百神の王 20

月が出ていた。

夜に月光を浴びるなど何年ぶりのことだろう。月の光とはこんなにも幽遠にして趣深いものだったか…

オスカーはそんな感慨に捉われていた。銀箭のような月光は、硬質な輝きで、広々とした馬場のあたり一面に降り注いでいる。

この天界に来てからというもの、大半は未明に起床し、暁紅の訪れを心待ちにしながら厩舎に向かう年月を過ごしてきたから、オスカーの就寝は概して早かった。

特に、この数カ月は、それこそ夜明け前に厩舎に入り、日没過ぎまで馬場に居続けという状況だった。終日、馬の世話と調教に明け暮れる日々だった。今まで以上に体力ーというよりは持久力、精神的にも肉体的にもーが必要だったから、食事はむしろ意識してきちんと取り、健康を維持するために必要な自身へのメンテナンスは欠かさなかったが、それを済ませた後は、自室に戻るや寝台に倒れこみ、夢も見ずに眠りこむというような有様だった。とてもではないが、夜に空を見上げる余裕などなかった。神酒の杯であるという月は、太陽と同じ天空の道を運行するが、その速度は太陽のそれとは異なるため、昼日中でも見えることがあり、オスカーが長い年月目にしてきたのは、その、輪郭のぼやけた真昼の月だけだった。そのせいもあって、月が視界に入っていても、その存在を格別意識したことはなかったな、と、オスカーは今になって思う。

が、これからは…あの月も、俺には今までよりも馴染み深い…いや、必要不可欠なものになるのだろう。もっとも、あの神杯の眺めが、今、ここから見るものと同じかどうかはわからないが…と、オスカーは、今一度、月をしみじみと眺めてみた。

静かな夜だった。

今が深夜ということを考慮しても、なお、あまりに深い静寂だった。月の光が降る音さえ聞こえそうなほどだ。

周囲に誰もいないからだろうか…いや、俺の胸中が、不思議と静かに澄み切っているから、そう感じるだけなのか…。なんにせよ、こんな風に夜空を、月を見上げることなど、今までは考えられなかった。そして、明日になれば、またそれ以降は、こんな静かな気持で月を見上げることはないかもしれない。となれば、今、この時間は、俺の人生の節目、その狭間に生じた僅かな空隙、あわいのような一瞬なのだろう…。

オスカーはそんなことを考えながら、月を見上げた。

ここ数ヶ月のめまぐるしい転変を思いおこしながら。

 

託される馬が1頭から3頭に増やされるまでは、かなりの時間がかかった。

が、その後、3頭の馬が5頭に増えるまでの間はさほど長い時間ではなく、そして5頭が7頭になるまでの期間は、それより更に短かった。弾みがついた、とでもいうように、あっという間だった。

最初はアグネシカ1頭しかおらず、閑散としていた厩舎も、今は7頭の火の馬で馬房は一杯で、活気と熱気に満ち溢れていた。

預かる馬が増やされることは、それだけオスカーが目指すゴールに近づいたという意味であった。

短期間で増やされた馬の数は、己に懸けられる期待の大きさ、有望な前途を思わせたし、それは喜ばしいことであったのは事実だが、オスカーには、次々と間を置かずに馬が増やされていくことは、とんとん拍子の出世というより、拙速な見切り発車に思えて仕方なかった。

なにせ馬車馬としての調教をほぼ完成できたアグネシカを除き、後続の馬たちは、馬車用の馬具に慣れ、ハーネスで馬車に繋いで走れるようになるや、次の未調教馬が下賜されるという状況なのだ。「馬車に繋げて走る」という、馬車馬としては最も初歩的な調教を済ませただけで、すぐ、新たに来た馬の調教を一から始めねばならない。馬車に繋げるようになっただけでは、文字通り「駆け出し」もいい所なのだが、きめ細かい調整をしてやる暇がない。

