俺がもし人を愛したなら…愛する人間にこそ、俺と同じレッテルは貼らせたくない。他人の死の上に立っているという、他人の流血を当てにしてそれを生業にして食っているという、どう、取り繕おうとそんな目は一生ついてまわる、しかも、それは紛れもない事実なのだから。否定のしようがないのだから。愛する存在をそんな境遇においこみたいか?贅沢な美味いものを食っているのは、他人の苦痛と流血の上に得た金銭でだと子供に言えるのか?だからと言って自分や妻子が赤貧生活を送ればいいというような単純なことじゃない。どんなにつましい生活を送ろうと金の出所は…素姓は一緒なのだから。俺が家族を持てば、そんな思いをさせるのがわかってる。あの家を継ぐ以上伴侶を持たないという選択は恐らく許されない。それなら思い入れのない相手の方がまだマシだ。金銭目当てでよってくるような女なら、その出所が何であれ金は金だと言いきれる女ならそんな視線も屁とも思わないだろうしな…俺の心も痛まない………
体育祭が終われば、学園最大の行事である文化祭・ハーベストフェスタはすぐ目前だ。
体育祭が例年にない盛りあがりを見せた後だったが、この間近にせまった大行事が生徒たちを盛りあがりすぎの反動から救っている。あまりに気分が高揚した後は、反動で気が抜けてしまいがちだが、その気を抜く暇がないのである。
体育祭の時はそれほど活躍の場のない文科系クラブに所属している生徒たちは、まわってきた自分たちの出番に張りきっているし、ましてや舞台発表のある演劇部や音楽関係及びダンス系のクラブなどの張りきりようは生半のものではない。
クラス単位での参加も多いので、出番が重ならないようにクラブ関係主体の発表日とクラス関係主体の日は、二日にわけて舞台の割り振りを行っている。その割り振りと進行を司るのが、催事担当の仕事なのだが、オスカーが帰ってきてくれたし、原案は既にできていたので、オリヴィエはこれを全面的にオスカーにまかせ、自分は被服専攻の生徒が行うファッションショーの準備に専念することにした。
ドレスは仮縫い段階だったが、オリヴィエはオスカーに仕事を任せたことで新たに生まれた時間を利用してドレスのディテールにもっと細かく手をいれる気になっていた。
当然、専属モデルとの打ち合わせや仮縫いの回数も増える。ドレスに合わせてヘアメイクも何通りか試したい。
そこで、今日も彼のモデルであるアンジェリークと生徒会室に行く前に一緒に被服室に立ちよってきていた。
アンジェリークは人体よろしくドレスを身につけ立っている。まだ、シルエットが完成しただけのシンプルな段階で、オリヴィエはこれに、スパンコールをあしらうか、シフォンで幾重にもコサージュを作って飾るか、ビーズで細かい刺繍を施すか、思案の真っ最中である。
「うー、実際につけてみてきめるか…アンジェのイメージとの兼ね合いもあるしね。手持ちのアクセ持ってくるから、悪いけど明日の放課後もつきあってよね?アンジェ」
「あ、はい、もちろんです、先輩」
オリヴィエがアンジェリークにファッションショーのモデルを頼んだ時は、アンジェリークはその意味も特に考えず、自分で役に立てるのならと二つ返事でこれを引き受けた。この被服科主催のファッションショーのモデル、分けてもオリヴィエのモデルを務めることが、女生徒の憧れの的であると知ったのはモデルを引き受けたその後だった。
クラスメイトたちが、○組のあの子が誰それにモデルを依頼された、×組のあの子もよ、私も誘われないかなーなどと話している時に、何の気なしに自分もオリヴィエに頼まれたと言ったら、クラスメイト一同から多いにうらやまらしがられたのだった。
憧れていた子が多いと聞き及び、オリヴィエの依頼を余計にあだや疎かにすまいと心に決めたアンジェリークはオリヴィエのモデルとしての協力を今は何よりも最優先に考えていたが、実際にはそれだけに専念していればいいという訳でもなかった。書記はこのフェスタの進行管理のデータを持っているし、そのデータは日々何かしらの変更が加えられているからだ。照明の色、使用するBGM、舞台装置の申しこみや変更、等など…
だから、仮縫いや打ち合わせをした後でも、必ずアンジェリークは生徒会室に顔を出す。
おかげで、体育祭が終わっても精神的にも肉体的にあまり余裕のない状態が続いている。
オリヴィエも、オスカーに任せたとは言っても、何か手助けしてほしい事態が発生していないかどうか確かめに、やはり、毎日一応顔は出す。
実際にはオリヴィエは生徒会室に文字通り顔を出すだけで速攻帰宅する日がほとんどだったが。
