翌週、期末考査は無事に終わった。週末には学内の掲示板に上位成績者の順位が発表された。この席次発表は成績優秀者の名誉を称える意味合いの強いもので、上位約10%の生徒の名前だけが総合成績及び科目毎に掲示板に張り出される。総合成績には顔を出さずとも、科目によって突出して優秀な者もいるので科目毎の発表により見られる名前はかなり変わる。誰がどの分野で頭角を現しているのか、総合成績だけが全てではないことを周囲がよくわかるようになっているのだ。もちろん結果は学園のHPにも同様に掲載される。各生徒の個人の成績順位は学校側から個別にメールで送られてくる。教科及び単元ごとの出来・不出来も詳細にわかるようにデータ処理がなされており、赤点を取ったものは、もちろんこのメールでその旨告知される。
オスカーに勉強を見てもらえたおかげで、アンジェリークの成績はこの一年で一番よかった。どれが突出するということはないのだが、全体に満遍なくいい成績を収めたので、ぎりぎりだったが1年生の上位成績者に名前が連なった。
オスカーの厚意に応えられたことが嬉しくて、メールで結果はわかっていたものの、アンジェリークは休み時間に掲示板の発表も見に行った。オスカーに偶然会えないだろうか、と期待する気持ちもあった。会って、オスカーのおかげでいい成績が取れたことの礼を言いたかった。
掲示板の前には多くの人だかりができていた。自分の席次はわかっても、やはり誰が上位成績者か気になるものも多いのだろう。
学校自体は明日から一週間試験休みとなるし、どう足掻こうが既に結果は出てしまっている開放感でどことなくそわそわした気分がただよっている。なにせ、休み明けにまた一週間ほど短縮授業が行われるだけで、その後は終業式、式が終わってその日の午後には年度末のダンスパーティーが催されることになっているので、今、赤点を取らずに済んだと判明している者にとっては、これからパーティーのパートナー選びという楽しくもドキドキの日々が始まるからだ。廊下のそこここで、既にパートナーの申しこみを始めている男子生徒や、お目当ての男子に声をかけてもらえないかと人待ち顔の女生徒もいる。
そんな中でアンジェリークは、先輩や同級生の名前を掲示板に見つけては『皆、すごいなぁ』と素直に感心していた。
科目や学年毎のトップはネットの場合ウィンドウを別々に開きなおさないとわからないので、WEB上では見づらい。やはりこうして紙に書かれて張られたものの方が一時に成績上位者を見るには見やすかった。
一年生では、ロザリアが総合一位でトップに燦然とその名を輝かせていた。それでも科目別だと物理と数学はゼフェルの方が点数がいい。しかし、ゼフェルは好きな科目以外は多分及第点くらいなのだろう、総合になると名前が出てこない。
3学年の総合一位は当然のようにジュリアスである。
そしてオスカーは2学年での総合一位を獲得していた。
「先輩、すごいなぁ。帰国して再編入して初めてのテストなのに学年1位を取っちゃうなんて…」
アンジェリークは我が事以上にオスカーの1位が嬉しくてならない。それに「オスカー先輩ってやっぱり優秀なんだ」と改めて感じた。
自分が転校を繰り返したので、アンジェリークは転校早々は授業進度や単元の違いから成績があまり振るわない方が普通であることを良く知っている。だから尚のこと心の底から、オスカーは凄いと思うのだ。
オスカーが、いい成績を収めておかないと、どんな瑕疵でも見逃すまいと自分の足許を掬おうとするライバルにどんな邪魔をされるかしれたものではないと用心したことと、アンジェリークとの交際に関して誰にも何物にもつけこむ隙を与えるつもりはなかったから、尚更がんばっていたことなど、アンジェリークは知らなかった。
ただ純粋にアンジェリークは感謝していた。オスカーが自分の勉強だけでも大変だったろうに、この数週間、週末というとデートと言いつつアンジェリークの勉強を見てくれたことがとてもありがたかった。科目ごとに要点をわかりやすくまとめてくれ、出易い問題の傾向のヒントもくれた。
先輩のお勉強の時間を取ってしまってご迷惑になりませんか?一度言ったら、礼を、と思ってくれるなら君のキスが欲しいと言われて唇を塞がれた。だから、テストが迫っていたこの1ヶ月あまり、デートというと午前中は勉強して、午後はおしゃべりしながら、時折小鳥が戯れるように口付けを繰り返す、それがなんとなく定番となっていた。
オスカーの唇の感触はいつも暖かくて柔らかくて、なのに行為としての口付けは情熱的で激しかった。思い出すだけでアンジェリークの頬は熱をもつ。きゅっとかかえこまれるように抱きすくめられて、息もできないほど深く熱く唇を貪られて…その激しさと力強さにいつもアンジェリークは翻弄された。オスカーに口付けられていると、自分がどこにいるのか、どれほど時間が経ったのかわからなくなってしまうこともしばしばだった。
でも、アンジェリークはそれが嫌ではなかった。むしろオスカーとキスすることが大好きだったし、嬉しかった。オスカーは自分にいつも心のこもったキスをしてくれたから。アンジェリークが勉強をがんばれたのも、オスカーのキスがまるでご褒美みたいに思えたからかもしれない。ただ、オスカーとキスをすると、頭がぽーっとしてふわふわと夢見心地になってしまい、その後あまり会話ができなくなってしまうのが唯一の難点だった。胸が一杯になってしまって、言葉が上手くでてこなくなってしまうから。おかげで、あまり、オスカーといろいろ会話できたという記憶がアンジェリークにはないのだった。もっともデートの回数自体もまだ決して多くないのだが。
『試験休み中は何回かデートしていただけるかな?今までよりもっとお話もできるかな…』
アンジェリークは、オスカーに話たいこと、聞きたいことが一杯ある。でも、2人で会っているとどきどきしている間に、時間はいつもあっという間に過ぎてしまって、気がつくと門限の時刻で、オスカーに寮まで送り届けてもらってから『あれも話せなかった、これも聞きたかったのに…』と思う、そんなことの繰り返しだった。殊に今、アンジェリークはオスカーがうれしいこと、喜ぶこと、楽しいことは何なのか、切実に知りたいと思っているのだが、それが上手くいってない。だから試験休み中にデートができたら、なんとか気持ちを少しでも落ちつかせて…オスカーの顔を見てしまうとつい見惚れてしまうので、それはすごく難しいことなのだが…お話ししたいな、なんて考えていた。