しかし、7頭の馬を預けられているオスカーは、もはや、1頭1頭に付きっ切りで世話を焼くというわけにもいかないのは自明だ。必然的にオスカーは、進捗段階の異なる訓練と調教を同時進行で行わねばならない。ために、オスカーは、とにかく、馬たちに「馬車馬としての個々の動き、命令の意味は、実践しながら体で覚えろ」とばかりに、馬が馬具に慣れたと見るや、有無を言わさず馬車につないで、とにかく色々な場所を実際に走らせた。アグネシカを先頭に、この厩舎にやってきた順に馬たちを連結していき、7頭一隊の馬車として走らせる訓練をひたすらに施した。施さざるをえなかった。

というのも、天界の拙速な馬の下賜は「最早、教育だけに時間を費やす余裕はないので、現場で実践しながら仕事を覚えていけ」ということにしか思えなかったっからだ。

つまりは「時間が無い」ということなのだろう。

それに加え、先だっての乾季の短さ、不安定さを思えば、外馬場での訓練に取れる時間がどれ程になるのか皆目見当がつかない。この点も、オスカーは楽観はできないと考えていた。晴天が何時まで続くかわからないので、外馬場での調教はできるうちに、できる限りやっておくにしくはなかった。

今回の乾季は、前回のそれに比すと、変動は少なく、比較的堅調な晴れ模様が続いていたが、これが、いつまで続くか、何の保証も無いのだ。

それに、軽々しくいえることではなかったが、オスカーは、近年になく穏やかな気候が続く今回の乾季は、現・太陽神が、もう、ある種の諦観の境地に入ったか、所謂燃え尽きる前の最後の力を発揮してのものである可能性も否定できない、と考えていた。もしかしたら、天界は、それと知っていて…限られた時間の中で、俺が馬たちに、どれ程訓練を進められるかわからないので、とにかく、早め早めを見越して、俺に馬を託しているのではないかとも思えた。

となれば、俺は考えうる限り最小限の時間で、最大限の効果を狙って馬たちを訓練せねばならない。

そう考えたオスカーは、だから、時間と体力の許す限り、馬車を駆り続けた。

最も新しく来た馬たちは、手綱への反応はいまだ鈍く、手綱による指示を完全に理解しているとは言いがたかったが、じっくりと教え込む時間の猶予はなかったからー正確にはどれ程の時間が残されているのかわからなかったからーオスカーは、現場で実際の指示を繰り替えすことで、馬たちに手綱の指示を覚えさせていくしかなかった。とりあえず「前に倣え」「足並みをそろえろ」の2つの指示を覚えさせることさえできれば、馬たちは先頭のアグネシカと歩調をあわせて走ることができるので、馬車としての体裁は整う。あとは、どんな場所を走ろうとも、安定した速度を保たせることだ。そこまでできるようになれば一応、馬車としては及第の筈だから、オスカーはそこを目指すしかなかった。それ以上緻密な調教をしてやれるかどうか、その時間的猶予があるかどうか、正直、オスカーは心もとないとも思っていた。

後続の馬たち、とくに、最近であった馬たちには、アグネシカに比すと、本当に促成栽培とでもいうような調教しかしてやれないことを申し訳なく思う。もっと1頭1頭に声をかけ、深く心を通わせ、それぞれに必要な訓練と調教だけを個別にしてやれたら…と思わない日はなかった。が、現実に、7頭の馬の世話を全部一人で行うのは無理だったし、オスカーは、訓練半ばで、いきなり天界上層域に召し上げられるようなことを避けるために、とにかく、7頭の馬が、一つの存在になれるよう、一台の馬車として走れるようになることだけを念頭に置いて、馬の手綱を握り、馬車を駆った。足並み、隊列を乱す馬には、それが故意でなくとも、鞭をふるうことを躊躇いはしなかった。不従順をいさめるという意味ではなく、一丸となって走る馬たちにとっては、足並みの乱れは、すなわち、転倒の恐れに繋がるからだった。歩調の乱れは、馬たち自身にとって、大層危険だったから、オスカーは厳しく対処したに他ならない。

