「おや、まだいたんだ…」オリヴィエは大して期待もせずに生徒会室のドアを開けたのだが、目当ての人物は一人でPCのモニターを見ていた。オリヴィエの声に顔だけそちらにむけた。
「おまえか…こっちは何の用もないから、来るには及ばないぜ」
淡々とした声と感情の乏しい表情でその人物…オスカーが答えた。
「そういいなさんな。あんたに全部任せっきりなんで、ちーっとばかし悪いと思ってるんだからさ。」
「ふん…一人でも別に困りはしないぜ、おまえこそ、こんな所で油を売ってていいのか?」
「一人か…一人ねぇ…」
オリヴィエは、ふむん…と何か考えこむようにゆるく腕を組むとちらりとモニターに目をやり、オスカーが開けているデータを確認した。諸事項の確認・変更フォームが開かれている。普段は書記が管理しているデータだった。
「今日はあんた1人しかいないの?」
見ればわかることだが、オリヴィエは生徒会室にいるのがオスカー1人であることを改めて確認する。
「見ての通りだ、他の執行部員もそれぞれの演目準備でおおわらわだからな。」
ジュリアスは各教室を巡回して什器や暗幕など足りないものがないか、校外からの来訪者用の案内図にわかりにくい個所はないかなど総合チェックに忙しい。リュミエールは校舎の壁面に飾る垂れ幕の設置のため屋上で作業している。クラヴィスは茶房の開催準備に専念してるし、ゼフェルはホールの照明装置や音響装置の点検に余念がない。
オスカーは総合司会を務めるので、舞台発表を行う各団体が提出した演目のレジュメを整理しその順序をきちんと揃えて流れを把握しなければならない。だから演目に変更があった場合などすぐに対応する必要があるので生徒会室に詰めている。もっともその流れを頭に叩き込む以前の事務処理は優秀な書記が綺麗にわかりやすくデータをまとめてくれてあったし、配置図も含めたプログラムの印刷も既に終わって校内関係者には配布済みであった。
「じゃ、今日は誰もここに戻ってこないかな…」
「だろうな…あらかた雑用は片付いているし、おまえもここにいる必要はないぜ、自分の演しものの準備はいいのか?」
「その雑用…誰が綺麗にまとめてくれたんだっけ?」
「お嬢ちゃんに決って………そういや、今日はお嬢ちゃんは一緒じゃないのか?来る時はいつも一緒だったじゃないか」
今初めて思い出したとでも言うようにオスカーはオリヴィエに尋ねた。
「それがねぇ、なんていうか今日のあの子は見てられない状態でねぇ…」
ちらっとオスカーの顔に視線をやったが、その表情は仮面のように動かない。
「顔は浮腫んで、瞼は腫れて、目の下は隈作って、瞳は真っ赤で、もう見られたものじゃなかったよ。まるで一晩中泣いたみたいな様子でさ。で、体調管理ができないなんてモデルとしての自覚がないんじゃない?それじゃ困るよって諭して今日は部屋に帰したよ。」
嘘ではない、かなり誇張と省略があったが。
「な…!」
オスカーが瞬時絶句した後、いきなり立ちあがって怒鳴った。
「おまえ、そんなことを言ってそのままお嬢ちゃんを返したのか!お嬢ちゃんが…あのお嬢ちゃんがそんな状態になるなんて、何か訳があるに決ってるだろう!それを斟酌もせず、お嬢ちゃんを責めて突き放したのか!」
「ふーん、それでなんでアンタが怒る訳?私の言ってることは正論じゃないか。」
「そ、それはそうかもしれんが…おまえのモデルを務めるのがそんなに大層なものか!それに彼女の様子が変なら、何かあったんじゃないかと思って気にかけてやるべきじゃないのか!」
「なんで私があの子の泣いた訳を聞き出して慰めてやらなきゃならないの?」
「な…なんでって…それは…」
「っていうか、なんでアンタは、私がそうしてあたりまえだと思ってるのさ?アンタは何故私がアンジェを慰めるのが当然だって思うわけ?」
「………それは、おまえはあの子をかわいがっているから…あの子の様子がおかしければ放ってはおくわけはないと思って当然だろう…」
「私は確かにあの子をかわいいと思ってるさ。でも、、私があの子を慰めなかったとして、それをあんたが不可解に思うのならわかるよ?でも、なんで怒るわけ?」
「……」
「…ま、確かに私はあの子の様子が変なのは一目見てすぐわかったよ…泣いたのが…多分一晩中泣いたのがありありわかる顔だったしね。顔色も悪くてね…」
そのオリヴィエの言葉に、オスカーはぐっと何か大きな塊を無理矢理飲みこんだような表情を浮かべた。
「……それがわかったのなら、どうして…」
「だけど、だからといって、それはアンタが怒る謂れにはならないよ。違うかい?」
「む…」
「何でアンタが怒ったのかはっきり言ってやろうか?アンタが激したのは私がアンタの思惑通り動かなかったからだ。違うかい?あのさぁ言わせてもらうけど、人が怒る時ってどういう時か知ってる?物事が自分の思い通りにならない時、特に人が自分の予想通りに動かない時に、怒りの感情って芽生え易いらしいんだよね。アンタは私があの子を慰めなかったことに怒った。それは、言いかえれば、アンタは私があの子のおかしな様子に気付いて、訳を聞き出すなり、慰めることを期待してた…そうじゃないのかい?」
「おまえが、そんなに冷たいヤツだとは思わなかったと失望しただけさ…」
「ふん…じゃ、今はそういうことにしておいてやるか…ただ、本人が聞かれたくないことを無理矢理聞き出そうとするのは、逆に相手を苦しめる事もある…アンタもよく知ってる気持ちだよね?」
「……なんのことだかわからんな…」
「だから、私はあからさまに聞き出す気なんてなかったんだ、最初はね…でもね、見過ごせないことがあったんだよ…あの子の肩口にキスマークをみつけちゃったのさ。私はあの子が幸せ一杯の恋をしてて、その結果ちょっと辛抱利かない彼氏にそういう痕をつけられたのなら、何にもいうつもりはなかったさ。でもね、一晩中泣きはらした瞳にキスマークだ…その、女の子にとって、もしかして言うに言えない辛い目にあったんじゃないかって、私は肝が冷えたよ…でも、それなら逆に絶対に放ってはおけない。万が一犯罪の被害者になってしまったのなら、絶対犯人を許してはおけないからね。で、結局私はキスマークのことを指摘して何かあったんじゃないかって聞いたのさ…あの子、飛びあがってびっくりしてた。また泣きそうな顔になった…でも、どうしても何も言おうとしないんだよ…」
