彼女に謝らねば…許されずとも、理解されずとも、謝罪しなければ…自分の勝手な思いこみと決め付けで彼女の優しい気持ちを酷いやりかたで拒否してしまった、その行為を。その上で、俺は、言えるだろうか…自分のありのままの気持ちを。何も余分なものを鋏まず、何の事情も鑑みない、心の奥底にしまいっぱなしだった気持ちを言葉にすることができるだろうか…随分長い事、自分の気持ちを率直に現すことなどしていなかったから…そのやり方を忘れてしまっていたから…あまりに奥深くに隠していたので、そんな感情が本当に自分にあったのかどうかもわからなくなっていたから…
彼女の誠意を踏みにじり、傷つけ、涙させてしまった俺に本来ならそんな資格はないと思う。だが、彼女を傷つけてしまったからこそ、謝罪のためにも何も誤魔化さない心からの率直な気持ちを俺は告げねばならない、そうも思う。
だって、この気持ちから逃げていて、どうしてこの後も戦いつづけていけるだろう。
自分の真に望むものを見据えず、欲する所を掌握せずに、どうして強くあることができよう。
この後一生、不透明な世界を自分の力で走って行こうとしている俺が、今、ここで逃げてしまったら、自信を持って走りつづけられるわけがない。巨大な慣性を持つ力を、自ら手綱を取り、行く先を見据え、自分の目指す所に御していくことなど、できるわけがない。
だから…勇気を振り絞れ、俺…
自分の思いを真正面目から見据えてみろ。
自分に正直になれない者に、その勇気のない者に、欲しいものを欲しいという資格はないのだから…
いよいよフェスタの初日がやってきた
11月第1週の土・日2日間にわたりフェスタは開催され、この間、スモルニィの高等部は全面的に外部に開放される。この国1番の名門校の文化祭ということで外部からの来訪者も、高校の文化祭としては破格の多さである。
その事実と学園には良家の子女が多数在籍することから、セキュリティは専門の保安会社に任せてある。何か問題がおきれば即刻警備員が駆け付ける手はずを整えてあり、要所要所に制服姿のガードマンがすでに駐留している。学園全体が会場になるわけであるし、生徒会執行部とその下部組織であるフェスタ実行委員(学級委員と自発的な参加者で構成されている)だけでは保守は到底不可能なので、こういう部分も予算を組んで外注としている。
一般開場は午前9時半からだが、生徒たちは普段通りの時刻に登校し、最後の準備にそれぞれ余念がない。
生徒会執行部員も朝1度全員生徒会室に集まり、ジュリアスがそれぞれの本日の予定を確認した。
ジュリアスはフェスタの執行責任者として、学園正門前にしつらえる本部に基本的に詰めるという。時折会場の巡回に出ることもあるが、その際は必ず連絡がとれるように電話は常に携帯していると付け加える。
アンジェリークはジュリアスと同じ本部付きで、来訪者受付を行う。一般来場者にパンフレットを渡したり、質問を受けたり等の案内を務めることになる。オリヴィエのモデルを務めるファッションショーは2日目の午後に予定されているので、その間の受け付けはロザリアに交替してもらうことになっているが、それ以外の時間は基本的に本部から動かない。
オスカーは最初の予定通り、ホールで行われる舞台発表の司会を行う。そのためオスカーはホールの放送席が持ち場となる。
舞台発表時のライティングはゼフェルの推薦でランディが行う事となった。ゼフェルは、照明と音響装置の保守と点検を担当していたものの「俺はインテリゲンチャでテクノクラートだぜ!1日中熱くて重いライトの操作なんてやってられっかよ!」と言ってライト操作には体力自慢の級友ランディを引っ張ってきたのだった。ゼフェル自身は、BGMの必要な演目の音響設備や、その他ホールの機器全般の操作を行う。ライティングや使用BGMは既に総合司会のオスカーと綿密に打ちあわせてあるので、あとは決められた手番通りに、それを行うだけである。
リュミエールはフェスタの開催期間中は一般参加の申請をしていた。会計が忙しいのは予算を組むまでなのでフェスタ開催期間中はこれといって仕事らしい仕事はないからである。そして何をするかというと美術室で『似顔絵描き』をするという。これなら事前の準備もいらないし、材料も自分の手持ちの画材を持ちこむだけで済むからである。
クラヴィスはこちらも一般展示扱いの茶房を開くので茶室にこもることになる。その際は、クラヴィス自身の手による茶碗の数々で茶が供されることとなっている。
オリヴィエは、2日目のショーがメインなので、空き時間は遊撃隊として自分の持ち場を離れられない他のメンバーに飲食物の提供を行ったり、休憩するメンバーの交替に入ったり、何か問題が起きた時その解決にかけつける要員とされた。
「それぞれ、自分の持ち場があり、そこからはおいそれと動けぬものと思うので、各自携帯電話の電源は常にいれおけ。よいな。ただし、マナーモードにしておくことは忘れぬように。それでは解散」
ジュリアスの言葉で、それぞれが持ち場に向うこととなった。
アンジェリークは受付に向う間際、ちらりとオスカーの背に視線をなげた。今朝から何度こんなことを繰り返しているかわからないほど、気がつくとオスカーの姿を目で追っていた。オスカーは、紙片を手に、ゼフェル・ランディと最後の打ち合わせをするようだ。オスカーが相変わらず生徒会活動に携わっている自分を見てどう思っているのかも気になるし、それでなくても、自分の気持ちを自覚したアンジェリークはついついオスカーのことを見てしまう。気になって気になって目で追わずにはいられない。だけど、真っ直ぐオスカーを見たり、ましてや話しかけることはどうしてもできない。今朝も目を合わせずに一言挨拶するのがやっとだった。
『ダメな私…このままじゃダメってわかってるのに…なんとか折りを見てお伝えしたいのに…お話したいって…謝りたいって…』
