曲はワルツからゆったりとしたブルースに替り、次いで軽快なウインナワルツとなった。オスカーとアンジェリークは園庭の中央で、互いを見詰め合ったまま、踊り続けていた。まるでこの会場には自分たち以外存在しないかのような、互いの存在以外目に入っていないかのような雰囲気が二人の周囲にはただよっている。
キングとクイーンは後夜祭ダンスの象徴なので、他のカップルもこの二人とは意識して幾分の距離を置いて踊るのが不文律となっている。その事実を以ってしても、オスカーとアンジェリークのダンスには、何か他者には近寄りがたい厳かな不可侵性のようなものがあった。なので、尚のこと、この二人の周囲には他の人影は近づかない。2人は互いに互いのことだけを見つめ踊り続けた。
しかし、3曲目が終わる頃にはアンジェリークの息が少々荒くなってきた。オスカーはすぐそれに気付いた。アンジェリークのことしか見ていなかったから、彼女の些細な変化も見逃すはずもない。その上、ウインナワルツの次にかかった曲はジルバだった。テンポの速いスウィングジャズに合わせて踊るジルバは動きが単純な割にノリがいいので、会場では更に踊りに加わるカップルが増えた。しかし、間断のないターンをくるくると繰り返して舞うこのダンスは女性の動きが激しく体力的負担が大きい。もう3曲踊ったし、無理をする道理もないとオスカーは思う。
「お嬢ちゃん、少し、休むか?」
オスカーは、ホールドは解かぬまま、アンジェリークに話しかけてみた。
「え?あの…休憩してもいいんですか?」
アンジェリークがびっくりしたように瞳を見開き、生真面目に尋ね返してきた。
オスカーは思わず口元を綻ばせる。
「ああ、もちろんだ。2時間ぶっ続けで踊るなんてプロのダンサーでもないとキツイだろう?」
「私…キングとクイーンは後夜祭の間中踊っているんだと思ってました…」
「最初のオナーダンスが済めば、休み休み好きな曲を踊るだけでいいんだ。もちろん、踊れるならずっと踊っていたっていいんだが…」
自分はできれば、ずっとこの手を離したくないから本当ならこのまま踊っていたい。手袋越しでも彼女の体温を感じとり、華奢な身体に手を沿わせていたい。でも、彼女にはそれほどの体力はないだろうから、自分のわがままで無理をさせるのは忍びない。そう思って休息を提言した。
しかし、アンジェリークは何故か、切実さを感じさせる瞳でオスカーの誘いを言外に断ろうとした。
「私…このまま踊っていたい…オスカー先輩と踊っていたいんです…」
だって、今だけだもの、こうして公然とオスカー先輩とご一緒できるのは、オスカー先輩を思いきり見つめてもいいのは…
ダンスしている間はオスカー先輩と一緒にいられるから…それは今だけだってわかっているから、出来る限りオスカー先輩のおそばにいたい…
「お嬢ちゃん…」
オスカーはアンジェリークの切切とした瞳にどきまぎしてしまう。何故アンジェリークがそんなに無理をしようとするかの見当が付かない。
確かに疲れが見えているのに。…俺だって本当はこのまま君と踊っていたい、でも、何故、こんなに必死にすがるような面持ちで俺を見つめるんだ?そんな目でみつめられたら、俺は…俺は期待しちまう、君のその瞳の意味を。俺と踊っていたいという君の言葉を、自分の都合のいいように考えたくなっちまう…
「お嬢ちゃん、そんな…無理する必要はないんだぜ?少し、息が荒い、休んだ方がいい」
オスカーは半ば無理矢理のように、ステップを踏むのをやめて立ち止まった。
アンジェリークは諦めたように吐息をついた
オスカー先輩を見ていたい…なるべく側にいたい、できるだけ近くに…それは今だけだから、踊ってる時だけ許される至福だから…だけど、それは自分だけの気持ち。今この時を惜しんでいるのは私だけ…そう思い知らされたような気がした。
「はい、わかりました…」
気落ちした様子のアンジェリークを、オスカーはやはり疲れたのだろうと解釈した。注目され視線に曝されつづけるのも存外疲れるものだから。オスカーは踊っているカップルのあいまを巧みに縫って園庭の隅にアンジェリークを導き、そこにしつらえられた椅子にアンジェリークを強引に座らせた。