「なんだって?何も言おうと…しない?」
オスカーの顔色があきらかに変わった。
「自分が考えなしだったから、これは自分の責任だからって、自分が気をつければ2度とこんなことはされないと思うっていうんだ…これは警告だからって…私はますます訳がわからなかった。警告って何なのさ…そりゃ、脅しとどう違う訳?女の子に無理矢理キスマークつけるのが警告だなんて、タチの悪い脅迫としか私には思えなかったんだけど、そうじゃないって、あの子は言いはるんだよ。その人は悪くない、仕方なくこうせざるを得なかったんだと思うからって、その相手を…自分で肩にキスマークはつけられないからね、相手がいるって事は、あの子ももう否定できなかったから…そいつをどうやっても庇おうとするんだ…」
「庇う?庇うだと?そんなことをした男を?」
オスカーが更に呆然とした。
「そうだよ、意外っていうか…信じられないだろ?でも、どうしてもあの子は何も言わない。それで手を変え品を変え理詰めで問い詰めていったら、苦しそうにこう言うんだ。その人の事を知りたいと思った自分が聞いてはいけないことを聞いてしまったから、その人はそれが辛くてこんなことをしただけだし、それに無防備な自分がほんとに怖い目に合わない様に、男に迂闊なことを言うとこんな怖い目にあうかもしれないんだぞって、注意を促してくれたんだと思うって、そう言うんだ。だから、その人は悪くない、だから自分は何も言わないって言い張るんだ。」
「そんな…そんなことを言ったのか…」
オリヴィエは横目でちらりとオスカーの様子を見て僅かに頷くと話を続ける。
「で、脅迫されて口止めされてる訳じゃないのは不承不承理解したさ。とにかく彼女が自分の意志で緘口してるってことはね。確かにあの子は…その純粋すぎて優しすぎるから無闇やたらな人間に近づいた挙句危ない目に合わないとも限らない、それを心配する気持ちはわかるよ、でも、合意なくキスマークつけてそれを思い知らせるなんて惨いやり方だし、私はやっぱり許せないと思った。で、私だけじゃない、ここの連中も…ジュリアスやクラヴィスやリュミエールやアンタにも訳を話せば力になってくれると思うから誰に何故そんなことをされたのか、全部話してご覧?って言ったのさ、そしたら、もー、ものすごい勢いで、このことは誰にも言っちゃだめだ、言わないでくれ、ってそりゃもう必死になるのさ。ほんとにものすごい勢いでね…それで私はピンと来ちゃったのさ…」
「何が…だ?」
「その相手ってのが今挙げた連中のウチの誰かじゃないかってことにね…」
「………」
「で、そう尋ねたら、あの子はもっと死にそうな顔で、絶対違うって言うんだ。それならその相手の名前を言ってごらんって聞くと、何処の誰かも名前も知らない相手だっていうんだ、そんなこと信じられるわけないだろう?どこの誰とも知らぬ相手に、聞いてはいけないことを聞いた挙句、迂闊な事を男に聞くと怖い目に合うぞって、そいつが警告してくれたっていうの?で、その見も知らぬ相手をあの子は必死になって庇うなんてそんな馬鹿な話があるかい?」
「で…それでも彼女はどうしても何も言わなかったのか?」
「結果からすればNO。私がずばり、その相手を言い当てちゃったからね…それは…アンタだって。」
「…」
「そこまで言い当てられて、やっと彼女は何があったか話してくれたよ…全てね…」
「そうか…それで、おまえは彼女の言葉を信じたんだな…」
オスカーは胸になにかつかえたままのようだった表情を思わず緩めていた。まるでなにか安堵したかのような顔だった。
「アンタ…なんで、そんなにほっとした顔してんのさ。」
「っ…!」
「アンタはあの子にした無体な仕打ちがばれたんだよ?なのに、アンタは慌てても、うろたえても、バツが悪い顔すらしてない。これから弾劾されるかもしれないっていうのに。ジュリアスやクラヴィスがこの事を知ったらアンタをただで済ます訳ないのに…」
オスカーは何かに殴られたような自失した顔をしている。どうにも言葉が出てこないようだ。
「アンタは最初から、あの子が今日ここに来ないだろうことを知ってた。私が顔を出しても、真っ先にあの子の事を尋ねなかったし…最近いつも一緒に来てたのにね…アンタは書記用のデータを自分で開けてた。あの子が来られないだろうってわかってたからだ。そういう仕打ちをあの子にしたんだって自分で知ってたからだ。そうだろ?」
「……」
「ただ、それだけじゃ…私は、アンタの意図が確信しきれなかった。あの子の話だけなら、アンタが激した挙句、頭にかーっと血が昇って見境なく馬鹿な真似をしたんだって可能性も捨てきれなかったからね。なにせ、あの子はあんたの心の一番柔らかい部分に…普段は鎧で覆ってる脆い場所にまっすぐ、しかも無意識ってのがすごいけど…触れちゃったみたいだからね…」
オリヴィエはきっと顔をあげた。
「でも、これでわかった。アンタは確信してあの子に無体な真似をしたんだ。頭に血が昇ってやったんじゃない。しかも、それが早晩ばれて、自分が弾劾されることを知って…いや、望んでさえいた。そして、私でも誰でもいいけど誰かが…あの子を慰めてやることを期待してた。でも、私がそうしなかった、あの子も何も言おうとしなかった、それがわかったからあんたは私に怒った。あの子が何も言わないと聞いたからうろたえた。自分があの子に無体な真似をしたとがばれることじゃなく、ばれないかもしれないことに動揺したんだ。それではあの子は何も慰めを得られない、一人でこれからも泣かなくちゃいけないことに、アンタはショックを受けてうろたえた…」
するとオスカーは何もかもに観念したような、捨て鉢な表情で吐き捨てるように言った。
「…だから、それがどうした…もう、全てわかったんだろう?それならジュリアス先輩やクラヴィス先輩に全て話せ。俺の愚かな振る舞いを。そして俺を放逐して彼女を安心させ慰めろ。もう、怖いことをする嫌なやつはいないから、安心しろってな。安心して生徒会に戻って来いと。皆そうしたがるだろう」
「嫌だね」
「何?」
