マハーラヴァティーの最上層には、天界神の中でも特に高貴で強力な神々のみが住まう。夜半過ぎ、蒼穹を司るヴァルナ神は、太陽神からの報告に満足そうな吐息をついた。地上は概ね平和なようだ。
特に、ここ数年、地上は平穏かつ活況を呈していた。たまさか、無聊を持て余した雷神インドラが神酒ソーマに酔って戯れに下界に雷撃を落としたり、暴風雨神ルドラが大嵐を起したりする時もあったが、地上は太陽神と雨神が互いに敬意を払いつつ牽制しあうことで、結果としてそれぞれの力が制御され、概ね気候は安定していた。民は豊かな稔りに感謝し、神々への祭祀も怠りない。たまに神への感謝を忘れ天則を疎かにする不届き者もいないではなかったが、数はそう多くはなかった。
ヴァルナ神は咎人には情け容赦ない懲罰を与える神であり、そこだけを見れば彼は確かに厳格かつ峻烈な神といえた。だが、それは彼があまりに義務に忠実であり、職務を生真面目に遂行しているというだけである。ヴァルナ神の本性は無窮の青空であるがゆえに、本来の彼は、無限ともいえる寛容の精神も同時に持ちあわせていた。そのため、彼自身は、咎人に罰を与えるより、功労あるものに褒賞を与えるほうが、仕事としては、ずっと好ましいと常々感じていた。
そして、咎人の数は少なく、褒賞を与えるべき民の数は多い…と、なれば、いつもは厳しい眼差しも自ずと綻ぶというものだ。天界の下層では前途有望な若者たちがよく精進しているらしい様子が耳に入ってくることもヴァルナ神を上機嫌にさせていた。特に、新たに召し上げた火の若者は、順調に力を伸ばしているらしい。
その若者が何らかの目覚しい成果をあげたら、また、次の褒賞を用意してやらねばなるまい、と、ヴァルナ神は考えていた。しかし、今までに授けた褒賞を彼が利用したという報告、つまり彼が女神神殿を参詣し、ガニカー(聖娼)からの慰撫を受けたという報告はあがってきていなかった。女神の娘達を目にして火の若者がどう振舞うか、彼の身の処し方にもヴァルナは関心を向けていたのだが、若者はどうやら権利を行使する気自体がないようだった。
これは、ヴァルナ神には予想外のことだった。
今まで天界に呼ばれた学徒、特に光以外の眷属は、珍しさも相まって女神神殿へ喜び勇んで参詣するものがほとんどだったからだ。
どうしたものか…とヴァルナは考えざるをえない。
女神神殿への参詣許可には、見目麗しい巫女からの慰撫に溺れて、鍛錬や勉学を疎かにせぬか、自律心の堅牢さを測るという意味合いも確かに含まれているのだが、それでも半分は純粋に褒賞である。そして、ヴァルナは刻苦勉励する若者には惜しみない褒賞を与えてやりたいと本心から思ってもいる。しかし権利は使われずば褒賞にならぬので、何か別のものを考えるべきやもしれぬ。そして、彼の者の自律・克己の心は、別の観点から計るべきやもしれぬな…と、ヴァルナ神は考えた。
が、そのことに関しては、今すぐ妙案・代案も出なかった。格別に急を要する懸案というわけでもないので、まぁ、おいおい考えればよかろうと、ヴァルナはそろそろ就寝しようと思った。高位神といえど休養は要する。明日は雨神パルジャニヤが天空を覆うことになっているので、太陽神もその身を休める。而して、地上の視察報告もあがってこないので、ヴァルナ神も明日の執務はそう立て込まない筈だった。急ぎでない懸案は、そういう時に考えればよい。
その時、ふと、常ならぬ光を視界の端に感じて、ヴァルナは顔を上げた。
見上げれば、己の身の丈のおよそ2倍はゆうにある天井までの空間の、その中程くらいに無数の光の粒子が凝りだしていた。
透き通るように清浄な光の粒が集まった中心部は目も眩まんばかりの白金に輝いており、光球周辺の部位は若干赤金の色味が強い。
ヴァルナには、この光の本性がすぐにわかった。
直にまみえるのは何年ぶりだろう…我知らず立ち上がり、瞬きも惜しんで目を凝らす。光の粒が、たおやかな女性の輪郭を描き出すと自ずと胸が高鳴った。
瞬間、ヴァルナの瞳を持ってしても直視できないほどの眩い紅の光が部屋中に満ちた。その光輝が薄れ、視界が戻ると、部屋の中央に一人の少女が静かに立っていた。ほっそりとしなやかな肢体になよやかな白金色の薄物を霞のようにまとっている。透明感のある乳白色の肌を金のふんわりとした巻き毛と明け方の淡い空を思わせる翠緑の瞳が彩るその少女のたたずまいは、風にそよぐ一輪の花のように可憐で愛らしかった。その華奢な全身からは、ほんのりと香立つように紅の光輝が揺らいでいる。清らかで暖かく柔らかな輝きだ。
「ウシャスか…久方ぶりだな…そなたがここに参るのは何年ぶりか…」
ヴァルナが、半ば嘆息を交えつつ、目の前の少女に声をかけた。その紺碧の瞳は、吸い寄せられたように少女から離れようとしない。
ウシャスと呼ばれた少女は優雅に足を引いて腰をかがめ、ヴァルナに恭しい礼を尽くした。
「ヴァルナさまにはご機嫌うるわしゅう存じ上げます。同じ天空に居りながら、長らくご無沙汰いたし誠に申し訳ございません」
「よい、そなたが息災ならばよいのだ。さ、顔をあげ、そなたはつつがないか、私によく見せてくれ」
「謹んで…」
ウシャスは恭しく頭をあげると、小首を傾げるような仕草で、ほんのりとヴァルナに微笑みかけた。
ヴァルナ神は、ウシャスのたおやかに愛らしい様子を目にして素直に相好を崩した。ウシャスを前にすると誰もがそうだ、自ずと笑みがうかび厳しい顔など取り繕っていられなくなる。夜闇を打ち払う鮮やかな紅の曙光には誰もが目を奪われる。この世で最も芳しく、清しく、可憐な花を目にすれば、自ずと気持ちは和み、口元には笑みが浮かぶ。天界一の美神と謳われるウシャスの美しさとはそういうものだった。いつもは厳しく顰められているヴァルナの眉も今はきれいに開き、常にない暖かな光が眼差しに宿っていた。
