上の唇を食む。下の唇を軽くはさみこむ。オスカーはそれを交互に繰り返し、アンジェリークの唇を心行くまで味わい、確かめる。慈しむようについばめば、ふっくらと瑞々しい弾力がオスカーの口唇を跳ね返す。その感触が愛しくて、寸分漏らさず味わい尽くしたくて、更に丹念に唇を食む。食みながら、ちゅくちゅくと唇を吸う。小鳥が戯れあうように幾通りも角度を変えて。あます所なく彼女の唇を感じたくて、自分の唇を感じさせたくて。
腕はこれ以上はないほど、硬く、きつく、アンジェリークの身体を抱きしめている。だが時折、抱きしめた腕の力を緩めて、艶やかな髪を、まろやかな肩を、滑らかな背中のラインを大きな掌で滑るように撫でさする。これを無秩序に交互に繰り返している。もっときつく抱きしめたい、寸分の隙間も許せないほどに。僅かの間もおかず彼女に触れていたい、この掌で。相反する欲求がもどかしくてならない。何故思いきり抱きしめながら、彼女の肌を撫でさすれないのか、聞き分けのない子どものようだと自分でも思いながらのない物ねだり。それでも、この際限のない欲求は自分の真実だった。
抱きしめていると、身体全体に、彼女のあえかな震えが響くように伝わってくる。まるで小鳥を抱いているようだとオスカーは思う。このふうわりと柔らかな手触りも、しっかり抱きとめておかないと、失ってしまいそうな危うさも。この上なく大事に大切にしたいと思いながら、自分から絶対離れていかぬように、きつく縛めたくもなってしまう。
彼女は確かに自分の腕の中にいる。この温もりが、この震えが、そして何より蕩けそうなこの唇がそれを証明してくれているのに、オスカーには今この時が、どうにも現実のことと信じ難い。
昼でもないのに自分は白昼夢を見ているのではないかとさえ疑ってしまう。
だって、つい先刻まで、こんな風に彼女に触れることができるとは思ってもいなかったのだ。彼女を請い求めて胸の内は熱砂の嵐のようだったが…熱く、乾ききって、かつえていて、轟と音をたてて逆巻いているような胸の内…。だが、胸中どれほど荒れようと、これは行き場のない思いの筈だった。そう信じ切っていた。打明けた後は、どうにかして…どうすればいいのかは見当も付かなかったが、とにかく、なんとしても冷して鎮めねばならない筈の焦がれる思いだった。
なのに、俺の求めに彼女は、はっきりと、間違いなく応えてくれた。いや、俺の求めに応じたというより、自ら、俺の側にいたいと言ってくれたのだ。真っ直ぐに俺を好きだと言ってくれた…俺がこれから進む道、自ら選んだ道を知って、なお…いや、知る前よりもっと好きになったと言ってくれた…
こんな…こんなことが現実である訳ない。あまりの歓喜に圧倒されてしまって、これは夢だといわれる方が腑におちてしまうくらいだ。
でも、夢だと思い知るのが怖くて、俺は君から目が離せない。瞬きする間も怖いくらいだ。一度目を瞑って、また開いたら、君が俺の腕の中から消えてしまうのではないかと不安で仕方ない。だが、君が俺の目の前から消えてしまったら、皮肉にも俺は却って落ちつきを取り戻しそうな気がする。俺はきっと「ほら、やっぱりこんなことだと思ったぜ」と却って落ち付いて…どんなに落胆しようと、落ち付いて対処できるような気さえしてしまう。
それくらい、今、君が俺の腕の内にいる現実が信じられない。こんな幸せが、自分に訪れる筈がない、そんな風に思えてしまう…
だが、その一方で、この幸せを絶対に手放したくないと思っている自分がいる。君が俺を好きだと言ってくれた、あのめくるめくような歓喜の一瞬は絶対に譲れないと感じている自分がいる…
信じ難い気持ちと、絶対に手放さないという決意、どちらも同じほどに強い。
君は確かに俺の腕の内にいるのか?君は、本当に俺の口付けを…震えながら受けてくれているのか?背中に感じる小さな手は…その華奢な腕(かいな)に込められている力は、俺を抱きしめたいと思ってくれてのものなのか?君も俺を求めてくれていると、俺は…自惚れてしまっていいのか?
