百神の王 9

オスカーは、諸規則の確認などまだ何もしていなかったためー部屋に落ち着く間も無く資料棟に向かったせいだー同室の二人に断り、備品の検分と明日からの課業の準備をすることにした。

すると、チャーリーが

「わからんことがあったら遠慮なく尋ねてくれてええよ。俺らの間では、この部屋にいる時は、相手の都合を聞いた上でやけど自由に話しかけていいっちゅう了解交わしてるから。だから、逆に、集中してしたいことある時や、誰にも邪魔されたくない思うた時は、個室になってる学習室に行く、ちゅーことにしてる」

と言ってくれ、オリヴィエがこうしめた。

「つまり、共同生活とプライバシーとは無理のない兼ね合いでねってことさ。遠慮も負担もないようにね」

それは合理的な取り決めだとオスカーは感心した。出自が違う者同士、生活習慣が異なることに加え、為すべき課業もそれぞれで異なることを配慮して決めたルールだろう。他にも色々システマチィックに定められているルールがあるに違いない。

そして、言葉どおり二人もそれぞれ自分の作業をするために机に向かう。オスカーも支給品の一覧をチェックする。

と、オスカーは机の中に馬を世話するためのノウハウを記したらしい小冊子を見つけた。幾人もの火の若者が手にとったのであろうか、若干手ズレができている。

文章で読んだ知識が即、現場で役に立つかといえば、甚だ怪しい。理屈を知っていても実践はまた別物だからだ、それでも予備知識は無いよりあったほうがいい。オスカーはすぐさまその小冊子の内容を全て頭に入れる気持ちで丹念に目を通した。

もちろん、オスカーは馬の世話など未経験だった。馬という生き物は、荷馬車を遠巻きに眺めたことが幼少時にあるきりだった。馬というものに近づいたこともない…というより、馬の方でオスカーに近寄ってこない。

動物は火を恐れる、わけても馬は利口かつ臆病な性質なのだろう、オスカーの内に秘める火の力の強さがわかるのか、幼少のオスカーに対しても明らかな怯えを示し、ある一定の距離以上には近寄らせなかった。それでも幼いオスカーが近寄ろうとすると馬の方が恐慌状態に陥り、暴走しそうになったこともあり、周囲の大人がオスカーには馬を見せないよう、近寄らせないようにした。火の少年達が集う宿舎で起居するようになってからは…丁度アンジェリークと出会ったころだ、とオスカーは思いおこす…遠目でも馬の姿そのものを目にすることがなくなった。学び舎に集う少年たちはオスカーには及ばずとも潜在的に強い火の力を持つ者ばかりだったから、宿舎には馬に限らず獣は一切飼育されていなかった。家畜やペットとして動物を連れてきても、多少なりとも知能の高い獣は、若者たちの放つ濃密な火の気配に怯えて恐慌状態になるだけだったからだ。その場からどうにか逃れようとして、檻や柵に気が狂ったように身体をぶつけて死んでしまった獣も以前にいたと、オスカーは耳にしたことがあった。

だから、オスカーも、馬に関する知識は書物や絵姿で見た程度の甚だ貧しいものだった。馬に乗れれば遠距離の移動に便利だろうことや、何より大層爽快だろうなと、人馬一体の様子を描いた絵物語を見た折などはちらと思ったこともあったが、馬に怯えられる自分には所詮縁のない物、関係ない事柄と考えていた。だから、馬について深く知ろうとしたこともなかった。

こんな自分が知恵も意志もある動物の世話などできるのか。知識はこうして書物で得ることもできようが、第一、火を恐れる馬が自分をそばに近寄らせるだろうか。しかし、火の若者が一様に馬の世話を任されていることを考えると、この天界にいる馬は火の気を恐れないのか、さもなくば、馬の世話といっても、自分たちが任されるのは、馬本体の世話ではなくて、その環境を整えることだけなのか…冊子によると、馬の世話は色々あるらしいが、馬房…馬が寝起きをする個室だ…の清掃や管理を主にやらされるのか…それなら、馬に直接関わるわけではないから、馬が怯える心配はないかもしれん。

が、ならば、火の眷属に馬の世話をさせる意味、その意図は一体何なのか。

やはり、きつい仕事や、汚れ物の処理などをさせることで、謙虚さを養おうというのか、さもなくば忍耐力を試すためか…

オスカー自身はあまり意識したことはなかったが、火の眷属は、他の眷属に比すと概して気性が烈しいらしい。粗暴ということはないのだが、感情の起伏が烈しい者も多いし、強気で自信家で高慢な傾向が強いのか…実際、オスカーが来る前にいたという火の若者は、自尊心が高すぎたが故に、早々と天界での学業から落伍したらしいので…だから、最初が肝心という意味で、もしくは簡便な篩い分けの意味合いでか、火の眷属には、精神的肉体的に過酷な課業ー牧童の真似ごとーを課すのかということも考えられる。

というのも、あまたの供物を捧げられ、しかも五界の五眷属全てが集まるこの地で火の若者を単に無給の牧童として使うのはあまり有益とは思えないからだ。知識も経験も皆無な上、元々馬が怯えを示さない火以外の眷属の手がここにはいくらでもあるのだから。しかし火の若者は一様にこれを課業される…勉学よりも優先してだ…ならば、この課業には、何らかの意図があると考えるほうが自然だ。問題は、その意図が何かだが…今、考えた謙虚さを学ばせるためというのも単純すぎるような気もする…。

冊子には、馬の世話のために為すことが事細かに書いてあったが、このうちのどのくらいの過程に関わることになるのかも今はわからない。

オスカーは軽く頭を振り、心の中で独り言ちた。

『考えてるだけでは埒があかんな…』

実態を何も知らない状態でいくら考えを巡らせても無駄だ。現場に出てみれば、ある程度の目処は立とう、馬の世話をさせられるその目的と意図の手がかりくらいはつかめるかもしれない。とりあえず、指示された厩舎に向かうしかなかろう。