しかもウシャスの姿を直に目にできる機会は、天界の最高神であっても決してそう多くはない。ウシャスはヴァルナに無沙汰を詫びたが、彼女の本性が暁光であることを鑑みれば、それはいたしかたないことであった。
「ウシャスよ、元気そうでなによりだ。もっとも、そなたが息災であることは、夜明けの様子からわかってはいたが…。ことに、ここ数年来の暁紅の光は、数え切れぬほどの夜明けを迎えている私ですら、息を飲むほどあでやかに美しい。空を覆う紅の色に、こう…なんともいえぬ、深みと艶がある。そなたが、いかに、この世の生きとし生ける者たちを愛しく思い、麗しい目覚めをもたらそうと心を注いでいるかが手にとるようにわかる」
「もったいのうございます、ヴァルナさま」
「さて…そなたとまみえるのは、私には純粋に心弾むことであるので、特に用向きはなくとも、もっと、ちょくちょく顔を見せにくるといい…と言いたいところであるが、そなたの事情を考えれば、そうそう我侭もいえぬ。なにせ、そなたの本性は暁紅の光。この世界で最も汚れなく美しく…だからこそ儚い。ここマハーラヴァティーの、しかも、深夜であっても人の形を取るのは、そう容易いことではないだろう」
「…お心遣い痛み入ります、ヴァルナさまのおっしゃる通り、そう長い時間、私は、この形を保ってはいられません」
「なのに、そなたは、わざわざ私の部屋に具現した…ということは、何か、私に特別な用向きがあってのことであろう?遠慮はいらぬ、何なりと申してみよ」
「恐れ入ります、ヴァルナさま…ヴァルナさまにおかれましては、この世界の全てをお見通しになり、生命ある物全てに正しい道を示すため、褒め称えるべきもの褒め、いさめる者をいさめると…存じあげております」
「ああ、それも、そなたの伴侶たる太陽神あってこそだ。あれの目がこの世界のあらゆる物事を見渡してくれるからこそ、私もここ天界にいながら己の務めを果たせる。あれは、まこと、忠実に職務に励んでくれている。そなたの存在がよほど励みになっているのであろう」
「…っ…いえ、それは、偉大なヴァルナさまのお役に立てることこそが太陽神の誉れであり喜びであるからと存じます」
一瞬、ウシャスは顔を伏せかけたが、気を取り直したように言葉を続けた。
「そして、ヴァルナさまは、次代の神として有望な若者たちの指導も一手に担ってらっしゃると伺っております」
「ああ、それもまたわが責務であるからな…」
「では…誠にぶしつけとは存じますが、一つお尋ねしたいことがございます。ここ暫くの間に、殊更に力の強い火の若者が天界に召し上げられなかったでしょうか?」
「火の若者だと?」
「はい…一介の学徒の消息までは、この世界の全てを掌握されておられるヴァルナさまがお気を留めるようなことではないと存じあげてはおりますが…もし、火の若者で、特に火の気の強い者の気配や消息などお耳に入ったことはございませんでしょうか、と思いまして…」
「…そなた…何故、火の眷属のことをそのように気にかける…?」
「…それは…」
ウシャスは一呼吸おいてから静かにこう答えた。
「天界の下層あたりで、強い火の気配を感じたような気がしたのでございます」
「ほぅ…」
「ご存知の通り、私は天の女神ではございますが、同時に火の気も有しております。しかも、天に召された火の眷属となれば、いつの日か…火の力がこのまま強く大きく育っていけば…その方と私とは深い縁(えにし)で結ばれぬとも限りません。なので…」
「己の縁(ゆかり)になるやもしれぬ者のこととなれば、気にかかるのも道理か…それにしても、太陽神の雛…いや、いまだ孵りもせぬ卵の気をもう感じたとは…ウシャス、そなたには驚かされたぞ…」
ヴァルナの嘆息に、ウシャスは一瞬、ヴァルナ神を食い入るようにみつめ、何故か、熱心にヴァルナ神に念をおした。
「では…やはり…火の…強い火の気をもつ若者が今、天界にいるのですね?」
「ああ…太陽神に叙されるかどうかは、まだまだ、わからぬ…力の程もはっきりはせぬが、確かに、少々見込みがあると思える若者がいる。それにしても、まだ海のものとも山のものともつかぬ…火神としては、雛どころか、まだ卵、その卵も無事孵るかどうかもわからぬ若者の気配を気取るとは…ウシャス、生き物に目覚めをもたらすそなたには、新たな才の目覚めの気配までも感じとれるのか…それとも、これも、そなたと太陽神の深き因縁のゆえか…太陽神は、ウシャスと最も深い関係のある男神…夫婦の契りを結ぶのだからな…さすれば、そなたなら、かすかであっても太陽神に近しい火の気を感じとったとしても不思議ではない、そして、そんな気を感じれば、興味を抱くのも無理からぬことやもしれぬが…」
ウシャスは祈るように手を胸の前で合わせ、縋るようにヴァルナを見ていた。ヴァルナの言葉の続きを、つまり、火の若者の詳細な様子を示す言葉を待っているかのようだった。
そのウシャスの様子を、ヴァルナ神は、少しいぶかしく感じた。天地開闢の昔から多くの太陽神がその地位についてきたが、そして、どの太陽神のことも、ウシャスは己の配偶者として従容と受け入れ、その腕に抱きしめられてきた。が、新たな太陽神が誕生する前からその気配を感じとったことなどこれまでにあっただろうか?と、ヴァルナ神は、ふと、疑問を覚えた。が、すぐに、いや、それだけ、彼の者の火の気が強いのかもしれない、ウシャスにしかわからない、太陽神独特の気というようなものがあるのかもしれない…と、思い直した。
と、ウシャスが妙に緊張を滲ませ、ヴァルナに重ねて念を押すように、こう問うた。
「それでは…火の地から召し上げられた若者は、いまも…天界で鍛錬に励んでいるのですね……太陽神を目指して…」
「本人にその自覚があるかどうかまではわからぬがな。だが、課せられた課業には不満ももらさず、疑問も呈さず黙々とこなしているようだ。訓練の進捗状況がたまに、私にまであがってくるので、そこまではわかっている…」
