オスカーの誕生日当日、アンジェリークはいつもと同じような時刻に起きて朝食を済ますと、すぐに家庭科室に向った。今から作るケーキの材料を両手一杯に抱えて。オスカーは今日で18才、この国ではもう成人扱いとなる年齢となる。
オスカー本人の嗜好を考えてアンジェリークはシャンパンをムースにして、それをベースにしたデザートタイプのケーキを作ろうと考えた。固めのビスキュイで土台を作ってから、シャンパンムースを上に載せる。周囲のデコレートは、オスカーがクリーム系は苦手だと言っていたので、ムースを作った残りのシャンパンでゼリーを作って上からまわしかけ、周囲はそのゼリーをクラッシュしたものを飾った。澄んだ淡い琥珀色がきらきら輝いて、シックでいながら華やかな、いかにも大人びた風合いのデザートケーキができあがった。
「綺麗にできたよね…?それにこれくらい大人っぽいケーキなら、オスカー先輩も召しあがってくださるだろうし、もしかしたら、美味しいって思ってくださるかも…そう思ってくださるといいな…」
出来あがったケーキを箱にいれてラッピングしてから冷蔵庫に仕舞った。ちらと時計を見たら、オスカーが迎えに来てくれると言っていた時間まではまだ十分余裕があった。ケーキを作っている最中、生クリームや小麦粉をどこにはね飛ばしてしまったかわからないと思ったので、アンジェリークは念のため、軽くシャワーを浴びてから着替えることにした。
シャワーから出て、下着と服を身につけた。下着は新しくおろしたもので、服は、シンプルだが、シルエットの綺麗なクリームイエローのカシミアウールのワンピースにした。襟ぐりはゆるいドレープのはいったボートネックで、ボディラインに程よくフィットしたトップスと緩やかなフレアーとなっているボトムが女性らしい柔らかな印象を与える。左肩についたドレスと共布の小さなコサージュがアクセントだ。
髪はリボンを結ぶか結い上げるか迷った挙句、サイドを捻ってクロスにしたピンで留めるだけにして、ふわふわの巻き毛を肩に遊ばせた。オスカーが、よくこの巻き毛の一房をを掬っては掌で弄ぶことを思い出したから。そして、アンジェリークはオスカーに髪を触られるのが好きだったから。
鏡を覗いて、入念に自分の姿をチェックする。髪は?服装は変じゃない?子供っぽすぎたり、逆に背伸びしすぎ…自分自身にそぐわない感じはしない?端から見てちぐはぐな所はない?そう思って鏡を見るとき、アンジェリークはこの場にいないオスカーの目を心のどこかで意識している自分に気付く。
アンジェリーク自身はリボンやフリルが一杯散りばめられた少女っぽい服も大好きだし、今も実際よく着ていた。でも、今日はオスカーの誕生日だから…余計にオスカーの目を意識してオスカーの好みそうなシンプルな服を選んだのかもしれない。迎合する気や、何でもかんでもオスカーの好みに合わせるつもりはないし、事実そんなことは不可能だけど、少しでもオスカーに綺麗だと思ってもらいたい自分がいるのも確かだから。
髪を下ろしたのだって、今日も、できたらオスカー先輩に髪に触れてもらいたいって、心の中で願っているからなのかも…とアンジェリークはふと思った。
ううん、きっとそうなんだわ…オスカー先輩が私の巻き毛にそっと触れる瞬間を私は頭に思い描いたから、髪を下ろした。オスカー先輩に髪を弄ばれると、私は息が詰まりそうなほどどきどきして、ぞくぞくと震えるような戦慄を覚えるのに、どこか甘やかでうっとりふんわりした気持ちにもなる。私はそれを期待してるんだわ…
多くのアレンジがあるのに、この髪型を、この服を今、選ぶということの意味。選択するという行為には無意識のようでも何かの意図があるものなんだわ。しかも、今、自分の意図は無意識でも隠れてもいない…私は、オスカー先輩に触れて欲しいんだわ…私の方がオスカー先輩に触れて欲しいと思ってるんだわ…
なんとなく息苦しいような気がして大きく溜息をついたその時、部屋のインターフォンが鳴った。
「きゃっ!」
アンジェリークは慌てて受話器を取る。案の定、舎監からで、用件もこれも想像通り、彼の人が迎えにやってきたという呼び出しだった。
アンジェリークはコートを羽織り、冷蔵庫から出したケーキと、それからコンパクトにまとめた一泊用の荷物を手にして急いで寮の玄関に向った。
「よう、お嬢ちゃん、迎えに来たぜ?仕度は済んでいるか?」
「あ、はい、オスカー先輩」
アンジェリークは内心のどきどきを隠してオスカーに頷いた。今日はオスカーの自室に招かれて、そのまま外泊…の筈なのに、オスカーの態度は今までのデートの時の出迎えと何ら変わった所がない。いつも通りにアンジェリークに優しく微笑みかけてくれている。落ちついていて、にこやかで…