「なんで、私がアンタを楽にしてやんなくちゃならないのさ」
「!」
「酷い目にあったのはあの子のほうだよ?そのあの子が誰にも言わないでくれって言ってる。それなら私はあの子の意志を尊重するよ。例えあの子がここを辞めることになってもね」
「何故だ!あの子がここを辞めることなんてない!俺が辞めればいいだけじゃないか!それなら俺が辞める!」
「だから、私はアンタを楽にしてやる義理はないんだよ。アンタは自分が弾劾されることで、罰を受けるつもりでいる。罰を受けて償った気になって自分が楽になりたいからだ。わざとわかるように痕をつけたのも、それがばれて自分が糾弾されることを見越した部分もあったんじゃないかい?ただ、あの子を怖がらせるだけじゃなくね…自分はジュリアスたちに責められ、生徒会を辞めさせられ、一方彼女は慰められ労られ、生徒会に呼び戻される…そして、自分とあの子の接点を物理的にも心情的にも完全に断つ…それを期待してたんだろ?自分が悪者になることで…まったく…アンタはわざと悪者になりたがってるみたいだけど、悪者じゃなくて馬鹿者だよ、大馬鹿者だ…」
ぐっとオスカーは詰まった。
「そこまでして、何故彼女を遠ざけようとしたんだい?何故、そこまでして…あんな惨い真似までして、無理矢理距離を置かなくちゃならないんだい!あの子にいいたくないことを聞かれた、あの子にはアンタの生家のことはいいたくないだろう。それはわかるさ。とにかく裏の社会とか汚い世界とかにあれほど縁遠く見える子はいないからね。そんな世界がこの世にあるなんてことを聞いても信じられないかもしれない…そんな世界教えたくないってアンタの気持ちはわからないでもないよ。だけどね、それなら、その話題には触れないでくれ、話したくないんだ、それだけでいい筈だ。あの子は優しいし賢いよ、そう一言言うだけでもう、それ以上踏みこんではこなかったはずだ。力づくであの子の存在そのものを排除するような真似をしなくてもね!」
「俺は…俺はそんな…」
「そんなつもりじゃなかったとは言わせないよ。アンタは自分を怖がらせることで無理矢理彼女と距離を置こうとした。だが、あの子はそれを手痛い拒絶だと感じとった。自分の存在が側にあること自体がアンタを苦しめて仕方なくアンタにあんな真似をさせたと理解した。あの子の言葉からそれはわかったろう?あの子は泣いたさ。無理矢理キスされた自分を哀れんで泣いたんじゃない。そんなことまでしてアンタがあの子の存在そのものを拒絶したかったんだとわかっちゃったからだ。しかも、それだけじゃない。あの子はアンタにそんな辛いこと、いいかい?自分が辛いんじゃないんだよ?辛いのはアンタの方なんだっていうんだよ?アンタに辛い真似をさせてしまったのは自分の考えなしな質問のせいだから、謝りたいって私に言ってたんだよ!」
「っ…」
「少しは自分のしたことを恥ずかしく思ったかい。自分がわかりやすい悪者になることで楽になろうとするなんて…そんな逃げを私は許さないし、認めないよ。あの子が泣くことになっても、私は何も誰にも言わないつもりだからね、あの子は自分があんたに悪い事をしたって心から思ってるし、アンタがあんな拒絶の仕方をしたもんだから、自分の存在がアンタを苦しめると思ってもう生徒会には来ないつもりだと思うよ、何も言わずに、無責任と謗りを受けようと黙って辞めるつもりだと思うよ。」
アンジェリークの言葉がもともとの切っ掛けだったとしても、オスカーの無体な行為でそれはもうチャラ、どころかおつりをもらってもいいくらいのことをされているのだから、自分を責める必要はないし、生徒会を辞める必要もないとアンジェリークに言ってやったことは、オリヴィエはわざと黙っていた。それにアンジェリークが最初こういう気持ちでいたのは真実だったから。
「そんな…彼女は何も悪くない!なのに!」
「そう、私だってそう思うよ、彼女は謝りたいって言っていたけど、謝るのは彼女じゃなくあんたの方だと思うしね。で、あんた自身もそう思うんなら、もうちょっと自分の心の奥底から目を逸らさずに考えてみな?口先だけで謝るのでなく、安易に楽に走るのでもなく…自分の気持ちを…その真実を見据えるってことは一番勇気のいる、一番怖い事だけどね、自分が本当に悪いと思うならそれくらいのことはしてみな?なぜ、そこまで無茶な真似をして無理矢理あの子を遠ざけようとしたのか、罰を受けると思うことで楽に流れようとしたのか…」
「楽になろうとなんてしてない!俺は…俺は!もう2度と彼女と接しないと覚悟したんだ!彼女の笑顔を諦めたんだ、それがどうして楽なことだって言うんだ!」
「ふん、つまり、アンタはあの子の笑みを諦める事が辛いっていうんだね?それが受ける罰であり償いのつもりなんだね?でも、それが何故償いになるんだい?その理由を自分でわかっているのかい?」
「………」
「ほんとはわかってるんだろ、アンタも…なのに、自分に素直じゃないもんだから、無理矢理それを否定しようとして、その挙句あんな馬鹿な真似をして…」
「俺は…俺は…彼女に…俺の住む世界のことなど知らせたくなかったんだ…」
「ああ、だけど、本当はどこかでそれを望む気持ちもあった、違うのかい?それを怖れたからこそ、アンタは力づくであの子を排除しようとした。あの子が自分に近づいてこないように思いきり怖がらせようとした。でも、その結果、あの子も泣いて、アンタも不幸で…誰にとってこれはいいことなんだい?」
「彼女はそんな世界を知らないほうが幸せだ!」
「あの子を見縊るのもいい加減にしなよ、あの子の聡明さはアンタも嫌ってほど知ってるだろ?そんな子にどんな世界であれ『知らないほうがいい』なんて最初から扉を閉じちゃうなんて、アンタはあの子を馬鹿にしてるよ、あの子がその事実でアンタを見る目が変わると思っているのかい?」
「そうじゃない、俺は、俺は…」
「アンタが、何を求めて、何を怖れているのか、私にはわかる気がするよ…彼女を拒絶するにしても、何故あんな方法を選んだのかも…いい加減認めちゃいなよ…」
「何をだ?何を認めろって言うんだ!俺が彼女に惹かれていると。あの汚い世界にいると知っても俺を軽蔑しないでくれと請い願っていると。そして、可能ならばそんな俺を理解してくれと、俺の側にいて、俺を理解してくれることを望んでいると、そこまで俺に言わせたいのかっ!」
