百神の王 10

馬を人間に馴れさせることを「馴致」といい、家畜としての訓練を施すことを「調教」という。

馬を人間にとって有益な動物にしたてあげるためには、この馴致と調教を同時にバランスよく行わねばならないことを、オスカーは学んでいった。

そして、火の馬を自在に扱うためには、この馴致・調教の双方で、火の力を緻密に制御しながら絶え間なく放出する必要があった。僅かでも集中を欠いて火の気が散じると、馬は思う通りに動いてくれなくなった。

オスカーは、いまや、確信していた。

この馬を訓練すること、この行為自体が、己の火の力を鍛えあげ、研鑽する訓練なのだと。この馬を自在に操ることは、すなわち、火の力を自在に操ることに通ずるのだと。

というのも、馬の扱いになれてくるに従い、オスカーが馬に為すべき調教も、また少しづつ増やされていったからだ。引き綱に慣れたら、はみをつけ、はみに慣れたら、手綱を通して指示を与える訓練が増やされ…といった具合で、1つの課題をクリアすれば、すぐさま次の課題が与えられるので、馬の扱い自体には手馴れていっても、いつまでも時間の余裕ができるということがなかった。

だが、オスカーは馬の世話に不満不平を表することは決してしなかった。馬の世話をすることで、自分の能力をより研ぎ澄ますことができるのだときちんと理解していたからだ。そして、馬が自分の放つ火の力で思う通りに動くようになっていくことで、オスカーは自分の火の力が絶対量でも精密さにおいても成長しているらしいことを実感できたし、僅かな手綱さばきから、自分の意図を汲み取って動こうとする馬に対しての愛着も日に日に強まっていった。

そして、今、オスカーは馬を長手綱に馴れさせる訓練を施していた。

最近では腹帯もおとなしく締めさせるようになった馬を、オスカーは、自身は馬に乗ることなく、かなり長めの手綱を両手で操作しては馬を意のままに走らせる練習を続けている。午前は運動場で馬を火の力を送り込んだ手綱で制御しつつ、自分の意図どおりに走らせる練習をする。手綱の動きを通して左右への屈曲を指示したり、真っ直ぐ走らせたり、止らせたりする。馬が上手く指示通りに従えば、馬を褒めてやり、労いの言葉をかけて首筋をなでたり、褒美のエサを与え…果実のことが多かった…馬具も外して、夕刻馬房に入るまで自由に遊ばせてやる。しかし、オスカーの指示に不従順だったり、馬が反抗した時は、ただ、オスカーは断固と、辛抱強く同じ訓練を繰り返した。そして馬が指示に従うまでは飼葉のみで美味な間食はなし、褒め言葉も自由時間もなし、ということを徹底した。惨い懲罰を与えたり、酷くムチで打ったりすることはしなかった。オスカーはこの馬の賢さと優美さを認めていたから、甘やかしではない優しい扱いと正当な評価、そして残酷さとは異なる厳格さと毅然とした態度で接することで、馬に自分の意図を伝え、指示に従わせることができるはずだと考えていた。事実、オスカーのやり方は、馬の性質を損なうことなくきちんとした成果を、徐々にではあったが、あげているようだった。

また、オスカーは、この鍛錬により、自分では気づかぬうちに、火の力だけでなく自身の基礎体力と持久力も、じわじわと、だが、確実に鍛え上げられていた。馬を長手綱で運動させる時は、自らも放牧場の中でかなりの距離を歩いたり走ったりせねばならず、知らず知らずのうちにオスカーの足腰には火の地にいた時よりもさらにしっかりとして締まった頑強な筋肉がついていた。見た目は痩身なくらいのオスカーだったが、それは体躯が一分の隙なく頑丈に引き締まっていたからだった。よく走りこんでいるので、足腰は特に強くしなやかに鍛えられ、粘り強い体力が蓄えられていった。

このように、はみと手綱での馬の制御が徐々に可能になってきたので、オスカーは、次の調教は、人を乗せる訓練だろう思っていた。

しかし、馬を乗馬に用いるなら、鞍にも慣れさせねばならないはずだが、いつまでたっても鞍が用意されてこない。

オスカーがそれをいぶかしんでいたある日のこと、厩務員から『この馬もはみと手綱には馴れたようだから、明日からはこの馬具を馬につけていく調教をはじめたいので手引書を見ておくように』といわれ、かなりがっしりとした首輪様のものと、革を主体とした複雑な紐様の留め具を見せられた。

自室に戻り、手引書を見たオスカーは、先刻見せられた馬具が、馬を馬車に繋げるためのもの…首輪様のものは恐らくハモ、留め具をハーネスというのだと知った。同時に、オスカーは、以前、あの馬は乗馬用ではないと言われたことを思い出し、あの馬を鞍に馴らす必要がなかったわけも、殊更に長い手綱での操馬訓練をさせられていた訳も同じように悟った。つまり、あの馬は、馬車馬に仕立て上げることが目的だったからだと。

馬車馬には人は直接乗らない、つまり、拍車を通して発進・停止などの合図が行えないから、手綱での緻密な指示が必要かつ重要となる。手綱さばきと、場合によってはムチという間接的な手段で、人の意志を馬に伝えねばならないから、手綱での制御訓練にかなりの時間を割くことが必要だったのだろうと、ここでオスカーは漸く得心した。

納得すると同時に、オスカーはあることに思い当たり、急ぎ資料棟に走った。

太陽神に関する資料を…分けても、彼が操る馬車についての資料を徹底的に探る気だった。今までも、太陽神に関する色々な文献や資料にあたってきていたつもりだったが、今までは、太陽神その人に関するものしか検索してこなかった。そして、今までのところオスカーが目にできたのは、太陽神の為すべき役割や司る力を説明したような一般的な解説書か、太陽神の威容を讃える讃歌くらいしかなかったのだが…。

しかし…考えてもみろ…火の眷属なら壁画で幼い頃から当然のように目にしているので取り立てて意識したことがなかったが…太陽神は、常に馬車を操る神として現されていたではないか。

そして太陽神が操る馬車を引いているあの馬たちが、普通の馬であるはずがないと何故思い当たらなかったのか。ならば、あの馬たちはどういう馬なんだ。どこで生まれ、どうやって訓練されたのか、俺は今まで考えたこともなかった。そして太陽神もまた…火の眷属である以上、馬になど触れたこともなかったはずの太陽神は、何故、自在に馬車を駆ることができるのだ?太陽神の名を拝領すれば、その瞬間から自然と馬車を操る能力も身につくとでもいうのか?