そうこう考えるうちにそろそろ消灯という時刻になった。

オリヴィエが、消灯後も何かしたいときは、やはり学習室に行くのだと教えてくれた。

「ただ、真夜中でも部屋の出入りに関してはあまり気をつかわなくてもいいよ」

「と、いうと?」

「寝台傍の壁にてろてろした布が掛かってるでしょ」

「ああ」

「これを引っ張って寝台の支柱にかけて寝台ごとすっぽり覆えば、あら、不思議。余分な光も音も、ほぼ遮断できるんだよ。おかげで夜はぐっすりさ。私は重宝してる」

「朝日も入ってきぃへんから、油断すると寝過ごすけどな。せやから、俺はわざと、ちょこっと隙間あけといてる」

「ほぅ、そんな布は火の地では見たことも聞いたこともない」

「そりゃそうや、風の地にかてあらへん。これは工巧神トバシュトリ様特製の遮光・防音布やからな」

「この布が工巧神の手によるものだっていうのか?」

「ああ。ここはさすが工房のお膝元だからね。また、工巧神様も半分道楽で次々と色々な物を発明してるらしくてさ、モニタリングも兼ねてか、珍しいもの、何に使うのかよくわかんないもの、たまーにこういう便利な物とか、色々導入されてくるんだよ」

「その分、速攻消えてなくなるもんも多いけどな」

「見た目も手触りも普通の布なのに、不思議なものだな。火の地にもこんな布があれば色々な用途に使えるだろうに…」

「あー、それはダメなんだな」

「?」

「この布、普通の鋏や刃物では何やっても切れんのや、刃の方がぼろぼろになってまう。加工するのも工巧神さまの工房やないとでけへんねんて」

「まさに神の御技だな…」

「こういうもんをちゃちゃっと作ってまうから、トバシュトリ様は神の一人に叙されたんやってのが、ようわかるよな」

「私たちも、その一員に名を連ねられるといいけどねぇ」

「そのつもりで、ここにおるやん、俺ら」

「ま、そうなんだけどね」

オスカーは二人の話を聞きながら、またも、天界の神の計り知れなさに圧倒されていた。

この発明は恐らく工巧神にとっては余禄のようなものなのだろう、オスカーも雷神インドラが持つ金剛杵バジュラが工巧神の手になるものとだということは知っていたー雷神インドラがその金剛杵バジュラで河を堰き止め民を苦しめていた悪竜ブリトラを退治したのはあまりに有名なヴェーダだったーそのことから、本来の工巧神の主な発明品は、恐らく神々の持つ強力な武器や戦車の類だと思うからだ。

本当に、こんな不思議なものをほんの手慰みで作ってしまう天界の神、その一員に俺は自分の名を連ねることができるのだろうか…それを思うと、不安がないといえば嘘になった。

が、まずは一歩ずつ歩むしかあるまい、馬の手入れをボイコットすれば天界から放逐されるのであれば、オスカーには選択の余地はなかった。

オスカーとしては、せめて、馬の世話には何らかの深遠な意図があると思いたかった。

 

初日のオリエンテーリングを終えて2日目の朝、オスカーは、教育プログラムに指定されていた場所に赴いた。汚れてもいいような軽便な服装で来るようにとあったので、オスカーは衣装棚に支給されていた衣類から、動きやすそうな布帛の中衣に短めの胴衣、それに筒様の下穿きを身につけていった。

宿舎棟の裏手に行ってみると、そこには厩と放牧場らしき草原が広がっていた。かなりの広さだ。この文教施設は外から見るより、中はずっと広いのだなと改めて思っていると厩から出てきた厩務員らしき人に声をかけられた。

「君が新しく来た火の眷属だな?馬たちが騒いで落ち着かないから、火の子が来たとすぐにわかったよ」

オスカーは挨拶と自己紹介をしつつ、頭の中で『俺の火の気配に馬が怯えるというのなら俺に求められていることは一体何だ?やはり単なる清掃要員なのか?』と課業の意味とここでの先行きを些か危ぶんでいると、厩務員は君が担当する馬はここの馬ではなく、このずっと奥にいるんだといい、オスカーは更に奥まった場所に連れていかれた。と、開けた処にぽつんと1つだけ離れた厩が見えた。

厩務員の後について厩に入ると、中はいくつかの馬房に仕切られていた。数えてみると馬房は7つあったが、現在馬は一頭しかいないようだった。

それにしても大きい…と、オスカーは我知らず嘆息していた。

初めて間近で見る馬は、かなり大きな生き物だった。

濃い栗毛の体毛は艶やかで、角度によっては鮮やかな紅にも見える。たてがみは、より紅の色が濃く、それこそ焔が首に巻きついているかのようだった。体躯はしっかりと肉厚な感じだが、すんなりとした首やすらりとした脚部は優美な印象だ。オスカーは素直に、馬とは力強く、かつ、美しい生き物だなと思った

すると厩務員が「ざっと世話の手順を教えるから、言われた通りにやってみてくれ」と言った。手本や見本なしにいきなりオスカーに実践で馬の世話をさせるつもりらしかった。

 

オスカーは、この1日で、自分でも情けないことだが、かなり疲れてしまった。体力には自信があったのにだ。

慣れていないせいもあるだろうが、厩と馬の世話というのが、オスカーの考える以上に地味で根気のいる肉体労働であり、時間を要する仕事だったからだ。汚れ仕事でもあることは言うまでもなかった。

この日は初日ということで、朝の給餌ー飼い付けというらしいーは終わっていたのだが、明日からは朝食前に、まず馬に給餌をしてから、自分の食事を取りに宿舎に戻り、朝食後のこの時刻から、また、馬の世話を始めるらしい。

1日の仕事の流れは、ざっとこんな感じだった。

馬房の馬に、引き綱をつけ放牧場に連れていって放す、その間に馬房を清掃し給餌用の桶等も洗う。それだけで午前は終わってしまう。体が汚れるので、簡単に水浴びをしてから昼食を摂り、昼食後は一時限のみだが学業をこなす。ここで、何故、学業の時間が午後の1時限しかないのか、オスカーは理解した。純粋にそれしか時間が取れないのだ。1時限の学業を終えるや厩にとって返し、夜用の飼葉を飼い桶に用意する、そして放牧場から馬を引き綱で引いて連れ帰って馬房にいれ、紐で固定してからひづめの汚れを掻き出したり、体全体にブラシをかけたり洗ってやったりの世話もする。その後、夜の給餌をして、これで漸く1日が終わるという具合だった。

馬と接すること自体初めてなのだから仕方ないともいえるのだが、それらの作業の何もかもが不手際で時間を食い、ついつい無駄に力んでしまうのか、妙に気疲れしてしまった。引き綱をつけて、馬を放牧場に連れていくだけでも、かなりの労苦だったのだ。慣れれば多少は、要領もよくなるのかもしれないとも思うのだが。

