アンジェリークは堰を切ったように、オスカーを責める言葉をぶつける。後から後から溢れる止めど無い涙とともに。「自分に近づいてほしくないから、好きでもないのにキスして悪かった、そんなことを言われるなら…謝らないでくれてもよかった…私、まだ何も言ってないのに…せめて…私の気持ちを聞いていただきたかったのに…何も言う前から、全部否定されちゃったら…もう……何も言え…ない…うっ…うっく…」
涙と一緒に気持ちも迸ってしまった。ものすごく自分勝手なことを言っているとわかっているのに止まらなかった。これは非難ではなく…愚痴だ、私はオスカー先輩に自分の愚痴をぶつけてるだけだという自覚もあった。『こうであればよかったのに』『こうしてくれればよかったのに』という言葉は現状を認められない弱い心が紡ぎ出す愚痴でしかない、こんな言葉は何の実りももたらさないとわかっているのに、留められない。
どんな結果であれ、受け入れるつもりだった、そう努力もするつもりだった。ただ、そのためには告白は自分の気持ちに決着(けり)をつけるために必要な儀式だった。なのに告白する暇もなく真正面から拒絶されたと思うことは、あまりに辛すぎて、どうにも受けとめきれなかった。頭では、告白する機会を与えてくれなかったからといってオスカーは非難される謂れなんかない、とわかっている。だって、もともとオスカーは、自分が告白したがっていたことなど知る由もないのだから。謝ってくれたオスカーの誠意もわかるから、堪えなければと思うのに、心が余りにずきずきと痛くて、その痛みから気を逸らす為に自分の弱い気持ちを言葉にして吐き出さずにはいられなかった。
そして、オスカーはアンジェリークの涙と非難にこれ以上はないほど動転し混乱していた。もとより簡単に許されるとは思っていなかったし、謝罪したとて非難の言葉を浴びせられるのは当然だと思っていた。そして、アンジェリークは今、実際、確かに怒り?傷つき?泣いている。でも、それはどうも自分が考えている怒りや非難とはまったく種類が異なっているとしか思えなかった。これが『自分勝手だ』とか『私を怖がらせる為にキスするなんて酷い!』というような非難の言葉なら予想済みだったし、オスカーはどんな非難であれ従容と受け入れ更なる謝罪を述べるつもりだった。だが、全く思いもよらなかった方向からの非難の言葉に、オスカーは心底うろたえた。
「な…!アンジェリーク…君は、君は何を言ってるんだ?…君の言いたいことがわからない…君にはどんなに非難されても、罵倒されても仕方ないと思ってる…でも、俺が謝らない方がよかった…って、謝られても嬉しくないって…それはどういうことだ?俺は君を傷つけ泣かせた…謝って当然だと思うのに…なのに、君は俺が謝ったから更に怒って?いや、哀しんでいる…のか?いったいなぜ…」
「えっ…えっ…だって、先輩が私に無理矢理キスしたことを謝るのは…なんの気持ちもないのにキスしたからでしょう?…それって…それって…私のことを好きでもなんでもないって…私をなんとも思ってないってはっきり宣告されたってことじゃないですか…そんなの、わかってましたけど…私のことを好きでキスしたんじゃないってことも、先輩が私のことをなんとも思ってないのもわかってましたけど…改めてはっきり思い知らされるとやっぱり辛い…えっ…えっ…私、まだ何も言えてなかったから、余計に辛い…せめて、自分が気持ちを打明けてから言われた方が、まだよかった…」
