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守護聖のサクリアの衰え

それは、いついかなる時代の、どの守護聖のものであっても一大事だ。

ただ、事が事だけに、一大事とはいっても、大騒ぎされる類のものではない。

次代の守護聖の選定及び指名は、淡々と事務的にこなされるべきであり、また、ひとたび新守護聖が定められ、聖地への召還が行われた後は、彼への教育は、これもまた、淡々と平静に行われるべきものである。外界でどう受け取られるかはいざ知らず、ここ、聖地では、それは、あくまで日常の延長と認識されるべき事象であろう。頻繁にではないが、珍しくもなく繰り返されてきたことであり、これからも無限に繰り返されていくことだからだ。それゆえ、同時に、旧守護聖の退任、及び、新守護聖の選定において、当事者以外の既存の守護聖も、どんな感慨であれ、感情的なものを、あまり表に出すべきではない、少なくとも、俺は、そう思っているし、過去に風、鋼、緑の守護聖を、静かに、落ち着いた態度で見送ったつもりだ。

それは、守護聖に任じられた時点で、覚悟すべきことでもあるからだ。

だから、俺は、それが自身に降りかかってきた場合は、尚のこと、冷静に受け止め、努めて平静に振舞うべきだと思っていた。

しかし、上記の心がけは、あくまで、俺個人の考え・ポリシー・美学ー言い方はなんでもいいのだがーであり、他の守護聖が同様に考えているとは限らず、ましてや、俺の認識や行動原理には、普遍性も拘束力も欠片もないこと、つまり他者に強制などはできない、それもまた、真実だった。

 

お嬢ちゃんと週末の小旅行から聖地に帰り、あけて月の曜日の朝一番、聖殿に出仕するや否や、俺は、ジュリアス様に、ご報告したいことがあるので少々お時間を割いていただけないかと打診した。

ジュリアス様は「あらたまって何事だ?オスカー、急ぎの用件か?」といぶかしがっておいでだったが、俺が通話ではなく、直にご報告いたしたいことであり、最緊急ではないが、早いに越したことはない旨を申しあげると、快諾して、即座に時間を作ってくださった。

俺は、今の心持と同じ、しっかりと落ち着いた足取りでジュリアス様の執務室に向かった。

まったく、つい1週間前とはえらい心境の差だ。

先週の今頃、俺は、憂悶・煩悶・懊悩・苦悩が吹き荒ぶ嵐の只中にあったというのに、いまや、俺の心は晴れ晴れと一点の曇りもなく澄みわたり、穏やかに凪いでいる。我ながら現金なものだが。

これも、旅行中にお嬢ちゃんと二人、互いの気持ちを包み隠さず伝え合い確かめ合ったおかげだった。旅先で、二人きりでという環境が、俺に、自身の気持ちを、心からの望みを、何も構えず、何に縛られることもなく、ありのままに率直に語ることをよしとしてくれた。そして、それは、お嬢ちゃんが俺の些細な変化をそれとなく察し、折り入っての話を心置きなくできるような状況をセッティングしてくれたからこそであった。今まで何度となく思い、実際に口にしてきたことだが、まったく、お嬢ちゃんは、この上なく素晴らしい、かけがえのない女性だ。優しく、敏く、可憐で、健気で、いじらしく、俺にはもったいないほどの最高の女性だ。此度のことで、俺は、この認識を更に強固に、かつ、新にしたことは言うまでもない。

そして、そんな素晴らしき、かけがえなき女性であるお嬢ちゃんは、俺の心からの望みを快く…否、一瞬の間もおかず、心から喜んで受け入れてくれ、あまつさえ、お嬢ちゃん自身も、俺と同じ望み、願いを抱いていたと、告白してくれた。俺と過ごす一生を、俺と共に生きていくことを、何よりの大事と言い切ってくれたのだ。

これ以上の幸福・至福があろうか。

今の俺には恐いものは何もない。あるはずもない。境遇の激変も、新たな人生の始まりも、未知の環境も恐れるに足りない。曲がり角の先に何が待ち構えていようと、どんと来いだ。責務と役職、特殊能力も失い、特別な存在から降りて、平凡な一市井人になることに対しても、俺には何の恐れも喪失感も空虚さも、ない。生きる意味と目的を見失う恐怖は今の俺には無縁のものだ。今、俺の心中を静かに満たすものは、お嬢ちゃんと二人、手を携えて拓いていくことになろう新生活への希望と夢だ。

