On−Side 16

新聞部の号外が学園中に舞ったその日の放課後、オスカーは当然のように、一緒に生徒会室に行こうとアンジェリークを一年生の教室まで迎えに行った。

オスカーが顔を出した途端、女生徒たちが悲鳴にも似た歓声をあげて、アンジェリークをオスカーのもとに押しやった。

級友たちは、アンジェリークがいつのまにオスカーを好きになっていたのか知らない者が大半だったので、休み時間にアンジェリークに昨晩の経緯を事細かに尋ねた。アンジェリークが真っ赤になって、しどろもどろに、『絶対見こみはないと思ってたけどオスカー先輩に告白したいと思っていたの、そうしたらオスカー先輩の方から先に好きだって言ってもらえたの』とかなり詳細を省いた説明をした。

恥ずかしがって口篭もるアンジェリークに級友たちは好意的な理解を示してくれた。級友たちには、アンジェリークの人となりはよくわかっていたし、昨日のファッションショーの愛らしさもまた格別だったので、ある意味意外な取りあわせだったが、彼女ならオスカーから好意を示されても無理はないと、思ったのである。男子生徒はオスカーへのやっかみはあったものの、アンジェリークからも告白しようと思っていたという一言を聞いて、アンジェリークからの告白を断る男がいたらお目にかかりたい、という気持ちになった者が大半だったので、こちらは尚更、納得はしたくないのだが仕方ないと諦めた、という雰囲気だった。

そこへの、オスカーの出迎えである。

元々、上級生が下級生の教室に顔を出すことなど滅多にない。その上、やってきたのは、まさに話題の渦中の人物だったのだから女生徒たちがきゃーきゃー騒いで興奮するのはあたりまえである。級友の口々のからかいの言葉に(たとえそれが好意的なものであっても)更に真っ赤になってしまって黙りこむアンジェリーク。だが、騒ぐ他の女生徒を余所に、ロザリアは一人険しい表情で、ついと前に進み出、アンジェリークをオスカーに預ける前にこう釘を刺した。

「オスカー先輩、どういったご趣旨でこのような馬鹿な真似をなさったのか、わたくしには理解いたしかねますけど、もう、今後は、考えなしな行動でアンジェリークを困った目に合わせないでいただきたいですわ。」

「馬鹿な真似?困った目?一体何がだ?…」

ロザリアははあーと、これ見よがしに嘆息した。

「先輩は…以外に単純…いえ、男って優秀な方でもこういう目端は効かないのかもしれませんわね…アンジェリークが、嫌がってないみたいですし、今のところ…いいですわね、あくまで今の所ですわよ?実害がないので今回は大目に見ますけど、こういった考えなしの行為は以後謹んでいただきたいものですわ。何より、アンジェリークの立場をもう少し考えてやってくださいませんと…」

「もちろんだ、俺は何時だってお嬢ちゃんのことは真剣に考えてるぜ、なにものに誓ってもいい」

とマナーとして答えたものの、オスカーはこの時ロザリアの言葉の意味もわからなかったし、何故、詰問されるように責められねばならないのかわからず、些か憮然とした。

そこで、教室を出てから廊下で2人になるのを待って、オスカーはアンジェリークに尋ねた。

「お嬢ちゃん、一体ロザリアは何を怒っていたんだ?」

アンジェリークが放課後オスカーと会ってから初めて口を開いた。

「えーっと、それはその、今朝の…あの、新聞のことじゃないかと…むにゃむにゃ…」

「熱愛宣言の号外のことか?それの何がどう問題なんだ?」

オスカーは、自分のライバルへの牽制として、新聞部の記事を利用したが、それはあくまで対男子生徒へのものであり、女生徒たちには関係ないものと、この時、迂闊にもオスカーは思っていたのだ。

そして、アンジェリークを連れ、生徒会室のドアのロックを解除して入室した途端、

「このスカポンタン!」

真っ先に浴びせられた怒声、そして、飛んで来た拳骨。オスカーは僅かに顔を傾げてひょいと拳をかわし、替りに掌でぱしんとそれを受けた。この拳骨が本気でオスカーを狙ったものではないことはその速度からわかった。顔色も変えずに、オスカーはその罵声と拳骨の主に、その行為の訳を尋ね返した。

アンジェリークは半歩後ろでびっくりして固まってしまっていた。

「なんだ?オリヴィエ、いきなりご挨拶だな」

「な…な…な…」

「あ、アンジェ、ご免!あんたも一緒だったんだ。あんたを脅かした訳じゃないんだ、私が、怒ってるのはこの馬鹿になんだよ。」

固まっているアンジェリークの頭をいい子いい子してから、オリヴィエは徐にきっと顔をオスカーの方に向け、オスカーの形のいい鼻先に綺麗にマニキュアされた人差し指を突き出した。

「なんだ?じゃないでしょ!あんたって男は、この前も馬鹿だ馬鹿だとは思ったけど、ここまで馬鹿だとは思わなかったよ!…まったくあんたの馬鹿さ加減は宇宙の果て並みに際限がないんじゃないのっ!」

そう言うとオリヴィエは、例の新聞部の号外をオスカーの目の前につきつけた。

「ああ、これか…ロザリアにも馬鹿な真似をするなと言われたが、熱愛宣言の何がいけないっていうんだ?こそこそ隠れて交際する方が、よっぽどよくないじゃないか。俺はお嬢ちゃんとは真面目に真剣にお付き合いをして行く所存だからこそ、それを周囲に表明しただけだぜ?な?お嬢ちゃん?」