子どものようにしゃくりあげているアンジェリークを前に、オスカーは何をどうしたらいいのかまったくわからない。アンジェリークの言葉を聞くほどに混乱が募る。
「な…何を言ってるんだ?合意もない力づくのキスなんてしたらそんなことは謝ってしかるべきじゃないか…自分がどんな気持ちだろうと、どんな思いがあろうと無理矢理口付たりしていいわけない!そんなの暴行とかわらない、謝るのがあたりまえじゃないか、それで、何故、君が哀しむんだ?」
「お、オスカー先輩が私に謝りたいって思ってくださることはありがたいです、先輩の誠実なお気持ちもわかります…でも、私にはあのキスが私を好きでしたんじゃないんだって、自分に近づくなって意図でされたものだって改めてはっきりと思い知らされたのが…辛いんです…これは自分の勝手な気持ちなんですけど…それはわかっているんですけど…」
「それは、確かに俺があの時君にキスしたのは、君を怖がらせるためで、俺にもう近づく気をおこさせないためだったが…」
「わ、わかっているから、も…も、言わないでください…もっと辛くなるから…『俺に近づくな』って言われたのは、その時わかりましたもの、それが辛くて仕方なかったけど、それは自分の蒔いた種だから、しかたないって思ったんです。だけど、今もきっぱり言われちゃったし、私の謝罪は聞いていただけないし…もう、先輩が苦しくなるようなことを無闇に聞いたりしません、あの時はごめんなさいって謝って、それを聞いていただけたら、私、先輩に打明けたいことがあったのに…こんなにきっぱり「好きでもなんでもない」なんて先に宣言されちゃったら、もう、何も言えない…私…」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、俺は、君のことを『好きでもなんとも思ってない』なんて一言もいってない!『これ以上近づいてほしくなかった』っていうのもその時の俺の勝手な思いこみで、今、そう思ってるんじゃない!違うんだ!そんな意図で俺は謝ったんじゃないんだ!それじゃあ、何にもならない!むしろ…」
「ふぇ…?」
アンジェリークが一瞬鼻をすすりあげるのをやめ「?」という顔でオスカーを見上げた。オスカーはこの機に、自分と彼女の論点というか視点のずれをなんとか正そうと、確認のための疑問を口にしてみた。
「それに…君は、俺のキスが…君を好きだからしたんじゃないって、俺に近寄るなって思いしらされるのが辛いってそう言ったな?…俺が謝ると却って辛いっていうのはそういう意味か?」
「…そ、そうです…先輩が謝りたいっておっしゃってくださるのはありがたいです、先輩はやっぱり責任感の強い男らしい方なんだって、誠実な方だと思います、でも、先輩の謝罪は、私のことを好きじゃないってはっきり宣言してるのと同じだから…辛い…わかっていたけどやっぱり辛いんです。先輩が謝りたいって思ってくださる誠意はわかるし、ホントはありがたいことだってわかるんです、でも、私の気持ちはやっぱり辛い…」
「待ってくれ…アンジェリーク…」
オスカーは額の髪をかきあげた。混乱する思考をなんとか整理しようとする。アンジェリークの非難と落胆の訳が…もし、俺の感じた通りの理由なら…俺の謝罪に彼女がむしろ落胆する訳もわかる、だが、本当にそんなことがあるのか?それより、彼女は俺の気持ちを激しく誤解している、まずは俺の気持ちから知ってもらわなくては!