顔は掲示板を向いていても心はそこに在らずでいたら、誰かにぽんと肩を叩かれた。
「はーい、アンジェ、あんたも成績見にきてたのー?」
「あ、オリヴィエ先輩、こんにちはー!」
掲示板の前でオリヴィエに声をかけられ、アンジェリークははっとしたものの、すぐ元気良く挨拶を返した。
「へー、あんた、今回、成績いいじゃん」
「オスカー先輩が、勉強を見てくださったんで、成績が上がったんです。」
アンジェリークは我知らずぽぽぽ…と頬を染めてしまう。
「へぇ、あいつがねぇ…で、あいつ自身は…やっぱり一位を取ったか…」
「すごいですよぇ、先輩…」
「まーあいつは2年生自体は、2度目だからねー、感心するのは少し割引いておきな?」
「あ、オスカー先輩は留学なさってたから…でも、学校が違うとカリキュラムも違うから転校生がいい成績を取るのって難しいんですよ、オリヴィエ先輩」
「ふふ…どうやっても人のいいところしか見つけないね、あんたは…」
オリヴィエはアンジェリークの頭をぽんぽんとはたくように撫でた。
「どっちにしろ、あんたもオスカーも、これで向後の憂いがなくなって、うきうきで仕方ないでしょ?試験が終われば後は楽しいイベントが待ってるもんね」
「あ、はい、そうですよね、そうなんですけど…あの、オリヴィエ先輩…」
「ん?何?」
「あ、いえ、なんでもないんです…」
オリヴィエにあることを尋ねようとして、一瞬迷った後、アンジェリークはそれを止めた。オリヴィエ先輩を頼る前に自分で考えてみなくちゃ、と思いなおしたのだった。
「そう?何か聞きたいことがあるんなら遠慮なく聞きにおいで?あ、そうそう、ダンスパーティーの準備はどう?メイクとかドレスのアドバイスならいつでもしてあげるからね?」
「ありがとうございます」
でも、その前に私はもっと大事なイベントがあるんです…とアンジェリークは心の中でつぶやいていた。つぶやいた所で休憩時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。
放課後になった。アンジェリークは生徒会室に1度顔を出すつもりだった。今日は特に用事はない筈だが、明日から試験休みなので、何か休み明けの連絡事項があるかもしれないと思った。生徒会室のある棟に繋がる渡り廊下に差しかかった時、ふと足を止めて窓から外を眺めた。
12月の空は秋の頃より一層高く感じられる。クラブ活動も今は休止期間だから、生徒たちの多くはすぐ帰宅しようとしている。皆、顔が晴れやかなのは試験休みの計画がいろいろあるからだろうか。
私はどうしよう…オスカー先輩とゆっくりデートできるといいんだけど先輩のご都合はどうだろう…あと2週間…2週間でいい考えはみつかるかな…
アンジェリークはテストがちゃんと終わったら、集中して考えようと思っていたことがあった。
あれは2度目か3度目のデートが終わって、オスカーに寮まで送ってもらった後だったと思う。
その日は『文化祭が終わればすぐテストですね、楽しいことと苦しいことって上手い具合に交替交替にくるようになってるものですねぇ』とアンジェリークが何の気なしに言った言葉から、オスカーがアンジェリークに『テストに不安があるなら勉強を見てやろうか?』と言出して『お嬢ちゃんは何が得意で何が苦手だ?』なんて話から、結局学校関係の話題だけでデートが終わってしまった。高等部からの編入生であるアンジェリークは、元々先輩である上にこの学園にずっと在籍していたオスカーとは、学校関連の知識や情報量に雲泥の差がある。年度末のダンスパーティーも期末考査の追試日と日程が故意に被せらている事も、オスカーに聞いて初めて知ったくらいだった。だから、そういう知識をレクチャーしてもらうだけでも、結構時間が経ってしまった。それはそれで、もちろん有益なデートだったといえるかもしれないが、自室に帰りついてお風呂に入りながらアンジェリークはそんなデートの様子を脳裏で反芻していて、はぁと溜息をついた。
「私ってば、今日もオスカー先輩ご自身のことは、あんまりよく聞けなかった…」
初めてのデートで、住所や自宅の電話番号を聞きそびれてから、聞きたいなと思っていることを聞き出す機会をうまく掴めなくなってしまっていた。今日のように他の話題に終始してしまったり、カフェでオスカーに見惚れていたり、キスされてぽーっとしている内にすぐ帰る時刻になってしまうのだ。
オスカーは誰でもすぐに知れるような情報は瑣末なことだと言っていたが、好きな人の住所や自宅の電話番号や誕生日も知らないというのは、女の子としてかなり情けなくないだろうか…
「自分で調べたりするのって、プライバシーの侵害かな…あんまりいいことじゃないような気もするけど…でも、好きな人のお誕生日とかってやっぱり気になるんだもん…」
誰が聞いている訳ではないのだが、つい、いい訳めいた言葉がひとりでに口をついて出る。
初めて出会った時にオリヴィエがオスカーはもう18才だと言っていたような記憶があった。ということは、オスカー先輩の今年の誕生日はもう終わってしまっているんだろうな、いつごろ、お誕生日だったんだろう、来年先輩に誕生日プレゼントをさしあげるなら何がいいんだろうな…季節によっても違うわよね…
軽い気持ちでそんなことを考えて、風呂からあがるとアンジェリークはPCを開けて、学園の生徒なら誰でもアクセスできる学生原簿を開いた。学籍番号はわからないがオスカーの姓名はわかるのでそのスペルを正確に入力して検索をかける。
「あ、出た」
そこには、それこそオスカーの言う「誰でも入手できるデータ」が並んでいた。学年・クラス、生年月日、国籍は記載されていたが、連絡先…自宅の住所や電話番号はプライバシー保護のためか空欄になっていた。
しかし、それより何よりアンジェリークの意識はオスカーの生年月日の欄に釘漬けになった。
「…生年月日は…○年12月21日……ってことは、うそ!お誕生日は来月じゃないのー!」
オスカー先輩、お誕生日まだだったんだ…じゃ、もう18って、今年18才になるってことだったの?やだ、知らなかった…ああ、でも、今調べてみようと思ってよかったかも…
だって、誕生日なんて一年に一回しかない、しかも、先輩が産まれてくださった、ものすごい記念日なのに!こんな大事な日なんて一年で他にないじゃないの!気づかないでやり過ごしてしまってたらもー悔やんでも悔やみきれなかったもの!