そして、今日も少し遅めにオリヴィエとアンジェリークは2人そろって生徒会室に来た。生徒会室にはオスカーが一人でフェスタの進行表を見ており、二人に気付いて顔をあげた。
オスカーは最近、生徒会室に誰より早く来て居るようだった。オリヴィエから仕事を引き継いでいるのだから当然かもしれないが、それにしても、なるべく教室にいたくないのかと思うほど、最近は生徒会室にいる時間が多い。
「よう、お嬢ちゃん、遅かったな、オリヴィエと2人でデートの打ち合わせでもしてたのか?俺もお嬢ちゃんとならじっくりデートの相談をしてみたいもんだな?」
「やだ…そんなんじゃないです…」
言いながらアンジェリークは小さな嘆息を零した。オスカーが自分に以前と変わらぬ軽口を叩くと、なぜか、ほっとするような、それでいてがっかりするような複雑な気持ちにアンジェリークはなってしまう。
断片的に見知ったオスカーの事情は刺のようにアンジェリークの心にひっかかったままだった。オスカーが抱えているもののその全容も詳細も明らかではないが、かといって忘れることはなかった。だが、それを突きつめて追求したいのか、アンジェリークは自分が結局なにをしたいのか、はっきりと断言できない。他人の事情を詮索するのは、誉められたことではないと思ってしまうし…なぜ、自分はオスカーの事情がこれほど気に掛かるのか、その理由も自分ではよくわからない。
オスカーが何か一言では表せないような葛藤を心に抱えているらしいこと。それはオスカーの実家の仕事に関係があるらしいこと。そこまでは推測できていた。
でも、それを本人に面と向って尋ねることなどできよう筈がない。アンジェリークにはそんなことを詮索する資格や権利はないし、不用意に触れていいこととも思えなかった。確信はないが、オスカーはこの話題に触れたがらないのではないかと感じるのだ。オスカーが極稀に見せる荒んだ心象は、常に近しい関係の友人、その友人だけが一緒に居る時のような気がしたから。自分は偶然そのような場にいあわせて、その一端を垣間見てしまったけれど、本当ならオスカーは、そんな葛藤を抱えていることを周囲にあまり知られたくないのではないかと思ったから。
『私は、ご本人から直接何か話していただいた訳じゃないから…オスカー先輩は私には何もおっしゃらないから…』
だから、憶測するだけで、アンジェリークからその話題を出すことはできない。オリヴィエやジュリアスのようにオスカーと直接言葉は交せない。考えてみれば当然なのだ、オリヴィエやジュリアス程にオスカーと親しい訳ではないのだから。なのに、それがなぜだかもどかしい。寂しくも感じる。いや、喩えオスカーの内面を知っていたとしても、触れられたくない部分に不用意に触れていいというものでもないが…実際、オリヴィエもジュリアスも、オスカーが心を許していたとしても積極的に関わっているようにも見えなかった。わかっているが、そっとしておく…そんな感じだった。
だから、私も何も気付いていないふり、何も知らない振りをしていたほうがいいんだと思う、本当は気になるけど…どこか哀しそうな、それでいてご自分をないがしろにするような投げやりな笑顔の訳が気になって仕方ないけど…あんな笑顔を見るとなぜだか胸が痛くて仕方ないけど…
でも、単に好奇心を充たすために、人の心の領域に踏みこんだりしてはいけないと思うから。私はそんなつもりじゃないけど…そう思いたいけど、じゃ、なぜだ?って問い返されたら上手く答えられない…ただ、気になるから、なんて言っても納得していただけるものじゃない…このことに不用意に触れることは、オスカー先輩を深く傷つけてしまいそうな気もする…
それに…オスカー先輩に以前問われたこと…私は『オスカー先輩』に自分を認めてもらいたかったのか、人間として認めてもらえるならば誰でもいいと思ったのか、それも、いまだによくわからない…誰でも?じゃないような気がするの…でも、その理由は?って重ねて問われたことに、私はまだ答えれらない。
オスカーのことを考えると心が乱れる。オスカーに問いたいこと、オスカーと話たいことがあっても、自分の心が定まらないから、どう切り出していいかわからない。進むべき方向がわからないのに、どうして歩き出せよう?つまりはそういうことだった。
そして、こんなにも自分が心を乱していることに、そしてその乱れは全てオスカーに通じることにオスカー自身は気付いていないだろう。以前、私に『宿題だ』と言って考えさせたことももう、忘れているのかもしれない。
オスカー先輩…なぜ、私にあんなことを問うたの?何の気なしに尋ねたことなの?