歩調合せ以外も、、オスカーが総じて馬たちに厳しい訓練を施すのは、結局は馬たちの安全を考慮するがゆえだった。馬たちが疲れから足並みを乱して転倒したりしないよう、長距離を走らせ、可能な限り肺活量を増やして、疲れにくい馬体を作り上げ、体力をつけさせた。重い負荷を引かせるのも同様の目的だった。一方過重な訓練で馬が脚に炎症や骨折を起さないよう、脚の様子には一際気をつかった。オスカーは何よりもまず馬を故障させないことを目していた。彼ら神馬は、これから、自分と一緒に、長き年月にわたって伴に天空の道を走る、掛け替えのないパートナーなのだ。馬たちの体力作りも脚の状態への気配りもそのために必要な準備であり、御者である自分が、その準備を怠りなく細心の注意で整えるのは、馬たちへの当然の礼儀だとも思っていた。だから、必要以上の速度を要求することはなく、まずは、長い距離を一定の速さでぶれずに走ること、そして、長距離・長時間走っても消耗しない体力を馬たちに付けさせることを念頭においてオスカーは馬たちに訓練を施していた。

そして、当然ながら、この訓練は、オスカー自身にも限界までの持久力を要求するものだった。

火の神馬たちは、一様に、去勢されていない牡馬だ。力も強く、覇気・負けん気に溢れ、意気軒昂だが、その分、扱いが難しく、御者にそれなりの力量が要される。それを一時に7頭、それも自在に操ろうというのだから、オスカーにも、それだけの胆力が要求された。オスカーは、火の力が中空に無駄に放散しないよう、手綱にタイトに絞りこんで流すことで、一度放出した火の力をなるべく長く、かつ、効率よく使って、馬たちを御すことができるようになってはいたが、それでも、手綱を通じて馬たちと真剣勝負をしているような気分になることも、しばしばだった。馬たちはアグネシカの協力もあって概ね従順ではあったが、それでも、オスカーの気力が衰えたり、一瞬、集中が途切れ、手綱に流入する火の気が弱まると、オスカーの出方を伺い、隙あらば勝手な方向に走り出そうとする素振りを見せる時もあったので、気が抜けなかった。

ために、オスカーの心身の消耗は並大抵ではなかった。自室には、言葉どおり寝に帰るだけの日々が続いていた。

このように、過酷な訓練を馬たちに課していたから、たまさかの休日には、馬たちに自由放牧を与え、存分に休養をとらせた。そしてその時間を利用して、オスカー自身は女神神殿へ参詣していた。

聖娼の暖かな肉体は、理屈でなく、疲れきったオスカーの体を慰め、気持をリフレッシュしてくれたからだ。若く頑健な肉体を持つオスカーといえど、ここ暫くの過重な鍛錬により蓄積した疲労は、ただ安静にしているだけでは完全に払拭することは難しく、自身の体調管理及び回復のための一助ーつまり、自身へのメンテナンスの一貫としてオスカーは神殿を利用していた。

実際、聖娼の柔らかな手と芳しい香油で施されるマッサージは、疲れと緊張で強張った筋肉の凝りを解し、新たな力を蓄えてくれた。この週末ごとのメンテナンスがあればこそ、オスカーは馬たちとの鍛錬に万全の体調で臨め、全力で取り組めること、それゆえ、7頭の火の馬たちに一歩も引くことなく対等に渡り合う気概を保てるのだということを、よくわかっていた。

そして、聖娼の効用とその真価をー柔らかな女の受容と慰撫が、男が、物事に果敢に挑み、困難に立ち向かうための気概を育んでくれるーそのことをオスカーは理解していたから、自分に奉仕してくれる聖娼たちに、感謝の気持や態度を常にきちんと示し伝えた。たまさか彼女らと褥を伴にする時は、誠実に、静かなる情熱を以って彼女たちに接したのも、感謝の思いあってこそだった。聖娼たちも、また、そんなオスカーの優しさ、折り目正しさ、度量の広さ、真の男らしさをよく理解し、誉めそやした。いまや、聖娼たちにとって、オスカーの相手を務めることは、好ましいどころか、羨望をもって語られるほどになっていた。