勝手に調べちゃったりしていいのかな?とも思ったけど、今となっては自分から調べてみてよかった…とアンジェリークは心から思った。
デートの最中は、アンジェリークはいつも無我夢中でいるうちに時間が過ぎてしまうので、聞きたいと思っていたことを聞けるかどうかは、とても怪しい。誕生日のこともなんとなく聞きそびれているうちに、もしやり過ごしてしまっていたら…と思うとぞーっとした。
オスカーが自分の誕生日のことを、自分から言出してくれればいいけれど、その保証はない。自分からは何も言わない可能性だってあるのだから。
だって、私だったら聞かれもしないのに、自分の誕生日をいきなり言ったりするかしら?自分からわざわざ言ったら、まるでプレゼントを催促してるみたいだもん、私…きっとしないと思うもん。だから、もしかしたらオスカー先輩だってご自分からは何もおっしゃらなかったかもしれない…
でも、それで誕生日が結局過ぎちゃって、好きな人からなにもお祝いしてもらえなかったら…やっぱり…絶対寂しいわ…私だったら寂しいもん…ということは、私、もうちょっとでオスカー先輩にそんな思いをさせちゃうところだったかもしれないんだ…も、もしかしたら、オスカー先輩ご自身は、私ほどお誕生日をお祝いしてもらうことにあまり思い入れがないってことも、あるかもしれないけど…だから、ご自分からお誕生日のことをおっしゃらないってこともあるかもしれないけど…でも、それにしても、お誕生日が過ぎちゃってから気づいたりしたら、私の気がすまなかったもん。よ、よかった…今調べて見ようと思って…
アンジェリークは心の底から安堵した。
「そうよ、だからオスカー先輩のお誕生日プレゼントを考えなくちゃ…」
オスカーにはうんと喜んでもらえるものをプレゼントしたい。
でも、いったい何がいいんだろう?オスカー先輩は何が好きで、何をさし上げたら喜んでくださるだろう…
アンジェリークはまだまだ数少ないデートの記憶をさかのぼり、オスカーの好きそうなものを一生懸命考えてみようとしたが、率直に言ってあまりに情報が少なくて、いい考えはちっとも浮かばなかった。
『まだお誕生日まで時間はあるから、デートの時とかにそれとなく聞いてみよう』
そう思って迎えた次回のデート。オスカーには勉強を見てもらう約束で学園の自習室で待ちあわせた。
しかし、オスカーの好きそうなものを探ることに気がいってしまっていたアンジェリークは、その日あまり勉強に身が入らなかった。オスカーはすぐにそれに気づいた。もっともアンジェリークの気の散っている原因まではわからなかったが…
「お嬢ちゃん、今日はなんだか乗り気でないみたいだな?やる気が出ないか?それとも俺との勉強は退屈…いや、俺のレクチャーの仕方が悪いのかな?」
オスカーがノートを閉じて尋ねて来た時、アンジェリークははっとして、すぐに申し訳なさと恥ずかしさに顔中真っ赤になった。椅子の上で小さくなる。身の置き所がなかった。
「す、す、すみません!せっかく先輩が勉強を見てくださってるのに…」
「俺と勉強するより一人でする方が能率がいいなら遠慮なくそう言ってくれていいんだぜ?何か心、ここにあらず…って雰囲気だったからな?」
「ごめんなさい、ごめんなさい、今、ちょっと、他のことに気を取られちゃって…」
「俺が目の前にいると却って気が散るか?何せ俺はいい男だからな」
ふふんと自信ありげな片頬だけの笑顔と軽口は、自分の気を軽くしてくれようとしてのものだ、とアンジェリークは直感する。
「ただな、俺はお嬢ちゃんと年度末のパーティーに参加したいと思ってる。そのためには俺もだが、お嬢ちゃんにも期末考査で及第してもらわないと困るんだ。まあ、これも俺1人のわがままというか、思い込みかもしれんが…」
「そ、そんなことないです、私も先輩と一緒にパーティーは出たいです。それにやっぱり追試や赤点は避けたいです…」
「そう思っているなら、ちゃんと勉強はしないとな?お嬢ちゃん。だが、もしお嬢ちゃんが一人で勉強するほうが本当は能率があがるっていうのなら、正直にそう言ってくれて構わないし…俺は寂しいが、試験が終わるまでデートを控えてほしいなら、そうしてもいいぜ?俺と付合い始めたせいで、成績が振るわなくなったりしたら君のご両親にも顔向けできなくなっちまうからな?」
「ごめんなさい、私も先輩と一緒に勉強させていただけたら嬉しいです。先輩に教えていただくの、すごくわかりやすいし…なのに、気を散らせてしまって本当にごめんなさいっ」
「ああ、そんなに恐縮しなくてもいい、気が散じることは誰にでもあるしな…じゃ、俺との勉強は続けてもいいのかな?」
「は、はい、是非お願いします…あの、先輩のお勉強のご迷惑にならなければ…ですけど…」
「お嬢ちゃんが例題を解いている間は俺も自分の勉強をさせてもらっているから、それは心配いらないけどな…そうだな…君が俺に申し訳ないと思うというなら…」
オスカーは一拍間をおいてにやりと笑った。
「君から家庭教師代をもらうことにするかな?…それなら対価になるから、君が申し訳ながることもなくなる」
「家庭教師代?あ、何をさし上げればいいんでしょう…」
「一科目につき、君からのキス1つ、っていうのでどうだ?成果に応じて深さを変えてもらえたらもっと嬉しいが…」
「せ、せ、先輩〜!」
困り切ってしまってきゅうっと瞳を瞑ってしまったアンジェリークの髪をオスカーはやさしく掬いとってこう言った。
「お嬢ちゃんからのキスは望みすぎか?なら俺のキスを受けてもらうことで我慢しておくか…でも…」