「やっぱりわかってんじゃん」
オスカーは大きく息を吐いて、肩を落とした。
「そうだ…俺は甘い期待を夢見たんだ、一瞬、彼女なら、俺の、この自分でも扱いかねている屈折した感情も受け入れてくれるんじゃないかと…好きですることじゃないが、放り出す事も目を瞑ることもよしとできない、でも、心から納得して行うことじゃないというこの堂々巡りな気持ちも丸ごと…受けとめてくれるんじゃないかと期待したんだ。俺の事を知りたいと言ってくれた彼女の気持ちに心が震えたんだ…だが俺にそんな権利があるのか?俺のこの未消化な感情に彼女を巻きこむ権利が…そして万が一彼女が俺を受容してくれたら…俺は絶対に彼女を欲してしまう!彼女を俺の住まう世界に引きずりこんでしまう!俺はきっと彼女を手放せない、でも、彼女に俺と一緒に汚い世界に住んでくれと願う権利が何処にあるっていうんだ!あの…どこまでも綺麗な心に俺のどろどろした感情など知らしめていい筈がない!…澄み切った清水に汚物を落とすような真似なぞ、ましてやそんな世界に一緒にいてほしいと願う事など…許されるはずもない…だから…俺はそんな身の程知らずな願いが形になってしまう前に、この気持ちに名前をつけてしまう前にどうにか蓋をしようとしたんだ…そのために…無理にでも彼女を遠ざけようとしたんだ…どんな手段をもってしても…もう、彼女が俺に近づく気なんて起こさないように…」
「それだけわかってるなら、今更手遅れだと思うよ、私は。」
「嫌なことを言うな…」
「図星って一番言われたくないことなんだよね。」
「ほんとに嫌なヤツだな、おまえ…」
「それに、アンタはやっぱりあの子を馬鹿にしてるよ、アンタが自分で責任もてるのは自分の感情まで。あの子がアンタの言葉をどう感じるか、そしてどう判断しどう振舞うかはあの子が決めることだよ、アンタが勝手に決めていいことじゃない。何を知らせていいとか悪いとか、何が幸せで何が不幸かとか…なんでアンタが勝手に決めつけられる訳?アンタはあの子の保護者じゃないんだよ?彼女の幸福は彼女の望む所にある、彼女はそれを自分で見出し、決断する力があると私は思ってる。だけど、アンタは自分勝手な物差しで彼女の幸せを計ろうとする…これは彼女を信じてないってことじゃないのかい?」
「だが!誰がみてもいいことと、悪い事はある!俺は彼女をそんな世界に関わらせたくない!」
「あの子が泣いても?あの子を泣かせることと、アンタの言う悪い世界を知らしめることと、そのことで彼女の判断を仰ぐ事、どっちがより罪深いことかね?何も教えてもらえず訳もわからず勝手な判断で一方的に無体な行為で拒絶されて、結果一人で泣くこととの方が彼女は幸せだって、アンタ、言いきれるのかい?」
「確かに俺のやり方は最低だった…それは認める…しかし、俺に拒否されても泣くことなんてないじゃないか…それは一時の感情だ…俺に拒否されても、優しいほかの男の手がいくらでも彼女にはさしのべられる、俺のことなどすぐ忘れる…」
「あの子が誰の手を望んでいるのか、それすらわからないのかい、アンタは…」
「!」
「あの子はね、アンタにキスされて何が哀しかったかって言うとね、アンタが自分を好きでもないのに、キスしたと思うから哀しいんだって言うんだよ、それ、どう言う意味かあの子まだ自分でわかってないんだ、わらっちゃったよ、私は…」
「それは…それは……」
「あの子は気付いてないだけ…自分のことより、周りの事のほうがよく見える子だからね。でも、何かの切っ掛けがあればきっとすぐに気付くよ、もともと素直だし…アンタみたいに自分に嘘ついたり、自分の気持ちを大義名分で誤魔化そうとしたりしないからね」
「言いにくいことを言ってくれる…」
「ね、図星って耳に痛いだろ?でも図星をついてくれる人間は貴重なんだからね!いいかい、私は自分からは何も言わないよ。この現状を打開したかったら、アンタも男なんだから、自分の頭で考えて、自分の足で動きな?それでダメな時は…なにせ、あんたはどうしようもない行為であの子を傷つけたんだから、あの子の気持ちも今はどうなってるかわからないしね…その時あの子は私か…そうでなければ他の誰かか…候補者はいくらだっているからね、あの子が許してくれたヤツが慰めることにするよ。」
「ああ…すまん…」
「礼を言うには及ばないよ。あんたが振られても、あんたを慰めてやる気はないからね、私は。でも、すこしはあの子を見習って素直になるのは、いいことだよ…っていうか、そうでないと何も始らないよ?」
あんたのそばには…確かにあの子がいたほうが…あんたの精神の平衡保つのによさそうな気がするよ…と思ったことは口に出さなかった。
「ああ…努力してみる…」
「もうこんな時間だし、今日はもう誰もこないだろ?そろそろ私たちも引き上げないかい?」
「ああ、そうだな…」
こんな時自分たちがもう少し大人なら…せめて制服じゃなければ、一杯飲みにいったりするのかもな、とお互い感じながら、2人は帰路についた。
フェスタの初日まであと2日と迫った。
「はああ〜」
アンジェリークはその日の放課後、カフェテリアで一人アイスミルクを前に溜息をついていた。
スモルニィの高等部には定食中心の学生食堂と、軽食と飲み物やデザート類をメインに出すカフェテリアと2つの飲食施設がある。放課後は当然の如くカフェテリアの方が人気で、学生同士がよく待ち合わせに使っている。
そしてアンジェリークも、やはりオリヴィエが迎えに来るのをまっているところだった。
今日はオリヴィエとファッションショーの行われるホールに直接行ってステージへの出方や立ち位置、袖へ引っ込むタイミングなどを確認することになっている。オリヴィエはヘアアクセと化粧品準備をしてから迎えに来るからちょっと遅くなるとも言われていた。
生徒会室には行かない方がいいとオリヴィエにいわれている。ジュリアスには上手く言っておくからとも。確かにショーの打ち合わせに時間を取られているのは事実だし、それ以上にアンジェリークも顔は出しずらい。でも、やっぱり気になるものは気になる。大まかな所はすでに全て決定済みなので自分がいなくても支障はないとは思うが、フェスタの進行状況はどうなっているかも気になるし…会いづらくても、それでもやはり、オスカーがどうしているのか、気になって仕方ないのだった。