「お嬢ちゃん、いいか、ここで休んでるんだ、動くんじゃないぜ?」
そういって自分は踵を返してその場を離れようとした。
「や…オスカー先輩…」
アンジェリークは立ちあがりかけた。思わずオスカーを追いそうになる。
「いいか、すぐ戻ってくる、待ってるんだ」
オスカーは振り向きざま噛んで含めるようにアンジェリークに言聞かせると、今度は振りかえらずに会場の雑踏に姿を消した。
アンジェリークは脱力したようにストンと浅く椅子に座りなおした。オスカーの言葉を頼みにするも、寄る辺ない気持ちのまま、仕方なくオスカーを待つ。この2時間しかないとわかっているから、ほんの片時もホントは離れたくない…先輩、早く戻ってきて…と口の中で呟く。オスカーはすぐ戻ってくると言った。その言葉を信じてないのではない、オスカーとは後夜祭の後に約束もしている。なのに、なぜだか不安になってしまう…
自分で自分の気持ちを掴めずに困って嘆息していると、ほどなくしてオスカーは手に飲みものと軽食を抱えて戻ってきた。しかも、かなり息せき切って。
「済まない、お嬢ちゃん、待たせたか?」
「せんぱい…いえ…」
アンジェリークはゆっくりと首を振った。
途端に世界が色を取り戻す。胸につかえていた重しが霧消する。周り中が明るくなったような気がする。まるで魔法のようにオスカーの周囲が、いや、オスカーの存在自体が周囲を明るく照らしだしているような気がした。
オスカーがいるかいないか、それだけでどうして周りの風景がこんなに違ってみえるのか、オスカーが自分の側にいてくれるのは今だけなのに、この浮き立つような明るさに慣れてしまったら、いつのまにかその明るさを欲するようになってしまったら…自分が苦しいだけだとわかるのに、今のこの気持ちはもう、誤魔化しようがない。
だって先輩が急いで戻って来てくれた、なのに「待たせたか?」って尋ねてくださって…これだけで胸が痛くなるほど幸せになってしまうんだもの、私…
アンジェリークは切ない戸惑いを持て余して、ついオスカーをじっと見つめてしまう。
アンジェリークが何か訴えたさそうな顔をしていることにオスカーも気付く。子猫のような人恋しげな瞳に、心が落ち付きを失う。頼りなげな風情に手を差し伸べたくなる。だが内心の動揺を無理に抑えこむように、オスカーは軽妙な人をからかうような口調でアンジェリークに話しかけた。
「お嬢ちゃん、食いものを少し持ってきた。何かつまんだら元気が出るんじゃないか?ほら、今、俺が食べ物をもってきただけで、顔色が明るくなったみたいだ。お嬢ちゃんは意外とくいしんぼうなのかな?さっきまで迷子の子猫ちゃんみたいだった顔が、皿を前にしたら急に生き生きしてきたぜ?」
「先輩ったら、もう…」
アンジェリークは泣きたくなるような気持ちで微笑んだ。
私の顔色が明るくなったとしたら、それは先輩が戻って来てくださったからだ。先輩は、私が少し疲れていたことも、私が何か頼りない心持ちでいたことも気付いて、元気付けようとしてくださってるんだ…私には先輩が今、側にいてくださることが一番嬉しいのだけど、先輩はそんなこと思いもよらないだろう…でも、オスカー先輩はやっぱり優しい、あの事があった前みたいに優しくしてくださる…私にはそれと気付かせないような軽い口調で気遣ってくださってるのがよくわかる…
やっぱり、私、この人が好き…この人の、人にそれと気づかせまいとするさりげない優しさが…好き。一杯辛い思いをなさってきたのだろうに、それは悟らせずに、尚更人に優しくできるこの人が好き…
幾分明るく満たされた顔つきになったアンジェリークにオスカーはほっとする。
「少し元気になったら、また俺と踊ってくれるか?」
「先輩、また、踊ってくださるんですか?」
「あたりまえじゃないか…できれば、宴が果てるまで踊りたい…この宴が果てなければいいとさえ思う…」
「先輩…それって…」
