どんな女性とも、本気で関わらないようにしてきた。あまったるいセリフと気障な仕草で自分を覆うことで、それと気付かせないよう撥ね退けてきた。最上の気分を味合わせながら、それ以上の侵入を拒んできたんだ。なのに…彼女にはそれが通用しなかった。俺の提供する甘く口当たりのいい…しかし、実のない態度には何の反応もない。強いて言えば困ったように微笑むことがあるだけ。
彼女が鈍感だとか、俺に興味がないから反応がないのではない。俺がたまさか垣間見せてしまった本音には、恐ろしいほどに聡く響くように反応が返ってきたからだ。彼女が無反応なのは、言おうが言うまいがどうでもいいセリフ…単にその時気分のよくなるセリフを言った時だけだった。
俺はそんな反応を見たいがために、女性に対してジェリービーンズのような態度を取っているわけじゃない。
カラフルで甘くて見た目に楽しい。口当たりは良いが、実にならない、後に何も残らない。が、そんなことには気付かせず、暫時満足させる術には自信があった。
なのに、彼女は俺の見せかけの饗応に反応しない。俺は戸惑った。俺の芸術の域にまで達した幻惑術が通用しないのだから。
本当なら面白くないはずだった。苛ついても良い筈だった。
なのに、それがどうしてだか心地良かった。
自分を演出しないでいい、自分の思った事を言える。対する彼女も俺に気に入られるために媚びた返答などしないと信じられるから、その態度はすがすがしくさっぱりと気持ちがいい。
それでいて他人の感情への配慮は深く、勘は鋭く、決して無神経にはならない。
澄んだ明るい美しい心映えは、そのまま彼女の表情に、容姿に、何よりその飾らない笑顔に端的に如実に現れていた。
彼女の心はいつも1点の曇りもなく澄んでいた。いつも他人に真っ直ぐ向き合おうとしていた。
彼女の心には他人の美点しか映らないようだった。彼女の前にいると、彼女に微笑みかけてもらえると、自分にも美しい部分がいくらかはあるのだと認めてもらえるようで嬉しかった。
周囲の人間が何故彼女を微笑ませたがるのか、己にその笑みを向けさせたがったのか、今のオスカーには嫌というほどわかる。
その笑みを永遠に失ったのだと思うから、痛切にその貴重さを惜しんだ。だが、その気持ちを認めたくなかった。何も考えたくなかった。頭を空っぽにしたかった。何かに追いたてられるように、夜の巷でありとあらゆる遊蕩に耽った。夜が白み始めたのを見、くたくたになった自分の身体になぜか安堵して漸く帰路についた。倒れるように1人自室のベッドに沈みこみ、僅かばかりの休息を貪った。
1夜明けてその気持ちは薄れるかと思いきや、更に重苦しい鬱屈がオスカーの胸を塞いでいた。
「ひ…ひどい顔…」
自分の顔を鏡でみてアンジェリークは今日学校を休もうかどうしようかしばし真剣に悩んだ。
泣いているうち疲れてうつらうつらと眠りこみ、眠りを脅かす深い哀しみにはっと意識を取り戻す、そんなことを一晩中繰り返してしまった。その結果が浮腫んだ顔と腫れた瞼、目の下の隈と赤味の消えない瞳だった。
どうしてこんなに酷い顔なのか、誰かに聞かれたらどうしよう。それを思うと憂鬱で、だから登校したくなかった。重い溜息が際限なく零れ出る。
じゃあ、このまま自室に閉じこもっていたら、自分はどうするだろう。
きっと鬱々したまま、1日中際限もなく溜息ばかりついているに違いない。そして1日中溜息をついていたってこの重苦しい気持ちが晴れる訳はないことは、自分でもわかっていた。もし、今日一日閉じこもって溜息をついていたら、明日にはぱーっと今の鬱屈した気分が霧散しているという保証があるのなら、アンジェリークは喜んでそうしたと思う。しかし、いくらうじうじと1人で悩んでも、いや、うじうじすればするほどこの鬱屈の更なる深みにはまりそうな気がした。
それくらいなら気分を変えるためにも登校した方がいいと思った。少なくとも授業中は気を逸らすことができるだろうし、そうしているうちに気分も少しは変わるかもしれない。
「いけない!もうこんな時間!」
アンジェリークはシャワーをざっと浴び身支度を整えた。急いでリボンを結びかばんを引っつかんで靴を履く。食堂で朝食を取る暇もなさそうだったが、食欲は微塵も回復していなかったので、それを惜しいとも思わなかった。
もしかしたら自分が気にするほど、周囲は自分の様子など気にかけないかもしれない、それに期待して、アンジェリークは寮の自室を出た。
「おはよう…」
教室に入ると、なんとなく、こそこそした気分で自分の机に向かった。酷い顔をしているという自覚があるので堂々と顔をあげられない。
しかし、そのおどおどしたような全体の印象が却ってアンジェリークの常とは異なった様子を際立たせてしまった。本当に隠したいことがあるなら、敢えて「私はいつも通りよ」と虚勢でもいいから堂々と振舞って周囲の疑問をはね返す位の方がいいのだなんてことまで訳知りなほどアンジェリークは処世術に長けてはいなかったし、高校1年生の少女にそこまで求めるのは酷というものであった。
「おはよう、アンジェ…って、あら、あなた、その顔は一体どうなさったの?」
ロザリアが朝の挨拶に答えてくれて、しかし、やっぱり間髪いれずに気付かれた。もし、あからさまに私が変だと思っても、クラスメイトがそっとしておいてくれないだろうか…とアンジェリークは祈っていたのだが、やっぱりそう上手くはいかないか…と思い知った。
「顔?私の顔が何?」
我ながらなんてへたくそな誤魔化し方なのー?と思ったもののアンジェリークは、とぼける以外どうしたらいいのかわからない。
「何じゃありませんわ、顔は浮腫んで、瞼は腫れて、隈までできてて…見られたものじゃなくってよ。」