オスカーがアンジェリークの肩を抱いて愛しげに髪に頬ずりすると、アンジェリークが耳まで真っ赤になる。

そして、オスカーはしげしげと第2段の号外を観察した。

「それにしても、なかなか綺麗に撮れてるじゃないか…あの様子じゃ、きちんと撮れてるか心配だったが、あの程度の機材でも、お嬢ちゃんはちゃんと愛らしく映るんだから大したもんだ。照れまくっている所がまたなんとも言えずかわいいな」

全く悪びれた所のないオスカーにオリヴィエは大仰に嘆息して額を掌で押えた。

「…ってことは、これ、やっぱり確信犯でやったね…盗撮されたんじゃなくて…」

オリヴィエは処置なしだとでも言わんばかりだ。

「そんな大騒ぎすることでもないだろう、ほっぺにちゅーなんて微笑ましいものじゃないか。むしろ、俺の恋路が上手く行ったことを祝って欲しいくらいだぜ。おまえは一応事情を知っていたしな…それともなにか?予想外に上手くいっちまったんでやきもちか?」

「それは、あそこでせっせと号外をスクラップしてるあの男たちに言ってやんな。朝からずっと生ける屍状態だったみたいだよ」

オリヴィエの指差す先に目をやれば、生徒会室の隅で、クラヴィスがかきあつめられた号外の山から一枚一枚アンジェリークの映ってる部分だけ綺麗に鋏で切り取り、脇にのけている。その残り、アンジェリークのシルエットだけ切りぬかれた、つまりオスカーの姿だけ残っている紙片を、リュミエールが氷のような笑みを浮かべながら白い指先で丁寧に八つ裂きにして、紙くずの山を築いていた。

「クラヴィス先輩とリュミエール先輩、一体何をなさってるんです…か?」

「ああ、あんたがかわいく撮れてたから、その写真をスクラップしてるだけ…ってことにしておいて」

「はぁ…」

オリヴィエの説明を、ふんとオスカーは鼻先でせせら笑った。

「あれこそ、まさに俺の意図した事なんだから、別に問題じゃない。ライヴァルには早目に思い知らせてやる方が慈悲ってもんだろう。横恋慕の相手の駆除は早い方がいい。」

そんなオスカーの両側頭部に、オリヴィエがごりごりと拳骨を押し付けた。

「てててっ!何する!」

「だーかーら、あんたは底無しの馬鹿だっていうんだよ!考えてるのは自分のことばっかりで、こんな風にさらしものにされるこの子のこと、考えてやったのかい!?こんな風に宣伝しちゃったら、この子がどんな目に合うか、わかったもんじゃないのに!」

言われてみて、オスカーははっと思い当たった。

「それはもしや、他の女生徒たちから、やっかみとかねたみでいじめられるとか、そういう怖れか…」

オスカーは慌ててアンジェリークの方に向直ってその肩を掴んだ。

「お嬢ちゃん!もしかして、俺の熱愛宣言のせいで、他の女生徒からいやな目に合わされたりしたのか?」

ロザリアの言っていた言葉の意味がこの時初めて理解できたオスカーである。

オスカーはこの学園の女生徒には手だしは一切していない、きゃーきゃー騒がれて、それを卒なく受け流していただけである。そのため、油断していた、というか念頭に浮かばなかったのだ。この国に帰国してから約2ヶ月強、その間の異性関係は全て行きずりで済ませてきた。だから、きれいに精算しなくてはならない関係自体はない。この学園の生徒とは健全なデートすらしていないので、そういう意味でのトラブルを失念していた。ただし、それはあくまで帰国してからのことだから、留学前に現3年生や2年生で、オスカーとデートをしたことのある女生徒が…肉体関係込みで…いないとは断言できない。

「気付くのが遅い!っていうか、こんな馬鹿な真似する前に少しは考えろってーの!ったく、付合ってた子はいなくたって、あんた自身、きゃーきゃー言われる境遇は享受してたんだから、それが、いきなりステディ作って、しかもこれみよがしに見せつける真似なんかしたら、そのやっかみが、どこに向うか考えて当然でしょーがっ!」

「うわー!すまん!すまん、お嬢ちゃん!俺は、君と想いが通じた事で浮かれすぎてた…イヤミをいわれたり、無視されたり、まさか、吊るし上げにあったなんてことは…」

自分で言って想像してしまいオスカーは真っ青になる。他の男を牽制するつもり、そして、やはり、みせびらかしたい気持ちがアンジェリークを困難な状況に追いこむ怖れがあることに気付かなかった自分の馬鹿さ加減が悔やまれてしかたなかった。

「そ、そんなことないです、な、なにも、どなたにも、何もされてないです、私…」

アンジェリークが、つっかえつっかえ、ぶんぶんと勢いよく頭を振った。

そこに、にたりと凄絶な笑みを浮かべて、リュミエールが幽鬼のように音もなく立ちあがって近づいてきた。

「無理せずともいいのですよ、アンジェリーク。このようにさらし者にされて、恥ずかしがりやのあなたの心が痛まなかった筈がないのですから…第一、この、頬へのキスだって、あなたのこの困り切った様子からオスカーが一方的にあなたを襲ったのは明かですし……ああ、かわいそうなアンジェリーク、このケダモノの力には、あなたが敵う訳がないのですから…でも、あなたは被害者なのですから、何も後ろめたく思う必要はないのですよ、責任をとることもないのですからね…だから、何をされていようと無理にオスカーと交際などする必要などないのですよ…嫌なものははっきり嫌と言っていいのですからね?」

