百神の王 18

その年は例年になく、乾季が長かった。

普通なら、もうとっくに雨季が始まっていなければならない時期になっても、空には、雨雲といえるほど重たげな雲が生じない。

内心、雨季の到来を心待ちにしていたヴァルナは、まるで焦らされているような気分になった。

しかし、いくら雨雲の到来を待てども、陽光は苛烈なまでに照り映えるばかりで、雨神が天空に力を伸張していく気配がない。地上から隔絶された空間に存在するがゆえに、あまり気温の変動がないここ天界でも、時折汗ばむほど、外気温の上昇は顕著だった。

天界がこの有様では、既に下界は炎熱地獄のごとき猛暑に見舞われているのではあるまいか。

ヴァルナ神は、個人的な焦れの感情を通り越して、憂慮を感じ始めていた。

このままでは地上は日照り、ひいては旱魃がおきかねないとヴァルナ神は危ぶんだ。それ以上に、地上に炎暑をもたらしている事実も、その理由も報告せずに、ただ黙々と太陽の馬車を運行させている太陽神の姿勢をいぶかしんだ。水界から雨神の到来が遅れているのなら、その旨、報告をしてしかるべきだし、そのために雨季の開始が遅れているのなら、太陽の火力を若干抑え目にする方が常識的な対応に思われるのに、太陽神は、反対に、これでもかといわんばかりに、己の力を誇示しているように見えた。

ヴァルナ神は、通常、太陽神に地上の監督は全権委任という形で任せている、それだけ、太陽神の能力と士気に信頼を置くゆえである。

しかし、状況にこのまま変化がないようなら、流石に見過ごせぬ、どういう心つもりであるのか、太陽神を問い質さねばなるまい…と考え始めていたところで、漸く、雨神パルジャニヤが、太陽神から蒼穹の覇権を譲り受けたらしく、雨が降り出した。

しかし、ヴァルナ神がほっとしたのもつかの間だった。雨神が雨を降らせ始めたというのに、太陽もまた空に輝くという奇態な天候が暫く続いたのだ。その後、雨量が増えたきたかと思うや、まるで乾季の戻りかと思わせるような晴天が続くこともあった。雨の日がまとめて続くことも少なく、降っても短時間で上がってしまう日も多かった。まるで、太陽神が隙あらば雨神を押しのけようとしているか、意地になっていつまでも天空に居座りたがっているような印象だった。

どうにも現・太陽神の行動が不可解だ、とヴァルナ神は考えざるをえない。

私の名代として、生き物達を正しく導き、地上を見守る筈の太陽神が、一体、どうしたことだ。

地上の生き物を導き守る立場にある太陽神が、己の欲するまま、一切の抑制を忘れたかのように、力を発露させるのは、大層危険なことなのだ。太陽神は、神々の中でも、最も強大な力を持つ。だからこそ、その力は誇示することよりも、むしろ制御することにこそ神経を注ぐべきものだった。なにせ、太陽の火力は加減を誤れば、地上の生き物を死滅させかねないほど強力だ。ゆえに、太陽の力は常に抑制と節度をもって扱わねばならない。強力な力ほどしっかりと制御されねばならないし、それは容易いことではない。だからこそ、太陽神には、どの神よりも強くすぐれた自制心と克己心が要されるというのに…それは強大な力を与えられた者の義務だというのに…

なのに、この雨季の途切れの悪さ、あいまいさはどうしたことだ。太陽神が、何時までも天空を支配せんと、蒼穹に居座ってしまったら、木々にも動物たちにも必要な水が干上がってしまう。雨季と乾季は、交互に、どちらも偏重することなく等分に循環させねばならない。地上の全ての生き物たちのために。そして、雨神パルジャニヤが、怠慢を決め込んで雨季を遅らせていたのなら、まだ問題の根は単純にして浅いといえるが、万が一、太陽神が、天空の覇者の地位を譲ることを厭い、己の引き際を見極められなくなってきたのだとしたら…天空の覇者でいることに執着を見せ始めたのだとしたら…

『よくない兆候だ…』

雨季が最盛期に入ったら…数日間、雨が続き、太陽神がまとまった休息を取る頃合になったら、やはり、一度かのものをここに呼び、心構えの程をたださねばならぬか…訓戒を与えるというほどではなくとも、己の責務を改めて自覚させるような言葉をかけたほうがよかろう。

雨季の到来がいつになく遅れたことが、ヴァルナ神に、常ならぬ、深刻な憂慮を植えつけた。雨の日が途切れ途切れで続かないから、ウシャスも中々実体化できる暇がないのだろう、金の耳飾を預かった時以来、ウシャスがこの宮を訪れてくれないことへの寂しく待ち遠しい思いも、今は、頭の隅に押しやらねばならなかった。

しかし、ヴァルナ神の宮に、清しくきよらな金真珠の色をした光球が、夜も遅くに現れたのは、皮肉なことに、ヴァルナの心を占めるウシャスへの関心の度合いが低くなった…低くせざるを得なくなった時のことだった。

 

見るからに清らかで、ほんのりと柔らかな光を放つ光球の出現を認めた時、ヴァルナ神は、正直わが目を疑った。彼にはとても珍しい心境であるが、まったく思いもかけなかった事態に、暫し自失していたといってもいい。