それとも…長い時間をかけて、訓練されて身につくものなのか…もしや、今の俺のように…。

そうだ…あの馬に火の属性を感じた時に気づいてしかるべきだったんだ…。

俺が何のために、馬の世話をやらされ、馬の調教を任されているのか…

オスカーは、今、自分の課せられている課業の真の意味合いを漸くつかんだ、そんな気がした。

天界に召し上げられてから数カ月が経っていた。

しかし、理解することと、それを実践し成し遂げるのは、また別物であるということを、オスカーは、この時、しっかり認識していた…とは言いがたかった。

 

オスカーは、己に課せられた訓練の意味も意義も、漸く理解した…自分では、そう思った。

が、それは推測の域をでていないこともわかっていた。そこで、オスカーは自分の立てた仮説を証明すべく、馬の世話を終えた後、書庫に直行し、そのまま引きこもりきりで、太陽神に関する資料…分けても彼が操る馬車に関する文献を片っ端から探した。

自分が訓練している馬は、火の眷属のみが扱える火の馬だ。そして、あの馬は乗馬用ではなく、馬車用の馬として訓練されねばならないらしい。となれば、あの馬が何のために飼育され、訓練されているかの目的は明白に思える…恐らく太陽神の馬車を引くためだ。

ならば、この火の馬を自在に御すること自体が、太陽神になるための訓練であり、試金石であるのか。その可能性は高いとオスカーは考えた。

太陽神に叙せられたら、その瞬間から、乗ったこともない馬車をいきなり操れるものだろうかと思うからだ。火の力の多寡のみで馬を自在に御することができるのだろうかと思うからだ。

それなら…あの馬を馬車につなぎ、その馬車を自在に操れれば、太陽神の地位に大きく近づくのではないか…そんな期待をもち、自分の仮説が正しいかどうか確かめたくてオスカーは文献を探し続けた。

日が暮れ、それと同時に館内では工巧神が光の位相を玻璃玉に閉じ込めたという光球が灯り、柔らかな光を室内全体に投げかけていたが、オスカーは机上を照らす光源が変わったことにも気づかぬまま、夕食を取ることも忘れ、文献の海に埋もれ続けた。

真夜中近くになったところで、流石に目がかすんできて文献の文字を追えなくなり、頭もぼうっとしてきて、オスカーは資料探しを諦めざるをえなくなった。

しかし、これだけの時間を費やして判明したのは、太陽神の操る馬車は、馬車というより戦車といえるほどの大きさと威容をもち、7頭の神馬ーエータシャというらしいーがこの馬車を引いて、蒼穹の神ヴァルナ神が拓いたという天空の道を駆ける…ということだった。

馬の調教の成否やその成果が太陽神への任命に直接通じるのかどうかまでは、結局わからなかった。

火神に関するどの文献を探っても、太陽神の威光、その強大な能力、果たすべき義務や役割は記されているものの「どうすれば太陽神になれるのか」という、いわば太陽神への道筋を説いたものが一切見つからない。火の馬と太陽神の関係性をはっきり記述した文献もみつけることはできなかった。

自分の資料へのアプローチの仕方が上手くないのだろうか…と怪しみはしたものの、結局、馬の調教がイコール太陽神に続く道なのかどうか、関係はあるのか、ないのかさえ、オスカーには、わからなかった。

もちろん、火の性質を持ち、馬車用に調教されようとしている馬が太陽神に関係があることはほぼ間違いないと思う。そして、馬の調教を通して、自分の火の力が常により強く、より緻密にと鍛えあげられていることもオスカーはわかっているし、この馬を御せずして、馬が運ぶ日輪を御することができるわけがないとも思う。だから、この課業は強大な火神…恐らく、その最上位の到達点は太陽神で間違いない…になるためにとてつもなく有益な課業なのだ。ここまではほぼ間違いないと思う。

だが、馬そのものに目を転じてみた時…オスカーの心にある疑念と迷いが生じた。

そういえば…それなら今、太陽神が駆っている馬は、一体、誰が馬車馬として調教したのか?現・太陽神本人か?それとも違う誰かか?

となれば『今』『自分』が訓練しているこの馬は誰の馬になるのか?…自分が訓練しているこの馬を、自分が操るとは限らないではないか…そんな保証がどこにある?太陽神が操る馬は、馬車馬として調教済みということなら、その調教は、どこで誰が行ったのか、考えてみろ。もしや俺は現・太陽神の替え馬を…毎朝、アンジェリークをその腕に抱く神が御するための馬を訓練させられているだけではないのか…そして、俺の火の力が伸び悩めば、俺は結局、単なる火の馬の調教員で終わってしまうという…そんな可能性だって否定できないではないか…。

こんな疑念がオスカーの胸中に芽生えてしまった。そして、この、一度芽生えた疑念を上手く打ち払うことがオスカーにはできなかった。

馬の調教や操馬の成否が、太陽神への任命に直結すると確信できていれば、こんな疑念に取り付かれることはなかっただろうが、オスカーにはその確証が得られていなかった。

それなら、この馬が馬車用の馬具をすんなりつけるようになったら…この厩舎にそのままいるとは限らない。調教の終わった馬は順次東の果ての神殿に連れていかれ、現・太陽神の替え馬にならないと言い切れるか…?それなら、俺は…自分ではアンジェリークを追っているつもりで、もしや、他の男が、アンジェリークを追いかけて抱きしめるための手助けをしているだけではないのか…

もし、そうだとしたら…俺は…これから、平静な心で馬の調教を続けることができるだろうか…。

太陽神の腕に抱かれることは…アンジェリークにとっては定められた天則、義務でしかなくても…自ら望んだことではないと、彼女自身の口から聞いていても…当事者の意図はどうあれ、現実は消しようがない…