まったく、サクリアの喪失と退任の時に際し、こんなにも静かな…いや、むしろ心弾み、浮き立つような心境で居られるとは思ってもいなかった。

そんな俺の心持ちは、多分、全体の雰囲気からにじみ出ていたのであろう。

俺自身は、真面目な顔で、かつ、厳粛な口調で事の次第を告げたー守護聖退任に際しては、努めて冷静沈着に振舞うべしという己の信念にも従って、あまり感情を交えず、淡々と事実のみを報告したつもりだったが、俺の話を聞いたジュリアス様は、暫時あっけにとられ

「悪い冗談はよさぬか、オスカー、炎のサクリアに変調あらば、わからぬ我らではない。なのに、そのような世迷言を言い出すなど…なにか心弱りするような憂いでもあるのか?体調が優れぬ…ようにも見えぬが…」

と、俺の言を真面目に取り合ってくれずー俺の奏上の意図がわからぬという風情で、いぶかしがられるばかりだ。

確かに、俺のサクリアの変調はまだ微々たるものであるしー俺自身を除き、俺の変調に気づいたのはお嬢ちゃん1人だけだー何より、サクリアの衰弱と喪失及びまもなくの退任の報告にしては、俺の言葉には沈鬱もしくは悲壮、重々しき由々しき事態を思わせる空気が足りなかったようだ。

でも、今の俺にとって、サクリアの弱化は、悲壮な感慨を引き起こすようなものではないのだから、無理に沈痛な表情を装うなんて、無理だし無意味だった。自分が、この立場に立ってみて初めてわかったが、サクリアの変調は、真面目に善後策を考えねばならぬ事態であるのは確かだが、だからといって、一概に悲劇的なものであるとか、絶対に意気消沈する状況とはいえないような気がしていた。シリアスな問題イコール悲劇とは限らない、必ずしも悲劇と言い切れるものではあるまい。要は、個人の立場やものの考え方受け取り方次第なのだ。

この問題は、えてして本人より周囲が動揺しがちだー騒ぎ立てたり、逆に腫れ物に触れるように神経質になったりーそれは環境の激変と今後の適応を案じて、つい、当人以上に心配になったり、不安にかられたりするからだろうし、俺も、その気持ちはわかる。が、結局のところ、この状況を、どんな思いで受け入れるかは、その当人次第であり、また、なってみないとわからないのだ、と、当事者になった俺は感じる。特に俺たちの世代は、鋼の守護聖の交代が、あまり円滑にはいかなかった経緯を見知っているから、退任問題に関してはナーバスになりがち、というのもあるだろう。だから、前・緑の守護聖が、俺には拍子抜けするほど、あっさりと、むしろ朗らかに陽気に聖地を去っていった時、彼は幾分強がったり無理しているのではないかとー後輩である俺たちを心配させないためにーと俺は少々穿った見方をしていたのだか、今、俺は、カティスをそのように看做していたことを、心から詫びたいと思う。彼は、多分、環境の変化や守護聖としての特性を失うことを恐れたり、マイナス要因と捕らえてなかった、純粋にそういうことだったのだろう、という気が、今になってするのだ。だから、彼は、陽気に聖地を去っていった。それだけなのだと。

俺も聖地を去る時は、かくありたい。カティスを見習って、朗らかに、希望に満ちて、しかも、それが無理や強がりではないかと、気を回される余地が微塵もないような態度で。それは、お嬢ちゃんが傍らにいてくれれば、たやすいことだろう。

俺は、お嬢ちゃんに改めて感謝の想いを抱く。君には、無数の未来と選択肢があるのに、あったのに、君は、俺と生涯共に歩む決意をしてくれた。だからこそ、俺は、こんなにも、暖かですがしい、落ち着いた気持ちで、この地を去り行くことができるのだから。

が、宇宙の安定と平穏という面では、守護聖の円滑な交代は必要不可欠、かつ重大事であることは確かだし、俺自身にもその自覚はきちんとあるので、俺は、俺に訪れた事態は、決して冗談でも気のせいでもないことを示すため、精一杯、真面目に真剣に俺の状況をジュリアス様に、先刻より詳らかに報告した。まだ、きわめてささやかな変化なので、傍からは感じられないかもしれないし、計器での測定も難しいかもしれないが、自身のサクリアが衰えの兆しを見せ始めているのは間違いのないことであり、ゆえに、新たな炎のサクリアの顕現を王立研究院で探索をかける旨を了承していただきたいことを、畳み掛けるようにして訴えた。

