話の続きは部屋の中で…そう言ったはずなのに、オスカーはさっきから、一言もしゃべらない。むっつりと黙りこくったままだ。
1度そろりと顔を上げたら、オスカーはゆるく腕を組んでこちらの方を見ていた。視線が自分に注がれているらしいことに気付きアンジェリークは慌てて目を伏せた。そのまま顔を上げる勇気もなく、所在なげに自分の手元を見つめている。ちらりと見えたその瞳にあからさまな不機嫌とか不愉快といった表情は見てとれなかった。実のところオスカーの視線が真実自分に注がれていたのかどうかも自信はない。それは一抹の救いだったが、それなら、なぜオスカーは何もしゃべらないのだろう。
アンジェリークはその沈黙に居たたまれない思いで、息苦しくて仕方ない。かといって、自分からオスカーに話かける勇気はさらにない。
だってもう自分の気持ちは、自分の願いはオスカーに伝えてしまっていたから。『オスカーの事をもっとよく知りたい』という…あとは、オスカーがそれに対してどう応えてくれるかだから、アンジェリークは、自分から話しかける言葉を今は持たない。
だから、この沈黙が苦しくて仕方ない。
オスカーが何も応えてくれないということの意味がどうしようもない重さでアンジェリークにのしかかってくる。
やはり、オスカーは気を悪くしたのだろうか、いや、静かに怒っているのかもしれない。
オスカーに不躾な事を言った。わきまえのない振る舞いをした。その自覚がじわじわと身体を這い登ってくるようにどうしようもなくアンジェリークを苛んでいる。
ずっと気になっていたことだった、だから、するりと口をついて出てしまったのだ、オスカーの事をもっとしりたいと…『俺の事をよく知らないからお嬢ちゃんは俺を買い被るのだ』なんて自嘲するようにいわれたから尚更だった。踏みこんではいけない領域だと思っていたから堪えていた。でも、オスカーが「自分のことを知らないから」だと言うから「それなら、教えてください」と一気に懇願してしまった。ここで自分の気持ちを言わねばもう言う機会はないような焦慮に駆られて、勢いに任せて言ってしまった。
なぜ俺のことを知りたい?知ってどうする?と逆に問い返されて考えた。それは…何もしらなければ何もできないと思ったからだ。何もできない今の状態が嫌だと思ったからだ。それはつまり、自分は「何か」したかったということだった。オスカーに対して「何か」したいと自分はずっと思っていたのだと、オスカーに問い返されたおかげで自分の気持ちがはっきり見えた。
だがオスカーは、自分のそんな態度を不遜と思っただろうか、傲慢だと思っただろうか。何の変哲もない、単なる下級生の自分が、オスカーの抱える葛藤を解決などできるとは思えない、それは自分でもわかっている。そんなことができるくらいなら、もっと親しく、自分などよりよほど優秀なオリヴィエやジュリアスがどうにかしてくれていたことだろう。
だけど…それでも自分にも何かできないかと思ったのだ。実際に何かできるかということより、何もできることはないと最初から諦めてしまうことが嫌だった。だが、何も事情のわからない今のアンジェリークにはその最初の1歩を踏み出す足場さえない。だから、せめてもの第一歩として、オスカーのことをもっと知りたいと思った。オスカーの抱える事情を知りたいと思った。
でも、それはとんでもない思いあがりだったのだろう。
だって、オスカーが黙して何も語らないということは…自分のオスカーの事をもっと知りたいとの懇願に無言で答えるのなら、それは、してはいけない懇願だったということ、少なくともオスカーは自分から何かを言うつもりはないのだということ、引いては、自分アンジェリークを葛藤を預けるほどの価値がある人間ではないとオスカーは断じたということ…辛くてもそう認めるべきなのだろうと思った。
いや、単なる下世話な詮索好きとさえ思われたかもしれない。相変わらずオスカーは何も言わない。とても怒っているのだろうか…自分がオスカーの心の領分に土足で踏みこむような真似をしたと思って…
そう思うとアンジェリークは、オスカーのことを見られない。顔もあげられない。
こんな時に限って、今日は生徒会室を訪なう者もいない。
このとてつもない居心地の悪さに、アンジェリークは息が詰まりそうだった。
それでも、出すぎた振る舞いでオスカーを不快にさせたのなら、それは謝罪すべきだと思った、どんなに恥ずかしくても…
どこかで思いきらねばならないと思いながら、でも、どうしても言葉が出ないまま、のろのろと時間が過ぎていく。
アンジェリークには、オスカーの沈黙の訳が皆目見当がつかなかった。