俺の胸で細かく細かく震えている君…なぜ君は震えているんだろう…怖いのか?寒いのか?何かに慄いているのか?君も俺と同じように…歓喜に震えていてくれたらいいのに、と思うのは望みすぎ、贅沢にすぎるだろうか…でも、俺も震えているんだ。君をこの手に抱ける歓喜に…
もっと深く、もっと近く、きりなくアンジェリークと近しくなりたい気持ちのままに、オスカーは口付けを深めようとした。舌を差し出し、アンジェリークの唇を割るように舌先でつつく。が、そこには強引さは微塵もない。あくまでそっと、アンジェリークの許しを請うように促しただけだった。アンジェリークがきゅっと唇を引き結んでしまうようなら、すぐさま退くつもりで…あっさり退けるかどうか自信はなかったが…
それが意識してのものなのかどうか、オスカーにはわからなかった。が、オスカーの舌先で促されたアンジェリークの唇は、おずおずとうっすらとではあったが、確かに開いた。
オスカーは、そっと…薄氷を踏むような気持ちでそっと自分の舌先をアンジェリークの唇に触れさせた。まずは探るように舌先で彼女のふっくらとした唇の輪郭をなぞる。
オスカーは、アンジェリークがはっきりとオスカーを受け入れる意図をもって唇を開いてくれたのかどうか確信がもてなかった。自分が舌先でつつくように触れたから、何もわからぬまま反射的に反応してしまったのかもしれないし…おずおずとした様子は、オスカーの出方をいぶかしんでのものかもしれない…そう思うといきなり口腔に深く踏み込むのは躊躇われた。もとより、強引に押し進む気などまったくなかったが。
自分が舌先で口唇を愛撫するようになぞっても、アンジェリークは顔を背けたり、唇を閉じ様とはしないでくれた。オスカーはそれを見て取り、彼女の唇を撫でるように動かしていた舌先を、ほんの先端だけ彼女の口腔内に滑りこませた。
そのまま、歯と続いて歯茎を舌先でなぞってみる。以前無理矢理口付けた時は、こんな風にゆっくりと丹念に愛撫する余裕も、もともと、そんな気もなかった…それが今更ながらに申し訳ない。そう思うと、殊更丁寧に口腔の隅々まで舌を沿わせたくなる。その艶やかな感触が舌にも心地いい。
だが、アンジェリークの歯列をなぞっても、それは余り開こうとしない。うっすらと開いているようなのだが、舌を差し入れるほどの余地はない。オスカーは、アンジェリークは口付けを受けるので精一杯で、そこまで思いいたる余裕がないのだろうと思った。
「アンジェリーク…少し、口を開けて…」
一度口付けを解き、桜色に染まった耳朶に言葉を流しこむように懇願した。一瞬アンジェリークの身体がぴくんと震えた。身体の線が硬く強張ったのが抱いている腕に伝わってきた。
「あ…せんぱ…」
オスカーを見上げる瞳に躊躇いと迷いが揺れた。それを見てとり、オスカーは心臓を鷲掴まれたように胸が痛くなった。彼女の迷いの訳が胸に迫ってきた。
「…怖い…か?」
「…少し…でも…」
「でも…?」
「少し、怖い…でも、キスしてもらうと嬉しい…もっとキスしたい…キスしてほしい…」
「…アンジェリーク」
「おかしい…ですか?こんな…気持ち……」
濡れた瞳に射すくめられた気がした。勝手に身体が動いた。オスカーはいきなりアンジェリークを思いきりぎゅっと抱きしめた。力の加減も忘れてしまうほどだった。それほどの衝動に突き動かされた。
「きゃ…」
「…君は…俺が今どれほど君に感謝しているか…感激しているか…きっとわからないだろうな…」
「せんぱい…?」
明かに戸惑っている彼女の肩口に、オスカーは顔を埋めた。
彼女が深い口付けに一瞬怯んだ訳、それに気付かぬほどオスカーは愚かではなかった。
あたりまえだ、自分はそれだけ彼女を恐怖させたのだから。恐怖させる意図を以って彼女を傷つけたのだから。彼女が怯まない方がおかしいのだ。
それでも…それでも、俺と口付けたいと言ってくれた。俺の口付けを欲してくれた。怯えが今も心に在ってなお、自分ともっと近しくなりたいと望んでくれた。その怯えを乗り越えるほどの熱く強い想いで…
その心に俺は圧倒される。怖いと言いながら、それでも俺を求めてくれた、その真摯な気持ちがひしひしと胸に迫って、俺は喜びと感動で目がくらみそうだ。
だが、これは許されたということではない。怯えを上回る想いで求められたということは、決して許しではないのだ。勘違いしてはいけない。彼女の怯えはいまだ厳然と在って、それは俺のつけた傷ゆえだから…だからこそ、求められたといっても…俺は図に乗ってはいけないんだ。
アンジェリークの想いの強さ激しさを知って陶然としながらも、同じほどの重みでオスカーは自分を戒めていた。
「ありがとう、アンジェリーク、君を愛している…君を愛して…君が俺を好きだと言ってくれて…俺は本当に幸せだ…」
「せんぱい…私も…私も…先輩が好き…今、信じられないくらい幸せ…」
「その幸せを、もっと深く…確かめたいんだ…」
「んん…」