「?…あの、なんのことでしょう?リュミエール先輩……何をされて…って、されてって…」

何もされてない、と言いきろうとした拍子に、昨晩の情熱的なキスが脳裏に思い出されてしまい、アンジェリークは更に真っ赤になって、しどろもどろに詰まってしまった。

そのアンジェリークの様子を見て、リュミエールのこめかみに青筋が浮かんだことに気付いたのは、恐らく同じでろでろとした思いに頭が煮えたぎったクラヴィスだけだった。

「ああ、やはり…あなたは責任感が強いから…でも、何か「された」方が責任を感じることなどないのですよ、アンジェリーク。それに私は、あなたをかわいそうに思いこそすれ、それ以上のことは何も気にいたしませんからね、そうですね、クラヴィス先輩」

「うむ…」

「???」

何を言われているか全くわからないアンジェリークを余所に、リュミエールは張りついたような笑顔のままジュリアスの方にくるりと顔の向きを変えた。ジュリアスは、終始オリヴィエのオスカーへの苦言をうむうむとしたり顔で頷きながら聞いていた所だった。

「ジュリアス先輩、このような愚かで考えなしで不純異性交遊をいたいけな少女に無理に強いた上、それをわざわざ喧伝するような馬鹿者は、会長権限で即刻退学にしてしまいましょう、そうしましょう…」

ジュリアスがううむと唸って、困った顔になる。

「いや、私もオスカーの行為は無思慮だとは思うが、この学園の校則にはもともと異性交遊への言及はないし…自主自律が基本だからな…ましてやあからさまな犯罪行為ならともかく証拠が「ほっぺにちゅー」では、退学にさせるのはかなり難しいと思うぞ、第一私にそのような権限はな…」

「え!?あの、オスカー先輩が退学になっちゃうんですか!?そんなのいやー!だめーっ!」

ジュリアスの言葉を最後まで聞かず、アンジェリークがものすごい勢いで、ジュリアスに詰め寄った。

「ジュリアス先輩、オスカー先輩は、何も悪いことなんてなさってません!退学になんてしちゃだめですー!わ、わ、私の方が、オスカー先輩を好きで、でも、好きだっておっしゃってくださったのは確かにオスカー先輩の方が先だったけど…でも、それは単に順番の問題で、私も自分からオスカー先輩に好きですって、ずっと言いたいと思ってて…告白できただけでも嬉しかったのに、先輩も私の事を好きっておっしゃってくださったのが、信じられないくらい嬉しくて…ホントは今でも信じられないくらいで…あんまり幸せで…」

「お嬢ちゃん…」

オスカーを感動の渦にたたきこんだその言葉に、長髪3人組は、絶対零度の氷結地獄に叩き落された気分だった。特にクラヴィスとリュミールとしては、アンジェリークは、強引なオスカーにきっと有無を言わさずお持ち帰りされた挙句、無理矢理押し切られた形で交際を承諾させられたのだ、と何が何でも信じたくて、そこからアンジェリークを救い出すのだと思いこもうとしていたのに、アンジェリーク自身に一縷の望みを木っ端微塵にされてしまったのだった。

固まっている3人に気付かず、アンジェリークは瞳を潤ませてオスカーを見あげ、ダメ押しのようにこう付け加えた。

「あの、今朝のキスだって、そりゃ、恥ずかしかったですけど、でも、あの…いやじゃなかった…」

アンジェリークが恥じらいながら、オスカーに訴えた。

「あのね、先輩がモテるのは知ってますから…だから、私と付合うってはっきり言ってくださったのは、私は、嬉しかったです…恥ずかしいけど…やっぱり嬉しかったです…」

「お嬢ちゃん…怒ってないか?困ったことになっていないのか?本当に?」

「オスカー先輩、心配しないでください、ホントに何もありませんから…でも、ロザリアやソフィアが心配しちゃって…『私達はあんたの性格知ってるし、あんたが、真剣にオスカー先輩のこと好きだったのがわかってるから、素直におめでとうって言ってあげたいけど、2年や3年の先輩方は、あんたのこと知らないだろうから、このチラシを見てあんたが、いい気になってるとか調子にのってるなんて思われたら、何か意地悪されるかもしれないから』って言って、今日、ずーっと一緒にいてくれたんです。ソフィアやロザリア以外のクラスメイトも、私が一人にならないようにって言って誰か必ず側にいてくれて…」

オスカーは、心の底から安堵の溜息をついた。アンジェリークが良い友人に恵まれたことに、手を合わせて感謝したい気持ちだった。

「よ、よかった…俺は、その、お嬢ちゃんに他の男が言い寄らないようにって思ったばかりに、その考えなしな行動に走っちまった、すまない…」

「んもー、先輩ったら、モテルのは先輩の方で、私じゃないのに。私にはそんな心配いりませんのに…」

「お嬢ちゃん、それはちょっと違うと思う…」

そう思ってるのは君だけだと思う…ここにいるメンツもかなり熱心かつあからさまにアプローチしていたのに、全く気付いてももらえてなかったのかと思うと、オスカーは、ほんの少しだけ燃え尽きている3人組に同情した。

「まー、ロザリアが付いててくれるなら安心か…でも、ロザリアの心配の方が理に適ってるんだからね!調子にのってるのはこの馬鹿の方で、あんたは、人の神経を逆撫でするような子じゃないって、わかってる人はいいけど、そういう人たちばかりとは限らないからね。ほとぼりが冷めるまで用心した方がいいとは思うよ」

