百神の王 17

オスカーの元に連れてこられた新参馬2頭は、おとなしく引き綱をつけさせた。オスカーがその引き綱を取って馬場まで連れていくこともすんなりと承知した。

この馬たちがどこまでの調教を為されてきたのかは、まだわからないがーアグネシカと同じほどというのは、ありえまいー恐らく中途までは調教を受けてきたのではないかと思われた。が、馬車馬に仕立て上げられる前に、当初の調教者はこの天界から去ってしまい、中途のままとなっていた調教を完成させるべく、この馬たちは俺の元に連れてこられたのではないだろうか、と。

どちらにしろ、この馬たちがどこまで訓練されているのか、できること、できないことを見極めねばならない。その過程で馬達の性質も掴めるだけ掴む。気性によって、効果的な調教も異なろうから。その上で今後の調教の予定を組み立てていこうとオスカーは考えた。

馬2頭は初めての馬場に連れてこられたせいか、些か落ち着きはないものの、それでも引き綱でのリードには、存外、素直にオスカーの指示に従っている。オスカーが、意識して強く火の力を放射していたせいもあるかもしれないが、勝手な歩調で歩き出そうとするような気配は見せない。

この分なら、はみと手綱にはすぐ馴れてくれるかもしれない。そして、馬がはみと手綱を嫌がらなくなったら、間をおかず馬車用の馬具にならしていかねば。

もう、馬車馬としての調教の手順はわかっているので、オスカーはアグネシカの時のように乗馬用の訓練という回り道をさせる気はなかった。この2頭はなるべく早く馬車馬として仕立て上げねばならない。

時間は無限にあるわけではない。自分にも、そして、馬たちにもだ。

3頭立ての馬車が操れるようになったとしても、その後、どれくらいの割合で扱う馬たちが順次増やされるかがわからない。今回は2頭一度に預けてもらえたが、今後もそうとは限らないのだ。様子を見ながら1頭ずつ増やされていくようなら、7頭の調教が終るのに、かなりの時間を要するかもしれない。そうなった時、新参馬と古参馬の馬齢差や体力差があまりに開いてしまうのは、得策ではないとオスカーは考える。

とりあえずは今日は小手調べという心積もりで、オスカーは、馬場を長手綱で走らせる調教を2頭の馬に施してみた。暫く走らせてみれば馬たちの持久力や心肺能力はある程度わかるし、手綱の指示に対する反応も読めると思ってのことだった。

そして、オスカーは馬場を走らせみて、馬たちが体力的には申し分ない素質を持っているようだと判断した。かなりの距離を走らせてみたが、2頭とも腹が波打つほどは息を荒げていない。むしろ、けろりとしており、余力を残しているようだ。かいている汗も少ないことから、心肺機能の高さも伺える。俊敏さよりも力強さに勝る馬たちのようだ。見るからにがっしりとした足腰も馬車馬として申し分ないと思われた。

しかし、手綱への反応は、アグネシカに比べると、この2頭は今ひとつ鈍いという手ごたえを感じた。

反抗的だったりとか、オスカーの力量を試すつもりで、わざと鈍重に振舞うという風ではなく、単純に手綱の指示に対して反応が鈍いという雰囲気だった。

手綱の指示通りに動くという訓練をまだ受けていないのか…いや、アグネシカの察しが良すぎる、というか、反応が良すぎたせいで、鈍重に思えるだけかもしれない、とオスカーは先入観を持つことを自分に縛めた。

なにせアグネシカは本当に賢い馬だから、今では、オスカーが手綱に僅かに力を入れるだけで、オスカーの行きたい方向、やらせたいことに即座に悟り、機敏に反応してくれる。放出する火の気から、俺の意図を読んでいるかのようだとオスカーは感じることもある、それくらい察しがよかった。

が、新参の馬2頭は、オスカーが思い切り手綱を傾けるように力をいれないと、すぐには、左右の屈曲にも反応しなかった。

この馬達をアグネシカ並に聡明かつ機敏な馬車馬に調教するのは時間がかかりそうだ…とオスカーは嘆息した。

まずは、はみをかませ手綱による指示を完全に理解させねばどうしようもない。その後は一日も早くハーネスとハモを装着し馴らさねば。その間、アグネシカは荷重を増やし、更に心肺機能を高める訓練をするか…と、オスカーは頭の中で調教の計画を組み立て始めた。

 

今日は、初日ということもあって、そう過重な訓練はしなかったし、オスカーも馬達が素直に従ってくれたおかげで、厳しい振る舞いをせずに済んだ。

馬たちが従順だったのは、オスカーが己の力の程を馬達に知らしめるために、終始、火の力をかなり意識して強めに手綱に流していたせいもあっただろうが、予め馬場に出ていたアグネシカがいわば若馬たちの抑え役となってくれたことも大きかったようにオスカーには思えた。