「?…でも?」
「いつかお嬢ちゃんが自分から俺にキスを仕掛けてくれる日が来ることを俺は願っているぜ?」
「も、も、も…先輩ったらご冗談ばかり…」
無理にでも冗談と思わないと、どう対応していいか、アンジェリークにはどうにも捌ききれない話題だった。もっとオトナっぽく洒落て小粋にかわせたらいいのに…と思うものの、それが自分にはどだい無理なことだというのもよくわかっていた。
こんなやり取りがあったので、最近のデートはとりあえず勉強、勉強を見てもらった後はおしゃべりの合間合間にゆっくり口付けを交す、という形に落ちついていたのだ。
そしてアンジェリークはテストが終わるまでは、とりあえずオスカーの好きそうなものを探すことを棚上げにして、意識から排除すると決めた。
オスカーの望むところを聞けたから。
本当は、オスカーが好むかどうかわからなかったけど…オスカー先輩はモテるから、もしかしたらもう一杯お持ちかもしれないけど…オスカーの誕生日を知った時点で何か編もうかな?とも思った。セーターは時間的にかなり苦しい…それこそ寝食を忘れて没頭しないと間に合わないかも…けど手袋とかマフラーなどの小物ならなんとかなるかも…と一瞬考えたのだ。
しかし、オスカーは自分にはっきりと言った。テストできちんとした成績を取ってダンスパーティーに一緒に出たいということを。オスカーとの交際が対外的にマイナスだとみなされるようなことは避けたいと思っていることもオスカーの言葉から察せられた。交際によって本業が疎かになるようでは、周囲から否定的な目で見られてしまうかもしれない。わたしたちはまだ学生だから。義務や本業を疎かにする学生に大人の目は厳しいから。そんな理由で交際を反対などされたくない…というオスカーの気持ちがアンジェリークにも感じ取れた。
それなら…勉強する時間を編物に費やして、悪い成績の替りに手編のものを贈って先輩は喜ぶ?誕生日のプレゼントに何を贈るかで頭が一杯で酷い成績を取りました、っていったら先輩は喜ぶ?違うと思う…先輩がなんで私の勉強を見てあげるって言ってくださったのか、ご自分のお勉強もあるのに、そう言ってくださった訳をちゃんと考えなくちゃ…どうするのが先輩にお気持ちに応えることになるのかきちんと考えなくちゃ…
だからアンジェリークはまず勉強をがんばった。
私は、オスカー先輩のおそばにいたいと言った。オスカー先輩は将来お仕事できっと一杯大変な思いをされる筈。私はそれを直接助けてさし上げられるかどうかわからないけど、でも出切る限りの力はつけておきたい…先輩のなさろうとすることの意味がわかる位は、きちんと勉強はしておかないと…今、するべきことはきちんとしておかないと、そうでなくちゃ、先輩の側にいたい、なんて言えないから…
そして、今、とりあえずオスカー先輩の厚意には応えられたと思う。だからもう、オスカー先輩のお誕生日に何を贈るか、思いきり考えてもいいよね?そっちに集中していいよね?ほんとに私、情けないほどオスカー先輩のお好きなもの、まだまだわからない…カフェで好まれるのはカプチーノ、甘いものはあまりお好きじゃないみたい、ケーキを頼むのは、いつも私の分だけだもの…お食事もスパイシーな物がお好きみたいだし…そんなことしか知らなくて…オスカー先輩があんまり素敵だからって、デートの間中ぽーっとしないようにしなくちゃ、あと2週間もないんだもの…2週間でわかるかな…わからなかったらどうしよう…
「お嬢ちゃん、何を難しい顔をしてるんだ?」
「きゃ…?…あ、お、オスカー先輩…」
どきんとして思わず振り返った。自分の顔の高さに合わせてかがみこんできたオスカーと、鼻と鼻がぶつかりそうになって、アンジェリークは更にどぎまぎした。
「お嬢ちゃん、こんな所にいたのか、探したぜ。教室にも生徒会室にもいないから…」
「あ、はい…ごめんなさい…」
「なんだか難しい顔をしてたが、何か困ったことでもあるのか?テストの結果は何の問題もなかっただろう?」
「あ、はい、全部先輩のおかげです!ありがとうございます!先輩が勉強を見てくださったから、テスト、自分でもよくできたんです。それに、先輩もすごいですねぇ、転入早々学年一位をお取りになって…」
「2年生は実質、2回目だからな。これでそこそこの成績が取れなかったら困るからな」
「学年1位って、そこそことは言わないと思います…」
「ふ…そうか?とにかくこれでお互いに試験休みもパーティーも謳歌できることになってよかったな。今日はもう何もないんだろう?一緒に帰るか?」
「あ、私、1度生徒会室に顔を出そうかと思ったんですけど…」
「今、俺も行ってきたんだが特に今日は何もなかったぜ。パーティーの準備は試験休み明けで大丈夫だし、パーティーは学園側の主催だから、あまり生徒会執行部としてはすることはないんだ」
「そうなんですか…」
「フェスタと逆にこのパーティーは学園が主で生徒会は従というか、補佐なんだ。パーティー自体試験できちんと成果を出せた生徒へのご褒美みたいなものだからな。この学園は本当によく信賞必罰が考えてある。成果をあげる生徒は厚く遇して更に奮起しやすい環境を用意してやるし、反対に最低限の義務すら果たさない者は泣きを見るような状況に追いこむからな。踊らされる身としては少しシャクだが、人を動かすには何が有効かってことを具体的に示してくれてるんだから、ありがたくもあるな」
「はぁ〜…そんなこと、考えたこともありませんでした…」
「この学園で長年学んでいると自然とわかってくるんだ、そういうカラクリが。人の上に立つようになった時に役立てろということなのか…まあ、とにかく帰ろう」