しかし、今日1日で、オスカーは、この「馬の世話」という実技は、火の眷属の高慢な気質を完膚なきまでにへし折るための単なるしごきなのではないかという懸念だけは払拭できた。

というのもこの馬房の馬はオスカーが近づくことを恐れなかった。無論、オスカーが馬への接し方をきちんと理解していたからではあるが、オスカーが馬を驚かさない限り、馬は、オスカーを見ても無闇に恐慌状態に陥ることはなかった。

不思議な感慨に捉われオスカーは馬を見つめた。何故、この馬は俺を怖がらないのだろうと思いつつ、注意されたとおり、静かに前から馬に近づいた。

引き綱をつけるため、この《無口》を馬の頭に嵌めてみろと、いきなり革製の紐様の馬具を手わたされた時は、正直、少したじろいだ。手順書は見ていたが、いきなり実践を上手くできるとは思えなかった。が、厩務員は口で手順を説明するだけで手本をみせようとはせず、その理由をこう言った。

「この馬は、火の眷属以外の者に身体を触らせないんだ、だから、君が無口と引き綱をつけてやらないと、放牧させてやることもできない」

そんな馬がこの世にいるのか?とオスカーはいぶかしみつつ、馬の顔に革紐様の馬具を取り付けようとした。馬は、怯えは見せないものの、オスカーのことを値踏みするように一瞥し…オスカーには何故か、そう感じられた…ふいと顔を背けて馬具をつけられるのを嫌がった。

すると厩務員が

「君は火の力を細かくコントロールして放出できるか?そんなに強くなくてもいいが、手から火の力を放出しながら作業すれば、君が火の眷属であることがよくわかって馬もおとなしくなるかもしれん」

と言った。

そんなことをして、危険ではないのか?と思ったが、オスカー自身にいい考えがあるわけでもないし、反駁できる根拠や知識もないので、オスカーは半信半疑の態で、馬を前にして無意識に身の内に抑制しようとしていた火の力を少し強めて、掌に集めてみた。アンジェリークの忠告に素直に従って、体の色々な部位に火の気を集めたり散じたりを自在にできるようにしていた訓練が思わぬところで役にたった。

すると、馬が一瞬ぴくりと動き、後向きになっていた耳が前を向いた。オスカーが顔を触れてもあからさまに嫌がってかぶりを振らなくなった。

その後は馬がそのまま、ほとんど顔を動かさずにいてくれたおかげで、何とか、オスカーは《無口》という引き綱をつけるための革紐を馬の頭にとりつけることができた。といっても、終わった時は、気疲れで汗だくだったし、かなり時間もかかってしまっていたが。

それでも厩務員は、しきりに感心していた。

この馬が初日からおとなしく無口をつけさせるなんて、今までに滅多にないことだと、その厩務員は言った。無口をつけるところまで辛抱できず、厩舎に来なくなってしまう若者も多い、しかし、この馬は他の眷属にはどうやっても引き綱を付けさせないので、ここ何日かはずっと馬房に閉じ込められっぱなしだったんだ、これで、やっとこの馬も放牧場に出してやれる、とも言った。

オスカーは、火の眷属を恐れるどころか、敢えて好む…いや好むというより火の眷属しか認めないなどという馬がいたのか…と驚嘆の思いで、その馬を改めてマジマジとみつめた。疑うわけではないが、一瞬瞳を閉じて、気を探ると、確かに火の属性を感じる。

『この馬は…確かに火の馬…炎の馬だ…』

馬の引き綱を引き放牧場に向かう道すがらも、厩務員からオスカーは、引き綱に力を送りこむつもりで火の力を終始緩めないようにと念を押された。火の気配を緩めると、馬が止ってしまって動かなくなったり、勝手な方向に歩いて行ってしまったりする恐れがあるとのことだった。そして、少し可哀想だが…と、厩務員は付け加えた…他の馬たちはこの馬を恐れるので、手前にある他の馬たちの放牧場に近づけるわけにいかないんだ、だから、勝手な処に行かせないよう、君がしっかり引き綱を握って、向こうの放牧場に連れていってやってくれと。

扱い方を聞く程に不思議な生き物だと思った。獣という獣は、俺達の火の気配を恐れ厭うのに、こいつは、火の力で制御される馬だというのか?しかも、どうやら、火の気を内包しているその性質のせいで、この馬自身も、普通の馬たちからは隔離されているらしい。しかし、それならば…

「この馬になら…火の眷属が乗ることも可能なのでしょうか」

とオスカーは厩務員に尋ねてみた。

「この馬は…本来は乗馬用の馬じゃないんだが…君のことを認めてくれればその背に乗せてくれるかもしれないな。とにかく賢いし、大層気位の高い馬なんだ。半端な乗り手は舐めてかかるし、無理に乗ろうとして振り落とされた火の若者は一人二人じゃきかない」

厩務員は、ここまで言うと、一転、オスカーを慰めるように

「でも、おとなしく君の引き綱に引かれているしな。君にはすんなり無口をつけさせたし、君は、この馬に見込まれたのかもしれん」

「だといいのですが…」

「ただし、油断は禁物だ、馬に好かれようとして言いなりにならないでほしい。馬の調教は、緊張とリラックスを交互にバランスよく与えて行うんだが、この馬の場合、君が火の力を徐々に強めていくことで緊張を与えつつ指示を出し、指示を理解・実行できた後は火の力の放出を弱めた上で褒めてやったり、特別なエサをやったりと馬にとって楽しいことが待っていると教えてやるのがいいだろう、今のように、無口を付けさせ引き綱で引かれることに従えば、放牧させてもらえるとか、そういうことだな。そして、馬には穏やかに接してやらねばならんが、ただ甘やかしたりご機嫌をとるだけだと、君のことをなめてかかって、今後、言うことを聞かなくなるから、それは注意してほしい」

「肝に命じておきます。ああ、そういえば、この馬の名はなんというのでしょう」

オスカーからすれば当然の質問をすると、厩務員は、何故か、一瞬、たじろいだ。

「馬群としての名前は…わかる時がきたらわかる」

「馬群?他にも、これと同じような馬がいるのですか?」

「いや…それは、まぁ、おいおいな…。ああ、もし、個別の名前がないと不便だと思うなら、君がつけてやるといい」

厩務員の答えは要領をえないものだったし、よく意味がわからなかったが、オスカーは、それ以上の質問を控えた。答えられない、もしくは答えたくない質問なのだろうと察したからだ。天界の人間が、曖昧な物言いをするのは、それ相応の理由あってのことだということを、オスカーはアンジェリークとの出会いを通して身に染みてわかっていたので、無闇に食い下がるようなことはしなかった。それに、この厩には、元々馬が1頭しかいないから、今までは呼び名はなくとも不都合がなかったのだろうかとも推測した。