どういう意味?まさか、私と一緒?私のように、この一時がずっと続けばいいって先輩も思ってらっしゃるなんて…まさか…そんなこと…
アンジェリークの胸が抑え様もなく高鳴る。
「俺はキングで、君はクイーンだ。君のエスコートをする権利があるのは俺だけなんだからな」
オスカーはその言葉に誇らしさと喜びを噛み締めていた。君をエスコートできるのが他の誰でもない、この俺でよかった、俺だけに許された特権でよかった、そんな気持ちが言わせた言葉だった。
「そう、そうでしたね…」
だが、アンジェリークにはそれは役割上の義務…と聞きとれた。
そう、オスカーが優しいのは、オスカーがキングで、自分がたまたまクイーンになったから。あくまで儀礼上の優しさ、義務感故の優しさだったのに…
つい、忘れてしまいそうになった。つい、期待しそうになった、オスカーが自分を気遣ってくれるわけ、自分に優しくしてくれる訳を見誤る所だった。それが余りに甘美な誘惑だったから…
オスカーの優しい心遣いは、即ちクイーンが誰でも、キングがクイーンに示す役割としてのギャラントリーなのだ。変に勘違いしてはいけない。
そう思うと、正直寂しかった。気落ちしそうになった。でも、すぐに自分に懸命に言聞かせた。
それでも、この機会は…私にはかけがえのないものだ。この上ない貴重な宝物だ。たまたまでも、役割上の義務であってもオスカーとこうして話ができた、優しく気遣ってもらえた。キングとクイーンにならなかった時のことを思えば、今がどれだけ恵まれた状況か比べられないほどだもの。私は、このめぐり合わせに感謝してる。がっかりすることなんて……ない。思いがけない贈物のように手にいれたこの一時だもの、他のことは考えずにただ、この時間を大事にしようってさっき思ったばかりなのに…ダメダメ…哀しくなるようなことは考えないで、嬉しいことを考えなくちゃ…
「オスカー先輩、私、クイーンになれて…オスカー先輩がキングになってくださって、本当に嬉しい…本当によかった…」
アンジェリークはしみじみとオスカーにこう言った。昂然と顔をあげ、真っ直ぐにオスカーを見つめて澄み切った笑顔を見せた。
私は恋してる…目の前にいるこの人に恋してるって今ははっきり言える。でもきっと、今から数時間後には私はこの気持ちに何らかの折り合いをつけなくちゃならないだろう。オスカー先輩のお話を伺って、私の気持ちをお伝えしたら…どんな形であれ何らかの答えが出るだろう…
そう考えたら、オスカー先輩とパートナーを組めるこの時間は、何かが私の恋心に向けて与えてくれたはなむけ、手向けみたいにも思える。
だから、今を大事にしなくちゃ、考えても仕方ない憂慮で心を曇らせないようにしなくちゃ、せっかくのプレゼントを台無しにするようなこと、自分からしてはダメ。今、この時間を大事にできたって自信を持っていえれば、どんな結果になっても、きっと潔く受け入れられるような気がするから…そうできるよう努力しよう…
そんなことを考えながらアンジェリークはオスカーを見あげる。すると何故かオスカーもアンジェリークを目を細めるように見つめ返してき、少し口篭りながらぽつりと語った。
「…お嬢ちゃん、それは…俺もなんだ…そう言ったら信じてもらえるだろうか…」
「…え?」
「いや、なんでもない…もう少ししたら、また踊ろう…な?」
オスカーはアンジェリークを眩しいような思いで見つめた。先刻、子猫のような頼りない瞳の色にどきまぎさせられ、その時も目が離せないと思ったが、それより、今のアンジェリークの方が、更に目が離せなかった。心配で目が離せないのではない。内側から透き通るような、それでいて綿毛のようにほんわりと柔らかく温かみのある笑みがオスカーの目を強い力で惹き付けて離さないのだった。
限りなく柔和で、それでいて力強さも感じさせる笑顔…この笑顔が、傍らにあってくれれば…俺はどんな汚辱に塗れた世界でも、どんなに光明の見えない世界でも、誇りをもって行く先を過たず進むことができる、そんな気がする…