「どうか今一度、俺の話を聞いてくれないか?最後まで話を聞いてくれないか?…俺が何故君を遠ざけようとしたのか、どうかその訳を聞いてくれ、君には…その、迷惑かもしれないが…」
「…え?」
「いいか、よく聞いてくれ…俺が…俺が君を無理矢理引き千切るように遠ざけようとしたのは、そうでもしないと……俺自身が君をどんなことをしてでも欲してしまいそうだったから…君にどうしようもなく惹かれていたからなんだ…」
「な…?それ…どういう…」
一遍に涙が引っ込んだ。何を言っているの?先輩は?アンジェリークはオスカーの言葉が上手く理解できない。だって、そんなことある訳ない、この言葉が字義通りの意味の筈がない…
零れそうな瞳で呆然とオスカーを見つめるアンジェリークに、オスカーはゆっくりと、切々と、自分の心情を訴える。
「俺は君に惹かれていた、君にどうしようもなく惹かれて…だが、それを自分では認めたくなくて、それで無理矢理、力づくで君を遠ざけようとしたんだ…」
「それって…それって…ど、どういうことですか?…先輩…私が変な誤解しないようにはっきり言ってください…」
「ああ、はっきり言う。俺は君が好きだ。君が好きなんだ。どうしようもないほど君に惹かれている…」
「………うそ…」
「嘘じゃない…君が好きなんだ…」
オスカーは力なく嘆息した。信じてもらえない、ましてや受け入れてもらえないのはわかりきっている。しかし、それでも自分のありのままの気持ちを包み隠さずアンジェリークに告げる。その決意は変わらなかった。変えてはいけないものだった。
「嘘じゃない…俺は自分に嘘をつこうとして、だが…できなかった…もう、自分に嘘はつけない…君が好きだ…君に惹かれてやまない…もうどうにも抑えがきかないほどに…」
「うそ…うそです…だって…だって…それなら何故…」
アンジェリークはぎこちなく首を横に振る。振りつづける。
一瞬の思考の空白の後もこみあげてくるのは途方もない非現実感ばかりだ。オスカーの言葉を本当に『嘘』だと思っているわけではなかった。ただ、信じられない、信じるのが怖い。
だって、こんなに都合のいいことがあるわけない、ほんの一瞬前までこれ以上はないほど辛くて苦しくて、それが一瞬で逆の状況になっちゃうなんて、そんなことあるわけない…あんまり辛いと思ったから、私、現実から逃避して、ありもしない先輩の言葉が聞こえているような気がしてるだけじゃないの…?
そんな気持ちがオスカーの言葉を口先で否定させる。
胸中は余りに激しい感情が昂ぶって、言葉が上手く出てこない。歓喜とも驚嘆ともつかぬ、どれとも言えないのに、どれでもある、ごった煮のような感情が逆巻いている。理性がかろうじてその噴出を無理矢理抑えこんでいる、そんな感じだった。
「だから…それを謝りたかったんだ…そのことを君に謝りたかった…俺は君が好きだ。好きなのに自分でそれを認めることができなかった。認めることができないから、君を求める気持ちを無理矢理なかったものにしようと足掻いて…その結果、君を酷く傷つけた。俺が弱虫だったから…自分に嘘をついて…真実を見つめる強さがなかったから…君を求める気持ちを認めたくなくて、君を遠ざけようとして…結果、君を酷く傷つけてしまった…だから、謝らせてほしかったんだ…俺の弱さゆえ、俺が自分の気持ちを認められなかった臆病さゆえ、君を傷つけてしまったことを…すまなかった…許してくれなんて虫のいことを言うつもりはない…ただ、謝らせてほしい…本当に済まなかった…」
「そ、それじゃ…せ、先輩は…先輩が私を遠ざけようとなさったのは…私に近づくなって態度をとられたのは…」
「ああ…君に…抑え様もなく惹かれていたから…後戻りがきかなくなるほどに君を欲してしまう前に自分の気持ちに蓋をして抑えこもうとして…君と無理矢理距離を置くために…非道いやり方で君を傷つけてしまったんだ…だが、俺が最初から自分の気持ちを認めていれば…君を求める気持ちに蓋をしようとしなければ君を無闇に泣かせることもなかったんだ…すまない…」
「せ…んぱい…」
もう、間違え様はなかった。信じられなかったが、疑い様もなかった。こんなことがありうるなんて、現実のこととはとても思えなかったが、オスカーは確かに、自分アンジェリークに惹かれていたと言っている。
その時、オスカーがふっ…と視線を横に泳がせた。
「ただ、あの時、俺は…そうするのが一番いいことだと…一人よがりで自分勝手で…君の気持ちをないがしろにする愚かな考えだったと今はわかるが…その時は、それがいいことだと、その方がいいと俺は思ったんだ…」
アンジェリークは辛そうに視線を逸らしたオスカーを思わず抱きしめたい衝動に駆られ、慌ててその考えを必死に押し殺した。が、オスカーにもっと近づきたいという気持ちはどうしても抑えがたく、身を乗り出して、オスカーに尋ねた。
「なんで…なんでそんな風に思われたんですか?何故…それがいいことだと思われたんです…か?