一方で、多くの聖娼と褥を共にするほどに、アンジェリークへの思慕は、より鮮やかに、募っていくばかりであることをオスカーは感じていた。

単に、神仙界で最も愛らしく美しい美神を既に見知っているから、聖娼の魅力に溺れなかったというような単純なことではなかった。

もちろん、オスカーは、アンジェリークの可憐さは比べるものがない程と思っており、事実、愛らしい容姿は彼女の大きな魅力の一つだと思う。が、同時に、オスカーは、彼女の穏やかに深遠な叡智、果てのないほど優しく美しい心栄えをこそ掛け替えのないものと感じていたし、その思いは時が経っても色あせることはなかった。今も、彼女に惹かれてやまない自分を自覚しており、わけても、オスカーは彼女の笑顔が恋しくてならなかった。包み込むように温かく、咲いたばかりの花のように初々しく愛らしいその笑顔は、彼女の優しく純粋な心栄えそのものだった、と、今なお、痛切に思う。

もちろん、聖娼たちもまた、皆、美しく、深い教養も優しさを備えており、彼女達の美点はアンジェリークのそれと比して、重なる部分も多く、かつ、ほとんど遜色はない。だが、オスカーは、聖娼の微笑を目にするたびに、アンジェリークとの差異を感じた。誰もアンジェリークの替わりになどなれなかった。聖娼たちはどんなに優しくても、ある意味、あてがわれた花だという思いが、彼女達の笑みをみると、何故か強くなるのだった。そして、思うともなしに思い起こしてしまうのだ、アンジェリークは自らの意思で、真の意味で無心に無条件に、自分に接してくれた、なんの思惑もなしに俺の成長を心から願ってくれ、それを喜んでくれ、無心に俺の幸せを願ってくれた。屈託のない、はにかみを湛た嬉しげな笑みに、何より、それがはっきりと現れていた。彼女の純粋な優しさ、暖かな想いが、笑みから、ひしひしと伝わってきた、と。聖娼と深く接すれば接する程に、オスカーは、アンジェリークの笑顔を、よりくっきりと思い起こし、彼女の心根の優しさ、純粋さ、清らかさを冴え冴えと、はっきりと感じいるようになるばかりだった。

このように、平日は朝から晩まで馬たちと過ごし、馬と自分の双方が体力の限界に達して初めて訓練を切り上げる。食事や沐浴を済ませ部屋に戻るや、寝台に倒れこむ。休日はといえば、女神神殿に参内して、聖娼たちと過ごす。こんな日常を過ごしていたため、オスカーは、ここしばらく、同室の友と一緒に過ごす時間が激減していた。一言も言葉を交わさない日さえあるほどだった。

オスカーが在室時に、友人の一人、もしくは二人ともに課業で不在というすれ違いも多く、いればいたで、彼らも自身の勉強で忙しそうに机に向かっている時が多かった。オスカー自身も、くたくたの体をひきずるように部屋に戻ってくるや、意識を失うように寝入ってしまっていたので、友人達には挨拶以外の言葉をかける暇もなかった。

と、その日は、本当に、唐突にやってきた。

ある夜、いつものように馬場から帰ってきたオスカーは、突然に、親しい友人二人から同時に「自分たちは、明日、この部屋を出て行くことになった」と告げられた。

腹蔵なく将来の展望を語り合い、たまに悪ふざけをして笑い合った友人たちは、オスカーよりも一足先に神職をおおせつかり、学徒棟を出て行くことになったのだと、瞬時に悟った。しかし、オリヴィエ、チャーリーの二人がほぼ同時にいなくなってしまうとは、オスカーは考えたこともなかった。

オスカーは、その、自分の迂闊さに愕然とした。

俺は、多忙だった。友たちも、俺と同じように多忙そうに見えた。それは、つまり…自分が、神の名を継ぐための訓練の最終段階に入っていたということは、友人たちもまた、同様の状況にあったということだ、神職を目指して、鍛錬に励んでいるのは自分だけではないのだから、こんな当たり前のことに、今の今まで、どうして、思い至らなかったのか。