そして、もし、謝らせてもらえたら…謝罪の言葉を聞いてもらえたら、その上でオスカーに伝えたい事があった。受け入れてもらえるかどうかより、ただ、聞いてほしいと思うことがあった。
だから、オスカーに視線をなげる。でも、どうしても真正面からオスカーを見る勇気はまだなくて、背後から目で追うことしかできない。
すると偶然か、オスカーも、自分の方をちらと見たような気がした。何かいいたそうな表情が一瞬うかんだように見えた。アンジェリークはどきん!として慌てて目を逸らしてしまったので、それを確信はできなかった。
自分のほうはともかく、オスカーの方から自分に話があるとは思えなかったし、たとえ話があったとしてもそれが好ましい話だと思う根拠はなにもない…そう思うと、とても視線を受けとめることはできなかった。
アンジェリークが、慌てたように視線を逸らすと、オスカーは諦めた様に静かに小さな溜息をひとつ零し、舞台発表のレジュメを持ってゼフェル・ランディを携えてホールに向っていった。
本部の設営は、前日のうちに体育科主任教諭のヴィクトールと運動部系の男子生徒有志が行ってくれていた。アンジェリークはその本部にジュリアスとともにパンフレット類を運びいれる。紙類はみかけより重いので、アンジェリークが生徒会室と本部との数回の往復を覚悟していたら、リュミエールとクラヴィスがその場に残ってパンプレットを全部本部まで一緒に運んでくれた。
「ありがとうございます。でも、先輩方のご準備は?あの、お忙しいんじゃありません?」
「…なに、茶室の準備はあらかた整っている、あとは客がくるのを待つだけだ…」
「私のほうも画材は全て揃えてありますので、絵を描いてくれというお客様がいらっしゃるのを待つだけです。」
にっこりと優美に微笑んだリュミエールは、次の瞬間、底なしの憂いを表情に滲ませた。
「ですが…1人もお客さまが来てくださらなかったら、どうしたらいいのでしょう…私はそれが心配でならないのです…」
「そ、そんなことないですよ。リュミエール先輩に絵を描いていただくのは、女生徒の憧れだって伺いましたよ?きっと、オープンからお客様が殺到しますよ。」
「あなたは優しいのですね、アンジェリーク、でも、こういうことは蓋をあけてみないとわからないものなのですよ。当学園の文化祭は、他にも楽しいイベントや展示が目白押しですからね…1人もお客のこない似顔絵描きほど哀れなものはありません。ですから、アンジェリーク、空き時間ができたら是非、美術室に寄って、私のモデルになってくださいね?あなたが私のモデルになってくだされば、他のお客さまも「これは!」と思って立ち寄ってくださるかもしれませんからね?」
「…その手で来たか…」
「何のことでしょう?クラヴィス先輩」
「ふ…アンジェリーク、私の茶室にも必ず立ち寄ってはくれぬか?客のいない茶席の主というのも、客のこない似顔絵描き以上に哀れなことこの上ないからな。」
「クラヴィス先輩にお茶を点てていただけるのも、千載一遇のチャンスって前評判が高いみたいですよ?先輩秘蔵のお道具を拝見させていただけるんですし、クラヴィス先輩のお茶はとーっても美味しいですもの!絶対お客様は一杯いらっしゃいますよ!万が一お客様が少なかったら、私が宣伝してさし上げたいくらいですけど、きっと、そんな必要ないと思います」
「そなたのようなかわいい少女がお運びをしてくれれば、客も喜んで立ち寄ることと思うぞ。さすれば私も客足の心配などせずに済むのだがな…私はこれから着物に着替えるのだが…どうだ?おまえも今から和服に着替えて私と一緒に茶室で茶房を営まぬか?明日はショーの出演があるというのなら、今日だけでもよいぞ?」
「クラヴィス先輩…そうこられましたか…」
「何のことだかわからんな、リュミエール」
「お申し出はありがたいのですけど…」
とアンジェリークが躊躇いを見せていると、替りにぴしゃりとした声がその提言を一蹴した。
「問題外だ。アンジェリークには大事な総合受付という大役がある。簡単に貸し出す訳にはいかぬな。」
「それに、私、和服の着付けなんてできませんもの。クラヴィス先輩はお着物になられるのでしょう?お運びが制服のままじゃ、不釣合いになってしまいますもの」
「和服の着付けなら私がしてやるから心配はいらぬ。そなたは黙って立っていればよい…お雛様のように綺麗にしてやろう、どうだ?」
「んもう、クラヴィス先輩ったら冗談ばっかり!お雛様みたいな格好じゃお茶をお運びするのに役に立たないじゃないですかー!第一、クラヴィス先輩に着付けていただくなんて冗談でも恥ずかしいじゃないですかー!」
「(ぼそっと)冗談ではないのだが…」
「ますますもって問題外だ。冗談でも許せんな。アンジェリークの着付けをおまえにさせるなど…茶のお運びなど、ゼフェルの作った茶運び人形にでもやらせるがよかろう。それで十分だ」
「無粋なヤツめ…人形とこれと、どちらの運ぶ茶が美味かなど自明であろうが…それにオリヴィエにばかり、そんな美味しい思いをさせることもあるまいに…私もこれの着付けなら是非にしてやりたいぞ。好きな女を好みの装いで飾ってやる、しかも自分の選んだ衣に袖を通させ帯をしめてやり…まさに男のロマンだな…」
「???美味しいって何が美味しいんですか?」
「そうですね、今のところオリヴィエが1番いい思いをしているのはまちがいないですね。私だってどうせならアンジェリークになるべく薄物でモデルを頼みた…いえ、こちらのことで…」
「そんな思惑ではそなたのところにやるのも考えものだな、リュミエール。やはりアンジェリークは私の手元に置くのが1番安全であろう。私は生徒会長として執行部員の安全を図る義務があるからな」
「屁理屈を捏ねてはいるが、自分だとてこれを側においておきたいだけであろうが…」
「何を言っているのかさっぱりわからんな。」