その普段のデートの時と寸分変わらないオスカーの態度にアンジェリークは、安心するよりも、僅かに気落ちした。オスカーの笑顔を見て嬉しく思うより、微かではあっても落胆の思いを抱いた。
『やっぱり、お友達に「泊まっていけよ」って言うのと同じような意味でお誘いくださったのかも…』
こんなにどきどきしているのは自分だけなのかも、と思うと力が抜けてしまう…というより、なんとなくがっかりしてしまった。そんな自分に戸惑う。
それでも、今日は慌しく時間を気にしないで会っていられるし、オスカー先輩のお家に上がらせていただくのも初めてだし、それだけでも楽しみなのは事実だから。
アンジェリークは誡めるような気持ちで自分自身に言聞かせてから、慌てて祝いの言葉を述べた。
「先輩、お誕生日おめでとうございます」
「ありがとう、お嬢ちゃん、だが、祝いの言葉は俺の家でゆっくり聞かせてくれないか?さ、行こう、荷物はこれだけか?」
ひょいとオスカーがアンジェリークの手荷物を片手で攫い、もう片方の手はアンジェリークの小さな手をしっかり握り締めて、すたすた歩き出した。
「あ、自分で持てます〜」
といいながら、アンジェリークはオスカーがいつもの正門の方向に向ってないことに気付いた。
「オスカー先輩?どちらにいらっしゃるんですか?直接、先輩のお宅に行くんじゃなかったんですか?」
この方向は…アンジェリークは考えを巡らせる…たしか学校付随の駐車場があるだけで、他に何もなかったんじゃない?…駐車場自体一般生徒には縁のない所なのでアンジェリークも自信を以って断言はできなかったが。
「いや、こっちでいいんだ」
オスカーは意に介さず、確信に満ちた足取りで歩いていく。しかし、行きついた先はやはり駐車場だった。
アンジェリークが不可解に思っていると、オスカーは徐に懐から小さな鍵を出して、その頭の部分を指先で軽く触った。同時にすぐ側に留めてあった車から「かちゃり」と微かな金属音が聞こえた。キーが解除された音だった。
オスカーが手馴れた仕草でその車の助手席のドアを開け、荷物を後部座席に置いた。メタリックな黒のクーペタイプで流線型のボディがいかにも洗練されたスポーツカーだった。ボンネットのエムブレムは盾のような形で黒と赤のボーダーといまにも跳ねあがらんとする馬の意匠が組み合わされたものだった。
何が何だかわからずその場に立ち竦んだままのアンジェリークを、オスカーが促した。
「さ、乗ってくれ、お嬢ちゃん」
「やっぱり、これ…この車…先輩のお車なんですか?」
「ああ。俺の家まで距離は大したことはないんだが、荷物があると思ったんで車を持ってきた。」
「は、はぁ…」
アンジェリークは促されるままに助手席に身体を沈めた。内装もいかにも高級そうだ。フロアマットはふわふわ、シートは本革ばりで塵ひとつ落ちておらず、フロントガラスも曇りの一点もない。アンジェリークはシートベルトを締めたところで、はっと思い出したように尋ねた。
「せ、先輩、免許は!?」
オスカーがくっ…と破顔した。
「無免許じゃないから、心配しなくていい。せっかく君が誕生日を祝ってくれるっていうのに、おまわりさんに掴まったら大変だからな」
にやりと笑ったオスカーからぽんと手渡されたものは免許証だった。よく見れば交付年月日は今日の日付だった。
「せ、先輩、今日免許を取ってらしたんです…か???」
免許って申請してその日のうちに取れるもの?…の筈がない。だったら何故自動車教習所なんてものがあるのか。ただ、腕に自信のある人は試験場で直接受験もできるということは聞いたことがあるが、まだお昼過ぎのこんな早い時間に全ての試験を終えて、免許の交付を受けることなんてできるのだろうか?というアンジェリークの頭の中一杯のクェスチョンマークに、オスカーが先回りしたように答えてくれた。
「正確には書き換えだ。免許は留学先で取得済みだったんだが、この国では満18才になるまで正式な免許は交付してもらえないので国際免許を書き換えできなかったんだ。君が午前中時間をくれたんで、役所に書き換えに行ってきた。だから、こうして迎えにこれたんだ」
「は、はぁ…」
「じゃ、行くか…」
オスカーは流れるように車を発進させた。その瞬間、くん…と身体がシートに沈む反動もあるかないかわからないくらい微かなもので、アンジェリークは車自体の性能もさることながら、オスカーの運転の技量がかなり熟練したレベルなのではないかと思った。帰国前に留学先で余程運転していたのだろうか。
『本当に、まだまだ知らないことだらけだわ、私…』
オスカーが自分からは言わないこと、私も思いつかないから尋ねないことで(車の免許など、その最たるものだ)自分が知らないオスカーの1面というのはきっと、これからも一杯でてくるのだろうな、とアンジェリークは思った。