思い返してみれば、確かに、自身の多忙にかまけて、友人達との語らいは激減していた。が、それは、多忙なのはオスカー1人ではなく、同室の友人達もまた、オスカーに負けず劣らず、多忙を極めていたからでもあったことに、この時オスカーは、漸く気付いたのだった。自分と同じように、朝から晩まで課業や課題にいそしみ、それこそ、寝に帰るだけの日々を、友人たちもまた、過ごしていたのだ。それは、彼らもまた、神職に叙される日が、刻一刻と近づいていたということだったのだ、と。

オスカーは、去り行く友を前に言葉を失ってしまった。

深く心を通い合わせた友との、主観的には唐突な別れを前にして、話したいこと、話したりないことが、あまりに多すぎる気がして、そのくせ、具体的には何を告げていいかわからなくなった。

今は、大胆な野望を語りあう時でも、自らの考えをまとめるための議論を戦わす時でも、馬鹿な笑話に耽る時でもなかった。

だが、オスカーは、そういう語らいをもっともっと、彼らとしたかった…と、今になって痛切に思った。愚かにも、彼らはいつも、自分の傍にいて、いつでも好きなだけ語らいを楽しめるような気持に、いつのまにかなっていたのだと気づいた。それは、それだけ、オスカーが、極自然に彼らの存在を身内のように感じ、所謂「心の支え」とみなしていた証左でもあった。

一方で、自分の内々の心情がどうであれ、ここで述べるべきは、彼らの前途を寿ぐ言葉だということは、オスカーにもよくわかっていた。

だが、胸にこみあげてくるものが妙に熱くて、喉がつまったような心持になってしまい、オスカーはごくありきたり、かつ、簡潔な祝辞を述べることしかできなかった。

その意趣返しでもあるまいがーというのも、彼らの瞳には、深い友愛と親しみやすい茶目っ気のような感情が見て取れたからだがー二人は、何故か示し合わせたように、どんな役職を務めることになったのか、オスカーが尋ねても教えてくれなかった。

「そのうち、わかるよ…きっとね」

とだけ言うと、オリヴィエは何か含むところのある目でー口元にも笑みを含みながら、オスカーをちらりと見やる。

「うんにゃ、絶対や!絶対!俺はそう信じとるで!」

一方、チャーリーは熱っぽい口調で、だが「何を信じているのか」は明かさないままに、ぎゅっとオスカーの手を握り、ぶんぶんと勢いよく振り回した。

誰というともなしに、久々に3人で一緒に食事をしようということになり、食堂に向かった。

食事の最中は、3人とも、口数は少なかった。オスカーには、彼らの今後の健等を祈る以外、適切な言葉を見つけられなかった。オリヴィエは妙に思わせぶりな様子で、どこか楽しげにオスカーの方を見るばかりで、一方、チャーリーは、うずうずとした様子で何事か口にしかけては、ぐっと我慢で黙り込むような素振りや、何故か、オリヴィエに向かって何かを懇願するようでもあり、恨めしげでもあり、不安気でもあるような複雑な表情を時折垣間見せたが、珍しく、概ね、言葉少なだった。

オスカーは彼らの様子に、何か不可解なものを感じたものの、その理由はわからなかった。

そして、結局、二人は、それぞれに任官先や神職名を明言しないままにー故郷に帰って、それぞれの地方神になるのかどうかも、オスカーにはわからぬまま

「俺ら、朝一に神殿に参内せなあかんのや。野暮用あるみたいやねんて」

「そ、任地に赴く前に、色々、研修?ていうか、事前準備ってのが必要みたいでさぁ」

と、いうと、あわただしく、この学徒棟を去っていった。

二人は、共に過ごした年月を考えると、あっけないほどあっさりとオスカーに別れを告げて、出ていったーようにオスカーには感じられた。まるで『また明日になれば会えるさ』ともで言うような、気安い、あっさりとした別れ方だった。彼らの瞳には、友との別れを惜しむ寂寥の感情はあまり見受けられなかった。むしろ、期待・野心・これから待ち受けている運命への希望…そんな揮い立つような感情に満ち満ちた眼差しをまっすぐ前方に向け、二人は去っていった。最後に