それでなくても、アンジェリークは女生徒の憧れであるクイーンの座も手にいれている。本人に全くその気はなくても、その事実だけを以って、周囲に媚びを売ってるとか調子に乗ってるとか、捻じ曲がった悪意の解釈はどこから生じるかわからないのだから。

昨晩のアンジェリークが魅力的だったのは、普通の感覚の持ち主なら誰でも頷くことだろう。クイーンもなるべくしてなったと、普通の子なら思うだろう。アンジェリークはかわいくはあっても、一見妖艶さには欠けるので、同性の反発も買いにくいタイプだ。この学園の女生徒は、比較的賢明だし、育ちがいいから、あまりひねくれてもいない。でも、良家の子女でも、頭がよくても、性格に難のある者はいくらでもいるのだから、用心するに越したことはないのだ。

オスカーも、オリヴィエの懸念が今はよくわかる。

それでなくとも、目立つ立場に俺もアンジェリークもいたのだ。2人の関係をすっぱ抜かれた事自体は仕方ないし、それを利用するだけならともかく、その先はやりすぎだった。特に慎む必要はなくても、敢えて周囲を刺激する必要もなかった。この点に関しては、アンジェリークの被る被害を予見しなかった自分が全面的に悪いとオスカーは反省した。やはり自分は浮かれていたのだ、と認めざるを得なかった。

「もう、わざと周囲を刺激するような真似はしないからな、お嬢ちゃん。交際宣言は一回すれば十分だろうしな」

「は、はい…あ!それより、ジュリアス先輩!オスカー先輩が退学になっちゃうなんて、そんなことありませんよね!?ね?」

懸念の件を思い出して、アンジェリークはジュリアスを問い詰めた。

ジュリアスは、少しだけ寂しそうに、でも、柔らかく微笑んだ。

「そのように不安げな顔をするでない。あのものたちの言葉は、調子に乗っているオスカーへのちょっとした懲らしめだから心配には及ばぬ。そなたの心を曇らせるつもりではなかったのだ。そうだな?リュミエール」

アンジェリークに哀しそうな顔をさせることが本意である筈もないので、リュミエールは不承不承頷いた。

「第一、私にそんな権限はないし、そなたたちが交際しているにしても、それが合意のものであるなら、何も問題にされることはない。このキスにしても…場所は一応校外のようだしな。ただ、校内では、あまり、他の生徒を刺激する行為は謹んでもらいたいと…これは命令ではなく、要請だがな…、そうは思うが。我が校の気風は自主自律だ。本学の学生として己の本分をきちんと果していれば、男女交際に目くじらを立てるものはおらぬから、安心するがよい」

と、アンジェリークを安心させた後で、しかし、ジュリアスはオスカーには厳しい顔を向ける。

「だが、オスカー、そなたの行動はまったく無思慮無分別だ。それに関しては反論はできまい。校則とか、そういった目に見える規律の問題ではなく、アンジェリークの立場を危うくしかねなかった、というその点に関してだ。この件に罰則などないが、アンジェリークに万が一の事があったかもしれん事を思えば、その痛みは公的な処分などなんということもないくらいだったろうと言うのは、自分自身が一番よくわかっていると思うが。」

「確かに、返す言葉もありません」

「私は…我々はこれの憂い顔を善しとせぬ。これが幸せならそれでいい、だが…逆にこれに哀しい顔をさせるようなことがあれば…その時は遠慮せぬからな、オスカー。そういうことでよいか、クラヴィス、リュミエール」

「致し方あるまい…これの望む所を思えば…」

「ええ、アンジェリークの幸せが何よりですし…捲土重来がまったくないわけではないのですからね…ふふふ」

「という訳だ、お嬢ちゃん、俺は、こいつらに君を渡さないためにも、君の笑顔を守り続ける、決して君を泣かせないと約束するからな」

「?…あ、はい、先輩が学校にいてくださるなら…一緒にいられるなら、それが一番嬉しいです、私は…」

とアンジェリークが、またも頬を染めて訴えたものだから、オスカーは感激の絶頂に、一方ある2人組は、この言葉が自分へ向けられたものでない事の理不尽さを密かに天に呪っていた。

 

そして、今、ハーベストフェスタ終了、つまり、アンジェリークとオスカーが互いの想いを確かめ合ってから、約一ヶ月が過ぎていた。

2人の仲は、はっきり言ってほぼ順風満帆である。この一ヶ月、問題らしい問題といえば、交際初日にオスカーがわざと新聞部にリークした熱愛宣言に絡むこの一件だけで、オスカーは、この件で、上記のようにアンジェリークの親友ロザリアと、自分の悪友オリヴィエから、こってり説教と罵倒をくらったが、結局大きな事件にはならなかった。

クラスメイトたちの協力もあったことと、その後の試験勉強への学園全体のシフトチェンジで、浮ついた気分が霧散したこと、何よりオスカーが学園内ではこれ見よがしにアンジェリークとべたべたするのを意識して控えた(ただし、可能な限り行動は供にしていた)ので、ロザリアやオリヴィエが案じていた上級学年からのアンジェリークへのいやがらせは何もなく、結局の所、彼らの懸念は杞憂に終わったようだった。

もっともこれは、生徒会執行部の面々がアンジェリークの動向に注意を払っていたことが、自ずと周囲にわかったからかもしれない。

特にリュミエールとクラヴィスは、オスカーがアンジェリークを泣かせたら、ここぞとばかりに鬼の首を取ったように騒ぎたてて2人を別れさせる機会を虎視眈々と狙っていたのだが、これが逆にアンジェリークを守る強力な包囲網となったようなのである。気がつくとあの2人が物陰からアンジェリークの様子をじっと注視していると知って、アンジェリークのロッカーや靴箱に汚物やかみそりや中傷の手紙など入れられる豪の者は、スモルニィの女生徒には一人もいないだろうから。