この馬たちより多少馬齢が上なのだろうアグネシカは、新参の馬2頭より体格が一回り大きかったので、にらみが利いたようだった。新馬たちがアグネシカの面前で奔放な振る舞いをすることはなかったし、それでなくとも初めての場所で勝手のわからぬ2頭は、いかにもこの馬場の主然としているアグネシカの動向をしばしば気にするような素振りをみせた。どう振舞えばいいのかの手本を求めるような若い2頭を前にして、アグネシカは全ての事情はわかっているとでも言いたげに、終始ゆったりと落ち着いた様子で、いつも以上にオスカーに対し従順…というよりは、進んで協力してくれているように見えた。オスカーも、そんなアグネシカには、褒美として惜しげなく棗(なつめ)などの甘い果実を与えたり、命令や指示付きではない火の気を存分に与えてやった。火の馬はオスカーの発する清冽な火の気をことのほか好むことを、今までのアグネシカの調教を通じて、オスカーは知っていた。訓練への褒賞として、火の気を発してやればアグネシカも喜ぶし、新馬たちには、きちんと訓練で成果を出せば、それに応じて快適な環境や褒賞がもらえることを理解させられる。つまり、オスカーは、アグネシカにいわばプロパガンダ役をやらせるつもりでいたが、アグネシカの方から、その役どころを進んで買ってでてくれたような気配がみえた。その甲斐あってか、馬同士でも人にはわからぬ意思疎通があるのだろうか、新馬たちは、馬場でいきなり走りだしたり、オスカーの引き綱を嫌がるという振る舞いはせず、概ね従順に訓練を受けた。オスカーの指示に従わない時もあったが、それは不従順というより、指示の意味をまだ理解できてない、つまり、訓練不足のゆえであるようだった。オスカーにとってみれば、それは、訓練の不備な箇所が明確となるので、この段階では不従順イコール悪いことや困ったことではなく、むしろ、馬達の現況を掴むにはありがたいことでもあった。

夕刻になって馬達を厩舎に帰す時も、アグネシカが先頭を切って「自分についてこい」というように新馬たちを引き連れてくれて歩いてくれたので、オスカーはかなり楽だった。

 

厩舎に戻ると、3頭分の馬房はきれいに清掃され、夕刻の飼葉も水も既にきちんと用意されていた。

調教を施すべき馬が3頭に増えたことで、他の厩務員たちがチームとなって馬房の管理を一手に引き受けてくれるようになったからだ。オスカー自身の負担はむしろ軽減されるのだということが、実感としてわかった。

これは、つまり、オスカーは馬たちへの調教と、アグネシカの馬体の手入れにのみ専心できる環境を与えられたということだった。

今までの成果が認められたからこそ、環境を整えらてもらえたのだと、オスカーは解した。同時に、火の馬を御し、自在に操る存在として、それだけ自分への期待が高まったことでもあり、更なる成果をあげることを期待されている故の措置だということはオスカーもわかっていた。

オスカーは、アグネシカの調教をやり遂げられるかどうか、自分はずっと経過観察されてきたのだろうと改めて思う。

火の馬の最初の一頭を馬車馬に仕立てあげるというのが、まず第一の課題であり、そこまで到達して初めて太陽神の卵として調教に専心する環境を整えてもらえるということなのだろう、と。

逆に言えば、ここまでたどり着く火の眷属は、そう多くはないということかもしれない。

地味できつく、汚れ仕事でもある馬の世話ではあるが、それを一切させずに、馬の調教だけをしようとしても、馬の基本の扱い方や習性を理解していなければ、それはどだい無理な話だし、きちんと馬を対等なパートナーとして遇する精神も育まれまい。が、この最初の過程で、恐らく多くの候補者が、地道で忍耐のいる作業の意味がわからぬまま脱落していったのかもしれない。馬の世話をする本当の目的や、その先のゴールに待つものを見出せずに、もしくはゴールに用意された地位を悟ったがゆえに、その責任や重圧に恐れをなして…ということも考えらなくはないが。

だから厩舎のスタッフも、候補者が海のものとも山のものとも判じかねるうちは、余計な労力は割かない、特別扱いのようなまねをして増長させない、無駄に終ることの方が多いから…というシビアな判断が根底にあって、最初の1頭の調教が完成するまでは、傍観を決め込んでいるのかもしれないと、オスカーは考えた。

だが、アグネシカが馬車馬として調教された今、その傍観の時期は終わり、厩舎のスタッフは、俺を太陽神の卵と認め、助力を申し出てくれる段階に入ったのだろう。俺は漸くここまでこれたのだなと、オスカーは思う。それでも、俺は長大な階梯の最初の1段を上がった処に過ぎないことも事実だから、差し出される助力はまだまだ多くはないかもしれない、とも思う。どちらにしろ、要は、今後の俺の出来次第だろう。

厩舎が既に綺麗に整えられているのを見て取ったかのように、アグネシカは新馬たちを先に自分の隣の馬房に追い込んでから、自分の馬房に悠然と入り「どうだ」と言わんばかりにオスカーを見た。その得意げな態度にオスカーは思わず笑ってしまったが、純粋に感謝と労いの気持を込めて、それこそ絹のような光沢が出るまで馬体に丁寧にブラシをかけてやり、蹄油もいつも以上に丁寧に塗ってやった。オスカーがアグネシカの世話をしている間、隣の馬房が少々騒がしい時があった。火の眷属以外の者に身体を触れられるのを馬が反射的に嫌がったのかもしれないが、オスカーは特に心配も口出しもしなかった。厩務員が水の眷属だというのなら、オスカーも火の馬の世話を任せたりはしないー水と火の気は互いに反発しあい、火の馬の意気を消沈させてしまうからー、が、光や風の眷属なら火の馬の気を損なう恐れはない、単に火の眷属が触れるほどには心地よくないというだけだし、馬の扱いにかけては古参の厩務員の方が自分よりずっと手際はいいはずだと思ったからだった。

それでもオスカーは、隣の馬房にいる馬達に

「おまえたち、いい子で世話をさせるのなら、後で火の気は俺が存分にやる。だが、言うことを聞かない子には火の気はなしだ」

と大声で告げた。

オスカーの言葉にあわせるようにアグネシカがぶるるる…と喉を震わすような声を発すると、がっがっと蹄のなる音や、馬のいななきが鎮まっていった。まるでアグネシカがオスカーの言葉をわかりやすく通訳してくれたかのようだった。

