカー様ったら、本当に、物語のヒーローみたいなんですもの。私が困った時、さっそうと現れて、すかさず助けてくださるんですもの」
うっとりと、きらきら光る瞳でアンジェリークはオスカーを見つめる。オスカーはくすぐったいような、でも、なんとも嬉しそうな顔になる。
「それに、その時、私、丁度、オスカー様のことを考えていて、そうしたら、オスカー様がいらしてくださって、助けてくださったから…だから、私、一瞬、これは夢なの?なんて思って、それで、ちょっと、ぽーっとしちゃったんです」
助けたというほど大層な事はしていない、けど、愛する妻から頼れるヒーロー視され、感謝と賛嘆の瞳で見つめてもらえて、うれしくない男はいない。しかも、アンジェリークは、さらりと何気なく、とても嬉しいことを付け加えてくれた。
「嬉しいことを言ってくれるな、お嬢ちゃん、1人でいる時も俺のことを考えてくれていたなんて…」
「はい…私、気がつくとオスカー様のこと、考えてしまってます…女王候補だった頃も、森の湖に何度オスカー様にお会いしたいってお願いしたかわからなかったけど、今も、気持ちは、あの頃と同じです…でも、こう言うと、全然進歩がないみたいで、ちょっと恥ずかしい…オスカー様、呆れないでね?」
アンジェリークが心配そうにオスカーを見上げる、呆れるどころか、オスカーは、その、どこまでもまっすぐな愛の言葉に、嬉しそうに口元をほころばせた。アンジェリークの言葉は一つ一つオスカーを舞い上がらせる。昔の俺なら考えられないな、と思いつつ、喜びで幾分頬が紅潮するのを感じる。アンジェリークの純粋で駆け引きや打算のかけらもない率直な愛の言葉、にじみ出る信頼と情愛のぬくもりは、オスカーをいつも少年の心持にしてくれる。オスカーはその心のままに、とっておきの笑みで応えた。
「ふ…お嬢ちゃんに思われるほど幸せなことはない。しかも、出会った時のままの気持ちで、だ、なんてな。嬉しく思いこそすれ、呆れるはずがない。今も、お嬢ちゃんのその思いが俺を呼んだのだろうなと、自然に思えるぜ」
「そう言っていただけてよかった…でも、安心したら、私、今、ちょっと悔しくなってきちゃった…」
「悔しい?何がだ?」
アンジェリークの口から意外な言葉がこぼれでた。見れば、彼女にしては、珍しく、ほんの少し、そのかわいい口を尖らせている。もっとも、そんな表情は、オスカーにはむしろ新鮮で、その尖らせた唇をついばむようにキスしてやりたいぜ、と思わせたが、オスカーには、アンジェリークの言葉の中身も気になったので、彼女の唇をふさぐのは、今は自重する。
「だって…私、オスカー様にお声をかけていただくまで、オスカー様がいらしたことに気付かなかったの」
「それは、別段、悔しがるようなことじゃないだろう?俺は、お嬢ちゃんに後ろから声をかけたんだから…」
「いえ、それが、オスカー様のお声を耳にする少し前、私、とてもいい匂いを…うっとりするような香りが漂ってきたのを感じて「あれ、この香り、私、知ってる…すごく好きな、胸が熱くなるような香りだけど…これ、何の香りだったかしら」って思ったところだったんです…当たり前ですよね、それは、オスカー様の香だったんですもの…大好きなオスカー様の香りが…風にのって、お声をかけてくださる前に私に届いていたんです…なのに、私、それがオスカー様の香だって、すぐに…お声をかけていただくまで、気付けなかったの、それが、なんだか、今思うと、悔しいのー」
ちょっと拗ねたように、膨れたように訴えるアンジェリークに、オスカーは苦笑した、苦笑しつつ、つい、我慢できなくなって、その軽く尖らせた唇を、さっとついばんだ。
「!」
アンジェリークが一瞬、驚いて立ちすくむ。オスカーは、かわいくてたまらぬという表情で優しくアンジェリークをみつめ、促すように彼女の肩を抱き、歩を進める。