自分がきちんと答えないから、オスカーはいつまでたっても万人向けの態度しかとってくれないのだろうかとも思う一方で、もしかしたら、あれは他意のない世間話で、オスカーはもうこのことを忘れているのかもしれないと思うと、自分から話を持ち出す勇気も出ない。自分の答えが定かとしないから尚更だった。
だから、アンジェリークはオスカーが自分に誰にでも取るような態度を示したり、軽口を叩かれると落胆する。その一方で、どこにも進まずにすむことを安堵する気持ちも僅かながらあるのだった。
アンジェリークは、実のところ、こっそりとオスカーの苗字を検索してみたことが一度だけあった。オスカーの家業が何だか知りたくて…オスカーの家業を調べることで何かわかるかと思って…
しかし、検索結果は同じ性をもつ歴史上の偉人のプロフィールがヒットするばかりだった。創業者や社長の苗字がそのまま企業の名前になっている訳ではないと気付くのに時間はかからなかった。それにオスカーの内情を詮索するような自分の行為に自己嫌悪を感じて、すぐやめてしまった。オスカーの苗字を検索していたことを誰かに見られたり知られたくなかった。オスカーの名の背景を興味本位で調べたと、不用意に周囲に知らせてしまうのはとても悪いことのような気もした。
そんなこともあって、結局アンジェリークは何もわからないままだ。オスカーの葛藤の正体も、自分の気持ちも…
でも、オスカーがあたり障りのない態度で接してくる以上、アンジェリークは同じような態度で応じることしかできない。だから、オリヴィエとデートの打ち合わせか?とからかわれたことに対しても、オリヴィエは遊んでいたわけではないというだけの意味でこう答えた。
「私とデートの打ちあわせをしてたか、なんて、そんなこと言ったらオリヴィエ先輩に申し訳ないじゃないですか。」
「デートの約束してたって思われても、私は申し訳なくはないけどさ。」
くっくっとオリヴィエが苦笑しながら、オスカーに向直った。オリヴィエも、アンジェリークが遊んでいる訳ではないとオスカーを軽く牽制するくらいの意味合いで答えた。
「この子はフェスタでの被服科主催のファッションショーで私のモデルをするから、今もちょっとドレスをあわせてただけさ。これからもアンジェを借りる時間は多いと思うけど、それは前前からの約束だからね。」
「あ、はい、あの時はオリヴィエ先輩のモデルになるってことの意味がよくわかってなくて、私でよければ…って簡単にお引き受けしちゃいましたけど…後で、友達にすっごくうらやましがられちゃいました。ほんとに私でよかったんでしょうか?」
「あんたのイメージでドレスを考えているんだから、今さら『やーめた』はなしだよ?」
「あ、それは約束しましたもの、自分からやっぱり止める、なんて無責任なことを言ったりはしませんけど…」
「もう、おどろかさないでおくれよ。」
「でも、私でよかったんでしょうか?私がオリヴィエ先輩のモデルをさせていただいていいのかな?って思ってしまって…」
オリヴィエのモデルになりたい子は一杯いただろうなと思うこと、オリヴィエは単に自分が同じ生徒会の後輩だから声をかけてくれたのだろうという思いこみがアンジェリークを謙遜させる。
すると、オリヴィエが答えるより早く、オスカーが突然、いつになくきつめの声音で話に割って入ってきた。先刻までのからかうような笑みはきれいに表情からかききえていた。
「お嬢ちゃんはつつましいのかもしれんが…だがそういう態度は見方によっては卑屈にさえ見える。私でよかったのか?なんて言い方は止めた方がいい。」
「オスカー?」
「先輩…」
オスカーは椅子ごと身体を回して、アンジェリークの真正面に向きなおり、真剣な面持ちで言葉を続けた。
「お嬢ちゃんはモデルになりたくても誘われなかった子に気を使ったのか?その気持ちはわからないでもないが…君が『私なんか』ということは、君の魅力を認めてモデルを頼んだのかもしれないオリヴィエの判断に異義を差し挟むことになるんだぜ。何の根拠もなしに、あなたの目は節穴かもしれませんよ?というのと同じだ。」
「あ…!」
「俺なら、もし、デートを申しこんだ相手から、私なんかでいいんですか?なんて躊躇われたらがっかりするぜ?その子を魅力的だと思って申しこんだ俺は何だったんだろうってな。自分を「つまならい存在」みたいに思ってる人間を、俺は魅力的だと思ってたのかと白けるだろうし、もし『そんなことない、君は魅力的だ』という返答を期待して謙遜したのなら、それもまた品性卑しくさもしい行為だ。それくらいなら、気がすすまないって断られる方がずっといい。だからな、お嬢ちゃん、自分をつまらない人間みたいな言い方はするな。実力の伴わない自惚れは鼻持ちならんが、お嬢ちゃんは十分に魅力的なんだからな。オリヴィエだってそれを認めているからこそモデルを頼んだんだろう?」
「そりゃ、そうだよん、魅力的だと思わなければモデルなんて頼まないさ」
「な?わざわざ自慢する必要はないが、無意味にへりくだる必要はもっとない。オリヴィエの審美眼を信じてるならそういう言い方はでない筈だしな。謙遜は美徳とは限らない。意味のない謙遜は卑屈だし、極端な言い方だが、自分を認めてくれた人の『人を見る目』への不信というか、侮辱にすらなるんだぜ?自信が人を光輝かせるんだから、お嬢ちゃんはオリヴィエに選ばれた自分にもっと自信をもちな?」
「はい、オスカー先輩、ごめんなさい…」
アンジェリークは自分が恥ずかしくなって、俯いた。
「それとオリヴィエ先輩もごめんなさい。せっかくのお言葉を無にするような事を言って…モデルにって言ってくださってありがとうございます。そのお気持ちも考えなくて…」
オリヴィエがふふんと感心したように笑んだ。
「確かに、私も、あんたに申し訳ながられるより、喜んでモデルをやってもらいたいしね。あんたなら、私のドレスのイメージにぴったりだと思ったから頼んだんだし…」
「あ、はい、ごめんなさい、ありがとうございます…」
「いや、お嬢ちゃんの気配りの方向がちょっとばかりずれてただけで、お嬢ちゃんの優しい気持ちは俺にもわかってるからな。ほら、そんな顔してないで笑ってみな?にっこり笑うほうがもっと周囲をしあわせにできるぜ、お嬢ちゃんは。変な謙遜をするよりもな?」
「はい」
アンジェリークは、ほっこりと微笑んだ。無理をしたのではなく、心から嬉しくて自然と笑んだのである。
オスカーに窘められたというのに…その窘められた事実が何やら嬉しくて仕方なかった。
優しいのはオスカー先輩のほうだわ、ほんとにオスカー先輩は優しい…人の気持ちを考えるってどういうことか、真剣に『私』に言葉をかけて教えてくださった…それはオリヴィエ先輩へのお気遣いがメインなんだろうけど、それでも、私の考えなしな態度を正してくれようとしてくださった…自惚れないことと無闇に謙遜することは違うことだって、やたらな謙遜は自分を認めてくださった方の見識を貶めてしまうことにも通じるんだって教えてくださった…どうしよう、なんだか、とても、すごく嬉しい…
そう感じた時、アンジェリークは、はっと気付いた。
私…どうしてこんなに嬉しいの?