「はよ来ぃや、オスカー」

「ああ、待ってるよ」

という、オスカーには不可解な言葉を残して。

そして二人の友人が去っても、新たなルームメイトは補充されなかった。

オスカーは、それを寂しいとは思わなかった。

あの二人以上に、理屈ではなく気の合う仲間など、そうそう出会えるものではなかろうと思っていたし、それに、オスカー自身も、もうゴールが近いことを知っていた。俺も程なく、神職を得て、この学徒棟を、いや、この天空界の下層域自体から出ることになろうと、予測していたから。

そして、また、オスカーは、友人たちに水をあけられた…とは思わなかったし、神職の拝命の時期が異なったことに、劣等感や惨めさを感じるようなことは露ほどもなかった。自分たち3人がそれぞれに異なる神職を拝すること、そして司る力も役割も異なるから比較は無意味なことをオスカーは知っていたから。それに、彼らの方が、自分より幾分早い時期に天界での勉強を始めていたことを思えば、神への叙勲もまた、自分より早いであろうことは道理に思えた。

ただ、今まで、空気と同じように、意識はせずともいつも自分の周囲を取り巻いていた、自分以外の人の温もりとか息吹とか存在感ー不在時にも、なんとなく残っている「人の生活する気配」というものがー徐々に薄れていく様子が、寂しくないといえば嘘になった。

オスカーにとっては、所詮異郷であるこの地で、互いに同じ立場にあり、いつでも挨拶をしあい、言葉を交わせる相手が身近にいてくれたことのありがたみが、今更ながらに身にしみた。

だから、厩舎と馬場で1日の大半を過ごし、この部屋には文字通り、寝に帰るだけの生活はある意味ありがたくもあった。

1日の訓練を終えた後は

『俺も、必ず、俺の大志をかなえてみせる。一日でも早く、一刻でも早く…』

と、静かな決意を固く胸に抱いて、床についた。

気負いや焦りはーないと言えば嘘になるが、なるべく意識しないようにした。精神の動揺は、馬車を御するにあたって百害あって一利なしだと、自分に言い聞かせて。

今は、静寂なる寂寥と、神馬たちをのみ友としながら、ひたすら実直に、着実にオスカーは、日々、馬を御し、馬車を走らせ続けた。

様々な起伏に富む山野を駆けさせることで、7頭の馬が、どんな状況にも即座に対応できるような俊敏な判断力を培っていった。暫くすると、馬たちは、どんな道でも、足並みや隊列を乱すことなく、馬車を引いて走れるようになっていた。

この時のオスカーは、いまだ、己の力が太陽神に匹敵する程育ったという自覚は持てずにいたが、現実には、7頭の馬たちを、一かたまりの存在として、ほぼ自在に操るようになっていた。

そして、馬たちが、どんな道でも足並みを揃えられるようになったと見てとったオスカーは、次に広々とした平原を走る際の速度の保持を馬たちに課した。太陽は毎日決まった速さで天空を横切っていく、ならば、太陽の馬車は、どんな条件下でも一定の速度で走らせることが肝心だと考えてのことだった。が、力のままに走ることが悦びである馬たちにとって、何も障害物のない、見通しのいい広大な平原を、あえて脚力を抑制しながら走る、というのは、実は大層難しいことだった。風を切る爽快さに、馬たちが興にのって速度が出過ぎぬよう、セーブしながらあくまで一定の速度を保って走らせる、この調整は難航した。

オスカー自身が、だだっ広い草原には、あまり道標や目印になるものがないので、自分がどれくらいの速度で走っているのか、目測だけでは、わからなくなりがちだということもあった。そして、見通しがいい故の気持よさで、ついつい知らぬ間に馬車の速度も早くなってしまいがちになることを自覚した。

ために、オスカーは、結局、あてにならない目測で距離と速度を測ることを断念し、己の鼓動と馬の足並みのリズムを重ねそろえることで、一定の速度を保つよう努めてみた。馬の動きにあわせ、己の耳朶でリズミカルにゆれる金の耳飾が、拍節器のような役割を果たしてくれたことが、大いに役立った。