「そ、そっかな…」
「そっかな…って、あなた鏡を見てないの?」
「う…うん…ね、寝坊しちゃって…そんなに酷い?」
「酷い…」
「う…ロザリア、そんなにはっきり言わなくてもぉ…」
「だって、顔色も良くないし、具合でも悪いんじゃないかと思って…気分は平気?」
「あ、うん、平気、なんでもないわ、大丈夫…」
「大丈夫って顔には見えなくってよ?…」
「ほんとに大丈夫、なんともないのよ…」
どうにも納得しかねてる様子のロザリアに、アンジェリークは自分でも説得力がないと思いながら、大丈夫と繰り返すしか術がない。
「あ、私、ちょっとお水飲んでくるね」
「あ、アンジェ、ちょっと…」
自分でも『我ながらひどすぎ!不自然にもほどがあるわ、きっとロザリアも変に思ってる…』と思いながら、何も聞こえなかった振りをしてアンジェリークは逃げ出すように教室を1度出た…違う、実際逃げたのだ、ロザリアから。始業のベルが鳴るまで教室には戻らないつもりで。
だって、腫れた瞼の訳は言えない、言いたくない。昨日ずっと泣いたからなんて言ったら『何があったの?』と更に聞かれるだろうし、その訳だって言えるわけがない。絶対誤魔化してしまうと思う。ロザリアに心配かけたくないし、本当の事を言うのは…オスカーから手酷い拒絶を受けたと自分の口から言うのは辛すぎて…
何かあったんだと察しても、それに触れないでそっとしておいてくれる方が気が楽ということがあるんだわ…自分から言うのも辛いし、聞かれても答えを誤魔化さざるを得ないのも苦しいから…それが嫌で逃げちゃいたいから学校を休もうかなんてさっきも考えたりしたんだわ、私…今もこれ以上ロザリアをごまかすのが苦しくて逃げ出しちゃったし…ロザリアが変に思うかもしれないってわかっても、どうにも我慢できなくて…
そんなことを考えながら心の中で嘆息をついた時、アンジェリークの脳裏に何かよぎったものがあった。ほんとの訳を言うのは辛いから誤魔化してしまう…誤魔化さなくちゃいけないと思うと苦しいから、できれば何も聞かずにそっとしておいて欲しい…そっとしておいてもらえそうもないなら、私は誤魔化しながらなんとかその場から逃げだそうとする…本当の事を言うのも辛いし、自分を心配してくれてる人に嘘をつきつづけるのも辛くて…
待って…
これって見知った状況と何か重なっていないだろうか…
…その立場が違う…っていうか、全く逆みたいだけど…なんていうか…似ているような感じがするのは気のせい?
アンジェリークは呆然と廊下に立ち竦んだ。
この気持ちってまさか…もしかして、もしかしたら…
確信はないけど…でも、もしかしたら…
まさか…まさかとは思うんだけど…
でも、考えてみて…
私の様子が変だと、ロザリアが気付いた…『どうしたの?』って聞いてくる…何でもないって私は誤魔化した…だって、ほんとの事は言うのが辛いから…でも、ロザリアは何でもないって言っても納得しない、だって実際私は酷い顔なのだから…だから、『そんなことないでしょう?』って重ねて問うてきた…ロザリアは優しいから、私を心配して聞いてるのはわかるの…それでも私は誤魔化すしかない、自分でも下手ないい訳だわって思ったけども、上手いいい訳も思いつかなかったら、何でもないって馬鹿みたいに繰り返すしかなかった…心配してくれてるロザリアに申し訳ないと思いながら、それでも本当の事は言えない、言いたくないから。そしてロザリアが心配してくれてるのがわかっているのに誤魔化さずにはいられない自分が嫌で苦しくて、その場から逃げ出しちゃった…ロザリアとその場だけでも距離を置きたくて…ロザリアにごめんって心の中で言いながら…何度もごめんって言いながら…ロザリアが心配してくれてるのにきちんと答えられなくて申し訳くて、ロザリアの厚意を無にしてしまったことが申し訳なくて…でも、どうしたって打明けたくない事を重ねて問われるのも辛くて、居たたまれなくて…
これって…何だか…この状況って…なんだか、似てない?
だって、私は今逃げてきたから、ロザリアはそれ以上追求しないでくれたけど、もし、あのままその場でロザリアに食い下がられたら私、どうしていただろう…申し訳ないと思いながらも、私のことは放っておいてって、冷たく言い放ってしまっていたかもしれない…
これ…昨日の私が反転したみたいな気がするのは…考え過ぎ?
立場が全く逆だけど…でも…
昨日の生徒会室でのオスカーの言葉、オスカーの態度が、雪崩をうったように記憶に蘇る。
オスカーの言葉に対して自分が感じたとてつもない違和感、愚直なまでに繰り返された納得のいかない言葉はまるでテープレコーダーのように、判で押したように同じ言葉だった…その言葉に納得がいかないから更に食い下がった私に対して突然下された制裁のようなあの行為…
それって、もしかして…まさか…今の私と同じ?
自分からは言いたくない事を問われてそれが嫌で、答えられないから誤魔化して、打明けられない事を重ねて問われるのが辛くて、心配してくれてる人に嘘をついて誤魔化しつづける事も辛くなってしまって…
そして、私は逃げ出したけど…あの人は逃る替りに私に警告したの?…ううん、警告というよりは…これ以上何も聞かないでくれという気持ちで私をシャットアウトした?…なんて…まさか、そんなことがある…の?…ありうるの?
これはあくまで私がロザリアに対してそう感じたから、考えたことだけど…
他の人もそんな風に考えるってわけじゃない。人のものの考え方は人それぞれ違うから…私と同じように考えるとは限らないから決めつけることはできないけど…早計は禁物だけど…
だけど、もし、そうだったら?