「そうか、俺が声をかける前に、何かの気配を感じていたようだったから、お嬢ちゃんの勘の良さに俺は驚いていたんだが……俺の香が先に君に届いていたか…俺の香は好きか?お嬢ちゃん」
「は、はい…今も、オスカー様に抱き寄せられていると、うっとりしちゃいます、オスカー様って、いつも、とってもいい匂い…少しスパイシーでエキゾチックで、すごく男性的でオスカー様らしいっていうか…私、この香、大好きです。深く深呼吸したくなっちゃう。毎日、毎晩、私のことを包んでくださる、ときめくのに、安心もする香です。だから、この香を感じた瞬間、すぐに「あ、これはオスカー様の香りだ」って気づけなかった自分が悔しいの」
本気で悔しがってる風情が、また、格別に愛らしい、と、オスカーの表情は一層柔らかくなる、が、ほぼ同時に、少し困ったような面差しを混じらせて
「そうか。今の香りがお嬢ちゃんのお気に召しているなら、なるべく、これを使い続けよう…と言いたいところなんだが、残念なことに、これは今手持ちのもので終わり…なので、暫くしたら、俺のまとう香は少し変わると思う」
オスカーは少々残念そうにこう告げた。どうせなら、お嬢ちゃんがうっとりする香を使い続けたかったぜ、という気持ちが声ににじむ。尤も、アンジェリークに今の香りが好きと言われるまで、別段、惜しいとも残念とも思っていなかったので、我ながら現金だとも思ったが。
「まあ、そうなんですか。私、確かに、今のオスカー様の香りが好きですけど…でも、それなら、オスカー様の新しい香りも楽しみです。オスカー様は今度はどんな香を選ばれるのかしらって楽しみにしてますね」
どこまで可愛いことを言ってくれるのか…こんな台詞を素で純心に天真爛漫に言ってのけるからお嬢ちゃんはすごいのだ。
「そう言ってくれると心安い。俺自身は、フレグランスは身だしなみの一環で、大して拘りはないので、今、使ってるものが入手できなくなっても、それほど困るとか残念とは思っていなかったんだ。けど、お嬢ちゃんが今の香りを気にいっているなら、なるべく、今のと似たものを探させよう」
「え?あの、オスカー様ご自身は、香には、それほどこだわってはいらっしゃらないの?…そういえば、確かに、時々、フレグランスを変えてらっしゃいましたけど、けどでも、オスカー様、いつも、すごくいい香りでいらっしゃいましたよ?だから、おしゃれや気分に合わせて、選んで変えてらっしゃるんだと思ってました」
「ふ、そうか?オリヴィエあたりなら、シーンや服装によって香りまで着替えるんだろうけどな、俺に関しては、好きで変えてるというより、変えざるを得ない時に変える方が多かったな…うむ…こだわりようがないから、こだわらなくなったって言う方が正しいかもしれん」
「?」
「フレグランスに限らず、化粧品の類は、良く言えば日進月歩、なべて商品の入れ替わりが激しいみたいでな、この前使って良かったと思ったものを再注文しようとしたら製造中止で、もう在庫なし、なんてことが多々あるんだ。外界と時間差があるから、尚更、そう感じるのかもしれないがな」
「あ…ごめんなさい」
「謝るようなことじゃない、お嬢ちゃんだって同じだろう?俺と同じ境遇を選んでくれたのだから…」
「あ、はい…そういえば、ルージュやフェイスパウダーを注文しようと思ったら、その色はもう作ってないって言われること、ありました。そういう時は、その時々のお勧めの新色に買い替えたりしましたけど」
「だろう?それにしても化粧品はサイクルが短い気がする。流行と関係してるから仕方ないんだろうが、外界の時間で10年売られ続けてるものは、そう多くないって気がするぜ。勢い、フレグランスもその時々で、変えざるをえないから、自分の好みだと思えればいいって程度で、あまり拘らなくなっていた、その時々の新製品を試すのも一興って思うようにしてな」