彼女のことを意識しないよう努めていたわけではなかったが、彼女の訪れを心待ちにするより先に片付けねばならない懸案事項が心を占めていたからだ。

ましてや、雨季が始まって、まだいくらも経っていない。まとまった数日続きの雨の日にいたっては皆無なのだ。こんな状況で、暁紅の女神が具現化するなど…彼女が実体化できるなどとは、思いもよらなかった。

彼女とまみえ、言葉を交わすこと自体は、いついかなる時でも心躍る出来事だったが、そう滅多にあることではなかったし、時期もいつとは全く予想できないことだったので、ヴァルナ神には、元々彼女の来訪を期待するという習慣がなかったということもある。彼女との邂逅とは、本当に、思いがけない時にたまさか得られる僥倖なのだ。

だが、だからこそ、一度その柔らかに眩い光球の出現を認めれば、ヴァルナの思考は、全て彼女のことで占められた。

この世で最も清浄にして可憐の極みである女神。誰よりも愛らしく、誰よりも優しい心の持ち主である天界の至宝ともいうべきこの女神には、天則を司る天空の至高神の1人である自分でも、望んでも、自由に好きな時に会うことなど叶わず、言葉を交わせる機会は、それより更に少ない。彼女はこの世で最も美しいがゆえに、最も儚い存在だから。だからこそ、彼女が姿を現してくれる時は、その兆候すら一瞬たりとも見逃したくないとヴァルナ神は思う。ミトラも呼んでやらねば…と、ふと思ったが、すぐさま、わざわざ呼び立ててやらずとも、ミトラなら、程なく、ウシャスの高雅な気を感じ取り、すぐさま、この場にやってくるであろうと思い返した。とにかく、今は、僅かな間でも、光球から目を離すのが、理屈でなく嫌だった。金真珠の色をした光球が、徐々にほっそりと華奢で、たおやかな女性の輪郭を取り始めると、尚のこと、どうしても目が離せなくなった。声も出せず、息を飲んで、その光輝を食い入るように見つめることしかできない。

ただ『何故、今なのだ?雨季も始まったばかりだというのに…』という疑問は、ヴァルナの頭の片隅にはっきりとあった。

雨季の走りとして、雨の日はまだまだ飛び飛びという具合で、昼の段階では明日も絶対に雨だ、と言い切れるほどではなかった。もっとも、今宵ウシャスが実体化するということは、明日は未明から確実に雨ということだ。だが、いまだ雨季の最盛期ではなかろうに…つまり、彼女には、まだ、まとまった休息は取れない時期であるのに、何故、今夜、彼女は実体化して自分を訪ねてきてくれたのだろうか。その疑問を、女神の実体化に心奪われている最中であっても、ヴァルナ神は意識していた。

まるで、彼女自身が雨季の到来を待ちかねていたかのようだ。一日も早く実体化できる夜を、待ち望んでいて、その機会が訪れるや、この宮に来てくれたかのようではないか…とヴァルナ神は感じたものの、しかし、その理由は推しかねた。

とにかく、ここを訪れてくれた理由は彼女本人に聞けばよいことだ…そう思いながら、もしや、彼女は、あの火の若者のその後を…彼女が耳飾を授けた若者の様子を聞き知りたくて、今宵ー雨季が始まるや否や、実体化したのではあるまいか…と、ヴァルナ神は唐突に思いつき、すぐに「まさかな」と自分のその思いつきを馬鹿げたものとして打ち消した。

光の眷属の象徴・理想たる暁紅の女神は、万物に等しく慈愛を与える、それは、逆の見方をすれば、特定の存在に過度に思いを注がない、心を傾けないということでもあるのだ。かの若者が次代の太陽神の有力候補だからこそ、ウシャスも多少は気にかけたのであろうし、そこまでなら頷けるが、それ以上の思い入れはありえないし、あるはずのないことだった。

そう思った直後、眩い紅の閃光が空間を満たし、次の瞬間、ヴァルナ神の目の前に、それこそ真珠のような肌をした、におい立つように可憐にして麗しい乙女が、楚々と佇んでいた。彼女の輪郭を彩り輝く真紅の光彩は徐々に金色に霞んで中空に溶けゆき、あたりをほんのりと照らしていた。その和えかな光をまとって、彼女は、ゆっくりと眠りから目覚めるように顔をあげ、瞳を開いた。翠緑の瞳に生き生きとしたきらめきを宿し、ふっくらとした桜ん坊のように瑞々しい唇にえもいわれぬたおやかな笑みを乗せながら、その乙女は恭しく、優雅の極みともいえる流麗さでヴァルナに向かって礼をした。

舞うようなウシャスの体の動きに合わせ、しゃらり…と、彼女の身を飾る金鎖が軽やかな音を奏でた。あわせて、右の耳朶に一つだけ揺れる耳飾が、否が応にもヴァルナ神の目を引いた。片方だけの耳飾は、完璧な一対であった時よりも不思議な趣をかもし出して見えた。『欠け』を感じさせる頼りなげな風情が、ウシャスの儚げでふんわりとした愛くるしさを、より一層引き立てているようにヴァルナには思えた。

 