生徒会室に入る前にあった出来事といえば、後は幾つかの封書を見つけて手渡しただけだった。プレイボーイで鳴らした男性がいわゆるラブレターをもらって不機嫌になるわけがないと、アンジェリークはそう思いこんでいたから、オスカーの沈黙の原因を自分の言動に求めるしかなかった。
そして、オスカーの沈黙は自分の言動に気分を害したからだろうという以外に、理由の思いつこうはずもなかった。
実際オスカーは確かに若干不愉快な気分だった。
だが、それは自分の寛げる場所を無遠慮に侵害されたことへの不愉快さだった。ただ、ラブレターを押し付けていった女生徒たちは、この生徒会室を自分がプライベートゾーンのように思っていることなど知らないのだし、そう思えばその不愉快さも務めて無視できた。
かわいらしい封筒に氷のような一瞥をくれただけで、そのまま放置しているのと同様に。
にも拘わらずオスカーが黙りこくっていたのは、不機嫌だったからではなく、動揺していたから、いや、どう、応えていいか迷っていたからだ。アンジェリークの言動に対して。
そして、そんな自分が不可解で腹立たしくもあった。
なぜ、この少女の言動に、俺はこうも容易く揺さぶられてしまうのか。
この少女は、自分が予期したこともないような言動で、俺が強固に築いていた物の間隙を突いてくる。
それがただの突拍子もない言動なら、俺は綺麗にそれと気付かせる事もなく軽くいなせるだろう。
なのに、一瞬虚をつかれてしまうのは…素に戻ってしまいそうになるのは、彼女の言動が…俺の何か深い部分に直に触れてくるから…そうなのか?
彼女自身も言っていた…俺のことを何も知らないと、だから教えてほしいと、なのに、なぜ彼女は選んだように真っ直ぐに俺の心の奥底に触れてくるんだ?
そして、どうして俺は、それに何でもないという顔ができない?
そんな自分が不可解だった。彼女の言動に動揺してしまってスマートに振舞えない自分に腹が立つ。
自分の脆さを認めるどころか、自分に脆い部分があるのかもしれないと考えなおしてみる気さえこの時のオスカーにはなかった。ただ、納得のいかない動きを見せる自分の心が腹立たしかった。彼女にどう対処していいかいまだに結論の出ない、こんな無様な自分が腹立たしかった。
彼女は自分の事情を何も知らないと明言している。だから、自分を動揺させた言動だってほんのあてずっぽうかもしれないという懸念も捨てきれない。そしてそんな不確かな言葉に無様に動揺してしまう自分がオスカーはなおさら許せないと思う。
その懸案…彼女は自分の何をどこまで知っているのかはっきりとわからず、かといって、無闇な言動はやぶへびになりかねない状況で、何をどう話したらいいのか、有体に言って途方にくれているのだ、俺は…と忸怩たる思いで、この事実だけは認めざるを得なかった。
『まったく、らしくない…』
彼女の言動に、面食らったり、絶句させられたのは1度や2度じゃない。自分に向けられるアンジェリークの言葉は、どこかしら突飛で、思いもかけないものが多かった。なのに、それを馬鹿馬鹿しいとか、つまらん戯言だと一蹴できないのは、いつも彼女の言葉に自分では気付かなかった、もしくは目の前にあっても見えていなかった真実が含まれていたからだ。
だから、オスカーは戸惑う、言葉を失う、そんな自分を『らしくない』と思うからなお動揺する。既知の手管や対処が全く通じないこの少女にどう対応したらいいものかわからなくなってしまう。
自分のことを哀しそうだ、なんて評したのは彼女だけだった。何か諦めているように笑んでいた、なんて言ったのは彼女以外誰もいなかった。
俺のことをずっと考えていたという彼女。オリヴィエやジュリアスと会話していた時の俺を哀しそうだったという彼女。
彼女は俺の事情を知っているわけではないのに。
彼女は俺に何か不穏なものを感じ取ったのかもしれないが…それは曖昧な感覚とか雰囲気とかそのような域を出ないはずだ。
そして、彼女が他人には見えにくい何かを感じ取ったからといって、なぜ俺はこんなにうろたえてしまうんだ…
オスカーはこの時目の前にいる少女が判決を待つような気持ちで心を震わせていたことに気付いていなかった。アンジェリークが自分の沈黙をどう感じるのか、それを考える余裕すらなかった。
それほどアンジェリークの言葉に動揺していた。
目には定かでなくとも緊張は臨界に達していた。このどっちつかずの状態にもう耐えられない、と図らずも二人はほぼ同時に感じて動いた。
「お嬢ちゃん…その…君は…」
「あの…オスカー先輩、私の身のほど知らずなお願いが、オスカー先輩を不愉快にさせてしまったのなら…ごめんなさい…」