「そうだったんですね…」
商品サイクルというのは、確かに、聖地においては目立たないけど、切実な不便だ。「お気に入り」のものが、いつのまにかー自分の体感時間ではあっという間に製造中止になっていたりすると、諦観と共に、物に拘らないようにしようという姿勢が身につくのだろう。それを「新しいものに次々トライできる」って前向きに考えるオスカー様ってやっぱりステキと思った時、アンジェリークは、あることを思いついた。
「あ!なら、オスカー様、次のフレグランスは私からプレゼントさせてくださいませんか?オスカー様のお誕生日に…サプライズじゃなくなっちゃうのが、ちょっと申し訳ないんですけど…」
「ああ、もうそんな時期だったか…そうだな、なら、俺の次の香は、お嬢ちゃんの好みで選んでもらおう。お嬢ちゃんが自分の好きな香りを選んでくれれば、自然と俺にうっとりしてくれるだろうからな、俺としては願ったりかなったりだ」
と言いながら、オスカーは魅惑的な笑みと共にアンジェリークにばちんとウインクを送ってきた。
『もう、オスカー様ったら、どうしてこんなにキザで優しくてかっこいいの…こんな素敵な方が私の旦那様だなんて、私、本当に幸せすぎて、夢をみているみたい』
感嘆と憧憬と溢れんばかりの愛情をこめてアンジェリークはオスカーを見上げた。
「はい、じゃ、私、がんばってオスカー様のイメージに合う香を選んでみますね!オスカー様のお好みに合う物を選べるといいんですけど…」
「ふ、楽しみにしてるぜ、お嬢ちゃん。けど、基本は君の好み優先でいいからな。君がどんな香りが好きか、後学のために俺も知りたいしな…」
「んっと、そういえば、私、具体的に「こんな香りが好き!」ってあまり考えたことがなかったかも、です。だって、オスカー様がまとう香は、いつも、どれも、良い香りで、どの香りも好きだったから…」
「ありがとう、お嬢ちゃん。それで言うなら、おかえしって意味ではなしに、君もいつもいい香りがするぜ。花の香りの時もあれば、旨そうな菓子のような甘い香りの時もあるが…俺も、どの香りも好きだぜ、お嬢ちゃんのまとう香りはどれも、な…?そういえば、俺は、外で花の香りや、甘い焼き菓子の香りを感じると、反射的にお嬢ちゃんを思い出す。香は人の心を揺り動かし、その時の思いを触発する。俺が、花の香や焼き菓子の香りに幸せを感じ、胸を熱くするのは、君が、いつも花やヴァニラのような甘く芳しい香りをまとっているからだな…」
「やん、オスカー様ったら…」
「今の君は可憐な花の香りだな…俺の幸せの香りだ…」
「…あ…」
抱き寄せられたまま、耳朶を軽く食まれた。アンジェリークが耳裏からうなじにかけて軽く吹きつけてあった今日の香はアイリスの筈だった。
「おや、何やら、甘い花の香が、強くなった気がするぜ…」
それはきっと、私の体温が上がった所為、オスカー様が私の身を熱くするから、身につけていた香りが、より強く薫るの…とアンジェリークは思ったが、それを口には出さず、ただ、そんな思いを込めてオスカーを見つめた。その瞳が微熱のあるように潤んでいるのを、その風情が飾らぬ媚態となっていることも、アンジェリーク自身は気付いてない。
と、オスカーの瞳が愛しげに細められた。
「お嬢ちゃんは、いつもいい匂いがする…どこもかしこも、な。そんなお嬢ちゃんが選んでくれる俺の香り、楽しみにしてるぜ」
「オスカー様…」
抱き寄せられ、それこそ、オスカーの香りに全身を包まれた。思わず、甘える子猫のように、頬をオスカーの胸板に擦り寄せ、自然とオスカーの香を胸いっぱいに吸いこんでいると、くいと顎をつまみ上げられ、触れるだけのキスを落とされた。