ヴァルナ神は、ウシャスとは幾度となく顔をあわせている。もちろん、絶対数は多いわけではないが、それでも、他の神々に比すれば、破格の多さでヴァルナはウシャスと目通りしているはずだったーというのも、ウシャスが公の場に姿を現し、それを拝謁できるのは、数百年に一度の割合で起こる新太陽神叙任の儀とそれに続くウシャスとの婚姻の儀の場でのみであり、その場に列席できる神々も各界の最高神のみで数も決して多くない上、その神々でさえもウシャスの姿は遠目に垣間見るのが関の山だからだ。その神々に比すれば、ヴァルナは大層幸運だ。自分が太陽と月の通り道を造りあげた神ならばこそー人間たちはそれを黄道と呼んでいるらしいーこの宮の端は、天空の道に僅かながら連なり重なって存在しており、だからこそ、ウシャスも、この宮でなら、短い時間とはいえ実体化できるのだから。

それでも、ヴァルナは、幾度見ても、いつ会っても、ウシャスのたたずまいに、つい、無言で見惚れてしまう。これほど清しく初々しく、可憐にして優しげな存在は二人といないと、見つめるほどに嘆息するばかりだ。

だから、ヴァルナは、気づけば、いつもウシャスの方から礼をされ、それを受ける立場になってしまっていた。

「ヴァルナ様におかれましては、ご機嫌うるわしゅう存じ上げます。お元気そうで何よりです」

「あ、ああ、そなたもつつがないか?」

決して偉ぶってふんぞり返っているのではない、彼女から挨拶の礼を尽くすことを当然と言わんばかりに待っているわけでもないのだ。なのに、挨拶が後手に回るのは、彼女の笑みに、いつも、暫し見惚れてしまうからである。そして、彼女から挨拶の言葉をもらうたびに、ヴァルナは「また、私から言葉を懸けそびれてしまった…」と忸怩たる思いに苛まれ、内心気まずく居心地悪い心持になるので、余計に返礼とも言うべき言葉もすくなってしまい、どうにも無愛想でもったいぶって見えてしまうーそんな風に振舞いたいわけではないのにだ。少なくとも、ヴァルナ神は自分で自分に苦虫を噛み潰すような気持を感じていた。彼女の外観が、咲き初めの花のように可憐で初々しいから、尚のこと、自分の態度が威圧的、高圧的に思え、彼女もそう感じてはいまいか、と心配になるのだった。

もとより神としての立場は同格であるし、神として生きてきた年月も悠久という意味で等しい。だから、ウシャスが、殊更、ヴァルナに丁重な態度を取る必要はないのだが、ウシャスは外観がうら若い乙女であるせいか、いつでも誰に対しても、弁えをもって淑やかに振る舞うのが常だった。そして、ヴァルナははっきりと口に出さずとも、たとえ同格の神同士であっても、互いに並ぶもの無き高位神である以上、敬意を払いあい、折り目正しく礼節をもって接することが望ましいと常々思っていたので、ウシャスの振る舞いを非常に好ましく思っていた。しかも、彼女は、ただ慇懃なのではなく、丁寧な態度のうちにも、親しげで人懐こい雰囲気と柔和な物腰をもつ。加えて、彼女に何某か良かれと思うことを言ったり行ったりすると、彼女はこちらが示した気遣い以上に、心から嬉しそうな満面の笑みを返してくれるので、ウシャスに一目でも会った者は誰もが彼女のその愛らしさに心打たれ、その笑みの晴れやかな美しさに一度で魅了されるのだ。自分など…ミトラもだな…会うたび、この笑顔を見るたびに、彼女に心奪われ、見惚れてしまって、飽きるということがない。

が、そんな愛着ともいえる心持が、高位の天空神としては些か気恥ずかしく、特に神の名を拝命した時からの腐れ縁ともいえるミトラ神が傍にいる時は、ヴァルナは己の内情を悟られまいとするあまり、ウシャスに対し必要以上に厳(いかめ)しく振舞ってしまうことがあった。そんなわかりやすい態度は、逆に、ミトラ神にとっては、格好のからかいの種にしかならないのだが、ヴァルナ本人は、そのことに気づいていなかった。

だが、今この場は、己とウシャスの二人だけだ。ミトラに見せ付けるように、故意に厳格に振舞う必要もないので、言葉足らずだった挨拶の仕切りなおしをするつもりで、ヴァルナは、柔らかく細めた瞳でウシャスを見つめながら、ウシャスに思いのこもった言葉をかけた。

「ウシャスよ、よく来た。そなたの来訪は、いつでも私には喜ばしいものだが、今宵はことのほかうれしく感じる。そなたに話してやりたいことがあったのでな、まるで、私のこの気持がそなたに通じたかのように思えて…」

「もったいないお言葉、かたじけのうございます」

「そう、かしこまらなくともよい。そなたには恐らく良い報せだ…私にも朗報といえるが。そなたが目をかけていた火の若者だが、そなたの耳飾をこのうえなく大切にしているようだ。あの者から、下層域では考えられぬような高雅な光の気が発せられているのを感じたという報告が参っている」