オスカーはアンジェリークを抱き寄せ、静かに唇を重ねた。そしてすぐに舌先でアンジェリークの唇を割った。
アンジェリークは僅かに唇を開いて、オスカーを受け入れる姿勢を見せる。だがオスカーはここぞとばかりに舌をねじこんだりはしない。そこには性急さは欠片もない。ゆっくりと優しく唇全体をまずは慈しむ。
上下の唇を交互に舌先で愛撫するように舐め上げ、そのふっくらとした弾力を楽しんでから、徐々に用心深いといえるほどの慎重さでアンジェリークの唇の内側に自分の舌をしのびこませた。歯列をなぞって滑らかな感触を確かめるうちに、アンジェリークが今度は歯列にも隙間を作ってくれた。
その気持ちがたまらなく嬉しい。だからこそ、それにつけこむようなことはせず、オスカーの舌はそろそろともどかしいほどの動きで口腔内に分け入っていく。歯の裏側の歯茎に始まり、口腔の内壁を悉く愛撫するように舌をはわせていく。
自分にお預けを食らわすような気分で、アンジェリークの舌には最後の最後に触れた。最初はほんの僅かに舌先で存在を確かめるくらいに控え目に。
アンジェリークの舌が反射的に奥に引っ込もうとする。
オスカーは敢えて追わない。
無理強いするように舌を捕らえる気はさらさらない。彼女の心を強張らせるような真似は決してしたくないから。
慌てずに口腔内を宥めるように愛撫していると、奥に逃げていたアンジェリークの舌がおずおずと戻ってきて、オスカーの舌先に触れた。
そこで初めて、オスカーは自分の舌でアンジェリークの舌を撫でまわすように、絡めては舐め上げていった。ゆっくりと丹念に舌全体を愛撫する。
そして、その熱さ、柔らかさに没頭する。
無理矢理口腔内を犯した時捕らえた彼女の舌は、硬く強張っていた。逃げ様とする舌を無理矢理絡めとり、引き千切らんばかりの強さで吸い上げたその時、自分は確かにほの暗い濁った官能を味わっていたと今はわかる。
だが、今のこの舌と唇の感触はなんと、その時と違うのだろう。
彼女の舌も、体も、硬く縮こまっているような所は微塵もない。オスカーの舌が愛撫するままに、それをゆったりと、優しく受け入れてくれている。
彼女の舌は熱く蕩けそうに柔らかい。
身体の力も抜け切っているようにオスカーの胸にその身を沿わせてくれている。
その様がいたいけで、愛しくて、オスカーはもっと深く熱く彼女を飲み尽くさんばかりに口付けたくなる。更に深く舌を差し入れて、少し、意識して強めに吸ってみた。飲みこみきれない唾液をアンジェリークが持て余しているのが感じられたから。
「ん…んふっ…んぅ…」
吸い上げたら、アンジェリークは切なげな吐息をこぼした。少し苦しげだが、つやめいた吐息だった。呼吸が苦しそうなのは、深いキスに馴れていなくて呼吸のタイミングが掴めないからか、それとも、幾許かは官能を感じてくれているからなのか…
官能の吐息であってくれたらいい…それがまだ萌芽に過ぎなくても。
彼女の舌は、オスカーに応えはしない。オスカーの口付けを悉く受け入れてくれてはいるが、自ら積極的に求めてくる気配はない。応える術を知らないのだと思う。
心の内にいまだ巣食っている獏とした恐怖を乗り越えて、自分と深く唇を合わせてくれている、その事実だけでオスカーの心はこれ以上はないほどの幸福感に充たされている。だから不満は全くない。
それでも…彼女がもし、自分から舌を絡めてきてくれたら…俺の口付けをもっと深くとねだってくれたら…と、ふとした願いが脳裏を掠めた。自分から口付けを求めてくるアンジェリーク、その姿を一瞬想像してしまい、オスカーは頭に血がかーっと昇った。
同時に激しく欲情した。
自分でも意外なことに、オスカーは、自分が今、初めて欲情したのだと悟った。
アンジェリークの身体をかき抱き、口付けている時の気持ちは、もっと彼女と近くなりたい、もっと側に近づきたい、彼女が本当に自分の側にいてくれているのか確かめたいという、言わば単純な欲求だった。願いであり望みであった。決して欲望ではなかった。
だが、今、彼女の切なげな吐息に未成熟な官能を見出してしまい、オスカーの内部に、一挙に耐え難いほどの欲望が渦巻いた。
応える技巧を今は全く知らないアンジェリーク、そのアンジェリークが、いつか自ら俺を求めてくれたら…という一瞬の想像が欲望に火をつけた。
無理矢理ふりほどくように一度口付けを解いた。
「アンジェリーク…」
声が擦れて上ずっていた。欲望が身体の中心で激しく脈動している。
オスカーの呼びかけにアンジェリークは素直に顔を上げ、オスカーを真っ直ぐに見つめ返した。
翠緑の瞳に宿った信頼と愛情は今も溢れんばかりに、その瞳に力強い輝きを与えていた。その美しさにオスカーは打たれた。
この瞳に映るものは自分だけであってほしい…痛切に思った。
「俺の部屋に…来るか?」
「先輩…?」
いぶかしげなアンジェリークの声にオスカーは、はっと我に返った。