その軽いキスにも、書類を抱えていたアンジェリークの手は、また御留守になりかけた、が、それを見越していたのか、オスカーがさりげなく、手を添えて支えてくれていたので、アンジェリークは書類を散ばさずに済んだ。
そんなやりとりを経て、
『思い返せば、オスカー様はご自身でおっしゃる通り、幾度か香を変えてらっしゃる。けど、私、いつも何の違和感もなく、オスカー様のまとう香にうっとり酔いしれていたわ。オスカー様の趣味が良いからなんだろうけど…私も、そんないい香りを選べるかな。選ばなくちゃ、オスカー様のイメージに合って、オスカー様もお気に召してくださる香を…』
と考え、フレグランスをいざ選ばんとアンジェリークははりきった。聖地御用達の商人さんにお買い物相談もして、幾つもサンプルも送ってもらい、だが、だからこそ、アンジェリークは、程なく、途方にくれた。
オスカーへのプレゼントにワインを選んだ時も、その産地・銘柄の多さにめまいを起こしたけれど、フレグランスの多種多様さも、似たようなものだったからだ。
オスカーは柔軟性があるし、自分の好きな香りでいいと言ってくれていたから、今まで身につけたことのない意外性のある香りでも嫌とはいわないだろう、けど、どうせなら、気にいってくれるものを選びたいという欲がないといえばうそになる。だから、どうしたって迷う、物選びは、真剣になればなるほど悩ましい。
それに、オスカーの香を選ぶにあたって、アンジェリークは、今更ながら、ちょっと気になることがあったのだ。それは『オスカー様のお好きなエキゾチックでスパイシーな男らしい香と、私が好きで、よく身につけてる花の香り、近くで合わさって混じり合っても、ミスマッチになってなかったかしら…』ということだった。
オスカー様は私の香りを好きと言ってくださるけど…私もオスカー様のまとう香が大好きだけど、一つ一つはいい香りでも、混じり合わさると、いい香りになるとは限らないって聞いたことがある…私とオスカー様は、すごく、お傍にいることが多いから(きゃv)そういうことも考えた方がいいのかも…と思うと、自分のまとう香との相性も考えねばならない。
でもフレグランスは女性用と男性用で、かなりベースの香りが異なる。しかも、ウッディ、グリーン、スモーキー、ハーバル、フローラル、スパイシーと香の傾向は多々あるが、どの香りとどの香りが相性がいいのか、悪いのか、アンジェリークにはよくわからない。
いっそ、男女兼用のモノセックスな香りを選んで、私とオスカー様のフレグランスを揃えるのも手かも?とも思ったのだが、そういう香りは、当然、スモーキーとかウッディ、もしくは、渋いシトラス系かグリーン系が香りのベースになっていて、明らかに、自分のイメージではない、と、アンジェリークは思った。自分がボーイッシュ、もしくは、マニッシュなタイプー背が高くて、すらっとしてて、髪はショートで、顔立ちもきりっとしてて…というタイプなら、こういう香も似合ったのだろうが、自分の外観は正反対ーつまり、自分のイメージとは違う気がする。自身も甘い花の香りの方が好きだし、オスカー様の香りに合わせて、自分のイメージじゃない香りに変えるのは、オスカーには、あまり喜ばれない気がした。
でも、自分の好みに合わせて、オスカー様に花がベースの香りをまとっていただくのも、何か違うって気がするし…オスカー様にはやっぱり男性的な香りがお似合いって思うし…
「それぞれに、全然、違うイメージの香りをまとっても、悪いとかダメってことはないのかもしれない…けど、私とオスカー様、各々の香りが独立独歩で、全然、関係ないっていうのも、なんか、寂しい、つまんない…なんて思っちゃうのは、我儘っていうか、贅沢かなぁ」