この真剣な奏上に駄目押しのように、俺の変調はお嬢ちゃんも既に察しており、俺が程なく退任を迎えることも承知していると俺が告げるや、途端にジュリアス様の顔色がさっと替わり

「それでは、そなたのサクリアの変調は、誠なのだな…」

と、重々しい吐息をつかれた。まったく、お嬢ちゃんの信用は絶大だ。

「して、この件は、陛下には?陛下はご存知なのか?」

「俺からの報告はまだです。まずは、ジュリアス様にご報告申し上げ、新守護聖探索の許可をいただいた後、陛下には、ご報告申し上げる心つもりでおりました」

「そうか、で、アンジェ…補佐官は、どうすると…」

と、問いかけたジュリアス様は、見上げた先に、俺がつい、抑えようもなく緩めてしまった口元を見出したのであろう

「愚問であったな…言わずと知れたことであった」

と、諦めたような大きなため息をつかれた。

お嬢ちゃんの話題を振られたことで、この時、俺の脳裏には、お嬢ちゃんがどんなに俺との未来を大事に思っていてくれたか、この週末、お嬢ちゃんが、どれ程いじらしく、健気かつ真摯に、俺と一緒に生きていきたいと俺に訴えてくれたか、その夜は、俺たちの情熱がどれほど熱く燃え上がり、限りなく甘い一時を堪能したか、その時のお嬢ちゃんの可憐にして、なやましい肢体の映像記憶と共に、あの時の感動と喜びが、怒涛のごとく溢れる勢いでよみがえっていた。

すると、ジュリアス様は、瞬間、心底あきれたという顔をして

「そなた、自分では必死に真面目な顔をしているつもりなのだろうが、口元がなんとも幸せそうに緩んでいるぞ、そのようなにやけた顔は、まちがっても陛下の前でさらすでないぞ」

と、俺にくぎを刺した。

「…キモに命じておきます」

いかん、俺の口元はつい、自然に緩んでいたらしい。それもこれも、お嬢ちゃんがあまりにかわいらしく、色っぽすぎるせいだ。

と、ジュリアス様が、机上で指を組まれ、長々と嘆息なさった。

「私個人としては…片腕と見込んでいるそなたが、聖地を去るのは、かなりの痛手ではあるが…若者たちに、任せる仕事および権限を増やす良い機会にもなろうし、守護聖の交替は大事なれど、そう、珍しいことでもない、大騒ぎされるのは、そなたも本意ではなかろう。そなたの前に今開けた道は、我らの誰もが、いつかは通る道でもあるしな。かくなる上は、新守護聖が選定され、聖地に召還されたあかつきには、粛々とそのものの教育に尽力することだ」

「お約束いたします」

「ただ、問題は…この件を報告した時の陛下の反応であるな…」

その言葉に、俺は、居住まいを正した。気持ちも、否応なく引き締まる。

「…それは…俺の退任は、どうしようもないことですが、その結果として、俺は陛下から大切な補佐官を奪ってしまうわけですから…お詫びの言葉もございません。しかし、俺と一緒の人生をまっとうしたいというのは、彼女自身のたっての願いでもあり…」

「ああ、あれなら、そう言うであろう。陛下も、それは、わかっておいでのこととは思うが…しかし…あれが、聖地から去ってしまうのか…この聖殿も寂しくなるな…」

ジュリアス様は、しみじみとおっしゃった。本心から寂しいという気持ちが、態度から、表情から、声音から、ひしひしと伝わってきた。何も事情を知らない第三者が見たら、退任を控えているのは、ジュリアス様の方に思えるかもしれない、それくらい、ジュリアス様の端整にして秀麗な容貌は、惜寂と憂愁に彩られていた。