それにしても不可解なことが多いと、オスカーは思う。

火の気配を持つ馬が存在し、しかも、火の眷属にしか触れさせないということ自体が驚くきだったが、それなら、俺が馬の世話を命じられたことは理解できる…しかし、同時に、それなら俺はこの火の馬の世話をするためだけに天界に招聘されたのか?との疑問もわくし、俺に限らず、そう考える者がいたとしてもおかしくない、そうオスカーは思った。以前オリヴィエたちと同室だったという火の若者も、火の眷属にしか触れさせない馬がここにおり、その世話を命じられて、自分はそのためにだけ、わざわざ天界に召還されたのかとかんぐって反発したのかもしれない。そして、馬の世話の意義が見つけられなければ、天界に留まりたくなくなるのも道理だろう。

しかし…オスカーは、馬の世話を厭う前に、問題はもっと根源的な処にあると思える。火の力を恐れず、むしろ、火の力を持つ者しか認めないというこの馬は何のために存在しているんだ?天界は何をやらせるために、この火の馬を飼育しているんだ?本来、乗馬用ではないというなら何のために?…愛玩用には見えない。実際、天界にしかいない馬なら、移動の手間を考えると地上で火の眷属が乗用や荷役に使うことは難しいだろうし、この天界には、そう多くの火の眷属がいるとも思えない。しかし、厩務員は口を滑らせたように『馬群』と言った…つまり、同じような性質を持つ馬は多分この1頭ではない。俺以外の火の眷属が世話をさせられている馬がきっと他の場所にいるのだろう。

そして、俺がこの馬の世話を命じられるーしかも課業の一環としてだーのは、単にこの馬は火の眷属でないと世話ができないから…それだけなのだろうか、俺自身が火の力を示してこの馬の世話をすることにも意味はあるのか…

もちろん、天界にいるためには、この馬の世話をせねばいけないというのなら、とりあえず全力でやるしかないのだが…。

そして、なんとか、色々調べたり学ぶ時間は自分で作るしかあるまい…

オスカーはそう考えた。

 

馬の世話自体には一週間もすれば慣れた。

そして、この馬の世話が、ある意味、より強い火の力を磨くための鍛錬になることに、オスカーは程なく気づいた。

この馬を引いて歩いたり、行かせたい方向に誘導する度に、火の力の緻密なコントロールが必要になるのだ。火の力が弱すぎると無視される。強すぎれば驚かせてしまい、蹴られたりする危険がある。丁度いい頃合の火の力を加減しつつ常に放出して馬を制御するのは、大量の火の力を一気に放出するより、根気も胆力もいる作業だった。

ただ、まだまだ馬の世話だけに課業の時間を目一杯使ってしまうので、自分なりの調べことは中々進捗しなかった。もっと手なれて午前の作業も午後の作業も、手早く済ませられれば、資料棟に行く時間が取れるようになると思い、オスカーは、日々、黙々と集中して課せられた作業をこなしていた。

馬との関係は、悪くはなかった。

火の力を適度に放出している限りは、オスカーになつくというほどではなくとも、少なくともオスカーを警戒したり、触れられるのを嫌がることはなかった。もっとも、オスカーが引き綱を引かねば、放牧地で自由に遊べないから、黙ってオスカーに従っているだけかもしれなかったが、それはそれで、この馬がいかに賢いかを意味してもいた。そして、相変わらず、オスカーはたまに自分が馬に値踏みされているように感じることがあったが、それが何故かは、当然、わからなかった。

そして、馬が合う、といえば同室の朋友との関係は、もっと目に見えて良好だった。

同室になったオリヴィエとチャーリーと、オスカーは、瞬く間に旧知の間柄のように冗談や軽口をいいあったりするようになった。そのうち、もっと色々なことを腹蔵なく語り合える友人にもなれそうな気配もオスカーは感じていた。

チャーリーは陽気で人好きのする性格で、しかも、世話焼きな人物だった。ここでは諸事万端に不慣れなオスカーに何くれと無く世話を焼いてくれる。が、恩着せがましかったり、押し付けがましい様子は微塵もない。性格はむしろ、さっぱりあっさりとしていて、ベタベタした処がなかった。いい意味での風の眷属の性質が表に出ている感じだった。

一方オリヴィエは、ソフトな口調で人当たりも面倒見も良さ気なのだが、時に物言いが皮肉っぽかったり冷笑的な時もあり、単純に『良い人』と思っているとしっぺ返しを食らうような複雑な性格の持ち主だった。周囲の物事に対しては厳しい批評眼を持ち、一種超然とした態度を保っているようだったが、それは心情をストレートに熱っぽく現したりするのは野暮だと思っているから、わかる人にはわかるというような物言いをしているらしいということも、日が経つにつれわかってきた。オリヴィエは修辞学的・婉曲的な表現を言葉のゲームとして楽しんでいるような処もあり、そのスタンスを理解すれば、オスカーも同じように本音を少し婉曲的に表現したり、冗談の中に本音を混ぜたりという言葉の応酬が巧みにできるようになっていった。単純に善良な人間より、付き合う分には興味深いし面白いとオスカーは、その手ごたえあるやりとりを、楽しんでいた。

オスカーにとって、この二人との友人関係を築けたことは大いに有益かつ、純粋に楽しいことだった。こんな形の友情を今までオスカーは結んだことがなかったからだ。

火の地では、持てる力の強さと目的意識の高さから、どうしてもオスカーは周囲から一目置かれる存在であり続けた。抜きん出た能力のある者は、どうしても、一段高いところに祭り上げられ、故に一歩引いた処から見上げられる傾向がある。また、オスカー自身、名のある神に叙されたいという強い自覚を常に心の底にもち、そのための精進を欠かさなかったが、火の学び舎でそこまでの野心・大望を明確にもっている者は他にいなかったので、その意識の差も、どうしようもなくオスカーと他の若者との隔てになっていた。

