いつものように、うららかな聖地の午後だった。俺・炎の守護聖オスカーは、ジュリアス様から執務室に来るように、との連絡を受けた。ただ、特に急ぎではないので、執務の手が空き次第でいい、との注釈付きで。
ジュリアス様からの突然の呼びたてというと、急遽、出張に行ってくれという用件が大半であることを経験則からよーく知っていた俺は(そして、何故、俺には、突然、誰かの思いつきのように、予期せぬ出張が思い出したように降って沸いてくるのだろうと、不可解に思うこともしばしばだった)ジュリアス様からの伝言を見た時、俺としては珍しいことではあるが、瞬間、困った顔をした、と思う。
今は…ここ暫くは、聖地を離れたくない、短期間とはいえ、お嬢ちゃんを1人にしたくない、お嬢ちゃんに些かなりとも、寂しい思いをさせたくないという切実な想いがあったからだ。
と、いうのには訳がある。およそ半月ほど前であろうか、俺とお嬢ちゃんの間にできた一粒種、愛してやまない愛娘のディアンヌ・フローラが18歳という若さで、ハイスクールを卒業すると同時に、闇の守護聖の許に嫁いで行ったばかりだったからだ。
尤も、結婚していなければ、ハイスクール卒業後に娘は系列の大学に進学していた筈で、そうなれば結局、外界で寮暮らしということになっていたから、どちらにしろ、娘は、自宅にずっと居るわけではなかった。娘は、もう、ひとり立ちする時期、どんな形であれ巣立ちの時であったことを俺はきちんと理解していたつもりだ。思い起こせば俺が守護聖となって聖地に赴いたのも、娘と同じ年頃だったことを考えれば、尚更である。そう思えば『子が家を出る』という事象は同じでも、娘が聖地に住まう守護聖の許に嫁したことは、いうなれば同じ町内に嫁いだようなものだから、距離的に遠くに行かないでくれたということでありー何せ、歩いて行ける距離なのだからーむしろ、恵まれた状況と言えるだろうし、個人的には、嬉しく感じていたりもする。
でも、近くに住まっているとはいえ、人の妻となったことで、娘との心理的な距離は開いた、というか、開けざるを得なかった。子供が学生でいる間は、子は親の庇護の許にいる、何せ親を「保護者」というくらいだ。でも、嫁となって嫁ぐというのは、親元からの完全な独立である、闇の守護聖と世帯を持ったのだから、娘は、もう別世帯の人間となったのであり、それは、娘が「自宅」として帰る家が、炎の守護聖の私邸ではなく、闇の守護聖の私邸になってしまったということだ、この差は大きい。
娘が「ただいまー」といって当たり前のように帰って行くのは、クラヴィス様の私邸へであり、炎の守護聖の私邸は、あくまで、時たま遊びに来る「実家」であり、娘にとって、俺の家に帰ってくることは、むしろ、特別なイベントとなってしまった、そう思うと、無性に寂しいと思う時があるのは否めない。まったく、どんな物事にも、二面性があるものだが、娘の結婚なんていうのは、その最たるものかもしれない、めでたく晴れがましい事だが寂しくもあり、遠くに行かないでくれたことは嬉しいが、物理的な距離が少ないからこそ、心理的な距離を否応なく感じさせられたり、と、相反する感情に苛まれることがしばしばだ。
それでも、自分もお嬢ちゃんも執務があるから、昼間は寂しいと感じる暇などないのは今のところ、幸いだったし、お嬢ちゃんと二人の生活に戻ったこと自体は、新鮮で、心弾むことでもあった。しかし、娘が結婚式の準備に勤しんでいた間は、ずっと家に居て、母娘は楽しげにおしゃべりしていたものだから、夜、私邸で過ごしていると、娘の声が聞こえず、姿が見えない今の状態を、どうしても、静かに、寂しく感じてしまうことがある。
そして、娘が嫁いだすぐ後の今だからこそ、それでなくとも静かに感じてしまう夜は、夫婦二人で寄り添って、しっとりと落ち着いて過ごしたい、お嬢ちゃんが、僅かでも寂しいと感じる暇などないように…と、俺は思い、ここ暫く、いつも以上に、努めて、お嬢ちゃんの傍にいるようにしていた。寂しいのは、もしかして、お嬢ちゃんより、俺の方かもしれない…という自覚もうっすらとあったが、聡明にして優しいお嬢ちゃんは、何も言わずに、ただ、ぴとっとくっつくように、ぬくもりが感じられるほどいつも俺の近くにいてくれ、俺の身も心も温めてくれていた。
夫婦二人きりの生活に戻ったら、記念の旧婚旅行にでも行こうということも、話してあったのだが、クラヴィス様が慶休を取っておられる今現在、炎の守護聖と補佐官が同時期に休暇をとるわけにもいかなかったので、その点でも、気持ちの切り替えが、今ひとつ、きっぱりとできていない、という事情もあった。