2人は仲良く帰路についた。もっとも、校舎から寮までは距離が短すぎるのが、今の2人にはなんとも物足りない。
「明日からの試験休みは一日中遊ぼうな。今までは半日くらいしか時間がなかったから、あまりイベントらしいデートはできなかったが、今度こそ、デートらしいデートをしよう、お嬢ちゃん。とりあえずは何がいい?アミューズメントパークか?それとも動物園か?」
「あのね、先輩…先輩は私のことをいつも優先してくださっていたでしょ?勉強を見てくださって、それから私が一杯お話したいっていったから、今まではいつも静かな所でゆっくりおしゃべりできそうな所を選んでくださっていたでしょ?」
なのに、肝心なこと聞けてない私ってばホントだめだめー、と思いつつ、アンジェリークはやるべきことをやらねば!と考える。
「だから、このお休みはオスカー先輩がお好きな所にでかけませんか?私、オスカー先輩がどんなことをなさるのがお好きなのかもっと知りたいし、できれば一緒にしてみたいんです」
そうしたら、オスカー先輩のお喜びになるもの、少しはわかるかもしれないし…とアンジェリークは考えた。
「ふむ…それも面白いかもしれないな…」
オスカーはしばし考えこんで、これが思いの外楽しそうなことに気づいた。今までデートと言えば女性が行きたい所に合わせるのがあたりまえだと思っていた。もしくは女性が行きたそうな所を自分からセッティングするかだ。おかげで特に人気のアミューズメントパークなど年間パスポートを買ってもよかったな、と思うくらい通ったし(デートと言うと必ず女の子はここに行きたがったので)女性が喜びそうなスポットにエスコートすることには自信があった。女性は皆、同じような店、ロケーション、雰囲気が好きだったから。が、自分の行きたいところや、したいことを優先して、それを一緒に楽しむという視点でデートをしたことは今まで皆無だったかもしれない。自分にとって女性の好み優先のデートとは、その後得られる肉の快楽に対する礼として女性を楽しませ、いい気分にしてやる、そんな意図のものだったのかもしれないと、オスカーはふと思った。
「じゃあ、来週一杯は俺の趣味に付合ってもらうってことにしよう。お嬢ちゃんが少しでも気にいってくれるものがあるといいんだがな」
「はい、楽しみにしてます!」
そして翌日からまるまる1週間、アンジェリークはオスカーの「俺の趣味に付合わせるデート」を思いきり堪能させてもらった。
オスカーの多趣味ぶりに、アンジェリークは目を見張った。
プールバーでビリヤードの手ほどきを受けたり、チェスも駒の動かし方くらいは知っていたので手合わせをしてみたのだが、これはオスカーの手を煩わせるのが申し訳ないほど、勝負にならなかった。勝負事に上手い人は下手な相手と闘っても面白くないものだと父から聞いたことがあったので、アンジェリークは申し訳なくて、チェスの相手を務めるのはもうちょっと上手くなってからにしようと思った。もっともその日がいつになるのかわからないのが、甚だ情けなかったが。オスカーが嗜むというフェンシングは無論、問題外である。ジュリアスとの模擬試合は真実見事な物だったとわかっていたから、アンジェリークは最初から、オスカー先輩がジュリアス先輩と試合する時は練習でも是非観戦させてください、私、応援しますから、と言うにとどめておいた。
その代り、アンジェリークがとても気に入り、オスカーもとりあえずは退屈しないでくれそうな楽しみもみつけられた。オスカーが会員になっているという乗馬クラブに連れていってもらい、ビジターとして乗馬レッスンを受けたのだ。オスカーの乗馬姿にも見惚れたが、アンジェリーク自身も乗馬がとても楽しかった。超初心者のアンジェリークには、良く調教されたおとなしい馬が宛がわれたのはもちろんだったが、それにしても馬は利口で従順でかわいらしくて、アンジェリークが「上手くもない私のことを乗せてくれてありがとう」と思った気持ちが通じたかのように、終始アンジェリークの思う通りに歩いてくれた。慣れぬ鞍にお尻が少し痛くなったがそんなことは気にもならないほどアンジェリークは乗馬が大層気にいった。即刻真剣に乗馬のレッスンを受けたいと思って、入門コースの入会手続きをしてしまったほどだ。オスカーはアンジェリークが自分と同じように馬を好きになったことを喜んでくれたようだった。野外騎乗できるようになったら、いつか、一緒に遠乗りにいけるといいな、とアンジェリークの髪を撫でてくれた。
どれくらい練習したら、オスカー先輩と遠乗りに行けますか?と聞いたら、オスカーは笑いながら、最低100鞍くらいこなせば初心者卒業だと答えたので、アンジェリークは相当な長期計画を覚悟した。とにかく、きちんとレッスンを受けるとなると乗馬用具が必要なので、それらを揃えに行こうということになって、翌日はオスカーの行き付けだという馬具店に連れていってもらって乗馬ヘルメットを購入し、乗馬服やブーツはあつらえることになって、採寸してもらったりした。
その買物を済ませた後入ったカフェで、アンジェリークはオスカーに恥かしそうにこう言った
「私、実は今日、筋肉痛なんです。朝起きたら身体のあっちこっちの筋肉がぎしぎししてる感じで…運動不足だったのかなって、ちょっと情けないです。」
「乗馬っていうのは、見た目より結構運動量が多いんだ。全身運動だし、その上普段使わない筋肉を使うので、初心者は筋肉痛になるのが普通だな。まあ、確かにここ1ヶ月勉強ばかりしていたから、お嬢ちゃんにはいい運動になったかもしれんな」