せっかくオスカーの香りを選ばせてもらえるのだ、それなら、自分の香りも、少なくともオスカーのまとう香を邪魔したり、打ち消し合ったりしない香りにしたいし、可能なら、少しでも調和の取れる、似つかわしい香りを自分もまといたいな、なんて、思ってしまう。
そのせいで、考えれば考えるほど、迷ってしまう。けど、オスカーの誕生日というタイムリミットまでには、何が何でも、フレグランスを選ばなければならないから、いざとなったら、自分の贅沢・我儘・望みすぎは諦めて、とにかく、オスカー様のイメージ優先で香を選ぼうと、半分腹をくくったその時だった。たまたま開いたとある老舗…外界の時間軸では十分に老舗といえるメーカーのフレグランスが目にとまった。あまり飾り気がなく、直線的で鋭角なラインのボトル、ラベルもどこか古典的な雰囲気で、見るからにかわいらしいもの好きな女性ー自分には、若干、物足りない外観だったが、だからこそ、男性には凝りすぎた観がないさりげなさがいいかもしれない…位の気持ちでアンジェリークはそのメーカーの香水の説明書きを読みはじめ…解説を読み切った時、アンジェリークは「自分が探していたのはこれだわ!」と、確信に近いものを感じた。何の気なしに、格段の期待もせずに覗いたメーカーだったのに、だ。そして、サンプルを取り寄せるのももどかしく、そのメーカーの品を、2つ、注文したのだった。
そしてやってきたオスカーの誕生日当日である。
オスカー、アンジェリークの両者とも、どことなくそわそわと浮き立つ気持ちで執務を終え、一緒の馬車で帰宅し、軽くシャワーを浴びて着替えた後、2人で祝い膳の席につく。アンジェリークの「お誕生日おめでとうございます、オスカー様」という言葉と共に、とっておきのスパークリングワインで乾杯する。オスカーの誕生日が平日に当たった時の定番だ。
もう、幾度も祝ってもらっているが、大事な人に、自分の誕生日を祝ってもらうのは、いくつになっても…比喩でなく、かなりの歳月を重ねてきていても、うれしいことだと今のオスカーは素直に思える。アンジェリークと暮らし始める前は、そんな習慣は他人事としか思っていなかったのに、変われば変わる物だ。それもこれも、アンジェリークが毎年、工夫を凝らした心尽くしのお祝いともてなしをしてくれるからだ。
ただ、今年は、アンジェリークがフレグランスをくれることがわかっているので、結婚当初のような、無茶な要求やここぞとばかりのわがままを言えなかったのは、ちょっと残念な気がしないでもないオスカーである。近年の「素肌に赤頭巾」という、それはそれはオスカー的に大ヒットのコスプレをしたお嬢ちゃんを、狼役の自分が美味しく味わっていただくというプレイが、殊の外楽しかったこともあって。が、アンジェリークが彼女の好みで、自分のことをイメージして選んでくれる香がどんなものか、それは、それでかなり楽しみなのも事実であった。
例年通り、オスカーの好物で埋め尽くされたディナーの後、オスカーは、うきうきわくわくの心持でテーブルを立った。
ディナー前に、強い香りをかぐと、せっかくのご馳走の味わいが損なわれるかもしれないし、それではシェフに申し訳ないので、プレゼントはお部屋でーつまり夫婦2人の部屋でー渡しますね、と予め、アンジェリークから言われていたからだ。
「さ、行くか、お嬢ちゃん」
「はい、オスカー様」
何やら、いつもより恥じらいの風情を見せて、アンジェリークがうなずく、オスカーは、待ちきれない気持ちになって、アンジェリークをひょいと抱き上げ、2人の部屋に続く階段を上ろうとする。
と、その華奢な体を抱き上げた瞬間、アンジェリークからなんともいえぬ甘い香りが立ち上り、オスカーの鼻腔をくすぐった。それはオスカーの記憶にない、今までに嗅いだ事のない香りのように思えた。昼間、執務時間中にこの香は感じなかったから、帰宅してのシャワー後、ディナーの邪魔にならないよう、控え目に目立たない処に香を着けていたのだろう。