周囲からの妨害もない(目に見える形では)。アンジェリークとは、日々楽しく過ごしている。

にもかかわらず、オスカーは、最近溜息をつくことが多かった。そして、その溜息の元が日増しに自分の内部で成長していくような有り様に辟易していた。

学園内の雰囲気は今、勉強モード真っ盛りである。図書室やPCルームは参考書やノートを広げている生徒で満杯で、カフェテリアや談話室でおしゃべりしている生徒たちも、実態は勉強の教え合いをしていることが多い。

というのも、十二月の頭には2学期の期末考査があるからだ。普通の高校生はよほどの優等生でない限り、数週間前から試験勉強など始めないものであるが、このスモルニィの生徒たちは、流石にフェスタ直後の週はまだ浮ついていたものの、その翌週あたりからはすっかり落ちついて、皆、勉学モードに頭を切り替えていた。スモルニィの生徒が特別優秀で真面目だから…ではない。

この期末考査の結果いかんで、2学期の終業式の日に催される年度末ダンスパーティーへの参加・不参加の明暗が分かれるからである。テストで赤点を取った者へは補習と追試が義務付けられているのだが、この追試がダンスパーティーの開催時間とぴったり重なるように、学園側が意図的に配置しているのである。なお、補習は、試験休みの期間が当てられている。

この補習及び追試をさぼった者は、即時留年が決定、万が一落第点が複数回に及んだ場合、容赦なく退学勧告がなされるので、補習をさぼったり、追試を放り出してパーティーに出る生徒ははっきり言って皆無である。スモルニィの生徒たちは、母校に皆愛着と誇りを持っているので、ダンスパーティーのために退学処分に合いたいと思う生徒は一人もいなかったし、それくらいなら、最初から真面目に勉強すればいいだけだ、と合理的に物事を考えるのがスモルニィの生徒であった。試験も、真面目に授業を受けて復習していれば及第点は取れるように問題が工夫されていたし(上位成績者の優劣は、基礎問題以外の俗にいう難問の出来で決る)試験で及第点さえ取れば、試験休みもまるまる楽しめ、大手を振ってご褒美のパーティーに参加できるとわかっているので、皆、真面目に勉強にとりくむのである。

そのせいで、今は学園全体がぴりりとした緊張感で張り詰めている。試験が終われば、学園内は2学期最後の行事、ダンスパーティーに向けて俄かに活気だつ。男子も女子も、それぞれ、パートナー探しに奔走することになる。もっとも、パートナー選びは強制ではなく任意なので、フリーで参加してその場でパートナーを選んでも良いのだが、それまでにお目当ての子が残っているとは限らないし、懇意になるいい機会になるので、皆、事前に積極的に誘い合う。でも、それもこれも、試験に及第しないと始まらない。万が一赤点をとれば、ダンスパーティーの準備で皆が浮かれている中や、級友が試験休みを謳歌している中も毎日補習に明け暮れ、皆が着飾ってダンスパーティーに向う時に、それを横目に眺めて自分は追試会場に行かねばならない。これはかなり、惨めかつ情けない状況なので生徒たちは余計に真剣に勉強する。

そして、オスカーの溜息の原因は、もちろん、勉学ではなかった。遊んでいるようでも、勉強を怠ったことはないし、第一アンジェリークと想いが通じてからというもの、誰にも負けないアンジェリークに相応しい男になるのだという上昇思考が強化されており、学年一位の成績を取るのは、今やオスカーには至上命題であり、実際それだけの実力もつけているという自信もあった。

アンジェリークとは、パートナーの約束を早々に取りつけているので、横から彼女を攫われる心配もない。

アンジェリークが赤点を取ることは、まあないと思うが、念の為と、オスカーは最近、週末デートの度に、午前中は学校の自習室でアンジェリークの勉強を見てやり、午後になってから楽しくデートに繰り出す、ということさえやっていた。

デートは、オスカーの基準で言えば、かなり健全なものである。午前中少し勉強してから、昼食に出かける。昼食後は街をぶらついたり、カフェでお茶を飲んだり、ショッピングに行ったり…そして、夕食を供にしたあとは、夜景の綺麗な公園を散策しながらキスを交すこともあれば、学園に戻り、門限までは2人が思いを確かめあったあの東屋で、口付けを交すこともある…でも、どちらにしろ本当に口付けだけだ…そして、最後に寮までアンジェリークを送り届ける。そういうデートがこの一ヶ月の定番となっていた。

まさに高校生らしい、王道のお付き合いといえる。

実のところ、オスカーは、最初、どういうデートにアンジェリークを誘えばいいのか、相当悩んだ。

付合い始めて最初の週末、アンジェリークをデートに誘おうとして、自分が知っているデートというのは、多分に即物的で一時的なものだったことに気付き愕然としたのである。

自分にとって女性との付合いは、単純な排泄の快楽を伴う暇つぶしでしかなかった。

だから、目当ての女性を篭絡する達成感を得る為、決った手順こそ惜しまなかったが、それは食事やドライブくらいまでのこと…免許は留学先で取得していた。ただし、国際免許のままで、12月に満18才になるまで本国のものに書き換えられないので、本来なら車の運転は違法行為だったのだが…それ以上に複雑な手順を要求するような女は鬱陶しいので、すぐに切った。

それでも、暇つぶしの相手には不自由しなかったのだ。

クラブや、こじゃれたバーに顔を出し、そういう出会いを求めている女の雰囲気はすぐにわかる…そういう女には一杯酒を差し出してから

「俺と寝たくないか?」

そう一言言うだけでも、よかった。

もったいつける女には、あっさり引いてみせれば女の方から追ってきた。

そこからは、速攻でホテルに向かうだけだった。情事に自室を使ったことはない。部屋を覚えられて執着されるのが煩わしかった。

こんなものをデートなんて言えるか…少なくともアンジェリークにこんな振る舞いなどできない、したくない!