「!!!…それは…まことでございますか?」

「ああ、しかも、その光の気は、些かのよどみもなく極めて清冽にして鮮烈なものだったらしい。気自体も、ほのかに漂うなどというものでもなく、くっきりとした力強いものだったそうだ。と、いうことは、あの若者は、そなたの耳飾の価値をきちんと理解した上で、肌身離さず身につけているのであろう。ただ、大切に仕舞いこんでいるだけなら、光の気はそう清冽なものにはなるまい。気は常に流れていてこそ、清冽さを保てるのだからな。恐らく、そなたの光の気は、かのものの身中に溶け込んで火の気と混じりあうことで、力強さをも兼ね備えたのであろう。だからこそ、第3者にもはっきりとわかるほど、輝かしく、清冽な光の気が彼の者から発せられていたのであろう」

「ああ…ヴァルナさま、ありがとうございます…オス…ずっと、火の若者のことを気にかけてくださって…」

「ふ…それは結果論に過ぎぬがな、私は、かの若者を気にかけたのではなく、そなたの耳飾の行方を案じただけだ。もっとも、そのおかげで、私もあの若者から目を離せなくなったのは事実だが」

ヴァルナ神は我知らず苦笑していた。

「歴代の太陽神に比すると色々と風変わりな振る舞いも多いようだが、才気溢れる優秀な若者であるのは確かなようだ。中々に見所があって、先が楽しみなことよ」

「ええ…ええ…そうなんです、本当に…」

胸の前で手を合わせ、こくこくと、ウシャスが力強く頷いた。瞳をきらきらと輝かせ、この上なく嬉しそうに、咲き誇る花のように晴れがましい笑みを湛えながら。

ウシャスのこの嬉しそうな様子はどうだ…火の若者をそれ相応に評価しただけだというのに、まるで自分が手放しに褒めちぎられたように彼女は嬉しそうではないか…いや、もしかしたら、自分が女神ウシャスとして多大の敬慕と賞賛を受けている時よりもさらなる喜びに溢れているように見える…と、ヴァルナ神は、ウシャスの様子を不思議な気持で見つめた。

そうするうちに、ウシャスの笑みは喜色満面のものから、些かのはにかみを含んだものに替わり、同時に澄み切った翠緑の瞳は、深い謝意をたたえて真っ直ぐヴァルナに向けられた。

「ヴァルナ様、改めて御礼申し上げます、私の我侭を聞いてくださり、耳飾りの行方をずっとお心にお留おきくださって…オ…火の若者に目をかけてくださって…本当にありがとうございます。どうか、これからもオス…いえ…その、火の若者のことをよしなに…」

「…この者が、そうしたかったというだけだ、したくてやっていることなのだから、そなたが心苦しく感じたり、遠慮する必要は微塵もないぞ、ウシャスよ」

ウシャスの背後から、しっとりと艶めいた、慕わしい声が聞こえてき、ウシャスははじかれるように振り向いた。その声と同じほどに艶やかな長い黒髪をもつ麗人が、なんとも言えぬ優しげな笑みを湛えて立っていた。

「ミトラさま!ミトラさまにもご機嫌うるわしゅうぞんじあげます」

ミトラの姿を認めざま、ウシャスが少女の如く無邪気な笑みを浮かべながら、優美に脚を引く。その礼にミトラ神は艶麗な微笑で応えた。

「ああ、そなたの顔を間近に見られ、たった今、この上なく麗しい気分になったぞ」

「ミトラさま、過日の件は、ミトラさまのお口添えあってのことでございました。その節は、本当にありがとうございました」

ウシャスが、心から嬉しそうに、改めて恭しくミトラに礼をすると、ミトラはそれには及ばぬという風に笑いながら手をあげ頭を振った。

「よい、返礼はその笑み一つでな。そなたの笑みは、どのような栄誉、どんな金銀財宝にも勝る…」

すると、ヴァルナ神が、些か残念そうに、ぽつりと呟いた。

「…存外、早かったな」

「…そなた、ウシャスの気配を感じても、私をすぐに呼ばなかったな…」

「ウシャスがどれ程の間実体化できるかわからぬ以上、そなたを呼びにいくなどという無駄な行為に時間を割くわけがなかろう。それに、そなたなら、わざわざ私が呼ばずとも、即座にウシャスの気をかぎつけてくるであろうとも思ってのことだ。実際、その通りであっただろうが。それにしても…予想以上に早かったが」

「それほどまでに…瞬きする間も惜しんでウシャスと伴にいたかったか…姑息な…」

「その言葉、そっくりそなたに返そう」

とだけ言うと、何事も聞かなかったかのように、ミトラ神は、改めて優しげな笑みを浮かべてウシャスに向き直った。

「ウシャスよ、今度は、私の住まう棟の方に遊びに参れと申してあったであろう。なのに、ヴァルナの処にわざわざ顔を出したのは、何か故(ゆえ)あってのことなのであろう?」

言外に「特別な用向きがなければ、わざわざこの仏頂面を好んで見に参るわけがなかろう?」とでも言いたげなミトラ神の視線に、ヴァルナが色をなして反駁しようと口を開きかけた時だ。

「!…はい…私…」

ウシャスは、突然、はっとしたように居住まいをただすと

「オス…火の若者の近況を教えていただけたことが嬉しくて…ここに参上した用向きを暫し失念しておりました。申し訳ございません…実は、ヴァルナ様にご相談申し上げたいことがございまして…ために、失礼を承知で、先触れもなく、ヴァルナ様をお訪ねいたしました」