『初めて感じる香りのようだが、お嬢ちゃんは、俺のフレグランスを選ぶのと一緒に自分のも新調したのかな?古典的でおとなしめな気もするが、悪くない…どころか、お嬢ちゃんの可愛くたおやかなイメージにぴったりだ』
アンジェリークから控え目に薫る初々しい花の香りを楽しみながら、オスカーは『なら、お嬢ちゃんが自分に選んでくれたのは、どんな香りだろう?』と一層期待に胸を弾ませ、鼻歌交じりに階段を昇った。
この時、オスカーの腕に抱かれたアンジェリークは、何かを期待するような、でも、ちょっぴり不安そうな眼で、ちらちらオスカーの顔を見あてげていた。一瞬オスカーは「?」と思ったが、「きっとプレゼントが俺の気に入るか心配なんだろうな」と思い、特に気にはとめず、上機嫌で部屋に向かった。
肩でドアをあけて夫婦2人の寝室に入り、アンジェリークをそっと下ろすと、彼女は早速、彼女の化粧台から、大事そうに小さな箱を取り出し、オスカーに差し出した。
「オスカー様、改めて、お誕生日おめでとうございます。これが、私がオスカー様に選んだ香りです、よかったら、あけてみてください」
「ああ、喜んでそうさせてもらおう」
アンジェリークがオスカーに今すぐ香りを確かめてもらいたっがているのが、そのきらきらの瞳、うずうずとした様子から、ありありとわかった。こんなところで、もったいつける気はないし、オスカー自身楽しみにしていたので、即座に包を開封する。
箱を開けると、重厚で直線的でクラシカルなボトルが現れた。愛らしい物好きなアンジェリークが選んだにしては、飾り気ないとも言えるデザインで、オスカーは少し意外に思った。アンジェリークなら、アールデコ調の丸みを帯びた流水もしくは花蔓を思わせるような形状のボトルを選ぶように勝手に思い込んでいた。それだけ、俺の好み、俺のイメージに合わせて選んでくれたのだろう。そう思いオスカーがボトルを開ける。漂う香の第一印象は控え目なシトラスだが、その中にスパイシーかつウッディでスモーキーな香りが混じり、シトラスにしては、さわやかというよりは落ち着いた印象だった。ほのかにくゆるスパイス香が、どことなく官能的な趣も添えている。その古典的かつ紳士的な男らしさを感じさせる香は、オスカーの外観ー肉体年齢よりは、オスカーの内面、精神を基調に選ばれた、というイメージをオスカーに与えた。
「俺が今まで、使ったことのないタイプの香りだ…落ち着いて心地よい香りの中に官能性がほの見える…俺に似合いそうかな?お嬢ちゃん」
「は、はい…オスカー様にお気に召していただけるといいんですけど…あの、よかったら、つけてみてくださいませんか?」
アンジェリークは、この場でつけてもらいたがっていた。その様子に、オスカーはちょっと茶目っ気が出た。どうせなら、自分に楽しい方法で新しい香りをまといたいと、考える。
「なら…お嬢ちゃんの手で、俺にその香をつけてくれないか?お嬢ちゃんの好みの処に、な?」
「え?!あ、はい、じゃ、ちょっとお待ちくださいね」
アンジェリークがオスカーからボトルを受け取る。フレグランスを詰め替えようと、手持ちのアトマイザーを取りだすと、オスカーは、それをひょいとアンジェリークから取り上げ、人差し指を立てて、軽く2、3度横に振る。そして、アンジェリークの手を取り、しなやかな指先に軽く、ちゅ…と口づけざま、アンジェリークの耳元でこう囁いた。
「お嬢ちゃん、俺は『お嬢ちゃんの手で』と言ったんだぜ、お嬢ちゃんの、この、白く柔らかな手で…な?」
くらり、と、アンジェリークに軽いめまいにも似た感覚を引き起こしたのは、オスカーのその囁きか、指先への口づけか、それとも、開けかけのボトルから漂う香水の香りか。アンジェリークは何かに酔ったような心持ちのまま、夢見るように頷いていた。