「え…?」
オスカーはアンジェリークが何を言っているのかよくわからなかった。
自分が意を決して、アンジェリークが何をどこまで知っているのかそれとなく聞いてみようと思った矢先にいきなりアンジェリークから謝罪されて、また混乱してしまった。
アンジェリークはアンジェリークで最初の一言が言えて弾みがついたのか、オスカーに自分の胸中を訥々と語り始めた。
「オスカー先輩は何か…何か重たいものを抱えていらっしゃるような気がしたんです…私じゃ、きっと何の役にも立たない…とは思うんです。でも…何もしないであきらめるのは嫌だったから…少しでも何かできることはないかってずっと考えていたんですけど…オスカー先輩の抱えてらっしゃるものが何かわからないから何をしたらいいのかもわからなくて…だから、オスカー先輩が抱えていらっしゃるものが何なのか知りたかったんです…でも、それは私の気がすまないだけで…私の気がすまないからってオスカー先輩を不愉快にする権利なんて私にはないのに…ごめんなさい…わきまえのない振る舞いをして…立ち入ったことをお尋ねしてしまって…」
「な…んだって?…いや…俺は…」
不愉快になど思っていない、少なくとも彼女に対しては…そう言いたかったが上手く言葉が出てこない。
アンジェリークの言葉にオスカーは更に衝撃を受けていたからだった。
ジュリアスやオリヴィエとの僅かなやり取りから、自分が無意識に滲ませていたのであろう割りきれない思いを彼女が感じ取っていたこともオスカーには驚きだった。だからこそ言葉が上手くでなかったのだが、それに対して何かできることはないかと彼女が更に1歩踏み込むように考えていてくれたということが、深い衝撃でオスカーの魂をゆすぶった。
何故言葉が上手くでないかということも、とてもではないが一言では説明できないという気持ちが余計にオスカーから言葉を奪う。
「で…でも、私…本当に思ったんです。オスカー先輩の哀しそうな笑顔を見ると胸が痛くて…どうしてオスカー先輩が哀しそうだったのかはわからないけど…オスカー先輩が哀しいそうなのや何か諦めてるみたいな寂しい様子を見るのが嫌で…どうしてだかわからないけど、見てると辛くて、嫌だって思っちゃって…我慢できなくて…でも、それは私の自分勝手な気持ちだから…私の不躾な言葉で気分を害されたのなら…本当にごめんなさい…」
「違う…」
「え…?」
「そうじゃないんだ…ああっ!くそ!どうして俺は!…」
いきなり苛立たしげに頭をふったオスカーにアンジェリークは飛び上がるように驚いて怯えを含んだ瞳でオスカーをじっと見据えた。オスカーはその怯えを見てとり、さらに苛立ちが募った。
彼女に腹を立てているのではないのだ、だが、自分で思い通りにならない自分の心に腹を立てているのだなどとどうして言えよう?
彼女の優しい気持ちや誠意がわからないほど愚かではなかった。
…いや、本当は心の底では最初からわかっていたのかもしれない…彼女が俺の事を知りたいと言ってくれた真意を…それがどうにも信じ難かっただけで…
だが、彼女の透徹した聡明さをオスカーはよくわかっていた。知り合ってからの時間は決して長くはなかったが供に作業したり、会話をしていれば彼女の純粋さや聡明さは自ずとわかるし、それがわからないほどオスカーは漫然と過ごしていたわけでもない。そして、彼女の聡明さは、他人をありのまま真っ直ぐに、自分の物差しで歪めたり枠にはめ込んだりしないで受け入れられる優しさに裏打ちされていることも彼女と過ごした日々の中で感じとっていたのだから。
だからこそオスカーは自分自身に腹が立った。彼女の優しい心根を確信したからこそますます自分が腹立たしかった。
自分の動揺ゆえの沈黙を彼女は怒りか不機嫌さゆえと解釈し、だから謝罪したのだということがわかったからだ。
その上、彼女の優しく誠実な思いを無用に傷つけ怯えさせた自分に腹が立っているのに、そのことすらどうにも上手く説明できない。
これじゃ俺は馬鹿な木偶人形じゃないか、まったく…スマートで洗練された自分などというものが如何に表層だけの付け焼刃か、オスカーは今、いやというほど思い知らされていた。
とにかく彼女の誤解だけでも解かねば申し訳なくて仕方なかった。
「…すまない…俺は君の言葉に不愉快になった訳でも、怒ってるわけでもない、本当だ…」
「…え?で、でも、ずっと黙ってらしたから…」
「それは…そうなんだが…気分を害したんじゃない、本当に…」
ここまでは言ったものの、オスカーはまたも言葉の接ぎ穂を失い考えこむ。