俺は…俺はもう、こんなにも激しく彼女を求め、欲していたんだな…
オスカーは灼けつくような…まさに彼女に焦がれる想いを今、改めて感じ入っていた。
アイツに言われた通りだ…遠ざけようと、無理矢理引き千切るように遠ざけようとした時点でとっくに手遅れだったのだ…だから、俺は尚更彼女に謝らねばならない。無益な俺の足掻きのせいで、君を酷く泣かせ傷つけてしまったことを…
この笑顔に、許されたような気になっては、いけないんだ。
だが彼女を独占できるこの役得は、天が俺の恋心を哀れんで下賜したもうた物かもしれないな。期限も決っていることだし、それなら、その権利を遠慮なく行使しても罰はあたるまい……シンデレラってのはもしかしてこんな気持ちで王子と踊ったのかもしれないな…
自分で自分の喩えが可笑しく思えてオスカーは、ふと笑った。
「お嬢ちゃん、そろそろ、踊ろう、曲は折りよくムーディーなスローバラードだ…」
「あ、はい、先輩、喜んで…」
オスカーはアンジェリークの手をとり、園庭に導いていく。オスカーとアンジェリークの登場に他のカップルが自然と場所を空ける。2人は再度ホールドの姿勢をとって真っ直ぐに見詰め合い、流れるように踊り始めた。
オスカーはその後、ディスコミュージックのようなアップテンポのダンスではアンジェリークを休ませ、きっちりとホールドを組むしっとりとした曲調のダンスを好んでアンジェリークをリードした。
やっかみの声や視線もあったのかもしれない。しかし、大半の生徒たちは静かに、賞賛と羨望の眼差しでこの二人のダンスを見つめていた。迂闊に揶揄などできないような、どこかとても真摯で真剣な雰囲気が嫌でも2人から伝わってきたからだった。
後夜祭が始まる頃には薄暮だった空もいつのまにかとっぷりと暮れた。月が中天を目指して登って行こうとしている。執行部員たちも、ダンスの申しこみを卒なく捌いて、それぞれで楽しんでいるようだった。ジュリアスが時計をにらみ、ダンスを申しこんできた女生徒にしばし待ってほしいと手で合図して、本部席でラストダンスの宣言をした。
「後夜祭のダンスもこれがラストナンバーとなる。園庭にいるものは可能な限りパートナーを見つけて踊って欲しい」
最後の曲は、始まりと同様ワルツだった。
オスカーとアンジェリークももちろん踊る。この一曲で終わりなのだと思うと、互いに何も言葉が出ない。黙って見詰め合ったまま、この一時を惜しむように揺るやかに踊る。最後の一章節が終わり、ぴたりと二人の動きが止まった。同時に二人の唇から微かな嘆息がこぼれた。様様な思いの入り混じったものが。
間髪をいれず、ジュリアスが高らかに宣言を行う
「これにて、ハーベストフェスタ後夜祭を終了する!」
ジュリアスの宣言に重なって花火が盛大に打ち上げられた。
生徒たちは皆一様に空を仰いで盛んに拍手を送る。
だが、オスカーは、この時を逃さず
「お嬢ちゃん、行こう。ごったがえす前に」
とアンジェリークの耳元に囁いた。
「え…?」
オスカーは断固とした様子でアンジェリークの手を取り、ストールを羽織らせてからその肩を殊更しっかり抱きなおし、そっと、しかし、足早にダンスの輪の中から抜け出した。
アンジェリークは何がなんだかわからぬまま、オスカーに肩を抱かれて後夜祭会場を後にした。
肩を抱かれた拍子に髪飾りの花びらが幾枚か散って零れた。
周囲が花火に気を取られている隙に抜け出す事には成功した。あのままぼーっとしていたら、俺も彼女もどこからどんな横やりが入るか知れたものじゃない。打ち上げに誘われるのも今日はご免被りたい。キングとして彼女を独占できる役得は、後夜祭終了と同時に消滅してしまうのだから。
オスカーは、誰にも邪魔されないところで二人で話をしたかった。
自分の出自を含め、他人にはあまり聞かせたくないことを口に上らせるつもりだったので、人目のある所には行きたくなかった。
だが、どこに行ったものか…