が、ジュリアス様は、ご自身の感傷を振り切るように、小さく頭を振ると、真面目な面持ちで、こう、おっしゃった。

「いや…そのような感情論以前に、補佐官の不在により、執務の流れが滞らねばよいが…あれは、本当によくやってくれていたからな…」

それは、俺にとっても、自分が深く関係して引き起こすにもかかわらず、自分ではどうすることもできない、最も重大な懸念事であった。

炎のサクリアは俺から漸減するに比例して、どこかの誰かの身中に徐々に顕現し始める。新たな炎の守護聖は、適切かつ精密な探査を行えば必ず宇宙の何処かに見つかるはずであり、注意すべきはその者が就任前に不慮の事故などに合ったりしないか、その心配だけだ。そういう類の危険を避けるためにも、新守護聖の発見および聖地への召還は早いにこしたことはない。

しかし、補佐官は違う、補佐官が中途退任する場合、後任のあてはない。補佐官は、女王のサクリアの素質が必須であり、それ以上に現女王との相性が大事であり、絶大な信頼関係がなければ、その役に就けないからだ。

補佐官はその職に就いた時点で、自身の女王のサクリアはほとんど放出してしまい、そのサクリアを女王に奉じる、いや、預けるという方が言葉としては、適切かもしれない。結果、補佐官は微弱なサクリアを身中に残すのみになるが、女王の精神と協調・共鳴・同化することで女王のサクリアの影響下に入る、つまり、現女王の傍でそのサクリアを浴びることで、女王と同じ時間の流れにその身をおくことになる。補佐官の多くが女王と任期を全く同じくするのは、女王が補佐官の分も預託されより強大となった自身のサクリアを補佐官の身に注ぎ返す形で供与するから=影響下におくからであり、たまさか、補佐官が先に中途退任した場合、彼女の寿命がただ人のそれに戻るのは、簡単に言えば、女王からサクリアの補給が意図的に停止されるからだ。ただし、万が一、女王の身に何かあった場合、補佐官は女王に預託していた自身のサクリアを女王のそれと共に引継ぎー補佐官の身中にはサクリアの受容体というか、器はそのままにあるからこそ可能なことだー中継ぎの女王として暫定的に即位することもあるという。言い換えれば、女王のサクリアは、女王と補佐官の心が強く結ばれている場合、相互にやりとり、行き来させることができるものらしい。

それは、平常時には、補佐官の時の流れを御するのは、女王の意思の力が大きいということでもある。だからこそ、女王は、意に沿わない、気の合わない補佐官は置かない。めったにあることではなかろうし、実際史実にもみあたらないが、いざという時に(女王が不慮の事故死を遂げたり、なんらかの理由で任期中途で退任せざるをえなくなったような場合だ)自身の名代を勤められる、宇宙を任せられると思えるほどの信頼と友愛が女王と補佐官の間には必要なのだという。が、だからといって、女王のお気に入りなら、誰でも補佐官になれるかというと、そういうわけでもない。なぜなら、女王のサクリアをきちんと受け取り、その効果を発揮するには、補佐官の身中に女王のサクリアの受容体および顕現させるための資質が必要不可欠だからだ。つまり、ただの女性に女王のサクリアを注いでも、それを受け取るだけの器がなければ、サクリアは無駄に流れてしまい、無意味・無効だ。ゆえに補佐官になるのは、女王のサクリアの資質を持ち、なおかつ、女王と情緒的な結びつきの強固な女性に限られる、ということだった。

「だから、女王様と補佐官は女王試験を一緒に受けて、その過程で大親友になった方たちが多いのですって。私、自分が女王になったら、ロザリアに補佐官になってほしいと思ってたし、逆なら、補佐官になりたいと思ってました、ロザリアも同じ思いを抱いててくれました、2人がお互いに、こんな風に思いあっている女王と補佐官の在位は、安定して、長期にわたることが多いって教わって、私、すごく、嬉しかったの、今もよく覚えてます」

ということを、俺は、お嬢ちゃんから教わったことがある。無論、お嬢ちゃんも補佐官職に就くと決まった後の教育・研修でレクチャーされたそうだ。実際、お嬢ちゃんと無二の親友である陛下のサクリアは長年にわたって揺ぎ無く、その治世は磐石で、このままなら陛下の御世は歴史上でも特筆すべき長期の安定・平穏な世となろう。

そして、俺は、妻が補佐官でなければ、こんな仕組みを、ここまで詳細に知ることはなかったろう、女王のサクリアは、守護聖のそれとは、まったく性質の異なるものであることも、補佐官と女王の、この密なつながりも。以前の俺は、女王には補佐官がいるのが普通、居て当たりまえ、という程度の認識しかなかったからな。