自分がオスカーと知りあってからそれほど長い月日は経っていないし、オスカーには自分に出会う以前に積み上げたたくさんの年月と、それに付随した様様な経験があるはずなのだから。だから、自分がオスカーのことで知っていることと、知らないことなら、知らないことの方が多いのはあたりまえなのだから。
でも…とアンジェリークはオスカーの横顔をちらりと盗み見て、思った。
私が好きになったのは今のオスカー先輩。いろいろ辛い思いも経験なさって、それでもご自分でその辛さにどう向き合っていくか自分で決めた今のこの人が私は好き。そして、今のこの人を形作っているのは、私が知らない一杯の経験なんだもの…それが全部今の先輩を作ってるんだから…その強さも優しさも少しの不器用さも…だから、オスカー先輩の思いがけない面を見たり、昔の事とか聞いても、何も知らなかったからって、落ちこんだりへこんだりしないよう、心に留めておこう。
オスカー先輩がお家に呼んでくださった。これだけでも、オスカー先輩は今までよりもっと私が近しくなってもいい、って思ってくださったことの現われだと思うから。だってお誕生日は2人きりで静かに過ごしたいって思ってくださったんだし…それに好きじゃなかったら…友達同士だってよっぽど仲が良くなくちゃ、遊びに行ってそのままお泊まりなんてしないもの…例えそれ以上の意味がなかったとしても、それだけでも十分だわ…
と考えた時、アンジェリークの脳裏にある記憶が蘇った。
『あ、あれ?そういえば、先輩のお家にお呼ばれしたことは、前にもなかったっけ………そうだ、後夜祭の後、お互いに告白したすぐ後だったわ…』
あの時オスカーは、もう遅いから自分の家にくるか?と尋ねた。
私は、夜分遅くに初めてのお宅にお邪魔するなんて失礼だと思って断った…あの時は、オスカー先輩が一人暮しだって知らなかったから…
でも、ご家族とご一緒じゃないオスカー先輩、そのお部屋に「来るか?」って言われたことの意味は何だったんだろう?
単に…夜遅くにそのまま外にいたら身体が冷えちゃうと思ったから?…だから、暖かい所に行こうってことだったの?……きっと、そうよね…お昼間にデートしたときは、一度もそんなことおっしゃらなかったもの…今日のお招きもお誕生日だからこその特別なものなのだし…
そんなことを考えながら、どこまでも端正なオスカーの横顔を見ていたら、何故か少しだけ寂しさが込み上げてきた。なので、視線を窓の外にやった。
すると、車は見覚えのある建物のすぐ側に来ていた。以前オスカーに連れていってもらったスポーツクラブの入っているマンションだ。
『ああ、そういえば、お家はここの近くだっておっしゃっていたけど、あとどれくらいなんだろう…」
と、思う間もなくオスカーは車をその建物の地下駐車場に滑りこませ、他にも空きスペースがたくさんあったのに、迷うことなくある1ヶ所に車を止めた。
「さ、ついだぜ、お嬢ちゃん。」
「あの、あの、ここ、スポーツクラブのある建物ですよね?この前連れてきていただいた…先輩のお家に行く前にここに寄っていくんですか?」
アンジェリークは、訳がわからない。今日はスポーツクラブに寄るとは聞いていないから水着も何も持ってないし、第一、ケーキが後部座席に置いたままだから、時間がかかるようなら冷蔵庫に仕舞わないとムースが溶けて型崩れしてしまうかもしれない…とアンジェリークは懸念した。
オスカーが少しだけばつの悪そうな顔をした。
「…ああ、この建物はあのスポーツクラブであると同時に、実はその…上層階には俺の部屋がある…つまり、俺の家でもある建物なんだ」
「は?ここが…先輩のお家なんです…か?」
「ああ、住居区画にいくエレベーターはスポーツクラブとは入り口が別なんだが、駐車場からは直接いける。さ、降りよう」
「は、はぁ…」
オスカーが荷物を持ってくれた。促されて車を降りたものの、アンジェリークは、この後、今日1日だけでも、一体どれくらいオスカーのことで新たにわかったことに驚かされるんだろう、私の頭はそれについていけるかしら?と思った。今も、立て続けに知らなかった事実を呈されて、はっきりいってそれが整理しきれてない。
『でも、先輩の今まで知らなかったことを知って驚きはしても、怯んだり不安になったり落ちこんだりはしないって、決めたから…』
そう考えて、オスカーの生活の一端を垣間見られるんだ、それをオスカーは自分に許してくれたんだ、と思いなおして自分をはげますアンジェリークだった。
エレベーターに乗った途端にきゅっと固く肩を抱かれた。キスをされるのかと思わず瞳を閉じたが、暖かな唇は降りてこない。替りに大きな胸に思いきりかき抱かれた。まるで自分を縛めるかのような抱擁で、アンジェリークは顔がオスカーの厚い胸板に押しつけられて苦しいほどだった。