そんな状態だったから、今は、よほど重要な用件でない限り、出張には行きたくない、できることなら断らせてもらおう、と俺は身構えつつ、ジュリアス様の執務室に向かった。
ジュリアス様の執務室に赴くと(珍しく)取次ぎを介して暫し待たされた後、俺は、ジュリアス様の執務室に通された。
「ジュリアス様、オスカー、参りました」
「ああ、オスカー、来たか…」
「申し訳ありませんが、出張なら謹んでお断りいたします、娘を嫁がせてまだ半月、たとえ短期間といえど、寂しがっている妻を一人置いて外界にいくことなど、今の俺には到底考えられません、守護聖として、私情に走るとはもってのほかと、お叱りを受けようとも、今回は、誰か、他のものを…」
ジュリアス様から先に用件を切り出されたら、断りにくい、俺は、ジュリアス様の言葉には、つい、条件反射で頷いてしまいがちで、その所為で、嫁ぐ前の娘と一悶着起してしまったことは記憶に新しい、ここは、先制攻撃をかまして即座に離脱だ、と、道すがら、そして、取次ぎを待つ間、頭の中でシミュレーションしていた通りに俺は一気にまくしたてた。ジュリアス様の命に、脊髄反射で「はっ!」と敬礼・拝命してしまい、行かずともいいような出張に、俺は、幾度、聖地を出たことか…数多の星星の光景が俺の脳裏を右から左へとスライドショーのように横切っていく…その度に『お嬢ちゃんとかわいい愛娘に、珍しい土産を買いにいったと思えば、ま、よしか!…というか、そういうことにしておこう』と気持ちを切り替え、己の行為を合理化してきた回数も、それこそ星の数だったが、だからこそ、今回ばかりは譲れない。
なのに、俺の必死の健闘&決死の覚悟は、
「誰もそなたに出張に行けなどと言っておらぬ、早とちりも大概にせぬか」
と、あっさりジュリアス様に一蹴されてしまった。
「は?」
俺は一瞬間の思考停止後、一挙に気が抜けた。『なんだ、警戒して損したぜ』と思ったが、となると、呼び出された理由がわからない。
「では、一体、どのようなご用件で…」
と、当惑顔でジュリアス様に問い質すと、思ってみなかった言葉がかえってきた。
「奇しくも、今、そなたが口にした…そなたの令嬢のことなのだがな、その…クラヴィスのところで元気にやっているようなのか?」
「は?いえ、それは、その、多分…」
用件の見当が皆目つかないなとは思っていたが、ジュリアス様の言葉は、その中でも最高レベルに予想外のものだったため、俺は、瞬間、返答に窮した。
しかし、ジュリアス様は、そういう曖昧な答えを、当たり前だが許さない。
「多分、というのは、どういうことだ?」
「それは、その、便りのないのは元気な証拠と申しますか、娘からは、取り立てて何も言ってきてはおりませんので、そうではないかと俺が思っているだけでして…。俺も娘の様子は気にはなっているのですが、大した用件でもないのに、こちらから、新婚宅にヴィジフォンを繋げるのも、どうかと思いまして…むにゃむにゃ…」
虚を突かれた所為で、しどろもどろになった、というのもあったが、実際、俺は娘と連絡を取っていなかったから、弁が、尚更、歯切れの悪いものとなった。
これは、俺が「自分が新婚1ヶ月でお嬢ちゃんとのいちゃいちゃラブラブ生活を堪能している最中に、つまらん通話で邪魔されたらたまらん、というか、そんな通話には、居留守を使って絶対出ないな、俺なら」と思って、通話をかけるだけ無駄だと思っていたからである。無論、娘は元気でやっているか、新妻として、きちんと闇の守護聖宅を切り盛りしているだろうか、気になってはいるのだが、蜜月の真っ只中とあっては、通話を入れることにも、つい、遠慮が先にたってしまう。
というのも、俺自身、蜜月の間中、自らヴィジフォンに出ることなど1度もなかったし、お嬢ちゃんにも通話に出る暇など1秒たりとも与えなかったという実績&過去があるからだ。
俺は、新婚とは食事と睡眠と入浴以外、二人で睦みあって過ごすのが王道・正道であるという信念、揺ぎ無い。
故に、俺だったら外からの対応は執事任せにしてどんな通話にも出ない、出させないー実際、そうしてきたしーので、娘夫婦宅にもヴィジフォンなどかけるだけ無駄と、敢えて、自分からは娘と連絡を取らずにいた。
加えて、俺はーこれは、お嬢ちゃんにも言えないことだが『クラヴィス様には、また別の意味でも、連絡しにくいんだよな』と、思っていたということもある。