」
オスカー自身が楽になるためではない、アンジェリークは直感的にそう思った。
オスカーが少し俯き加減に、途切れ途切れに答える。
「それは…それもこれから君に聞いてほしいことのひとつなんだが…」
「それは…もしかしたら…先輩のご実家のお仕事と関係…してますか?」
予感はあった。だから、オスカーに1から10まで全て言わせるより、こちらから知っていると告げた方がオスカーが幾らかでも気が楽かと思い、自分から話題を出した。オスカーは心底驚いたようだった。
「…知って…いるのか?俺の実家のことを…」
「はい…偶然…知りました。先輩のご実家が何でいらっしゃるのか…」
オスカーは安堵したように吐息をつきながら、自嘲の笑みを浮かべた。
「驚いただろう?俺が…名家とは名ばかりの汚い稼業の跡取で…君には自分のことを大企業の御曹司とか言っておきながら…な…」
アンジェリークはきっと顔をあげ、いきなりオスカーの手をぎゅっと握って、なんとも言えぬ辛そうな顔でオスカーを見上げた。
「先輩、私、確かにびっくりしましたけど、びっくりしたのは、その事実そのものにじゃなくて…先輩が今までどんな気持ちでいらしたのか、それを考えたから…私にはきっと、想像もつなかいようなお辛い思いもなさってきたんじゃないかと思ったから…」
「!」
オスカーは予想もしなかったアンジェリークの言葉に、殴られたような衝撃を覚え言葉を失った。
「でも、それ以上に、悲しかった、悔しかった、ものすごく腹立たしかった、何も知らなかった自分がです!先輩は謝るなって言ったけど…謝らせてください。私、先輩が抱えてらした胸の痛みも、その訳も何も知らずに何も考えずに、先輩を苦しめてしまった自分が許せなかった!無知は言い訳にはならないんです。先輩の事を知りたかったからと言って先輩を苦しめていい筈がないんです、なのに、私は、どうしようもなく馬鹿だったから…ごめんなさい、先輩、ごめんなさい!」
「…アンジェリーク…」
口がからからで、名前を呼ぶだけでも大層困難だ。それに、馬鹿のように名前を呼ぶ以外何を言ったらいいのか、欠片も頭に浮かんでこない。オスカーは呆けたように、自分を見つめるアンジェリークの真剣な瞳に見入ることしかできなかった。
「でも、先輩、ひとつだけ言わせてください、私、先輩のご実家のお仕事が何でも…何を作ってらしても、それは、先輩の人としてのあり方とは関係がありません。子どもが実家と完全に無関係になることはできないですけど、ご実家が何を作ってらしても、それは先輩ご本人が立派な方であるってこととは関係ないと思います。先輩は、お優しい立派な方です!ご自分のことをそんな風に哀しくおっしゃらないで!」
アンジェリークの優しい気持ちがじわじわと染みいってくるような気がした、でも、まだ肝心なことをアンジェリークは知らないから、俺のことを好意的に見ているのだ、俺が単に出自という断ち切れない絆、跡取という避けられない状況に巻きこまれた、言わば運命の被害者だと思っているから、同情しているだけだ…そう苦々しく思いながら更に告げるべきことを絞りだすように伝える。
「君は…知らないんだ。俺は、その汚い仕事を自分が継いでいくつもりだ。生まれ育った家は確かに選べない、だが俺は自ら進んでこの汚い仕事にかかわっていくと決めているんだ。誰に強制されたのでもなく自分の意志で…な。そんな仕事のヤツと関わると…ロクなことにはならないんだ…」
「だから…だったんですか?私を遠ざけようとなさったのは…いえ、私に限らず周囲と距離を置かれるように振舞っていらしたのは…」
「っ!…それは…」
「…先輩はやっぱりお優しい…先輩みたいに優しくて立派な方を、私は知りません…」
アンジェリークがしみじみと感じ入ったように呟く。