オスカーは、自分の言葉が馬たちに通じたとは、もちろん、思っていなかった。2頭の馬たちと、それだけの絆は、当然、まだできていない。なのに、馬たちは鎮まった。その意味するところは明白だった。

アグネシカのおかげだ。アグネシカが、自分の意を汲み、それを若駒たちに伝えてくれたからだ。

アグネシカが自分に協力してくれることの効用とありがたみを、オスカーは深く感じいった。アグネシカが俺を手助けし、俺の期待に応えてくれようとする、その信頼の気持に、ただ、ひたすらに感謝した。

そして、アグネシカと心を通じ合わせておけて幸いだったと思うと同時に、これは、自分だけの力、自分だけの努力の成果ではないなとも謙虚に思った。この成果の半分は、天界の目論んだ巧みなシステムのおかげだと、オスカーはきちんと理解していた。

オスカーは今日1日、アグネシカが新参馬たちを進んで統率し、自分に協力してくれた様子を通して、天界は明確な意図と目的を持って、最初に、アグネシカを自分にあてがったのだと理解した。そして、その意図する処も確信した。それを思うと、我知らず、深い嘆息が零れた。

俺が、アグネシカときちんと調教できるか、馬と意思疎通ができるようになるか否か、俺は、恐らくずっと観察されていたのだろうとは思っていたが、そこには、俺のやる気や資質を見るだけに留まらない、別種の企図があったのではないかと、オスカーは思い当たったのだ。

つまり、こういうことだったのだろう。

7頭1チームとなる神馬たちのボス/リーダーともいうべき馬を、まず、俺にあてがい馴致・調教を試みる。

馬に接したことのない俺は、アグネシカの潜在能力はわからなかったがー比べる水準を知らなかったからーそれは、今思えば幸いだったのかもしれない。アグネシカは神馬の中でもリーダーにと目されるくらいの馬だから、ことのほか賢く、活力に溢れ、気位もそれ相応に高い、故に、そう容易く一筋縄では調教は進まない、しかし、俺にはそんなことはわからないので、諦めたり臆することなく、とにかく、できることを地道に愚直に進めていった。俺にはそうするしか道がなかったからではあるが。その過程で、俺は、アグネシカと力を牽制しあったり、根比べをしながら、互いの才を認め合い、愛着を育み、こうしてアグネシカと心を通じ合わせることができた。

結果、一度、御者となる自分とリーダー馬との間に密で確固とした心の繋がりができていれば、こうして新たに馬が増えていった時も、リーダー馬が俺に協力してくれ、新参馬をきちんと統率してくれるので、調教者である俺の負担はぐっと軽減されるし、今後の調教も恐らくは、スムースに行く…ということなのだろう。

初っ端から負担の重い作業を課すと同時に、その課業の意味は教えない。ただし、ヒントをちりばめて隠すことで、断片的な情報を統合して物事の全体像を把握できるかどうか、候補者の洞察力や類推能力を測る。そして、課業の意味や目的が自ら見つけられぬ者は、負担の重さに耐えかねて、そのうち脱落していき、目的を見出せた意識の高い者が残るーこうして最初のハードルを高くすることで候補者の篩い分けを行い、教育投資の無駄を省く。

しかし、そのハードルを越えられた者は、それだけの資格ありと認められ、その時点で天界からも全面的なバックアップが受けられるようになるーつまり、馬房の管理や馬体の世話を手助けしてもらえ、神馬の調教に専念できるようになる。その時には、いわばリーダー馬からの信頼と協力も得られている筈なので、馬の調教自体も今後はぐっと楽になり、効率もあがる、ということなのだろう。実際、オスカーが、今後、若駒に施す調教は、アグネシカの協力により、加速度的に進むことだろう。

考えるほどに、なんという、厳格な、だが、合理的なシステムなのだと、オスカーは感心せざるをえなかった。何もかも天界の思惑通りに運ばれている…と思うと癪に触らないでもなかったが、実際、これほど見事に無駄・無理がなく合理的、かつ、オスカー自身にも利点も恩恵もあるシステムを用意されてしまうと、文句のつけようがなかった。

優秀な人材を女神神殿で慰撫し、リフレッシュすることで、士気とモチベーションを常に高く維持するシステムにも、オスカーは、その機構の巧みさに舌を巻く思いだった。が、俺1人の教育に関しても、この厳格にして、天界と俺と双方に利点のある無駄のないシステムは、どうだ。見事というほかないではないか。恐らく他の高位神候補選定でも、このように一分の隙も無駄もないシステムが採用されているのだろう。そして、こうも見事な教育プログラムを考案しているのは、天界の優秀な仙たちなのか、それともこの世の理(ことわり)全てを司るといわれているヴァルナ神その人なのか…と、オスカーは考えずにはいられなかった。

『これらの合理的かつ有効なシステムを考え出したのが、もしヴァルナ神その人ならば…さすが、この世の理(ことわり)を一手に司っている神だけのことはある、ということだな。そして、もし俺がスーリヤになった暁には、俺は、このヴァルナ神の目として、直に仕えることになるのか…これほど怜悧・聡明にして有能な神に仕えることができるのなら、これもまた、男の本懐といえるかもしれん、面白い』とオスカーは思った。