例えば、蜜月中、新妻と睦みあって過ごすのはクラヴィス様も俺も似たようなものだと仮定して、だが、クラヴィス様は、娘と睦言の真っ最中に通話があった場合、俺とは逆に、平気のへーで、自らヴィジフォンに出そうな気が、しないでもない、というか、むしろ、そういう状況で通話がつながったら、進んで見せびらかされそうな気がする…のは、俺のクラヴィス様観が歪んでいるのだろうか、でも、そんな気がしてならないんだ!で、万が一、そんな場面に出くわしてしまったら、父親として、俺は、どーすればいいんだ、娘夫婦が(見境ないほど)仲睦まじいことを喜べばいいのか、でも、なんとなく、ショックの余り、布団をかぶって泣きたいような気分になりそうな気がする…と思うと、恐ろしくて、こちらからは、おちおち通話も掛けられずにいる…とは、口が裂けてもジュリアス様に、言えたものじゃない。
というわけで「自分の娘の様子が気にならないのか?」とか「何故、連絡を取らぬのだ?」と、ジュリアス様から突っ込まれる前に、俺は、話題の矛先を意識して変えようと試みた。
「ともうしますのも、慌てずとも、クラヴィス様が聖殿に出仕してくださるようになれば、それとなく、娘の様子も聞けると思っておりましたゆえです。ですが、とんと、クラヴィス様のお姿をお見かけしませんので、俺としても、娘はどうしているのか、気にはなっていた次第でして…して、ジュリアス様、クラヴィス様の慶休は、一体、いつまであるんですか?俺が結婚した時は一週間くらいだったような気がするのですが、既に半月…あ、もしや、休暇日数は勤続年数に比例するのでしょうか?となると、クラヴィス様の慶休は俺の10倍はありそうな…」
と、『ぴきっ…』と音をたてて、ジュリアス様のこめかみに#のような印がくっきり刻まれた、ように見え、同時に、怒号が俺の耳をつんざいた。
「そんなこと、あるわけなかろうが!大体、守護聖の結婚自体、稀有のことなのだ、慶休の制度なぞ、明文化されてる筈がなかろう!そなたの場合も、クラヴィスの場合も、休暇を与えたのは、あくまで特例、有体にいって、新婚ボケでは、仕事にならなかろうと思っての温情以外の何物でもない!本来、休暇なぞ、1日たりともやらずともよかったのだ!」
「は?では、クラヴィス様の休暇は…」
「とっくのとうに終っている!」
「なのに、聖殿に出仕していらっしゃない?ということはサボタージュですか?いくら俺の娘がかわいいからといって、婿どのにも困ったものですなぁ、いやいや、ディーはかわいいから、離れがたいのは、無理もありませんが、はっはっは」
いやー、わかる、わかるぞぉ、俺も、お嬢ちゃんが一緒に聖殿に出仕してくれるのが楽しみだからこそ、毎日、すんなり、否、むしろ進んで仕事に行けるわけで、これが、お嬢ちゃんがずっと在宅だったら、後ろ髪は引かれるわ、俺の不在中、お嬢ちゃんが無事か心配でならないわで、出仕するのも一苦労だったろう、実際、お嬢ちゃんの産休&育休中、俺は、毎朝、己の身体をお嬢ちゃんから引き剥がして出仕するのにえらい苦労をしたものだ、と俺は思わず、在りし日の思い出に耽ってしまった。クラヴィス様の気持ちが、俺には手に取るようにわかり、共感甚だしいので『困ったものだ』という台詞は全くの棒読みだ。
すると、ジュリアス様が、それはそれは苦々しい口調で、搾り出すようにこう続けた。
「いや、一応、あれも出仕はしているのだ」
「は?その割には、お姿をみかけませんが」
「無理もない、あれが聖殿にいるのは正味1時間くらいだからな、しかも、執務室にもほとんど立ち寄らず、王立研究院に直に赴いてサクリアの放出と調整を、きっちり、最短の時間で済ませて、さっさと私邸に戻っているようだ」
「ああ、クラヴィス様のサクリアは相当強力ですからねぇ。その気になれば、執務も1時間で終らせることも可能でしょうね、そんなにまでして、急いで娘の待つ家に帰りたいと頑張ってくださっているとしたら、父としては、そんなにも娘を愛してくださって、感謝感激…」
俺としては、クラヴィス様の心情は、分かりすぎるほどにわかるし、その行動原理は単純明快、動機も極めて明確だから、能天気な答を返しかけたところで、ジュリアス様の更なる怒号が響いた。
「冗談ではないぞ!こんなことが、先例・当然のことと見なされたら、守護聖の責務は、聖殿の秩序はどうなる!」
「いや、ですが、結婚前から、クラヴィス様は、執務室にいても、水晶球を覗いているか、リュミエールの竪琴を子守唄にして寝てるだけ、たまに起きるとしたら、俺のお嬢ちゃんが執務室を訪ねる時くらいっていうのは、誰もが知っている、いわば周知の事実だったではありませんか。最低限必要な執務はこなしていらっしゃるなら、聖殿にいてもいなくても、構わないのではないですか?」