「でも、それはオスカー先輩も同じじゃないんですか?お休みはいつも、私と一緒に過ごしてくださっていたじゃないですか…」
「ああ、俺はちょっとした空き時間に偶に身体を動かしていたから。机に向って頭脳労働ばかりしていると気分が煮詰まってくる、そういう時はただ休むより、少し身体を動かして…滞った血流をよくする、とでもいうのかな、そうする方が却って集中力が戻るし、休む時もよく休めるんだ。頭が冴えたまま眠ろうとしても、時間がかかるし、上手く寝つけなかったりするだろう?だが、勉強した後に少し泳いだりすると、気分が切り替わってぐっすり眠れるので結果的に睡眠時間も少なくて済むんだ」
ささくれ立った神経を鎮めるのにSEXも有効な手段のひとつだったが、それはアンジェリークを知る前のことだ。オスカーはその当時のことが遥か遠い過去のことのように思えて、自分でも不思議な気がする。手軽でおざなりで如何にも間に合わせの関係を持つ気が今はまったくおこらない。心の底から、あらん限りの思いを込めて触れたいと思うのは目の前で微笑む少女一人だけだったから。勢い、気持ちを切り替えるのに…熱くなった頭を冷やすのにも…以前よりスポーツクラブに通う回数が多くなっていた。
「はぁあ〜、先輩は意識の切り替えがお上手なんですねぇ。メリハリをつけてるっていうか、時間の使い方が上手だから、私の勉強を見てくださってても学年1位とかお取りになれるんですね…すごいです…でも、お勉強した後すぐに泳ぎに行ける、ってプールでもお近くにあるんですか?」
「うん、まあ、俺の入っているスポーツクラブは、割と家の側…だな。お嬢ちゃん、興味があるならビジターとして一緒に行ってみるか?マシンジムは2人でやってもあまり面白くないから……温水プールで一緒に泳ぐなんてどうだ?」
「え?え?え?いいんですか?会員じゃなくても?」
「ああ、基本は会員制なんだが、会員同伴ならビジターも利用できるんだ」
「あの、それなら、行ってみたいです…」
オスカー先輩とプール…水着姿を見せるのは恥ずかしいけど、それでもうんと言ったのは、オスカーの好むことなら、なんでも経験してみたい、と思ったからかもしれない。
オスカーは一瞬意外そうな顔をしたが、すぐに嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ、明日、寮まで迎えにいく。水着だけ用意しておけばいい。他のもの…タオルやら何やらは全部揃っているから。もっとも水着もレンタルがあるから忘れても心配はいらないけどな」
「はい!」
というやりとりから、翌日のデートはスポーツクラブのプールで、ということになった。試験休みはその日が最終日だった。
オスカーが連れていってくれたスポーツクラブは、豪華な高層マンションの下層階に入っていた。
アンジェリークは最初その建物を見た時、ホテルかと思い、スポーツクラブというのはホテル内のそれかと思ったくらい、そのマンションの外装は豪奢で重厚な作りだった。スポーツクラブへは専用のエントランスから入った。内部は明るく清潔でしかも、落ち着いている。フロントも感じがよい。オスカーは極普通の様子でいぶし銀色のカードをみせて自身とアンジェリークのチェックインをしてくれた。
『オスカー先輩、こんなゴージャスなスポーツクラブの会員なんだ…やっぱり大企業の御曹司だっていうの痛感しちゃうな…』
いろいろなレベルでオスカーの常識が自分には未知の世界なんだろうなと思いはしたが、気後れを感じたり怯んだりはしなかった。オスカーの側にいたいのだ、と気付いた時から、外的な要因で自分の気持ちは揺らがない、というのは確信していた。
「ほら、お嬢ちゃん、ロッカーのキーだ。あそこが女性用のロッカールームだから着替え終わったらプールサイドでな?」
「はい、先輩」
ロッカールームに入ったアンジェリークは思わず感嘆の溜息をついてしまった。木目で統一されたロッカールームは明るく広広としている。付随したメイクアップルームは、ライトアップされた鏡台1スペース分につき、いかにも高級そうな基礎化粧品やドライヤー及び滅菌済みのヘアブラシやパフ類が個々に設置されている。使ったものはすぐ補充されるのだろう。シャワーブースにはやはり個々にシャンプーとコンディショナー、ボディソープ完備である。筋肉の疲れをほぐす為か、ゆったり足を伸ばせそうな大きな浴槽には爽やかなハーブの香りのするお湯がはられ、サウナもミストとドライの二種類ある。ふわふわのタオルやローブは自由に好きなだけ使えるようだ。オスカーが水着さえ持ってくればいいといった訳がよくわかった。本当に高級なスポーツクラブなんだということは、この贅を尽くした設備や備品から明かだった。
水着に着替え、壁面の鏡で水着がよれたり捻れたりしている部分はないかチェックする。
「この水着、おかしくないかな…」
この夏新調したピンクの編み地のトップとデニム地のボトムのタンキニと、フリルが一杯ついたパレオ付きのトロピカル柄のビキニと、シンプルだがカップがきちんと整形されているカッティングの綺麗なクチュールテイストのワンピースと悩みに悩んで、寮の部屋で何度も着替えて、アンジェリークは結局ワンピースに決めた。スポーツクラブのプールというのは泳ぐ為のプールだから、1番泳ぎ易そうな水着が相応しいかな?と思ったことと、やはり、あまり肌の露出の少ない物が恥ずかしくないかと思ったからだった。