と、恐縮した様子で、しかし、これ以上はない真剣さで、言葉を紡ぎだした。

「ウシャスよ、どうした、そのように顔を曇らせて…」

あわてたのはヴァルナだ。

唐突に、花のような容姿にそぐわず、表情を硬く強張らせたウシャスの様子に…先ほど火の若者のことを言及していたときは、それこそ満開のガーべラのように愛らしく輝いていたのに、一体、どうしたことかと、ヴァルナは心底うろたえた。

そして、単にヴァルナへのあてこすりのつもりで言葉を発したミトラは、自分の言葉が「当り」だったことに、尚のこと、うろたえてしまったのは言うまでもない。

「そうだ、そなたにそのような憂い顔は似合わぬ、どんなことでも、我らがなんとかしてやろう、何でも申してみよ」

「はい、私が…考えすぎ…なのかもしれませんが…」

ウシャスは、言葉を選び選び、慎重に話しだした。

 

ウシャスが言葉にした憂慮は、ヴァルナも内心案じていた現・太陽神の、常ならぬ振る舞いのことであった。

ウシャスも暫く前から、空気に雨神の到来の気配を感じていた。風神たちは雨神を風の輿に乗せて疾うに水界から天界へとお連れしていたのだ。

そして、いつもなら雨神の到着とともに、太陽神は進んで雨神を出迎え、天空の覇者たる座を彼と穏便に交替して、暫しの休息期に入る。

が、現・太陽神は、雨神の到着した後も雨神など天のどこにも存在していないかのように、雨神の輿に目もやらず、ひたすらに、太陽の馬車を駆って天空を駆けていた。しかも、太陽の力を故意に誇示するかのように、強すぎるほどの陽光を発しながら。出迎えがないことに業を煮やした雨神は自ら輿を降りて空に雨を降らせ始めたが、それでも太陽神は蒼穹から退こうとせず、天空の道に、いつものペースで太陽の馬車を走らせていた、つまり、蒼穹には暫くの間、太陽と雨の二神が同時に存在していたために、雨季が始まってからの数日間、地上では太陽が照る傍らで、同時に雨も降るという奇妙な天候が続いた。

そして、雨が降る最中に太陽の馬車を走らせたことで、太陽神や馬車そのものよりも、馬車を引く神馬たちが、全身に浴びせられる水の気に心身とも徐々に衰弱していってしまった。それが看過しえなくなって漸く、太陽神はいかにもしぶしぶの呈で蒼穹の覇権を全面的に雨神に委譲した。それが、つい昨日のことだという。『それで今夜、漸くこの宮をお尋ねできる暇(いとま)ができたのです』とウシャスは語った。

そして、この間、ウシャスは、太陽神の振る舞いが、どこかおかしいと感じてはいたものの、なんら為す術を持たなかった。というのも、ここ暫く、ウシャスは今まで以上に強力な火の気をこの身に浴びせられ、僅かでも言葉を発する間を見つけるどころか、太陽神の腕がこの身に触れたか触れないかという瞬間に、蒸散するかのように一気呵成に陽光に溶けて混じり、空一面に拡散してしまっていたからだ。畢竟、意識を保っていられる時間も短くなる一方だった。一言でも太陽神と言葉を交わせれば、と思い、だから、火の泉での禊を念入りに行い、火の気をより丁寧に厚みをもってまとうようにもしてみたのだが、それもほとんど効果はなかった。

「私が実在化できる時間は、元々僅かなものです、それでも、スーリヤ様の発する火の気が日を重ねるにつれ強くなっていくばかりに思われることや、雨神さまの気配を感じるのに、スーリヤ様が毎朝馬車を駆られるのはどういうわけかを、せめて、お尋ねしたかったのですが、それも叶わず…それだけの時間もなく、私は光の粒子となって空に溶け出してしまっておりました。でも、私は、太陽神さまのなさりようが、どうにも気にかかってしまい…見過ごすに忍びなく、ヴァルナ様、ミトラ様のご意見をうかがわせていただきたく思い、この場に参じた次第にございます」

「…太陽神が、そこまで奇矯な振る舞いをしていたとは…な…」

「…それは、太陽神の火力が衰弱し始めていることの証左であるやもしれぬな…」

「ああ…もし、そうなら本人の自覚を促しても…」

「無意味ということだ…いや、むしろ残酷というべきか…」

「衰弱?…いえ、あの…スーリヤ様の発する火の気は、むしろ強くなるばかりに私には感じられるのですが…」

「ああ、いや…それは、その、なんというか…」

「いうなれば制御の問題なのだ…」

ウシャスの話を聞いたヴァルナ・ミトラ両神の顔に、言葉以上に沈うつな何かが浮き出ていた。

が、ヴァルナがその空気を吹っ切るように、きりりと顔をあげた。

「そなたが、相談したいことは、そのスーリヤの常ならぬ様子を危ぶんでのことだな?」

「はい…現し世に長くは留まれない私の身では、スーリヤ様のお考えを詳らかにすることはできませぬゆえ…それと、あの、もう一つ気になることがございまして…この件と直接の関係があるかどうかもわからぬ上、私事で恐縮なのですが、最近、私は…太陽神さまの視線を感じるたびに、何か胸が塞がれるような重苦しい気持になるのです、ヴァルナ様…」