とにかく、そういうわけで、お嬢ちゃんの…補佐官の後任は、いない。おきようがない。補佐官が早期に退職した後、女王は心の拠り所ともいうべき友人を失ってしまう…このことを考えると、守護聖としての俺、職業人としての俺の心は酷く痛む、痛まないわけがない。俺は女王陛下から補佐官を奪うことに忸怩たる想いを禁じえない。

無論、俺は炎の守護聖として、陛下にすべての忠誠・忠義、この身命すら捧げる覚悟はある、が、お嬢ちゃんだけは…アンジェリークだけは、譲れない。人として、男としての俺は、何がどうあってもアンジェリークをあきらめることはできない。それをこの旅の間に俺は思い知った。俺の魂は、ただ、アンジェリークだけを求めていた。そして、この利己的な願いを、お嬢ちゃんに俺に許してくれ、俺自身、過たず、最も大事なものを選び取ることができた。俺の中で答えは出ていた。

とはいえ、だからといって俺の罪悪感が減じたり消えるというものでもない。俺の選択は、お嬢ちゃん自身も望んでいることとはいえ、どうあっても彼女の友人である陛下を悲しませることにはなる。俺の退任は、俺1人にとっては、悲劇でも悲痛でもない、だが、退任時にお嬢ちゃんを伴い連れ去ることで、俺は周囲の人に悲しみを振りまいてしまうことになる、そして友人の悲しみ、寂寥の感情は、お嬢ちゃんの顔をどうしたって曇らせる。その事実が、俺をいたたまれなくさせる。

なら俺が、騎士としての意地と強がりと責任感を押し通してお嬢ちゃんを1人聖地に残せばいいかというと、そうではない、その選択は、誰1人幸せにしない、むしろ、関係者全員を、すべからく不幸にするだろう。俺は言うまでもなく、お嬢ちゃんも俺と別れ別れの人生を送ることを、何より悲しく辛いことと明言しているのだから。その結果、気鬱で塞いでいる補佐官が…心ここにあらずで抜け殻のような補佐官が聖地に残ったとして、陛下をはじめとする聖地の面々が、それを幸福に感じるか、ということだ。全員が等しく不幸せな状況は、ある意味公平かもしれないが、そんな結末を一体誰が望み、喜ぶというのか。つまり、俺たちの選択は、別離の悲しみや心の痛みが避けられぬ以上、まだ、耐えやすい、しのぎやすいものを選ぶ、ということであったし、悲しみの中にも、可能な限り幸福を探し出し、追求しようとする方策でもあった。悲しみに序列をつけるのは、おこがましいと思うが、どうしようもない選択というのは、確かにある。

でも、実は、その一方で、俺は、とてもあきらめの悪い男でもあった。ことに、お嬢ちゃんの顔が僅かでも憂愁に彩られる恐れがあるなら、その恐れを可能な限り減じたい、できれば、なくしてしまいたい、そのために出来ることは無いか、何かできないかと俺は思う。

俺の退任は動かしがたい近い未来の真実だ。而してお嬢ちゃんも退任し聖地を去る、これも動かしようのない大前提だ。ゆえに聖地に残される者たちは、補佐官がいなくなることで様々な不利益を被るだろうし、寂しく不如意な想いを感じることだろう。友人・知己・係累たちが寂しがる様子は、お嬢ちゃんを少なからず悲しませるだろうことも必定、ならば、俺はその寂寞を少しでも埋める手立て、減じる手立てはないものか、お嬢ちゃんとの旅を終えてから、ずっと、それを考えていた。

そして、以前に、お嬢ちゃんから、女王と補佐官の関係性を詳細に聞いていたゆえであろう、考え抜いた末に、俺は、ある可能性に思い至った。それは案というほどの確実性はなく、とりあえず、試してみる価値はあるのではないか、という程度のアイデアだった。が、何もせずに漫然と過ごすより、やれそうなことは、片っ端からトライする方が、俺の性にもあっているし、この試みが無駄に終わったとて、失うものは何も無い。そこで、俺は、このアイデアを思いついた時点で、お嬢ちゃんに相談してみた。俺の思いつきを、お嬢ちゃんの視点と知識に照らし合わせてもらい、多少なりとも実現の可能性があるか、吟味するためだった。すると、お嬢ちゃんは俺の提言に驚きを隠さなかったが、頭ごなしに否定したりはせず、検討に値すると保障してくれた。彼女は、いつでも、どんな事柄も、肯定的に考え受けいれてくれる。何事においてもフットワーク軽く『やれそうなことは、何でもやってみましょう』と笑顔で言ってくれる、こういうところが、俺には大層、好ましい。彼女のこの気質が、今まで、どれほど俺を救い、浮上させてくれたか、とてもではないが、言い尽くせない。