しかし、この地に召還された者たちは、皆一様に、それぞれの眷属の中で飛びぬけた力を持つ者ばかりだった。しかも、順調に教育が進めば、何某かの神になることもほぼ確実視されているから、できれば○○神になりたいという言葉が単なる夢ではなく、実現可能な目標として語られる。この天界で学ぶ若者たちは、能力の絶対値や目的意識では、いわば、均質化された集団といえるわけだが、オスカーは、天界に来てみて、同じレベルの者に囲まれることの気楽さを初めて知った。ここでは自分の能力を磨き、野心を語ることに何の遠慮も要らなかった。向上心や貪欲な知識欲はむしろ賞賛された。また、能力のレベルとしては均質化された集団といっても、学生たちは五つの属界から満遍なく招聘されていたから、気質や価値観はそれこそ千差万別だった。宿舎では異なる眷属同士が同室になることで、それぞれの属性特有の価値観や気質の差異、能力の性質の違いや、できることとできないこと、向き不向きなどを学生達は肌身をもって実感でき、それぞれの能力を認め合うことができるようになる。神の卵たちは、五属性の何か1つが欠けてもこの世界は成り立たず、而して、五界・五属性は、どれも皆等しく尊く、世界にとって必要であることを、他の眷属との共同生活を通して身をもって知る。それゆえ、神の卵たちの心の中で、他の眷属に対する敬意と尊重の気持ち、価値感の多様さを認める寛容な精神が自ずと育まれる。また、その過程で、あくまで教育の効果としては余禄だったが、各属界で今まで一目置かれてきた能力の高い者も、ここでは平均的な存在に過ぎず、上には上がいることも思い知らされて、自惚れの鼻をへし折られる若者も多くいた。

が、オスカー自身は、この他の眷属との交流を心の底から楽しんでいた。

抜きん出た力を持ち、常に遥か先を見ていたオスカーが、火の地では真の意味で対等な友人を持つことは難かったが、ここでは、それが可能だった。

アンジェリークへ通じる道を模索するために天界に来たオスカーに、これは、予期せぬ喜びだったといえる。

そしてまた、天界に上がり、オスカーが何より、その恩恵を実感したのは、書物や資料の潤沢さだった。

まだまだ資料棟に入り浸るというほどの時間は作れなかったが、時間をみつけてはこまめに通い詰めるうちに、どの書架にどんな関連の資料や書物があるかが少しづつわかってきたし、また、手続きを踏めば書物を借り出して部屋に持ち込むことも可能だとわかったので、オスカーは、少しでも時間があけば資料棟に行った。太陽神と可能ならウシャスに関するものなら、どんな小さな知識や些細な情報でも知りたいと切望していた。

 

オスカーは黙々と課業をこなしていく日々を重ねていた。

馬の世話は概ね順調に進み、いまや、火の馬はオスカーが引く引き綱にはきちんと従うようになっていた。馬が指示を無視するような場合は火の力を強くし、指示を理解した時点で力を緩めるということを繰り返した結果だった。その様子を見て厩務員は次は《はみ》を馬の口にかませて手綱に慣れさせていこうとオスカーに言った。

人を乗せたり、車に繋いで荷を引かせるためには手綱に慣れさせなければならず、手綱で馬を操るためには、馬の口の奥歯にあたる部分に《はみ》という金具をかませねばならない。この《はみ》に手綱が繋がれるからだ。手綱を引く、緩めるという合図は《はみ》を通じて馬の口元に伝わる。そして手綱にかける力の強弱や向きの意味を根気よく馬に理解させていくことで、馬を自在に操れるようになるのだという。しかし、この馬は、火の眷属以外の者に身体を触れさせないので、今まで、この種の調教を試みることができなかったのだと、オスカーは教えられた。

オスカーは馬に《はみ》をじっくりと見せ、危険はないと時間をかけて納得させたが、馬は口を開こうとしなかった。警戒して…というよりは、オスカーの出方を伺っているようなフシが馬にみえたので、仕方なく、オスカーは火の力をかなりの強さで放出しながら馬の口元を指で押して反射的に馬の口を開けさせ、その一瞬の隙にはみを噛ませて頭絡ーはみを固定させるための革紐ーと繋げた。馬は、不審気な面持ちで、暫く頭を振っていたが厩務員によれば、このまま、1日《はみ》を嵌めさせておけばその感触に慣れるだろうとのことだった。

《はみ》に馬がなれれば手綱を通して人は馬に指示を伝える訓練が始められる。根気はいるが、はみと手綱を通して馬に細かな指示を理解させられるようになれば、乗馬もできるし馬車に繋ぐこともできるようになると言われオスカーの心は我知らず弾んだ。

また、馬の世話にもかなり慣れてきたから、これからは資料棟で調べ物に費やす時間も、かなり作れるようになるだろうと思えたこともオスカーの気持ちを浮き立たせた。こうなってみると、学業が一時限しかないのは、ある意味ありがたかった。拘束される時間も少ないし、出される課題も少なくて済むので、時間の融通が利く。これからは自分の調べたい事を調べる時間がもっと取れるようになるだろう。

ルームメイトは、基本的に独立独歩なので、オスカーが何に興味を持ち、何を熱心に調べているかを詮索したりはしないはずだった。この付かず離れずの関係がオスカーには心地よかった。それでも一緒に過ごす時間はそれなりに多いので、何の気なしに言葉を交わすことは相変わらず多く、オスカーは、知らぬ間にこの宿舎での不文律を教えられていたり、オスカーが今は行く余裕もない街の様子や、街にある施設のことなどを教えてもらうこともあった。学業が休みの日もあるので、オスカーもその気になれば街に遊びに行くこともできたのだが、今のオスカーは進んで街に行きたいとは思っていなかった。そんな時間があるなら、資料室で少しでも多くの文献を漁りたかった。だから、町の様子などは二人の話を小耳に挟んでいるだけでなんとなく満足していた。

そして、馬に《はみ》を嵌めた翌日のことだ。

オスカーが唯一受けている講義は五世界を統べる神族の概論だったので、受講生は五眷属全てにわたっていたし、男女の隔てなく同講であった。ために、オスカーは、この町には実に多くの女神の卵や仙女の卵がいることも既に知っていたし、受講の合間の時間に彼女たちに話し掛けられれば、気さくに対応していた。その顔なじみの彼女たちの幾人かに、町に遊びにいかないかと誘われた。『オスカーは、ここに来てから一度も街に出ていないでしょう?よかったら、私たちが色々案内してあげる』と。