「???私は先輩方が何のことを話していらっしゃるのか、ぜ、全然わからないんですけど…」
「ああ。おまえは何も気にしなくていいのだ。最初の予定通り、私と一緒に受付にいればよい。」
「仕方ない…よいか、アンジェリーク、休憩時間には必ず顔を出すのだぞ。待っているからな…」
「私のところもですよ、約束してくださいね、アンジェリーク。」
「はい!休憩時間には必ずお伺いしますね!」
「休憩時間の過ごし方までは指図できんか、やむを得ぬ…それにその程度の時間ならおいそれと悪さもできまい…」
眉間に皺をよせているジュリアスを余所に、クラヴィスとリュミエールは、パンフレットを置くとそれぞれの持ち場である茶室と美術室に向っていった。
「点数を稼ごうと一般受けする催しで参加したのが却って徒になってしまいましたね、クラヴィス先輩」
「なんだ、おまえが突然似顔絵描きなどすると言出したのは、キングの座をにらんでのことだったのか…」
「おや、クラヴィス先輩はそれが目的でいらしたのではなかったのですか?」
「結果はあくまで不確かなだからな…それよりは、あれと2人で茶席ができたらどれほど楽しかろう…と言う方が勝っていたのだが、それが叶わぬとなった今となっては、私もキングを目指すしかあるまいな…」
「では、これから先はライヴァルということですね?」
「ああ、互いに一般客にどれほどアピールできるか、勝負だな…」
不敵な笑みを交わしつつ、麗しい長髪男性2人組はそれぞれの教室に向って別れた。
9時半になった。
「これより、第256回ハーベストフェスタを開会する」
ジュリアスがフェスタ開場のアナウンスを学園中に流した。同時に正門が開けられ、一般客がどっと学園内に雪崩こんできた。そしてフェスタが始まったその直後からアンジェリークには何も余分なことを考える暇などなくなってしまった。
パンフレットをお持ちくださいと、来訪者に声をかける。ひっきりなしに問われる○○はどこですか?という質問に答える。ジュリアスと2人で対応していても目の回るような忙しさだ。あっというまに時間がたつ。ホールで行われる最初の演目の開始時刻は10時からだったので、その5分前に「10時から吹奏楽部による定期演奏会が始ります。ご覧になりたいお客様はホールにおいでください」という校内アナウンスを流した。このアナウンスはそれぞれの催しの開演5分前に必ず行う事になっている。ホールで行われる演目は基本的に1種1回限りだし、いくら時刻が記載されたパンフレットを配布してあったとしても一般展示を見学しているうちに時刻を失念して見たい演目を逃す人がなるべく出ないようにしたいからである。
「そなたの声は、愛らしいのによく通る、なんというか、とても耳に心地良い、そなたに受付とアナウンスを任せてよかったと思うぞ」
放送を終えてマイクの電源を切るとジュリアスが労ってくれた。
「ありがとうございます…自分じゃよくわかりませんけど、そう言っていただけると嬉しいです…でも、ジュリアス先輩のお声も、私、とっても素敵だと思いますよ?深みがあって、落ち付いてらして、あの、なんていうか艶があって…なんて言ったら失礼でしょうか?」
「いや…そんなことを言われたことはなかったので、なんと答えてよいかわからぬが…だが、悪い気分ではないな…」
ジュリアスが優しげに笑んだ。
「もう暫くすると、午前中の来訪者もおちつく。ホールでの公演が始ればそちらに人も流れるしな、そうすれば少し息がつけるだろう。もう少しの辛抱だからな。」
「はい」
ホールで公演が始るということは、いよいよオスカーの仕事も始るということだ…そう思うと、どうしようもなく胸がざわめいた。アンジェリークはあの後結局オリヴィエに言われた通り生徒会室に行かないまま今日を迎えていた。実際、リハーサルでそれどころではなかったのだ。そして、オスカー自身も、ライトやBGMの進行打ちあわせや、手順を確認するための簡単なリハーサルに追われていて、あの後2日間は生徒会室にいなかったのだが、そのことをアンジェリークは知らなかった。
目の前にしなければいけない事が多々あって、その忙しさに紛れていると、時間はいつのまにか過ぎていってしまう。なんとか、オスカーに声をかけたいと思っているのに、今朝みたいに周りに人が一杯いる状況ではやっぱり気後れしてしまって、どうしても声がかけられない。
「ちょっとだけお時間をいただけませんか?お暇な時でいいんですけど…お話したいことがあるんです…」と。それだけでいい。それだけ言えればいいと思っているのに、この短い一言を言うのにどれほどの勇気が入用なのか…
「俺には君と話したいことなど何もない」
そんな風ににべもなく、断られたらどうしよう…その上で更に食い下がる気力が私にあるだろうか…そんなことを想像してしまうと、どうにも声が出ず、足が竦むのだった。
しかも、生徒会室に行かないでいるその2日間に、オリヴィエに言われた言葉があった。
ショーの打ち合わせで、ヘアメイクのリハーサルをしている時にオリヴィエが、
「オスカーに謝りたいって、あんたが言ってた件ね、あれ、あんたからは、動かなくていいかもしれない…いや、動かない方がいいんじゃないかと思うんだ、私は…」
と言出したのであった。
「え?何故ですか?だって、私、オスカー先輩に謝りたいんです…まず、謝って…そうしないと、私…」
言いよどむアンジェリーク。
だって、そうしてからでないと何も始らない、伝えられない、せっかく、ようやく自分の気持ちがわかったのに…
哀しそうに困った顔をするアンジェリークをオリヴィエは安心させる様に笑いかけてこう言ったのだった。
「何もしないのがいいっていうんじゃないんだ、ただ、今は、ちょっと待っていてごらん?待っているうちに周りの状況の方が動くってこともあるんだよ。私はもともと、あんたが謝る必要はないと思ってるけど、でも、それじゃあんたの気が済まないんだろ?それはわかっているけど、それでも、今は自分から動かない方がいいと思うんだ。」