「あ…いや…もう遅いんだが…まだ、君と一緒にいたい…そう思って…」
そう、つい口をついてするりと出てしまった、自分の願望が。このまま帰せない、連れていってしまいたいという願いが。だが、これは紛れもない本心でもあった。オスカーはアンジェリークの返答を待って、無意識の内につばをごくりと飲みこんでいた。
「私も先輩と一緒にいたい…」
「!…いいの…か?」
アンジェリークの返答にオスカーの心臓は一瞬確かに止まった。少なくともオスカーの主観では。続くアンジェリークの言葉を耳にするまでは…
「でも、こんな時間に先輩のお宅にお邪魔するなんて、失礼です。お家の方に、非常識だって思われちゃいます。お招きくださったのは嬉しいんですけど…」
「………あ、いや、俺は一人暮しだから、そういう意味での遠慮はいらないんだが…」
生真面目に、あくまで真剣な表情で招待を固辞するアンジェリークに、オスカーは完全に毒気をぬかれて、どうでもいいことの説明に走ってしまった。
『自分の部屋に来ないか』という誘いは、アンジェリークにとって、純粋に家に遊びにいくという意味で、余所のお宅に上がりこむには夜分遅くに過ぎるからと、あまりに真っ当な理由でそれを辞退するアンジェリークに、オスカーは脱力すると供に、どうにも笑いが込み上げそうな気持ちになった。
彼女のこういう面は、在る意味世間知らずと言うのだろう。本当に駆け引きに向いてない。だが、きちんとした家庭できちんとしつけを受けてきたのだろうなということが、なんとなくわかって微笑ましくなった。
だが、アンジェリークはアンジェリークでまったく別の面で、軽くショックを受けていた。
「え?あの…先輩は…一人で暮していらっしゃるんですか?ご家族とご一緒じゃなくて…?」
「ああ、そう言えば言ったことはなかったか…」
「やだ…私、そんなことも知らなくて…そういえば、先輩のお家がどこかもはっきりとは…先輩を好きとか言っておきながら、私、何も知らなくて…恥ずかしい…」
改めて考えなおしてみて、アンジェリークは愕然とした。そう言えば、自分は、オスカーの事をあんなに好きって言っておきながら、オスカーのプライヴェートはほとんどと言っていいほど知らなかった。住所も電話番号も誕生日も…唯一知っている携帯電話の番号だって、オスカー本人から教えてもらったものでもなくて…こんな自分がオスカーの事を、好きだと打明けたなんて、とても図々しく思えて、アンジェリークはいたたまれない気持ちになった。
アンジェリークがきゅぅっと縮こまってしまったその様子が悪戯を叱られた子犬のように見えて、オスカーは更に微笑ましい気持ちが強まった。もう、先刻までの何かに追いたてられるような、辛抱の効かない欲望は、もっと暖かな愛しさへとすっかり形を変えていた。
オスカーは優しく微笑みながら、アンジェリークの顎を形のいい指で掬うようにくいと上向かせた。
「そんなことは瑣末なことだ。知っていたからといって偉くもないし、知らないから恥ずかしいことでもない。」
「先輩…」
「お嬢ちゃん、調べれば誰にでもすぐわかること…例えば住所とか、生年月日とか、そんなものを知っていたって、その人間を『知って』いることになんてならない。逆に表層のデータなんぞ何一つ知らなくなって、その人を『知る』こと、『知ろう』とすることはできる。それが『人を好きになる』ってことじゃないかと…俺はそう思う。そして…お嬢ちゃんは…俺にこれ以上はないほど真剣に相対してくれた。以前君自身が言っていたように、真摯に俺を知ろうとしてくれた…誰よりも強い想いで真っ直ぐに…俺にはその事がとてつもなく嬉しくありがたいことだった。それで十分…いや、それ以上に望むことなんて何もないくらいにな…だから君は何も恥じることなんてない、何よりも誰よりも真剣に俺という人間を知ろうとしてくれていたんだから…」
きっと、君自身が思っているよりもずっと…君は俺に途方もない喜びをくれたんだ、そう思うと心の奥底からじんわりと暖かい物が湧いてくるようだった。オスカーは更に暖かな気持ちでアンジェリークに微笑みかけた。
「それにな、俺だって君のことを、知っている事と知らない事なら、きっと知らないことの方がずっと多いだろう。だが…俺たちは今日、始まったばかりだ。お互いにこれから、いろいろ伝えあったり、知らなかった面をみつけたりして、わかりあっていけばいい。そうじゃないか?」
「そう…そうですね!先輩が始まったばかり…っておっしゃってくださって嬉しい…私。これから初めてわかって、嬉しく思ったりすることが、きっと一杯あるってことなんですね…それでいいんですね…」
「ああ、…君にもっと俺を知ってもらいたい、俺はもっと君を知りたい…つい、気持ちは急いてしまいそうになるが…きっと、俺はずっとそう思い続けるだろうから…」
「先輩…私も…私もきっと同じです…先輩のことをわかりたい、もっと知りたい、もっとおそばにいたい…きっと、ずっとそう思い続けると思います…あ!それにね!今、もう、ひとつ新しくわかったことがあるんです、私!」