オスカー先輩が、私にキスしたのは…自分にこれ以上近づくなというような拒絶のキスをしたのは、私がどうしても言いたくない事をしつこく問うてしまったからだとしたら…あれ以上問われる事に気持ちが耐え難くて、でも、その理由もいいたくなかったがために、ああいう行為で訴えるしかなかったのだとしたら…
ああ…私……どうしよう…なんてことをしてしまったんだろう…これから…一体どうしたらいいんだろう…!
アンジェリークは、脳天を殴られたようなショックを受けていた。悔恨に目が眩んで倒れそうになった。
自分が頑迷に拘って引こうとしないから、オスカーは仕方なくああいう行為に出たのかもしれない。
自分はとてつもなく辛い行為をオスカーに強いてしまったのかもしれない。
もし、そうなら謝らなくちゃ…立ち入ったことを聞いてオスカーが怒ったのかもしれないと思ったから昨日は謝った、でも、それならその謝罪はとんでもなく的外れだったはずだ。
だって、私はロザリアが心配してくれたことに対して、全然、怒ったり、不愉快になったりなんてしてない、むしろ、心配してくれるロザリアの気持ちがありがたかった。でも、本当の事は言いたくなくて、言うのが辛くて、誤魔化さずにはいられないから問われることが辛かっただけ。…それよりロザリアの優しい気持ちに嘘をつかなくちゃならない事が辛くて、自分が嫌で、逃げたくなって、でも、それでも本当の事はやっぱり辛くて言えなくて…ロザリアに心配かけると思うと余計に言えなくて…だから、これ以上何も聞かれたくなくて逃げ出した…でも、私、絶対怒ったりしてない、嫌だと思うのは強くあれない自分の気持のほうで、ロザリアに対して何も嫌な気持ちなんて起きてないわ…
そうだ、オスカーも言っていたではないか、オスカーは自分の言葉に不愉快でも怒っているのでもないって…そして、その言葉は確かにアンジェリークの胸にすっと染み通った。その後の言葉みたいに「何か違う」という違和感などなかった。だから…オスカーが怒っていなかった、というのはきっと真実なのだ。
なのに、私は…馬鹿だから…本当に聞いてはいけないことを…オスカー先輩が辛くて言うに言えない事をしつこく聞いてしまって、オスカー先輩はそれに答えたくないから誤魔化していたのなら…
私が納得しないで食い下がってしまったことで、依怙地になって引かなかったことで、オスカー先輩にすごく惨い、酷いことを…ものすごく辛い思いをさせてしまったのではないだろうか…
確信はないけど…証拠はないけど…そんな気がする…今の私と同じようにオスカー先輩は困ってしまって、それで…きっと…
オスカーの言葉を変だと思った、おかしいと思った、そこまではわかったのに、何故オスカー先輩がそんな風に振舞わざるを得ないか考えなかったのだろう!どうしてそこまで考えが及ばなかったのだろう!
しつこい私に辟易して、怒って私を遠ざけてくれたのなら、まだいい、その方がまだ堪えられる。
でも、わからずやの私を諦めさせるため、遠ざけるために、仕方なくオスカー先輩にあんな行為をさせてしまっていたのだとしたら?私が心の中で「ごめん」って言いながらロザリアから逃げ出したように…
ああ…どうしよう…どうしたらいいの?いくら謝っても追いつかない、ううん、それどころか、オスカー先輩にはもう謝罪の機会すら与えてもらえないかもしれない…
この考えだって私の憶測だけど…確信はないのだけど…
辟易して怒って私を遠ざけたのだと思いたい、昨晩はそれが辛くて仕方なかったけど、今は逆にそうであってほしい、でも、その可能性は低いような気がする…
オスカー先輩に謝りたい、でも謝らせてももらえないかもしれない、それだけの事をしてしまったかもしれない…
どうしよう…私、どうしたらいいんだろう…
「こら、リモージュ、始業ベルはとっくになっているぞ!」
「え?」
アンジェリークははっと我に返った。担任教師が出席簿片手に自分の前に立っていた。
「え?じゃない!何をぼーっとしてるんだね。早く教室に入りなさい!」
「は、はい!」
「文化祭が近いからって、そのことで頭が一杯で上の空じゃ困るぞ、文化祭が終われば期末テストも控えてるんだからな。」
「はい!」
アンジェリークは慌てて自分のクラスに戻った。
すぐにHRが始った。
席についてからもアンジェリークは先刻の考えで頭が一杯だった。とりあえずの気鬱からは脱したものの、どうしたらいいのかもっとわからなくなってしまった。
オスカー先輩に会いたい、会って謝りたい、でも、会ってももらえないかもしれない、私が生徒会室に行くのが嫌かもしれない、だって…私はロザリアの心配を不愉快に思ったりしてないけど、それは私の考え方であってオスカー先輩もそうとは限らない。ものすごく楽観的に考えたとして私が心配しておせっかいしたことには怒ってないかもしれないけど、私がわからずやだったことにオスカー先輩はやっぱり怒ってるかもしれないし…そうでなければ「俺を放っておいてくれ」って思ったとしても、あんなことまではしなかったんじゃないかとも思うし…ああ、どうしよう、どうするのがいいのか、全然わからない…
ずーっとそのことを考えていたせいで、授業は散々だった。
当てられても答えられないし、実験道具を落っことすし、移動教室は間違えるし、お昼の食券は同じものを2枚買ってしまうし…
ロザリアがますます、変な目で自分を見ている、何か言いたくて仕方ないのはよーくわかったが、それにもかまいつけていられなかった。
早く放課後になってほしいようなほしくないような、放課後になったとして自分の足は生徒会室に向かうのか向えないのか、それすら定かにならぬまま、判決の木槌の音のような終業チャイムが鳴った。
『どうしよう、どうしよう、どうしよう…』
心は堂々巡りのまま放課後になってしまった。