そして、多分、それは、俺だけではなく…陛下やジュリアス様をはじめとする他の守護聖たちも、同じなのだ。皆、彼女の晴れやかな朗らかさに、前向きで積極的なものの見方考え方に、何事も肯定的に受け取るその明るい姿勢に、救われ、癒され、手助けされてきたのだと思う。彼女は、その場にいるだけで、人と人の間を和やかに暖かな雰囲気にしてくれる、そんな存在だ、だから、俺の私的な事情で、やつらから彼女を奪ってしまうことを俺は申し訳なく、すまなく感じていることは事実で…だからこそ、俺は、こんな方法を思いついたのだと思う。

そして、俺たちの退任の知らせに消沈するジュリアス様を見て、俺はお嬢ちゃんと検討中のアイデアを、ジュリアス様にも告げてみようと思った。第3者からみて、この案は、客観的に、かつ感情的に、受け入れられるものかどうか、反応を見てみたい、そんな気持ちもあった。

「その件に関しては…補佐官位が空位になることにより、執務の停滞、特に人間関係の硬化により、円滑な業務遂行に支障の出る恐れは、俺も憂慮するところです。そこで、俺…いえ、俺たちに、少々、考えがあるのですが…」

「ふむ、俺たち、ということは、アンジェリークの意見でもあるのだな、話してみよ」

うむうむ、やはり、お嬢ちゃんの信頼度はバツグンだ。それを嬉しく誇らしく思いながら、俺は、お嬢ちゃんと話しあい、考え、導き出したあるアイデアをジュリアス様の耳にいれた。

この時点では、提案というよりは、実現可能かどうかもわからない提言にすぎないそれを告げると、ジュリアス様は意表を突かれたというような顔をなさった後、ううむと考え込まれ

「その件に関しては、私が、どうこう言える立場にはないー当事者の決意次第であるし、それ以上に運任せな面が強すぎる…とにかく、まずは、陛下のお気持ちが肝要であろう。陛下が肯首なさらなければ、試してみることも不可能な提案なのだからな。ただ、私自身には異存はない、とだけ言っておこう」

と、控えめなコメントをくださった。

「恐縮です」

俺には、それで十分だった。少なくとも、ジュリアス様は言下に否定しないでくださったからだ。

ジュリアス様への報告は済んだので、俺はジュリアス様に礼を尽くして執務室を辞した。

これから、俺は補佐官の執務室に行って、お嬢ちゃんと合流後、共に女王陛下に正式の謁見をもうしこむつもりだった。彼女も俺と共に退任するので、俺と一緒に辞任の申し出を内々にせねばならぬ。

ただ、陛下への公的かつ正式の謁見となると、申請してから許可が出るまで、早くとも1時間はかかる。

その間を利用して、俺はお嬢ちゃんと連れ立って、俺たちにとって、とても縁の深い闇の守護聖に、やはり内内にではあるが、近々退任する旨を前もって知らせたいと思っていた。

彼が、首座であるジュリアス様に並ぶ実力者であるからではなく、俺の先輩守護聖であるからという理由でもなく、彼が俺たちにとっては、義理のではあっても身内だからだ。公的に発表する前に、個人的に闇の守護聖に知らせてあったからといって、他の守護聖から異論が出る恐れはなかった。むしろ、他の守護聖を優先させたり、公に告知するまでかの守護聖に情報を伏せていたとしたら、そっちの方が訝しがられるだろう。