「???…でも…」
「それに、あんたは謝るより先に、まず、自分の気持ちを、じーっくり見つめて、考えて、しっかり掴むほうが大事なんだよ?「これだ!これが私の本当の気持ちだ!」ってヤツをね?あんたがまずしなくちゃいけないことは、動くことより自分の足場を見つめることなんだよ?」
「あ、はい。それは、その…あの、やってます…」
ぽっと頬を染めたアンジェリークにオリヴィエは何か察したようだった。
「そっか、それなら尚更あんたは今動いちゃだめだ。足場をしっかり固めることだけ考えてな?足場を固めなくちゃいけないのはあんただけじゃないし、多分、あっちの方が時間がかかりそうだからねぇ」
「???」
「自分の気持ちを真正面から掴むことも、それを言葉に直して人に伝えることも、最初から上手くできるヤツはほとんどいないんだよ、アンジェ。何度も何度も練習しないとできないことなんだと思うよ、私は。…特に、長い事そういうことをしたことがない人間にとってはね。泳ぎや馬術や自転車に乗ったりするのと一緒でね、いきなりできる人も偶にはいるかもしれないけど、大半の人間には練習がいることなんだよ、それも…だからさ、待っててやってよ、今はね?」
「あ…はい、あの、しばらく待っていればいいんですね?っていうか、その方がいいんですね?」
「そゆこと!」
というやり取りがあったのだった。
アンジェリークは率直に言って、オリヴィエが何のことを言っているのかよくわからなかった。もちろん一般論としてオリヴィエの言葉は理解していた。人は身近な自分の心が往々にしてよく見えないことや、感情や思いというのは「これ」と指し示したり、目の前に出したりできない曖昧なものだから、それを人にわかってもらえるよう上手く伝えるには技術も練習も必要なのかもしれないという、そういう一般論は理解できた。
でも、それが、自分がオスカーに謝りたいと告げることを暫時待った方がいい、という結論とどう結び付くのかがわからなかった。オリヴィエの言は、それぞれ単独ならきちんと理解できた。今は、自分から動くな、という具体的な指標と、自分の心の在り方を人に伝えるのは難しいという一般的な理念と。それぞれは理解できたが、それがどう結び付くのかがわからなかった。
でも、オリヴィエが、動くなというから、アンジェリークは自分からオスカーに声をかけていなかった。実際、先刻のような不安もあるから、今は自分から動かない方がいい、というオリヴィエの提言は救いでもあった。
でも、しばらくって、一体どれほど待てばいいのだろう、それに、そんなに長いこと放っておいていいこととも思えない。時間が経てば経っていくほど「この前はごめんなさい」という言葉が時期外れで場違いなものになってしまう怖れがあるから。必要な勇気は時間に比例して増えていってしまうから。そして、謝ってからでなくては、その先の気持ちも伝えることができないから…
だから、アンジェリークはじりじりと焦っていた。
何もしないまま、フェスタは始ってしまった。私は本部から、オスカー先輩はホールから動けないから、この2日はほとんど顔を合わせる機会もない。でも、このままでいいんだろうか。今日みたいに人がいっぱいいて、でも、皆一個所に留まっていないような時は、却って人目に立たずに声をかけられる機会もあるかもしれないのに…
そうだ、お昼に休憩時間をいただけるから、その時、オスカー先輩のところにお邪魔してみよう。何か言えるような雰囲気じゃなかったら、様子をみるだけでもいいから…
そんなことを考えながら、目の前にくる客に対応した。
受付嬢のかわいらしさと、誠実で温かみのある対応、何より愛らしい笑顔に、多くの一般客が魅了された。
午前中の演目は、つつがなく終わった。
オスカーの低く甘い声でなされる司会ぶりに、公演内容より司会席に釘付けだった女生徒たちが多数いたとしても、ホールが満員なのは事実だし、司会の声を聞き漏らすまいと聴衆は概ね行儀よく静かだったので、何の問題もなく時間は過ぎた。
一時間の休憩を鋏んで午後一時からまた公演が始る。オスカーはやれやれと吐息をついて首のネクタイを緩めた。
今日は公的に司会を務めるし、外来者が多数いるので、さすがにいつものようにしどけない制服の着方をするわけにもいかず、オスカーは留学から帰ってきて初めて、きっちりシャツのボタンを上までとめ、綺麗なノットを作ってネクタイを結び、ベストのボタンも全部しめていた。
「よ、お疲れ!」
そこにオリヴィエが差し入れのつもりか、飲み物を差し出して声をかけてきた。
オスカーは素直にそれを受取り口をつけた。
「なんだ、おまえか。まだ道半ばどころか、始ったばかりだがな。」
「あんたも、そうしてればまっとうな高校生に見えるじゃん。」
「おまえは、いつもまっとうには見えんがな。」
「これは私のキャラなんだからいいんだよ!ま、とりあえず何のトラブルもなく済んでよかったじゃん、今のうちにご飯食べちゃうんだろ?」
「いや、ちょっと回りたいところがあるんで、俺はそっちにいく、俺よりあいつらの面倒を見てやってくれ。かなりな肉体労働だったはずだからな。」
汗をかきかき照明席から降りてきたランディとインカムを外しているゼフェルの方にオスカーは顎をしゃくった。
オリヴィエはふふんと笑った。
「うん、貴重な自由時間だもんね、納得いくように使いなよ。若者たちには精のつくもんでもこの優しい先輩がおごってやるか」
「そういう訳知りな言い方はむかつくが…ま、好きにさせてもらうさ」
手早く司会席の資料をまとめると、オスカーはそそくさとホールを出て行った。目指すは本部だった。
「じゃ、ジュリアス先輩、お昼いただいてきますね。」