自分はオスカーが今、どうしているのか、何を思っているのか、気になって仕方ない。だがオスカーは自分のことなど思い出したくもないかもしれない。自分が生徒会室に行かなくて済々してるだろうか…煩く詮索する人間が来なくなって…そんなことをちらりと想像してしまい、落ちこんでテーブルに突っ伏した。このままテーブルに顔を埋めてあげたくないと思うほどに…でも、そんなことをして顔に痕でもつけたら、またオリヴィエ先輩に『自覚がない』って怒られちゃう!と思いいたり、慌てて顔を上げようとしたら、ぽんぽんと誰かに肩を叩かれた。
「アンジェ…」
「あれ?ソフィア、どうしたの?」
クラスメートのソフィアが、何かいいたげな様子でアンジェリークの横に立っていた。
「あ、うん、今日はアンジェは生徒会室に行かないの?」
「え?ええ…オリヴィエ先輩とショーのモデルの打ち合わせがあるから、そっちに専念することになったの。配置図とかプログラムはもう全部できてて、とりあえず仕事は済んでるから…ね、座ったら?」
「あ…うん、あのさ、ちょっと席変えていい?もっと静かなとこに…」
「?…いいけど?」
ソフィアはなんとなく居心地悪げな様子で、周囲から見えにくい観葉樹のかげにあるテーブルにアンジェリークを誘い、隣に腰掛けた。アンジェリークがいぶかしげに首を傾げて話を促すと、ソフィアは小さく嘆息してから、おずおずと話始めた。
「そっか…アンジェ、生徒会室に行ってないんだ……じゃさ、あの、手紙のことなんて知らないよ…ね?」
「あ!」
言われて記憶が蘇った。そういえばあの日、生徒会室のドアに鋏まれていた数通の手紙、その中にクラスメイトの名前をアンジェリークは見つけなかったか?
「えっと…あの…手紙は…その、オスカー先輩に届いてるとは思う…その…私、その日はいたから…」
その場で開けて読んだりしないのは当然だとは思ったが、オスカーの無関心ぶりみたいなものを感じていたアンジェリークは、オスカーがちゃんと手紙を読んだのかどうかの確信はないから、勢い返答の歯切れは悪くなった。
「あのさ…こんなこと聞いていいのかわからないけど…返事が来ないの?」
「あ、ううん、もともと返事は期待してなかったし、手渡ってないんなら、それはそれでいいやって言うか…その方がよかったかな…なんて思ってアンジェに聞いてみたかったんだ…」
「え?なんで?だって…手紙って…ラブレターだったんでしょ?」
「うーん、ラブレターって言うよりファンレターだし。ファンレターにはいちいち返事なんて書いてられないだろうし、私もね…その後夜祭のダンスでできたら踊ってほしいくらいの気持ちだったし…それに、実はね、オスカー先輩に手紙書いたっていうのをちらっと親に言っちゃったら、その…すっごく注意されちゃったの…」
「それは…オスカー先輩がプレイボーイって評判だから心配なさって?ご両親までそんな噂をご存知なの?」
「そんなんじゃないわよ…」
クラスメイトが周囲に憚る様に声を落した。
「オスカー先輩のご実家のことでよ…」
アンジェリークは心臓が止まるかと思った。オスカーが言いにくそうだったその事を何故クラスメイトは知っているのか?自分がこの場で聞いていい事なのかとは思った。が、聞かずにはいられなかった。級友以上に声を落して顔を突き合わせる様にして尋ねた。
「え?あの…オスカー先輩のご実家って何なさってるの?大きな会社だってことしか知らないんだけど…その…何が問題なの?」
「え?あなた、生徒会にいて知らなかったの?でも、アンジェが知らないなら私も知らなくて当然よね…その…私はね、その会社の名前だけは知ってたの。でも重工業っていうのが、具体的にどんなものなのかよくわからなかったのよ…Heavy Industryってさ、なんていうか、何をしてるかちょっと曖昧じゃない?具体的に何作ってるのかよくわかんないって言うか…重工業なんだから、何か重くて大きいものを作ってるんだろうなってことくらいしか考えてなかったの…オスカー先輩はそんな大きな会社の社長の息子で学校を卒業したら経営に携わって、そのままきっと跡取で社長になって、かっこいいな…もし、恋人になれたら素敵だな、そのまま結婚できたら、大企業の社長夫人だなんて素敵だな…なんて軽い気持ちで憧れてたの…」
それすら知らなかったアンジェリークは黙って級友の話を聞く。重工業…オスカー先輩のご実家は工業製品を作る会社だったの?でも、重工業って名前自体はよく聞くけれど、そういえば具体的には一体何を作る工業が重工業なんだろう…鉄鋼とか造船とか何かだろうか…とアンジェリークも思った。級友の話に気をとられていたアンジェリークは、この時、以前オスカーが自称していた『武器屋の息子』という言葉を失念していた。
「たまたま…フェスタの話題が家で出て、家族が学校に見にくるとか言うから、私は、日曜日の夜は後夜祭ダンスがあるから遅くなるって親に言ったの。そしたら誰と踊るんだ?って聞かれたからパートナーは決ってないけど、オスカー・クラウゼウィッツ先輩ってステキな先輩と踊りたいって思って手紙を出したのって言ったら、パパが…父がいきなり『クラウゼウイッツ?アルテマ・ツーレ社のクラウゼウイッツ一族か!ソフィア!ダンスくらいならいいが、クラウゼウイッツとそれ以上の交際はするなよ!』って言出して…」
「ど、どうして?オスカー先輩がプレイボーイって噂で、あなたのことを心配したんじゃないんでしょ?」
「うん、私も…てっきりそれで心配してるんだと思って、オスカー先輩はプレイボーイだけど紳士って噂だし、私も憧れてるだけだし…って言ったら『ばか、その男がどうこうじゃなくて、あの一族と付合うってのが問題なんだ!』って言われて、私、『?何がいけないの?大きな会社を持ってるお金持ちで名家なんでしょ?あ、うちが釣り合わないから?そんな心配は早いわよー、恋人ってわけでもないのに…』って答えたら『恋人だなんてとんでもないぞ!あの家は確かに世界有数の財閥だが何で財を為したか知っているのか?』って…私は『重工業だから…鉄鋼とか船とか作ってるんじゃないの?』って言ったら『まったく!スモルニィに通っていながら、そんなことも知らなかったのか!』って怒られちゃって…」