オスカーは後夜祭が始まる前、個室のある飲食店に幾つか空きをあたってみたのだが、これは、と思った店は軒並み全滅だった。各クラブやクラスの打ち上げ、この文化祭を見に来た近親者と会食する生徒も多数いるので、文化祭当日のこの街の飲食店の予約は数ヶ月も前から埋まってしまうことをオスカーは思い出した。しかし、自分がアンジェリークと約束できたのはつい先刻なのだから、こればかりはいかんともしがたかった。
他にも誰にも邪魔をされない場所はあることにはあるが…学園の近隣にある散在する三ツ星のホテル、さもなくば自分の部屋…一瞬頭にうかんだそんな所にアンジェリークを誘うことは更に論外だとすぐにその考えを振りきった。
オスカーは、正門を目指していた歩みを一瞬止めてアンジェリークに話し掛けた
「お嬢ちゃん、俺は、君に聞いてもらいたい話がある。そういって君に時間をもらった…」
「え?…は、はい…」
アンジェリークはいきなりのオスカーの提言に心臓が止まりそうになった。
しかし、続くオスカーの言葉はアンジェリークが案じていた本題ではなかった。
「俺はその話を君以外の人間には聞かれたくないんだ…だが、すまん、今夜はスモルニィがこうなので、街の店で個室の取れる所がみつけられなかった…」
オスカーは、アンジェリークの返答次第では日にちを変えるつもりだった。気がそがれてしまうのは否めないが、場所を選ばず自分の心の奥深くにしまっていたものをどうでもいい第3者に垂れ流してしまうことだけは避けたかった。
だが、アンジェリークはオスカーが何を謝っているのか、わからなかった。
「あの、私も先輩に聞いていただきたいお話があるんですけど、私も周りに人がいないほうがいいんです、でも、周りに人がいなければいいのなら…それなら、お店じゃなくてもいいんじゃないですか?」
「それは…?」
「この学園の奥の裏庭とか…東屋とか…あの東屋、知っている方はほとんどいないっていいますし。文化祭の打ち上げで、今日は皆街にくり出しちゃうだろうから、わざわざ裏庭に来る人もいないと思いますし…」
「お嬢ちゃんは…それでいいのか?きちんとした店にも連れていってやれなくて…?日をあらためてもいいんだが…」
「どうして?私、先輩とお話できれば…大事なのは二人でお話できるかどうかだから…」
「…そうか、君がそう言ってくれるなら…あの東屋に行ってみるか…」
「はい…」
二人は裏庭に向って人気のない細い遊歩道を寄り添うように歩いていった。
もともと広大なスモルニィの敷地にあって一般の生徒があまり知らない、立ち入らない一角という場所はそこここにある。
わけても最奥の裏庭は豊かな植栽があるだけで他に特に見所もなく、視界も悪く静か過ぎるので存在自体がほとんど忘れられている。裏山の麓に作られた東屋もいかにも体裁を整えるために置いたとでもいうようで、それ以上は庭園としての整備が置き去りにされてしまっているので、余計に人が入ってこない。
その東屋に向う細い遊歩道も2人並んで歩くのがやっとの幅しかない。それを利するかのようにオスカーはしっかりとアンジェリークの肩を抱いたまま歩を進めている。ポツンポツンと散在する古風なガス灯を模した街灯が長く淡い影を投げ掛ける。他に光源はといえば時折庭園の方向の空に広がる花火の照り返ししだけだ。
花火もまだあがっているし、後夜祭の終了宣言はされても学園内にまだまだ人は残っているであろう。だが2人の耳には花火の残響が時折聞こえるだけで、深い植栽が音を吸いこんでいるのかのように表の庭園のざわめきはここには伝わってこない。むしろ、自分の鼓動の方がよっぽど耳につく、とオスカーは感じてしまう。
どさくさに紛れるように細い肩に腕を回した。アンジェリークに何も言われないのをいいことに、そのまま腕を解かずにしっかりと肩を抱いて歩いている。
でも何も言わない彼女は心の中でどう思っているのか。嫌なのだが言出せないのか、それとも本当に嫌がらずにいてくれているのか…