オスカー先輩に目をかけてもらうこと、気にかけていただけること、真剣に『私』に向き合ってくださったことが嬉しいんだ…それが耳に痛い言葉でも、私のためっていうより、オリヴィエ先輩のためかもしれないけど、それでも、私の言動をどうでもいいことって見過ごさないで、正そうとしてくださったのが嬉しいんだ…オリヴィエ先輩やジュリアス先輩にはまだまだ遠く及ばなくても、オスカー先輩が『万人向け』じゃない態度をとってくださったのが嬉しいんだ…そう、オスカー先輩が…誰でもいいんじゃない、オスカー先輩が私に真摯な態度で接してくださった…それが嬉しいんだわ…
それに気づいた時、宿題の答えが一つ出た。認めてもらって嬉しいのは『誰でもいい』わけではないと今ならはっきり言えた…その理由までは、まだ、自分でも上手く言葉を探せなかったけど…1つ出た答えだけでもオスカーに伝えたい、そう思って口を開きかけた。
「あの…」
「あ、ドレスはあんたのイメージで作るんだし、ショーが済んでも、それを着たまま後夜祭に出るといいよ。」
「え?あの、後夜祭って…?」
自分の主観では突然オリヴィエに話しかけられ、アンジェリークは上手く意識が切り替わらない。その時生徒会室のドアが微かな音と供に開いた。長身の人影が三つ立っていた。
「ほう、オリヴィエのドレスで後夜祭のダンスに参加するか…楽しみだな。その時は私と一緒に踊ってくれるか?アンジェリーク。」
ゆったりと優しげに笑む一際長身の男性を見上げ、オリヴィエが呆れたように言った。
「く、クラヴィス…、あんたって、意外と抜け目ないっていうか、さりげなく美味しい所を持っていこうとするっていうか…どうしてこう絶妙のタイミングで現れるかねー」
「一人占めはいかんぞ、クラヴィス。アンジェリークと踊りたいものは他にもいるだろうからな。」
「それはおまえのことか?」
「答える義務はないな」
「それは私のことですね。私とアンジェリークのパートナーシップを認めてくださってありがとうございます、ジュリアス先輩」
「…誰もそんなことは言っておらぬ」
生徒会室に現れた諸先輩たちの言動で、その場の空気が変わった。オスカーの先刻までの真摯な表情は跡形もなく消えうせ、不敵な笑みを口の端に浮かべている。
「はっきり言わないとわからない馬鹿もいるから、お嬢ちゃん、自分の意志はきちんと言葉に出せよ?でないと、なんでも都合のいいように解釈する図々しい男と踊りたくなくても踊る羽目になるぜ?」
「まったくその通りですね、いいですか、アンジェリーク。踊りたくない相手はきっぱり断っていいのですからね?ケダモノやばいきんの強引さに負けてしまってはダメですよ?」
「???…あ!後夜祭はダンスがあるんですねっ!だから、後夜祭のBGMはダンスミュージックが多いんですねっ!」
『…話題が何なのか今の今まで気付いてなかったのか…』
とアンジェリーク以外の面々がどーっと脱力したのは言うまでもない。
「後夜祭ではダンスのパートナーは前もって決めないんですか?」
「年度末のパーティーにはパートナー決めるけど、後夜祭のダンスは文化祭の打ち上げだからね、無礼講というか、基本的にパートナーはなし。予約なしで誰でも申しこめて、なおかつ申しこまれた方はよほどの事がない限り基本的には断わらないものなんだよ。同じ人をずっと一人占めするのもダメ。だから、クラヴィスやジュリアスには恐怖の一瞬、オスカーみたいなのにはこの世の春なんだ、後夜祭のダンスは」
「…あの習慣だけはどうにかならぬものか…」
「いやなら窯にでもこもっているのだな」
「それではアンジェリークと踊れな……いや…こちらのことだ…」
「も、申しこんでくれる方が一人もいなかったらどうしよう…」
「その心配はないと思うがな、お嬢ちゃん」
楽しそうに笑いながら、オスカーが請け負った。
「どうしても心配なら、たった1つだけパートナーを決める手立てもあるぜ」
「え?」
「フェスタでは、毎年フェスタのキングとクイーンを決める、ま、人気投票みたいなものだ。そしてキングとクイーンだけは後夜祭でペアとして皆の前でオナーダンスをすることになっている。だから、お嬢ちゃんがクイーンになれば自然とキングがパートナーになってくれるって寸法だ。尤も自分の好みの男がパートナーになるとは限らんがな?少なくともあぶれる心配だけはなくなる」
「は、はぁ…」
「つまり、キングとなれば男もパートナーが決るから後夜祭に参加しながらも鬱陶しい申し込み攻勢から解放されるのだな…」