「だから、それでは、示しがつかんと言っているのだ!終業まできっちり働き、残業も辞さない女王府や研究院の職員に、闇の守護聖の正味の労働は1時間などと判明してみろ、現場の綱紀も士気もあったものではない、そなたも結婚後の公私混同は相当甚だしかったが…ばいきんまんの役をよこさねばPVに出ないと言い張ったりな、それでも、そなたには、とりあえず、終業時刻まで聖殿にいるだけの分別が、新婚当初からあった、が、クラヴィスには、そのように見かけを取り繕う気遣いすらないと来ている!」
『いや、それは、お嬢ちゃんが補佐官として聖殿に終業までいるので、俺が一人先に帰宅しても仕方ないし、お嬢ちゃんにちょっかいをかける不逞の輩を排除するためにも、俺は一緒に聖殿にいる必要があったというだけで』という本音は飲み込み、俺は
「愛妻が、家で俺の帰りを待っている!と思えば、一刻も早く帰宅したいというのは、男のサガ…いや、人情です。帰宅拒否症で、聖殿に意味もなく居残るより、よほど健全ではありませんか。それに、俺も、お嬢ちゃんが、育休で家にいる間は、自分の仕事を終えるや聖殿から即退出しておりましたから、あまり、クラヴィス様を責めるわけにも…」
愛妻まっしぐらを「職務怠慢」と責められたら、それこそ、俺だって同罪と断じられる可能性∞だ。故に、自己弁護半分ではあるが、俺は娘婿(何度考えても違和感ばりばりだが)であるクラヴィス様を擁護すると
「それは、そなたの娘が乳幼児だったから、男の育休扱いだったのだ!男親も育児に関わり、女親の負担を軽くしてやるのは、夫として当然の勤めだからな」
と、これまた思ってもみなかった言葉が返ってきた。
目から鱗が落ちたぜ。俺が何時に早退しても、何のお咎めもなかったのは、その所為だったとは、今の今まで知らなかった…いや、それなら、それこそ、勤務1時間でさくっと帰宅してればよかったぜ!と、俺は思ったが、それを口に出していうと、更なる怒声が飛んできそうだ、と思った俺は賢明にも口をつぐんだ。と、ジュリアス様が、憤懣やるかたない様子で更にたたみかける。
「というわけで、そなたの早退には、きちんと大義名分があった。早退するなら、それ相応のしかるべき理由があれば、私もむやみに咎めだてするものでもない。そこで、そなたに尋ねたいのだが…その、そなたの令嬢は、いわゆる「できちゃった婚」とか「おめでた婚」という状況で、挙式を急いだとか、そのような事情はないのだろうか?」
「は?いえ、それはなかったと思います。少なくとも、俺は、聞いてませんが…」
ジュリアス様の口から「できちゃった婚」なんていう単語が発せられ、それをこの耳で聞く日がこようとは、俺は、今日まで想像だにしたことがなかった、まこと、長生きはするものだ、と感心しつつも、俺は、ジュリアス様の質問の意図が、今ひとつ把握できぬまま、最小限度の答えを返すにとどめた
挙式前は、2人は清い関係だったらしいとは聞いていたが、あくまで別所帯の娘夫婦の私的な家庭の内情を、どの程度まで他言していいものか、という迷いもあったし「挙式まで我慢したとは、そなたの時とは、えらい違いだな」などと、突っ込まれたら、それこそやぶへびだからだ。
すると、ジュリアス様は、ずい、と身を乗り出し
「では、令嬢は、妊娠初期で体調が思わしくないとか、経過が不安定で絶対安静が必要である、というようなことはないのだな?そのような事情があれば、考慮しないでもない、と思ったのだが…」
と、念を押してきたので
「ハネムーンベイビーまではわかりませんが、少なくとも、挙式前に、わが娘は、そういう状態ではありませんでした」
と、俺も重ねて、此度は、意識して明言した。俺自身、ちょっとした勘違い?から、挙式前に娘がすでにクラヴィス様の種を宿し、自分は程なく「おじいちゃんになるのか」と、喜んでいいのか、絶望すべきなのかわからない複雑な心境に暫時陥ったことを考えると、あいまいな物言いは避けたほうがいい、と思ってのことだ。
ジュリアス様は、ふむふむと頷きながら、さらに、念を押すように、こう続けた。
「ならば、クラヴィスには、早退を容認できるような大義名分は何もない、ということだな?既婚は短縮時間勤務の言い訳には、普通はならんからな」
「で、しょうな」
ま、それは、普通、そうだよな、と俺も、ここはしたり顔で頷いた。一般論で言えば、既婚は、勤務時間短縮の理由にはならないのは明白だからだ。
しかし、後から思えば、この『頷く』という仕草が、まずかったのだ、多分。『頷く』ということは、いわば、俺は、ジュリアス様の意見に同調・同意した、と、いうことだから。というのも、俺が頷くや否や、ジュリアス様は、さも当然という顔で、こう、俺に告げた。