だが、オスカーは大きく頭を振って吐き捨てるように言った。
「そんなことはない!…何故そんな風に思えるんだ…お嬢ちゃんは何故そんな風に俺を買被るんだ…もうわかっただろう?…俺は自分の意志で『死の商人』を生業とする、そう決めている…強制された訳じゃない、自分で選んだ道だ。優しい人間は人の不和と流血を当てにした仕事に自分から就こうなんて思わないもんだ…」
「そうでしょうか?……先輩は責任感の強い方だから…先輩は辛い事を人に押し付けたり、自分は関係ないってうそぶいて楽になろうとする方じゃないから…だからじゃないですか?だって…先輩がそのお仕事をなさらなくても、先輩の会社がなくなる訳でも…いえ、例え先輩の会社がなくなっても、武器というものがこの世からなくなる訳ではないですから…そして、先輩は、誰かがしなくてはならないことだったらご自分から引きうけておしまいになる、そんな方だから…」
「!…アンジェリーク…君は…」
オスカーは瞠目したまま固まってしまった。言葉を見つけられない。自分の心境を、ここまで端的にずばりと言い当てられたのは生まれてこの方初めてだと思った。
「生まれる環境は選べないから自分には責任も関係もないって言う方が簡単だし、他に職業はいくらでもあるのだから、嫌なら別の仕事に就けばいい…でも、先輩は敢えてそうなさらない…できるのに、そうなさらない…それは、誰かがしなくてはならないことだと思ってらっしゃるから?じゃないんですか?なるべく使わない方がいいものでも、作らざるを得ないものなら…誰かが作る必要のあるものなら…どうしたって誰かが作ってしまうものなら…それをご自分で…誰でもないご自分で引き受けていこうとなさっているんじゃないんですか?…武器を作ることも、売る事も、それがもたらす結果も…誰かが、どこかの企業がしてしまうことだから、その結果を引きうけなくちゃならない人は必ずどこかにいるから…だから、先輩はそれをご自分で担っていこうと、ご自分で道を選ばれたんじゃないんですか?…やっぱり先輩は立派な方です…お優しい方だと…私はそう思います…」
武器というものは、どんな時代であれなくなることはないだろう。逼迫した状況では本来武器でないものでも武器にしてしまうのが人間の一面でもあるから…武器産業を厭うても意味はないのだ。武器が必要な世界の現状を憂うことに意味はあっても、武器産業自体を蛇蝎の如く見ることに意味はない。
それに、政情不安定な国に一人で赴任していった時の父や、父の同僚を知っているから、今でも世界のあちこちに紛争の火種があることもアンジェリークは肌身で知っている。そういう国では大使館や外国人の居住区域に自衛の為、武器を伴う警備が必要な時があることも身をもって経験している。示威のための武器があって初めて身の安全を保てる哀しい国情の地域は今も実際に多数存在しているのだから、単純に武器とは悪い物、なくしてしまえばいい物だといい切れるものではないのだ。
また、生活に欠くべからざる仕事でも、ある種の仕事に就いている人間を蔑み差別し排除する風習というのは、どこの国でも多かれ少なかれあるものだった。両親に付いていろいろな国に住んだことのあるアンジェリークにはそれがよくわかる、そして国や文化によって差別される職種は一様ではなかった。差別される職種が文化によって異なると言うその事実を以って、そういう偏見が何の根拠もないということもわかっている。ある国で尊いとされる仕事も他の国では下賎とされることもしばしばあった。だが、理屈ではない偏見の強固さもまた事実であるから、オスカーは、偏見を受け易い仕事を他人に任せることを善しとせず、敢えて自分で担っていくと決めたのだろう。だが、偏見の強さ、理不尽さも身にしみて知っているからこそ、不用意にオスカーに近づいてきた自分を、無理にでも排除しようとしたのだろう。それが乱暴なやり方であったのは事実でも…