考えこむ長髪組をよそに、アンジェリークはアンジェリークでかわいく顰めていた眉をはっとしたように解いた。
「そ、それって人気投票で決るって…考えてみたら単にパートナー決めるよりもっとハードル高いじゃないですかーっ!」
「自分がクイーンになれぬと決めつけることもないのではないか?」
「アンジェリークがクイーン、そして自分がキングになれば…後夜祭の間中堂々と一人占め…その手があったか……」
「ふ…今ごろ気付いたか?」
「…余裕だな…そうか、おまえは今年『キング』になるつもりだから、そのように泰然としているのか?自信のあることだな…だが、今年は私も本気を出させてもらおう…」
「望むところだ。無気力で鳴らしたそなたがどれほど周囲に己をアピールできるか、とくと見せてもらおう」
「先輩方…一言申し上げておきますが先輩方だけがキング候補ではないことをお忘れなく…」
ばちばちと遥か頭上で火花が散らされていることも露知らず、アンジェリークは自分にダンスを申しこんでくれる人がいますように!と真剣に案じていた。
そんなアンジェリークを慈しむ様に氷青色の瞳が見守っている。
一人パートナー論議から超然としていたオリヴィエは、更に高所からその様子を興味深げに見ていた。
日一日とフェスタの日が近づいてくる。
舞台を使用する団体はリハーサルに忙しい。各クラスやクラブは己の分担地区の飾り付けやら演目の準備に勤しんでいる。飾り付けやBGMの用意も着々と準備が整い、その使用する順番をきちんと把握し整理するのが生徒会執行部の仕事だ。
といっても、その事務処理は今、オスカーとアンジェリークの二人で行っているようなものだった。
ジュリアスは電気関係の保守の打ち合わせをゼフェルやルヴァとしている。リュミエールは芸術専攻の生徒たちと壁面を飾るパネル製作で忙しい。クラヴィスは急遽、フェスタで茶房を開くとか言出してその準備に余念がない。オリヴィエはドレス製作のため毎日自宅にすっ飛んで帰ってしまう。
そんな中でアンジェリークはオリヴィエのモデルを務める以外は、特に他の催しに参加しなかったので、オリヴィエのドレスの仮縫いや衣装合わせのない時は生徒会室に詰めて、時折くる質問や催事の変更点などの受けつけをしたり、舞台発表のプログラムを作ったりという雑事を引き受けていた。
そしてオスカーはアンジェリーク以上に常時生徒会室に詰めていた。特に大きな催しや演しものには敢えて参加せず、フェスタの方では裏方に徹する所存のようだった。舞台発表の司会も自分がするという。
たまにオリヴィエが心配して顔を出しても、オスカーは「用はない」といって追い出す様にオリヴィエをすぐに帰してしまう。
オスカーは何も言わなかったし、顔にもだしていなかったが、アンジェリークはオスカーが、こっちのことは気にせず自分のしたいことに専念しろと、オリヴィエに言ってあげているような気がしていた。
体育祭の時は応援団長としての練習が忙しくて進行にほとんど携わらず、すべてオリヴィエに任せてしまっていた。だから逆にフェスタでは、オリヴィエが心置きなくショーの準備に専念できるように、雑事は自分が引き受ける。そういうことを、オスカーはさりげなくできる人だった。それをアンジェリークは知っている。
そして、司会として全体の進行をきちんと把握しなければならないオスカーと、プログラムを作ったり、催し物のデータを管理しているアンジェリークは必然的に交す言葉も、一緒に過ごす時間も多くなる。進行上の変更があれば、即刻オスカーに知らせねばならないし、オスカーも何かはっきりしないことがあればアンジェリークに尋ねてくる。
そういう時のオスカーは無駄な言葉はほとんど発せず、質問は簡潔で、それに対する返答も僅かでも曖昧な部分があれば改めて聞きなおされるので、アンジェリークもすぐに簡にして要な返えを心掛けるようになった。アンジェリークからの質問がある時も、オスカーは丁寧かつ明確に答えてくれる。即座に答えがでないときは、二人で問題点を整理して話し合うと、大抵のことはジュリアスやクラヴィスに判断を仰がなくてもことは足りた。
オスカーと仕事をするのは、とても楽しく、充実していた。忙しい他の執行部員の分もオスカーの手助けをしなければと思うことは、やりがいでこそあれ、重圧ではなかった。オリヴィエや他の執行部員が自分のするべきことに専念できるよう何も言わずに裏方を引き受ける、そんなオスカーの人となりにアンジェリークは眩しいような気持ちを感じるからだった。