もちろん、与えられた神馬にも調教を施し、3頭同時に、延いては7頭の馬を御することができずば、ヴァルナ神の目として働くことなどただの夢想で終ってしまうが、オスカーは、この可能性を絵空事ではなく、最早、実現可能な目標として捉えていた。そして、この世で最も賢明な神を上司として仰げるかもしれないと思うと、ふつふつと、静謐にして熱い闘志が身のうちに湧き上がるようだった。

懸けられる期待の大きさはそのまま励みとなった。重圧を感じたり尻込みをするようなら、最初から太陽神などめざしはしない。やりがいを感じこそすれ、臆するところは微塵もなかった。ましてや、左耳に揺れるウシャスの…アンジェリークの耳飾を意識するとーそれは、いつも俺を包みこむような清冽にして優しい気を放っているーオスカーは更に奮い立つ自分を感じた。耳飾が耳朶で揺れるたびに、オスカーはアンジェリークが自分を励ましてくれている、そんな気がするのだった。

 

その頃、遥か天界の上方では、ヴァルナ神その人が下層域の文教地区からあがってきた報告を一通り見終ったところであった。

ヴァルナは自分でもわからぬうちに、安堵の吐息をついていた。

ヴァルナ神は、ウシャスが見所ありと目した火の眷属の少年…そろそろ青年と言ってもいい年頃だ…が、女神神殿で、漸く聖娼たちからの慰撫を受け取ったとの報告を受けるや、彼に任せる神馬を計3頭に増やすよう指示し、その命は、即座に実行されたはずだった。

今頃は火の若者は、新たな神馬を目にして、驚いているか、感激しているか…その意味するところをきちんと理解し、更に気を引き締めていることか…恐らくは後者であろうし、そうでなくては困る。さもなくば、ウシャスがあの若者を高く評価し、引き立てようとした理由がわからなくなってしまう。

ウシャスの顔を潰すでないぞ、火の若者よ…そなたに格別な褒賞を与えたウシャスのためにも、そなたには、それ相応の優秀な成果をあげてもらわねばならぬのだ。

ヴァルナ神は、次代の太陽神に最も近い場所にいる火の若者を、いつしか自分も気にかけるようになっていた。直接的には天界一の美神ウシャスが、一介の火の子を、自らの耳飾を授けて励みとさせたいと願うほど、強い思い入れを示したことが気にかかったせいだ。永劫ともいえる歳月を生きてきたが、ウシャスが、かように、一個人を深く気にかけるような振る舞いをした記憶はヴァルナにはなかった。どれほどの偉丈夫が太陽神になろうと、ウシャスは常に変わらず優しくたおやかに振る舞い、太陽神の花嫁としての役目を果たしてきた。光の眷属の象徴に相応しく、どの太陽神に対してもひとしなみに淑やかに振る舞い、常に地上の万物にも分け隔てなく優しく…逆に言えば、どんな太陽神に対しても、特別な思い入れを見せるということがなかった。光の眷属としては、それこそが理想的な振る舞いであるのに、ウシャスは、何故、あの若者…まだ太陽神にもなっていない若者のことを特別に気にかけるのか、ヴァルナは、それが気になってしかたなかった。

もちろん、スーリヤ候補となれば自分もその若者と無関係ではない、もしやすると、その若者は、将来自分の片腕、懐刀とでもいう存在になるかもしれぬ存在なのだ。なにせ、スーリヤは、自分ヴァルナの名代として、地上の生き物全てを見守り、監督し、報告をあげる神なのだから。

だが、単に役職上係わりが深いという以上に、ヴァルナの心を波立てずにはおかない要因を、この若者はもっている。

その最たるは、この若者がウシャスから金の耳飾を賜っているという事実だ。ウシャスが、それだけの見込みありとこの者を評価している事実から、ヴァルナもまたこの火の若者を気にかけざるを得なかった。が、それ以上に、この若者がウシャスの耳飾を些かでも粗略に扱ったりはしていないかどうかが、ウシャスの耳飾の価値をきちんと理解しているかどうかが、ヴァルナはずっと気になっていた。ヴァルナ神には、若者が耳飾をどう扱っているかの報告が中々あがってこなかったせいだった。

厩舎からは、もちろん、若者の報告が上がってきていた。しかし、その報告は馬の調教の進展具合が主である。報告では、若者は馬の調教を着実に進めており、その目的もきちんと理解しているようだということだった。神馬の調教の進展具合も、歴代の太陽神に比して遜色ないどころか、ずば抜けて優秀のようだ。

しかし、厩舎の者たちは若者の外観の様子、ましてや装飾品の有無などは観察していないし、その義務もない。だから、当然、若者がウシャスの耳飾をどうしているかの報告はあがってこない。もし、直に身につけていなくとも、自室に大切に保管しているのかもしれないのだから、そこまでは厩舎の職員には当然わからない。

しかし、この若者が、女神神殿を参拝し、聖娼の元で衣服を緩めるようなことがあれば、聖娼は、若者のまとう気を間近に感じとれる。そして彼がウシャスの耳飾を大切に保管していれば、清浄この上ない光の気が彼の傍に漂っている筈であり、聖娼はそれを不可解な事象として、こちらに報告をあげてくる筈だった。高位神のいない下層地区で、ウシャスの持つ高雅にして清浄な気が存在するなどありえないことだし、また、火の眷属が、そのように清廉な光の気を身に纏うなど、これもありえない事だから、火の若者から光の気を感じるようなことがあれば、不可解な事態として聖娼から報告があがってくるのは必定だった。