…俺と踊っていたいと言ってくれた、俺がキングでよかったと言ってくれた、透き通った笑みを投げかけてくれた、アンジェリークの言葉や仕草のひとつひとつに心が震えてしまう。胸の奥に灯が灯ったような気がする。様様な予兆がオスカーの気持ちを浮き立たせる。その一方であまりいい気になるな、と自分を戒める気持ちもある。
君は優しいから…優しい気持ちの持ち主だから深い意味はきっとないんだ。それでも俺は期待しそうになる、いい気になっちまいそうだ。まさか、と思いつつ、自分に都合のいい夢を見ちまいそうなんだ、アンジェリーク…
思わず知らず横顔を見つめる。綺麗な横顔だと思った。少しだけ上向きの鼻先がかわいい。ふっくらとした瑞々しい唇を目に留めた途端、芳しくとろけるように柔からだったその感触が自分の唇に不意によみがえり、オスカーはうろたえた。
「あ…」
突然立ち止まったアンジェリークにオスカーは自分の気持ちが見透かされたような気がして更にどきまぎしてしまった。
「っ…どうした?お嬢ちゃん…」
「この桑の木の植えこみ…道を外れてこの裏手に回りこむとあの東屋の前にでる近道なんです。道なりに行くとあの東屋とっても遠いでしょう?」
「ああ、だからほとんど行く人間がいないんだがな…」
「でも、この脇をすりぬけていくと、遊歩道の終点のすぐ裏手にでるんです。東屋のまん前じゃないんですけど…」
「お嬢ちゃん、よくそんなことを知ってるな、お嬢ちゃんは探検好きなのかな?」
「パイにする木苺を摘んでて道を外れちゃった時たまたま見つけたんです」
「探検じゃなくて食いしん坊の果ての発見か、その方がお嬢ちゃんらしいな」
「んもー、オスカー先輩ったら…」
2人は思わず顔を見あわせて微笑みあった。オスカーは安堵した。気持ちが解れた。彼女は今この状況を決して厭うてはいない。彼女は優しいが、他人と上手くやるために自分を偽ったりはしない子だと、俺はわかっていたのに。
「それじゃお嬢ちゃんお薦めの近道を行ってみるか…ただ、それでなくても暗いからな、はぐれたりしないよう俺にしっかり掴まっているんだぜ?」
「は、はい」
返事はしたもののアンジェリークはどうすればいいのか咄嗟に思い浮かばなかった。すると左の肩に置かれていたオスカーの手がすぅっと背中をかすめて極自然な様子でアンジェリークの右の二の腕に触れた。そこから大きな掌は腕のラインをなぞるようにすべって降りて行き、最後にアンジェリークの小さな手をきゅっと握った。まばたきするほどの僅かな間に。
オスカーはそのまま何でもないようにアンジェリークの手を引いて歩き出した。
アンジェリークはオスカーの掌が魔法のように動いて自分の手を握った一瞬、腰から力が抜けてへたりこみそうになってしまった。不意討ちのように、何気なく手を握られただけで腰が砕けそうになるなんて、自意識過剰に思えて恥ずかしくて仕方なかった。ダンスの時にも手を繋いだのに、どうして今はもっとどきどきしてしまうのか、自分ではよくわからなかった。
そして、オスカー自身も緊張のあまり汗ばんだ掌を手袋が覆い隠してくれていることに安堵していたことなどアンジェリークは知る由もなかった。
『まったくらしくない…』
手をつないだだけで、こんなに緊張するなんて…俺は幼稚園児か?女を知らない訳じゃない…どころか抱いた女の数さえ覚えちゃいないっていうのに…全く柄にもない…
だが記憶にあるどんな情交より、今、この小さな手を握り締めてる気持ちほど胸高鳴る思いなど感じたことがない、これほどの緊張もまた…
そんなことを思いながら、オスカーはしっかりと小さな手を握り、植えこみの間を抜けていった。
アンジェリークの言う通り人一人通りぬけるのがやっとの狭い植えこみの間を数メートルほどすりぬけると突然ぽっかりと開けた所に出た。遊歩道からみて東屋の斜め奥だった。
「これは普通は気付かないな」
「ええ…きっと、知ってる人はあまりいないと思います」
「とりあえず…座るか?」
「…はい」
オスカーはアンジェリークの手を引いたまま、東屋の下にあるベンチに座らせ、その後で自分もその隣に腰掛けた。