ただ、話す内容は、やはり仕事がらみのことばかりだったので、二人でいる時間がたくさんあるにもかかわらず、相変わらずアンジェリークはオスカーの抱える葛藤について触れる事は愚か、オスカーに『宿題だ』といわれた事柄についても、自分から話す切っ掛けが掴めず言出すことができていなかった。
生徒会室ではいつでも真面目なオスカーな横顔を見ていると、唐突にそんなことを話しかけるのがとてつもなく場違いな気がして、アンジェリークは言いたい事がいまだに言出せない。
「誰でもいいのではなく、オスカー先輩に認めていただけたら嬉しい」とわかったことを伝えたいと思っていた。なぜオスカーに認められると嬉しいのかも、最近おぼろげながら見当がついていた。自分がオスカーにある種の敬意を抱いているからではないかと思うのだ。
側で仕事をしていると見えてくるものがある。オスカーは、周囲のうわさどおり優秀な人だった。でも、アンジェリークがオスカーを「すごい人」と思うのは、その優秀さや容姿より、今では、その心ばえが立派な人だと思うからだった。自分の考えなしな言葉を窘めてくれたこと。オリヴィエや他の執行部員にしたいことに専念してもらうために誰にいわれなくても自分から裏方を引き受けるような、そんなさりげない優しさ。しかも、その優しい行為を決して声高に行わない。誰が知ろうと知るまいと関係ない、己が為すべきだと思う事をしているだけだという、淡々とした態度。それは自分の内に揺るぎ無い信念のようなものがあるからではないかと思う。
アンジェリークは、オスカーがとても優しいこと、これ見よがしでなく他人の立場にたって、その人たちのために行動できる事、それを人間としてあたりまえのことと思っているらしいことなど、どれも人間としてとても立派だと思った。潔く男らしく、見ていてすがすがしく感じる。人間として憧れる。
自分が憧れるような人だから、そんな人から認めてもらえたら嬉しいと思うのではないかとアンジェリークは考えた。
自分の内部に確固とした価値観というか強い信念のようなものを感じさせる人、なのに、頑なさはなく、むしろ、男らしい優しさに満ちている人。
でも、そう感じるようになって、余計に気になるようになった。こんなにすごい人が、折り合いのつけられない葛藤とは何だろう、こんなに男らしい人が荒んだ持ちを露にしてしまうような事情とは何なのだろうと。
考えれば考えるほどわからない、でも、考えずにはいられない。自分に何かできるかどうかわからないけれど…実際には何もできないかもしれないけど、でも、オスカーに何もかも諦めきったような笑顔などしてほしくないと思った。
アンジェリークは自分の胸に芽生えたこの気持ちにまだ名前を見出せていなかった。
考える事は自分のことではなく、オスカーのことばかりだったから。
オスカーが生徒会室にいりびたっているのは、確かにアンジェリークが思った通りの理由だったが、実はそれだけが理由でもなかった。
執行部の仕事に専念していれば、わずらわしい秋波から逃れられる。この面も大きかった。
体育祭の応援合戦で多くの女生徒たちをあわや失神させるほどに魅惑してしまい、それ以来オスカーへの嬌声はいや増すことはあっても、衰えることを知らない。登校時、休み時間も、ひきもきらず声がかかるし、机やロッカーは俗にいうラブレターで隙間がなくなってしまい機能停止しているような有様だ。
それがオスカーにはわずらわしくて仕方ない。少し前まで、このわずらわしさも含め、モテるという事態を楽しんでいたが、今は厭わしさばかりが鼻につく。この生徒会室にいればそのような喧騒から距離を保っていられるのでオスカーは最近空き時間はいつもここにいる。
この生徒会室は執行部員以外には敷居が高いらしく一般生徒はほとんど近づいてこない。アンジェリークは無思慮な嬌声を浴びせたりしないでくれるから、オスカーも自分を演出する必要がなくてなんとなく、息をゆったりとつける。
アンジェリークには口先だけの口説き文句をいう必要がない。というより、偶にそれらしい事を言ってもあまり効果がないことに気付いた。すぐに、本人が通り一遍の口説き文句より『自分自身』への言葉が嬉しいといっていたことを思い出した。それ以来オスカーは実のない口説き文句は一切言わなくなった。