「さようでございますか…」
「課業の意味を考え理解しようとせず、不平不満を漏らすような若者なら即刻火の地に返すところだが、そのような短慮は今のところ、認められない。故に、第一段階では合格だ。しかし、彼の者は単に「命令されたことを何も考えずに行っているだけ」という可能性もある、黙って指示に従っていれば高い評価を得られると思っているだけなら、将来、自ずと壁にぶつかろう。私としては、そうでないことを望みたいところだが…今暫くは様子を見ることになろうな」
「では…その若者は、まだ暫くは、天界で勉学にはげむだろうと…そう、考えてもよろしいですか…?」
「ああ、とりあえず、火の力も順調に成長しているようなのでな。神馬エータシャへの訓練も、着々と進んでいるようではあるので、今のところ、火の地に返すべき要素は見当たらない」
ヴァルナには、ウシャスが何故か、大きく嘆息したように見て取れた。
「ただ…気になるのは、地母神さまの神殿に参詣しようとせぬことなのだ」
「母上さまの神殿に殿上しない…のですか?」
「ああ、実直な努力と着実な成果の褒賞として参詣の許可を与えてあるのだが…だが…どうやら火の若者は神殿の使い方がわかっていないらしい。参詣の権利を使おうとしない。火の地から来て、そう時間が経っていないので、女神神殿の意味もわからず、地母神さまの娘たちと称される仙女たちの優美さも、知らぬのであろうが…」
「…」
ヴァルナは、ウシャスの顔が一瞬、心配げに曇って見え、慌てた。
「どうした?ウシャスよ…何故、そんな顔をする?そなたにとっては名目上の妹たち…実際には、どんなに美しい仙女であっても、そなたの清らな美しさには今一歩どころか2歩も3歩も及ばぬが…それでも、妹たちへの参詣の価値もわからぬ無粋な若者の振る舞いが無礼だと…気分を害したか?」
「っ!…いいえ、そんな、滅相もございません…ただ、何故、その方が女神神殿に参詣しないのかと…その理由を案じていただけにございます」
「そうか?なら良いのだが…とにかく、どんな権利であろうとも使われぬのでは褒賞にならんので、次になにか功労があった時は、何か別の褒賞を考えねばならんと考えているところだ」
「何か…別の褒賞…」
「ああ、神馬エータシャの調教が更に進むか、火の力の多大な成長があった時には、何かしらの褒美をやって努力を労い、更なる向上の意欲を掻き立ててもらいたいのでな」
「………」
ウシャスは何か考え込むように暫し黙り込んでしまった。胸元で合わされた手が、白くすんなりした喉元に幾重にも巻かれた金鎖に触れると、しゃらしゃらと硬質な澄んだ音が小さく響いた。
するとウシャスは、はっとしたように顔をあげた。ほんの一瞬だけ思案気な顔をした後、やにわに己の左の耳朶に揺れている金の耳飾を外して手にとると、ヴァルナ神に差し出した。
「差し出がましいことですが…よろしければこれを…」
「そなたの耳飾を?どうするというのだ?」
ヴァルナはウシャスの行動の意味がわからなかった。
「この耳飾を、火の若者の次なる褒賞に…お使いいただけないでしょうか」
「!…なんと…なんということを言いだすのだ、そなたは!」
ヴァルナ神の勘気に、ウシャスが、叱られた子供のように頼りない表情となる。
「ああ…申し訳ありません、黄金とはいえ、このような拙い物では、褒賞には不足…」
「何を言う!その逆であろうが!これは、光の気が凝ってできた何よりも浄らかな黄金、ましてや天界一美しい高貴の女神の身を飾った宝飾品を褒美にだと?いくら、かの者が前途ある若者とはいっても、今は単なる一介の学徒、どれ程の神に叙されるか、これからの修養次第では単なる火仙で終わる可能性すらある若者に、そなたの身に触れた装飾品を授けるなど…あまりに分に過ぎるというもの。そのように高貴なものを授けては、その若者がどれ程増長するか知れたものではないぞ」
「オス………いえ…その火の若者に限って、そのような心配はないかと存じます…」
「何故、そんなことがわかる」
「っ…それは…でも…」
「…ウシャスがそうしたいと望んでいるのだ、叶えてやったらどうだ…」
ふいに、しっとりと落ち着いた艶のある低い声音がウシャスの耳に響いた。
眼前のヴァルナ神がすかさず眉を顰め、苦々しい口調で、その名を呼んだ。
「ミトラか…」
「ミトラさま?」
ウシャスは振り向きざま、黒髪長身の端麗な美貌の男神が静かに佇んでいる様を認めた。ウシャスと目が合うと、男神は端整な瞳を柔らかく細めた。
「やはり、そなたであったか、ウシャス。こちらから透き通るように美しくこの上なく清らかな紅の光輝を感じたので、もしやそなたの気かと思い来てみれば……久しいな…本当に…久しい…ウシャスよ」
「ミトラ様、お久しゅう存じます、ご無沙汰致しました上に、今も、お騒がせしてしまったようでしたら、誠に申し訳ありません」
ウシャスは恐縮した様子で深々と礼をした。ご機嫌伺いの言葉を発しなかったのは、自分とヴァルナ神のやり取りが、この静謐を好むミトラ神の神経に些か触ったのではないかと案じたためだった。
「麗しい暁の光を煩がるものなど、この天界にはおるまいよ。一目なりとも仰ぎ見たいと切望する者はいくらでもいようがな。私も…その1人だ。そなたの気配に、胸高鳴らせ、私が勝手にここまで足を運んだだけだ」
ミトラ神はえもいわれぬ優しげな笑みを口元に浮かべて、安心させるようにウシャスをみつめた。普段は高雅に過ぎて近寄りがたい容貌が、この笑み一つで、この上なく優しげな親しみ深いものになる。
が、ミトラ神が、ちらりと横目でヴァルナ神に視線を投げ、
「騒いでいるのは、そこのヴァルナ一人のようであるしな」
と、言った時には、その笑みを幾分皮肉気な悪戯っぽいものに変わっていた。
「なっ…」
気色ばむヴァルナ神の様子には無頓着な風に、ミトラは淡々と言葉を続けた。