そこで、休みの前日、寮まで送っていく道すがらに、オスカーはアンジェリークに尋ねた。

「明日も会えるか?その…休日も一緒に過ごしたいんだが…」

「え…?それって…デートってことですか…嬉しい…」

ぽっと頬を染めるアンジェリークがたまらなくかわいくて、オスカーはその場で抱きしめたい衝動を必死に押えた。

「それで、お嬢ちゃん、どこか行きたいところはあるか?」

オスカーはとりあえずOKをもらえたことに安堵し、素直に…というか、他に方法がなかったのでアンジェリークに何処に出かけたいか尋ねた。率直に言ってアンジェリークがどのような出先を好むのかわからなかったし、自分の得意分野がアンジェリークに似つかわしくないことだけはわかっていたので。

「えっと…私は先輩とお出かけできるなら、何処でもきっと楽しいと思いますけど、でも、それじゃ、先輩が困りますよね…うーん…」

「今、思いつかないなら、じゃ、明日までに考えておこう。明日10時に寮に迎えに来る。俺も、考えておくが、お嬢ちゃんが行きたい所を思いついた時は遠慮なく言ってくれよ?」

なんていうやり取りを経てファーストデートは決った。

オスカーはありとあらゆる事態に備えて、街のめぼしいプレイスポット及び雰囲気のいいレストラン&カフェはすべてチェックし(この辺りは今までの経験が役に立った)翌朝アンジェリークを迎えに行った。

ファーでトリミングされたピンクのニットを着たアンジェリークは、こうさぎのようで、大層愛らしかった。

アンジェリークはオスカーの迎えに満面の笑顔で…心から嬉しそうににっこり笑って出迎えてくれたので、オスカーはこれだけでこの上なくシアワセになってしまった。アンジェリークをとにかく楽しませてやりたいと思い、なんとなくアンジェリークの好みそうな場所を幾つか挙げる。

「お嬢ちゃん、さあ、どこに行こうか?映画か?動物園か?それとも遊園地がいいか?」

すると、アンジェリークは、少しもじもじして、こう答えた。

「私、先輩とゆっくりお話できるところに行きたいんです。先輩のこと、もっとよく知りたいのに知らないことがきっと一杯あるから…だから、静かにお話できるところがいいな、遊園地とか映画より…それだと遊ぶのに夢中になっちゃいそうだから…」

こういわれた時、オスカーはまたも、アンジェリークを自室に連れて行きたいという言葉を飲みこむのにありったけの自制心を絞り出さねばならなかった。ここで、「じゃあ、俺の部屋に行こう」と言うのは簡単だったが、アンジェリークはあくまで、自分と「話」がしたいと言っているのだ、と思い必死に踏みとどまった。自室に連れていって、密室で2人きりになったりしたら自分は絶対「話」以外の方向に気がいってしまうに違いない、というのは完璧に断言できた。彼女はそんなつもりじゃない、とわかっているので、無理に思いを通すつもりは全くないが、はっきり言って生殺しの状態もできれば避けたかった。

そこで、オスカーはこの街で一番大きな公園に2人で連れだって行き…昼日中から公園に行くなんて幼稚園以来じゃないか、なんて考えてしまい、誰が見ている訳でもないのにどこか照れくさい気持ちを抱えながら、公園のそこここを散策した。

ゆっくり遊歩道を歩く。時折ベンチや芝生の上で休んで、飲み物を飲んだりアイスクリームをアンジェリークに買ってやったりしながら、2人で取り留めのないことを話していると、時間はあっという間に過ぎた。オスカーは最初、会話に詰まって退屈したりきまずい思いをしたりしやしないかと、実は危ぶんでいたのだが…そのためにも、付合いの浅いカップルは、わかりやすいイベントをデートに選ぶ方が無難なのだ。映画を見ている最中は会話はいらないし、映画の後は、その感想で間が保つ…だが、そんな懸念はまさしく杞憂だった。

自分たちは、最初の時点で、お互いの心の奥深くに触れ合って響き合うように惹かれあった。だから、それこそ、互いに表面的な事柄で知らない事、知りたい事はいくらでもあったから。

オスカーも、アンジェリークの両親が今、赴任している国名だけは聞いていたが、そこからでも話はいくらでも派生した。両親にはこの前会ったのかいつかとか、今までどんな国に行ったことがあるのか、とか、休みの時はどうするのか等々。オスカーは、そのうち折りを見て、きちんとアンジェリークの両親に交際している旨挨拶をしようと思っているので、やはり、アンジェリークの実家の様子は気になるのだった。

アンジェリークはアンジェリークで、オスカーの事を聞きたがった。どうして一人で暮しているのか、とか不自由はないのか、とか。

オスカーは、簡単に実家はいろいろ煩わしい事が多いからとだけ答えた。実家にいるとビジネス上の付合いで出たくもないパーティーなどに親の名代で出席させられることが多い(特に政治家関係のパーティーが多かった)ので、それは本音だったが、昼日中の公園ではこれ以上詳細な事情を話す気にもなれなかった。アンジェリークは何か察したようで、それ以上突っ込んで聞いてはこなかったが、