そう…ウシャスは…アンジェリークは、太陽神の妻なのだ。毎朝、紅の曙光は眩い太陽光に抱かれ、分かちがたい一つの光となって、この世界に降り注いでいるのだ…。

この思考を言葉にした途端、オスカーの胸は火を飲み込んだように苦しくなった。

…だが、だからこそ、俺にも、彼女をこの手に抱ける可能性があるんだ…この苦しさがあるからこそ、俺は彼女に再会するという希望を諦めずにいられる…ウシャスは太陽神のものであるという、この皮肉な天則があるからこそ…俺が…太陽神になれれば…なりさえすれば…

ああ、だが…

今、俺は、ただ、あなたに会いたい、ただ無性に…アンジェリーク、あなたに会いたい…あなたをウシャスと知らず、何も屈託なく笑みを交し合えていたあの頃のように、あなたに一目会えたら…と、そう願わずにはいられない…アンジェリーク…。

そう思った瞬間、今まで堪えに堪えてきた想いが胸から溢れて迸った。今まで…天界に来てから、無理矢理意識しないようにしていた分だけ、一度明確な形をとったアンジェリークへの思いをどうにも押さえられなくなってしまった。

彼女が太陽神の妻とわかった後も、今でも、彼女に焦がれ一目会いたいという思いは、どうやっても消えることなく、オスカーの胸の奥に静かな熾き火となってずっと燃え続けていた。それが、今、大きな焔となって一気に燃えあがり、オスカーの魂を炙り焦がした。

オスカーが頼みとするのは、アンジェリークが自分との再会の可能性を示唆してくれた言葉だけだ、愛の言葉もはっきりした約束もない、彼女が俺のことを今も覚えてくれているのかの保証も…ない。だが、オスカーはアンジェリークが示してくれた優しさ、アンジェリークが二人での逢瀬を大切にしてくれていた事実、そして未来での再会を示唆してくれた言葉を自分とアンジェリークを繋ぐ縁(よすが)と信じ、この天界でできる限りの努力をするしかないのだと、自分に言い聞かせてきた。

しかし…一方でオスカーは、アンジェリークが太陽神の妻であることが何を意味するのかも知っている。もう、アンジェリークと初めて出会った頃の子供ではないのだ。聖娼との粋を極めた遊びが友との話題に上るくらいだから…ただ、ままごとの様に夫の傍で微笑み、かたわらに佇むだけが妻の務めではないことなど、百も承知だった。

彼女は毎朝のように太陽神に抱かれている、それを思うと胸が焼け爛れるようだ、息もできないほどに…だが、だからこそ、太陽神になれさえすれば、俺は彼女に再び会える、彼女に触れることができる、その可能性を俺は追わずにはいられない。

そう、何もかも承知の上だ、この苦しさも、彼女に会えるなら何でもない。アンジェリークの柔らかな声音が聞きたくてたまらない、包み込むような笑顔を見たくてたまらない。あの…俺の掌に収まってしまいそうな小さな愛らしい顔を見つめ、鈴が鳴るよりも愛らしい声を聞き、笑みを交わしあい…そして…あのたおやかな身体をこの腕にかき抱くことができたら…何もいらない…そんな風にさえ、オスカーは思っていた。

オスカーは苦しかった。しかし、それは彼女への恋情がどうしても色あせないからこその苦しさであることも、敢えて自分の意志でこの道を選んだこともわかっているから、オスカーは自分を哀れむような気持ちは微塵も感じたことはなかった。彼女の背負っている義務や勤めの重大さを思えば…自己憐憫に浸るなどという恥知らずな真似はできようはずもなかったし、そんな感傷自体、意識にも上らなかった。

だから、泣くことなど思いもよらず…でも彼女への恋しさと、今は会える目処さえ立たぬ苦しさにオスカーの心はのたうち回り、やり場のない思いに咆哮するように、感情の塊を何かにぶつけるように、気がつけばオスカーは、しんと静まり返った深夜の資料棟で一人、自暴自棄のような自慰行為に耽っていた。オスカー自身の気持ちの上では…それは慰撫でも気晴らしでもなかったが。

そして、小さな小さな火が一瞬、灯るかのような高揚が鎮まった後は、ただひたすら気だるく、薄ら寒い虚無がひたひたとオスカーの足元に忍び寄ってきた。

『俺は一体何をしたいんだ…こんなことをしたいんじゃない…ただ、彼女に会いたいだけだ…でも、今は会えない…いつ、会えるかも、本当に会えるようになるのかもわからない…俺は…何をどうすればいい…自信はない…確信もない…それでも、今は、馬の調教がアンジェリークに通ずると…信じるしかない…他に、俺に道はないのだから…』

手を清め、己の足に絡みついてくる見えない何かを蹴飛ばすように急ぎ足に自室に戻り、寝台に倒れ伏した。が、ほとんど眠れはせず、闇雲に寝返りを打つばかりだった。ルームメイトに自分の気配を気取られずにすむ遮光・防音布の存在をこれほどありがたいと思ったことはなかった。

そしてオスカーはそのまま朝を迎えた。

僅かに外が白みはじめるや、何かに急きたてられるように馬房に向かった。

馬を自在に御すれば太陽神の地位が、ひいてはアンジェリークに大きく近づけるかもしれない、そんな期待に心は逸っていた。あの馬にハーネスをつけ馬車馬としてこの手で完全に御したい、とにかく1日でも早く…と、気は焦った。しかし、俺は結局、単なる火の厩務員であるだけかもしれない、そんな不安が、昨夜からずっと、同じほどの強さで胸に渦巻いてもいた。一方で、太陽神の妻であるとわかっているアンジェリークを、それでも恋い焦がれ、想い続けずにいられない自分の頑迷なまでの恋情を我ながら愚かしく思い、同時に、密かに晴れがましく誇らしく思っている自分をも感じていた。

それら全ての感情がオスカーの胸を千々に乱してやまなかった。

 

集中力不足は、てきめんに作用した。

いまやすっかり手順に馴れたはずの、馬にはみと手綱をつける作業でも、オスカーは今ひとつ手間取ってしまう。

それでも、なんとか基本の馬装を終え、いざ、馬車用のハーネスを装着させてみようという段になって、オスカーの心に、重ねて迷いが兆した。

『このハーネスをつけ、馬車馬としての訓練を終えたら、おまえは、この厩舎からどこに連れていかれるのか…もし東の神殿に連れていかれるのなら…おまえはアンジェリークの姿を視界に納めることができるのかもしれない…彼女とすれ違うことすらあるかもしれん…この先、俺がまみえること叶うかどうかわからぬ彼女と…』