生徒会室に行きたい、でも、昨日あれほどきっぱりと「俺に関わるな」とオスカーから宣言されたも同然の自分が何も感じていないかのようにいけしゃあしゃあと生徒会室に顔を出したら、オスカーは一体どう思うだろう。自分のあまりの図々しさに驚き呆れて今度こそ本気で怒ってしまうかもしれない…でも、なんとか謝りたいし、生徒会室に行かないと書記の仕事ができない。文化祭目前で生徒会の仕事を投げ出すようなことは考えられない。だが、生徒会室にどうしても行けないなら書記を辞めるしかないかもしれない。だけど、いきなり自分が「書記を辞めます」なんて言ったら、他の執行部員にどれだけ迷惑がかかるかわからない。文化祭さえ終われば、後の大きな行事は年度末のパーティーだけだから文化祭が無事済めば辞めてもそれほど支障はないかもしれないが…
そう思った時、アンジェリークはとてつもない寂しさに見舞われた。
生徒会で執行部員の先輩たちと大きな行事を運営していくのは大変だけど、ほんとに楽しくやりがいがあった。
『辞めたくない…』
責任とか迷惑がかかるという気持ち以上にアンジェリークは、自分が生徒会の仕事を好きで楽しんでやっていたのだと、今痛切に思い知った。
でも…あれだけきっぱり言われて、それでも生徒会に居座ったら…自分はオスカーに完璧に徹底的に嫌われるだろう…ちらっとそう想像しただけでも息が止まるかと思うほど胸が痛んだ。
だけど、いきなり辞めるなんて言ったら、絶対周りから理由を聞かれるだろうし、オスカー先輩のことを言う訳にはいかない…私が悪いのに、オスカー先輩のせいで辞めるなんて思われたら先輩に迷惑がかかってしまうし…でもそれらしい理由も言えずに辞めるなんて納得してもらえるとは思えないし…ううん、いっそのこと無責任に「仕事が大変でついていけません」って理由で辞めるって言っちゃえばジュリアス先輩やクラヴィス先輩に呆れられて軽蔑されるだろうけど…オスカー先輩にはこれ以上迷惑をかけないで済むかもしれない…
生徒会に居残りオスカーに徹底的に嫌われるか、黙って生徒会を辞めてジュリアスやクラヴィスやオリヴィエにその無責任さを軽蔑されるか…あまりに辛い二者択一にアンジェリークはおいそれと答えが出せない。どちらも感情としては積極的に選びたくないのだからあたりまえだが。
どちらがより「しなくてはならないこと」かという基準でもあればまだ選ぶこともできるだろうか…
生徒会を辞めることは無責任でしかないし、生徒会に残ればオスカーの精神を逆撫でする。結果としてどちらがより周囲に迷惑をかけずにすむだろう?…突然生徒会を辞めれば周囲に迷惑がかかるのは明白だし、自分を推薦してくれたロザリアにも申し訳ない。生徒会に残る分には自分がオスカーに嫌われるだけだ。個人的な好悪の感情はこの際押えるべきかと思えば、やはり生徒会残留であろうか…でも、何事もなかったように自分は生徒会室にそのままいることができるだろうか、それは甚だ自信がない。
「はあああ〜」
自分がもっとオスカーの感情の機微に敏ければ、あんな愚かに振舞わなければ、こんな辛い選択をする羽目になど陥らずにすんだのに、と思うとどうしても詮ないため息が零れる。自分の愚かな行為が招いた結果であり、これは自分の責任なんだからと思い知っているから、どんなに辛い選択でも引きうけねばならないと覚悟はしているつもりなのだが…
掃除当番でもないから、いつまでも教室にもいられない。生徒会室に行くとはまだ決められないし、黙って寮に帰るのは論外だ。例え今日一日具合が悪いとか嘘をついて帰っても、いつまでもこの宙ぶらりんな状態でいられるわけもないのだ。いつかは結論を出さねばならないのだから…
「アーンジェ!」
「へ?あ、ジェーン、何?」
クラスメイトに肩を叩かれアンジェリークは我に返った。
「先輩が…オリヴィエ先輩があんたを呼びにいらしてるわよ。」
「え?オリヴィエ先輩が?」
みれば教室のドアのところでオリヴィエが手招きしてアンジェリークを呼んでいた。
「アンジェ、ドレスができたから、ちょっと合わせてみてほしいんだ。一緒に被服室に来てよ。」
「あ、はい!」
条件反射のように返事してがば!と立ち上がると、クラスメイト達が一斉に羨望の溜息をついた。
「いいなー、アンジェはオリヴィエ先輩のドレスが着られて…」
「うーんと綺麗にしてもらいなさいよー」
「ファッションショー、楽しみにしてるからねー」
「あ…うん、先輩のドレスの素敵さを損わないように私もがんばるね」
そうだ、今はとりあえず、やるべきことをやらなくちゃ…先輩のモデルはきっちりとやりとげなくちゃ。
そう思えたことで、少しだけ気持ちが切り替わった。今すぐ生徒会室に行かずにすんだことも救いとなった。
目ざといオリヴィエは1年生の教室で声をかけた時から、今日のアンジェリークがいつもと違うことにもちろん気付いてた。
時間が経ったおかげで朝ほど酷くはなかったのだが、それでもオリヴィエの目にはアンジェリークの顔が不健康に浮腫んでおり、瞼も腫れているように見えた。隈もしっかり残っていたので控え目に言っても酷く寝不足に見えたし…もしかして昨日何かあって泣いたのかな?とも察していた。
でも、アンジェリークが務めてなんでもない風に装うのなら、オリヴィエは自分からそれを指摘する気はなかった。普通に振舞おうとするということは、自分が常とは違うと指摘されたくない、気づかれたくないということだと思うからだ。だが、アンジェリークがこんなに顔を泣きはらしたということ自体が、オリヴィエには純粋にかわいそうで見ていられないと思う。この子がこんなになるまで泣くなんて、一体何があったんだろう?だから、それとなく、何か困ったこととか哀しい事はないかと、水を向けてみるつもりだった。