彼女の気持ちは純粋なものだとわかっていた。1点の曇りもない澄んだ美しい心が言わせた言葉だということはきっと最初から感じとっていたのだ。
その気持ちに心が動かなかったかといえば嘘になる。心の最も深い部分が旋律を奏でるように震えた。それは驚愕を伴った感動と…恐らくは歓喜の感情だった。そう、自分は驚いたが…多分嬉しかったのだ。彼女が自分のネガティブな心の動きに気付いていたこと、その訳を考えてくれ、自分のために何かできることはないかと考えてくれていたこと、そのために自分のことをもっと知りたいと思ってくれていたこと、今思えばオスカーは、廊下でアンジェリークと短いやりとりをしたその時から、今まで感じたことのないほど心が激しく揺さぶられていたのだ。
だが同時に理性が語りかけてきてもいた。彼女は俺の境遇を知らないからこんな事を言っているのだ、俺の境遇を知ればきっと考えを変える、俺のために何かしたいなどと思うはずもないと。オスカーは自分の感じた歓喜を信じられなかったし、信じてはいけないとなんとか懸命に否定しようとした。
心は歓喜を覚えつつ、同時にそれを否定しようと躍起になっていた。だからこそ、オスカーはあんなにも動揺し迷い言葉を失ったのだと今はっきりと自覚した。
彼女は他人の感情に聡い。知り合ってからの日にちは短くともそれはよくわかっている。恐らくは俺の荒んだ心象を理屈ではなく敏感に感じ取り、それに共鳴して心を痛めてしまったのだろう。どうにも黙って見ていられないと思ったのだろう。
彼女の精神はどこまでも高潔で美しい。その曇りのない美しさゆえ、他人の心の動きにも敏く響くように反応してしまい、他人の痛みを我が事のように感じとってしまうのだろう。
アンジェリークは今も心配そうに自分を見ていた。
彼女の純粋さが、優しさが、ひしひしと染み入るように感じられた。だが、だからこそ自分でも上手く律しきれない己の葛藤に彼女を巻きこんではいけない、他者の痛みを我が事のように感じてしまう彼女に俺の荒んだ諦観など知らせてその心を曇らせてはいけない、俺にはそんな権利はない、そんな制動が反射的にオスカーに働いた。
「その…黙っていたのは…それは…君に教えるようなことなんて俺には何もないからだ…俺は…君の見た通りの男だ。軽くてだらしなくて浮ついてる…ただのロクデナシの遊び人だ…」
アンジェリークはこのオスカーの言葉に反射的に何かが『違う』と思った。気分を害しているといわれた方が辛くとも納得がいくほど、この言への違和感を強く感じた。
「…そんな…オスカー先輩…私は…私には…そんな風に思えません…」
「どうしてだ?君だって俺のことをロクデナシだと思っていただろう?」
「そんなことありません!どうしてって…上手く言えないけど…それなら、あんなにオスカー先輩が哀しそうなのはどうしてなんですか?!」
アンジェリークは思わず激した。上手く言えないけど何か…何かが違う。自分の意図しない方向に意識を誘導されそうな危機感を感じ抵抗したいのだが、どうしたらいいのかわからず闇雲な焦りに心が灼かれる。
「…俺は哀しんでなんかいない…毎日楽しくおもしろ可笑しく生きている…」
「…そんな…だって…だって…オリヴィエ先輩やジュリアス先輩と一緒にいらした時のご様子が錯覚だったなんて私には思えません!……」
「錯覚だろうよ…俺は今日さえ楽しければ…その時その時自分が楽しければそれでいい男だ…」
「違う…違います!そんな方がどうして他の先輩方のために裏方を進んで引き受けたり、私を諌めたりしてくださるんです?オスカー先輩が優しいからじゃないですか!オスカー先輩は自分さえよければいいなんて方じゃないです!」
「裏方は…俺しかいないから仕方ない、それだけだ。お嬢ちゃんは俺を買い被りすぎているだけだ…君は俺のことを何も知らない…だから、そんなことを言うんだ…俺が哀しそうだなんて戯言を…」
「だって、オスカー先輩は何もおっしゃらないから!何も知らせてくださらないのに、何も知らないからだって言われても納得できません!」
「だから、俺には何も知らせることなんてない…そうだ…嘘だと思うならここにきている手紙をどれでも見てみればいい。この一通にでも君が言ったようなことは書いてないと断言できる…俺は誰が見ても見た目通りの男だ…軽くて洒脱でモテモテのプレイボーイだぜ?こんな俺が一体何を哀しむっていうんだ?」
「そんなこと…そんなこと…」
『…違う…オスカー先輩はそれだけの方じゃない…絶対にそれだけじゃない…でも、でも、それはどうしてかって、どこがどう違うのか、上手く説明できない…』
アンジェリークは黙って首を横にふった。聞き分けのない子供がいやいやをするように頭を振りつづけた。もどかしさに涙が出そうだった。