「疲れただろう、ゆっくり休むのだぞ。一緒に本部を空けるわけにはいかんのでついていってやれぬが…」
「大丈夫ですよ、学校の中ですもん!」
それにアンジェリークとしては一人で行動できるほうがありがたかったのだ。
「クラヴィスやリュミエールのところなど、気にしなくてよいからな。午後のためにもきちんと休むことを優先するのだぞ、よいな」
「はーい、それじゃ行ってきます」
元気よくアンジェリークは歩きだした。歩調に決意を滲ませて目指すはホールだった。
オスカーは目指す本部席に辿りついた。
しかし…いない。自分の探し求めている明るい金の髪の少女がどこにもいない。
途方にくれたように立ち尽くすオスカーに、残っていたジュリアスの方が先に気付いた。
「オスカー、どうしたのだ?わざわざここに来るとは…ホールに何か問題でも起きたのか?」
「あ、いえ…本部の方はどうかと気にかかりまして…」
「こちらは何も問題ない。第一そなたは舞台発表の司会という大役がある。こちらのことは心配には及ばぬぞ、優秀な受付が機敏に親切に案内を務めているからな。」
「あ、ああ、でも、その優秀な受付嬢の姿が見えないようですが?」
「あたりまえだ、あれにも休息をとらせてやらねばならぬからな。今は会場内を見まわっているぞ。そういえば…浮かれてはしゃいで、昼食を取り忘れたりせねばよいのだが…予め注意を促すべきだったか…」
「それでは、私が見かけましたら、その様に伝えておきます。では…」
「あ、おい、オスカー、そなたの用向きは何だったのだ?」
とジュリアスがその背に声を掛け様としたとき、広い背中は人ごみに紛れて見えなくなった後だった。
ホールは午後の演目をいい席で見ようとちゃっかりと手荷物を座席に置こうとしている客と、目当ての演目を見てしまい帰ろうとする客で2つの人の流れができ、ごった返していた。
アンジェリークはホールに入ろうとする人波に上手く乗り、とりあえずホールへの入場を果すと、座席には目もくれず舞台の下端にしつらえられた放送ブースに目をやる。だが、そこに人影はなかった。
それでも、もしかして、自分の視界に入らない部分に目当ての人はいるのではないかと祈るような気持ちで放送席の近くまで行ったが、やはりそこには人の気配はなかった。放送席には午後の演目の解説一欄が几帳面に綺麗にまとめて置いてあった。綺麗に書類がまとめてあるということは、一時的にここを離れたのではなく、しばらくこの席を離れるつもりだったことを思わせた。
『オスカー先輩…いらっしゃらない…あ、そうか、先輩だって休憩時間は今しかないんだもの、きっとお昼を食べにいらしたんだわ…私ったら馬鹿…』
この広い学園内で、しかも、模擬店が多数出ている今日はオスカーがどこに行ったのか探し出すのは至難の技…というよりどう考えても不可能だった。
アンジェリークは無意識に携帯電話を握り締めた。メモリーにはオスカーのナンバーが入っている。オスカー個人から教えてもらった番号ではない。フェスタの間は、執行部員同士いつでも連絡がとれるように一律一覧で電話番号とメールアドレスが入っているからだ。
そのメモリーを押せばオスカーと繋がる。今どこにいるのか聞ける…その誘惑はとてつもなく強かった。でも、結局アンジェリークはボタンを押す勇気がでなかった。
だってオスカー先輩が電話に出てくださったとして…何の用だと聞かれて…私が、今、どこにいるか聞いても、生徒会のことじゃなくて個人的なことで会いたいなんて…お話する時間はありますかなんて、伺えるの?それで、忙しい日にそんな下らない用件で電話するな…って思われたりしたらどうしよう…謝りたいけど、お話したいけど、それは私の勝手な気持ちだから、私から呼び出すのは失礼だし…わざわざ電話して言うようなことじゃないもの…敢えて今日、こんな忙しくて慌しい日に、しかも、先輩の貴重な休憩時間を割いていいようなことじゃない…
そう思うとどうしてもボタンを押す決心はつかなかった。
アンジェリークは何処に行ったのか…この広い学園内で闇雲に探し回って見つけ出せるものではないことはわかりすぎるほどにわかっていた。通常なら、食事時なら食堂かカフェテリアを探せばいい。しかし、今日はそこかしこに飲食店が出ている。一時間ではその全てに顔を出すこともできまい。
オスカーは思わず携帯電話をポケットの上から無意識に確認していた。
このメモリーボタンを一回押すだけで、アンジェリークと通じる…その誘惑は強烈だったが、オスカーの指はどうしても動かなかった。
あんな手酷い拒絶をした自分が、いきなり電話をしたりしたら彼女はどう思うだろう。オリヴィエは、彼女が謝りたいと言っていたなんて言っていたが…俺が彼女を傷つけたのは…しかも故意にだから余計罪深い…紛れもない事実で、そんなヤツからの電話など本当に受けたいと思うだろうか?例え出てくれたとして、嫌そうな、もしくは怯え切った対応などとられたら、俺は話したいことがあると…君に謝りたいんだと、言うことができるだろうか…
本当なら直接会って、顔を見て、きちんと話したいのだ。君に謝りたいと、そして、その上で伝えたいことがあると…
だが、無闇やたらと歩き回っても彼女を捕まえられる当てなどない。
今、どこにいるのか…それくらいなら電話で確かめてもいいだろうか…フェスタを一緒に見て回らないかというのを口実に…
いや、やはり、ダメだ…あんな手酷い拒絶のし方をした俺がどの面を下げて『一緒に回ろう』なんて言えるというんだ…それなら、先日のあの行為は一体何だったのかとアンジェリークは酷く怒るだろう。怒って当然なのだ。彼女は俺の意図を見ぬいていたとオリヴィエは言っていた。俺が彼女を拒絶するために口付けたと悟ったから哀しんだのだと…それなら、尚のこと、今更いけしゃあしゃあと誘ったりできない。彼女を1度拒絶した俺が掌を返したように誘いをかけたりしたら…不信がられるだけだ。謝罪を聞いてもらう余地すら失ってしまうかもしれない…