とりあえずは、できあがったドレスの試着をしてもらおう、試着の様子を見ながらさりげなく顔色の悪いことを話題にしてみようと思った。
「はい、アンジェ、これができたドレス、早速着て見てご覧?」
「はい、急いで着てきますね!」
アンジェリークはドレスを大事そうに抱えて被服控え室に姿を消した。
程なくしてアンジェリークがドレスを着替えて出てきた。
「あの…どうでしょう?着てみた分にはぴったりみたいなんですけど…」
「ふふん、じゃ、くるっと回ってみて?…うん、上出来!惜しげもなく仮縫い繰り返した甲斐があったわ!ほんとにぴったりにできたね!」
オリヴィエは満足そうにアンジェリークの立ち姿を見やる。
「靴は華奢なヒールにしようね、あんまり高くないヤツ…室内履きだといまいち雰囲気が出ないし…モデルがいいからドレスも良く見えるわ…あと、ヘアはやっぱりルーズにアップの方がいいかな…アンジェ、ちょっと髪を持ち上げてみてくれる?あんたの肩のラインは綺麗だか…ら…」
と言ったところで、オリヴィエは言葉を失った。自分の目を疑った。アンジェリークがオリヴィエに言われるままに髪を上に持ち上げた所、ドレスの襟ぐりのラインが腕の動きに合わせて若干動き、その拍子に彼女の肩口に紅色の瘢痕を見つけたからだ。
『あれ…あの痕…まさか…』
アンジェリークにそんな痕を残すような相手がいるとは寝耳に水だった。
自分はアンジェリークの私的な人間関係を全て知って居る訳ではないから、例えば校外に恋人がいたとしても不思議はないが、アンジェリークにそんな気配は数日前まで全くなかった。
もちろん、恋に時間なんて関係ないと言うし、最近自分は毎日速攻で帰宅していたから、この数日の間にアンジェリークに恋人ができたという可能性もないとは言えない。
例えそれをどれほど寂しく思っても、アンジェリークが幸せではちきれそうだというのなら、オリヴィエは何も言うつもりはない。しかし、アンジェリークのどう見ても泣きはらした顔が気になる。教室で呼び出した時も、彼女には珍しいどうにもどんよりと曇りきった様子を「おや?」と不可解に思っていた。幸せな恋愛の末についた刻印ならいいのだが、これをそのまま看過してもいいものとはオリヴィエには思えなかった。
「ねえ、アンジェ、ドレスのフィッティングに関しては問題ないけど…私、ちょっとあんたに言いたいことがあるんだ…聞いてくれる?」
「あ…はい…」
「モデルってさ、体調管理も仕事のウチって知ってる?もちろんアンタはプロのモデルじゃない。私も報酬を払う訳じゃない。でも、せっかく自分の力を注いで作ったドレスなら、綺麗に着て、綺麗に人に見てもらいたい…なんて思っちゃうわけ。」
アンジェリークがはっと顔をあげ、次いできゅうっと小さく縮こまったように見えた。
「ご、ごめんなさい、オリヴィエ先輩…私、今日、こんなに酷い顔で…フェスタの当日は絶対こんなことにならないようにしますから…ごめんなさい、ごめんなさい…」
「自分でわかってるんならいいんだ。言っておくけど責めてるんじゃないからね?毎日いつでもお日様気分でいるなんて誰にもできることじゃないからね。ただ、モデルには万全の体調でいて欲しいと思うし…それとね」
オリヴィエは一呼吸置いてから、不意をつくようにずばりとこう言った。
「メイクで隠すのが難しそうな痕は見える所につけないでくれって、あんたの彼に言っておいてくれる?」
「!!!」
アンジェリークが飛びあがらんばかりに戦慄いてばっと首筋に手をやった。一瞬今にも泣き出しそうに顔がくしゃっとゆがむ。
その表情に、オリヴィエはこの痕跡が決して幸せな状況で付いたものではないと確信した。もう見過ごす気もない。
アンジェリークが、とてつもなく苦しそうに、絞り出すように答えた。
「…それは…多分だいじょう…ぶ…です…もう、2度と…こんな痕をつけられることは…ないと思い…ますから…」
オリヴィエは綺麗に整えた眉をあからさまに顰めた。
「それは…ちょっと聞き捨てならないね…1度痕だけつけて終わりなんて、それ一体どういうこと?幸せな恋の結果としてついた痕じゃなさそうな気はしたけど…」
「え?あの…?」
オリヴィエの意図を図りかねて、アンジェリークがおどおどした様子でオリヴィエに視線を投げる。その様子にオリヴィエは1度天を仰いでから悪戯の告白をするようにこう言った。
「あーもー!言っちゃうけど、モデルの体調管理云々なんてのは、いい訳っていうか…こじつけ!」
「え?え?え?」
オリヴィエは意を決したようにつかつかとアンジェリークに近寄ると、瞳に真摯な憂慮を滲ませてアンジェリークの顔を覗き込んだ。
「あんたが…夜に瞼をはらしちゃうようなことがあるなんて、私には見過ごせないよ、ごめん、気付かない振りしてあげられないや。その首筋に付いた痕跡があんたの腫れた瞼の原因じゃないのかい?何か困ったことがあるなら私に話してみない?楽になるかもよ?」
「!………オリヴィエ先輩…あ…ありがとうございます…」
一瞬、息を飲み、アンジェリークは全部オリヴィエにぶちまけてしまおうかと逡巡した。どうしていいか何もかもに途方にくれていること、オスカーにどう振舞ったらいいのかわからないこと、自分は生徒会に残ってもいいのかということ、全てに答えを出してもらいたいと縋るような気持ちになった。
昨日から気力が弱っていたから、尚更優しい言葉が胸に染みた。
でも…何でも甘えて頼ったらダメ、自分で蒔いた種は自分で刈り取らなくちゃ…
「でも…自分がしたことは…自分で責任を取らなくちゃならないんです…私が馬鹿なことをしてしまった結果だから…これは…」
「…アンジェ、いいにくいことだとは思うけど、そういう痕はどうすればつくのか私にもわかるよ。しかも、あんたは決してそれを自ら望んだ状況でつけられてないね?そうだろ?その顔を見ればわかるよ。それが自分の責任だってどういうこと?」