絶対に違うと心は叫んでいるのに、それを説明する論拠が自分には何もない。
そう思った時、アンジェリークははっと思い出した。
ジュリアスとオスカーの会話を図らずも立ち聞きしてしまった時、その話題はオスカーの実家の家業のことだったことを。オスカーの葛藤には実家の仕事が何か関係しているのかもしれないと考えたことを。
「オスカー先輩、だって、ジュリアス先輩とお家のお仕事のこと話されている時、すごく…すごく哀しそうでした。哀しいけど諦めてるみたいな笑い方なさって…ジュリアス先輩は立派なお仕事だっておっしゃっていたのに、オスカー先輩はそんなことはないみたいなことをおっしゃってて…それでどうして?ってそれが私ずっと気にかかって…」
その時、オスカーの片頬に浮かんだ氷のような笑みにアンジェリークは続く言葉を飲みこんだ。
「お嬢ちゃんは俺をどうしても《哀しいかわいそうな男》にしたいらしいな。俺はこう言っちゃ何だが、とある大企業の御曹司だ。そんな俺がどうして自分の境遇を哀しんだり諦めたりする必要がある?」
「それは…だから、それがわからなくて…」
「だから、それは君の錯覚だ…それとも何か?君は、かわいそうな男を無理矢理仕立て上げて同情心を注いで、いい気分に浸りたいだけか?」
「違う!違います!そんなつもりじゃ…」
「君は俺の事を何も知らないと自分で言ったじゃないか。そんな君に俺の何がわかるっていうんだ?全ては君の思いこみだ…それだけだ…」
「だから…だから、わからないからこそ、オスカー先輩の事を知りたいんです。教えていただきたかったんです!」
「…今日のお嬢ちゃんは本当に物分りが悪い…口で言ってもわからないなら…」
『え?』
とアンジェリークが思う暇もなかった。
手首を乱暴に掴まれぐいと引っ張られた。
細い顎を乾いた掌が摘み、有無を言わさず顔をあげさせられた。
次の瞬間、アンジェリークの視界は氷青色一色に占められたような気がした。同時に暖かく柔らかいものが、抗い様のない力強さ、容赦のなさで自分の唇を塞いだ。
「!」
何が起きたのか全くわからなかった。考える間もなく更に口中に侵入してくるものがあり、呆然としているうちにそれが自分の舌を触れる感触があった。
アンジェリークは思わず悲鳴をあげそうになり、そのことが更に侵入してくるものに力を与えてしまった。
嬉々とした様子で熱く柔らかいものが、自分の舌に絡みつく。信じられない力強さで捉えられ、反射的に逃れ様としたが全く許してもらえない。合わせて強く吸われる感触に頭がくらくらした。
それでもアンジェリークは懸命に抗った。自分では抗ったつもりだった。理不尽に自分を拘束している力を撥ね退けようとし腕に力をこめ、縫いとめられたように動かない顔を振り解こうと必死だったが、もがけばもがくほどその力はきつく自分を縛った。
『どうして…』
何をされているのかどうしようもなく理解すると同時に視界が水底にいるように霞んでぼやけた。
何故オスカーが自分にこんなことをするのかわからない。これは愛し合う者同士がその情愛を示す為の行為ではなかったのか。そしてアンジェリークはオスカーが自分を愛しているがゆえに今、自分の唇を塞ぎ口腔内を侵しているなどと都合よく思いこむことなんてできなかった。愛されてもいないのにこんなことをされている…その事実が無償に哀しく辛かった。
『いや…こんなのはいや!』
無理矢理口を閉じた。鉄の味が口腔に広がった。その味覚がアンジェリークを恐怖で脱力させた。
唇を塞いでいたものは離れたが、呆然と腑抜けたまま、ただ眼前の光景がアンジェリークの目に入る。
オスカーが僅かにあげた口角の脇に付着した赤い筋を手の甲でぬぐっていた。片手はもちろん自分の手首を捕らえたままだった。口角は上がっていても文字通り氷のような瞳にはまったく笑みなどなかった。
「どうして拒む?俺の事を知りたいといったのは君だ」
「こ…こんな…こんなの…」
『知る』ってことじゃない!と言いたくても、しゃくりあげてしまってアンジェリークは言葉が続かない。
「お嬢ちゃんは…俺を知りたいんだろう?…」
オスカーの顔が近づいてきた。また無理矢理唇をこじ開けられると思ってアンジェリークは口と瞳をぎゅっと閉じて俯いた。
しかし、顔はあげさせられない、唇に触れるものもない。
替りに肩…いや、肩甲骨の窪みあたりに暖かく触れるものがあり、間を置かず燃えるような灼熱感がその部分に広がった。
「なっ…」
思わず瞳を見開くとオスカーが自分の肩口に緋色の髪をうずめ、首筋をきつく吸っていた。