嫌ではないのだが、息苦しさにもがきそうになった時、運良くピン…と高い電子音が短く鳴り、エレベーターのドアが開いた。オスカーが腕の力を緩めてくれ、アンジェリークはほっとした。オスカーはアンジェリークの肩を抱きなおし、さっとエレベーターから降りた。アンジェリークは到着階が何階だったのか表示を見る暇もなかった。
エレベーターホールを挟んで、ドアは二つしかない。片方のドアノブには暗証番号式のキーが設置されており、オスカーはそのドアの前に立つと素早く数桁の数字をキーインした。かちゃりと音がして、ロックが外れたことがわかった。
「さ、入ってくれ」
「はい、お邪魔します…」
オスカーに招き入れられ恐る恐る…子猫が未知なる場所を探索するような気分でアンジェリークはオスカーの部屋に足を踏み入れた。
玄関ホールからすぐ広いリビングが続いていた。優雅な曲線を描くソファとテーブル、そしていかにも高性能そうなオーディオセットがある。部屋のリージェンシーは落ちついたダークブラウンでシックにまとめてある。窓の開口部は大きくとられ、冬の陽光がリビングの奥までさしこんでいて、部屋はとても明るい。リビングの先は短い廊下になっており二つドアが並んでいた。どうみても100u、いや、奥の部屋の広さ次第では150uくらいの占有面積がありそうだ。左手奥はカウンターつきのキッチンのようで、その前にキッチンに比較すると小ぶりのダイニングセットが置かれ、テーブルの上には保温トレーに載せられた各種の料理が既に並んでいた。
「すごい…広いですね…それにインテリアが素敵…」
アンジェリークは溜息をついて、玄関先で棒立ちになってしまった。
「いや、内装はコーディネイターに任せちまってあるから俺のセンスがいいって買被らないでくれよ?」
冗談めかした口調で話しながら、オスカーはアンジェリークを室内に入るよう促し、さりげなくコートを脱がせてハンガーにかけた。一方アンジェリークは、オスカーの居室に圧倒されてしまって、オスカーのエスコートに流されているまま言葉が出ない。
1人暮しにしては広すぎるほどの居室に、さりげなく贅を凝らした風情の家具類。やはりオスカーは世界に冠たる企業の御曹司なのだと感じずにはいられない。
「とりあえず食事にしよう。掛けてくれ」
「は、はい…」
オスカーにダイニングの椅子をすっと引かれ、誘われるままにアンジェリークはテーブルについた。
テーブルセッティングもきちんとされており、暖かい物は暖かく、冷たいものは冷たいままキープされていた。銀色のワインクーラーには濃い色のワインボトルが露の玉のつくほどに冷やされている。
オスカーは自分も椅子にかけるとクーラーからボトルを抜き、周囲の水滴を拭ってから、金具で留められていた栓を音をたてずにぬいた。重厚なクリスタルのゴブレットに淡い桃色の液体がしゅわしゅわと小さな気泡をあげながら注がれた。
「自分の祝いだと思うと面映かったが…一応シャンパンを用意した。無理に飲なまくていいが、形だから…グラスだけ合わせてくれるか?」
「はい…」
オスカーが自分のグラスにシャンパンを注ぐのを待ってから、アンジェリークは杯を掲げた。
「お誕生日おめでとうございます」
「ありがとう、アンジェリーク」
かちりと軽くグラスを合わせてから、恐る恐る一口だけそのシャンパンを口に含んでみた。ココナツかバニラに似た甘い香りの中に爽やかな柑橘系を思わせる酸味が舌に広がり、飲み干すと花の香りのような馥郁とした後口が残った。酒を飲みつけてない自分にもするりと入っていき、後口の引きが印象的でつい杯を重ねたくなるようなシャンパンだった。
「おいしい…こんな美味しいシャンパン、飲んだことがありません。あ、私、お酒自体、そんなにいただいたことはないんですけど…」
子供だから…という言葉を言おうとして止めた。今は自分から、己の幼さを言いたくはなかった。
「気にいってくれたのか?」
オスカーが嬉しそうに笑んだ。
「これはシャンパンでも俺が好きな銘柄なんだ」
「先輩、お酒にもお詳しいんですね…」
アンジェリークは皮肉でもなんでもなく、心底感心して言った。すると
「俺が不良だから…じゃないぜ?」
にやりと笑ってからオスカーが説明してくれた。
「高校に入ってから親の名代でいろいろなパーティーやらレセプションやらに出席させられることが多くなってな。顔つなぎの義理のパーティーでの楽しみなんて飲み食いくらいしかないから、美味いと思ったものはなんとなく覚えちまった。そうすればバーで飲み物くらいは好みのものを注文できるし、自分が美味いと思ったものなら、もてなす立場に立った時、自信を持って人に勧められるだろう?だから、まあ、そう思えば義理の付合いも無駄ばかりじゃないな」