空虚な口説に時間を費やす必要がないから、時折交す言葉はどこまでも実利的で充実したものだった。行事の進行に曖昧な点があっても、すぐ必要なデータが揃えてもらえるし、話し合う内に大抵のことはカタがつく。諸先輩や同期との会話を端で聞いていると、気の回らない部分もあるのに(そして、それは彼女自身にまつわる事柄が多かった)他者が関わることになると、その気配りや、回転の速さは見ていて小気味よいほどだ。時折生徒会に報告される変更点や質問にも、誰に対してもいつも真剣に誠意を持って、そして機敏に対応していた。そのギャップがまたオスカーは見ていて飽きないのだった。浮ついた嬌声を浴びせられ、心にもない口説で応えていた時間が馬鹿馬鹿しくなってしまう。ここで、この子と手応えのあるやりとりを楽しみ、雑事をこなし、でも、ときどき返ってくるすっとぼけた会話に自然と微笑む、そんな時間が楽しかった。
そして、アンジェリークに考えてくれといったことをオスカーは覚えていたが、アンジェリークの方から何も言出してこないから、もう忘れているのだろうと思っていた。他者には気が回るのに(偶に的外れなことがあるが、その気持ち自体は尊い物だとオスカーは思っていた)自分自身の問題には疎い彼女のことだから、忘れてしまっても仕方ないと思った。若干の寂しさは否めなかったが…
一方、オスカーが放課後も休み時間もそそくさと生徒会室に姿を消してしまうことに、大半の女生徒たちは不満を抱きながらも仕方ないと諦め、今までどおり我先に目立とうという短絡的なアプローチを繰り返していた。なにせ学園でも年間で一番大きな行事が差し迫っているのは、皆承知のことだったので執行部員が生徒会室で雑事に精励するのは当然のことだったし、また、そうでなければ文化祭の成功どころか無事の開催も危ういのだから。
しかし、極少数の女生徒は、オスカーが生徒会室にこもるなら、そこまでも追いかけなくては自分の存在を認めてもらえないと思ったのかもしれない。フェスタの後夜祭で供にダンスをしてもらうためにとにかく自分を印象付けねばとの焦りもあったのかもしれない。ある日、数人の女生徒たちがものすごい勢いで生徒会室のほうから走り去っていった。彼女たちが去った後には幾つかのかわいらしい封筒が生徒会室のドアの隙間に無理矢理のように挟まれていた。
フェスタ開催の一週間ほど前だった。
アンジェリークはその日、まっすぐ生徒会室に向った。ドレスは最後の仮縫いももう終わっていて、あとは完成を待つだけだ。オリヴィエはこれから最後の追い込みだと言って、とっとと帰ってしまっていた。
生徒会室に向う廊下で、やはり放課後真っ直ぐ生徒会室に向う所だったオスカーとばったり出くわした。自然と肩を並べて生徒会室に向かうことになる。
「今週末はもうフェスタですね、なんだか嘘みたい…」
「お嬢ちゃん、楽しみか?」
「ええ、とっても。この学校の文化祭ってほんとに盛大なんですもん。その進行に関われて嬉しいです」
「後夜祭のパートナーの当てはなくてもか?」
オスカーがついからかう様に問うと、アンジェリークが傍目にもぎくっとした。
「…そ、そんな怖い事言わないでください〜、し、真剣に慄いているんですからー!」
「はは、冗談だ。お嬢ちゃんなら申しこみは殺到するさ。」
しかし、アンジェリークはじとーっとした視線でオスカーを見据えている。オスカーの言葉がこの場限りの誤魔化しというか、根拠のない安請け合いと思っているようだった。オスカーは苦笑した。
「…と言っても不安なようだな、じゃ、俺がお嬢ちゃんにダンスを申しこむ、それならもう心配いらないだろう?」
「ほんとですかっ!」
ぱっと笑顔が花開いた。
「ああ、約束しよう」
「ありがとうございますっ!とっても嬉しいです!」
その満面の笑顔にオスカーも嬉しくなった。彼女の笑顔を自分に向けさせたいと思っていた。そして、一度見たら何度でも見たくなる笑顔だなと思った。執行部のメンツが彼女にいろいろ目をかける訳もわかる。こちらの示す厚意を欠ける所なく汲み取り、変に勘繰ることもなく、満面の心底嬉しそうな笑顔を返してくれるからだろう。
「そんなに喜んでもらえるとは光栄だな」
すると、アンジェリークが心から嬉しそうに、頬を染めてこう続けた。
「だって、私、わかったんですもん。オスカー先輩に認めていただけると嬉しいんだって。誰でもじゃなくてオスカー先輩に認めていただけるのが嬉しいってわかったんで…」
はっとしたように立ち止まってアンジェリークは口を掌で覆う。するりと言ってしまったけど、こんなところで言うことじゃなかった?ううん、それよりオスカー先輩はもう、忘れちゃってたことかもしれないし…いきなりこんなこと言っちゃって変な子だって思われた?