そういえば、彼女と初めて会ったのは、ここでだった。あれは夏の終わりだったか…あの時は、自分が彼女にこんな気持ちを抱こうとは思いもよらなかった…同じベンチからでも、景色が違って見えるのは単に季節が移り変わったからではないのだろう。
「寒くはないか?」
「…はい」
話の接ぎ穂をここで失ってしまい、オスカーもアンジェリークも一瞬黙りこくった。
なにからどう切り出したものか…謝罪しなければという気持ちはどうしようもなく自分を急きたてている。このままうやむやにするつもりもない。それでも、話の端緒をつかみあぐねる気持ちはいかんともしがたい。喜ばしい話題とはいいかねるので、余計に勢いがほしいのに、その切っ掛けが掴めない…でも、なんとか勇気を出さなくてはと自分を懸命に鼓舞している…
2人が2人とも同じような心境でいることなど、互いに気付くはずもない。
「お嬢ちゃん、俺は君に謝らなくてはならないとずっと…」
「先輩、私、先輩に謝りたいってずっと…」
意を決して口にした言葉が重なった。
「先輩…」
「お嬢ちゃん…」
アンジェリークはオスカーより、僅かに早く言葉を発した。
「先輩、お願いです、私に…先に私に謝らせてください、先輩のお話を遮ってしまって申し訳ないんですけどお願いです…」
アンジェリークは自分でもびっくりしていた、強引なまでにオスカーに自己主張している自分に。でも、それだけ必死だったのだ。オスカーの謝罪の見当がついてたから、オスカーが謝る前に、自分の気持ちを告げないと、もう言う機会がなくなってしまう…と気持ちに余裕がなかった。
だが、オスカーはゆっくりと首を振った
「お嬢ちゃん、俺はお嬢ちゃんの話を聞くと約束した。だが、それが謝罪なら聞けない。君は俺に謝ることなどひとつもない。俺はそう言ったはずだ。謝罪するのは俺の方だとも。謝罪以外の言葉ならなんでも聞く。どんな罵倒でも非難の言葉でも…だが、君の話が俺への謝罪だというなら…俺は聞けない。何も悪くない君に謝らせる気はないし、それでは君の気が済まないにしても…それなら、俺の謝罪が先だ。俺の方が先に謝るのが当然だし、君に先に謝らせてから、自分が謝罪するなんて…そこまで俺を情けない男にさせないでほしいんだ…」
アンジェリークの謝罪の内容は予測できていた。できたからこそ、オスカーはそれをさせる訳にはいかなかった。彼女が謝る必要など欠片もない、これは全き本心だったし、彼女の気が済まないにしても、完全に非は自分にあるのだから、先に謝るのは自分だということだけは、男としてオスカーは譲れないと思った。
だが、アンジェリークは、オスカーのその言葉にショックを受け言葉を失った。こんな風に言われたら…私は自分からは先に謝れない。でも、謝らなければオスカーの事を好きだとも告げられない。これでは私は…自分の気持ちはやはり、告げる前に否定されてしまうのか…それでも、私は先輩が好きって言えるだろうか?言う勇気を持っていられるだろうか…
アンジェリークはふるふると哀しそうにかぶりを振る。だが、謝らないで、とは言いたくても言えなかった。オスカーは自分に酷いことをしたと思っている。なのに謝罪を聞かないことは、オスカーを更にいたたまれない気にさせてしまうのだと、アンジェリークにはわかる。
でも、先輩、私には…好きでもないのにキスなんかして済まなかったと謝罪されて、先輩は私のことをなんとも思ってないって思い知らされる方が辛いの…先輩は、そんなこと思いも寄らないだろうけど…先輩が私のことを慮ってくれて謝ろうとしてくださるその気持ちはありがたいけど…でも、嬉しくないの、ホントは嬉しくないの…
それに、私が考えなしな振る舞いをしたのは事実だし、そのことでオスカー先輩を苦しめたのも事実なのに…気持ちのないキスをされたからって、私が先輩を困らせ苦しめてしまったことを、帳消ししていいとも思えない、プラスマイナスでゼロになることじゃないと思う、私のしたことはしたことで、やっぱり謝らなくちゃ、って思うのに…
でも、私が先に謝ってしまったら先輩はもっと心苦しくなってしまうの?