しかし、アンジェリークは少しばかり勘違いをしていた。シンプルで余計なディテールのついていない水着の方が、綺麗なボディラインをあます所なく知らしめてしまうのだということを。
「オスカー先輩、もう、いらっしゃるかな…」
手首足首をほぐしてからシャワーを浴びて、プールサイドに出たアンジェリークはすぐさまオスカーを見つけた。いや、オスカーの姿の方が目に飛びこんできたかのようだった。
浅褐色の肌に黒いシンプルなビキニをつけたオスカーが自分を見つけたのか、微笑みながら近づいてきた。でも、アンジェリークの足は動かない。ただ、息を飲んでオスカーを見つめ、均整の取れた肉体の美しさに理屈ではなく圧倒されていた。鍛えられた肉体ほどに美しい物はないのかもしれないと、アンジェリークは痛切に感じた。
硬質な質感を思わせる肌の色、厚みのある肩、力強い腕、逞しい胸板、引き締まって無駄の一辺もない腰のライン、その締った腰から伸びる無骨だが驚くほど長い足。
美術室にある大理石の彫像みたい…ううん、それよりもっと綺麗…
オスカーを綺麗だと思ったことは以前もあった。他を圧倒するような力強い美しさを持った人だということは知っていた。でも、この一切の虚飾を排した美しさはどうだろう。人の目を引きつけずにはおかない美しさと言う以外、アンジェリークは形容する言葉をみつけられない。
「お嬢ちゃんの水着姿、思ってた以上にかわいいな」
オスカーはオスカーで、ぱっと見のかわいらしさではなく、シンプルでもボディラインを綺麗に見せる水着を選んだアンジェリークのセンスをいいなと思って素直に誉めた。が、アンジェリークに恥らうなり喜ぶなりの反応が見えない。
「どうした?お嬢ちゃん、ぼーっとして…顔も赤いみたいだが…」
アンジェリークはここまで言われて漸く我に返った。
「あ、す、すみません、オスカー先輩の水着姿があんまり素敵だったから…見惚れてました…っ…やだ、私ったら…」
思った通りの言葉をするりと口に乗せてしまって耳まで赤くなってしまったアンジェリークに、オスカーは思わず破顔した。
「なんとも直截な誉め言葉だな、ありがとうお嬢ちゃん、でも、お嬢ちゃんもすごく魅力的だぜ。シンプルな水着のラインが綺麗な身体の線をより引き立てて…ここが会員制のプールでよかった。さもないと君の魅力に参った男どもを追っ払うのに一苦労だったろうからな。真夏の海水浴場だったりしたら大変だったな」
「そ、そんな…それは先輩の方です…先輩みたいに素敵な方、誰でも見惚れずにいられないと思います…」
「じゃあ、俺達は誰より似合いのカップルだな?」
オスカーはまぶしい程の笑顔と冗談めかした言葉でこの話を打ちきると、アンジェリークに手を差し伸べて泳ぎに誘った。
アンジェリークは黙って、オスカーに手を預けたが、どぎまぎしてしまって泳ぎを楽しむどころではない心境だった。オスカーの裸の胸もまぶしいほど魅惑的で息を飲んだが、手を引かれてオスカーの後をついていくと無駄のない締った背中のラインが嫌でも目に入り、それがまた喩えようもなく綺麗だと見惚れてしまうのだ。
『どうしよう、私、なんだか変…オスカー先輩の大きな背中を見てると…なんだか抱きつきたいような気持ちになっちゃう…』
アンジェリークは頬を染めて自分のこんな感情に困惑していた。
そんなアンジェリークの困惑の情も知らず、オスカーは自分が先にプールに入るとアンジェリークに手を差し伸べ抱き下ろすように水に入らせた。
「きゃ…少し…冷たいですね…温水プールなのに…」
「泳いでいると丁度いい水温なんだろう、これくらいが。さ、少し泳ぐか?」
オスカーはゆったりと抜き手を始めた。
いつもなら単純に最低10往復ほど泳いで上がるだけだが、今日はトレーニングではないのでアンジェリークの様子を見ながら、ゆっくり泳ぐ。アンジェリークは普通に泳げたが、それほど得手というわけでもなさそうだった。きちんとした訓練は受けていない、そんな印象だった。
プールの一端は飛びこみでスタートできるように水深が深くなっているのだが、そちらの方に向う時、ものすごく真剣な顔付きで泳いでいたからだ。そして、往復で戻ってくる時も…
「お嬢ちゃん、そんなに必死になって泳がなくてもいいんだぜ?体育の授業じゃないんだから…」
オスカーが泳ぐのを止め、1度立ち止まってアンジェリークに声をかけた。
「だ、だって、止まっちゃったら、ここ、まだ足がつかないんですもん、一気に泳ぎきらないと、私沈んじゃいます〜」
「俺がついていて、そんな目に合わせる訳がないだろう?ほら、俺につかまりな?」
オスカーはアンジェリークの腕をとって、自分の肩に掴まらせた。が、水の浮力でアンジェリークの重みが感じられないのが、オスカーにはなんとも物足りない。自分の背中側に掴っていたアンジェリークの腰を抱えて、腕の中に収めるように前向きに抱きなおした。そして向かい合わせの姿勢でアンジェリークの腰を抱きとめたその時、オスカーにちょっとした悪戯心が芽生えた。
「お嬢ちゃんは、ここだと足がつかないのか?」
「はい、私はもう頭まで潜っちゃいます」
「立ち泳ぎはできるのかな?」
「で、できません…」
「じゃ、俺がこうして手を離してしまったら…」
とオスカーはアンジェリークの腰を抱えている手をすっと離すふりをした。途端に
「きゃー!きゃー!いきなり離しちゃだめぇ!」
とアンジェリークが慌てて必死にオスカーの首ねっこにしがみついてきた。
「すまん、すまん、冗談だ。絶対離したりしないから…」
「ほ、ほんと?先輩」
「いや、俺を先輩って呼んだら離すことにするかな…」