「となればだ、オスカー。クラヴィスの許に赴き、最低限、午前中一杯くらいは聖殿に留まるよう、訓告してまいれ」
「は?俺が?ですか?」
「無論だ、何せ、そなたは、クラヴィスの義理の父なのだからな、義理の息子の職務怠慢を是正する義務がある、息子の不始末は、親の責任だ」
「………嫌なことを口に出さないでください!俺がなるべく意識しないようにしてるのにっ!しかも、なんですか!息子の不始末って、,未成年者じゃあるまいしっ!俺が聖地に来た時から、クラヴィス様は立派な大人で、職歴なんて俺の何倍もあって、昔も今も、どこからみても、俺より年上で…」
自分より年上、しかも、職務上でも先輩で、俺より長身の男ーいや、これはこの際、関係ないかーが義理の息子…いつもは、考えないようにしている、目をそらしている、認めたくない現実をはっきり他人の口から突きつけられ、俺の心はクリティカルダメージを食らった。自分では承知していても、他人の口からはっきり指摘されるとダメージ10倍という事象ってあるだろう?俺にとっては、まさしく、これだ。最も言われたくないことを言われて、俺は、怯み、動揺し、逆上し、慌てふためき抗弁したが
「では、頼んだぞ、オスカー。父の勤めとして、義理の息子に正しい道を照らせ、良いな」
ジュリアス様は『自分の主張をするだけで、人の言はお構いなし』を貫き通す構えのようだ。
「ちょ…ジュリアス様!」
いくらなんでも、それは拡大解釈のしすぎ、無理なこじ付けにも程があります、っていうか、義理の血縁を盾に、俺に面倒を押し付けないでくださいー!と、俺が叫ぼうとした、その時だった。
「ジュリアス様、アンジェリークです、お話ってなんでしょう?」
「お、お嬢ちゃん…」
と、愛くるしい声とノックの音とともに、ひょっこり顔を出した愛しい妻と目があって、俺は、一瞬、言葉を飲み込んだ。というより、頭が真っ白になって、言葉を失った。
「オスカー様!思いがけないところで、オスカー様にお会いできると、なんで、こんなに嬉しいのかしら…じゃなかった、ジュリアス様、オスカー様とのご用件がお済になるまで、私、席を外していましょうか?」
お嬢ちゃんは、全く、いつ、何処で会っても、かわいらしく、嬉しいことを言ってくれる。ジュリアス様と俺が二人で仕事の話をしているのは、日常茶飯事なので、特に驚いた様子もなく、屈託なく、にこにことジュリアス様に都合を問うて、返答を待っていた。俺は俺で、ジュリアス様が、アンジェリークを何かの執務で呼びつけたのだろうと思ったので、抗議の言葉を一時棚上げして黙り込み、ジュリアス様とお嬢ちゃんの話が終るまで待とうと、仕事モードに頭を切り替えたのだが、それが徒になった
「それには及ばぬ、オスカーへの話はもう済んだ」
と、ジュリアス様は、一方的に、話を終ったことにしたのだ。
『って、俺の話は終っちゃいませんよ、ジュリアス様、勝手に話を終らせないでくださいー!』と、俺は、叫ぼうと口を開きかけ、しかし、ジュリアス様に『話は済んだ』といわれれば、執務時、常にてきぱきと有能なお嬢ちゃんは、当然、打てば響くタイミングで
「では、ジュリアス様、私へは、どのようなご用件でしょう?」
と、自分への用件を尋ねる。そして、俺が、お嬢ちゃんの愛らしい言葉を暴力的に遮って、話しに割り込むことなど、できるはずがあろうか?できるはず、ないじゃないかっ!
と、俺が、叫ぶに叫べずにいる間に、ジュリアス様の更なる爆弾発言が炸裂した。
「ああ、詳細は、オスカーから聞いてくれ。オスカーが仔細承知しているのでな」
「は?なんで、俺が、ジュリアス様がお嬢ちゃんを呼び出した用件を知って…って、まさか?!…ちょ…ジュリアス様!」
「察しがよくて助かる。では、そういうことなのでな」
話を一方的に打ち切るや、ジュリアス様は、後ろも見ずに、そそくさと奥の間に引っ込んでしまった。
自分に何もかも丸投げし、そして、逃げるように消えたジュリアス様にーいや、実際、逃げたのだー俺は、しばし呆然とした後、呆けたように、呟いた。
「図られた…」