こんな迷いとも渇望ともいえぬ、うずうずとする痛みを伴った感情が胸の奥底で渦をまき、オスカーの火の力への集中を更に乱した。

すると、オスカーの迷いをそのまま鏡に写したかのように馬は落ち着きをなくし、オスカーが何度試みてもハーネスは嫌がってどうしてもつけさせようとしなかった。

この馬具に馴れてくれないと、馬車本体に馬を繋ぐことなどできないし、延いては馬車を操ることなど夢のまた夢である。しかし、そう思ってオスカーが焦れば焦るほど、馬は、ますます落ち着きをなくし、不従順になっていく。

本来、調教者は、断固とした態度と揺ぎ無い強固な意志をもって馬を安心させるよう臨まねばならないのに、こんな心境にあるオスカーが、ハーネスなどという馬にとっては初めて見る馬具を容易くつけられるはずがないのは道理であった。迷いと焦りから注意は散漫になり、睡眠不足からくる身体疲労もあいまって、オスカーは火の力に意識を集中しそこねたのだ。そしてこの馬は、恐ろしい程敏感にそんなオスカーの気力・体力の状態を察した。オスカーの火の力にいつもの冴えがないと見て、途端に馬は不従順になったようだった。与しやすしと足元を見られたのか、それとも、いつになくオスカーの火の力が弱まっている処に、見慣れない馬具を装着されることに不安を覚えて浮き足立ったのかはわからないが、とにかく酷く落ち着かなくなって一切の指示を受け付けなくなった。

それでなくとも馬車用の馬具は重いし、窮屈だ。馬がよほど従順か辛抱強くなければ装着できるものではなかった。

耳を伏せ、頭を振り上げる馬を見て、オスカーは、馬具の装着を断念せざるを得なかった。

惨めだった。

1日で、馬装が全て上手くいく方が稀なのだから気を落とすなと厩務員には慰められたが、オスカーには、それは、自分の力不足であるゆえだという自覚があったため、慰められること自体が情けなく恥ずかしくてならなかった。

だが、オスカーは馬の不従順を声を荒げて叱るようなことはしなかった。自分の力不足、気力不足が、不服従の原因だとわかっていたからだ。昨夜あまり眠れず疲れがたまっていたことと、妙な焦りと力みがあって精神の集中を欠いていたことから、今日は、馬に指示を出す時に火の力が上手く放出できていなかった自覚がオスカー自身にあった。そして、自分が何を焦り、何故、集中できなかったかも、オスカーはよくわかっていた。

ただ、だからといって馬を甘やかすことはできない。今後の示しがつかなくなるので、指示に従うまでは褒賞はなしだ、ということだけは理解させねばならなかった。

「おまえが、これをつけるまでは、遊びもおやつもなしだ」

オスカーは馬にハーネスを見せながら静かに、だが、断固としてそう告げると、後は、事務的に淡々と馬の世話をした。馬が、前足のひづめでかっかっと地面を掻いて、何かを強請る…自由放牧か美味な間食か、その両方か…仕草をしたが、オスカーは故意にそれを無視した…厩舎の馬房は贅沢なほど広い空間が取られているので、馬は横になることも、多少なら動き回ることもできる。飼葉もきれいな水も十分に与えてあるから、問題はない…と、踵を返して厩を後にした。

酷い敗北感に苛まれていた。

この馬の調教は、いわば馬との真剣勝負だ。こちらの気力・体力がともに充実していなければ、この馬はまったく制御できなくなるのだということを、オスカーは身をもって思いしった。

つまり、この馬を御することに意識を集中し、十分な気合をもって臨まねば…別のことに気を取られて、気持ちが浮ついていたり、気もそぞろになっていたら、この馬は決して指示通りに動かせない、ということは、結局、自分の気持ちを安定させることができなければ、いつまでも同じことを繰り返し兼ねないということだ。

だから明日になれば…時間が経てば馬が従うというものではない。下手をすると…俺が上手く気持ちを切り替えられねば、長い期間、俺と馬とのにらみ合いは続くかもしれない。

今までの調教を通じて、まがりなりにも馬との間に愛着も信頼関係も構築されているかと思っていたオスカーだったが、今思えば、それも怪しいといわざるを得なかった。

手綱を通して人の指示に従うことに漸く馴れた馬に…しかも、それにもかなり時間のかかった馬に、今度は、馬車を引くことを覚えさせろか…ハーネスすら装着できずにいるのに…どれほどの時間がかかるのか、いや、上手くいくのかどうかの見当もつかなかった。

オスカーは馬の世話を始めてから…いや、この天界に来てから初めてと言っていいほどの惨めな敗北感に打ちひしがれた。

 

オスカーは一度、自室に戻り、自分の机に向かった。

何かするという当てがあるわけではなく、ただ、漫然と考えを巡らす。

このまま、馬の調教が進まなければどうなるのだろう…この時点で俺の力は限界に達したとみなされるかもしれない、もし、そうなれば、俺は留学生としては落第の印をおされ…この天界での学究の日々は終わりを告げる…

それこそ、アンジェリークに一目なりとも目通りかなうこともなく…火の地に返され、今の自分の実力に見合った神職を得るのだろうか…

考えれば考えるほど、気が滅入っていきそうだったので、オスカーはとりあえず頭を切り替え、学科用の教材を準備しようと抽斗を開けた。片隅に2,3通の書状が無造作に投げ入れられているのが目に入った。馬の調教が進むにつれ、送られていた女神神殿への参詣許可証だった。

オスカーは、なんとはなしに、その1通を手にとってみた。

『どうせ、アンジェリークに会えずに終わるのなら…彼女と並んで地母神の娘と称される巫女の顔を拝んでから、天界を去るのも一興か…』

自嘲めいた笑みを片頬に浮かべて、オスカーは書状を見つめた。

常のオスカーなら、こんなことは考えなかっただろう。

が、この時のオスカーの思考は混迷していた。太陽神に通じる足がかりを掴んだかに思えたのに、その階梯をすんなり昇れなかったことが、自分で思う以上に心の痛手になっていた。今まで、なるべく鮮明に思い描くまいと思っていたアンジェリークは太陽神の妻である事実、朝日の昇る時、彼女は太陽神の腕にかき抱かれているのだと想像するその苦しさ、それでも、アンジェリークに会いたいと思い、火の馬を御することができれば彼女に手が届くかもしれないと一抹の希望を抱いたところで、今日の無様なへまで、彼女と自分を隔てる距離を再認識してしまったのだ。一度、彼女の後姿をこの手に捕らえられるかも…と期待した後だったので、彼女が一層遠ざかったように感じられたことも、オスカーの心弱りに拍車をかけていた。