そういうわけで、俺とお嬢ちゃんは連れ立って、ごくごく自然に闇の守護聖の執務室を訪れることにした。そして、俺たちが事情を打ち明ければ…彼が私邸から彼の妻をーつまり、俺たちの娘を即、執務室に呼びよせてくれるのではないかと、俺は予想していた。そう、俺達は、輩(ともがら)だけではない、実の娘をも、この聖地に残して、去らねばならない。頼りになる婿がねがいてくれること、彼の許にいれば、娘に何の心配もないことは、何よりの慰めであり、救いではあっても、実の親が娘と、別れを、名残を惜しみたいと考えるのは至極当然であり、闇の守護聖は…うちの娘婿は、決して情の薄い男ではないのだ。ましてや、俺たちの話を耳にいれれば、速攻、娘に(彼にとっては妻に)知らせてやらねば、と思うに決まってるからだ。

予想にたがわず、闇の守護聖は、即座に、娘を呼び出してくれ、俺達は、陛下への正式な接見を待つ間に、娘と娘婿と、手短にではあったが、密な話し合いの時間をもてた。

 

 

俺たちが夫婦揃って陛下に正式な謁見を申し込み、それは即座に受諾され、予想通り、申請後小一時間過ぎた刻限に、俺達は謁見の間へ招きいれられ、俺は、自らのサクリアが衰弱しつつあることを、陛下の御前に跪きつつ報告した。

俺とお嬢ちゃんが二人揃っての謁見を申し入れたことで、その奏上の中身はある程度、予測していたのだろう、陛下は、俺の言を耳にしてくださってる間中、麗しき容貌を僅かにゆがめ、整った眉を軽く顰めていた。

陛下は俺の奏上を黙って最後まで聞いた後、俺の隣ーこの時は陛下の傍らではなくーにつつましく控えていた補佐官に先に声をかけた。

「で、炎の守護聖の退任の報告に、補佐官たるあんたが一緒にやってきて、しかも、そちら側にいるってことは…そういうことなのね」

「ええ、ロザ…じゃない、はい、陛下。私は、炎の守護聖様の退任にあたり、その妻として夫についていきたいのです、この命ある限り、オスカー様と人生を共にさせていただきたく…本当に、大変申し訳ないと思うのですが…夫の退任とともに補佐官職を辞する旨、どうか、ご容赦いただきたく…」

「ああ、もう、わかってたわよ、この時がきたら、あんたがそういうだろうことは…こういう時のために、あんたは、補佐官になったんですものね…でも、思ってたより…早い…早すぎるわ、早すぎるじゃないの!アンジェ、いいえ、オスカー、あなた、どうして、もうちょっとサクリアをもたせられないのよ、もう!ふがいないにも程があるわ!本当に…早い…早すぎるったらないわ…」

「っ…ごめん、ごめんね、ロザリア…」

「あんたが、謝ることじゃないわよ、それに…いつかは、来るってわかってたことだし…皆、早いか遅いか、順番の違いだけだもの、その時、あんたが、どうするかも、わかりきってたことだったしね…」

嘆息交じりの陛下のお言葉は、お嬢ちゃんを落ち着かせるために発したものであるのと同時に、陛下自身が客観的な事実を自分の口から述べることで、ご自身の感情の落としどころを見つける…自身の気持ちに折り合いをつけるためのものであることも、明らかだった。

「それを思えば、オスカーより、私の退任が先じゃくて、あんたは、ラッキーって思わなくちゃ。私のサクリアが先に衰えていたら、それこそ、あんた、大変だったわよ?旧・補佐官がそのまま聖地に居残ることの法的な整備から始まって、じゃ、あんた自身のサクリアの調整はどうするのか、とか、考えたら…ね?だから、これでよかったの、よかったのよ、アンジェ、一番穏便な形で、あんた、オスカーについていけるんだもの」

続いた陛下のお言葉には、もう、湿っぽさは微塵も感じられなかった。

陛下は俺の方を時折にらみつけながらも、お嬢ちゃんにはこの上ない優しい笑顔でー寂しさを堪えているのがわかる笑顔でだが、笑いかけてくださっていた。その上、陛下の退任が、俺より先でなくて良かったではないかと、さばさばと溌剌とした物言いで、お嬢ちゃんを励ましてくださった。が、その努めて陽気な様子が、かえって、お嬢ちゃんの気持ちの箍を外した。お嬢ちゃんの瞳から、見る見るうちに、透明なしずくが溢れてこぼれおちた。

「ロザリア…う…ふぇ…私、ロザリアと離れたくない、でも、オスカー様がすきなの、オスカー様と一緒にいたいの…この命ある限り、オスカー様のおそばにいたいの、だから、ごめんね、ごめんね…」