オスカーは諦めたように吐息をつくと、当てのありそうなところを順に立ち寄ってみることにした。
アンジェリークは、オスカーのいそうな所の当てもつけられず、とりあえず、約束してあったリュミエールとクラヴィスの所に顔を出すことにした。
まずは、距離的に近かった美術室に立ち寄ろうと思い歩いていくと、美術室のある棟の廊下に差しかかったところで長い行列を見つけた。並んでいるのはほとんど、おとなしそうな女生徒ばかりである。
『これってもしかして…』
と思うと、案の定、その先頭は美術室の先に消えていた。
これなら、私がいかなくても大丈夫、どころか、休憩時間中に順番が回ってくるとも思えなかったので、アンジェリークは挨拶だけすることにした。美術室に入り、列の邪魔にならない所から声をかけた。
「リュミエール先輩、すっごいご盛況ですねー」
クレパスを持つ手を一瞬休め、リュミエールが顔を上げた。
「ああ、アンジェリーク、約束通り来てくれたのですね!」
「ええ、ご挨拶に…だって、休憩時間じゃ行列に並んでも間に合いそうにないんですもの。でも、よかったですねー、先輩、こんなにお客様がいらしてくださって。」
「ああ、本当ならあなたのために時間を作ってさしあげたいのですが…」
内心しまったと思ったリュミエールだが、並んでいる客の手前、アンジェリークをいきなり割りこませる訳にもいかず、優美な笑顔の裏でぎりぎりと歯軋りする。
「そんなこと冗談でもおっしゃってはダメですよ~、みんな、すっごく待ってるんですもん。じゃ、お邪魔になりますから、私、もうお暇しますね、それじゃ!」
未練たらしいリュミエールの視線にまったく気付く気配もなく、アンジェリークはそそくさと次はクラヴィスがいる茶室にむかった。
茶室のある棟に赴くと階下まで行列が伸びている。こちらは大人の一般客が多い。やはり先頭は茶室に消えていた。
「クラヴィス先輩!」
アンジェリークは開きっぱなしの茶室の扉の外からクラヴィスに声をかけた。とても、中に入っていく空間はないし、割り込みと思われたら困るからだ。
クラヴィスがアンジェリークに気付き嬉しそうに笑んだ。
「おまえか…来てくれたのだな…さ、入るがいい」
「ダメですよー、待ってる方が一杯いらっしゃるですもん。休憩時間だけじゃ私の番は回ってきそうにありませんし…だから、ご挨拶だけと思って伺ったんです。クラヴィス先輩のお茶は美味しいですもん。やっぱり私の宣伝なんて必要なかったですね、それに、お運びの方もいらっしゃるじゃないですかー」
「ああ…茶道部のものがやってくれるというのでな…しかし、そうか…おまえは私の茶を喫す暇はないのだな…」
予想外に多かった客足にこちらもしまったと思ったクラヴィスだったが、今更上手い手立ても思いつかない。
「はい、私も残念ですけど、クラヴィス先輩のお茶は、飲んだ事のない方にこそ、飲んでいただきたいですもの。私は我慢しなくちゃ罰があたります。それじゃ、お邪魔になりますから私はお暇しますね、失礼します」
と言ってアンジェリークは、さっと退出してしまった。
『私の天使よ…』
という追いすがるような視線に全く気付かず、アンジェリークは、たったと早足で玄関に向った。模擬店の集中している校庭の一角に行ってみるつもりだった。飲食関係の模擬店は校舎内にも散在していたが、校庭の1部にそればかりで固められ屋台村になっているような個所がある。お昼時ならそこに人の行く可能性が高い。アンジェリークはできればぎりぎりまで諦めたくなかった。電話で呼び付けるような真似はやっぱりできないと思ったが、偶然見かけて声をかけるくらいなら、いいよね?と思った。それに、遠くからでも先輩なら一目でわかるという自信があった。
アンジェリークの好きそうな物を扱っている模擬店にあたりをつけて方々を見まわったものの、明るいふわふわの金髪は見つけられない。春の陽光がそのままタンポポの綿毛に宿ったような温かみのある柔らかそうな金の髪に赤いリボン。オスカーはひたすらそれを探し続けた。
飲食関係ではなく、最初に小物や雑貨でも見に行ってしまったのなら、設置ブースが全く別なので、見つかる訳もない。今からそちらに向っても、入れ違いになる怖れもある。オスカーは朝のミーティングの後、すぐホールに向ってしまったので、アンジェリークがクラヴィスとリュミエールの所に顔を出す約束をしていることなど知らなかった。だから、そちらを探してみることは思いもつかなかった。
『どうする…』
やはり闇雲に動いてもだめだ。でも、電話で呼び付けるのは躊躇われる…
そうだ…返事を強要しないですむものなら…まだ、許されるだろうか…嫌ならこたえずに済む手段…自分の方も彼女の応答の様子を感じずに済む手段なら…まだ気が楽だ…
オスカーは携帯電話を取り出すと蓋をあけて素早く短いメールを打った。
アンジェリークはポケットでぶぶぶ…と唸るような電話の振動を感じて思わず「きゃっ!」と言って立ち止まった。
丁度校舎から校庭に出ようとしていた所だった。
「何?電話?何かあったのかしら…」
表示を見るとメール着信の印が出ている。
アンジェリークは不可解に思いつつ…執行部員同士の急ぎの用事なら音声による電話を使うはずだからだ…そのメールを開いて目を疑った。
『アンジェリーク、今、君は学園内のどこにいるのか?差し支えなければ教えてほしい/オスカー』
どうして?なんで?オスカー先輩が?これは何かの間違いじゃないの?アドレス違い?ううん、だって、最初にアンジェリークって…でも、私以外にもアンジェリークって…いるわよね…その子と間違えてるなんてことはない?…だって、なんでオスカー先輩が私の居場所を教えて欲しいなんて言うの?私を探してる…なんて、そんなことが…ある…の?そんなことが…だって、私を探す理由なんてない…でしょう?