「はぁ…」
オスカーの華やかな社交歴が自ずと察せられ、アンジェリークは溜息しかでない。
「留学中はそういった義理の付合いがなかったから気が楽だったのも事実だが…」
「もっと留学していたかったですか?」
「いや、今となっては帰ってきてよかったと、俺は心から思ってる」
「?」
「お嬢ちゃんに会えたからな…」
オスカーに真っ直ぐに鋭く強い瞳で見つめられ、アンジェリークは身体中がかーっと火照ったような気がして、それは今嚥下したシャンパンのせいだと思おうとした。オスカーは一転柔らかく笑んで言った。
「口当たりはいいがあくまでワインだからな、強いと思ったら無理しないで水に替えてくれていいからな」
「はい」
それからアンジェリークは、オスカーと供に趣向を凝らした各種の料理を楽しんだ。色とりどりのオードブルや、キャビアの載った濃い琥珀色のジェリーコンソメの美しさに心を奪われ、口に運んだ瞬間、口中でさっと溶けてふわんと広がる魔法のような芳醇な味を堪能した。メインディッシュはホタテとえびをメインにした穏やかな味の魚料理と、濃厚なソースのかかった野性的な食味の肉料理と二種類あって、それぞれオスカーが取り分けてくれた。
「す、すごく美味しいです。どのお料理も…」
「そうか、よかったな」
こういう料理の選定眼を持ち、気に入ったシャンパンの銘柄を持つオスカーの背後に華やかな社交生活が透けて見える。手馴れたエスコートぶりも、自然にそれが身につくほど場数をこなしているからだということがよくわかる。
オスカーの側にいるには自分はまだまだ勉強不足だ、いろいろな意味での教養や経験を身につけて、オスカーの隣にいるに相応しい人間になりたい、と、アンジェリークは切実に感じた。
「はぁ…とっても美味しかったです。ご馳走さまでした」
「満足してくれたかな?お嬢ちゃん」
「はい、先輩のお誕生日なのに、私の方がこんなにもてなされてしまって恐縮です…せめてお片付けしますね」
「ケータリングのデリバリーが後で回収にくるから、気にしなくていい。どうしてもというなら、そこにディッシュウォッシャーがあるから、その中にいれておいてくれればいい」
「わかりました。あ、それに、私ったらまだプレゼントもお渡ししてなかった…ごめんなさい、気がつかなくて…」
「バースディケーキだろう?今からデザートに戴くんだから丁度いいじゃないか。俺がコーヒーを抽れるから、お嬢ちゃんはケーキを用意してくれるか?」
「はい」
二人は居をリビングに移した。
オスカーがコーヒーメーカーをセットしている間に、アンジェリークはケーキを取り出した。切り分ける前にもちろん蝋燭を18本立てる。
「先輩、マッチかライターありますか?蝋燭に火を点けたいんですけど…」
「ちょっと待っててくれ…」
オスカーがキッチンを探してマッチの箱を持ってきた。オスカーは、この時初めてまじまじとアンジェリークの持ってきてくれたケーキを見た。形のいい眉が感心したように僅かに上がった。
「これは…とても綺麗だが何のケーキを作ってくれたんだ?お嬢ちゃんは」
「あ、あの、シャンパンのムースです。お祝いの意味と、それから、先輩があんまり甘くないケーキなら食べられるっておっしゃっていたので、お酒をメインにした軽い食感のものなら召しあがっていただけるかしら…って思って…」
「ほぅ…シャンパンのムースっていうのは初めてだな。珍しいし、俺の好みを考えてくれたんだな、ありがとう、お嬢ちゃん」
バースディケーキというと一般的なショートケーキを想像していたオスカーの予想はいい意味で裏切られた。
アンジェリークがこの上なく嬉しそうににっこり笑った。
「早速いただこうか」
「待って、お願い事をして、蝋燭の火を吹き消してからですよ、先輩」
「ふっ…お嬢ちゃんはかわいいことをするな」
そういいつつも、オスカーはアンジェリークが蝋燭に火を灯すのを待った。自分がやろうとしたら『先輩が主役なんですから座っててくださいと』とアンジェリークが主張したのでおとなしく引き下がった。
「はい、先輩、お願い事をして火を吹き消してくださいね」
「ああ」
オスカーは他愛無いことだ思いながらも、アンジェリークの言葉に誘われたように、願い事がふと心の中に兆した。結果、気恥ずかしいほど真剣に火を吹き消してしまった。アンジェリークが蝋燭を密集して立ててくれたので上手い具合に一息で吹き消すことができた。火を吹き消したと同時にアンジェリークがぱむぱむとかわいく手を打ち鳴らし、改めて「先輩、18才のお誕生日おめでとうございます」と言ってくれた。