ジュリアス様が、お嬢ちゃんを仕事で呼び出すのは、日常である、そして、お嬢ちゃんとの仕事の話を邪魔してはいかんと、俺が反射的に抗議の言葉を飲み込んだその一瞬に、ジュリアス様は、自分にボールをパスしてさっさと退場してしまったのだ。俺は、聖殿では、お嬢ちゃんの補佐官としての立場を常に慮り、自らも守護聖として、あるべき姿を保とうとする、つまり、アンジェリークの前では、常に冷静沈着に振る舞い、声を荒げたり、決して取り乱したりしないよう努め、公的な仕事モードの顔を保つーそれを見越して、ジュリアス様は、俺が参上し、取次がれるのを待っている間に、お嬢ちゃんに呼び出しをかけたのだ、多分。そうすれば、お嬢ちゃんは、ちょうど、俺とジュリアス様の話が終る頃に、執務室に顔を出すことになる。その目的は明白だ、アンジェリークの前では、俺が、しつこく抵抗したり、みっともなくダダをこねたりできない、それを狙ってのことだったのだ…ということが、流石に、わかった。全てジュリアス様は、計算づくだったのだ、と。わかっても、最早、手遅れだったが。
「オスカー様、ジュリアス様のご用件って何だったんですか?」
後には、何の事情も知らぬアンジェリークが、にこにこと俺の言葉を待っていた。
「うぐぐぅうう〜不覚…」
「あの、オスカー様?一体、どうなさったの?ジュリアス様のお話って、一体…」
「うううう…お嬢ちゃん、実はな…」
俺は、覚悟を決めて…というより、この話の流れで、アンジェリークに何も告げなかったら、お嬢ちゃんは、絶対、俺の行動を不審に思い、傷つき、悲しむ、私は、お話していただくには信用に足りませんか?って寂しい顔をするに決まってる、そんなことは俺には耐えられない、それに、ことは娘に関することでもある、母であるアンジェリークを弾くことなどできないし、母と娘のつながりは、多分、父である俺とのそれより強固だ、お嬢ちゃんは、俺の知らないディーの状況を知ってるかもしれない、と思い
「お嬢ちゃん、ここじゃなんだから…俺の執務室の方が近いな、そっちで詳しく話す」
と告げて、俺はお嬢ちゃんを伴い、自らの執務室に向かった。
執務室につき、ソファにお嬢ちゃんを座らせるや、俺は先ほど交わしていたジュリアス様との会話を、要点を絞ってお嬢ちゃんに打ち明け、その上で、お嬢ちゃんが、この問題をどの程度把握していたのか尋ねてみた。
「お嬢ちゃんは、クラヴィス様が結婚休暇を終えて出仕なさってるのは、知っていたか?」
「ええ、始業後、1、2時間してから出仕なさって、サクリアの調整だけ済ませて、お帰りになってるのは、知ってましたよ、補佐官ですもの。なるべく早く私邸に帰りたいから、短時間で、最も効率よくサクリアを調整するには、どうしたらいいか、資料をそろえておいてくれって、業務補佐も頼まれてましたし。だから、クラヴィス様は重役出勤なんですよ。精密な至近のデータが揃うのって、始業後、1、2時間経ってからですから」
「そうだよな、お嬢ちゃんがサクリアの実勢値をデータ化して持ってきてくれるのが、それくらいだものな」
「でも、私、クラヴィス様のそういう仕事ぶりが問題だなんて、思ってもいませんでした。だって、女王試験の時から、守護聖様って、平日でも執務室にいらしたりいらっしゃらなかったりで…たとえ、執務室にいらしても、絵を描いてたり、ロボット組み立ててたり、ネイルぬってたり、地球儀回してたり、バク転してたりで、お仕事ぶりは、割とユルい…もとい、融通が効くみたいでしたし、1日中お仕事なさってたのって、ジュリアス様くらいだったような…オスカー様も、私がお訪ねすると、いつも、私に付き合ってくださって…朝から特別寮にいらしてださることも度々で…オスカー様のお時間を独り占めしちゃって申し訳ないなとも思ったんですけど、私も、オスカー様に会えれば会えるほど幸せだったから、嬉しかった…」
「ああ、俺は、その頃から、お嬢ちゃんに首ったけだったからな、もちろん、今もだが…だから、俺の時間をお嬢ちゃんに捧げるのは俺の喜びだったし、それを、独り占めしてもらえて、俺も嬉しかった。むしろ、そんなにたくさんはいらないなんて言われたら、しょぼくれちまってただろうな。今も、俺の時間を、君に独占してもらえることは、この上ない喜びだ」
と、いいながら、俺は流れるように自然な仕草で、お嬢ちゃんにキスをする。
「うふふ、オスカー様ったらvでも、だから、私、守護聖様のお仕事はフレックスだから、やるべきことをなさってれば、それでいいんだって思ってました、お時間の裁量は、割と自由なんだなって」
「ま、本来はそうなんだがな、結婚したら、執務は1時間でいいと思われたら困る、というか、悪しき前例にしたくないんだろう、ジュリアス様は。結婚する前は、クラヴィス様も、終業まで聖殿に居ることが多かったしな」
これは、多分、『俺の』お嬢ちゃんが、いつ、誰の執務室を訪ねていくか、わからなかったから=クラヴィス様はお嬢ちゃんと言葉を交わす機会を微塵も逃したくなかったから、何をせずとも終業までは聖殿にいたのだと俺は踏んでいるが、まあ、こんなことを言って、お嬢ちゃんを混乱させては酷なので、これは、黙っておく。そして、結婚後は、わかりやすくも正直なことに、俺たちの娘に、思いの全てを注いでくださってるから、意味もなく、聖殿に居残ることをやめただけであろう。そして、後半部分は、お嬢ちゃんにも自明のことだったようだ