だからヴァルナ神は、火の若者が女神神殿を訪れたという報告を、今か今かと心待ちにしていた。火の若者から、何故か光の気が感じられたという報告が来れば良しであるし、単に参詣したいう報告だけなら、つまり、彼の者から光の気が感じられなければ、若者は耳飾の価値を見抜けず大切にしなかったということであり、それは、彼の者が、今後は目をかけるに値しないという証左となるはずだった。

が、かなりの時間待っても、聖娼から、そういう類の報告はあがってこなかった。ウシャスの耳飾を賜った後も、その若者は、女神神殿に足を向けなかったようで、ヴァルナ神は相当やきもきさせられていた。

しかし、ある時、漸く、若者が神殿に参拝するようになったという報告が来た。やれやれと思ったら、聖娼たちからの報告ではこの若者は光の眷属と天空界の知識を欲するばかりで、聖娼たちからは頑なに慰めを得ようとしないという。

聖娼たちに光の世界の知識や常識を求める辺りは、我ら天界が、この若者をスーリヤ候補とみなしていることも、女神神殿に参詣させる意味合いも、この若者がある程度察している証拠であろう。それを思うと、この若者はウシャスの見込んだ通り、かなり優秀ということだ。聡明で頭の回転が早く、察しもいいのだろう。まこと、スーリヤを目指すに相応しい有能な若者と思える。ウシャスが気にかけ、目をかけるのもむべなるかなと思わせる、とヴァルナは素直に感心した。

だが、だからこそ、ヴァルナはこのスーリヤ候補に、通過儀礼として聖娼たちからの慰撫を受けてほしかった。ウシャスの耳飾を大切にしているかどうかを、確かめるという目的を抜きにしてもだった。

もちろん、聖娼たちから慰撫を受けることは、太陽神になるのに、絶対に必要な条件ではない、が、予め経験しておいてほしいと思うこともヴァルナ神の本心なのだ。

もし、この若者が本当にスーリヤになった暁には、そういった類の慰撫とは、相当の年月無縁にならざるを得ないのだから。そして元来火の眷属である太陽神は、異性との恋情に傾け注ぎ込む情熱が光の眷属の比ではなく、文字通り燃えるように熱く激しいからだった。

だから、事前に、ガス抜きをさせておいたほうが無難なのだ。ヴァルナの今までの経験上、太陽神としての在位も、事前のガス抜きが多いほど、長いような気がするのだ。

ただ、どれ程ガス抜きさせようと、在位の比較的長い太陽神といえど、一般の天空神に比すと、太陽神スーリヤは悲しいほどに頻繁に代替わりする。これもまた、否定しようのない事実だった。

太陽の馬車を操りながら、ヴァルナの目として地上の生きとし生ける者全てを見守り導くスーリヤの仕事は確かに過酷であり、責任は非常に重い、だからこそ、ヴァルナとしても信頼のおける優秀な者になるべく長く努めて欲しいと思うのだが、何故か、力溢れる才気煥発な若者ほど、早々と自らの力を燃え尽きさせ、天界から去っていくような気がしてならなかった。そして、その主たる原因がヴァルナにはどうにもつかめなかったのだ。

だからこそ、見込みある者の士気をより高めるため、また、スーリヤに即位する前に俗っぽい感情を少しでも昇華させてきて欲しいという思惑もあって、ヴァルナは、女神神殿への参拝を推奨してきたのだ。スーリヤ候補者には、女神神殿に参詣するための基準はゆるく、而して、参詣の機会が普通の学徒より多くなるよう調整もされている。

なのに、この若者は、とびきり優秀で将来を嘱望されているのに、一方で、女神神殿には近寄らない、近寄っても慰撫を受けないでは、このままスーリヤになってしまった時、下手をすると若い情熱を尚のこと持て余して、自らを早々に焼き焦がし最も在位の短い太陽神で終る…という恐れもありうる。優秀な者を、そんなことで無為に失うのは得策ではないし、優秀な候補者の数は決して多くはないのだから。そう思って女神神殿に精々参拝して欲しいと思っていたというのに、これでは何にもならぬではないか、とヴァルナ神は、図らずもこの火の若者の動向にやきもきさせられ通しとなっていた。

それが、先ごろ、この若者は、どういう心境の変化か、漸くヴァルナの目した通過儀礼を済ませた。

これで少しは安心できる…

そう思ったヴァルナは、先延ばしにしていた神馬の増加を漸く、そして即座に厩舎に許したのだった。

厩舎の厩務員からは最初の火の馬の調教は、ほぼ完成しており、すぐにも続けて次の馬の調教を開始するべきだと、次の火の馬を矢のように催促されていたのだが、ヴァルナ神が、自分の権限で押しとどめていたのだ。あのまま、この若者が聖娼たちから本来受けるべき慰撫を受けねば、新たな火の馬を下賜する決心がついたかどうかわからない。

しかし、その埋め合わせの意味もこめ、ヴァルナ神は新たな火の馬を一時に2頭下賜した。今までにはない措置だったが、この若者なら、上手く扱えるのではないかと見込んだ故だった。

それは、この火の若者からは、何故か、不思議なことに、恐ろしい程澄み切った、この上なく暖かな光の気を感じたという、聖娼からの付記を受けとったせいもあるかもしれない。聖娼が、ほのかに感じるどころではなく、それだけはっきりと光の気を感じたということは、恐らく、その若者は、ウシャスの耳飾を肌身離さず身につけているに違いない。つまり、その若者は、きちんと物の価値を見抜ける目と才があるらしいと、確信できたことが、2頭の神馬の下賜に繋がった。