実は、オスカーは、本人の預かり知らぬ処で女性たちの間で非常に評判がよく、人気があった。

オスカーは、学内では明朗快活かつ気さくに他者と接していた。良い友人を得られたこともあって、火の眷属の若者らしい良い部分…明るく活発かつ精力的で人目をひきつける…が、オスカーの表に出ていた。また、オスカーは、女生徒たちに、あくまで学友として変に構えず自然体に接していたことも好印象を与えていた。彼女達を異性として意識して見ていないが故の態度だったのだが、それがむしろ、余裕のある優しさとみなされ、オスカーは火の眷属の男性としては理想的な外観も相まって、お近づきになりたいと思っている女神の卵たちはたくさんいたのだった。

が、オスカーは『誠に申し訳ないが…』と多忙を理由に、丁寧にその誘いを断った。それほど気乗りがしないということもあったが、余分なことに割く時間があるなら、資料棟に行きたい気持ちが、正直、強かった。太陽神に関する情報や文献を調べる時間をまだまだ十分に捻出できていなかったからだ。

残念そうな女生徒たちに、あくまで丁寧に、しかし、毅然とした態度で辞去すると、オスカーは一度教材を置きに自室に戻った。

と、オスカーは自分の机の上に一通の書状が置かれているのをみつけた。

典雅にも封蝋されている書状だったが差出人の名がなかった。いぶかしみながらオスカーが封を切って中を見ると「地母神殿への参詣を許可する」とだけ書かれた羊皮紙が入っていた。

『なんだ、これは…』

オスカーには全く心当たりがなかった。地母神殿に参詣したい旨を奏上した覚えもないし、第一、地母神の神殿のことなど何も…その所在地すら知らなかった。が、書状は確かにオスカー宛てにはなっていた。

これが『神殿に参詣せよ』という有無を言わさぬ命令ならまだオスカーにも理解できたのだが、そういう書き方ではなかったし、刻限の明記もなかった。

『許可する…ということは、行かなければならない…ということではなかろうから…』

オスカー自身は、敢えて女神神殿に行く必要を見出せなかったので、この書状は黙殺してもいいものか…と考えこんでいると

「オースカー!あんた、やるじゃないさー」

と、いう威勢のいい声とともに、オスカーは、いきなり思い切り背中をはたかれた。

「いて!なんのことだ、オリヴィエ」

声からオリヴィエだと察したオスカーは振り向きざまに尋ねた。見れば、チャーリーもすぐ後ろに控えている。

オリヴィエがにやにやしながら、からかうような口調でこう言った。

「オスカー、あんた、女の子たちからのお誘いをムゲに断ったんだって?余裕だねぇ、いや、単にもったいつけてんのかな?」

「うわ、もったいなー、売り手市場や思うて自分の値をあんま吊り上げすぎると、しまいに、そっぽ向かれるでぇ〜」

すかさず、チャーリーが茶化すように割ってはいってきた。

「そんなんじゃない。馬の世話で物理的に時間がとれないだけだ。俺はそれほど要領がよくないんでな」

「ふぅ〜ん、オスカーって、やっぱ、なんかお堅いねぇ。もっと、気楽に考えて、羽目を外す時があってもいいんじゃないの?最近、あんた暇さえあれば資料棟にいずっぱりみたいだしさぁ。勉強熱心もいいけど、わき目も振らず真面目一直線に突っ走ってると、視野の狭いつまんないオトナになっちゃうよん」

「ご忠告痛み入るよ、じゃぁ、もっと視野を広げるべく色々な分野の書籍に目を通さないとな」

「あんたねぇ…」

「すまんな、おまえの言いたいことはわかるつもりだ。だが、俺は、いつまでここにいられるかわからない以上、天界にしかない書物に可能な限り目を通しておきたいんだ、そのための時間はいくらあっても足りないくらいだ」

オリヴィエは、オスカーの言葉の真意を推し量るように暫しオスカーを見つめた後、ふっ…と息をついて大仰に肩をすくめる仕草をした。

「ま、真面目もいいけど、きばり過ぎてぽっきり行かないようにね」

「まぁまぁ、ええやん。俺らにはオスカーが真面目なんは、むしろ、ありがたいことなんやから。オスカーなら、前みたいなこと心配する必要いらんし」

「何のことだ?」

「いや、オスカーが、猫かぶりな訳じゃなく、思いのほかホントに真面目らしいってわかったんで、女の子を私たちの部屋に連れ込んだりしないか心配する必要がなくて、助かったなーってこと。言い寄ってきた女の子をこっそり自室に連れ込む男ってのが偶にいてね、防音布で寝台を覆えば音が漏れないからダイジョウブって思うかもしれないけど、振動とかは伝わってきちゃうから、わりとわかっちゃうものなんだよね、どったんばったんされると」

「……」

オスカーは、最初、オリヴィエの言葉の意味が理解できず、また、何故こんなことをいきなり言い出したのだろうと一瞬考え込んだが、すぐ思い当たって顔をあげた。

「ああ、もしかして、今まで同室者でそういうことをしたヤツがいたのか?それでか?」

「ご明察〜。火の子は、他の眷属の女の子からモテるんでね。私らが黙ってりゃ済むことだけど、この部屋でデートされるのは、やっぱ気が散るし、正直迷惑なんだよねー」

「当人にそう言ったら喧嘩になったけどな」

「だったら、逆に、俺に『もっと羽目を外してもいいんじゃないか』なんて普通勧めないぜ?何、考えてるんだ、おまえは…」

「悪い悪い、オスカーの出方をちょっと試したのは認めるよ。甘言にホイホイ乗ってくるようなら要注意かなって思ってさ」

呆れ顔のオスカーに、オリヴィエは悪びれず人を食った笑みを投げた。

「あのなぁ…」

「いや、私もさ、羽目はずすこと自体が悪いって言うんじゃないんだよ。ただ、共同生活の節度ってものはもっていてほしいだけで。お取り込み中に、こっちが学習室に退散するってのも変な話っていうか筋違いだしさぁ」