「な、何なの?なんでなの?」
「その…オスカー先輩のご生家が経営してらっしゃるのは『アルテマ・ツーレ重工業』って言うんだけど…」
言い淀む級友の言葉をさらりと引きとる声がした。
「空母とか戦闘機とかミサイルとか戦車とか…小さなものなら銃火器とか爆雷とか…いわゆる「兵器」全般を作っている軍需産業複合体よ、アルテマ・ツーレ社は…」
「ロザリア!」
優美な仕草で青紫色の髪の少女は、2人の少女の向いの席に座った。
「噂話はもう少し声を落とした方がよくってよ。」
「やだ…聞こえてたの?」
「ロザリア…兵器?兵器って、軍隊が戦争とかで使う、その兵器?…」
その意味がアンジェリークの脳裏に染みこむまで数秒かかった。兵器っていうのは、闘うための道具で…軍隊が使うもの、戦争で使われるもの…物を壊したり、人を傷つけるために作られるもので…人を殺すことに使われることももちろんあるもので…
そこまで考えが至ってアンジェリークは思い出した。『武器屋の息子』…オスカーが自嘲するように自分を称していた言葉を。その言葉の意味がじわじわと重さを増してアンジェリークにのしかかる。アンジェリークは言葉を失った。
「あなたも…ソフィアも、クラウゼウイッツ家のこと知らなかったのね…まあ、使うか使わないかはともかく…自衛や示威行為のための武器もあるでしょうから…でも概ねね…」
「ロザリアは知って…たの?皆あたりまえに知ってることなの?」
「いえ、ソフィアみたいに知らない子は知らないと思うわ。宣伝しないから一般的な知名度は低いと思うし、声高に言うことでもないしね。でも、ある程度の家柄なら…各国に支店をもつような企業の経営者ならクラウゼウイッツが何を生業としてらっしゃるかは…知っているでしょうね…」
「その…ご生家が武器や兵器を作って売っている企業だと…どうしてお付き合いがだめ…なの?」
薄々はわかった。でも信じられなかった。そんなことで…アンジェリークにはそんなこととしか思えなかったからだ。
ソフィアが言いにくそうに後を引き取る。
「だって、アンジェ…武器商人や軍需産業は…こう言っちゃなんだけど今でも陰では『死の商人』って言われるてるのよ?いろいろな国の不幸や流血を当てにして、それで巨額の富を得ているんだって…世に戦争や不和があればあるほど儲かるアルテマ・ツーレは不和を苗床に、不幸を糧にして育つ汚い企業だって、父が…」
「で、でも、そんな、そんなの独断にすぎるわ!それに第一、オスカー先輩ご本人とは何の関係もないじゃない!」
「でも、そういう目や見方は今も1部の階層に厳然としてあるのよ、アンジェ。私たちがどう思うかじゃなくてね…それは事実なのよ…」
「それに、オスカー先輩は跡取でしょ?そして、そんな家と付合うのは、よっぽどお金に困っていてなりふり構わない家か、便宜を図ってもらって安く武器を大量に仕入れたい軍事国家くらいだって…父がね『おまえがその男に近づけば、おまえやウチが『よっぽど困窮している』か『金持ちならなんでもいい』と考えてるのかと思われるんだぞ。同じ資産規模ならホテル王とか世界展開してるアパレル大手とかいくらでも外聞のいい相手はいるんだから相手を選べ、領地の維持費も払えないのにプライドだけはいっぱしの貧乏王家とか、超過重債務で破産寸前の国家や軍事国家の元首なぞがダーティビジネスでも構わずクラウゼウィッツと懇意になろうとするんだ、下心ふんぷんでな。つまり、おまえや家がそういう目で見られるかもしれんということなんだぞ』って言われちゃって…」
「それで…ソフィア、それで…あなた納得したの?」
アンジェリークはそれだけ言うのがやっとだった。上手く思考が働かない。
「だって…ごめん…その、やっぱり引いちゃったんだ…口には出さなくても知ってる人はそんな風に見るんだって、きちんとお付き合いしたら私も一緒に見られるんだって思ったら…ただ、端できゃーきゃー言ってるだけならいいけど…ほんとにかっこいい人だけど…」
「馬鹿!ソフィアの馬鹿!本当にオスカー先輩が好きならそんなこと関係ないじゃない!お家のお仕事とか周囲の勝手な思いこみとか偏見とか!」
「アンジェ…あんたが何でそんなに怒るの…」
「だって…だって…悔しい…許せない…オスカー先輩のこと何もわかってないのに…オスカー先輩はとっても素敵な…優しくて立派な方なのに…なのに、そんなオスカー先輩の責任じゃないことで、勝手にレッテルを貼られて、勝手に断じられて、横目で見るように距離を置かれて…」
アンジェリークは、込み上げる激情が堪え切れず涙がぽろぽろ溢れてきた。泣かないって、オリヴィエと約束した。けど、これは…哀しい涙じゃないから今だけ許して、先輩と心の中で呟きながら…押さえ切れない憤りでも、涙は出るのだとアンジェリークは初めて知った。
「あんたが泣くことないのよ、アンジェ…」
「だって…そんな、酷い!そんなのオスカー先輩の人となりに何の関係もない!何の責任もないことじゃないの!お家が何をしてるかとか、その仕事が汚いとか…産まれるお家は選べないのに、そんな勝手なことを言って…そりゃ、武器や兵器は怖いものだけど…使わないに越した事はないけど…だからってその仕事が汚いとか、それに、あんなに優しくて責任感が強いオスカー先輩が…お家のお仕事の意味をわかってらっしゃらない訳ないのに!…っ!」
アンジェリークは自分で言って、はっと気付いた。
オスカーは『できる』人だった。怜悧といえるほど聡明で思考に無駄はなく決断は早く、しかも的確だった。こんな優秀な人が自分の家業のもつ意味を、作って売ったものがどんな目的で使われるのかを、使われた結果がどうなるのかを…その背後や背景にあるもの、背負ったものの重さをわからないはずがない。そして、表ざたにはならない周囲の評価にも…気付かない筈はない…
「…そうよ…わかってらっしゃらないわけない…全部わかってて…だから…私に…」
そうだ、オスカーは何と言っていた?