オスカーはどうにも照れくさくて仕方ない。嬉しいのだが、それ以上にこそばゆい思いがして、なんとも落ちつかない。もっとも落ちつかないのはそれだけが理由ではなかったが。
アンジェリークはいつも通りに明るく朗らかで花のように愛らしい。だが、そのいつもと変わらぬ様子を見ているとアンジェリークはやはり、女の子同士が友達の家に泊まりに来たという感覚で俺の部屋に遊びに来たのだろうな、と思われてしまう。
『君を帰さないでいいのは、嬉しいが…俺はやはり書斎で一人寝かな…』
と思うと、なんともやるせない思いがして胸が苦しくなり、アンジェリークをつい切なげに見つめたくなってしまう。
アンジェリークはオスカーの切ない視線には気づかないまま、蝋燭を取り去ってケーキを切り分けながらオスカーにこう尋ねてきた。
「先輩、何をお願いなさったんですか?」
「…その…内緒だ…いや、そのうち、言えたら言う…」
『君と、いつもいつまでも仲良く幸せにすごせたら…』と願ったことは、どうにも自分にそぐわない気がして照れくさくて言出せなかった。
「?…蝋燭を一度に吹き消せましたから、きっと先輩のお願は叶いますよ」
歯切れの悪いオスカーの弁にアンジェリークは特に拘泥する様子もなくケーキを切り分けた。
「お口に合うといいんですけど…あ!」
アンジェリークが突然何か思い出したように声をあげた。
「私、もうひとつプレゼントがあるんです」
アンジェリークが自分のかばんから小さな包みを取り出してきて、オスカーに両手で差し出した。
「先輩、これ、誕生日のプレゼントです。ケーキはこの場でなくなっちゃうから…あの、よかったら開けてみてください」
「ケーキだけでも十分だったのに…気を使わせて済まないな、お嬢ちゃん」
オスカーは一度ケーキの皿をテーブルに戻してその包みを開け始めた。見かけの割にずっしりと重い。箱を開けてみると多機能な万能ナイフが入っていた。赤い柄のこのナイフは刃物では定評のあるメーカーのもので、もちろんオスカーもよくその名前は知っていた。
「これは…良い物だな、ありがとう、お嬢ちゃん」
「…よかった…受けとっていただけて…あ、でも、刃物なので少しでいいですから、私から買い取った形にしてくださいますか?純粋なプレゼントにしちゃうと仲を断ち切るって意味になってしまうらしいので…」
「それは大変だ。でも、それならどうしてわざわざ刃物をプレゼントにしようと思ったんだ?お嬢ちゃん」
「それは、その…先輩が野外騎乗とかされる時に何かと便利かなって思ったことと…」
「ことと?」
「あの、このナイフも、役にたつ道具ですけど危ないものでもありますよね…でも、それは使う人の心構え次第だから…一見危ないものでも、ないと困るものだし、道具は使う人の気持ち次第だから良い道具とか悪い道具なんてものはない…良い使い方、悪い使い方はあるかもしれないけど…だから、あの、上手く言えないんですけど、先輩がこれから社会に出てお仕事で辛い思いをなさる時があっても、それは先輩のお仕事のせいじゃなくて…それはこのナイフと同じことで…あん、ごめんなさい、何言ってるかわかりませんよね…」
「………いや、わかる…君の気持ちは…伝わってくる…ありがとう、アンジェリーク…」
オスカーは深深と息をついた。
これは俺の生き方に対する君なりのエールなんだな…君の肯定と励ましの気持ちの現われなんだ…俺が迷った時、自分の選択に疑問を抱いた時、俺が自分の選択の意味を思い出せるように、現実の辛さに負けてしまわないようにという…
アンジェリークが、俺を、静かに、だか確固と支えようとしてくれている気持ちが伝わってくる。自らの理想を掲げそれを追おうとする俺を肯定し、俺の選択は間違っていないと自信を与えようとしてくれている。君はただ優しくたおやかなだけの少女じゃない。君の容貌はその名の通り天使のように愛らしいが、その精神は優しくも力強い女神のようだ。それは純粋さゆえの力強さとでもいうのか…
オスカーは改めてアンジェリークの得がたさをしみじみ感じいる。崇拝にも似た想いと、更に痛烈に彼女を求める熱望とが同時に爆発するように湧きあがり、せめぎあって、胸がしめつけられるように苦しくなる。
思いきり抱きしめたい、いや、軽はずみな真似はできない。彼女を欲しいと思う気持ちと、絶対失いたくないと思う気持ち、この2つの気持ちの根幹は同じ物であるはずなのに、この2つ心の挟間でオスカーはどうにも動けなくなってしまう。
しかし、その当のアンジェリークは、オスカーの内心の葛藤など思いもよらず、自分の意図がオスカーに幾らかでも通じた嬉しさに無邪気に微笑んでいる。
「…あの、よかったらケーキも召しあがってみてください」
「あ、ああ、戴こう…」
無理矢理意識を眼前の菓子に移し、オスカーは半ば義務のようにその一片を口にいれた。