「そ…それは…その…」
「…しかも、あんたは自分でこんなことは2度はないと思うって言ったね?決して喜ばしい状況でないことが、しかも1度きりってことは…私、今、かなり悲惨な状況を思い浮かべちゃいそうなんだけど…」
オリヴィエが痛ましいような瞳でアンジェリークを真剣に見据えた。
アンジェリークは逆に問い返すような瞳でオリヴィエを見上げ、オリヴィエの言葉の意味に漸く気付いて慌てて否定した。
「ち、違います!これ以上何もありません!何もされてません…だってこれは警告だか…っ!」
アンジェリークは慌てて口を噤んだ、しゃべり過ぎた。が、オリヴィエはアンジェリークの言葉を聞き漏らしたリはしなかった。
「そっか…私が思ったほど悲惨ではなくてよかったけど…でも、ますます、見過ごせないね…警告って何?あんた、誰かに何か脅されてるの?」
「いいえ、いいえ、違うんです、私が…私がもう関わらなければ…近づかなければ…大丈夫なんです、多分。…元々私が悪いんです…考えなしで、依怙地になって、困ってらっしゃるのに気付かなかった私が悪いんです…だから、あの方は仕方なく…」
「…あんたの言ってる事、全然わからないよ、私は……あんたはそんなに暗くて悲しそうな顔してる。その痕は…悪いけどはっきり言わせてもらうよ?無理矢理キスされてできた痕だろ?しかも、それは脅し?警告?それって何なのさ、一体。しかも、あんたはその相手…男だろう?を庇おうとしてる。何故なんだい?そんな目に合わされて、なぜそんなやつを庇おうとするんだい?」
「庇ってるんじゃありません、本当に私が悪いんです…多分こうせざるを得なかったんです…私が馬鹿だったからあの方はどうしようもなくて…」
苦しそうに俯くアンジェリークにオリヴィエは納得するわけもない。
「いいかい、アンジェ。百歩譲ってあんたが何か悪いことをしたとしてもだ、女の子に合意でなくキスマークをつけ、それをネタに脅すなんてことをする男は卑怯者の極みだよ!力で敵わないのがわかってるあんたに、自分の力を見せつけるようにキスして脅すなんて…」
「脅すっていうんじゃないんです!ただ、自分にこれ以上何も聞くな、関わるなって言いたかったんだと思うんです…それで、男性にその人の事を知りたいなんて言うのは迂闊だって、こう言う目に合っても仕方ないんだぞって警告されただけで…」
自分でそう言って、自分の言葉にはっと気付いた。
もしかして、オスカーは、あまりに無防備な私を窘める…男性に不用意に近づきすぎると、誤解されてこう言う目に合う事もあるのだと、本当に警告してくれた…そんな意味もあったのではないかと。
自分はオスカーに答えることのできない問いを重ねてぶつけたから、それにオスカーは困ったというのが主因なのは確かだと思うのだが…そんな無防備な私がいつか本当に怖い目に合わないよう警告してくれた部分もあったのではないかと、天啓のように閃いた。
「ますますわからないね…あんたは、そんなことをされた相手の事を庇おうとしてる…」
「庇ってるんじゃありません!本当に私が悪かったんです!悪いのは私なんです…私が馬鹿だったから…」
「脅されて怯えて口を閉ざしてるんじゃないんだね?自分に責任があるんだと思ってるって事?でも、私にすると、女の子に合意でなくキスすることで警告するなんて、タチの悪い脅迫にしか思えないよ、例えあんたが何をしたとしても…。アンジェ、遠慮することなんてない。あんたの事は私が守ってあげる。私だけじゃない、訳を言えば他のヤツらも…ジュリアスやクラヴィス、リュミエールやオスカーもきっとあんたの力になってくれるよ、だから…」
『一体誰に何でこんなことされたのか全部言ってごらん?』と問おうとしたがオリヴィエは最後まで言う前に言葉が止まってしまった。アンジェリークの瞳に激しい動揺が走り、更に顔が泣き出しそうに歪んだのをオリヴィエはしっかり見てしまったからだ。
「ダメ!言っちゃだめ!誰にもこのことは言わないで!違う、違うんです!ほんとに悪かったのは私なんです!私が困らせてしまったんです、私がわからずやだったから、だから仕方なく…それに、あの方は私があまりに無防備で考えなしだから本当に怖い目にあわないように、身をもって警告してくださったんです…きっと…そうなんです…」
「あんた…誰にも言うなって…まさか、その相手って、私が今挙げた人間の誰かだからかい?」
「!…ちが…違います!」
激しい動揺とあまりに強すぎる否定にオリヴィエは却って確信を強めた。
ジュリアスがどんな場合であれ、アンジェリークにキスマークの警告などする訳がない。クラヴィスは…場合によってはいくらでも強面になれる男だがアンジェリークにそんな事をする理由も意味も見出せない。アンジェリークに触れる場合があるとすれば、恐らく深い愛情と慈しみをアンジェリークに告げきちんと許しを請うた上でそうするだろう…リュミエールはある点で容赦のない怖い男だが、アンジェリークに対しては絶対に紳士的に振舞うと言いきれる…となると…自分に関わるなという警告としてのキス…頑なに他者の干渉を拒むその言動…まさか…
「…オスカー…オスカーじゃないのかい?それは…」
「!!!…違う!違います!」
「それなら、あんたにこのキスマークを付けた男はどこの誰だか言ってご覧?」
「あ…その、あの…名前も何処の誰かも知らなく…て…」
「そんな下手な嘘が私に通じると思うなんて、私も見縊られたもんだね。どこの誰かもわからない男のことを、あんたは知りたいって問うたのかい?その結果、自分に関わるなって無理矢理キスされて、男は狼だから気をつけろって、見も知らぬ男性が警告してくれたっていうのかい?だからその男を庇ってるんだっていうのかい?」
「あ…うぅっ…」