「俺が一人暮しってことだろう?」
「あ、それもそうなんですけど…あのね、先輩、私、先輩にキスしてもらってよかった…だって、全然違ってたから…この前されたキスと。…今してくださったキスは、すごくどきどきして、胸が苦しくなったけど…でも、あったかくて優しかった…実際に、この前と同じように、ふ、ふ、深いキスをしていただかなかったら、きっとわからなかったから…気持ちが違うとキスも全然違うんだって…」
「アンジェリーク…」
瞳をきらきら輝かせて、無邪気に嬉しそうに話しているアンジェリークは、思わせぶりをしている訳ではないのだ、それはわかりすぎるほどわかるのに、何故、誘惑されているような気分になってしまうのか…オスカーは、アンジェリークの眩しさに目が眩みそうだ。
そんなオスカーの心境も知らず、アンジェリークは、少し恥じらって、でも、やはり嬉しそうな様子でオスカーに小首を傾げて尋ねた。
「こうして、少しづつわかることが増えていくんでしょうか?オスカー先輩ともっと近づいていけるんでしょうか?…」
「ああ、きっと…互いが互いをもっと知りたいと思えれば…俺も…君にもっと近づきたい、君にもっと触れたい、この気持ちを伝えたくて、もっと君にキスしたい…そう思ってる…」
「こんなキスを一杯してくださいますか?これからも、ずっと…」
「ああ…ああ、約束する。いや、俺の方から希う…」
「嬉しい…」
アンジェリークがオスカーの胸に頬を押し当てた。
オスカーは改めてアンジェリークの体をしっかりと抱きしめた
アンジェリークの温もりを感じながら、オスカーは思う。
彼女は…俺が欲しいと言えば…今、この場でも応えてくれるのかもしれない。
君をもっと知りたいといえば、ひとつになりたいと言えば、豊かな暖かな気持ちでそれを受け入れてくれそうな気がした。俺への信頼と、彼女自身の誠実さが、俺の求めを受け入れさせてしまう、そんな気がした。
だが、だからこそ、今、なしくずしのように、単なる勢いだけのように欲望を充たして、彼女に苦痛を与えて…恐らくアンジェリークが処女なのは間違いないと思う…いいとは思えなくなった。
彼女の信頼と優しさにつけこむような形ではなく、きちんと彼女に願い求めて、彼女が情に流されるような形ではなく、結ばれたいと思った。アンジェリークにも、俺と同じほどに、俺を知りたいと、俺と身体も深く繋がれたいと思って欲しい。その上で肌を合わせられたら…きっと生涯これに勝る喜びはない、そう思えた。
だから、今は焦るまい、そう自分に言聞かせた。
でも、これ以上彼女をこの腕に抱いていたら、このなけなしの決意はすぐにも瓦解してしまいそうだった。
オスカーは身を切られる思いで、アンジェリークに告げた。
「お嬢ちゃん、そろそろ寮まで送ろう。門限があるだろう?」
「あ、はい…でも、今日は遅くなるかも…って思ったので外出届は出してあるんです。だからもうちょっと…11時までは大丈夫です…」
それは、今の自分にとっては、あまりに甘美かつ危険なセリフだということも、多分アンジェリークはわかってない…
「いや、でも…ずっと外にいたから…身体が冷えてないか?」
「平気。こうしてきゅっと抱き合っていると暖かいから…」
アンジェリークが自分からオスカーの身体をきゅうっと抱きしめた。
「お嬢ちゃん…」
自分のやせ我慢がどこまで保つのか、早くも甚だ怪しいとオスカーは自覚せざるを得なかった。
このまま一緒にいたら、俺は絶対彼女を俺の部屋に連れていってしまう。そうせずにはいられない。秋の夜空の下ではいくらストールに包まって抱き合っていても、どうしても冷えてしまうだろう…彼女に風邪などひかせたくない…でも、俺は、自室に彼女を招き入れてしまったら、彼女を門限までに帰したりできる訳がない。その自信だけは100%あった。だから、つい、尋ねてしまった。
「その、お嬢ちゃん…外出届は後から外泊届に変更なんてことは…できるのか?」
「?…申請したことがないので、よくわからないんですけど…舎監に電話して聞いてみましょうか?」
携帯電話を取り出そうとするアンジェリークをオスカーは押し留めた。
「いや、いい。聞いてみただけだから…」
オスカーは大きくはぁああ〜と溜息をついた。
「お嬢ちゃん、俺はお嬢ちゃんに風邪をひかせたくないんだ。やはり…もう、寮まで送ろう」
「え…」
アンジェリークが傍目にもあきらかに肩をおとして項垂れた。
「もっとご一緒したかった…」
「ああ、俺もだ…だけど、俺はこれ以上君と一緒にいたら、また、俺は自分の部屋に誘いたくなっちまうし…そうなってから、万が一外出届が外泊届に変更できなかった時がやっかいだからな…」
「?」
「…いや、いいんだ…行こう、お嬢ちゃん」
オスカーはアンジェリークを立たせてストールを肩にかけなおし、その肩をしっかり抱いて歩き出した。