途端に口腔内に微かなアルコールと紛れもないシャンパン独自の芳香が満ち、すぐ次の瞬間、冷いやりふるりとした食感がとろりと溶け崩れるように失せた。ほのかに甘く香り高い後口が残像のように朧に残った。
「美味い…お嬢ちゃん、これは…シャンパンと同じほどに香り高いのに、柔らかで甘くて優しい…こんな菓子もあるんだな…目から鱗が落ちた気分だ」
「よかった…お世辞でも嬉しいです。これに使ったシャンパンは、先輩が用意してくださったような高級なものじゃないんです。だから、さっき先輩がシャンパンでお好きな銘柄があるっておっしゃっていたから、お口に合わなかったらどうしようって…少し…ううん、ほんとは今、とってもどきどきしてました…あのシャンパン、すっごく美味しかったから…見劣り…じゃない食べ劣り?しちゃうなって…だから、少しでもお気に召してくださってよかった…」
「アンジェリーク、俺は君の気持ちが嬉しいし、この菓子は実際に美味い。俺は嘘は言わないぜ?」
「あ、はい、ごめんなさい、そうですよね、先輩は私に心にもないことはおっしゃいませんのにね」
アンジェリークは少し申し訳なさそうな顔で笑んだ後、一息ついてから、しみじみとした口調でこう言った。
「今日、先輩にお招きいただけてよかった…お招きいただけて本当に嬉しい。そのおかげで、私、今日、この何時間かだけで、いっぱい先輩のこと…今まで知らなかった先輩のことをいっぱい教えていただけましたもの」
オスカーは少しだけ眉を曇らせた。アンジェリークは皮肉をいうような子ではないとわかっているが、あまりに舌足らずな自分が言外に責められているような気がしてしまう。でも、それは多分、自分自身がやましいだけなのだ、とわかってもいた。
「お嬢ちゃん、その…気を悪くしたか?俺がいろいろと言葉が足りないから…家のこととか、免許のこととか…言っていなかったことばかりで…」
アンジェリークはびっくりしたような顔をした。
「どうして?だって、今、先輩は私にいろいろ教えてくださってるじゃないですか…それに…」
「それに…?」
「私が先輩ともっと近しくなってもいいと思ったから…お家にもお招きくださったんじゃないんですか?私、だから、とっても嬉しかった…一日中一緒にいられることも純粋に嬉しいですし、きっと先輩の知らなかった面や、初めて知る面とか一杯あるんだろうなって思えて、それが嬉しいです。今だけでも、もうはじめてわかったことが一杯あったんですもの。明日まで一緒にいられたら、もっともっと先輩のこと、知ることができるかしら?もっともっと先輩と近しくなれるかしら…って、そう思うととても嬉しいし、先輩がその機会を与えてくださったことが…嬉しいです」
「俺の知らなかった面を?わかると…嬉しい?」
「はい、私は先輩のことでは知らないことだらけです。でも、今の先輩が好き。大好きです。だから、先輩の昔の話しとか知らなかった面とか新しく知ることができると、とっても嬉しいんです…私の知らなかった面も含めて、全部今の先輩なんだし…そういうことを教えてくださるのって…私が先輩にもっと近づいてもいいって、許してくださったことのようで嬉しいんです…」
「……俺にそんなことを言っちゃいけない…」
「先輩?」
「俺のどんな面を見ても?俺が今考えていることを知っても?君はそれを嬉しいと思うか?いや、そんなことはない…ありえない…」
「先輩…それ…どういう…」
「いや、なんでもないんだ…すまない、つまらないことを言った…」
俺がどれほど、君ともっと近しくなりたいと思っているか…君を欲しいと思っているか……だけど、それを知ったら君はどう思うか…それにこれは俺の勝手な思いだから…俺は君に手前勝手な気持ちを押し付けることはできないから…
「今、言ったことは忘れてくれ…ああ、コーヒーがまだだったな。取ってくる…」
逃げるようにソファから立ち上がりキッチンに向おうとしたオスカーの足は、その場に縫いつけられたように動かなくなった。アンジェリークが背中からオスカーの腰に腕を回してきゅっと抱きとめていた。
「先輩…どうして?どうして決めつけておしまいになるの?」
「アンジェリーク…な…」
細い腕だ。か弱いほどの力だ。なのにオスカーは自分を抱きしめるその腕を振り解かない。振り解けない。
「先輩の考えてらっしゃることを知ったら、先輩のどんな面を知ったら、私がどう思うってお考えなんですか?どうしてもっと知りたいって言ったらだめなんですか?」
オスカーは瞳を閉じて搾り出すように答える。
「俺の…俺の気持ちを知ったら、君は怯えるかもしれない…怖がって君は俺から離れていってしまうかもしれない…君を1度泣かせている。もう2度と泣かせたくないし、再び怯えさせたら本当に君を失ってしまうかもしれない…それが怖い、君を失いたくない…だから、知らせたくない…」