アンジェリークは、自分が恥ずかしくなった。自分の気持ちを拒否されたと思いこんで、身の世もなく泣き喚いてしまった自分が今は恥ずかしくてたまらなかった。オスカー先輩はこんなに責任感が篤くて、それでいて優しいのに、私ったら、ホントにダメダメ…自分ばっかりかわいそうに思ってしまって恥ずかしい…でも、今からでも遅くないかも…私も先輩みたいに誠意を持って自分の本当の気持ちを伝えたい…
「私、先輩に出会えてよかった…こんな立派な優しい方に会えてよかった…先輩、私、先輩が好きです…大好きです!」
「…な!アンジェリーク…何を…何を言出すんだ…」
オスカーは傍目にあきらかにうろたえ、自失した。対称的にアンジェリークはこの上なく晴れ晴れとして、迷いのない瞳をしている。
「何度でもいいます、もう、言えないかもって思って哀しかったから…こうして言うことができて嬉しい…先輩が好きです。気がつくといつも先輩の事、目で追ってました。先輩のことばかり考えてました…先輩の事をなんでも知りたかったのも…隔てを置かれると寂しかったのも…先輩に恋してたから…自分でわかったのは最近だったけど、私…先輩のこと、好きだったんです、恋してたんです、きっとずっと前から…」
自失の後に、狂気のような歓喜がオスカーの身中を駆け抜けていった。が、オスカーはすぐにその歓喜の情を無理矢理押し殺そうとした。
「だめだ…アンジェリーク…俺にそんなことを言っては…俺は…俺は…」
「どうして?どうしてダメなんですか?私が先輩を好きって思うことはご迷惑です…か?」
「違う!…正直に言おう…俺は今、歓喜のあまり自分の正気を疑ってるほどだ…俺は君が好きだ、そして、君も俺を好きだと言ってくれるなんて…こんな夢のようなことがある訳ないと…」
「先輩、私も、同じ気持ちなんです!先輩が私のことを好きって言ってくださったことが、信じられませんでした…今でも夢のような気がします。でも、私、自分の気持ちははっきりしてます、自信を持っていえます、先輩が好きです、大好きです」
「アンジェリーク…俺も君が好きだ。その気持ちは天地神明にかけて真実だ…だが…言っただろう?俺は…俺がやろうとしている仕事は…この仕事に就く人間には侮蔑が影のように付きまとう。そんな男と一緒にいれば…君も同じような目でみられる……アンジェリーク…俺は…君が好きだからこそ、君を俺の生きていく世界に近づけたくなかった…俺の側にいると色々嫌な思いもするかもしれない…どうしたって蔑まれる仕事だし…側にいるだけでどんな色眼鏡で見られるかわからない世界だから…そんな心境を俺は君に味あわせたくない…君が好きだ、君を欲している、その一方で、君を俺と同じような心境に引きずりこんではいけない、好きだからこそ…君を巻き込みたくない、そんな権利は俺にはない、そうも思ってしまうんだ…好きと言う事実は免罪符にはならないから…大切に想う人に、みすみす嫌な思いをさせたくない…」
「でも、私は…先輩がご自分から、そのお仕事を担っていくつもりだって伺って、先輩のこと、もっともっと好きになりました…敢えて辛い事だからこそ、ご自分で引きうけようとなさるような方だから…私はオスカー先輩が大好きです。それに、先輩はお優しいから、心配してくださってるのはわかります…でも、先輩、水臭いです…私のことを思って、私のことを遠ざけようとなさったってわかっても…やっぱり寂しいし、悲しいです。私は先輩が好きだから、側にいたい。好きな人が苦しい時は側にいてできる限りのことをしたい…そんなに役にたたないかもしれないけど…私は好きな人の側にいたい、苦しい時も楽しい時も一緒にいたい。そう願うのはおかしいですか?」