俺の部屋に招待する時は最初から外泊届を出して来てくれ…とは、流石に言いづらかった。いや、そもそも言える日はくるのだろうかと思うと、どうしても溜息が零れた。アンジェリークにははっきりそう言わねば、絶対、わからないだろうと思ったからだった。
無理強いしたくないのは、本心なのだ。このまま彼女をつれ帰って、結果門限を破らせて、学校側が彼女を探して大騒ぎになったりしたら、彼女も恥ずかしいだろうし、第一、彼女の両親に顔向けできない。俺は真剣に彼女と交際していくつもりだから、無分別な真似はしたくない。万が一外泊届がとれたとしても、明日は学校があるから、明け方には彼女を寮に戻さなくてはならないし、こそこそ朝帰りさせるのもかわいそうな気もするし…俺は誰に知れようと構わないが、女の子は朝帰りを知り合いに見られたりするのは、恥ずかしくて嫌かもしれないしな…やはり、今日は、彼女を送り届けて正解だと思いたい…
俺は彼女を欲する気持ちをいつまで抑えておけるか、自信がないのも事実だ。
彼女は知らない。俺がどれほど激しく彼女を求めているか。俺の激情を知ったら、また怯えてしまうかもしれない。一度彼女を傷つけ怯えさせている、その悔恨もある。そして、彼女は実際まだ少し怯えているから。そんな彼女を自分の身勝手な欲望でまた怖がらせたくない、それも、全く本心なんだが…
それくらいの辛抱ができなければ、俺はまったく学習能力のない馬鹿じゃないか、とも思うしな…
そんなことを考えて歩くうちに、寮の門前まで来てしまった。
「オスカー先輩…」
アンジェリークがいかにも別れ難いという瞳でオスカーを見上げる。オスカー自身、気持ちは一緒なので余計に後ろ髪を引かれる思いに苦しめられる。
「お嬢ちゃん、別れ難い気持ちは俺も一緒だ…だが、君に門限を破らせる訳にはいかないし……」
「あ、はい、わかってるんです…わかってるんですけど…寂しい…」
「明日も会えるから…ああ、そうだ、朝、寮に迎えに来てもいいだろうか?それで一緒に登校しよう」
「いいんですか…?先輩が朝、迎えに来てくださるんですか?一緒に学校に行けるんですかっ?!」
「ああ、だから寝坊しないようにな?」
ばっちんとオスカーがウインクすると、アンジェリークの頬はぽぅっと染まった。
「ははははい、オスカー先輩」
「じゃあ、お嬢ちゃん、おやすみ、いい夢を…」
いいながらオスカーは、滑るように身を屈めて、アンジェリークの唇に触れるだけのキスを落した。
「おやすみのキスだ…」
アンジェリークの頬は更に朱に染まった。ぽーっとしてしまって言葉が出なかった。
「さ、もう、部屋に入りな?お嬢ちゃん、抱き合ってもいないのにその薄物のままじゃ、本当に風邪をひく…」
ゆっくりと距離を置くようにオスカーが抱いていた肩を離す。アンジェリークはオスカーの言葉とその仕草の意味に気付いた。
先輩は、私が部屋に入るまで見守ってくださるおつもりなんだ…じゃあ、って言ってもう踵を返せるのにそうなさらないから…私が帰らないと、先輩もお帰りになれない…
「先輩、お休みなさい…また、明日…」
「ああ、また明日、な?」
アンジェリークはこくんと頷くと、ストールの胸元をきゅっと絞って、たたっと女子寮の玄関に消えていった。
オスカーはアンジェリークが寮の建物に入っていく後姿を見届けた上で、漸く踵を返した。アンジェリークをきちんと送り届けた自分を誉めてやりたかった。
そうだ、俺はもう、今はキングじゃないから…彼女を守るナイトを気取るのも悪くない…
彼女の温もりを思い返しながら歩を進めようとした時、「ばたん」と何かが開く音、同時に自分を呼ぶ愛らしい声が聞こえた。
「先輩、お気をつけて!」
驚いて振り向くと、アンジェリークが、寮の窓…自室の窓だろうか…を全開にして、一生懸命手を振っていた。
オスカーは思わず微笑んだ。
「おやすみ、お嬢ちゃん」
手を振って答え、身体の向きを変えた。充たされた気持ちで一杯になってまた歩き出した。
自分の姿が見えなくなるまで、きっと彼女はあの窓を全開にしたまま、ずっと見送ってしまうかもしれないと思ったから。身体が冷え切らないように、彼女が早く休めるように、オスカーは歩調を緩めずに歩いた。でも、これで寮が見えなくなる角で、もう一度だけ振り向いた。やっぱりアンジェリークは窓辺にいた。窓の辺に腕をもたせかけて、こちらを見ていた。自分が振り向いた事に気付いたのか、また手を振ってくれた。
オスカーは手を上げて合図を返してから、すぐに角を折れた。これで彼女も休めるだろう、俺も…頭に登った血を冷ませる。静かに息をついてまっすぐ家路についた。
別れた後で、気付いた。
帰り際に、年度末のパーティーのパートナーになってほしいと申しこんでおけばよかったなと。
気が早い…そう思う自分もいた。でも、他のヤツに先に申し込まれるのは自分が嫌だった。たとえ、自分より先に申しこんだヤツがいたとしても、彼女はきっと断ってくれるだろう、そして俺からの申しこみを待ってくれる筈だ…そうとわかっていても、オスカーは他の男に彼女に申しこみを許してしまう、その事自体が許せなかった。