気のせいか、腰に巻いついた細い腕の力が強まった。
「…それは…失いたくないって気持ちは、側にいたいって気持ちと…同じじゃないんですか?それなら、私も同じです。私は先輩のおそばにいたい、だから、先輩のことを知りたいんです。好きだから、そばにいたいから、知りたい…知ることができたら嬉しいんです。私が先輩のことをわかると嬉しいのも、側にいたいのも、もっと近づきたいのも…それは全部好きって気持ちから産まれたものです…形が変わっただけです…」
オスカーは、己の腰にまきつけられたアンジェリークの手に自分の手を重ねた。その小さな手をきつく握り締める。
「!俺は…俺だって、そうだ。君が好きだ。好きで、愛しくてたまらない。君ともっと近くなりたい、別れ難い気持ちは嘘じゃない、君を放したくなくて、君ともっと近づきたくて…だから…だからこそ!」
だから、躊躇っていた。踏み出せなかった。己の率直な希を口にすることが。
「…よかった…」
「え?」
「先輩も私と同じ気持ち?もっと近づきたい、もっと側にいたい、もっと触れたい…そう思ってくださってるんですよね?そうですよ…ね?」
「…君と同じ?君も…同じ…?俺と…」
自分を背後から抱く手に一層の力が込められる。アンジェリークの温みが背中からじわじわと伝わってくる。
「君は…君も求めてくれているの…か…?それなら…俺は言ってもいいの…か?君が欲しい…と…」
「先輩…」
「…俺は君が欲しい。でも、単に身体をつなげればいいんじゃない、それだけじゃないんだ…上手く言えないんだが………君ともっと近づきたい、分かち難く結ばれたい、だから君の心も身体も両方欲しい…どちらか片方だけじゃ嫌なんだ。君を抱ければいいんじゃない、でも、好きという気持ちだけでは…君が俺を好いてくれているのはわかっているんだが、これだけでは渇き死にしそうなんだ…でも、これは俺のわがままだから…俺だけが欲しているのなら、無理強いするつもりはないから…それは本当なんだ…だから…俺の…こんな気持ちを知ったら…ここにはいられないと思ったら…今から帰ってくれても…構わ…ない…」
「先輩、今、先輩を抱きしめているのは、私です。私の方です…私も同じです…私が先輩を抱きしめたいんです。先輩ともっと近しくなりたいと思ってるんです…」
「アンジェリーク…」
「私、私だけなのかと思ってました。先輩ともっと近くなりたい、もっと触れたいと思っているのは…私は子供だから…きっと、先輩が今まで付合ってらした女性に比べたら全然子供だろうから…」
「な…!君は子供なんかじゃない!君みたいな女性は2人といやしない!君は、知らないんだ…俺がどんなに君に飢えていたか…こんなに欲しいと思ったのは、失うのが怖かったのは君だけだ!俺のことを知ってもらいたいと思ったのも…この部屋に招いたのも…君だけだ、君1人だけだ…」
「先輩…」
「だが、君を怯えさせてはけないと…君をもう一度傷つけでもしたら永遠に失ってしまうかもしれないと思って…俺は紳士のふりを、大人のふりをしていたんだ…」
「……それは私を失いたくないと思ってのこと?私を傷つけまいと思って?……嬉しい…先輩はやっぱり優しい方…それにこんなことをおっしゃってくださったら、私はもっと嬉しい…私を失いたくないとそんなに強く思っててくださったなんて…どうしよう、嬉しくて泣いちゃいそうです…」
この一言で呪縛が解けたようにオスカーはアンジェリークの細い手首を掴んで腕を振り解き、振り向き様にその華奢な身体を思いきり抱きしめた。
「だめだ!泣くな!君を二度と泣かせない、この胸に俺は誓った!」
「嬉しい涙だから…嬉しい涙はいいの…」
少しだけ涙声で、それでもアンジェリークは満面の笑顔でオスカーを見上げた。
「アンジェリーク……」
唇で撫でるように眦に浮かぶ涙をかすめとり、そのまま、オスカーは唇を滑らせて口付けた。が、その口付けを深める前に一度唇を離した。
「それなら、俺は命を掛けて誓う。俺は君に喜びの涙しか流させないと…」
オスカーはもう一度口付けてから、擦れた声で言った。
「…俺はもう止まれない…遠慮も…しない。…だから、今から君を泣かせちまうかもしれないが…許してくれ…」
「はい、先輩…」
「オスカーだ…」
「オスカー…」
間髪をいれず再び口付けた。頭を抱え込むように押えこみ、深深と舌を差し入れたがアンジェリークは怯まない。オスカーを抱く腕に一層の力が込められた。だが、口付ける間ももどかしく、オスカーはアンジェリークの膝の下に腕を回し身体を掬い上げるように軽々と抱き上げた。そして居間の奥にある寝室のドアを勢い良く蹴り開けた。