「いいよ、もう…何か訳があるんだろ?何があったのか最初から全て話してご覧?全部聞いてあげるから…」
アンジェリークの顔がすがるようにオリヴィエを見上げた。もう、こらえきれなかった。
「う…お、オリヴィエ先輩…私、私、どうしたらいいのか、わからなくて…本当はどうしたらいいのか全然わからなくて…」
「うん…」
「私、私、オスカー先輩に…オスカー先輩にとても辛い事を聞いてしまったみたいなんです…とても申し訳ないことをしてしまったみたいなんです…オスカー先輩にとても辛い思いをさせてしまったんじゃないかと思うん…です…う…うぅっ…」
「うん、じゃ、何があったのか最初から話してごらん、ゆっくりでいいからね…」
アンジェリークは時折言葉を詰まらせ、時折しゃくりあげながら、昨日、生徒会室で起きたことを覚えている限り全てオリヴィエに話した。
自分ではなるべく客観的に起きた事と、オスカーの言葉を再現しようとした。
オリヴィエは事実が曖昧な部分や、順序がはっきりしなかったことについて質問をするだけで、それ以外は黙ってアンジェリークの話しを聞いていた。
事実関係と自分が思う事を全部話した後で、アンジェリークは自分がそのことをどう感じたかを話した。
昨日一日は、オスカーから受けた手酷い拒絶に胸が抉られるように痛くてずっと泣いていたことも、今日になって、もしかしたら、オスカーは自分が問われても答えられないことを頑迷に問いつづけたから、自分を諦めさせるために仕方なく、ああいう行為に出たのではないかと思い至ったことも告げた。
「…お、オリヴィエ先輩…オリヴィエ先輩は、オスカー先輩と親しいから、おわかりになりますか?わ、私はやっぱりオスカー先輩がどうしても言いたくないことを尋ねてしまったんじゃないでしょうか?オスカー先輩はそれが嫌で辛かったんじゃないかって…」
「…ん…まぁね…確かにあんたはオスカーのちょっとばかしナーバスな所を突いたんだと思うよ…」
「私、何をお尋ねしたのがいけなかったんでしょう…もしかして、オスカー先輩のお家のお仕事のことでしょうか…」
「知ってたのか…うん、あいつは実家の家業に一言じゃいえない複雑な感情があるみたいなんだよね…」
「その…そのお仕事っていったい…」
「え?あんた、オスカーの実家が何してるのかは知らないの?」
「はい…はっきりとは…」
アンジェリークはオスカーの言葉の断片は覚えていた。ただオスカーの言う「武器屋」という言葉からアンジェリークが想像したのは精々銃砲とか刀剣を製造か卸しているのかというレベルだった。それはもちろん扱いの難しい一見怖い商品かもしれないが歴史のある有名な銃砲店もあるし、そういう家業とオスカーの内包する屈託がどう結びつくのかアンジェリークはよくわかっていなかった。
「ただ、オスカー先輩は、家業を継ぐってことが話題になると、なんだか哀しそうな諦めたような笑い方をなさるから、それが関係してるんじゃないかって想像しただけなんです…だから、ちゃんと教えていただきたいと思ったんですけど…それが却って…オスカー先輩を傷つけてしまったなんて…」
「そっか…そこまでしか知らないのに、あんたはそう感じてたわけか…」
オリヴィエは何か感じ入った様子で、暫時沈黙してから言葉を続けた。
「オスカーの実家については…この学園にいればそのうちわかるとは思うんだ…ただ、あいつが自分から言いたくなかったことを私から教えちゃいけないような気がするから…ごめん…」
「あ…いえ、ごめんなさい…オリヴィエ先輩にお伺いすることじゃありませんでしたよね、すみません」
「いや、いいんだよ、ごめんね、私も煮えきらなくて…」
そういいながらオリヴィエは考えこんだ。
オスカーが家業をアンジェリークに告げたくなかった気持ちはわからないでもない。
ただ、それなら「その話題には触れないでくれ」と率直に言えばアンジェリークはすぐに自分の疑問を引っ込めただろう。そんな手順も踏まず、返答を誤魔化し続けたあげく、いきなり無理矢理に口を塞がなければならない程の事じゃない。そして、なおかつ自分に関わるなという脅しにも似た言動の意味は?ひとつの話題に触れないで欲しいだけなら、その事だけに言及すればいいのに、アンジェリークの存在自体を遠ざけようとするようなその行動の意味にオリヴィエは考えを巡らせる。
「ああ…でも…どうしよう…私、どうやって謝ったらいいの…?」
「あんたはオスカーに謝りたいの?」
「え?もちろんです!だって…私、オスカー先輩にとっても申し訳ない事をしてしまったんですもの…」
「無理矢理キスされるなんて無体なことされてるんだから、そりゃもうチャラじゃないの?ううん、むしろ、あいつの方が謝るべきだと思うね、私なら。謝らせてなおかつ賠償請求させたっていいくらいだよ、あんたをこんなに泣かせて、悩ませて…ジュリアスやクラヴィスがこの事を知ったらアイツを袋叩きにしかねないよ?」
「だめ!だめだめだめです!オリヴィエ先輩!この事は誰にも言わないで!だって、悪いのは私ですもの…私が馬鹿な真似をしたから…オスカー先輩は何も悪くないのに…そんなオスカー先輩が誤解されちゃいそうなことを…私が泣いたこととか他の先輩方に言わないで!お願い、先輩!」
「だってあんた、合意もなしに無理矢理キスされてそれは怒ってないの?嫌じゃなかったの?」
「それは…オスカー先輩が私のこと、好きだからキスしてるんじゃないって思うと、それはすごく嫌でした…すごく哀しかった…」
「あんた…それって…自分でどういう意味かわかってんの?」
「?」
「そっか…あんたの気持ちはわかった…うん、わかった気がするよ、私は…」
オリヴィエはぽんぽんと軽くアンジェリークの頭をはたくように撫でると、安心させるように微笑みかけた。