「おーやー、ついに巫女の慰撫を堪能する気になったのかい?」

「オリヴィエか…」

笑みを含んだ声を耳にして、オスカーは振り向きざま、あからさまに険を含んだ顔で書状を抽斗の奥に押し込んだ。オリヴィエの言葉に気を悪くしたのではなく、悪戯がみつかった子供のような…いや、自分の心弱りを見透かされたような、居心地の悪い思いを感じた故だった。

しかし、当然、オリヴィエは自分の揶揄をオスカーが不快に感じたのだと考えた。

「ああ、悪い悪い、からかうつもりじゃないよ。照れることはないさ、それは、オスカーがもらった権利なんだから、遠慮なく使いなよ、むしろ、私は、少しオスカーは息抜きしたほうがいいと思ってたからね」

オスカーはオリヴィエの言葉に、僅かに片眉をあげた。

「…俺には…息抜きが必要そうに見えるか…」

他人事のように抑揚のない調子でオスカーは尋ねた。

「ああ、あんた、自分では気付いてないかもしれないけど、いっつも、変に張り詰めてる。少し緩めないと、なんか、変な拍子にぽっきりイッちゃいそうでさぁ、見てて痛々しいっつーか、怖いっつーか…」

「そうか…」

「うん、しかも、あんた、今日は特に酷いよ。昨日は夕飯にも現れないし、今日は、朝から憔悴してる風なのに妙にぴりぴり緊張して…力んで、上ずってて、熱に浮かされたみたいに心ここにあらずだったけど…うーん、今は…なんか、更に酷い?…精気がない…木偶の坊みたいだよ、ちょっと…」

「そうか…」

オスカーは馬鹿のように気の抜けた返答を繰り返す。オリヴィエが僅かに眉をひそめた。

「ねぇ、聞いてもいいかな、オスカー、あんた、なんでそんな死にそうな顔してんの?っていうか、なんで、そんなに、いっつもわき目も振らず必死なのさ?単にひたむきとか頑張りやって言うのとも違う気がする、でも、火の一族郎党の期待背負って重圧に喘いでるって感じでもない。かといって闇雲な上昇志向に毒されてる訳でもなさそうだ…とにかくなんでもいいから地位の高い火神になりたいみたいな、ぎらぎらした浅ましさは感じない。なのに、あんた、いつでも、とにかく死に物狂いだ」

「そうか…そうかもな…」

オスカーは嘆息した。オリヴィエの言葉は単なる野次馬根性か善意からのものか…多分、善意に根ざすものであろうとは感じた。しかし、だからといって俺が腹のうちを晒して相談すればどうにかなる問題ではない、しかも、誘われるままにあっさり己の弱みを…赤剥けになってひりひりと痛む心の内側を他者に開くのは、とても業腹だった。自分が、そこまで意地も張りもなくしたとは思いたくなく、オスカーは、話をそらすように、こう切り返した。

「だが…なぁ、オリヴィエ。おまえだって…せっかくここに来た以上、何某かの神になりたい…という野望とか大志はあるだろう?」

「そりゃぁね」

「俺もだ。俺はどうしても、ある神になりたい、それだけだ」

「でもさ、あんた、一体何のために、その特定の神さまになりたいの?何故、何の理由でそんなに死にそうな顔してまで必死になるのか、わからないねぇ」

「何のために?だと?」

女のため…1人の女と会うため…しかも、今は神の妻である女性を、可能ならばこの手に抱くため…反射的に脳裡に浮かんだ言葉は、口に出されることはなかった。

客観的に考えればとても褒められた動機ではなかろう、ということはわかっていたが、それが理由ではなかった。

オスカーに、それは、どうしても譲れない、諦めきれない、祈りにも似た願いであった。しかも、オスカーにとってアンジェリークとの思い出と、彼女への想いは、神聖なほど大切すぎて、尚の事、おいそれと人に告げられるようなものではなかった。意地や強がりではなく、大切すぎるからこそ胸の一番奥深くに仕舞いこんで、自分1人だけのものにしておきたいものだった。

「それは…おまえには関係ないことだ…」

「ふぅーん、なんか訳ありだね」

「訳ありだったとしても、それはおまえには関係ないことだと言っている」

「いや、大有り、そんな辛気臭い顔、毎日同室で拝みたくない。辛気臭い顔して思いつめたら、目標の神様になれるってんなら、多少は我慢してあげてもいいけど、そんな訳ないんだし。だったら、そんな鬱陶しい顔、間近で晒されたくないよ、私は。正直、いい迷惑」

「…おまえ…本当にやなヤツだな…」

こう返されるとは思いもよらず、一瞬あっけにとられたオスカーは、すぐさま反発しそうになった。なんで、おまえに、そこまで言われなくちゃいけないんだ、ほっといてくれ、と…。しかし、そう言いそうになったその一歩手前で、オスカーはぐっと堪えて、こう言うに留めた。感情的とも思えるオリヴィエの言葉の中に、反論しようのない真実を認めた…認めざるをえなかったからだ。確かに、思いつめて太陽神になれるなら苦労しない、しかも負の感情の抑制が効かず、周囲に垂れ流していたのは、自身の未熟の現れに他ならない、と。

すると、オリヴィエはゆっくりと諭すように、言葉を続けた。

「オスカー、下手な考え、休むに似たりって言葉、知ってる?悩むだけなら、何もしないで怠けてるのと一緒だよ。悩むのはエネルギー使うから、疲れて何かした気になってるかもしれないけど、ぐるぐる一つ処を回ってるだけだから、結局どこにも進んでない、つまり、止ってるのと同じさ。いや、疲れる分、止ってるよりタチが悪いかも」