「あ、でも、先輩は、街のどの辺りに住んでいらっしゃるんですか?お一人で暮すのなら寮の方が、学校に通うのも家事も楽じゃないですか?」

と尤もな事を聞いてきた。

規則はそれほど煩くないし、元々自室に女性をつれこむ趣味はなかったが、やはり夜遊びの度に前もって外出届を出さねばならないのが面倒だったことと、寮には駐車場がないから、なんて本音は言えないので、これも

「たまたま、親の手持ちの部屋が学校のそばにあったんでな。」

とだけ言っておいた。

「お食事とかは?寮は食堂があるから、私はお掃除だけしてればいいですけど…」

「食事は外食が多いが、自分で作ることもある…簡単なものだけどな。クリーニングサービスを頼んであるから、部屋は結構綺麗にしてあるぜ。」

そして一呼吸間を置いてから、オスカーは思いきって聞いてみた。

「そのうち、俺の部屋に君を招待してもいいか?…」

「あ、はい…ぜひ…」

なんとなく照れている様子でもじもじして俯くアンジェリークの姿に、少しは見こみがあるのか?と一瞬期待しかけて、オスカーはすぐ、「いやいや、半端な期待はすまい」と自分を戒めた。

自室に招待したとして、その上、その日は泊まっていってくれるか?とまで言っておいたとしても、アンジェリークはその意味をわかってくれるだろうかと考えると甚だ怪しい。

自分の口説きが口説きとして認識されるかどうかも怪しかった。

アンジェリークに「俺と寝ないか?」なんて誘ってみるシーンを想像して、出てきた答えは

「先輩、一人で寝るのはさびしいんですね?じゃ、今日は一緒に寝ましょうね!」と

仲良く枕を並べて床に入ったかと思うと、秒の単位で眠りに落ちてしまうアンジェリーク…

ありそうで笑えなかった。

 

そして、十二月最初の休日、休み明けにはすぐ期末考査が始まるので、オスカーは今日も午前中はアンジェリークと軽く試験勉強をすませた後、昼食を取りに街に出た。

車の入ってこない石畳の舗道沿いにあるイタリアンの店だった。アンジェリークはパスタランチ、オスカーは羊肉料理のコースを摂っていた。アンジェリークは食べ方が綺麗で、なおかつ美味しそうにものを食べるので、オスカーはアンジェリークとの食事が何時も楽しみだった。

「お嬢ちゃん、試験はもうばっちりだろう?」

「先輩にこれだけ、勉強を見ていただいたんですもの、先輩ほどいい成績はとれないかもしれないけど、赤点はないと思います」

「俺のためにも、ダンスパーティーに出席できる成績は取ってくれよ?そうしないと、パーティーは愚か、試験休みにも会えなくなっちまうからな?」

オスカーはアンジェリークの頬にそっと手で触れる。

「勉強しながらのデートばかりで、一日中遊ぶって暇が今までなかっただろう?だから、試験休み中は俺はお嬢ちゃんと色々遊びにでかけたいって思ってるんだぜ。試験をがんばった自分と君へのご褒美ってことでな?」

「は、はい…でも、私、先輩とこうして一緒におしゃべりしてるだけでも、すっごく楽しいです」

「そうか?でも、俺は話だけじゃ、ちょっと物足りないな…」

アンジェリークが少ししゅんとしてしまった。

「あ、先輩、退屈でした?私、おしゃべりばっかりして…」

オスカーはふっと柔らかく笑んだ。

「退屈なんて言ってない。物足りないって言ったんだ。だってな、口はひとつしかないだろう?」

「?」

「同じ口を使うなら、おしゃべりより、君とのキスにもっと時間を割きたいんだがな、俺は」

「せ、せ、先輩〜」

アンジェリークがどう対応したらいいものか困り切って真っ赤になっていると、オスカーはまた、違った方面からアンジェリークを揺さぶる。

「お嬢ちゃん、学校では先輩でも仕方ないと思うが、2人でいる時はオスカーって呼べないか?ん?」

すると、アンジェリークは少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべてオスカーを見返した。

「先輩だって、私をお嬢ちゃんって呼ぶじゃないですか〜」

「これは失礼、では、アンジェリーク…」

「は、は、はいっ!」

突然、取っておきの甘い声で名前を呼ばれ、アンジェリークは丁度受け皿に置こうとしていたコーヒーカップを取り落としそうになって、がちゃんと大きな音をたててしまった。

「食事はもう終わったか?」

オスカーは自身も食後のコーヒーをくいと飲み干しながら尋ねた。

「はい…」

「じゃ、そろそろ出よう」

片手で伝票のチェックを済ませ、片手でアンジェリークの肩を抱きながら、オスカーはアンジェリークの耳元でこう囁いた。

「そのかわいい唇をおしゃべりと食事だけに使ってちゃもったいないだろう?少なくとも俺にはそんな気はないからな?だから、そろそろ俺にその唇を独占させてくれないか…?」