『自分を知らないから買い被る』のだと。
オスカーの言う『自分』とはオスカー本人の人となりのことだけではなかったのではないだろうか?自分の生まれ育った成育環境…いわゆる背後にある「ルーツ」を含め『自分』と言っていたのだ。それは確かに人の根幹に関わっており、無視はできても、根本的な意味で切ったり捨てたりできない結びつきだから…でも、それを知ってしまった人間は概ねオスカーへの態度を変えたのだろうか。オスカーを見る目や付合い方を変えるのだろうか?だから…だから自分がオスカーを買い被っているなんて言ったのだろうか?自分がオスカーの生家の事を知ったら、態度を変えるとでも思ったのだろうか…
『そんなことない…オスカー先輩、そんなことないのに…』
そう思うと、哀しかったし、僅かだが腹立たしさも感じた。私はそんなことで、オスカー先輩への態度を変えたりはしないのにと…きゅうきゅう胸が閉めつけられるようだった。実際、オスカーへ距離を置くような気持ちは微塵も生じていなかった。
だが、それ以上にアンジェリークは、オスカーが周囲からそんな無言の視線を受け、評価を受け、距離を置かれ、ある種の侮蔑を受けて成育したのかということに激しい衝撃を受けていた。そして、アンジェリークがショックを受けたのはその事実そのものの重さより、それをオスカーが今までどう受けとめていたかを考えたからだった。そんな周囲の無言の評価をオスカーが悟らない筈がない。いったいどんな思いでそんな視線を受けてきたのかを、そのオスカーの越し方を想像して、その衝撃に倒れそうになった。本来自分の責任ではないことで偏見と独断に満ちたレッテルを貼られ、そのレッテルの訳を…レッテルにはそれ相応の訳があることを、自分の生家が商ったもので血を流し亡くなった人がいるかもしれない(いや、確実にいるだろう)ことをある日知り、その利益で自分が何不自由なく生育したのだと痛感したら、一体自分はそのことをどう感じるのだろうか、と思うと、その心境はアンジェリークの想像を遥かに絶した。別の意味でまた涙が零れそうになった。
私なんかに想像もつかない、わかった気になることもおこがましい、そんな葛藤をオスカー先輩は抱え続けてきたのかもしれない…
その分、オスカーが言いたくないこと、問われても答えたくないこと、苦しくて答えられないこと、それを重ねて問うてしまった自分の惨さ、考えのなさは更にひしひしと身に沁みた。
私は何もわかっていなかった。何も考えてなかった。そんな相手に…何も知らない相手に自分が辛いと思ってる事情を平然と告げられる訳がない。私はなんと惨いことをしてしまったのか…無知は決して言い訳にはならない…
オリヴィエも言っていたではないか、自分はオスカーのナーバスな部分を突いてしまったのだと…
…それだけオスカーは、自分の背負っているものの重さを実感しているのだ。わかっているから苦しいのだ。だから、問われても言えない、問われること自体が苦しい、だから私と距離を置こうとした…?
ううん、それだけじゃない。それなら、私に「もう何も聞くな!」って怒るほうが簡単だわ。何故、私の存在そのものを遠ざけるような…私がもう近寄らないような事をわざとしたの?あの優しいオスカー先輩が…
私、「俺がどんな男かわかったろう?」って言われても全然わからなかった。オスカー先輩が私の存在を側にいることが許せないから拒否されたのかと最初は思った。でも…オスカー先輩は優しい方…人の思いを尊重する事、その立場を慮ることが呼吸するように自然にできる方だった。そして責任感が篤くて男らしくて…だから、無警戒にすぎる私を諌めるために身をもってわかるよう警告してくれたんだと思ってた。心のこもってないキスは…哀しかったし嫌だった…でも、そういう意味の警告なんだと思ってた。でも、それだけじゃなかったのかもしれない…
私が…私が側にいたら…そんな目で見られるって…何も知らない人が勝手にオスカー先輩にレッテルを貼るように自分に近づくと私も同じように見られてしまうぞって…それを…そんな警告の意味もあったのかもしれない…
ううん、私にだけじゃないのかもしれない…
いつも…オスカー先輩は人に本気で相対してない気がしてた。私が誰にでも投げかけられるセリフや洗練された態度を却って寂しくもどかしく感じたのは何故?オスカー先輩に近づこうとするとそれと気付かせずに綺麗にかわされてるような気がしたから…結局は誰も寄せつけないような態度だと感じたからじゃないの?それが嫌だったから、私は『自分への』言葉や態度に拘ったんじゃないの?
でも、それは何故?
何故オスカー先輩は人を寄せ付けない様に、砦を作ってらしたの?
単純に他人を拒むため?