理屈でない恐怖がアンジェリークを支配した。怖いと…これほど人を怖いと思ったことは記憶にある限り初めてだった。
「や…いや!やめて!いやぁっ!」
力では敵わない、そうわかっていても思いきり暴れないではいられなかった。しかし、すぐ次ぎの瞬間、自分を拘束していた力はふっと消失した。そのあっけなさにアンジェリークは自失した。
解放されたことが今だ理解できず呆然としているアンジェリークにオスカーは冷たい笑みと同じ位冷たい言葉を投げかけた。
「お嬢ちゃん、いいか、俺を知るということはそういった痕を俺に全身隈なく付けられるってことだ。」
「あ…」
アンジェリークは思わず自分の首筋に手をやった。火傷したようにそこが熱い。
「そんな覚悟もないのに、俺を知りたいなんて…男の事を知りたいなんて無闇に言うものじゃない。男に『あなたのことを知りたい』なんていうのはこう言う事をされても構わないってことなんだぜ。そう取られても仕方ないんだ。」
「う…」
「俺がどういう男かこれでよくわかっただろう?」
その冷たい物言いに弾きとばされたようにアンジェリークはオスカーから飛び退るように離れた。そのままわが身を守るように胸元で手を合わせたまま、にじにじと後ずさる。涙を湛えた瞳をひたとオスカーに据えて、オスカーから決して視線は逸らさない。そして扉の側に辿り付くや否や、ぱっと身を翻して罠から逃れた動物のようにドアの向こうに走り去っていった。
ぱたぱたという軽い足音が遠のきそして聞こえなくなると、オスカーは重苦しい吐息をついてどっかと椅子に沈みこんだ。
彼女ももう懲りただろう、俺みたいな男と関わり合うことに…
これでよかったんだ。彼女を泣かせたのは上手いやり方じゃなかったが…これでよかったんだ…
このくさくさした気分は…それをスマートにできなかったから、それだけだ…
オスカーは懸命に自分に言聞かせた。
しかし、そう思うほどに、彼女の優しさや誠意に対して、こんな乱暴で思いやりのない態度しか取れなかった自分への嫌悪にオスカーは窒息しそうな気分だった。
彼女の美しい気持ちを踏みにじった。
俺なんかに関わらないほうがいい、そう思ったことは真実だし、間違っているとも思っていない。
だが、どこまでも綺麗な気持ちで接してくれた彼女を、こんな拙い、こんなに惨い方法で遠ざけることしかできなかった自分がどうしようもなく許せない。彼女を遠ざけるにしても、どうしてもっと上手く処することができなかったのかと思うと自分を殴りつけたくなる。
こうするしかなかった、自分の真意は彼女には言えないのだから…乱暴で粗野で思いやりのない行為を持ってしても、彼女を自分から遠ざけねばならなかったのだ。そう自分に無理矢理言聞かせようとするほどに、底無しの虚しさに気力という気力を奪われる。
本当のところ、オスカーは自分の感情を彼女に吐露することに恐ろしいほどの誘惑を一瞬感じた。
しかし、その迷いは一瞬だけだった。結局それはできないと即座に結論した。
結論した以上、彼女の懸念を払拭する方向に持っていくしかなかった。それでも納得しようとしない彼女に手荒な手段で自分に関わることの愚を悟らせるしかなかった。
なぜ、こうも余裕がなかったのかも薄々わかっていた。
オスカーは怖かったのだ。
彼女のように曇りなくそだった人間に、自分の住まう世界、そんな世界があることを知らせてしまうこと自体が罪深いことに思えた。そして自分がそんな世界に今までも、そしてこれからも関わって生きていくつもりなのだと知られてどう思われるかが怖かった。
オスカーの生家は軍需産業を主体とする重化学工業…名称を「アルテマ・ツーレ」という…を経営している。武器屋という言い方は控え目にすぎる、むしろ兵器屋だとオスカーは思っている。営業拠点や工場は全世界に散らばっているが顧客は基本的に国家や軍隊(正規の軍隊がほとんどだが偶にそうでないものもある)なので一般人への知名度は低い。
兵器産業を生業とする家に生まれたのはオスカーの責任ではないし、武器というものは人類の歴史開闢と同時に存在するものである。オスカーの生家が発明した訳でも、オスカーの生家が製造を止めればこの世から消えるというものでもない。サルが作った初めての道具すら武器だったのだから。そして武器がなければ国家は自衛すらできない以上、武器というものが人類の歴史から消える日はないだろう。戦争を放棄している永世中立国が兵器産業の最優良顧客であるのは有名な話だ。
そして武器需要があればより効率的かつ効果の高いものの供給が求められるのも当然である。アルテマ・ツーレは高い技術と開発力、時々刻々と移りゆく政治情勢をにらんだ的確なマーケティングで、軍需産業複合体の中でも傑出した利益をあげている。オスカーが自分を大企業の御曹司と称したのは寸分の偽りもない。