「そりゃ、そうだ。そっちが譲ることじゃないものな」

「わかってくれてうれしーよ」

「しかし、オリヴィエ、おまえ、ほんと食えないヤツだな…まぁ、とにかく…そっちの心配はいらない。俺にはそんな懸念は無用だ、恐らく、これからもずっとな…」

「へぇ、えらくきっぱり言い切るね、オスカーは女の子に全然興味ないの?」

「いや…そういうことじゃ…」

オスカーは瞬間、言葉につまり、うつむいた。オリヴィエの言葉に触発されて、ふいに、アンジェリークとの思い出が胸からあふれ出そうになってしまった。好きな女性(ひと)がいるから…その人以外の女性を、そんな目で見たことがない、だから心配無用なんだと、一瞬、オリヴィエに打ち明けそうになって、辞めた。アンジェリーク以外の女性と戯れでも付き合おうなどと考えたこともない…頑なに義理立ているからという意味ではなく…寂しいことだが、今の自分とアンジェリークの間には、何の約束も義理だてるような関係性もないのだから…アンジェリークほど心動かされる女性に会ったことがないという単純な理由からなのだが…それは、別に他人に言う必要はないことだった。オリヴィエは共同生活のルールは守ってほしいと言っているだけだし、アンジェリークの名を出さなかったとしても、そんな心情を口に出すのはどうにも気恥ずかしかった。

しかし、オスカーの煮え切らない態度に、チャーリーが、ははん、という顔をした。

「あ、俺、オスカーの思惑、わーかった。オスカー、勉学に励んでいい成績とって、地母神さまの神殿詣でをする権利をご褒美にもらう気なんやろ?個人的に女の子と付き合うより、プロのガニカーに慰めてもらう方が、色々な意味で面倒ないし、名伎が一杯おるからええ思いできそうやしな。もっとも、そこにたどり着くまでが難儀やのに、オスカーは、実は地味なフリして大物狙いなんちゃう?」

「地母神様の神殿?ガニカー?なんだそれは?」

「え?オスカー、ガニカー知らんで、そない余裕かましてたん?うそやろ?」

「いや、これは、とぼけてるんじゃなくて、マジ知らないって顔だよ。そういやオスカーは、それでなくても街に行かないからねぇ」

「だから、一体何の話だ」

オスカーが不可解な顔をしていると、オリヴィエは真面目な顔で、淡々と述べた。

「ガニカーってのは、地母神プリティビー様の神殿にいる巫女だよ。別名『聖娼』ともいう。光の仙女の中でも知性・教養・容姿に優れ、歌舞音曲に秀でた、全てにおいて選り抜きの美姫ばかりで…ていうか、そうでないとガニカーになれないんだけどね、天界では地母神の娘達と呼ばれ女神に次ぐ高い敬意を払われている。そして彼女たちは巫女だから、神殿で女神の慈悲を具現して授ける…神殿に詣でた男性に「儀式」としての親密な一時の慰めを与えてくれるんだ、その美しく柔らかな肉体を通して、ね。その慈悲の拝領は、身も心も蕩けるほどの至福だって、もっぱらの評判だよ」

「せいしょう…聖娼ということか」

漸くオスカーは得心し、理解した。ガニカーという存在の意味と役割を。

「火の地にはそういう神殿はなかった?」

「なかったな」

「風の地にもなかったから、多分、天界の神殿のみやろ。ガニカーがおるんは。もう、すこぶるつきの光の美女ばっかりで、その手管に掛かれば、どんな男もたちまち、ぐずぐずのとろとろにとろかされてまうって話やで。だから、俺、オスカーはてっきり、そのガニカー狙いで、ここにおる女の子たちとはよう遊ばんのか思った」

「そんなに熱弁を揮うなら、どうしておまえがそのガニカー詣でに行かないんだ?チャーリー」

「ガニカー詣でにか?あかんあかん、行きとうても行けんのや。なにせ女神の与える慈悲の儀式やからな、希望すれば行けるってもんやない。功徳を積まんと神殿に上げてもらえんのや」

「功徳?」

「せや。お慈悲を賜るのは、いわばご褒美やから、天界に貢献をしたとか、外界の衆集ぎょうさん救ったとか、トバシュトリ様みたく色々役に立つもの発明するとか、お褒めに預かるようなええことせんと。俺らみたいな留学生なら、特別ええ成績を収めたとか、そういう時でないと神殿詣での権利はようもらえんのや」

「もちろん、その権利を使うか使わないかは個人の自由なんだけどね」

「全ての男の憧れ、天界のガニカーと粋を極めた遊びができるんやで!招待されて神殿に行かんなんてそんな酔狂なヤツおるかい!」

「……おまえらのおかげで、やっと、わかったぜ」

「何が」

オスカーが1通の典雅な封書を指でつまみ、ひらひらとはためかせた。

「「女神神殿への参詣を許します」とあったこの書状の意味が…」

「!なんやて、オスカー、あんた、まさか、神殿からの招待、もろうたん?」

「ああ、ついさっきな。だが俺は女神神殿への参詣を申請した覚えなんてなかったから、これが何なのか訳がわからず、どうしたものかと思っていた。命令ではないようだし、黙殺するかってな」

「なんちゅーもったいなー!じゃ、これで、使いかたわかったやろ?今度の休みにでも行ってきたらええわ」

「それにしても、オスカーは何の功績を認められたんだろうねぇ」

「わからん、おまえたちも知っての通り俺は馬の世話に明け暮れてるだけの毎日だぜ?さっぱり見当がつかん」

「お馬さんのお世話で神殿にいけるんなら、俺もあやかりたいわー」

「…俺は…どうでもいいんだが…」

「はぁ?何、言うてんのん」

「正直、あまり興味がない、なんだったら、おまえにやってもいいぜ?その書状」

「うひゃー、喉から手が出るほどほしいけど…あかんねん」

「何が?」

「書状に名前入っとるやろ?オスカーが火の眷属ってこともな。だから代理は無理なんや。位相見られたら、俺が火の眷属でないことはすぐわかってまうしな」

「そういうものなのか。しかし、俺も使う予定がないんだが…」

「期限はないんだからそのまま持ってればいいじゃん。気が変わるかもしれないし」

「まぁ、使っても使わなくてもいいなら、大した問題じゃないか」

オスカーは、この時本心からこう言った。

今は、やりたいこと、なすべきことが他にいくらでもあったからだ。

天界神に関する資料探しもあまり進んでいない。

のんきに聖娼の慰めを受けて心身をゆるませている暇はない、というのが、この時のオスカーの率直な気持ちだった。

ほんの、ちらりと、女神の娘達と称される巫女たちなら、もしかしたら、アンジェリークと面差しが似ている女性もいるのだろうか…と考えた時、オスカーの心は一瞬ゆらいだが、すぐに、自分はアンジェリークの形代に会いたいわけではないのだ、たとえ容貌が似てる女性がいたとしても、それはアンジェリーク本人ではないのだから、自分が心から喜べるとは思えない…と思ったとたんに興味がすぅっと引いた。真実の地母神の娘であるウシャスを見知っているオスカーがあくまで尊称として「女神の娘たち」と称される仙女たちの噂に心を動かされなかったのは、ある意味当然のことでもあった。真実の宝石の輝きを知っている者が、いわば本物に似せた模造品…それがどれほどよくできたものであったとしてもだ…に、然程興味をそそられなかったとしても、それは無理もないことだった。