「母親としては、クラヴィス様がそんなにもディーにご執心してくださるのは、ありがたいことなんですけど…ね、それなら、とりあえず、クラヴィス様のお屋敷を訪ねてみませんか?オスカーさま。娘夫婦の様子を見てみないと、なんともいえませんし、私もディーに会いたいし」
「そうだな、とりあえずは、そうするしかないだろうな、ジュリアス様も、俺たちなら、クラヴィス様に会いに行きやすかろうと思って、話をふったんだろうしな」
「そうですよね、いきなり、ジュリアス様がクラヴィス様をお訪ねしたら、何事かって、おおごとになっちゃいそうですものね」
光の守護聖がクラヴィス邸を訪問するとなると大事だが、俺たちが娘夫婦の家を訪問するなら、自然だし、ディーも構えずにすむだろう、ジュリアス様は、そこまで考えて、俺たちを特使に任命したのだと思いたい、決して、俺に面倒を押し付けようとしたのではなく…うん、そうだ、そう思うことにせねばなるまい。
「ジュリアス様のご要望を、即、クラヴィス様にきいていただけるかどうかは、ともかくとして…会ってみなくては、話をする機会もないものな、ただ…」
「ただ?」
「いや、なんでもない」
俺は、お嬢ちゃんの顔を見て、軽くかぶりを振った。
『俺が訪ねたいと言っても、いい返事はこないのではないか』と、一瞬思ったのだがー『俺に時間を割くより、ディーと過ごしたいに決まってるものな、でも、お嬢ちゃんが一緒だと言えば、多分、クラヴィス様は、時間を空けてくださる』とすぐ、気づいたからだ。まこと、お嬢ちゃんの存在は、常に、肝心要である。ジュリアス様が、お嬢ちゃんをあの場に呼んだのも、お嬢ちゃんをこの件に巻き込むため、つまり、俺を黙らせるだけでなく、クラヴィス様へのアポを取りやすくするためだったとしたら…もう、俺としてはその手際に白旗をあげるしかなかった。
「じゃ、俺からお訪ねしていい刻限をヴィジフォンで尋ねておこう」
「私たち、義理の両親ですものね、クラヴィス様のお屋敷をお訪ねしたいって、急にお願いしても、失礼じゃありませんよね?」
「それを言ってくれるな、お嬢ちゃん…」
俺はお嬢ちゃんからも駄目押しを食って、がっくり項垂れた。結婚すると、親族との付き合いが、面倒だとか鬱陶しいとか、四方山話で聞いたことはあったが、まさか、それが、守護聖となったわが身に降りかかってくるとは想像だにしていなかったぜ、と、俺はため息をついた。
案の定、クラヴィス様は、俺たちが訪問したい旨を伝え都合をうかがうと、即、快諾してくれた。
全く、お嬢ちゃんは存在そのものが、天下の印籠、究極の無敵アイテムである。
そこで、その日夕刻、執務を若干早めに切り上げ、早速、俺たちは二人は揃ってクラヴィス様の私邸を訪ねた。
「炎の守護聖様、補佐官様、ようこそおいでくださいました」
執事が、恭しく俺たちを出迎えてくれた。守護聖と補佐官の訪問というだけでも、お出迎えに失礼があってはならないと思うのだろうが、いまや俺たちは、この家の奥方の実の、そして屋敷の主の義理の両親でもあるからだろう、使用人一同のかしこまり方が尋常ではない。
「クラヴィス様と奥方様があちらでお待ちで…」
と、執事が先導して俺たちを案内しかけたところに
「よい、私の方から出迎えにきた。よく来てくれたな」
低く艶めいた声が響いた。
ゆったりとした部屋着をまとい、くつろいだ、そして、幾分気だるげな様子の闇の守護聖が立っていた。久方ぶりに見るその姿は、なんとなく、以前より雰囲気が柔らかく、丸くなったような気がするのは…俺の贔屓目か。
「クラヴィス様、突然の訪問、失礼いたします」
「なんの、義理の両親が遊びに来てくれたのだ、心からの歓待は当然のこと、これも喜ぶしな」
と、いう言葉を待ちかねていたように
「ママ、パパ、遊びに来てくれて、嬉しいわ!」
と、長身のクラヴィス様の影から、すんなりとした愛らしい少女が飛びだしてき、俺の隣にいたお嬢ちゃんに抱きついてきた。
「ディー、元気そうね!」
お嬢ちゃんと、俺たちの娘ディアンヌが、ひしと母娘の抱擁を交わしあった。
俺は、娘が真っ先に自分に飛びついてくれなかったのが、少しばかり寂しかったが、でも、娘と妻が嬉しそうににこにこして、二人寄り添っている姿は、誠、女神と妖精の戯れている麗しい絵画のようだと思いー実際、落ちついた色彩のクラヴィス様の私邸の中で、アンジェリークとディアンヌのいる一角だけ、ぱあっと明るく、満開の花畑のようだったーホノボノ・しみじみと幸せな気持ちを味わっていた。闇の守護聖が、ぼそっと呟いたこの言葉を聞くまでは。