「今、私が耳に挟んだ限りでは、然様に騒ぎ立てることでもないと思えるが。ヴァルナよ。ウシャスが褒美に授けたいものがあると言うのなら、叶えてやるがよかろう」
「ミトラさま…」
「しかし、どんなに優秀であろうと、ただの学徒には、あまりに分に過ぎた褒美だ。それはそなたも認めるであろう?ミトラよ。かの者が増長しなかったとしてもだ。単なる装飾品ならともかく、ウシャスに所縁の物を授けるなど、あまりに恐れ多いというもの。他の者たちへ授ける褒賞との兼ね合いもある」
ウシャスは、一点の曇りなき無垢な精神と限りない慈愛の持ち主であるがゆえ、単に、努力を怠らない若者に惜しみなく褒賞を授けたいだけなのだろうことは、ヴァルナにもわかる。それが、自身と深い所縁を結ぶかもしれない者ともなれば、尚のこと、励ましたいと思うのやもしれぬ。しかし、天界でも最高位の女神であるウシャスに所縁の品などといったら、どれほどもったいなくありがたいものか、言葉に尽くせるものではない。一介の学徒はおろか、かなりの高位の神々でさえ、ウシャスの身の回りのものなら、何でもいいから賜りたいと切望する者もいよう、それほど女神として敬愛され崇められていることをウシャス自身はあまりよくわかっていないようだ。その上、彼女の無限とも言える優しさを考えれば、天界で刻苦勉励している若者全てに己の身の回りのものを無制限に与えかねないのではないかということもヴァルナは心配になってしまうのだ。だから、ヴァルナにしてみれば、悪者になっても自分が歯止めにならねば…と考えてしまう。
と、ミトラ神が、ウシャスを庇うようにずいと前にでた。
「そら、そなたがきつい物言いをするから、艶やかな暁紅の光に影が差してしまったぞ。この世で最も清らかに麗しい紅の光を曇らせてまで、張らねばならぬ我などあるのか?ヴァルナよ」
ぐっ…とヴァルナ神が詰った。彼とて、ウシャスの雲り顔など見たくないし、ましてや、自分が彼女に憂い顔を強いたなど、それこそ、考えたくもないことだった。
「それでなくとも、ウシャスは中々実体化する機会がないのだ。このように太陽神が休息する前夜くらいしかな…その貴重な夜にわざわざここを訪うてくれたというのに、そのようにすげなくウシャスをあしらったら、これは2度とここに遊びに来てくれなくなるやもしれんぞ」
「いえ、私は、そんな、ミトラ様…私が、わがままを申したのですもの、ヴァルナ様は何も…」
するとミトラは悪戯そうな笑みを浮かべて、立てた人差し指を己の唇にあてた。黙っていろという意味だということはウシャスにもわかった。
「何が言いたい…」
苛立たしげにヴァルナが問う。
「だから、さっきから言っている、大それた望みでもないのだから、ウシャスの気のすむようにさせてやればよかろう。ウシャスの持ち物がその若者の身に過ぎるというのなら、贈り主の名を明かさねばいいだけのこと。その耳飾をウシャスのものとはわからぬように、授ければいいではないか。だが…ああ、ウシャスよ、そなたは、ウシャスの名できちんと褒美を授けられねば嫌か?」
「いいえ、いいえ、私は、ただ、渡すことができれば…」
オスカーならわかってくれるかもしれない、これが私の耳飾だったことを。いえ、きっとわかってくれる…根拠など何もなかったが、ウシャス=アンジェリークには、何故か、そう信じられた。
「なら、問題はあるまい」
「しかし…逆にウシャスのものと知らせねば、火の若者はこれの価値がわからず、粗略に扱うやもしれぬぞ。私にはそんなことは到底見過ごせぬ。ウシャスの持ち物が粗末に扱われるなど我慢ならぬ」
「ふむ…ウシャスよ、ヴァルナはあのように言っているが、そなたは、どうだ?自分の持ち物が粗略に扱われるのは、良い心持はせぬであろう?確かに、その恐れがないとはいえぬ、それでもよいのか?」
「いえ…恐らく…その方は、これを大切にしてくださると思うのです…ですから…」
「そんな保証がどこにある?」
「私は…大丈夫だと思うのです、でも、私の見込み違いの時は…仕方ないと存じます」
ミトラはウシャスの表情をちらりと伺った。その花のような顔(かんばせ)には、不安や懸念は微塵も感じられなかった。
「ウシャスは…自信があるようだな」
「え?あ、はい…いえ、自信というのとは少々異なります…確信もありませんが、きっと、大事にしてくれるのではないかと…ただ、そう、思える…信じられるのです…」
「女神神殿からの招聘を無視し続けているような、ものの価値のわからぬ若者なのにか」
「その若者にとっては、聖娼のもてなしが、それほど価値のあるものと思えなかっただけかもしれんぞ。むしろ、これを贈れば、本当の目利きか、そうでないのか、よくわかるのではないか?贈り主の名前はなくともこれの価値…ウシャスの光輝の気配をなんとなくでも感じ取れるなら、その若者には多少なりとも高位神の見込みあり、しかし、微塵も高貴の気配を感じ取れぬほど感覚が鈍いのであれば、むしろ、その程度の者だと早くにわかって良かったと思えばよいと…私なら考えるがな」
「!」
ヴァルナ神は、あの火の若者の人となりをどうやって測ればよいのか、という懸案の答えを、図らずもミトラ神からもらったような気がした。火の若者がウシャスの持ち物の価値を感じ取れるようなら…確かに洞察力と神力への感受性を推し量れるやもしれぬ、尤も、自律心を測ることは難いが…と考えた。
しかし、ヴァルナにはもう1つの懸念があった。
「うぅむ…しかしな…一度、このような前例を作れば、きりがなくなってしまうのではないかということも、私は懸念しているのだ。ウシャスは優しい、となれば、精進している学徒を見つけるたびに、身の回りのものをすべて分け与えてしまいかねん」
「ああ、それは…これの限りない優しさを考えれば、尤もな懸念だな。では、ウシャスよ…そなたの優しい気持ちはわかるが、そなたの持ち物を学究の徒に賜るのは此度一度きりということにせぬか。それなら、これも、もう反対する理由もなくなり、そなたの望みも通すことができよう」