「…はい、オスカー様…私でよろしければ…」
オスカーはアンジェリークのいらえに軽く笑むと、アンジェリークが触れやすいよう、ベッドに腰かける。
アンジェリークはそのオスカーの隣に腰掛け、ボトルから掌にほんの少量、フレグランスを取ろうとした、その時だ。
「お嬢ちゃん、俺はこのままで…服のままでいいのかな?もし、ボディにつけるつもりなら、お嬢ちゃんが好きなように脱がしてくれていいんだぜ?」
誘うようにからかうようにオスカーが告げると、アンジェリークは、ぽぽ…っと頬を染め、けど、むしろ嬉しそうに
「じゃ、お言葉に甘えて失礼します、オスカー様…脈動のある当たりにつけるのが良いみたいなので…」
といってオスカーのシャツのボタンを丁寧にひとつづつはずし始めた。シャツの胸を開いて袖を抜きー無論、オスカーは脱ぎやすく体をよじってやりーオスカーの上半身を露わにする。逞しい、かつ、無駄なく引き締まったオスカーの裸の胸を目にして、アンジェリークは少し眩しそうな顔になる。そして、ほ…と小さく吐息をつきながら、数滴、フレグランスを手に取って、その細くしなやかな指先で、オスカーの首筋と胸元の下、両脇の腹のあたりまで、羽毛で触れるように軽く、撫でるように指を滑らせて触れた。ひんやりとした手指が控え目に肌の上を滑るたびに、オスカーの背筋がぞくそくする。それは己の体温に温められる程にくゆり立つ香りの所為ばかりではないことは明白だった。
「どうでしょう、オスカー様…」
アンジェリークが、心配そうな、けど、期待もするような眼差しでオスカーに問うた。オスカーはアンジェリークを安心させるように微笑と共に答えを返す。
「ああ、いい香りだな、つけてみると、最初の印象より、セクシーというかよりセンシュアルな感じだ…自分のイメージで、人に香を選んでもらうのも楽しいものだな、お嬢ちゃんの抱く俺のイメージがわかるようで。ありがとう、お嬢ちゃん」
「私が選んだ香りをオスカー様もお気にめしてくださったのなら、良かった…それに、オスカー様がまとうと、私も、香水それだけの時より、ずっと男らしくてセクシーに思います、うっとりしちゃう…」
と、アンジェリークは不安と期待に揺れていた眼差しを一転、どこかいたずらっぽい、照れたような顔になって、自らオスカーの裸の胸に飛び込むように抱きつくと、子猫のような愛らしいしぐさで頭をオスカーの胸板にこすりつけた。
「俺の新しい香りに、早速、うっとりと酔いしれてくれているのか?お嬢ちゃん」
「はい、それもあります、けど、…あのね、オスカー様、私、嬉しいの、オスカー様がこの香をすぐ身につけてくださって。オスカー様がこの香をこの場でまとってくださらなかったら、私、ちょっとがっかりしちゃってたと思うので」
「お嬢ちゃんからの贈り物を、俺が、大事に、かつ、即座に使わないわけがないだろう?」
「はい、うふふ…」
アンジェリークが、彼女にしては珍しい、罪のないいたずらをたくらむ童女のような顔をした。わくわくして、どきどきして、でも、ちょっとだけ不安を残してもいる、それは、先刻、オスカーの腕の中ででも、アンジェリークが見せていた表情だった。
「どうした?お嬢ちゃん、なんだか、とても楽しそうないたずらをたくらんでいるような目をして…そういえば、お嬢ちゃんもまとう香を変えたみたいだが…もしかして、俺のに合わせて自分のも新調した、そうじゃないか?今までのものと趣が違うが、いい香りだなと思ってた」
女性は、メイクや髪型や服を新調すると、それを気づいて、褒めてほしいものだ。香もまた同様だろうと、オスカーは考える、実際、今、彼女のまとう香は、バラをベースに様々な花の香を合わせたもののようで、乳白色でどこもかしこも柔らかなマシュマロ肌、ふわふわと軽やかな金の髪、翡翠の瞳に桃色サンゴの唇の彼女の雰囲気にとても合っていた。お世辞でなく進んで称賛したいほどだった。