明日、一緒に登校しようって約束しておいてよかった…その時に申しこもう。
オスカーは、明日の朝に思いを馳せ、充たされた気持ちで眠りについた。明日が来るのが、朝がくるのをこんなに心待ちにしたことなど、何年ぶりに感じた気持ちだろうと思いながら。
そして、その時アンジェリークもまた、信じられないほどの幸福感につつまれていた。
メイクを落し、お風呂にはいって、ベッドに潜りこんではいたものの、なかなか寝つけないでいた。
明日の朝はオスカーが迎えに来てくれる。寝坊しないように、寝不足の顔で会わずにすむようにと思うのに、あまりに嬉しくて、幸せで、眠くなんてならない。
オスカーに自分の想いを否定されたと思って泣き崩れて、そうしたら、一転してオスカーに好きだと言ってもらえて…自分も好きだと伝えることができて…頭の芯がぼーっとするほど情熱的なキスをされて…これからも、幸せなキスを一杯してくれるって約束してもらえて…
これほどの幸せを感じたのは、生まれて初めてだと、アンジェリークは思っていた。今まで生きてきて、一番幸せな夜だと思っていた。アンジェリークは、近い将来、もっと深く、もっと熱く、心から幸せだと思える日を迎えることになるだろうことを今はまだ知らない。今感じている幸福感が、この時のアンジェリークの知っている最高の幸せだった。
そして2人は翌朝、大騒ぎで学校で出迎えられることとなる。
後夜祭の会場から、誰も知らぬ間に忽然と姿を消してしまったキングとクイーン。後夜祭の閉会宣言がなされるその瞬間まで、彼らは確かに会場の中央でダンスをしていた。なのに、閉会宣言された直後のほんの僅かな隙に、誰も知らないうちに2人はいなくなっていた。後夜祭が閉会された時点で、キングとクイーンはその役目を終え、会場に居る義務はなくなるのだから、いつ退出したって理屈の上ではいいのだが、その瞬間を待って、打ち上げの誘いをかけようと虎視眈々と機会を狙っていた面々にとっては、どうにも看過しえることではなかった。この意味するところは、…信じたくはなくとも、かなり明白だったから。
この成り行きを信じたくない、もしくは信じてたまるものかと思ったとある者たちは、しつこくオスカーとアンジェリークの携帯電話に呼び出しをかけたが、どちらも全く応答はなかった。文化祭の間、携帯はマナーモードに統一されていたから、この状態のまま、かばんにでも入れられていたら、電話に気付かないのは当然だった。あまつさえ、女子寮に押しかけて、アンジェリークの帰宅を確かめたりもしたのだが、舎監からアンジェリークは外出届が為されていると聞き及び、彼女の手がかりを失った。一応舎監に外出先を尋ねてみたのだが、舎監が一人一人の生徒の出先を知っている筈もなく、ただ、文化祭で父兄の来訪が多いから、この子もご父兄とお食事でもしてるんでしょう、と、曖昧な憶測に基づく提言で、来訪者にまさしく藁一条ほどの希望を与えた。だが、キングとクイーンの姿を街で見かけた者もなく結局2人はどこに行ったのか、一緒にいるのかどうかも、誰にもわからなかった。
そして、キングとクイーンが失踪してしまったため、後夜祭の閉会後、インタビューを取ろうとしてそれを果せなかった新聞部の部員が、翌早朝、勘を働かせて女子寮の前で張りこみをしていた所、女子寮に迎えにやってきたオスカーと、そのオスカーと一緒に仲睦まじく登校するアンジェリークの姿をカメラ機能付きの携帯電話でまんまと撮影に成功した。この学生はその場で画像を他の部員たちにスクープと題して送信した。既に登校していた新聞部員がそのニュースに色めきだったのは当然である。即刻部室で画像を引き伸ばしてプリントアウトし、号外の学校新聞を発行、正門付近で登校してくる生徒に配った。
もちろん、タイトルは「フェスタキングとクイーンの熱愛発覚」云々といった通俗的なもので、記事は、彼らが水面下で愛を育んでいたのか、後夜祭が切っ掛けになって一挙に愛が燃え上がったかは、今後の取材を待って次回発行の新聞を見てくれという、内容は何もないまさに『引き』だけのものであった。スクープというのは、時間との争いなので、記事の空虚さは宿命ともいえたが。
そして、このぺらぺらの号外が学園内に散乱し、一騒動起こしている所に登校した2人。
校門の外にひらひら飛んできたその紙片をオスカーは指で摘み上げた。
「なんだ?これは…」
「それ、なんですか?先輩…」
と、2人が揃って覗き込んだ紙片には、女子寮の受付で呼び出しを舎監に頼むオスカーと、アンジェリークが頬を染めながらオスカーに肩を抱かれて寮の門を出る所の写真…粒子は粗かったが、見間違えようもなく自分たちの写真だった…が2枚並んでいた。
「な、な、な、何なんです…これ…」