だが、生家が何かということと、それを自分も生業とするかどうかということは別の次元の話だった。そしてオスカーは自分自身で考えぬいた末にこの家業を継ぐと決めていた。今時創業者一族の子供だからといって後継を強制されるものではない。ましてや本人が望んだとて能力が伴わなければ他の重役も株主もそれを許すものではない。しかしオスカーは自分の意志でこのビジネスに携わり、そして自分の力でその方向を舵取りをしていくつもりだった。遊んでいるように見せてもその為の努力は惜しんでいなかった。
相続を放棄し、他の仕事に就くのは簡単なことだ。だが例え自分が家業を継がなくても、その上がりでここまで育ち、教育を受け、生きてきたのだという事実は変えられない。自分の成り立ちをどうあっても否定できないのに、それを忘れたふり、見ないで生きる振りはオスカーには卑怯なことに思えた。今生きている自分を否定したくなければこれからも全てを背負っていくしかない、そう考えた。
また、自分が後継を放棄してしまえば生家である企業がどんな方向に走って営利をあげようと舵取りは愚か口出しすら難しくなる。兵器産業が何のモラルも持たずに営利だけの追求に走れば、政治に介入して国同士の紛争を煽った挙句、生物兵器とそのワクチンを、化学兵器とその解毒剤を対立国に売り付けることすら可能だ。その結果得られた富は例え事業を後継せずともオスカーに相続される。相続放棄することも可能だろう、だが、それは自分自身には逃げにしか思えなかった。
親の経営する会社は、いわば産まれたら乗せられていた馬車のようなものだった。しかしその馬車の力で俺は今生きてここにいる。それが事実である以上、俺は馬車から降りることも他人に手綱を委ねることも善しとしたくない。その馬車の行き先が懸念されるから尚のこと、俺は自分の力で手綱を操り、自分の目で行き先を見据え、決めていきたい。そう決意した。
決意するのに1年掛かった。留学期間はそのための時間だった。
高校生活も半ばを過ぎれば自分の進路を決めねばならない。自分は何をしたいのか、何をするべきなのか、親元を離れ冷静に考えたかった。留学先で誰も自分の境遇を知るもののない環境に己を置いて考えに考えた。親の事業や伝統技能を継いだ者、敢えて継がなかった者の手記を読んだり、話を聞いたりと比較対象するための情報収集も忽せにはしなかった。考えた末に自分は家業を受継ぐと結論を出した。オリヴィエやクラヴィスのように自分の内部に表現せずにはいられない物が特にはなかったことも一因となった。心が決ったから帰ってきた。帰ってきてももう揺るがない自信があったし、経営のトップに立つと決めた以上自国の教育機関、わけてもこの学園で教育を受けることは自分の目的に最も有効な手段だった。
確かに理想論で言えば存在しない方が良い物を自分は作り売っていく。万人に誇れる仕事ではないことは百も承知の上だ。この仕事を好きだから継ぐのだと言うわけでもない。だが自分が1私企業である親の会社を解体したとしても競合他社がそのパイを奪うだけで、兵器という忌まわしいものがこの世からなくなる訳ではない。それなら、自分の手の届かぬ所に流れるに任せるよりは、可能な限り自分でその潮流をコントロールしていきたいと思った上での結論だった。
だが、それは突き詰めて言えば自分の意志だ。自ら進んで汚いビジネスに携わると決めたことは紛れもない事実だ。
強制された訳でもないのに敢えて外聞の悪い仕事に就く、そんな自分の気持ちは結局他人には理解されないだろうと思っていたし、理解してもらおうと思ったこともなかった。それに「家業が嫌なら好きな仕事に就けばいいのに」などというありきたりなコメントで締めくくられることはもっと嫌だった。
正直言って、アンジェリークの口からそんなコメントを聞きたくなかった。それを怖れて最初から理解を拒んで何も告げないことを選んだという部分もあった。
そして、それよりも、もっと恐ろしい可能性を考えると、オスカーは尚更自分の渦巻く感情をアンジェリークに告げられなかった。告げてはいけないと思った。万が一、彼女が自分でも持て余しているこの感情をそのままに受けとめ、理解してくれた時の事が怖かった。
もし、そんなことになったら…俺は絶対彼女に執着してしまうという恐ろしい予感があった。
彼女に自分の住まう世界は似つかわしくない。
彼女に自分が住まう世界を知られたくないし、ましてやそこに引きずりこむことなどできない。