「ああ、もう、わかってるから、何も言わなくていいわよ。ほらほら、泣きながらしゃべると鼻水出るわよ…もう、あんたは、嫁に行った娘がいるような、いい大人なのよ?なのに、そんなに泣いたら、おかしいでしょ?」

「だって、でも、ロザリア、そうなんだけど…ふぇ…」

「陛下、陛下から、大切な友人である我が妻を伴ってこの聖地を去ることは、俺にとっても、心痛甚だしく…」

「あーもー、そんなしゃちほこばって取り繕わなくていいわよ、オスカー。この子も、あんたも、自分の気持ちに嘘ついて、義務感やら責任感やら一時の感傷やら勢いやらで、無理して聖地に残るなんて言いだされても嬉しくないし。だって、この子が、あんたに心残して未練たらたらになるのはわかりきってるし、毎日、あんたを恋しがって、めそめそ泣かれたりしたら、うっとうしいったらないもの、そんな補佐官、おいていかれても困るわ、こっちから願い下げよ。だから、その時がきたら、ちゃっちゃと外界につれていって頂戴、いいわね?」

ああ、まったくこの陛下には敵わない。お嬢ちゃんとは別の意味で、だ。

これだから俺は陛下に頭があがらない。こんなお方のためならー彼女がお嬢ちゃんの最も大事な友人であるのみならず、俺が職責上、忠誠を誓わねばならない方だから、という儀礼的なものではなく、心底、この方のために、できることをしてさしあげねば、と思うのだ。そして、それは、お嬢ちゃんもまったく同感だったのだろう。

「ロザリアったら、どーしてそんなに優しいの……ロザリア、私、今まで、ロザリアの仕事を、どこまで手助けできていたか、ちゃんとあなたの役に立っていたのか…ちょっと自信ないけど…でも、友達だから…友達として、ちょっとは、あなたの支えになれていたんじゃないかとは、思うの…私には、ただ、話を聞くだけしかできないこともあった、でも、女同士の他愛ないおしゃべりが楽しかったり、仕事の張り合いになったりしてたこともあれば嬉しいなって…少なくとも私はそうだったから…だから…」

「そうね…あんたと、守護聖や官僚の噂話とか愚痴とか、くっだらないことをおしゃべりして、笑いあう相手がいなくなるってのは、ちょっと…つまらなくなりそうだけど…ま、女同士のおしゃべりという楽しみは、女官たち相手に紛らわせることにするわ」

「それでね、ロザリア、あの…提案って程大層なものじゃないかも、なんだけど…私の替わりって言ったら、おこがましいのだけど…お茶の時間のお供にくらいはなるかもっていうか…」

「何?はっきりしないわねー、鼻すすりながら、しゃべるんじゃないの、一体全体、何が言いたいの、あんたは」

「えっと、これは、オスカー様が考えて、思いついてくださったことなので…オスカー様からお話していただくほうがいいかなーって?ね、オスカー様?」

「はい、陛下のお許しいただければ、少々、お耳を拝借したい議がございまして…」

「許します、だから、要領よく、わかりやすく話なさい!泣きモードに入っちゃったこの子に会話の主導権握らせておくと、話が全然進まないわ、全体像が見渡せないわ…全く、きっちり補佐官やってる時と別人だわ、これじゃ。ほら、オスカーに話してもらうから、その間に、あんたは鼻かんで、涙ふいて…」

かいがいしく補佐官の世話やく女王陛下に「んもーロザリアったらぁ、おねーさんみたい、ていうか、補佐官の私がロザリアにお世話されてちゃダメよね」と半分涙声のまま、お嬢ちゃんは、ほんわかとした笑みを浮かべた。

そこで、俺は、お嬢ちゃんの泣き笑いの表情を背景にしつつ、努めて平常心を保ち、声音はあくまで落ち着いて、ある提言…というよりは、ある試みを陛下に奏上し始めた。

最初、お嬢ちゃんの頬をレースのハンカチでぬぐいながらも、俺には胡散臭げなまなざしを隠そうともしなかった陛下だったが、俺の言が進むにつれ、お嬢ちゃんが傍らでこくこくと頷く仕草が、俺の言を支えてくれていたせいか、陛下の瞳は次第に真剣みを帯びはじめ、挙句、爛々と輝き始めるのに、そう時間はかからなかった。

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