「どういうことだ?ウシャスよ」

「私の思い違いならいいのですが、スーリヤ様が、私を見つめる様が…何か、痛いほど思いつめたご様子なのです。ただ、私の方をひたすらに凝視なさっておいでで、その視線は私の身に突き刺さるようで…何か怖いほどなのです…そして、私のことを、むず、と、つかむように腕をお伸ばしになられるのですが…」

その後のことはウシャスにはよくわからない。ウシャスの身は本性である光に戻り、ウシャスは世界を見るための瞳を失ってしまうから。だから、眼前の太陽神が、腕を戦慄かせて、何もない中空を、何かに取り付かれたかのように必死に掴もうとしていることも、それこそ陽光そのままのように強い輝き放っていたその瞳が、徐々に輝きを失い、いつしか暗渠のように暗く沈んでいくさまも、ウシャスが見知ることはなかった。

だが、無数の光の粒子になって、陽光と解けて混じりいく最中、拡散して輪郭を失っていく意識の中に、焼け付くような重苦しさをウシャスは感じ取っていた。

その時のウシャスはもう肉体がないはずなのに、何故か胸が焼かれるようで、潰れそうに重苦しい心持がして…そんな気がするのだった。ただ、この感覚が何なのか、その正体はわからなかった。胸の苦しさが何処から、何故、もたらされたのかも、薄れいく意識では、ようと掴めず…手から砂が零れていくように、掴もうとしてもこの手からすり抜けてしまい、程なく意識は白く眩い光となってしまうの常だった。

「その後のことは、空にあまねく拡散してしまう私には、よく、わかりかねます、ただ、光の粒となって大気に溶け行く瞬間、何故か、とても重苦しく、胸が潰れるような…胸がかきむしられるような痛みのようなものを…そんな思いを感じるのです…それも、ここ何年かの間に、私の胸に差し込むその痛みは、少しづつ強さを増していっているような…そんな気がするのです…」

ウシャスは無意識のうちに己の胸を抱きしめていた。

「こんな気持を感じるということは、ヴァルナ様、もしや、私は、地上に、優しい希望に満ちた目覚めを授けることができていないのでしょうか…」

ヴァルナとミトラの両神は気遣わしげにウシャスを見つめ、次いで互いの顔を思惑ありげに見つめあい、目顔で頷きあった。

「ウシャスよ、そなたは何も案ずることはない」

「でも、ヴァルナ様…」

「ヴァルナの言う通りだ、それは、本来、おまえが心を痛めることはないのだ…おまえは、よくやっている。私やヴァルナを含め、おまえは万物に限りなく優しい御手で、麗しい目覚めを与えている、安心するがいい」

「然様でございますか?ミトラさま、私は、本当に、きちんと務めを果たしておりましょうか…」

「ああ、これは、恐らくは、あくまでスーリヤの問題なのだ…」

「え…?ミトラさま…それは一体…」

「とにかく、そなたは今までどおりでよい、そなたは十分に良く務めを果たしいる、だから、これからも己の為すべきことを果たしていればそれで良いのだ。難しく考えることはない、雨の降らぬ日には、いつものように万物を慈しみ、健やかな目覚めを与えてやってくれ。地上の生き物が、夜明けを迎えることのできる喜びを、生きている喜びを謳えるように。それをこそが、天則の…父なる天空神ディヤウスの御心なのだから…」

「はい、それはわかります、わかっています…」

ウシャスは、小さく、弱弱しく頷いた。

ヴァルナ様のおっしゃることはこの世のあるべき姿だ。私も、地上で、皆、懸命に、精一杯生きている生命が愛しい、だから、皆が、今日1日、満ち足りた思いで幸せに過ごせるようにと願って、この手で夜の闇を払い、目覚めをもたらしているのだもの。目覚めの喜びよ、皆にあれかしと願って…。

でも、だからこそ気になった…私が感じる、あの胸の重苦しさは何なのか、が…

だって、ふいに、唐突に、その苛立たしげな息苦しさは外から胸に差し込まれたように現れる、自分の内から生じたものという気がしない。

だから、私、本当は、ずっと気になっていた。もしかして、この悲しみは…スーリヤさまが胸にお持ちのものじゃないかしら、と…。

もし、この苦しさがスーリヤ様のお心に在るものなら、私の光とスーリヤ様の光が交わり混じりあう瞬間、スーリヤ様の苦しさを、私は自分のもののように感じているのではないかと思ったの。

そうしたら、今、ミトラ様も「これはスーリヤの問題だ」っておっしゃったわ。あわてたように、ヴァルナ様が遮っておしまいになったけど、確かにミトラ様はそうおっしゃったわ。

なら、やはりスーリヤ様は、私が、目覚めを与えるその時に、こんな胸苦しさを感じてらっしゃるということなの?それも、日を追って強くなっていくような胸苦しさを…

でも、それは何故なの?

そして、もし、この私の考えが正しければ…万物に生きる喜びを与えるはずの私なのに、よりによって花婿たるスーリヤ様に、私は、1日の始まりの目覚めの喜びを与えられていない…ということではないの…?