「まったく、はっきりモノを言う。しかし…そうか…そうだな…確かに…思いつめて、悩めば道が開けるなら…苦労はないな…」

「そ、だから、頑張るのはいいけど、死にそうな顔して思いつめるのは勘弁ね。見たくもないもの、見せ付けられるこっちがいい迷惑だし、そういう、どんよりした甘えを周囲に無意識に垂れ流すのは、もう、公害だよ。そんな公徳心のないことじゃ、立派な神様にはなれないよ。甘えたいなら、相手と場所を選んで…それこそ、女神神殿あたりで思い切り甘ったれ気分を吐き出して、ここでは、もうちょっと美意識のある態度を保ってほしいもんだね」

いまや、オスカーは、『自分が嫌だから鬱陶しい顔を傍で見せるな』というオリヴィエの言葉の裏にある真意を確信した。オリヴィエは、自分の甘えを叱り、しかし、案じてもくれていて、悩むだけでは埒はあかないと諭そうともしているらしい、なのに、そういう親身な感情を、まるで自分を悪者と思えといわんばかりの捻くれた言い方で伝えてくるやり方は、あまりにオリヴィエらしい、そう思うと、我知らず笑みがオスカーの胸にこみ上げた。

おかげで、がちがちに強張っていた心が少し解れた、オスカーは、そんな気がした。

「わかった、わかった、己の未熟と…無様さが、とくと身にしみたよ」

「わかれば、よろしい」

大仰に頷くオリヴィエに、オスカーは苦笑した。半ば以上は自分に対してだ。

「それだけ言うからには、おまえは、よほど自律心が強固なんだなろうな…おまえに比べれば確かに俺はまだまだだよ」

「そうあろうとしてるだけさ。私は美意識のない人間と自律できない精神は見苦しいって思ってるからね。そして、更にいえば、私は美しいものが好きだし、見苦しいものは見たくないんだ」

「我侭なヤツだな」

「光の眷属には美・優・雅が理想の価値基準としてあるんだよ。火の眷属が力に、風の眷属が自由に重きをおくようにね。だから、私が美意識や粋を追求するのは我侭でもなんでもない、むしろ、光の神には必要な資質さ。そして、私も自分の美意識は思う存分追求したいから、そのためにも神の名はもらうつもりではいるけどね」

「それなら、おまえ、光神になるなら何でもいいのか?特定の何神になりたいって、明確な目標はないのか?」

「あんたがはっきり言わないから、私も言わなーい」

「子供か、おまえは…」

オスカーは瞬間呆れ、すぐに、くっくっと声を出して笑った。自棄になり、へこんで下を向いていた心が、いつのまにか平衡を取り戻している、そんな気分だった。

「まぁ、とにかく、俺は、火神でもある特定の神になりたくて、ここでの鍛錬に励んでいる…そして、その神になれないのなら…何神になっても同じなんだ。俺にとっては、全てか、無か、なんだ…」

「そこまで拘り思いつめる理由とか必要があるわけだ」

「ああ、だから、そのための努力も惜しまずしているつもりだが…上手く成果があがらない時は、落ち込みもする、人並みにな」

オリヴィエは、声のトーンを少し下げ、真面目な様子で言葉を続けた。

「オスカー、あんたが、とにかくある神様になりたくて必死なのはわかった。でもさ、そのゴールまで、まだ、どれくらいあるかもわからない状態で、今からこんなに死に物狂いで、そんなキリキリした顔をしてたら、ゴールにたどり着く前に、ばったり倒れちゃうんじゃないの?弓の弦だってさ、常に一杯一杯に引き絞ってたら、弦は伸びきっちゃうか、切れちゃうかするじゃない。それじゃ、いざって時に力が出せないじゃん、やっぱ緩急が大事じゃないかと…老婆心ながら、私は、思うわけよ」

「そんなに俺は…一杯一杯にみえたのか…」

「ああ、いつもいつもって訳じゃないけどね、あんた、ふとした時に、死にそうに辛そうな顔する時があってさ」

「そうか…自分ではわからないものだな…」

俺が意識せずとも辛そうな顔をしていたとしたら、それこそ、ふと、アンジェリークのことに思い出していた時か…と考えていると

「だって、あんた、周りをみてないもん。いっつも自分の目指すものだけにまっしぐらだから」

と、ダメ押しのような一言を、オリヴィエが言った。いかにも何の気なしなくせに、本質をついたその言葉にオスカーは苦笑いするしかなかった。

「っ…おまえ、本当にやなヤツだな…」

一呼吸おいてから、オスカーはこう付け加えた。

「だが…凄く…いいヤツだ…」

「今頃気づいた?」

「いや、そうじゃないかとは思っていたが、改めて感じた」

「こんな良いやつは他にいないって?」

「ああ、こんなイヤなヤツもな」

二人は顔を見合わせて笑った。

「言われてみれば、確かに…そうだな…俺は、がむしゃらにすぎたのかもしれん」

「そーそ、いっつもキリキリしてるから、一度躓くだけで人生の終わりみたいになるんだよ、身体も心も緩ませる時と、引き締める時はきちんと分けないと、いざって時、力がでないよ。でも、自分じゃ巧く気持ちを緩められないってんなら、ガニカーのトコ行って身も心も思い切り解してもらうのも方便だって。せっかくもらった権利、しかも誰もが羨む特権だよ?遠慮することないじゃん、いや…むしろ、あんたにはそういう癒しが必要だって思われたからこそ、送られてきたのかもしれないじゃん、その書状は」

「俺に必要だから?それは…考えてみたことがなかったな…」

「そうだよ、だから一度、ガニカーの柔らかな心と身体に癒されてみたら?私たちの同室の者の精神衛生のためにもさ」

権利ではなく、俺には必要だと思われたから供給された…というのは、新鮮な視点だった。今、自分は、そんな必要を感じているという自覚はないが…

オスカー自身としては、不特定の女性から肉の慰めを得ることを欲しているという自覚はなかった。昨晩、自分で欲望…あれも欲望の現れであることは確かだ…を処理しても虚しさを感じただけだった。だからアンジェリークではない女性と接しても、心が慰められるどころか更なる虚しさに打ちのめされるだけではないかと思えた。

聖娼という存在そのものが、火の眷属であるオスカーには、なじみのない概念だったせいもあろうが。

単に寂しい、人恋しいと、ささくれだった気持ちを和ませるためなら…柔らかで暖かな女性に抱いてもらえばそれでいいのかもしれん…だが、俺は…俺が欲しいのはアンジェリークその人だけだから…