どきどきして怖いものを見るように、オスカーを見上げた。オスカーも立ち止まっておどろいたように瞳を見開いていた。
「…お嬢ちゃん、俺の出した宿題を覚えていたのか…何も言わないからもう、忘れちまったんだと思ってたぜ…」
「ち、違います!ずっと考えてて、気になってて、答えもあの…出てたんですけど、どうやって切り出していいかわからなくて…突然言っても、オスカー先輩は何の気なしにおっしゃったことでもう忘れてらっしゃるかもしれないなんて考えてしまったら余計に言出せなくなっちゃって…」
「そうか…ずっと考えててくれたのか…」
アンジェリークが驚くほど優しげで、それでいてどこか切ないような瞳でオスカーに見つめられた。その瞳に縛られたように視線が逸らせなくなった。どきどきが更に激しくなって自分の鼓動がオスカーに聞こえてしまいそうな気がした
「そして答えは出たんだな?聞かせてくれるか?」
「あ…はい…私、オスカー先輩に人として認めていただけるのが、うれしいみたいなんです。誰でもいいんじゃなくて、オスカー先輩に認めていただけたら嬉しいと思います…」
「その訳は?なぜ、俺に認めてもらえたら嬉しいのか、その答えも出たか?」
ビロードで耳朶をそっと撫でられたかと思うほど、柔らかく包みこまれるような声だった。その声に誘われるように流れるように自然に答えていた。
「オスカー先輩は立派な方だから…人として…そんな方に認めていただけたら嬉しいですもの…」
「なんだって?俺が…立派だと?人として…だと?」
今までも彼女には驚かされる事が多かった。だがこれほど面食らったことはオスカーには絶えてなかった。
「俺の何を見たら、そんなことがいえる…んだ?」
「え…それは…ご一緒してて思いました…オリヴィエ先輩や他の先輩たちが好きなことに専念できるように自分から雑事をなんでもお引き受けになったり…私の考えなしな言葉を窘めてくださったり…お優しいかただなって…それを余り表におだしにならないけど…」
「お嬢ちゃん、君は…俺を買い被ってる…」
「そんなことありません。オスカー先輩は…男らしくて、優しい方だと思います。それをひけらかしたりなさらないところも素敵だと思いました。そんな方に人として認めていただけたらうれしいと思います…」
「お嬢ちゃん、俺は…」
「それにオスカー先輩が教えてくださったじゃないですか、無闇な謙遜は美徳ではないって…」
「これは…一本とられたな…」
オスカーが文字通り苦笑した。苦笑いという感じだった。
「そうだな、お嬢ちゃんは、俺の事を認めてくれたんだから、その事には礼を言わんとな、だが、それがどれほど買い被りかはそのうちわかるさ…お嬢ちゃんは俺のことを良く知らないからそんな風に買い被るんだ…」
なぜか、オスカーがとても寂しそうに見えた。アンジェリークは慌てて言い募った。
「そ、そんなことないです!それなら、オスカー先輩のこと、もっと教えてください!買い被りだなんてそんなことないと思うけど、はっきりとそう言えるようにオスカー先輩のこと、もっと知りたいんです…」
言った…言ってしまった…自分で自分の大胆さに驚いた。でも、今いわなければ、きっとずっともどかしいままだと思ったから…
そしてオスカーは瞬時絶句した後、無理に絞り出したような声音で重ねて問うた。
「俺のことが知りたい?なぜ?知ってどうする…」
「ご、ごめんなさい、わきまえの無いことを言って…でも…オスカー先輩は悲しそうに笑うから…なにかあきらめたみたいに…なげやりに哀しそうに笑ってらしたから…私、そんな笑い方、オスカー先輩にしてほしくない。でも、私はオスカー先輩がなぜそんな風に笑うのか理由がわからないから…オスカー先輩みたいに、強くて優しい方がどうして何もかも諦めたような笑い方をするのかわからない…胸が痛くなるんです…でも、私は何も知らないから、何もできない…それが…いやで…だから…」
「俺が…?哀しそうだった…?」
「オリヴィエ先輩やジュリアス先輩とお二人でお話なさってるとき、そんな風に見えたことがあったんです…ごめんなさい、覗き見するようなつもりじゃなかったんですけど、お声がかけられなくて…それで、気にかかっていたんですけど、オスカー先輩のプライバシーだから…伺ったりしちゃいけないと思って…黙ってました…私の気のせいかもしれないとも思ったし…でも、オスカー先輩、今も、とても悲しそうだったから…哀しそうに寂しそうに俺の事を知らないからだ、っておっしゃるから、それなら、私、オスカー先輩のこと、もっと知りたいと思います、教えていただきたいと思います…何もわからないままだと何もできないから…何もできないのが、嫌なんです…」
「お嬢ちゃん…君は…」
その時、開けはなれた窓から校庭で誰かを呼んでいる声が聞こえ、二人ははっと我に返った。
「その…こんな所でする話じゃないな…一度部屋にいくか…」
アンジェリークは黙って頷いた。顔がかーっと熱くなった。きっと耳まで真っ赤になってると思う。一度勢いが削げてしまうともう恥ずかしさで顔が上げられなかった。なんであんなにオスカーの内面に踏み込むようなことを言ってしまったのだろう。今しか聞けないと思ったからといって余りに浅薄ではなかったか。わきまえのない子だときっと、見下げ果てられた…そう思うと顔もあげられなかった。
きまずい沈黙のまま二人は生徒会室の前についた。無意識のようにオスカーがロック解除ナンバーを打ちこむ。ドアが開くと同時にぱさりと何かが落ちた乾いた音がした。
「あれ…これ何?」
かわいらしい封筒が何通か落ちていた。一番上に落ちた封書の署名が目に入った、クラスメイトと同じものだった。宛名は全てオスカーの名前だった。
「オスカー先輩、あの…」
「どうした?お嬢ちゃん、入らないのか?話の続きは部屋の中の方がいいだろう?」
「あ、はい、あの、でも、オスカー先輩にお手紙が…」
そう言って封書を差し出した時、オスカーの顔に走った表情をアンジェリークは見逃さなかった。なにか嫌なものでもみるような、まさに、氷のような一瞥をその封書に投げたような気がした。
「いいから、まず部屋に入ろうぜ、お嬢ちゃん」
何事もなかったように言うオスカーに促され、アンジェリークは慌てて生徒会室に入った。先刻までのきまずさとは異質の、底冷えのするような気まずさを感じてアンジェリークの足はもつれそうになった。