それに…私、この胸苦しさに覚えがある。この焼け付くように痛みを感じるのは、初めてではない、過去に…遠い昔にも同じような悲しい息苦しさのようなものを感じた覚えがある…それも、幾度も幾度も繰り返し…

「ヴァルナ様、ミトラ様、どうか、率直におっしゃってください…本当に、私は、きちんと務めを果たしておりますでしょうか?この世のいきとしいける者に、無事、朝を迎えることの喜び、その日を過ごせる晴れやかな希望を与えられておりますでしょうか?幸せを…今日を迎えることのできるその幸せを、この手でもたらせておりますでしょうか…?」

「なにを申すのだ、ウシャスよ、そんなことは当然ではないか!」

「そうだ、ウシャスよ、何を心配することがある?そなたの放つ暁紅の光を浴びることは、誰にとっても無上の喜びだ。ましてや、そなたの麗しい腕からもたらされる暁紅の光は、近来、いや増しに美しく、倦むほど数え切れぬ朝を迎えているこの私でさえ目を見張る程に艶やかに麗しい…あまりの美しさに、胸の痛みを覚えるほどにな…」

「胸の痛み…?でございますか?」

「ああ、あまりに美しく慕わしいものを目にすると、何故だかな、人は、胸が締め付けられるように苦しくなることがある。だが、それは、決して不快な、辛い痛みではないのだ。むしろ、甘い痛みとでもいうか…。そなたの花のようなかんばせを見つめていても、私は、同じような心持を味わうことがあるぞ。胸が絞られるような、ほの甘くも息苦しいような痛みを、な…」

「………」

…そうなのかしら…

ウシャスは考える。思い当たるところと、頷けないところとが、共にある、と。

ミトラさまのおっしゃることは、なんとなくわかる…私も、胸が締め付けられるようなのに、ただ辛いのではなくて、そう…甘く感じる痛みがあることを知っているから。オスカーと一緒にいる時、よく感じた気持だから。胸が苦しいのに、地上にいながらふわふわと浮き立つような不思議な気持。オスカーが私に笑いかけてくれた時、オスカーの甘く落ち着いた声音をこの耳にしている時、私、胸が甘く暖かい思いで一杯になると同時に、何故か苦しくもなったわ。今だって…オスカーの笑顔を頭に思い描くと、オスカーの声を懐かしく思いだすと…そうよ、今も、きゅぅっと胸が絞られるような苦しさを感じるわ、でも、それは、決して痛いだけのものじゃない。むしろ、何度も思い返したくなるような、甘い息苦しさ…。

でも…ここ最近の朝、私が感じる…胸苦しさは…もっとねばりつくように重くて…引きずり込まれるように暗くて…あの甘やかな胸の痛みとは、違うような気がするのだけど…しかも、昔はほんのちりりとした疼きのようだったのに、今は日増しに強くなっているように思える…でも…

ウシャスは、恐る恐る探るように

「では、私の感じる胸の痛みが、スーリヤ様のものであったとしても…それは、そういう類の…心配の要らない痛みなのでしょうか?ミトラ様、ヴァルナ様…」

と、ためらいがちな口調で、両神に尋ねた。

「申し訳ありません、スーリヤ様ご本人にお尋ねできればいいのですが、私の身にはそれが難く…」

すると二人の高位神は、競い合うように口々に応えた。

「スーリヤは、そなたの美しさを、毎朝のように、最も間近に目にできるのだ。そなたの麗しさは見てて見飽きることなどなかろう。あの者が、そなたの美しさに毎朝胸を痛めているとしても、それは至極当然のことに私には思えるぞ」

「そうだ、そんな痛みは気遣うには及ばぬ痛みだ。むしろ、幸せな痛みなのだからな。なにせ、あの者は、この世界でただ一人、息が触れ合うほど間近にそなたを見つめられ、あまつさえ、そなたをその腕に抱ける者なのだから…これ以上の果報者など、他におるまいよ」

「…さようでございますか…」

何か…何か違う気がする。

そう思うのに、ウシャスには、これ以上疑問を呈するだけの根拠も材料ももっていなかった。

ただ、釈然としない思いは澱のようにウシャスの胸に淀んで沈んだ。

だって、もし、朝の光の美しさに胸が痛むのだとしたら、何故、この重苦しい痛みは強まるばかりなの?今のスーリヤ様がその地位に就かれた時には、こんなに強い痛みは、感じなかったのに。

それに、私、この息が苦しくなるような胸の痛みを、昔も感じたことがある…そんな思いがどうしても打ち消せない。

ずっとずっと昔から、何度も何度も感じてきたような…そう、今のスーリヤ様の、その前のスーリヤ様の時も…その前の前のスーリヤ様がいらした時も、感じたような記憶が…かすかにあるの…

スーリヤ様がその地位に就かれてから暫く経つと、私は、何故か、少しづつ、息苦しさを感じるようになる、それは、最初、とても微かな痛み、でも、途切れることもなく…波が打ち寄せるように、この胸に染み入るように、息苦しさが、段々と強くなっていくような気がするの…