「あ、はい。この一度だけで…十分にございます。ヴァルナさま、ミトラさま、私のわがままに色々とお心を砕いてくださってお礼の言葉もございません」
「礼には及ばぬ。美・優・雅の極みたる暁紅の光を艶やかに輝かすことこそ天界の意志、我らの喜び。さて、ヴァルナ、これで何も問題はなかろう?次に、件(くだん)の火の若者が何らかの成果をあげた暁には、そのウシャスの耳飾を手元に届けてやるがよかろう」
「それは…契約神ミトラとしての言葉か?」
「そなたが、そう望むのであれば、きちんと契約にしてやってもよい。この耳飾を暁紅の女神ウシャスから火の若者…名はなんと言ったか…その者に賜る、とな」
「待て………確か…ああ、これだ…オスカーという」
この時、ウシャスが瞳を閉じ、オスカーという言葉を舌の上で転がすように口の中で呟いていたことを、二人の男神は知らずにいた。
「では、この耳飾に契約の印を結ぶか?」
ミトラ神が白く形のいい手を掲げ、小声で契約を結ぶ呪の言葉を唱えようとした時だ。ウシャスが控えめに異を唱えた。
「あ、おまちください、ミトラさま、ヴァルナさま。できれば、印は結ばず…この耳飾は、そのままの形で届けていただくわけには参りませんでしょうか…」
「なぜだ?ウシャスよ、きちんと契約の呪を施しておけば、その耳飾が、他の者の手に渡る心配はなくなるのだぞ?」
「…確かにそうですが…でも…私は、できることなら、契約の印やまじないがなくとも、その方が、私の耳飾を大切にしてくれはすまいか…と…祈り、信じたいのです」
「…何の呪もかけねば、その若者はこの耳飾の価値をわからず手放してしまうやもしれぬぞ?」
「…その時は、その方との所縁が、それまでのものだった…ということかもしれません。私が感じた…私には近しく思えた火の気配も…私の勘違いであったのかもしれません…」
「ウシャスよ…潔いことだが…そなたは…それでよいのか?」
ミトラ神が案ずるようにつぶやいた。
ウシャスは、何故か寂しそうに微笑むと小さく頷いた。肯定とも否定ともつかぬ曖昧な仕草に見え、ミトラは、ふ…む、と考え込んだ。
「確かに…私がこの耳飾に契約の呪を施したことにその若者が気づけば…嫌でも手元におかざるを得ないことにも気づこう、それでは、その若者が、真実、高貴な神力の気配を感じ取る感受性があるかどうか、判断が難しくなるな…」
「私としては…無理にでも、ウシャスの身を飾った物はしかるべき取り扱いをさせたい処だが…ウシャスがそうしたいというのなら…仕方あるまい」
ヴァルナ神が言葉どおり、いかにも『仕方ない』という表情と口調で最後には譲歩した。ヴァルナ神とて、自分の言い分は、あくまで個人の私的な感傷に基づくものでしかなく、ウシャスのものはウシャスが好きなようにする権利があるのは当然のことと、わかっていた。
ウシャスは、あからさまに安堵した表情で、心の底から嬉しそうな…咲き初めた花のように可憐で、照り初めし曙光のような初々しく晴れやかな笑顔を見せた。
「ありがとうございます、ヴァルナさま、ミトラさま、私のわがままを何もかも聞いてくださって…あまりお目見えもできずにいる私ですのに、いつもいつも、やさしくしてくださって…本当にありがとうございます」
男神二人は揃って、かつ、競いあうように、この上なく優しい笑みをウシャスに向けた。
「恐縮するには及ばぬ。そなたの願いは、ささやかすぎる程ささやかなものではないか…天界一の美姫の願いにしてはな…もっとも、天界中の男神はそなたの願いなら、どんなにささやかなものであっても、こぞって叶えたいと思うだろうが…」
「ふ…ウシャスの願いを聞き届けることを渋っていたわりには、そなたも良いことをいう」
「ミトラ!」
「冗談だ。そなたは、私とはまた異なるやり方でウシャスを案じ大事に思っているのは、よくわかっている」
「…当然のことではないか」
揶揄されたのかと思い激昂しかけた処で、思いがけない理解を示され、ヴァルナ神は一瞬狼狽したように頬を染めて口ごもってしまった。ヴァルナ神に無防備な顔をさせることにかけては、ミトラ神に並ぶ者はいない。
決まり悪さを隠すようにヴァルナ神はいささかぶっきらぼうにウシャスに
「では、そなたの耳飾を預かろう」
といった。
ウシャスは夜明けの曙光を象った金の耳飾りを恭しく捧げ持つようにヴァルナ神に差し出し、ヴァルナ神は静かにそれを受け取った。
「では、ヴァルナさま、ミトラさま…私の耳飾を…ヴァルナ様が適宜とお考えになった折に…どうか、火の若者にお託(ことづけ)ください…お願いいたします…」
まろやかに愛らしいウシャスの声が、不意に、遠くからの響いてくるように聞こえ、2人の高位神は同時にあわててウシャスを食い入るように見つめなおした。ウシャスの輪郭が、ぼんやりと朧にかすんでいる。見ているそばから、ウシャスのたおやかな曲線から無数の光の粒子が中空へと溶け出すように飛散していく。少しづつウシャスの体の描線が滲んで彼女は真珠のような光を放つ光球へと姿を変えていく。
「もう…行ってしまうのか、ウシャスよ…」
「恐れいります、ミトラさま…願いを聞き届けていただき、安心してしまったせいか、人の形でいるための気を…保つことが、大層…難しく…なって…参りました…」
「ウシャスよ、安心するがいい、そなたの願いは私がかなえる…誰からのものであるかは何も告げず、何も示さず…その時が来たら、この耳飾を彼の火の若者の許に間違いなく届けよう」
「ああ、だから…これからも、いつでも、何でも遠慮なく話に来るがいい、用向きなどなくとも…次は私の部屋にも遊びに来るがいい」
「はい、ありが…とう…ございます…では…ご機嫌よろしゅう…ヴァルナさま…ミトラさ…」