「おまえ達のために…ってのはゴメンだな…まぁ、差し迫って必要は感じてないから、そのうち機会があれば…だな…」

「あんた、マジで淡白すぎない?健康な若者としてちょっとおかしいんじゃないの?それとも、何?聖娼になんか偏見でもあるの?光の眷属では、聖娼は美・優・雅を極めた存在として高く尊敬されてる憧れの存在だし、だから、参詣者だって選びに選ばれてるし、参詣は恥ずかしいことでも後ろめたいことでもなくて、むしろ誇りに思っていいことで…」

「いや、そういうことじゃない。オリヴィエ…今は、俺は…なんていえばいいのか…代用品の必要を感じてないんだ、そして、そんな気持ちで女性に接するのは失礼というものだろう。そういうことなんだ」

「代用品って……!…あんた、好きな子がいるのか…」

「…片思い…ってヤツだけどな」

「打ち明けてないの?」

「いや、俺の気持ちは打ち明けた、でも…その時、彼女には…」

「ああ…いい返事がもらえなかったわけ?…もしかして、彼氏がいたとか?」

「まぁ…そんなところだ」

「でも、諦めきれないんだ?」

「まだ、チャンスがあると、俺は思っているんでな」

「まぁ…いい女だったら彼氏がいても当然かもね、とにかく、あんたの健闘を祈るよ」

「おまえに健闘を祈られてもなぁ…」

オスカーは苦笑した。が、その時、ある考えが脳裡に閃いた。

「なら…一つ頼んでもいいか」

「え?マジ?なに?意中の彼女を裏庭に呼び出す役?」

「バカ、真面目な話しだ。…おまえ、自分では傍流とか言ってるが、光の眷属だよな」

「さっきからそう言ってるじゃん」

「なら、頼む、俺に代わって天界神に関する書物の検索をしてほしい」

「どういうこと?」

オスカーは、オリヴィエの激励に、ふと、あることを思いついたのだ。

火神としての太陽神の記述はかなりの数を検索してきた、が、最近見る資料は、どれも似たりよったりで、新たな発見がなかった。だから、火の馬と太陽神の関係性もはっきりと確信できなかった。

しかし、太陽神は天空神の性質も併せ持つ、ならば、天界側から見た太陽神の資料があるはずであり、それは火神とは異なる視点や未知の情報があるのではないかと、思い至ったのだ。

しかし、火の地からの留学生であるオスカーには、火神に関する書物や文献へのアクセスはほぼノーチェックで許されたが、書庫の資料全てが無制限に閲覧を許可されているわけではない。

書庫の中でも、他の眷属に関する資料を閲覧する時は司書に申し出と許可が必要で、通常の開館時間外の利用が多いオスカーは他の眷属の資料棟には入室できないことも多かった。その上、書架によっては入室に更に担当指導員の許可が必要なところがあるらしいことも、今のオスカーは知っていた。

「俺は火の眷属だから、天界神に関する資料の閲覧には制限がある筈なんだ、だが、光の眷属のおまえなら天界神に関する資料の閲覧の規制は俺よりゆるいだろう?」

「ああ、確かに他の眷属の神さまたちの話は見たってあまり参考にならないからねぇ。でも、火神になるしかないあんたが、どうして天界神の資料が必要なんだい?」

「俺が詳しく調べたい神は、火神であると同時に天界神の…光の性質をあわせもつ、だから…天界側からみた資料があるはずなんだ」

「…それってもしや…」

「ああ、太陽神スーリヤに関する文献だ」

オリヴィエは、暫し黙り込んだ後、こう尋ねた。

「わかった…探してみよう。…で、欲しいのは太陽神に関する資料だけでいいんだね?」

今度はオスカーが虚をつかれたように、黙り込んだ。

オスカーは、僅かな逡巡を見せた後

「可能なら…ウシャスに関する資料も借り出してほしい」

と、静かに告げた。

「ウシャス?天界一の美姫にしてこの世で最も清らかな乙女と称される暁紅の女神ウシャスかい?」

「ああ」

オリヴィエがやれやれという仕草で肩をすくめた。

「スーリヤといいウシャスといい、光の眷属の私にも、まさに雲の上の神様たちだから…すぐに文献が集められるかどうかわからないけど、ま、なるべく善処してみるよ」

「よろしく頼む、その代り、それ関係の資料を与えてくれてる間は、俺は、決して益のない煩悶に浸ることも、それを周囲に垂れ流すこともしないと約束する」

「それってさぁ、半分脅迫じゃないかい?」

「脅迫じゃなくて協力だ。俺の鬱陶しい顔を見たくないと言ったのはおまえなんだからな」

「こりゃ1本とられたね。おっと、私は、そろそろ次の講義だ」

「ああ、俺も馬場にいく時間だ、じゃぁな」

二人は部屋の扉の前で、それぞれの向かう先に足を向けた。

オスカーは、晴れ晴れと…とまではいえないが、かなり、気持ちが落ち着いた自分を感じていた。

どれほど考えても今の自分の力ではどうしようもないことで、思い悩むのは愚かなことだ。現実を見据えず、逃げることでもあろう、それが一体何を生み出すというのか。思い悩むことで、何ができるというのか、何もできはしない。それは、ただ休むよりもっと悪い、何もしなければ心と身体は休まるが、無意味に悩むのは気力を消耗するだけだからだ。

オリヴィエの言う通りだ。

俺が今為さねばならないことは、馬の扱いに思い悩むことではなく、ましてや、自棄になることでも自己憐憫の海に沈むことでもない。為せねばならないことを投げ打てば、そこで、アンジェリークとの繋がりは途切れてしまうのだから。

あの馬が…誰のものでもいい、あの馬が、もし、アンジェリークのことを目にできるのなら、むしろ、それを喜ぼう。

あの馬一頭御せずして、太陽神の御する7頭立ての太陽の馬車が御せる筈がないのだから。

俺は、ただ、あの馬を7頭同時に扱えるほどに、火の力を強く、そして、緻密に磨きあげることだけに今は専心すればいい。

かなり…強い意志での力で、自分に、ようやっとオスカーは言い聞かせた。

そして、オリヴィエから資料を借りることになっても、どんなに気になる調べごとや勉強があっても、体力や集中力を損なうように身体を酷使しては、本末転倒になってしまうのだという教訓も、また、自分に言い聞かせた。