実際にそういう評価を受けて、傷ついてきたってこともあるとは思うけど…僅かに本音を覗かせるのは、事情を知ってもきっと態度を変えなかったジュリアス先輩やオリヴィエ先輩だけなんだろうっていうのもわかるけど…
きっとそれだけじゃない…自分に関わると…深く付合うと、自分と同じレッテルを張られるぞって、その辛さ苦しさがわかるから、なるべく人をよせつけないようにしてたのかもしれない…
優しい人だから…辛い思いをしてきたから、人の辛さもわかる人だから…
そんな優しい人なのに…ううん、優しい人だからこそ、ずっと一人でいらしたんだわ…寂しくても哀しくてもきっと一人で背負っていらしたんだわ…そしてきっとこれからも…
そう思うと、また涙がどっと溢れてきた。
本気で怒って…泣きながら怒っているアンジェリークに、ロザリアとソフィアが2人してとりなしにかかる。
「アンジェ…あなた、どうしたの?変よ…この前から…」
「その…私が本気でオスカー先輩を好きって訳じゃないのはオスカー先輩には悪かったと思うけど…あなたが怒ったり泣かなくてもいいじゃない、アンジェ…」
「…ねえ、その人のことが気になって、自分のことじゃないのに自分のこと以上に怒ったり泣けたりするのって変かな?…」
私が泣いたり怒ったりすることではないのだ、本来なら。なのに泣ける。とても平静ではいられない。自分が同じように扱われる事よりきっとずっと耐え難い。これは…この気持ちは…
「…あなた、それ…それってどういう意味かわかってるの?」
ロザリアが信じられないという顔でアンジェリークを見た。
アンジェリークはこっくりと頷いた。
「…ん、わかった…ようやくわかった気がするの…」
そう、やっとわかった。わかったと思う。気がつけばオスカーの事を思っていた。かなしそうなオスカーを見るのが辛かった。何か自分にできることはないかともどかしくてたまらなかった。オスカーが苦しかったろうと思うと、自分の事以上に泣ける、オスカーが嬉しいと思えばきっと自分のこと以上に嬉しく感じることだろう。それは何故なのか。オスカーに自分を…自分自身を見てもらいたいと、自分への言葉が欲しいと思ったその訳も。オスカーの事をもっと知りたいと思ったその訳も。そして、気持ちの伴わないキスがあれほど哀しかったその訳も…あのキスには愛情がないと思ったから哀しかった、それなら、もし気持ちのこもったキスだったら、私はどう感じたと思うの?拒否のためのキスじゃなかったら、どう感じていたと思うの?それは…それはつまり…
オリヴィエに「考えてご覧?」って言われたことがわかった。オリヴィエが何故自分にそのことを考えさせたのかもわかった気がした。
自分にはわからなかった自分の気持ちがオリヴィエにはわかっていたのかと思うと恥ずかしかったが、それを口にしないで、自分自身に気付かせてくれようとしたオリヴィエの気持ちがまた嬉しかった。
「あなた、さっきのソフィアの言った事聞いてたのよね?わかってて…それでもなおかつ…なのね?」
「聞いたから…それがわかったから尚更なのよ、それを聞いたから、自分の気持ちもはっきりわかったのよ、ロザリア…」
「そう、それなら私は何も言わないけど…どっちにしろ、あんたの一方通行かもしれないしね…」
「うん、そうだよね…でも、自分でわかっただけ私には進歩なの。わからないから、どこにもすすめなかったんだもの、今まで…」
「そう、なら、やれるだけやってみなさい、自分の納得のいくようにね…」
「うん、どうしたらいいか、考えてみる…あ、いけない…泣いてたのがばれたらオリヴィエ先輩に怒られちゃう…」
アンジェリークは、ぐいと手の甲で涙を拭おうとしたので、ロザリアが慌てて止めた
「んも、何やってるの!そんなにこすったらほっぺが真っ赤になっちゃうでしょ!ほら…」
ロザリアがこすらない様にスイスレースのハンカチでそっと水滴をぬぐってくれた。
「あ、ありがと。またモデルの自覚がないって、叱られちゃう所だったわ。」
「オリヴィエ先輩の苦労が目にみえるようだわ。今ごろ後悔なさってるんじゃないかしら?」
「やーん、それを言わないで!そんなことにならないようがんばるからー!」
「それは私じゃなくて、オリヴィエ先輩におっしゃったら?ほら、あなたを探してるんじゃなくて?」
「え?あ、オリヴィエ先輩、ここ、ここですー!」
カフェテリアの入り口できょろきょろしているオリヴィエをみつけアンジェリークが手をふった。
「アンジェ、こんな所にいたの?探しちゃったよー」
「ごめんなさい、先輩。友達とおしゃべりしてて…」
「オリヴィエ先輩、こんにちは」
ロザリアとソフィアが挨拶をすると、オリヴィエも手をあげた。
「は〜い、かわいこちゃんたち。悪いけど、アンジェを借りていってもいいかな?」
「せいぜい、しごいてやってくださいね、先輩。」
「じゃ、ごきげんよう、また明日ね、アンジェ。」
「うん、バイバイ、ロザリア、ソフィア!」
何か吹っ切れたような晴れ晴れとした顔でアンジェリークはカフェテリアから出て行った。
アンジェリークとオリヴィエの姿が見えなくなってから、ソフィアがロザリアに半信半疑の呈で尋ねた。
「あのさ、ロザリア…私、何が何だかよくわからなかったんだけど…まさか、アンジェってもしかして、もしかするの?」
「決ってるじゃない?今まで自分で気付かなかったっていうのがあの子らしいけど…でも、あんまり真剣だと却って自分では気付きにくいものなのかもしれないわね…」
「いいのかな…大丈夫かな、アンジェ…」
「あの子、わかってるわ。わかってて自分で決めたのよ。もう気持ちは決ったから…全力でいくでしょうね。そうしたら、どんな結果になれ、きっと…納得いくんだと思うわ…」
「そっか…ね、私たちはお茶でもしていかない?のど乾いちゃった」
「いいわね…」
2人の少女は甘い飲み物を注文して改めて席についた。
「アンジェ、なんか、すっごくいい顔してたよね…」
「まだ何も決まってないし始ってないのにね…」
「なんかさ…私なんかと全然違うんだよね、多分『好き』の性質が…純粋に応援したくなっちゃうんだ…」
「ん…苦労しそうなのがわかるのにね…」
2人は去っていった少女に心の中で密かなエールを送っていた。