遠くからこだまするように柔らかな声が響き、次の瞬間、真珠色の光球は、ふぅっと中空に飛び散るようにその色を喪くして消えていた。
二人の男神は暁紅の女神が姿を消したその空間を、暫くの間、無言で凝視していた。
先に口を開いたのは漆黒の美しい髪を持つ契約の神ミトラだった。
「…ヴァルナよ、そなたがウシャスの願いをすぐに聞き入れなくてむしろ幸いであった。どうやら、そなたの頑固のおかげで、いつになく長く、ウシャスの顔を見、言葉を交わすことができたらしいからな…」
「…ああ、私に感謝してもらいたいものだな、ミトラよ」
「今ばかりは、素直にそれに頷こう。では…そろそろ私も失礼する」
ミトラ神は暗紫色のローブを翻し、音もなく立ち去った。
一人残されたヴァルナ神は眩く光る金の耳飾を静かに見つめていた。
馬具の装着に躓いた翌朝、朝食を終えたオスカーは厩に向かった。
自分の食事前に、馬には、もう、飼葉と水はやってあった。その時は、馬は勢いよく…という食いぶりではなかった。昨日自由放牧させなかったから、運動不足であまり腹が空いてなかったのかもしれない。
もし、今日もハモ(馬車用の首輪)とハーネスの装着に手間取るようなら、その1つ前からやり直して、馬との信頼関係を再構築するしかない…オスカーは淡々と考えた。馬体の健康を保つためにも、長手綱で誘導しつつ馬場を走らせるところから、やり直しだ。馬房は馬がある程度動き回れるほどに広いが…そのため馬房を清潔に保つための清掃は、より大変だったが…引き馬で運動させてやる方が、馬房に押し込められっぱなしよりは、馬にとっても心地よかろうし、そうすれば、馬の気持ちも落ち着こう。
昨日に比すれば、オスカーの気持ちも静かに落ち着いていた。もちろん、意気盛んではないが、気が重く沈んでいるわけでもなく、精神はきちんと平衡を保っていた。ハモの装着には、まだまだ時間がかかるだろうことも、馬の信頼を損なってしまったかもしれないという懸念もあったが、階梯は一段一段昇っていくしかないことは身にしみていた。
昨日の失策は己の焦りに起因していると、オスカーは自覚していた。
火の馬を調教する意義を掴んだ、それは、つまり、目指すゴールが目に見えたということだ。しかし、ゴールが視界に入ったとしても、それが、容易にたどり着ける距離とは限らない…平原から山のふもとが見えても、そこにたどり着くのに何日もかかったりするのと一緒だ…なのに、俺はゴールが見えたことで焦って、一足飛びにゴールまでたどり着こうとして、気ばかり逸って足は空回り…焦れば即座にたどり着けるという距離ではないのに、そこまで考えが及ばず闇雲にあがいて、結果、失速し、そして、落ち込んだ。
気持ちばかりが急いても仕方ない、即日たどり着けなかったからといって、落ち込む必要もない…というより、そんなことで落ち込んでも何の意味もない、益体もないと、自分に納得させることができた。友と交わした会話のおかげだと素直に思えた。すると、自然に気持ちも落ち着いた。
いわば、自分は、本来、何段にも分けて上がらねばならない階段を一気に飛び越えようとして無様に転げ落ちたと言う処だな…オスカーは昨日の失態を冷静に、こう分析していた。それがわかったから、無意味な落ち込みと自棄から解放されることができた。5段抜かしで階段を上れず落ちたからといって、落ち込んだりやけになったりする必要はない。単に一段ずつ着実に上がっていけばいいだけではないかと、目が開いた。
「よう、気分はどうだ」
馬房の馬に声をかけると、馬はくりくりとした目で静かにオスカーを見返した。オスカーは自然と手を伸ばして、その鼻面を撫でてやる。馬は嫌がらなかった。
オスカーは、嬉しくなった。馬の信頼を完全に失ったわけではなさそうだとわかった。これなら、はみと手綱はおとなしくつけさせてくれるだろう。そうすれば馬場で走らせてやれる。
いつものようにはみを見せ、馬を安心させてから、口にかませ、頭絡という革紐で頭に固定した。思った通り、すんなりいった。昨日は、この決まりきった作業にすらてこずった。が、考えてみれば、はみをかませ、手綱をつけさせてくれるだけでも、馬の大幅な譲歩あってのことだと、昨日、苦労したからこそ、オスカーは改めて思い至る。
はみには手綱がついており、人が手綱を引いたり、緩めたりの所作がはみを通じて馬の敏感な口角に伝わる。基本的に、その触感は馬には不愉快なものだ。馬は、はみを引かれると口元が不快だから、それを緩めてほしい。そして、指示に従えば不快感から解放されることを知って、手綱の緩急が何を意味するのか理解していき、それに従うようになる。一度馬が合図を覚えてくれれば、苦痛を与えるほどはみを強く引く必要はなくなるが、それでも、馬の調教は、基本的に、馬に不快を強いて、指示に従えば不快感は緩和され快適になるが、指示に従わないと不快感は消滅しないと教え込むことで成立する。はみと手綱だけでも、それをつけて馬にうれしいことはなにもない。それは馬の都合ではなく、乗り手や操り手にとって都合のいいものだということを、オスカーは今までの調教で学んできていた。
その上、昨日は、更に重い首輪(ハモ)と窮屈なハーネスをつけさせようとしたのだ。
「おまえにとっては、訳のわからん窮屈で重いものを、更に身体につけられるわけだ、不安に決まってるのにな、俺は自分の都合で焦るばかりで、おまえを安心させてやるどころか、むしろ、不安を煽ってしまったな」
昨日、馬が落ち着かなかったのは、やはり、自分の精神状態を反映してのことだったのだろう。
「元々おまえにとっては嬉しくもなんともないことだものな、俺の都合に合わせられてるだけで…」
ぽんぽんと、馬の首筋を叩いてやると、馬がオスカーの手を軽く食み、手の甲を舐めた。馬と目があった。
オスカーは、不思議なことに、この時初めて、馬を、命と感情のある1つの存在としてしっかり認識したような気がした。