それでも、このメールを無視することなどできなかった。
だって、自分はオスカーを探していたのだから。手がかりでも切っ掛でも、何でもいいから掴みたかった。
震える手を宥めて、何度もボタンを押し間違えて、漸くこれだけの文章を打った
『私は東校舎の玄関前にいます/リモージュ』
万が一、間違いメールだったら…と思うと音声で返答はできなかった。名前でなく苗字で返信したもの同じ理由からだった、これで間違いなら、何も応答はこない、それだけだろう。でも、もし、本当にこのメールが私宛てのものだったら?何故オスカー先輩は私の居場所を知りたいの?私を探してるなんて、そんな都合のいいことが…あるわけ…ない…よね?でも、でも、もしかしたら…ああ、だけど、そんなこと考えれば考えるほどある訳ない…
息が止まりそうなほど緊張して、あんまり緊張したものだから胸がきゅうきゅう苦しくて、動こうにも動けずにしばらくその場に佇んでいたが、電話は黙りこんだままだった。待っていても何もメッセージは入ってこない。
『やっぱり…何かの間違いだったんだ…』
目の前をコールタールで塗り塞がれるような暗澹たる気分が垂れこめていく。最初から、何かの間違いだと思ったんだもの、今更がっかりすることないじゃない…必死に自分にそう言聞かせるが、油断すると瞳からじわりと零れそうになる熱いものがある。
『もう、戻ろう…どっちにしろ後ちょっとで交替の時間だし…今すぐ本部席に戻ったら、ジュリアス先輩に鼻声になってるのを気付かれちゃうかもしれないから…深呼吸しながら…ゆっくり行こう…』
そう思って、大きく重い溜息を思いきり吐き出し、ふと顔をあげた。
『うそ…』
アンジェリークは思わず息を飲んだ。
時間が止まったような気がした。周囲が音を失った。
見間違えようのない燃えるような緋色の髪が目に入った…雑踏から頭ひとつ分飛び出した緋色の髪の持ち主が、人ごみを掻き分け、人の流れを遮り、分断して、無理矢理のように近づいてくる。
『まさか…まさか、ここに…ここに向ってらっしゃるの?』
信じられない、そんなことがあるはずない。だって、何故オスカー先輩が私のところにいらっしゃるの?あれは…あのメールは何かの間違いだったはずじゃ…まさか、返信の私の苗字を見逃したなんてことは、探している方を間違えてるなんてことは…
どうしても今、起きつつあることが信じられない。アンジェリークは固唾を飲んで立ち尽くした。足に根が生えたように動けない。ただ、黙って、彼の人が…自分がずっと探していた人が自分に近づいてくるのを怖いものでも見るように見つめ続けた。
「っ…はぁ…はっ…お嬢…ちゃん…よかった…まだ、動かずにいてくれて…」
オスカーは激しく肩で息をしていた。呼吸が苦しそうだった。
「お、オスカー先輩…?なんで…」
「っ…あ…ああ、校庭の反対側にいたから、ここまで来るのに時間がかかっちまった…すまない…」
「あ!そうじゃないんです!」
オスカーが来るのが遅かったことの理由を自分が疑問に思っているのだと、オスカーが誤解したことに気づき、アンジェリークは慌てて否定した。
「私?なんですか?本当に私を探してらしたんですか?だって…あの…どなたかと間違えてらしたのかと思って…メールに何もお返事がこなかったから、それで…」
何かがこみあげそうになってそれ以上言葉が続かなかった。下手にしゃべったら泣き出してしまいそうだった。今でも目の前の存在が現実とどうしても思えないのだ。
オスカーは、はっとしたように息を飲み、居住まいを正した。
「!…あ、ああ、すまない、急いでここに…君のいる場所に来る事しか考えてなくて…動かないでくれって、レスすればよかったんだな…馬鹿だ…俺は…君を前にするとどうしようもなく馬鹿になっちまう…そんなことも思いつかないなんて…」
「………え?…」
アンジェリークは今度は自分の耳を疑った。
オスカーは今なんと言った?
自分の事を探してた?急いで来ようとするあまり返事も忘れていた?こんなに息を荒げるほどに急いで?何故?何故なの?どうして…
「先輩…オスカー先輩…あの…私を探していたっておっしゃるの?どうして…?」
どうしても信じられない。オスカーがいる目の前の光景も、オスカーの言葉も。自分の目も耳も都合のいい事を勝手に夢見ているのではないのか?オスカーは自分を遠ざけたがっていた。自分はそれだけの事をしてしまっていた。そのオスカーが何故、今、自分を探していたというのか?
オスカーは意を決したように、それでいて、何か苦しそうに瞳を細めた。
「お嬢ちゃん…俺は…俺は君に話したいことが…聞いてほしい事があって…」
その時、マイクの電源が入り、放送の始る一瞬前のざりざりとした雑音に次いで、耳慣れたジュリアスの朗々として落ち付いた声で放送が入った。
「あと5分ほどで午後の部の演目がホールにて始ります。午後1時からの作品は演劇部による定期公演です。ご覧になりたい方はホールまでおいでください」
「!いけない!戻らなくちゃ!」
「っ!もう、そんな時間か!俺も…ホールに戻らないと…」
オスカーが瞬間、激しい逡巡を瞳に走らせた。直後、無理矢理何かを吹っ切るように長々と嘆息した。
「お嬢ちゃん…すまない、話はまた今度だ…」
「は、はい…」
「お嬢ちゃんも急いだほうがいい、じゃ…な」
オスカーは踵を返して、ホールに向けて走って行った。
アンジェリークも足だけは自動人形のように無意識に動かし、本部席に向う。
でも心臓も頭も破裂しそうだった。
先輩、先輩は何か話があるっておっしゃってた…何?一体何で?
それが、何か、辛いことだったらどうしよう…生徒会に私が居座っていることへの嫌悪の言葉とかだったらどうしよう…
でも、でも、私のこと、嫌そうに見たりしなかった…嫌なことを告げるのにわざわざ息を切らしてまで私を探したりするだろうか…
ああ、でも、勝手に都合のいいように考えちゃだめ…
自分に甘いことばかり考えちゃだめよ、アンジェ…
あっ!それより、私ったら…私も先輩にお話があるって…聞いていただきたいことがあるって、何でオスカー先輩にいわなかったのー!私の馬鹿馬鹿馬鹿ぁ~!