オスカーは、結果を焦って消耗することは、むしろ目標から遠ざかることだと知ったから。

ただ、悩んでいたって埒はあかない。焦っても無益だ。アンジェリークに再び会うために、俺はこの地にきたのに、気を散じて為すべきことを疎かにしてしまったら、その時点で、アンジェリークとかろうじて繋がっている糸を俺は自ら断ち切ってしまうことになる…と。

この自覚も異なる眷属が身近にいて、耳に痛いことを聞かされたせいかと思うと、天界の教育方針の妙に苦笑せざるを得なかった。実力的に同じくらいの力を持ち、しかし、視点や観点が異なる第3者からの意見は、素直に客観的に聞けるものだということと、その効用を身にしみてオスカーは知った。

とにかく、今は、できることに全力で取り組むしかない。

オスカーは、これから、自分は、ますます馬の世話に没頭することになり、空き時間はますます資料棟にいずっぱりとなるだろう自分を予想した。

 

天の最上層に、水界より、雨神パルジャニヤさまのお出ましの先触れがあった。

となれば、太陽神は明日は休息となる、而して夜明けの女神もまた天空の道に立つことはない。

ここ暫くのアンジェリークなら、そんな日は、そのまま夜の女神ラートリーの衣に包まれて、次の夜明けが来るまでまどろむところだった。

雨催の夜の空虚さに、寂しさに、アンジェリークは打ちひしがれ、顔を上げる気力を失っていたからだ。

昼日中は、アンジェリークの本性ともいえる夜明けの光は強烈な太陽光に打ち負かされ、取り込まれる形で太陽光と合一して天空からこの広い世界一杯に拡散している。つまり、アンジェリークはこの世界のどこにでも偏在していると言うこともできるが、それゆえに彼女自身は確とした意識を保てない。アンジェリークが自分の意識を取り戻すためには太陽神が深い眠りに就いている夜半過ぎに、アンジェリーク自身が強く意識して自我の輪郭を取り戻すか、強い意識に呼び覚まされるかする必要があった。またその実体化に際しても、夜明けの光がアンジェリークの本質であるという事実から、アンジェリーク=ウシャスが自らの光気の粒子を凝らせて身体を実体化できるのは、夜明けの禊のために必要な火の泉の周辺と、その遥か上空にある東の神殿に端を発する天空の道の上だけに限られていた。

そして、長い長い半生において、大気の中一杯に光の粒子となって拡散しているアンジェリークの意識を呼び覚まし確とした輪郭を与えてきたのは、夜明けの女神として生き物たちに目覚めを与えたい、与えねばと願うアンジェリーク自身の意志の力であり、それを促すラートリーの呼び声だった。

だが…オスカーに出会ってから、アンジェリークの中にもう1つの強い意志の力が芽生えた。オスカーの無意識の声に惹かれて火の泉に赴き、オスカーと逢瀬の約束を交わしてからのアンジェリークはオスカーに会いたい、会って言葉を交わしたいという強く願うその力で、雨催いの夜に自分の意識を呼び覚まし、目覚めると共に己の身体を実体化させて、火の泉に降り立っていた。

あれは…なんという甘美な夢のような数年間だったろう。

あまりに長い時間を生きてきたアンジェリークにとって、その数年は人生のほんの一瞬でしかなかったが、だからこそか、それこそ、どんな高貴な宝石にも負けない…己のこの身を飾り立てている金鎖や宝玉をちりばめたどんなに煌びやかな装飾品よりも輝いて感じられた。

しかし、それゆえに、オスカーの天界行きに伴い…それは、とても名誉な喜ばしいことではあったし、アンジェリークはオスカーの得た名誉を心から寿いでいたけれど…オスカーと共に過ごす時間を失ったアンジェリークは、雨催いの夜の空ろな寂しさに、どうしても我慢ができなくなった。

明日はお仕事はお休み…今までは、あんなにお休みの日が楽しみで待ちどおしかったのに…実体化しても…もう火の地に降り立っても、火の泉を訪れてもオスカーはいない、オスカーには会えない…そう思うと、眠りから覚めるのも嫌で、ラートリーの衣に包まってうつらうつらと次の夜明けまでまどろみ、ラートリーに呼び覚まされるを待った。

夜明けの到来自体は嬉しいことだった。

オスカーに…天界の都市で学業に励んでいるであろうオスカーに、爽やかなこれ以上はないという目覚めを届けたいとアンジェリークはいつも願っていたから。飛び切りすがすがしい目覚めを届けることで、オスカーを応援したかったから。

だが…何度目かの空白の休日を過ごした後で、アンジェリークの心にふと兆した思いがあった。

オスカーは、きっと、天界で、一生懸命、火神…次代の太陽神を目指して、頑張ってるのではないかしら…

なのに、私はただ、オスカーに会えない寂しさと虚しさに打ちのめされているだけでいいの?

私、オスカーに素晴らしい目覚めをもたらす以外に…できることはないのかしら?

私がオスカーに直接働きかけることはできない…そういう決まりだし…第一、オスカーが今いる天界の下層域では私は実体化できない…でも…でも、ただ、待つことしかできないのかしら…。

オスカーが私のことを追ってくることが、よいことだとも、幸福に繋がるかどうかもわからないけど…それでも、オスカーが、今、天界で一生懸命鍛錬に励んでいるなら…私、どうにかしてオスカーを励ましたい、それが無理なら、せめてオスカーが、今、どうしているのか…元気でいるのか、知ることだけでもできないかしら…できれば、私が今もオスカーのことを思い返していることを、知らせることはできないかしら…

そうだわ…

この世界の全てを見通し、正しい者に褒賞を与えるというヴァルナさまなら…それゆえに学究の徒の指導も司るヴァルナさまなら、5世界から集められた若者のことを…火の地から召還された若者のことも何かご存知かもしれない…

こう、一度思い立ったら、止らなくなった。

気が急いて、逸って、ヴァルナ神を訪れずにはいられなくなった。

天空都市マハーラヴァティーの最高層は、天空の道が僅かに掠めている。アンジェリークがその身を実体化できるぎりぎりの場所だった。

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