だけど…だけど…
アンジェリークが唇を噛んで黙りこんでしまった逡巡の本当の訳には気付かずに、オスカーは漸く荷を下ろせるような気持ちでアンジェリークに心から謝罪の言葉を述べはじめた。
「アンジェリーク、聞いてほしい。…済まなかった。心から謝る。俺は君にひどい事をした…そのことをずっと謝りたいと思っていたんだ…力づくで惨いまねをして…済まなかった…本当に済まなかった…詫びてすむことではないと思うが…どうか謝罪させてほしい…」
だが、アンジェリークは更に胸が塞がれた。オスカーの謝罪が真摯であればあるほど、逃げ場がなくなる気がする。どうしようもなく思い知らされる事実が眼前に迫ってきて。
「っ…先輩…それは…先輩が私に無理矢理キスしたことを謝ってらっしゃるんです…か?」
「ああ、もちろんだ…俺は君に…無体な真似をした…君が力では俺に敵わないことを承知の上で無理矢理唇を塞いだ……卑怯の極みだ…男として…いや、人間として許されることじゃない…」
実際オスカーは許されるとも、許してもらいたいなどと虫のいいことも考えていなかった。その胸は懺悔の衝動のみで満たされていたと言っていい。
だが、アンジェリークは、それでもなんとか抗弁を試みる。
「だって…それは…私が…オスカー先輩がおっしゃりたくないことを無理矢理聞き出そうとしたから…私、気付かなくて…依怙地に意地になって引かなかったから…オスカー先輩が聞かれるとお辛いことをしつこくお尋ねしてしまったから…だからじゃないんですか?私にこれ以上何も尋ねないでほしかったからじゃ…ないんですか?だから、元々の切っ掛けを作ったのは、私じゃないですか…原因を作ったのは私の方じゃないですか…先輩のお気持ちを苦しめたから…」
そうだと言ってほしかった。ただ単に煩い口を塞ぎたかった、それだけの方がまだ救われる気がする。そう言ってくれれば、私の方からももっとはっきり謝ることもできるのに…
だが、アンジェリークの望む方向とは逆に、オスカーの謝罪は更に深い懊悩を伴ったものになっていく。
「それは、確かに…俺は確かに自分からは言いづらいことを君に尋ねられた。だが、だからといって、君に…無理矢理キスしていいことにはならない。君の唇を力づくで奪っていいなんてことはない、そんなことはいい訳にはならない!どんな理由であれ、卑怯な暴力を振るう言い訳にはならない、してはいけないんだ…」
「せんぱい…」
「それに、俺が君に口付けたのは、単にもう何も尋ねないでほしかったからじゃないんだ…それだけなら、言いたくないんだ、何も聞かないでくれ、そう一言言えばいいだけだった。君の唇を無理矢理塞ぐような真似をしなくたってよかったんだ…その時俺は…君にこれ以上近づいてほしくなくて…故意に君を怖がらせようとしたんだ…無理矢理、力づくで、俺を怖がらせるように仕向けた…俺の…俺一人の勝手な思いこみで…君を無理矢理遠ざけようとしてあんな真似をしたんだ…すまなかった…」」
「ああ…」
アンジェリークの唇から絶望を思わせる溜息が零れる。わかっていても、はっきり宣言されるのはやはり辛かった。
『もうだめ…これ以上近づいてほしくないなんて、先に言われちゃって、それでも先輩が好きです、なんて、私には打明けられない、もう…何も、言えない…』
これ以上辛い事実をオスカーの口からはっきり聞かされるよりは、まだ自分で認めてしまうほうがアンジェリークには耐え易いように思えた。自虐的な気持ちがアンジェリークを支配する。
「…先輩が謝っていらっしゃるのは…それは、私のことを好きでもなんでもないのに、キスしたから…ですか?好きでもなんでもないのに、私にキスをしたから悪かったって、そう謝罪してらっしゃるんですか?…そんなの…そんなの…謝られても嬉しくな…い…」
泣くつもりではなかった。泣くまいと思っていた。だが、ここまで話した時、自分の内部で何かが切れた。わっと溢れるように涙が迸った。ぼやけて目の前が何も見えなくなるほどだった。