もちろん、今までも馬を粗略に扱ったり、惨く接したりすることは決してなかった。手入れは怠りなく行っていたし、いつも毛艶やひづめの様子にも気を配っていた。また、オスカーは馬にはなるべく苦痛を与えたくないと思っていたから、手綱とはみを引く力は可能な限り合図程度に留めたいと心がけて長手綱による調教も施していた。
しかし…今、思うと、俺は、馬のことを、生き物というより、道具のようにみなしてはいなかったか…。
自分の火の力と意思で思い通りに操る道具のように…しかも、俺は、馬の調教を通じて、自分の火力を鍛えられることを知っていたし、それを第一義に考えてもいた。いわば、馬を自分の鍛錬の道具として利用し、扱い、それ以上にも以下にも思っていなかった。しかも、昨日は、俺が太陽神に叙されるための足がかりとして、こいつには、どうあっても馬車馬になってもらわねば困ると…自分の都合だけで、こいつを意のままにしようとした。
はみを嵌められ、無体に手綱を引かれれば口元は苦しかろう。重い馬具をつけられ、身体を革紐で締め付けられるだけでも窮屈なのに、今後は、もっと重い梶棒がハモに通され、馬車をつながれることになる、この馬の労苦を、俺は、考えてやったことがあっただろうか。
馬をただの家畜と思うのなら…そんな余計なことは考えない方がいいのかもしれない。
だが、俺が、太陽神を目指す限り、こいつが俺の相棒になるという可能性だって、まだ、残っている。
そして、もしかしたら、長い長い時を共に過ごし、共にアンジェリークを追うことになるかもしれない相棒を、ただの道具としてみなしていいものだろうか。
書物によれば日輪を運ぶための馬車は、とてつもなく巨大なものらしい。それを御するのは七頭の神馬だ…つまり太陽神1人では、どんなに火の力が強かろうと天空の道に日輪の馬車を走らせることなどできないのだ。確かに太陽神が神馬を御すること能わずば、日輪を運ぶこともできないが、馬車が走るのは馬あってのことでもある。ならば、尚の事、太陽神は神馬から誠の信頼と敬意を勝ちえねばなるまい、そして太陽神は神馬たちに愛情といたわりの心をもって接せねば、どうして馬たちは、日輪を運ぶなどというに大変な勤めに励んでくれようか。
「エータシャ…おまえは神馬エータシャのうちの1頭なのだろう?」
オスカーが書物で見た名前を口にすると、ぶるる…と馬が肯定するかのように鼻をならした。
エータシャとは太陽の馬車を引く馬7頭まとめての呼称だ。馬群としての名前ならある…と厩務員が言っていた意味は、そういうことなのだろうと、太陽神の御する馬車についてある程度調べ上げたオスカーは推測していた。
「なぁ、おまえは火の馬だ、普通の馬では駆けられぬ天空の道を走れる。おまえ、俺と一緒に、天空の道を駆けたくはないか?こんな狭い馬場を抜け出して、あの遥に広がる蒼穹をおまえは駆けていける、おまえはそれだけの力がある馬なんだ」
馬がかっかっと地面をひづめで掻く。
「もっとも、おまえが馬車を引く訓練をしてくれないと、どうしようもないが…無理強いはしない…いや、できないが…俺を信じてほしい…おまえと俺は…きっと、いい相棒になれると思うんだ」
とりあえず今日も馬にハーネスをもう一度見せ、危険がないことを理解させるつもりだった。可能ならハーネスを馬体にこすりつけて匂いに馴らしたいが、嫌がるようなら無理をする気もなかった。オスカーの心は落ち着いて静かだった。昨日のような気負いや焦りは微塵もなかった。
ハーネスを見せる。馬は動揺しなかった。
オスカーは全く動揺を見せない馬を意外に思いつつも、自身は落ち着き払った態度を堅持する。
そして、オスカーは馬の様子に注意を払いつつ、その身体に馬具をなすりつけて、匂いにならさせようとしてみた。
昨日の様子が嘘のように、馬はおとなしいままだった。
これなら…ハーネスの装着ができるかもしれない。
オスカーは、内心、期待がふくれあがることを抑えられなくなってきた。
努めて気持ちを鎮めて落ち着かせる。厩務員の指示に従って、ハーネスを装着しようとした。
が、紐を回し金具を留めようとすると、馬は、首を振り上げ嫌がった。
オスカーは嘆息した。
やはり、いきなりは無理か…今日は、とにかく匂いにだけでも馴れてもらい、怯えを示さなくなってくれれば御の字だ。
そう考えて、ハーネスを馬の鼻面に押し付けようとすると、馬が、口でオスカーの腕を軽く食んで引っ張った。
「おいおい、何の真似だ」
単に馬具の装着を嫌がってオスカーの手を止めた…にしては、歯に力が入っていない、むしろ、馬はオスカーを自分の側面に立たせようと引っ張ろうとしているようだった。
オスカーは引っ張られるままに馬の横腹に近づいたが、こんな振る舞いをされたのは初めてで、馬が何を意図しているのかよくわからない。
馬がじれったそうに地面を掻き、首を上げ外を見遣って軽くいななく。馬房から外に出たいらしいことはわかるのだが、それだけなら、自分を傍に寄せる理由はない。
「おまえは俺に何をさせたいんだ…」
俺を腹脇に立たせてどうしようっていうんだ…馬がオスカーの顔に自分の鼻面をぐいぐいと押し付けてきた時、オスカーは、あっと思った。
「まさか、おまえ…」
オスカーは半信半疑で馬の背に手をあてた。馬はじっと動かない。
「俺に…乗れと言っているのか?」
当たり前だが、馬は肯定の返事などできない、しかし、オスカーが馬の側面に立つと、馬は何かを待つように身じろぎをしなくなった。
オスカーの思考がめまぐるしく回る。
この馬は、馬車馬になるべき馬だ、乗馬用ではない…俺が馬の背に乗れるようになっても、調教が進むわけではない…
…だが、人を乗せるにしろ、馬車を引くにしろ負荷を負って走ることには慣れねばならない。
ならば、今、俺がその背に乗ることも、負荷を背負って走る訓練になるともいえなくもない…