「きゃー!うそー!」
「というのも冗談だが…こうでもしないと君は自分から俺にだきついたりしてくれないだろう?」
鼻先と鼻先を、ちょんと触れあわせ、瞳を少し細めてオスカーは静かに言った。何かに飢え何かを求めている、どことなく切ない渇望を感じさせる声音だった。アンジェリークは反射的に応えた。
「そんな…そんなことない…」
アンジェリークはふるふると小さく首を振ると、オスカーにしっかり支えてもらっているにも拘わらず、オスカーの肩から首に腕を回して思いきりきゅっと抱きついた。
ああ、私、こうしたかったんだ…とアンジェリークはオスカーに抱きついてみてわかった。心からそう感じた。
間に多量の水があるとはいえ、オスカーの裸の胸が間近に見えて、先刻からアンジェリークの鼓動は早まりっぱなしだった。オスカーの胸板は弾かれそうなほどまぶしく感じるのに、何故か、もっと側に、もっと近づきたい…追いたてられるような希がいつのまにか胸一杯に満ちていた。オスカーの一言がそこに刺さったように弾けた。
「せ…オスカー…好きです、すごく好き…わざと離したりなさらなくても、私は…私の方こそ…」
アンジェリークの言葉はそれ以上続かなかったが、背中に感じる華奢な腕に更に力が込められたのがオスカーにははっきりわかった。オスカーもまた無言のまま、アンジェリークを抱く手に力を込めた。水の浮力による頼りなさが恨めしく、その頼りなさを払拭したくて口付けた。
アンジェリークが、むずかるように唇を外す。
「せ…オスカー、誰かに見られちゃ…」
その言葉を遮ってもう1回オスカーはキスを落す。
「会員制のプールだって言っただろう?そんなに人は来やしないし、来ても見て見ぬふりをしてくれるさ…」
改めてオスカーは水中でアンジェリークの身体を抱きしめなおして、深深とした口付けを仕掛けてきた。
オスカーの口付けを受けながら、アンジェリークは、ちりちりとする締めつけられるような胸の痛みを感じていた。
なんだろう、この気持ち…苦しいとか、辛いとか、嫌な気持ちじゃないけど…胸が切られるように切ないの。私はオスカー先輩を好き、その好きって気持ちがあれば、それだけでいいと思ってた…でも、でも、オスカー先輩があんまり素敵だから…オスカー先輩は太陽みたいな人で…熱くて激しくて綺麗で眩しくて、見つめずにはいられない人だって改めて思いしらされて…そしたら、なんだかどんどん私、欲張りになるみたい…もっと、近くなりたい、もっと側に近づきたい、本当は、オスカー先輩を抱きしめたいのは私の方みたい…そんな感じ…
その気持ちの正体はまだ朧だった。
水中で長々と口付けを交したせいで、すっかり互いの身体が冷えてしまった。
オスカーはアンジェリークを横抱きにしたままプールを歩いて横切り、アンジェリークを水から上げた。案の定アンジェリークがぶるっと身震いしたので、すぐさまジャグジーの場所を教えた。
プールの片隅に1段上になったテラス状の場所があり、そこに温水のジャグジーがある。ぼこぼこと勢いよく気泡をあげている暖かいジャグジーに浸かり、アンジェリークは安堵したように息をついた。
オスカーも後から続けてジャグジーに浸かり、アンジェリークの隣に腰掛け肩を抱いた。アンジェリークは素直に首をオスカーに預けてきた。
「あったかいですねぇ、オスカー先輩、気持ちよくて出られなくなっちゃいそう…」
「いくら浸かっててもいいが、あんまり長く入っているとふやけちまうぜ、お嬢ちゃん」
「だって、お風呂みたいで気持ちいいんですもん」
などと、とろんとした口調で話すアンジェリークに他意はないのだ。ジャグジーは見も知らぬ他人と共有することもあって、同じ一緒に浸かることがあっても風呂とはまるで意味が違う。そうわかっていても『お風呂みたい』などど言われると、オスカーの心拍は跳ねあがってしまう。
アンジェリークが先ほど、自分のことを求めるような仕草を見せてくれたような気がした。それが嬉しくて、思わず口付けてしまった。
俺が求めるほどに、君は俺を欲してくれているだろうか…アンジェリークは自分を好いてくれている、それはわかっている。否応なく伝わってくる。でも、それは自分と同じほどの想いなのかどうかまでは、オスカーには断言できない。自分と同じ程の熱さで、アンジェリークにも自分を求めてほしいとオスカーは切実に思っている。
アンジェリークを欲しいと思う気持ちは真実だが、それは単に肉体的な繋がりを欲しいと思う以上に、アンジェリークが俺と同じほどに俺のことを欲してくれているという、証拠とでもいうのか…確固とした証が欲しいからかもしれないと、オスカーはふと思った。
でも、ジャグジーとは言え、こうして無邪気に俺と湯に浸かっている君を見ると、まだまだそれ求めるのは早いのかもしれない…とも思ってしまうのだ。思わず切ない吐息が洩れそうになるのを、オスカーは押し殺した。
そして、その後、何度かプールとジャグジーを往復して、もう十分泳いだなと思ったところでプールから引き上げた。
身支度にかかる時間を計算してエントランスで待ち合わせの約束をした。
シャンプーの香りをまとってアンジェリークが上気した頬で現われるのを待って、食事に出た。
「オスカー先輩、先輩のおうちってこのクラブのお近くなんですよね?」
「あ、ああ、近くだ。ものすごく…」
とまで言ったのに、オスカーは自室が実はこの上のマンションで、よかったら今度の週末にでも遊びに来ないか?と誘うことが結局できなかった。
自分の誕生日まで、あと1週間も残っていなかった。