『まったくウシャスよ、そなたのおかげで、私もこの若者から目が離せなくなってしまったぞ』

ヴァルナ神は人知れず苦笑した。

普段は厳しいばかりと思われがちな風貌が、僅かに口元と目元が綻ぶだけで、とてつもなく優しげで麗わしいものとなった。

『そなたの耳飾を、かの若者は、片時もその身から離さず大層大切にしているらしいことをそなたに教えてやりたい…そなたの人を見る目も誠、確かであったことも…』

しかし、今は乾季のこととてスーリヤも、当然ウシャスも天の道を駆けない日はない、而して、ウシャスが実体化してこの宮を訪う余裕は無い。しかし、あと数カ月もすれば、また雨季がやってくる。さすれば、ウシャスにもこの宮に来る暇ができよう。

『次の雨季が始ったならば…ウシャスよ、一度、そのたおやかに愛らしい姿を、私に見せにきてくれ。話してやりたいことがたくさんある…ミトラも、きっとそなたの訪れを待っている…』

無意識のうちに高みを見つめるようにヴァルナは顔をあげた。その白皙の顔に浮かぶ笑みは、いつしか、どこか切なげなものに変わっていた。

 

若駒を預かった翌日から、新参馬たちの馴致と調教を進めるにあたり、オスカーは、何事にもまず、アグネシカを立てるような調教を施すことにした。

まず、アグネシカに手本をやってもらい、次いで、同じことを新馬たちにやらせる。

その反応は多少遅くても、鈍くてもいいのだと、ここ暫くの訓練で、オスカーはそう割り切るようになっていた。

というのも、アグネシカにハーネスを装着していた時、ふと、気付いたのだが、新しく来た馬達は調教後はアグネシカの後背にハーネスでつながれることになる。これは、今後馬が増えていっても変わらないだろう。先頭は、常にリーダーであるアグネシカが取る。それは、馬車の進む先、足並みを決するのは、アグネシカの意思によるところが大半を占めるということだ。

となれば、後背の馬達はアグネシカの動きを追って動くことになるのだから、アグネシカと同じ機敏さで俺の指示に反応しなくてもいい。後続の馬たちに必要なのは、先頭でありリーダーとなるアグネシカに従順であることと、アグネシカの動きを、即座に、きちんと模倣し、アグネシカと足並みを合わせることなのではないのか。

つまり、これから馬車につながれるであろう馬たちは、皆、アグネシカの動きを追っていくようにしつければいいのであって、アグネシカと同様の俺との密なコミュニケーションまでは不要なのではないだろうかと、オスカーは、ふと、思いついたのだ。

俺が、いちいち、それぞれの馬にその時々に別々の指示を出して従わせるのではなく、俺はアグネシカに指示を出し、後方の馬達にはアグネシカの動きを読んでそれに従えと命じる。

もちろん、馬たちの御者は俺だから、俺の存在は、いわば重しのように常に意識させておく必要があるが。

ただ、そうすれば俺は緻密な指示はアグネシカにのみ出せばいいのであって、残りの馬たちには「列を乱すな、アグネシカの足並みを追って合わせろ」という簡単でわかりやすい指示を出せばいいということになる。

つまり、手綱と、鞭と、それぞれ加減の違った火の気を放出し、瞬時に次々と力の加減を切り替えるという曲芸のような真似をせずにすむ。

馬達に与える指示も、単純かつ数は少ない方が、馬だって理解は早かろうし、混乱する危険も少なかろう。

そう考えたオスカーは、今は、この自分の仮説が正しいかどうか、試している最中だった。

それに、いわゆる慣性とか惰性のようなものを利用しなければ、長時間の馬車の操作など、事実上不可能ではないかと、オスカーは考えたのだ。

太陽神が馬車を操るのは、日に1、2時間のことではない、それこそ日の出から日没までの時間なのだ。

その間、休まずに火の気を全開で放出し、しかも、7頭それぞれに異なる力加減で火の力を与えることなど、普通に考えたら、不可能に決まっている。どれほど潤沢な火の力があっても、そんなにも長時間の力の放出に神経が耐えられなくなるだろう、どれ程頑健な身体を持ってしても、早晩、疲労困憊してしまうだろう。

となれば、一度発した力は、なるべく無駄に放散させず、効率よく用いること、その慣性をもって馬を操る術をオスカー自身も体得せねばならないと、誰に言われたわけでもないが、オスカーは考えた。

馬に訓練を施す一方で、オスカー自身は、火の力の、いわば省力化・効率化を図り、一度の放出で継続的な成果を出せるよう己を鍛え始めていた。この方法が上手くいけば、火の馬がまた増やされても、同じように対応できると考えてのことだった。オスカーの理論が正しければ、今までと同じ程度の力の放出で、より多くの馬を、より長時間操れ、それでいて、身体的疲労や負担は、そう増えないはずだった。オスカーは自分の身体を実験体にするような心つもりで、馬との訓練に励んだ。

 

また、一方、同じような心境で、オスカーは、その後も、定期的に女神神殿を訪れていた。

といっても、聖娼から授けられる快楽に溺れたからではない。

傍からは、定期的に女神神殿に通うようになっていたオスカーは、羨望と幾分のやっかみもあって、聖娼の魅力に骨抜きになっているように見えていたとしても、実際はそうではなかった。オスカー自身は、常に冷静な観察眼を保ち、聖娼との関係を通じて、様々なことを学び取ろうとしていただけだったし、有体にいって、この単純極まりない放出の快感に没頭するほどの引力をオスカーは感じ取れなかった。それは、オスカーにとって、あればあったで心地よい、という程度のもので、馬の調教で疲れきった時に受ける香油のマッサージが心地良いのと質的には全く同じものにオスカーには感じられていた。