眼前の紙片に印刷されているものが信じられず呆然としているアンジェリークを余所に、オスカーは全く慌てず騒がず、泰然自若としていた。もちろん、片手はアンジェリークを守るように肩に回したままだった。
「ほう、情報が早いな、こいつのおかげでいちいち宣告に走らずにすむ。新聞部さまさまだな」
「え、えーっと、宣告って何を誰に宣告するんですか?」
本質的な問題はそういう所ではないのだが、混乱の余り、とんちんかんな質問をするアンジェリークにオスカーはあくまで真面目に
「それはだな、お嬢ちゃん…」
と説明しようとした処に、新聞部の生徒が校門の外に佇んでいたオスカーとアンジェリークを目ざとく見つけて突進してきた。2人の熱愛の真偽と、何時頃からこういう関係だったのかを問いただしてくる。
オスカーはにやりと笑うと、これ見よがしにアンジェリークの肩を抱きなおした。
「俺達が愛を育んだ過程についてはノーコメント、だが、熱愛は真実だ」
といけしゃあしゃあと宣言する。
そして、慌ててメモを取っている記者に
「俺のコメントなんかより、ずっとわかりやすい証拠を見せてやる。どうせ持っているんだろう?カメラを出せ」
と言った。
記者が言われるままにカメラを出すと、オスカーは更に悪っぽい笑みを浮かべて
「いいか、俺のお嬢ちゃんを狙っていた男どもに、お嬢ちゃんは、もう俺一人のものだってことを、よーく認識させてやってくれよ?」
というや否や、正門の真正面で、アンジェリークの顎をくいと持ち上げて音がしそうなほど熱烈なキスを…ただし、一応ディープではないものを、アンジェリークの唇に落したのだった。
アンジェリークは思いきり瞳を見開いて硬直してしまった。
オスカーは悠々と唇を離すと、ばちんとウインクをし
「どうだ?決定的瞬間はちゃんと収めたか?」
と新聞部の生徒に言い放った。
その生徒が眼前で起きたことに口を開きっぱなしであっけにとられていると
「何だ、撮り損ねたのか?そんな腕じゃ1流の報道マンにはなれないぜ、これだとやらせになっちまうが、何ならもう一回チャンスをやろうか?」
オスカーはこう言ってアンジェリークの顎を持ち上げようとした。
アンジェリークが、はっと我に返って
「な、な、何なさるんですかーっ!」
と真っ赤になって、自分の口元をばっと押えてしまったために、オスカーは急遽アンジェリークの頬に照準を変えて、ちゅっとやらかした。
呆然としつつも今度はきちんとシャッターは切っていた新聞部員は、オスカーのサービスショットに振り向き様礼を言いながらすっとんで部室に行き、即刻デジカメをプリンターに繋げて、第2段の号外をプリントしまくった。
この号外が学園中に撒き散らされ、あまたの生徒たちを(男女ともに)悲嘆と落胆と、一部の人間を憤怒に陥れたことは言うまでもなかった。
そんな中、オスカーはアンジェリークを一年生の教室までしっかり送り届け、その途中に、年度末パーティーのパートナーになってくれという申しこみもきっちり済ませ、真っ赤になったまま、声も出ないアンジェリークがそれでも、こくこくと頷くと安心したように微笑んで、自分の教室に向かっていった。
これで、お嬢ちゃんを狙ってた悪い虫を、悉く追い払えたことだろうとオスカーはほくそえむ。小さく瑣末な事柄かもしれないが、ライヴァルの除去は可能な限り迅速に行うにしくはない。この程度の障害は即日で取り除けなければ、これから先が思いやられるからなと。
自分たちの前には、恐らくこれから幾多の困難が立ち塞がるであろうことを、オスカーは見越していた。真剣に想いを貫こうとすればするだけ、乗り越える障壁は多く高いだろう。ビジネスメリットのない家柄の女性との婚約・結婚を重役会議で納得させることもそうだが(外交官というのは結局の所公務員だから部署はその時々で異動するため、恒久的な関係を結ぶビジネスメリットはそれほど大きくない)まあ、これは自分がビジネスの上で力をつけていけば説得は可能だろう。問題は自分の稼業が誉められたものでない以上、彼女の両親から交際を反対される怖れが多分にあることだった。苦労させるのが目に見える嫁ぎ先に愛娘をやりたいと思う親は…それこそ金目当ての人間くらいで、アンジェリークを見ていると彼女の両親がそういった類の人種でないと思われたからだ。
そちらの対策はかなり真剣に真摯に考えねばならないだろう。そのためにも、瑣末な雑事の始末は早いに越した事はない。余計な事にかかずらう手間をなるべく省ければ、それだけ注意を重要問題に割けるというものだ。
その決意の現われとして、一番身近な障害の除去のため手っ取早い行動をとった、オスカーの意識としてはそんなところだった。
だが…とオスカーは思う。
これは、自分に言聞かせている建前というか理屈で…本当のところ、俺は、『彼女は俺のものだ』と大声でふれまわりたいだけなのかもしれないな…
そんな自分が可笑しくなって、笑みを噛み殺しながらオスカーは2年生の教室に入った。