「ふむ、息子としては、どのように振舞うべきか思案していたが、このようにすればよいのだな…次回からはこうしてみよう…」
『なにを…次回から何をするつもりなんですか!?クラヴィス様ー!』
俺は、クラヴィス様が弾むような足取りで俺のお嬢ちゃんの元に駆け寄り、飛びつくように抱きついて親子の抱擁を交わす光景を、一瞬、想像してしまい、心の中で、声にならない叫びをあげた。
しかし、こんな問題発言は、ほんの序の口だった。こんなことくらいで、ぎょっとしていた自分が、はなはだ甘かったことを、俺は、すぐさま思い知ることになる。
俺が怖い想像を鎮めることに懸命になっているさなか、無邪気に屈託なく麗しい母と娘は
「ママとパパに替わりはない?」
「ええ、見ての通りよ、ディーも元気にしてるようで、よかったわ」
と、互いに互いの頬に軽く挨拶の口づけを交わしあい、息災を確かめ合っていた。なんとも、微笑ましい光景である。この目に麗しい光景のおかげで、俺の波立った気持ちも、ようよう落ち着いてき、その分、そろそろ、父たる俺も混ぜてほしい、と、いう気持ちが頭をもたげてくる。と、その思いが伝わったのか、この後、漸くディアンヌは「パパ!」と言って、俺の元に駆け寄ってきてくれた。
「ディー、元気そうで何よりだ」
俺は『俺の順番はまだかなー』なんて、心の中で指をくわえていたことなどおくびにもださずーかっこいい父の姿を保つのは大変なのだー鷹揚で頼もしく、どっしりと落ち着いた父の顔で、娘の口づけを頬に受けるべく、軽く身を屈めようとした。その時、ふと、何の気なしにお嬢ちゃんの方に視線をやったところ、お嬢ちゃんはクラヴィス様相手に「ふつつかな娘ですが…」と嫁の母として型どおりの挨拶を交わしているところで、クラヴィス様は、穏やかに微笑みながら、お嬢ちゃんの言葉を手をあげて遮りつつ「私にはもったいない妻だ」と答えておりーここまではいい、なんとも心温まる光景だしなーと、突然、クラヴィス様は、ずいと1歩前に出て、その長身をかがめ
「では、私からも、母上に親愛の口づけを…」
と言うや、『俺の』お嬢ちゃんの頬に、軽くではあったが、紛れもなくその唇を押し当て…つまり、キスを落とした。
「×◎△∀#〜!!!」
その光景に、俺がもはや人語の呈をなしてない叫びを上げそうになっている処に、さらにクラヴィス様は
「して、母上から息子には、親愛のキスはしてもらえぬか?」
と臆面もなく、『俺の』お嬢ちゃんに息子としての挨拶とはいえキスを強請るという暴挙に出、(あくまで俺にのみ)致命的な追い討ちをかけてきた。
思いもよらぬクラヴィス様からのキスに、しばし、目をまんまるにしていたお嬢ちゃんは、はっと、我に返ると、にっこりクラヴィス様に微笑みかけた。
「ふふ、いきなり、こんなに大きな息子ができて、私、ちょっと複雑な気分です」
「なんの、元々、こんなにも麗しい妙齢の娘が居るようには見えぬと、いつも、言われているであろう?ならば、私のような息子ができても大過あるまい?」
涼しい顔でさらりと返すクラヴィスに、アンジェリークはくすくす笑いを声に忍ばせて、背を屈めたままのクラヴィスの頬に、ちゅ、と極軽く口づけた。
「〜〜〜〜〜!!!!」
「パパ、どうかしたの?」
と、娘に問われて、俺は『お嬢ちゃんは俺のものだー!誰も触るなー!』と叫びつつとアンジェリークを攫うように抱きしめて己の背後に隠したい衝動を、ぎりぎりの処で押さえ込み、渾身の精神力で、自身にこう語りかけた。
『そそそそそうだ、クラヴィス様は、あくまで義理の息子、息子が母親の頬にキスするのなんて、ほんの挨拶、当たり前の、むしろ、微笑ましい親愛表現じゃないか、うんうん、母から息子へのキスも同様だよな、そうに決まってるよな、そんなことに目くじら立てて、ぎゃーぎゃー騒ぎ立てたら、俺が了見の狭い、器の小さな、息子にヤキモチを焼くような、とんでもなく狭量なヤキモチ焼き夫みたいじゃないか、いやいやいや…』
と、必死に自身に言い聞かせてみたが、俺は、この間、身体を動かしてもいないのに、全身いやーな汗でびっしょり、なのに、妙に身体は寒々として(恐らく、今、俺の顔面は蒼白だろう)呼気は荒く、過呼吸の発作寸前であった。
この屋敷の、ここはまだ、ほんの玄関先、しかも、足を踏み入れて、まだ、十数分も経っていないの、俺のHPはすでに残り一桁、そこはかとなく、そんな心持のする俺だった。