『それなら鞍が要る…いや…』
オスカーは一瞬、厩務員を呼び鞍のありかを聞こうとしてすぐ思いとどまった。もし、この馬房に鞍が置かれてなければ、馬場の手前にある普通馬の厩舎から持ってこなければならない、かなりの距離を走って…それに、鞍を持ってきたとしても、今度は鞍を装着し、その感触に馴らすための時間が要るだろう。だが、この馬は、今、俺に乗れとでもいうような態度を取っている、この機を逃したら、馬は結局俺には意が通じないと思って諦め、心を閉ざしはしないか…
何の確信もない、ただの直感だったが、オスカーには、このタイミングを逃してはダメだという気がした。
鞍はないが、はみと手綱はついている…ならば、一か八か…
手綱を手にとり、馬房の外に馬を出す。手綱を引き停止の合図を送ると馬が止まった。オスカーは改めて馬の側面に立ってみる、馬は待機の姿勢を崩さない。
オスカーは、ままよ、と思い切って馬の背に手をかけ、ひらりと身を翻して馬の背にまたがり、その身を落ち着けた。
背筋をしゃんと伸ばして無意識のうちに馬上でバランスを取る。上体をしっかり支えるため自然に太腿からふくらはぎを使って馬の胴を締めると、オスカーの身体に馬の温もり、筋肉の束が躍動するその様が、直に伝わってきた。馬は暴れたりせず、おとなしくオスカーをその背に乗せるままにしている。
「おまえ…」
オスカーは何故か喉が詰ったような気持ちになり馬にかける言葉がでてこなかった。替わりに、長手綱で訓練してきた通りに、馬に発進の合図を伝える。馬は、ゆっくりと歩み始めた。
馬は、まるで不慣れなオスカーを気遣うように足並みを速めることなく、いつも放される放牧場へとゆっくり歩いて向かっていた。
オスカーはその馬の歩みに任せるように身体を上下に揺らす方が楽なこと、そして、脚をしっかり締めて馬の胴を保持すると、馬の歩みに体の動きを合わせやすいということを、持ち前の運動神経と勘のよさで、自然に察し実践していた。そして、常にはない一際高い、そして一点には定まらぬ視点から信じられぬ思いで周りを見渡した。見渡すほどに確かに自分は、今、馬上にいるのだと実感が湧き上がっていく。身体に直に伝わってくる馬の息遣いや温み、筋肉の動きが、更にその実感を強めた。鞍がないから馬上の身は些か不安定だったが、鞍上ではないからこそ、自分は、今、確かに馬と一体になっているのだと強く感じられた。
この現実を確かめるような気持ちで、オスカーは、馬に左に曲がれと手綱を引いて合図を送った。
馬は、オスカーの指示を無視した。
些か落胆し、手綱にもう少し力を込めようとして、オスカーは、はっと気づいた。そして、手綱に加える力はそのままに、火の力を手綱に染み入らせるように放出してみた。すると、馬は、きちんと左に頭を向けた。
オスカーの全身を、今まで感じたことのない、ぞくぞくするような喜びが突き抜けていった。
何よりオスカーは、馬の協力と譲歩を感じた。
当たり前だが初めて馬の背に乗ったオスカーは巧い乗り手ではないだろう。今、オスカーは、馬が歩みを進めるたびに馬の体が上下するのに合わせて、自分の身体を上下させ、反動を逃がせているものの、これも、馬があまり速く走らずにいてくれるからこそだ。手綱を握っているとはいえ、もし、急に止られたりすれば落馬もしかねないが、馬は、手綱を握るオスカーの指示に従う心つもりをしてくれているように、オスカーには感じられた。
「おまえ…俺に合わせてくれるつもりか…?」
俺が、おまえを自分を利するための道具から、パートナーと考えようとしたことをまるでわかっているかのようだ。俺がおまえを相棒として遇する、だから、おまえも、俺の意を汲むつもりになってくれたのか。
俺が馬を認めた、だから、馬も俺を認めた、理屈ではなく、そんな風に思えた。
『それなら、すぐにも馬車用の調教を再開できるかもしれな…』
と考えたところで、オスカーは軽く頭を振った。
この馬を道具としかみなさず、自分の都合を押し付けて自在に動かそうとしても巧くいかないらしいと、俺は学んだばかりじゃないか…確か、厩務員も『この馬は、特別賢く自尊心も高い』と言っていた。こいつが神馬エータシャなら、それも当然だ…今は、それがよくわかる。なら、俺は、まず、この馬ともっと心を通じ合わせることが必要なのだろう、馬が俺をもっと信頼してくれれば、ハーネスを付けることにも協力してくれるだろう。まずは、できることから進めていけばいい。
「これからよろしく頼むぜ、相棒」
オスカーは馬の首筋を労うようにぽんぽんとはたいた、
「相棒…じゃ素っ気無いか。名前がいるな…そうだな………アグネシカ…アグネシカっていうのはどうだ?」
馬が『気に入った』とでもいうように、頭を楽しげに振った。
「決まりだな、おまえは今日からアグネシカだ」
オスカーも無性に笑い出したいような気分に捉われた。
明日は手前の厩舎から鞍を借受け乗せてみよう。
この馬が俺を乗せることを喜んでくれているのなら、すんなり、鞍を載せるだろうし、俺自身も馬上での操馬になれれば、放牧場からも馬を出して散策させてやれるかもしれない。この馬と、宿舎の裏手に広がる山野を駆け巡ることができれば…それは想像するだけでも胸のすくような光景だった。
しかし、もし、馬が俺を乗せてくれたのが、今日だけのいわばサービスだとしたら…いや、それはそれでもかまわない、とオスカーは鷹揚に思った。少なくとも、俺が馬を認めたことで、馬も俺に歩み寄ってくれたことは事実なのだから。それなら、この信頼関係を損なわぬよう、しかし、馴れ合わぬように馬車馬としての調教を進めていけばいいだけだ。
俺をこの背に乗せてくれたことを思えば、俺が落ち着き、誠意を持ってあたれば、この馬は、馬車馬としての訓練を、その意味を理解してくれるだろうと、いまや、オスカーは、不安げなくそう思えたのだった。