なのに、オスカーが女神神殿に継続して参詣していたのは、どうにも頭にひっかかることがあったからだった。

オスカーは、光の巫女との情を交わしたことと、新たな火の馬の下賜を受けたことは、何らかの関係があるのではないかと考えたのだ。

俺が、いわば大人の男としての通過儀礼を済ませたその週明け、預けられる神馬が増やされた。

これは、偶然なのかーそれにしては、タイミングが良すぎる気がした。あまりに見透かしたようではないかと思えた。

だって、それまでに女神神殿を幾度か訪ねても神馬は増やされなかったが、聖娼と一度身体を交えるや、預託される馬が増えた。これは、もしや、聖娼との情事までもが、太陽神になるため必須過程として組み込まれているか、所謂「女性の扱い」に慣れることも、太陽神の名を拝する条件のうちとされているのかもしれない、という疑念がオスカーに芽生えたせいだった。

つまりは、こういうことだ。

ウシャスは天界の至宝ともいえる存在だ。天界は、ウシャスの身を何より大切に考える。

しかし、ウシャス=アンジェリークには自分で配偶者を選ぶ余地なく、強制的に太陽神をあてがわれる以上、太陽神選定の基準がこの上なく厳しくなるのは当然のことだろう。過日、ラートリーが見るからにアンジェリークを大切に慈しんでいたことを、オスカーは今もよく覚えているが、あの心境は天界の高位神に共通する気持なのではないだろうかと、思うのだ。アンジェリークは、それだけ大切にされてしかるべき女性だと、オスカー自身が何の疑問もなく頷ける。

となれば、太陽神の選定に、天界が慎重にも慎重を期すのは当然の帰結だ。能力だけでなく、人格だけでなく…アンジェリークが本人の意思によらず花嫁とされることを思えば、花婿となる男の女性観、女性全般に対する振る舞い方、接し方、また、性戯の分野でさえも、絶対、アンジェリークに不快を強いることがないことは最低限の当然の条件として、より巧者が求められるとしても無理からぬことかもしれない、とオスカーは思い至った。

ウシャスが天界の至宝であるからこそ…変な性癖を持つような男、女性に苦痛を与えかねないような不器用な男や、故意に苦痛を与えたがるような男を、太陽神候補から前もって排除するために、太陽神の候補者は女神神殿への参詣を推奨され、その房事の詳細が聖娼から天界に報告がいく可能性すらありうることにも、オスカーは気づいた。

もし、この仮説が的をいているのなら、俺は、馬を御する技術を磨くだけでなく、女性を喜ばせる技術も磨き、極めるほどに、太陽神の地位が近づくということになりはすまいか。そこまで求められずとも、少なくとも、女性を大切に尊重し、優しく接すると示すことは、絶対必要な条件ではないかと思えた。

オスカーはそれを確かめたかった。

ここでも、オスカーはいわば、自分の身体を実験体として、天界の出方を伺い、天界の意図を見抜くつもりだった。万が一、女性の扱いに秀でることも、太陽神になるのに必要な要素で、そのためにも、女神神殿への参拝が推奨されている場合に備える必要もあった。

そう考えた結果ではあったが、オスカーが、彼女達と褥を共にする機会を重ねるにつれ、更に様々なことをー言葉では説明しきれない、体感的な事象を教わっていったことは否めない。

オスカーにとっては、それらの実体験を積むことはいわば研究であり、得られる感覚は全て勉強であった。聖娼たちに教えられた通り、自分の肌身で直に感じなければわからないことは、確かにあった。文字や言葉から得られるものは仮想体験であり、それはそれで有用なのだが、ある種の体感というのは、言葉だけでは表すのが難しく、自分で体験してしまう方が手っ取り早く、わかりやすいということもオスカーは実感した。

その中では、いわゆる性技は、ほんの瑣末事でしかなかった。以前に彼女たちが言っていたとおり。

もちろん、女性に触れるときの力加減や、触れて心地良い箇所、不愉快な箇所など一般的な事柄は実践で教わっていったし、女性全般である程度共通する部分はあった。が、結局は、感覚というのは人それぞれで違うのだと知ったことが、オスカーにとっては、ある意味、一番大きな収穫だった。

聖娼により触れられたがる箇所は微妙に異なったし、力加減はもっと千差万別だった。羽で触れるように優しく扱われることを好む聖娼もいれば、オスカーが案じるほど力強く触れられたがる女性もいた。所謂主導権を握りたがる女性もいれば、何もかもオスカーに預けたがる女性もいた。また、同じ女性でもその時々の気分や体調によって、接し方の好みが変わる場合もあった。

オスカーは、女性と接する上で紋切り型の先入観や独りよがりな思い込みは、あまり役に立たないどころか、ない方がよいらしいことと、大切なのは、その女性が、その時何を心地よいと感じ、どうすれば心を開いて寛げるのか、それをその場その場で敏感に感じ取ること、そして、気持を汲んで応えようとする臨機応変かつ柔軟な対応なのだと学んでいった。

そのようにオスカーが女性を尊重し大切に扱えば、概ね女性も誠意をもって応えてくれること、よって、オスカーが女性から与えてもらう悦楽と充実も比例して大きくなることも、実感として知った。

つまり、聖娼たちがオスカーに与えてくれた真に価値のあるものは、快楽そのものではなく、女性の気持の測り方、その結果の臨機応変な対応の仕方と言えた。

中でも、女と心を通わせあうのに大切なのことは小手先の技術ではなく、情愛と思いやりに満ちた真摯な触れ合いだと教えられたことが、オスカーを懐深く、情の深い男に育てあげたといっていい。