「私が、アイツにあんたが謝りたいって言ってるって折りを見て伝えておこうか?もちろん誰にも内緒でね。」
「ほ、ほんとですか?オリヴィエ先輩…そんなこと、お願いしちゃっていいんですか?私…」
「だってさ、いきなりは言いづらいだろ?そうだね…いっそ、フェスタが終わるまで生徒会室には顔を出さないほうがいいかもね。あとなか三日しかないから、もう、大して変更事項はないだろうし、あいつと2人きりになるのはまだきまずいだろ?私があんたをモデルに専念させたいって言えば生徒会室に顔出さなくても他のやつらも変だとは思わないだろうしね。データ管理はジュリアスに任せても大丈夫だと思うよ。」
「で、でも…私、生徒会は辞めたくないんです…」
「あたりまえさ、誰もそんなこと望んじゃないよ、多分オスカー自身もね…」
「え?それって…」
「で、とりなすにあたって、私からあんたにお願いっていうか、ちょっとした宿題とでもいうのかな…ちょっと考えてみてほしいことがあるんだ。」
「はい…?」
「あんたはオスカーにキスされて、どう思ったのか、そしてどうしてそう思ったのか、もう1度よーく考えてご覧?何が嫌だったのか、どうすれば嫌じゃなかったのか、自分はどうしたかったのか、どうしてもらいたかったのか、そこらへんをよーくね?それがわからないと、今回この件だけをオスカーに謝っても、根本的な解決にはならないよ、多分…」
「え…?は、はい…あの、なんだかよくわからないけど…考えなおしてみます…」
「ん、あんたはいい子だ。もう泣くんじゃないよ?泣くようなことは何もないんだからね?あんたは唇を奪われたんだから、自分の方がおつりをもらってもいいくらいだって思うようにね?」
「先輩ったら…」
アンジェリークが泣き笑いの顔になる。
「何から何までありがとうございます…」
「お礼を言うのはまだ早いよ。あんたが私の宿題にきちんと答えられないと、何も変わらないんだからね?いい?」
「はい!」
「それじゃぁ…この件は、今日はここまでにして、これから一緒に街に出ようか?」
「え?街…ですか?」
「そう、ドレスに合わせた靴を選ばないとね?あんたのサイズを聞いて選んでも、靴は履いてみないとわからないし…メイクの色味も、少しばかしいろいろ試してみないかい?」
「あ…でも、私、今日あんまり持ち合わせがないんです。お買い物に行くなら1度寮に帰ってカードを持ってこないと…」
「あー時間がもったいないからいいよ、それに靴は…そうだね、私からのプレゼントっていうか、それがモデル代ってことにしないかい?」
「え?そんな、そんなことしていただいちゃだめですー!私が履く靴なんですもの、自分で買います。」
「いいや、これはね私のためでもあるんだよ。そうしておけば責任感の強いあんたはますますモデルをきちんと努め様と思って夜泣いたりしなくなるんじゃないかと思ってね…」
「オリヴィエ先輩…」
「ふふ、だから、私が靴を買うのは却ってプレッシャーかもね、だから、お礼はいらないの、いい?フェスタの当日まで1人で泣いたりするんじゃないよ?それくらいなら私にいつでも携帯しな?何でも聞いてあげるから…いいね?」
「オリヴィエ先輩…やさしい…」
「そ、今ごろ気付いた?」
「ううん…前からそう思ってましたけど…もっとそう思いました…」
「わかれば、よろしい!さ、ドレスを着替えちゃいな?、で、景気良く街に繰り出そう!」
「はい、先輩!」
オリヴィエはアンジェリークをエスコートするように学校から程近いショッピングモールに連れていき、そこで光りの加減でゴールドにも見えるピンクベージュのサテン地の華奢なミュールを選んだ。ヒールの高さは3センチ前後なので華奢な見かけのわりに不安定さはない。
それから化粧品売り場の一角にある自由にメイクアップできるコーナーでアンジェリークに色々なメイク試してみては、合う色を探した。その様子にオリヴィエを美容部員…というよりメイクアップアーティストと勘違いした他の女性客がオリヴィエにメイクを依頼してくる1コマもあった。オリヴィエはものすごく申し訳なさそうに今は連れがいるからといってその依頼を断り、ここには良く来るから、1人で来てる時にまた声掛けてね、と愛想良く対応した。女性は恐縮して、でも、嬉しそうに帰っていった。
「オリヴィエ先輩すごいですねー、メイクアップアーティストに間違われちゃうなんて…それに、見ず知らずの方にもお優しいし…」
「そりゃそうさ、未来の私ブランドの顧客になってくれるかもしれないんだからね?女性には優しくしなくちゃぁ。イメージ戦略…特にファッションブランドはまずイメージ作りが大切だからね、ここでオーナーというか、デザイナーの印象を良くしておけば、将来の優良顧客ゲットにつながるかもしれないしー」
「ふふっ…すごい綿密な戦略ですねー!」」
アンジェリークは楽しそうにくすくす笑った。顔もかなり晴れやかになった。
その笑顔にオリヴィエは胸をなでおろした。うん、よかった…気分が切り替わったみたいで…
買物を済ますとオリヴィエはアンジェリークを寮まで送った。もう1度学校に取って返すことになってしまうので、アンジェリークは申し訳ながって固辞したのだが夕刻に女の子を1人で返せないよ、ときっぱり言われて結局送ってもらった。
アンジェリークが寮の建物内に完全に入るのを見届けた上で、オリヴィエはくるりと踵を返した。
「…ったく、あいつがここまで馬鹿だとは思わなかったね…いや、あの子に対しては小賢しくはいられないってことなんだろうけど、それにしても馬鹿なことをしたもんだ…しかも、自分で自分のしたことの意味わかってんのかね…」
誰に聞かせるともなく1人ごちると校門とは逆の方向に歩き出す。向う先は決っていた。いなければいないで仕方ない、時間はあるから慌てることもないし…くらいの気持ちだった。