「せ、せ、先輩ったら…もう…」

カードを仕舞いながら、不意に、オスカーはアンジェリークにちゅっと軽いキスを落した。

「!」

「デートの最中に先輩って言う度に、その唇を塞ぐぜ?店の中だろうが、道の真中だろうがな?」

「もぅ………」

アンジェリークは頬をぽぅっと染めて黙りこんでしまった。オスカーはふっと笑んだ。彼女にキスをするいい口実ができたと。

店を出て舗道を歩き出そうとした途端、それまで黙っていたアンジェリークは頬を染めたまま、いきなりぽつりと呟いた。

「じゃ、私、もっと…『先輩』って呼んじゃうかも…」

「アンジェリーク?」

アンジェリークの何を言出すのか意図が読めず、オスカーは立ち止まってアンジェリークの顔を覗き込んだ。

「だって、『先輩』って一回呼ぶたびに、先輩からキスをひとつもらえるんでしょう?」

無邪気に問いかけるような瞳で自分を見上げるアンジェリーク。その瞳には、純粋な愛情しか感じられなかった。オスカーはアンジェリークを思わずぎゅっと抱きしめた。抱きしめながら大きく息を吐いた。

…君はどうしてそんな目で俺を見るんだ…俺はいつだって君にキスしたいのに、もっとキスを強請るような事を言われたら…俺はキスする以上にもっと深く君に触れたい気持ちを必死に堪えているのに…そんな風に見つめられたら、俺はもう…

アンジェリークは、いつも驚くほど素直で率直にオスカーに愛情を示してくれる。オスカーが抱きしめるのも、口付ける事も、嬉しいと思ってくれている気持ちがストレートに伝わってくる。

アンジェリークの出方をわざと計るような思わせぶりな誘惑のセリフをオスカーが発しても、同じように駆け引きで返すわけではなく、かといって怖がって逃げ出すのでもなく、とてつもなく真っ直ぐで真摯な愛情だけが返ってくる。

キスを強請るその仕草は普通なら間違いなく『誘惑』と受け取れるものなのに、その瞳があまりに綺麗で純粋な愛情で満ちているから、オスカーはアンジェリークにどう接していいか最後の所で戸惑う、ブレーキを掛けなくてはと思ってしまう。アンジェリークの愛情のこもった眼差しに、自分の激情を全てぶつけてしまいたいと思う傍ら、そんな自分の希みがとてつもなく身勝手なものにも思えるのだ。

彼女は、きっと、どこまでも俺を受け入れてくれるだろう。だが受動ではなく、俺は彼女にも俺を欲してもらいたい、欲してもらってからでなくては、この激情をぶつけられない、さもないと彼女を怯えさせる、壊してしまいそうで怖い、そう思って、ゆっくりと彼女との距離を詰めてきた。だが、アンジェリークを欲する気持ちは膨らむ一方だ。だから、俺は確かめずにはいられない、彼女の想いの深さ熱さを。どこまで俺を欲してくれているのか、知りたくてたまらないから、試すようなことをつい口にしてしまうんだ…。

「馬鹿だな、君は…君が俺をオスカーと呼べば、俺はこのキスの10倍も100倍も熱く激しいそれを君にやる。そうせずにはいられなくなる…」

「先輩…」

「ほら、まただ」

ちゅっと音をたてる軽いキス。

「さ、このまま軽いキスがいいのか、熱く激しいそれがいいか、アンジェリーク、君は本当はどちらが欲しいんだ?」

そう、こんな風に君がどこまで自分を欲してくれているのか、俺は確かめたい、確かめずにはいられない…こんな気持ちを君はわかってくれるだろうか…

オスカーの無言の問いに応えるかのように、アンジェリークは静かに言葉を発した。

「オスカー…」

「いい子だ…」

石畳の舗道には、所々に街路樹が植えられている。その幹の木肌に押さえつけるようにオスカーはアンジェリークに覆い被さり深く熱い口付けを与えた。アンジェリークが、情熱的なキスを求めてくれた事に心からの喜びと安堵をもって。

それでも、人目を意識して自分が満足するより時間は短めに切り上げた。

そして、思った。人の目を意識してさえ、俺はキスを少し早目に切り上げるのがやっとだ。2人きりになったりしたら…絶対に彼女にもっと深く触れたくなる…肌の隅々までこの唇で確かめずにはいられなくなる…だが、自ら深いキスを欲してくれる君に、俺はもっと君と深く触れ合いたいんだと請うてもいいだろうか…?

名残惜しげに唇を離し、アンジェリークの額と両の頬と耳朶に軽く唇で触れた。

「アンジェリーク…試験が終わったら…」

「はい…」

「俺の…いや、いいんだ、今度、話す」

「?…はい」

俺の誕生日のことは言ってあっただろうか?伝えていない気がする。

だが、今伝えたら、彼女は贈物で頭を悩ますに違いない。今はやめておこう。

俺の欲しいものは…たったひとつ…だが君はそれをわかってくれるだろうか…

俺の望みは、彼女と肉体的に結ばれること?彼女の身体を抱ければそれで満足なのか?いや…上手くいえないが、それだけじゃない。彼女と分かち難く結ばれたいと思っているのは確かなんだが…単に身体が欲しいんじゃない、SEXできればいい…んじゃないんだ…

こんな気持ちを俺は上手く伝えられるだろうか…とにかく試験が終わってからにしよう。

21日は、俺の誕生日なんだと。その日、君を俺の家に招待したいと…

自分でも陳腐だとは思うが…こうでもしないと切っ掛けが掴めない。

彼女を欲する気持ちは、もう堪え難いほど熱く滾っていて、痛いほどだった。

が、この気持ちを単なる欲情とは何故か言い難い気がして…その方がいっそ簡単なのに…彼女にそう解されるのが、躊躇われて…

どう表現したらいいかわからないが、厳然とそこにあって、日々膨らんでいくこのもやもやした気持ちが、オスカーの嘆息の源だった。


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