優しい思いやりをもって接すれば、そして、思い込みで自分の目や心を縛らなければ、目の前の女性にどう触れれば良いかは自ずとわかり、見えてくるものだと、オスカーは教わった。

彼女たちは、実際、多くの男と密に相対する時、まず、相手を全面的に受け入れるのだと言う。

そして、その姿勢こそがガニカーが、性的な技巧に長けていると称される所以だった。男というのは、精神に硬い鎧を着込んでいる者が多く、その鎧の窮屈さに辟易していても、自身では巧く気持を切り替えて心の武装を解くことができないらしい。そういう類の男が、精神を解放するのに肉の愉悦は良いきっかけになるし、聖娼とはしがらみのない関係だからこそ、心を完全に解放してこそ深い愉悦が得られるのだという。逆に言えば、そこまでしないと、中々心を開け放して、深く息をついて寛げないのが男なのだとガニカーから教わり、オスカーは、さもありなんと、得心した。

だからこそ、聖娼たちは、情交において我を忘れるということは滅多にない。情交というのは、基本的に男女が相和すことであるが、聖娼たちは、自分の性向は押し殺しても、まず眼前の男の要求に合わせるようにするからだ。それが、彼女たちが職務として果たす情交の形だった。

だが、オスカーは己の要求を通しつつも、聖娼たちの望みを汲み取り、互いに同じほどの調和を奏でることを目していた。それが、聖娼たちがオスカーに課した課題だった。そのためには、冷静な観察眼と臨機応変の柔軟な対応は欠かせないものとオスカーは知った。

オスカーは持ち前の勘のよさと柔軟な思考、機敏な反射で、女性の要求を汲み取り、即座に応じるコツのようなものを体得していった。

この時点で、オスカーは、女性との交合で得られる肉体的快楽は単純至極な快感であり、誰が相手でもそう大差はないことを幾度かの情交を通じて体感していた。だから、オスカーは行為に溺れたりのめりこんだりせずに超然としていられたし、色々な技術を教わり、試しながら、女性の反応を伺い、また別の方法を試すなどという余裕のある振る舞いができたのだとも言える。

幾度経験を重ねても、性交から得られる快楽は、結局は単純な放出の快感の域を出なかったし、しかも、その感覚自体は、相手が誰でもそう大差はなかった。聖娼によって、自分の肌となじみ具合がいい・悪いはもちろんあったが、それでも、もたらされる快楽にそう明確な差があるわけではないと知っていったことが、オスカーが行為を冷静に推し進めるために役にたった。

そして女性を心底我を忘れるような状況にまで導いてやれれば、その先の舵の取り方は、かなりの部分でオスカー次第であること、一気に押し進んで爆じけさせるも、波が満ち干を繰り返すように、じれったいくらいにじわじわと快楽を積み重ねるのも自在であり、また、女性もその時々に応じて、どちらの状況も楽しめ、深い満足を得ることを知った。要は、そこまでの高みに女性を導いてやることだった。

女性は一人一人皆それぞれに違うこと、だが、目を開き、心を開き、誠意を持って接すれば、どうすれば良いのかは、自ずと見えてくることをオスカーは体得していった。そして一度道筋が見えれば、そこに向けて舵を取り、コースを決めるのは容易いことになっていった。

性交においては、女性を歓喜に導くその道程にこそ、男はやりがいと充実を感じるのではないかと悟ったことなどは、聖娼との交合を実際に経験しなければわからない実感だったともオスカーは思う。

もっともこれは、相手が感情的に何の思い入れのない聖娼に対してだからであろうことも、オスカーは自分でわかっていた。

聖娼たちは皆、麗しく、優しい。それこそ花のように。そして、オスカーは殊の外丁重に大切に花を愛ではしたが、一つ一つの花に特別な思い入れがないことも事実であった。

もし、この相手が、永年思い続けてきたアンジェリークであったらば…と思うと、オスカーは今もひどく心が波立った。

聖娼を組み敷きながら、心の内でアンジェリークを思う時、オスカーは、太陽神は、やはり、性戯においても巧者であることが暗に求められているのかもしれないと思うことがあった。

というのも、一般に配偶者を1人に定めない光の眷属は、巧みな性戯を賞賛すべき技巧としてもてはやし、性の悦楽を謳歌することに躊躇いを覚えないどころか、称揚する傾向が感じられたからだ。

そして、天界の至宝たるウシャスに目合わされる男は、ありとあらゆる面で超一流でなければならないとするならば、性戯もまた、ウシャスに相応しい男としてのレベルが求められるということも考えられた。

オスカーは常にアンジェリークのことを考え、アンジェリークに魂を注いでいたからこそ、より一層、聖娼たちに優しく、巧みに触れ、喜びに咽ばせる技術を身につけていったのだといえた。

身一つになってしまえば、きらびやかな装飾で相手を幻惑することはできない。身分も地位も、裸になってしまえば関係ない。情交においては己の肉体と鋭く研ぎ澄ませた感性が勝負の決め手であり、それはいわばごまかしのきかない素の自分を高めることと同義にオスカーには思えた。そう思うと性戯に練達するのも、一種の面白さや達成感があった。

オスカーが己を高めるのは、アンジェリークの面影を常に胸に抱いているからだった。アンジェリークに相応しい男になりたいからだった、オスカーは、それを忘れたことは一瞬たりともなかった。

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