ために、この時のオスカーは、女神神殿の巫女たちが、ウシャスに倣って「女神の娘たち」と称される意味までは、深く考えることをしなかった。

 

オスカーが、マハーラバティの最下層で、火の馬を相手に奮闘し、友情を育み、勉学に勤しみ、女神神殿からの招聘を受ける少し前ことだ、同じマハーラバティの遥か上層、天界の中の天界ともいうべき最上層で蒼穹神ヴァルナはヴァルナの眼と称される太陽神からの報告を通じて諸世界の様相に絶えず目を配り心を砕いていた。秀でた額と通った鼻梁には厳格さが滲み、空の色をそのままに写し取った深い青の瞳には底知れぬ知性の輝きが光る。引き締まった口元は強い意志を伺わせ、そして、光が凝ったようにきらめき、豪奢に波打つ金の髪は、まこと天界神中の天界神とでもいう威風を現していた。彼は天則を疎かにしたり、戒めを破るものには容赦ない罰を、一方で、立派な行いや、目を見張る業績をあげたものには惜しみない褒賞を与える、峻厳にして公平な神であった。

今も天界に来たばかりらしい、ある若者のたゆまぬ実直な努力を労うために、女神神殿への参詣を許す書状をしたためていたところだった。

「ヴァルナ、何用だ」

そこに、天界神としては稀有な、豊かに艶かな漆黒の髪をもつ、ヴァルナ神にも引けをとらない端整な容貌の長身の男神が現れた。

「遅いぞ、ミトラ。用があるから呼んだのだ。早速だがこの書状の効力をこの火の若者に限るよう契約の印を結べ」

ちら…と、いかにも興味なさ気な視線を書状に落とし

「…若いな。天界に来たばかりの小童に、女神神殿の参詣は刺激が強すぎるのではないか?」

といいながらも、契約の神ミトラ神は、口の中で小さく何かの呪を唱えると、ひとさし指でその書状にそっと触れた。一瞬、羊皮紙が紫の焔に包まれたように見えた。

「火の若者は、それでなくとも熱しやすく、頭に血が昇りやすい…」

「…この者は、神馬エータシャのうちの1頭にはみを嵌めたそうだ」

「ほぅ…エータシャに手綱をつけさせた者など…何世紀ぶりだろうな…」

「だから女神神殿の参詣を許可したのだ。それだけの功績だからな」

「ふ…その恩賞が仇となって、この若者が女神の娘達の魅力に絡め取られて溺れたらどうするのだ?何世紀ぶりに輩出した貴重な火神の卵であろう?おまえの温情があたら若い才能を無駄にするやもしれぬぞ」

ミトラ神の口調は、若者の将来を憂慮するというより単に面白がっているだけのようだったので、ヴァルナ神は苦虫を噛み潰したような顔と口調でミトラ神を戒めた。

「これは単なる恩賞にとどまらない、この参詣の許可自体がいわば試金石なのだ。どんなに潜在的な火の力が強くとも、天の娘達の慰めに簡単に溺れるような心弱い者なら即座に火の地に戻し、次の候補者を召し上げねばならんからだ。たかが巫女たちの色香に惑い、己を律せぬようでは到底天界の火神…太陽神は勤まらん。その程度なら、地上で、己の器に見合った火神の名を賜るほうが本人の身のためであるし…何より世界の安寧のためには、そのほうがいいのでな」

「強い精神力と克己心の乏しいものが太陽神になるのは、地上の民や獣たちにとっては災い以外の何物でもないからな…様々な障碍も止むなしか…」

「そうだ、太陽神に求められるのは、何よりも、何事にも揺るがない、動じることのない強靭な精神力なのだからな。太陽神は、百神の中でも、特に強さ…身体的にも精神的にも比類なき強さを求められる。太陽神の心弱りのせいで太陽の馬車がひとたび制御を欠けば、日照り・旱魃・冷害などその弊害は枚挙に暇がない…地上の生き物はたまったものではないのだから」

「しかし…太陽神が心安らかならぬ時が多いのも無理はないと思うが?なにせ、天界一の美姫を常に追っているのだからな。心騒がぬ方がおかしいというものだ」

「ならばこそ。スーリヤは天上一…いや、この世の何者より麗しく汚れなき光の乙女を娶る唯一の神なのだから…男にとってこれ以上の褒賞はあるまい。ならば、その褒美につりあった能力を示してもらわねば、公正・公平に欠くというのものだ」

「果たして…それは褒賞なのか…」

「それは…どういう意味だ?」

「いや…ほんの世迷言だ。天則を司るヴァルナに聞かせるほどのことではない」

「そなたはあまりに暇すぎるから、そのような世迷言が、ふいと口をついてでるのであろうよ」

「仕方あるまい、望んだわけではないが、私は契約の神だからな…何かしらの契約がない限りは仕事がない…それこそ新たな神が誕生し、天則に誓詞を宣誓する時でもない限り無為なものよ…」

「なら、そなたが暇を持て余さぬよう、1人でも多くの若者が新たな神に叙されるよう、私は更に指導を徹底せねばな」

「目的と手段とを履き違えるなよ…」

「何?」

「いや…いい。もう…そなたの用件は済んだようだな」

ミトラ神は返事を待たずに、ふい…と流れるような足取りでヴァルナ神の部屋を出た。

あの火の若者はヴァルナに見込まれたようだが、火神としての誓約の場に私が立ち会う時、あの若者は何神に叙せられていることか…ミトラ神は、ヴァルナ神が考えるように、栄光ある神の1人に叙されることが満願の幸福とはどうも思えない…などということは、思っていたとしてもけして口にはしなかった。

あの若者がヴァルナの見込みどおり太陽神になれるかどうかは…神馬エータシャのうちの1頭に手綱をつけることができたのは、確かに大きな一歩だが、この先に進めるかどうかはまだまだわからないのだし…何せ神馬は全部で7頭いるのだからな、まだまだあの若者の前途は五里霧中だと、ミトラ神は考えた。

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