そして、この痛みには、物悲しさが付きまとっている気がしてならない…

これが何なのか…私には、はっきりとはわからない…私の意識は、いつも曖昧にすぎて…しっかりと保っていられる時間が短すぎて…

「とにかく、そなたは何も心配せずともよい。そなたは、己の務めをきちんと果たしている。スーリヤのこともそなたが案ずるには及ばぬ」

「ああ、そなたはそのままで良いのだ、何も案ずるな」

「そうだ、全て我らに任せておくがいい」

「……」

ウシャスは黙って頷いたが、自分でも気付かぬうちに意気消沈していた、自分の感じる違和感が上手く伝えられなくて、伝える術がない気がして。哀しみを伴う胸苦しさとも痛みともつかぬものが、確かにこの胸に満ちていくことを、どうしたらわかってもらえる?でも、何故だろう、どうやって伝えても、何か、上手く伝わらない気がする、聞いてもらっても理解はしてもらえず、いなされてしまう…そんな気がしてしまう…

そして、もし、この痛みが、スーリヤ様のお心から生じたものだとしたら…オスカーがスーリヤの名を戴いたら、オスカーも、いつか、こんな胸の痛みを感じるようになるのかもしれない…スーリヤになるということは、この胸の痛みが、影のように付きまとうものなのかもしれない…。

ああ、そうよ…この痛みの記憶があったから、私、オスカーに曖昧なことしか言えなかったのだわ。オスカーがスーリヤになれば、私はあなたと再び会える。でも、それがオスカーにとって、幸福なことかどうかはわからないなんて、謎かけのような言葉しか伝えられなかったのは、きっと、このせい…

私もオスカーに会いたい、オスカーの声が聞きたい。オスカーが元気に頑張っている様子を聞くだけで、胸がはちきれそうに嬉しくなるのですもの。でも、あなたが、スーリヤになったら、こんな胸の哀しみを抱くことになるのなら…そんなのは嫌…それくらいなら、スーリヤにならないで、私に会いに来てくれなくてもいいのにとも思うの…ああ…私、どうしたいの?どうすればいいの…

自らにはどうにもできない逡巡に、心が千々に乱れた。と、その瞬間に、ウシャスは、人としての身体と意識を現世に繋ぎとめられなくなった。己が身が輪郭を滲ませて中空に溶け出していくのを感じた。

「ヴァルナ様、ミトラ様、色々とご教授くださりありがとうございました…」

「!…ウシャスよ、もう…いってしまうのか…」

「私は、私にできることを精一杯すれば良いと…教えていただきましたので…」

「そうか…ならば、良いのだが…だが、今は…今度こそは、何も心配事など抱えず、心安く遊びにくるのだぞ、待っているぞ」

「はい、ありがとうございます、ミトラさま。では、ヴァルナ様、ミトラ様、ご機嫌麗しゅう…どうか、あの火の若者のことを、こ…れから…も…よし…な…」

と、その瞬間、ウシャスの姿が中空に飛び散るようにかききえた。名残の光の粒子がはらはらと舞っては地に落ちる前に消えていく。

二神は呆けたように、その光の粒が舞い落ちる様を無言で見つめていた。

光の粒が全て見えなくなると、ミトラ神が重々しく口を開いた。

「また、あの時期がやってきたということか…」

「かもしれぬ。まだ、はっきり、そうと決まったわけではないが…」

「だが、近々起こりそうではないか。はっきりと兆候が現れたその時になって、準備ができていません、では、すまんぞ」

「それもわかっている」

「あの火の若造な…今のところ、最もスーリヤに近い者は、今、どの辺りにいるのだ?」

「先日、神馬の数を3頭に増やしたところだ」

「間に合うか?」

「今までの経過と、かのものの資質を考えれば、十分に有望だ。だが…もう少々急がせよう」

「その方がよかろう」

「ああ、さもないと…」

「そうだ、あれが…ウシャスの顔が今以上に曇ろう。まだ、兆候もはっきりとしていない今でさえ、スーリヤの焦れとも焦りともつかぬ感情を…恐らくは自らの神力の衰えを認められぬ葛藤を、ウシャスはわが身の苦しさとして感じ取ってしまっているようだからな…」

「あれの心は大層柔らかく優しいから、痛みや苦しみの情を、より強く、己のものとして感じてしまう…そなたにも、それは見るに忍びないことであろうが」

「ああ、だから、そうなる前に、健やかな者と首の挿げ替えが必要なことは、わかる…使われるだけ使われて、哀れなものだが…ウシャスのためとあらば、いたしかたあるまいな」

「そうだ、今までに幾度となくしてきたことだ。その地位に相応しい名誉も、権限も、何より、ウシャスをその手に抱けるという、この世の何より貴重な特権をスーリヤには与えている、何百年にもわたってだ。十分過ぎるほどの対価であり、褒賞ではないか」

「私なら…それを特権と思うかどうかは、怪しいがな…」

「そなたは、あれの顔を毎日見つめ、その手に抱きたいとは思わぬのか?」

「そう思わぬ男はおるまいよ。私だとて、スーリヤがうらやましいと思う時はある、だが、自分がスーリヤになりたいかと問われれば、直ちには頷けぬな…」

「当然だ、そなたは契約の神、光の眷属なのだからな。なりたくても太陽神にはなれぬ、私同様に…」

「そういう意味ではないのだが…」

ミトラ神がむっつりと黙り込んだので、ここで、この話は終わりになった。ウシャスもいない今、ヴァルナ神の宮にいる意味も見出せず、ミトラ神は黙って静かにその場を立ち去った。

 
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