「俺も…いや、きっと俺の方が、君の何倍も君に側にいて欲しいと思っている…だが、それが、許されることなのかどうか、俺は、君を欲しいと言っていいのか…俺にその資格があるのか…自信が持てないんだ…辛さは侮蔑をうけることだけに留まらない…きっと…だから…」
うめくように語尾がのみこまれる。オスカーの懊悩がアンジェリークにもひしひしと伝わってくる。
アンジェリークはオスカーの手をきつく握りなおした。
「先輩…苦しかったんですね、辛かったんですね…でも、先輩は何も悪くない、おうちのお仕事が悪いんでもない、そういうものを必要とする世界と使ってしまう人の心は、何がいけないのか、どうすればいいのか、私にもわからないけど…」
「アンジェリーク…」
「でも、好きな人と一緒にいられたら、苦しい事も半分になりませんか?今、わたしたちにできることは少ないかもしれないけど…武器自体はなくならないかもしれないけど、なるべくそれを使わないで済む世の中にできないか、考えてみるとか…一人で考えるのは難しいけど、どうしたら好きな人が幸せに暮らせるか、お互いに、一緒に考えて…何が自分たちにできるかはまだわからないけど、それも一緒に考えていけば…お願いすればきっと他の先輩方も一緒に考えてくださるんじゃないかしら…でも、誰より私に一番にお手伝いさせてほしいんです…私は先輩のおそばにいたいです、これからもずーっとおそばにいたいです。私は先輩の事を好きで、先輩を立派な優しい方だってわかってるからどんな視線も言葉も平気だし、先輩の事がわからない人たちには、わかってもらうよう宣伝しちゃいます。誰かがしなくてはならないことなら、ご自分が引き受けておしまいになる男らしさも、責任感の篤さも、辛い事も全部自分で被っておしまいになろうとする強さも優しさも全部全部大好きです、だから、先輩には少しでもお気を楽にしていただきたいんです…先輩は私が側にいたいって言ったらご迷惑ですか?」
「君が側にいてくれることこそ…それこそが俺の望みだ…。だが、アンジェリーク…俺は、俺は君を傷つけた。自分勝手な理屈と思いこみで、君を傷つけて泣かせ…それでも君は…俺を好きだと言ってくれるのか?俺は、君を好きだと…俺には君が必要だ、君に側にいて欲しいんだと請うても、いいのか?」
「でも、それなら私も同じです…私が先輩のことを好きで、もっと知りたくて、もっと近づきたくて、でも、だからといって先輩を苦しめてよかった訳じゃない…それに、自分が良かれと思ったことでも、相手のことを思っての行為でも、結果としてそうでないこともある…でも、それを怖れて悔やんでばかりいたら、人を好きになれなくなっちゃう…失敗したら、また、やりなおせませんか?間違えたら謝って、また、始めたらいいんじゃないですか?そうでなければ謝る意味がないじゃないですか…それに、私、一杯泣いたけど、泣いたからこそ、わかったんです。自分がどれほど先輩を好きなのか。だから、私、泣いてよかった。先輩に拒絶のキスをされて、それを辛いと思わなければ、先輩のことをこんなに好きになってた自分にきっとまだ気付いてなかったから…」
オスカーは泣き笑いの顔になる。心の奥底に硬く凍り付いていた物が、ゆるゆると融けて流れ出していくような心持ちがする。
「ああ…そうだな、君は、結構自分の気持ちに疎いみたいだからな…他人の心はよく見えるようなのに、不思議だな…それでも、俺のしたことはいい訳のできないことだ、だから、それはちゃんと謝らせてくれ、いや、いっそ、俺を殴ってくれ…」
小さな冷たい掌が頬に触れた。次の瞬間オスカーの唇に、この上なく柔らかく暖かな感触が触れたかと思うと、すぐに離れた。一瞬でも間違えようのない、あの蕩けるようなあまやかな温もり…