それがわかっていてなお、それを望んでしまいそうな自分を予感し、オスカーは恐怖した。
戻れなくなるなる前に、この自分の気持ちに名前をつけて自覚してしまう前に踏みとどまらねば、いや、自分が踏みとどまろうにも、彼女がこれ以上自分の奥深い部分に触れてきたら、自分はおそらくこらえきれない。その予感が強硬手段を持ってしても彼女を自分から遠ざけさせる力となった。
『これでよかったんだ…彼女のためにも…』
必死にそう思おうとした。しかし思おうとすればするほどに、オスカーの世界から一切の色が失われていくような喩えようもない喪失感が胸中に広がっていく。
自分のこの喪失感は何ゆえかということは極力考えないようにし、彼女にこんな世界を知らせることを防げたのならそれで善しとすべきだと思った。
彼女に涙させたことがそれで償える訳ではなかったが…
そしてまた、彼女はもうこの部屋には来たくなかろう、来られないだろう、例え来れたとしても、もう俺と顔を合わすことはないと思うこともオスカーの心を底無しの暗さで塞ぐのだった。結果がわかっていてやったことなのに今更なにを暗くなるって言うんだ、俺は…と思ってもそれは何の救いにもならなかった。
俺がいると思えば彼女はここには来たくなかろう。このまま生徒会も辞めると言出すだろう。他のヤツらはそれを不可解に思い、彼女が生徒会を辞めたがる訳を聞き出すことだろう。そして…俺は袋叩きにあって、生徒会を辞めればいい、それで少しは償いの気分も味わえるかもしれないしな…だが、それ以上にもう二度と彼女の笑顔は自分に向けられることはないのだと思うことは何よりキツイ代償なんだが…それは彼女にはわからないから彼女への慰めや詫びにはならんな…
そんななんの実りもないことを考え、どうにか胸の空虚さから目をそらそうとした。できなかった。
嘆息して目を閉じたら彼女の柔らかな唇の感触、熱い舌、肩口に顔を埋めた時胸一杯に吸いこんでしまった甘くすがしい香りがいきなり脳裏に鮮やかに蘇りオスカーをさらにうろたえさせた。ざわめいた心はいつまでたっても一向に落ち付く気配を見せなかった。
アンジェリークは泣いていた。寮の自室で1人静かに涙を零し続けていた。いつもは1人部屋が寂しくて嫌で、すぐ談話室や他の子の部屋に遊びに行くのだが今日ほど寮が個室でありがたいと思ったことはなかった。
どうしてこんなに泣けるのか、自分でも不思議なほどに涙が出た。
友人が夕食に誘いに来た時は居留守を使ってしまった。涙声を聞かれたくなかった。普通にしゃべれる自信はまったくなかったし、第一食欲など欠片もなかった。
わーわーと声を出して泣く気にはなれないのに、いっそそうできたらすっきりすると思うのに、ただ滾々と涙が溢れてくるのだった。
それは絶望の涙だったかもしれない。泣くことでカタルシスなど得られない、それがわかっているのに止まらない涙は絶望の表明以外何だと言うのだろう。
オスカーの拒絶は太い錐で胸を抉られたような痛みをアンジェリークにもたらしていた。
あのキスはアンジェリークへの手酷い拒絶であり、首筋につけられた刻印は俺に近づくなという警告だとアンジェリークにはわかってしまった。それがわかってしまったから、どうしようもなく泣けるのだった。
初めてのキスが愛情の現われでもなんでもない、警告であり、見せしめでしかなかったという事実も悲しいし、そんな手段を用いて手酷く拒絶されたことはもっと悲しい。
あのキスが愛情の現われのキスだったらどんなに嬉しかっただろう。
でも、そうでないのはあきらかだった。
オスカーが自分に無理矢理無体なことをしようとしているのだと思った時はほんとうに怖かった。オスカーが何故自分にそんなことをしようとするのかもわからなかった。しかし、自分の抵抗など本来なら物ともしないであろうオスカーがあっさりすぎるほどあっさり自分を手放したことで、あれは脅し、もしくは警告だったのだとわかってしまった。
オスカーは最初から自分に無体なことをする気などなかったのだ。オスカーが本気なら自分に逃れる術などなかったとひしひしとわかるからだ。
そして、そんな乱暴な方便を用いてさえオスカーは自分を遠ざけたかったのだという認識がどうしようもない哀しみでアンジェリークの胸を深深と抉るのだった。
アンジェリークは自分の哀しみに染まっていまだに気付いていなかった。
あのキスが愛情の現われだったらよかったのにと、無意識に考えていたその意味も。
オスカーに遠ざけられたという事実に何故これほどまでに心がきりきりと痛むのかも。
ましてや、オスカーが自分を遠ざけようとしたその意図や意味など推し量れようはずもなかった。