でも、でも、「また今度だ…」っておっしゃってくださった。
少なくとも、次ぎの機会はある。もう1度言葉を交す機会は…その時、私も…お話がありますって言えるかもしれない…もしかしたら謝ることもできるかもしれない…
そう思うだけで、足取りは踊り出しそうになる。
どんな形でもどんな機会でもいい。今、オスカーが自分を拒絶しないでくれたという、むしろ、自分とコミュニケーションを取ろうとしてくれたという、そのことだけで地に足がつかないほど心は舞いあがってしまう。
拒絶されたと思った時のあまりに苦しい胸の痛みを知っているからこそ、言葉を交せることが、こんなにも目の眩みそうな喜びだとわかる。
『どうしよう…私、どうしよう…こんなことくらいでもこんなに嬉しくなってしまって…こんなにオスカー先輩のこと、好きになってしまっていたなんて…もう、どうしよう…どうしたらいいの…』
改めて、思い知った。自分は、こんなにもオスカーの事を好きだったのかと。何故こんなに熱い気持ちに最近まで気付かなかったのか不思議なほどだった。オスカーはいつも身近にいたからだろうか、言葉を交せなくなるまで、その人の大切さを気付けなかったのは…
オスカーと何日かぶりでほんの2言、3言、言葉を交した、それだけで、こんなに舞いあがってしまう自分に、オスカーへの想いがいつのまにかこんなに厚く熱く降り積もるように重なっていたのかと空恐ろしくなるほどだった。
そう思えば、あれだけ泣いたことも無駄ではないと思える。あの時オスカーが自分を拒否して、それを辛いと思わなければ、あんなに泣かなければ、今でも私は自分の気持ちに気付いてなかったかもしれないから。気付けてよかったと、今、心から思えるから。
報われる可能性はほとんどない想いだと、心のどこかで考えている自分がいる。
でも人を好きになる気持ちは、想いが通じる見こみとはまた別のものなのだ。見こみがあるから好きになる、見こみがないから好きにならない、それなら簡単だけど…そういうものではないのだ。
私の気持ちはまだ始ってもいない。伝えないと始まることもできない、そして始りがなければ終わりもないのだから…どんな形であれ…
自分の行くべき方向がわかったから、もう、迷いはなかった。
アンジェリークは、本部席に急いだ。
「ジュリアス先輩、遅くなってすみませんでした。ジュリアス先輩も休憩をどうぞ。」
「ああ、そなたはきちんと休んだか?ちゃんと食事はとってきたのか?」
「あっ!」
オスカーを探して、リュミエールやクラヴィスの所に顔を出して、そして、オスカーとほんの少しだけ会えて…休息時間はそれだけで終わってしまって、何も口にしていないことに今初めて気付いた。
バツの悪そうな顔にジュリアスは事情を察したようだが怒ったりはしなかった。むしろ、優しそうに笑んだだけだった。
「そんなことではないかと思ったぞ。そなたには初めてのフェスタだからな。物珍しさに見て回るだけで終わってしまったのだろう?良い、私が何か買ってきてやろう、ここで待っていろ」
「え?え?そんな、それじゃジュリアス先輩が休憩になりません~!」
「いいのだ。交替でこの席で食事すればよかろう、私はフェスタの様子はわかっているし1人で回りたいところもない。そなたに何も食べさせなかったなど、寝覚めの悪い思いはしたくないし、そんなことがわかればクラヴィスやリュミエールに私が吊るし上げを食うからな。」
「そ、それは私が忘れてただけで、ジュリアス先輩の責任じゃありませんものー!」
「でさ、そう言う時の交替要員で私がいるんでしょ?」
「オリヴィエ先輩!」
「ジュリアスが何か買ってきてくれるっていうんなら、ここで食べちゃいな?その時、表には私がいてあげるからさ。」
「ああ、それでは留守居はそなたに任せるか…アンジェリーク、ちゃんと待っているのだぞ」
「あ、はい!」
子どもに諭すように言われアンジェリークは思わず、良い子で返事を返してしまった。
程なく、ジュリアスが手に一杯、ピザやらチキンやらポテトやらライスボールやら飲みものやら、デザートにクレープまで抱えて戻ってきた。
「すごぉい…ジュリアス先輩…」
「そなたが何を好むかわからぬので、目に付いたものを皆買ってしまったのだ…」
何やら憮然として頬を染めているように見えるジュリアスに小首を傾げてから、アンジェリークは、慌てて言った。
「あ!ごめんなさい、半分?でいいですか?お支払いしますね!」
「よい、これは…私からの…その、褒美というか…詫びというか…駄賃だとでも思え」
「え?どういうことですか?それ…???」
「そなたは、これがはじめてのフェスタなのに、仕事があってゆっくり見て回ることができぬ。本当はゆっくり見学したかっただろう、見たい演目もあったであろう。それを我慢させているのだからな…」
「え、そ、そんなことないですー。私、生徒会のお仕事好きです、とっても楽しいです。先輩方皆さんお優しいですし…できればずっと続けたいです…」
アンジェリークはちらっと承認を求めるようにオリヴィエの顔を見た
オリヴィエが軽く頷いてふふっと笑った。ジュリアスも柔らかく笑んだ。
「…そうか、そう思ってくれると…私も嬉しい…さ、好きなものを食べるといい」
「あ、はい、じゃ、ジュリアス先輩もご一緒ですよね?」
「ああ、そうだな…暫く頼んだぞ、オリヴィエ」
「任せておきなって」
ジュリアスとアンジェリークは少し奥まった位置に移動して、急いでテーブルの上に広げた軽食をいただいた。
その後、午後は少し客足も落ち付いたので、受付業務もそれほど慌しくなくなった。たまさか、遺失物の問い合わせや、同行者とはぐれてしまった一般客の呼び出しを頼まれるくらいで、程なくして4時の閉場時刻を迎えた。
アンジェリークは閉場30分前、15分前、5分前にそれぞれアナウンスを流し、出展者には後片付けも促した。
ホールの方の演目も閉場30分前には無事全ての演目を無事終わらせていた。
こうしてとりえあえず、対外的には大きな問題もなくフェスタの1日目は閉場した。