「オスカー様、気づいてくださったの?」
「無論だ、お嬢ちゃんが今まで身につけたことのない香りだったからな…今までお嬢ちゃんのまとう香は、ピュアでシンプルなものが多かったろう?花なら単体の…けど、これは花は花でも、ブレンドされた…花園のような香りだ、だから、すぐ、わかった。古典的で初々しい…まさにお嬢ちゃんにぴったりの香りだと思った…まるで君が花園の中に佇んでいるようだ、ともな」
「ふふ、うれしい。あのね、オスカー様、これ、ただ、新しい香りってだけじゃないんです。私の…この女性用のフレグランスと、オスカー様が今つけてくださった男性の香りは調和するよう調合されてて…2つの香りは互いに引き立てあい、一つになることでより芳しく香り立つ、そんなフレグランスなんですって。私、オスカー様の香を選ぶ時、考えたんですけど、オスカー様のイメージにあう、男性的でセクシーな香りと、私の好きな花の香、これって、すぐそばで混じり合った時、打ち消し合ったり、逆に、あまり心地よい香りじゃなくなったら困るなって。私はオスカー様のお傍にいて、こうして、抱きよせて抱きしめてもらうのが大好きだから。けど、打ち消し合うまではいかなくても、お互いそれぞれ関係ない香りをまとっているのも、何か、寂しいな、できれば、抱きしめあった時、私たちのまとった香りが混じり合って、より芳しい香りになったら、もっと素敵だなって思ったんです。そしたら、あったんです。男性の香りと女性の香り、それぞれでもいい香りだけど、それが2つあわさって混じったら、もっといい香りになるように考えられて作られていたフレグランスが…」
アンジェリークがオスカーの背に回した腕にきゅっと力を込めた。
「私のまとう香とオスカー様のまとう香、2つが合わさって、一つの香りに感じられるほど混じり合うと、それは、もっと心地よい香りになるの。2つの香が混じり合うことを心配しなくていい、ううん、どちらがどちらかわからなくなるくらい、混じり合わせてこそ、この香はより芳しく素晴らしく薫るのですって…オスカー様…」
「お嬢ちゃん…」
オスカーは虚を突かれて、一瞬、黙りこくってしまった。彼女が選んでくれたのが、2人合わさることで、より芳しくにおい立つ香りだという事実に、その込められた意味に。
「…ありがとう、お嬢ちゃん。君からの贈り物は、いつも、大層素晴らしいが…今年の、このフレグランスは、俺と君との香りを一つにする、そんな新たな喜びと楽しみも、俺にくれるものなんだな…」
「はい、オスカー様のまとう香と、私のまとう香を、一つにして、より素敵な香りにしていただけたら…って思いました、オスカー様が喜んでくださるといいけど、こういう趣向も楽しいって思ってくださるかしら…そうだといいけどって思って、ちょっとドキドキしてました…」
「ああ、それでわかった。君がかわいい悪戯を企んでいるような、楽しそうな、けど、少しだけ、不安そうだった訳が…けど、安心しな、お嬢ちゃん。俺にはまったく嬉しく思いがけない…まさにサプライズだった。ただ、香を新調するだけでなく、こんな楽しみまで用意してくれるなんて、な…」
「オスカー様…」
オスカーは、大事そうにアンジェリークを抱きよせ、静かに、喜びと自信に満ちた声で、囁きかけた。
「さ、お嬢ちゃん、なら、今すぐ、俺たちの香りを一つにしよう。そして、その香がどれほど芳しく香たつものか、俺に確かめさせてもらいたい…いや、2人で一緒に確かめよう。だって、君も、それを望んでいる、そう思っていいだろう?」
「はい、オスカー様、喜んで…それこそ、私の望み、私の喜びですもの…」
アンジェリークが自分からオスカーの首に腕を巻きつけ、口づけてくれた。