「アンジェリーク…」
オスカーは頭が真っ白になってしまった。アンジェリークに出会ってからこっち、一体何度こんな風に呆然自失の目にあったか数えられないほどだ、なんてふと冷静に思う自分を横目に、馬鹿のようにアンジェリークを見つめてしまった。
アンジェリークが耳まで真っ赤になって、怒ったように唇を尖らせながら、つっかえつっかえ言った。
「き、き、気持ちのこもってないキスをして済まないって謝ってくださるなら…これから、気持ちのこもったキスをしてください…一杯一杯好きって気持ちの溢れるようなキスをしてください、何度も何度でも。あの哀しかったキスを忘れるまで…」
オスカーは、更に泣きたいような気持ちが胸にこみあげてくる。胸の奥にある弦が震えて何か暖かい調べを奏でている。泣きたいのに嬉しい、心の底から笑い、踊りだしたくなるような高揚感も同時に胸にうずまいた。
「アンジェリーク…ああ、約束する、アンジェリーク、俺は君に、いつでも、いつまでも、何よりも誰よりも好きだという気持ちを一杯こめたキスしかしないと…」
オスカーはアンジェリークの身体を胸に思いきりきつくかき抱いた。
「馬鹿だ…君は…俺にそんなことを言ったら…俺は君を離せなくなっちまう…今までだって、必死に堪えていたのに…もう何も歯止めがなくなっちまう…」
「はい…離さないでください、私も…私も先輩のおそばにいたいです。いつも先輩の側にいさせてほしいんです…先輩が好きだから…」
「アンジェリーク、俺は、俺は本当に望んでもいいのか?君に側にいてくれと。ずっと側にいてくれと…君が側にいてくれれば、俺はどんな世界でも行き先を過たずに進んでいく勇気を持てそうな気がする…」
「はい、それは私の望みで、しあわせでもあります、先輩が好きです、先輩のおそばにいさせてください…」
「アンジェリーク…好きだ、今までも好きだったが…今はもっと好きだ、もう、離せない…離さない…」
「はい…離さないでくださいね、ずっとお側にいますから…」
「後悔するなよ?俺が離さないって言ったら、本当に片時も離さないぜ?」
「はい、嬉しいです…」
参った…と正直オスカーは思った。自分の胸にすがりつくように、すっぽりと収まっている小さな身体。信頼と愛情できらきらと輝いている翠緑の瞳。何か訴えかけるような濡れた唇。溢れかえる愛しさで頭が変になりそうだ。自分の理性は今、まさに蜘蛛の糸だった。この愛しさを形にせずにはいられなかった。
「…じゃあ、まず、俺の心をこめた償いから受けとってもらえるか?」
「?」
「好きという気持ち、君を愛して止まない気持ちで溢れるキスを受けとってくれ…いっておくが、返品は効かないぜ?」
「せ、せんぱ…」
アンジェリークのふっくらとした唇をオスカーの人差し指がそっと塞いだ。
「恋人同士になったんだからな、先輩はなしだ」
「お、おす、オスカー…?…やーん、なんだか、落ち付きません〜」
「愛に溢れるキスでその身体が一杯になれば、落ち付くさ」
「んんっ…」
次の瞬間、アンジェリークの唇は暖かく柔らかなオスカーのそれで塞がれていた。無理矢理されたキスと全くそれは別物と言ってよかった。慈しむように優しく包みこむように暖かい口付けだった。
アンジェリークはオスカーの胸に寄り添い、その背に自然と腕を回していた。オスカーの厚い体の線を確かめるように、確かにこの人はここにいるのだと信じるように、思いきり抱きしめてオスカーの温もりを感じたかった。
夢のようだった。こんな幸せなキスができるなんて、ついさっきまで思ってもいなかった。いつまでもいつまでも、このまま抱き合っていたい…アンジェリークは夢見心地にそんなことを考えながらオスカーの口付けを受けていた。