数日、訓練を繰り返しー心を落ち着かせて、自分の体が奏でる拍動に耳を澄ませ、馬たちの奏でる蹄の音がそのリズムに重なるよう意識して馬車を駆ることを繰り返すうち、何の目印のない処でも、馬車を、ほぼ決まった速度で、ぶれずに走らせられるようになってきたな…とオスカーは、思えるようになった。

存分に走りこんだのち、夕刻になって、馬場に帰った。馬具から解放されるや馬たちは、勝手知ったるもので、追いたてられずとも、自ら馬房に入っていく。汗を拭い、埃やどろを落としてさっぱりとしてもらえる上、綺麗な水や旨い飼葉を十分にもらえることを知っているからだ。

そして、これもいつものルーティンなのだが、今日行った訓練の様子などをー目印の無い道でも、一定の安定した速度で馬車を駆れるようになってきたことなどを含めー厩務員から尋ねられるままに答えながら、オスカーはアグネシカの手入れを行った。オスカーは、いつも、アグネシカの馬体を、十分な時間をかけて丁寧に手入れをしていた。自室には早く帰る理由もないし、アグネシカの世話はじっくりと取り組んでやりたった。それでも、馴れた手順なので、そう時間はかからなかった。

厩務員に世話を任せている他の馬たちにも「お休み」をいい、自室に戻って床に入るや、意識を失うように寝入った。

そして、いつものように夜明け前に目覚めた。身を起すや、いつの間にか、机の上に典雅な書状が置かれているのが目に入った。いつもの女神神殿への参拝許可とは、形状が異なっていた。

何かの予感に導かれるように、オスカーは、その書状を手にとり、開いてみた。

羊皮紙に、たった1行、身辺整理をした後、今日の深夜、転送神殿に参内せよとの旨が書かれていた。

その瞬間、オスカーは『その日』がやってきたことを知った。友人達との別れと同様に、いや、それ以上に唐突に思えた。

と、オスカーは、はっと、あることを思いついた。書状を机におくと、即座に馬房に向かってみた。すると、既に馬房はもぬけの殻だった。厩務員も1人もいなかった。

馬たちは、一足先に天界の上層部に召し上げられたのだとしか思えなかった。

貸与されていた教材や衣類その他を返還してしまうと、もう、オスカーには、することもなくー別れを惜しみたい友は既に新天地に出立していないのでーオスカーはぽっかりと空いた1日を、どうにも手持ち無沙汰な気分で過ごした。これは、慰労休暇のつもりなのかもしれないが、俺にはかえってまどろっこしいなと思いつつも、オスカーは夜の訪れが待ち遠しい、じりじりした気分を無理矢理押し殺して、夜に備えて僅かな仮眠を取った。

そして、今、オスカーは、ここ下層域から眺めるのは、最後かもしれないと思い至って夜の散策に出て、月を眺めていたのだった。

が、もう、頃合だった。

月の傾き具合から、もう神殿に参内してもいい時刻だと判じるや、オスカーは、しっかりとした足取りで歩き出した。不思議と胸中は落ち着いていた。

 

転送自体はあっけないものだった。天界に初めて来た時と同じような台座に乗せられたかと思うと、目をあけていられない程の眩い光に全身が包まれた。一瞬の後、閉じた瞼の裏に光を感じなくなったので目を開けてみたら、見える景色が異なっていた、という具合だった。

送り出すための儀式も、供物も、華々しい鳴り物も何もなし。火の地から天上界に送り出された時の方がよほど仰々しかったな、とオスカーが思った程に。

しかし、目を開いた途端、オスカーは、しばし絶句し、ただ周囲を見渡すことしかできなくなった。

転送神殿を初めて目にしたときは「こんなにも荘厳な建物は見たことがない」と思っていたのに、送られた先の神殿の壮麗さその比ではなかった。

磨きぬかれた大理石の柱が、天をつんざかんばかりの勢いで林立しており、その高さにつられたように思わず頭上を見あげたらーそこには、天井と思しきものが見えなかった。振り仰いだ先は暗紫色の夜空、そして降るような一面の星で満ちていた。この神殿には「屋根」というのもがないのか?と一瞬思ったが、オスカーは学徒棟の窓に填まっていた透明の玻璃板を思い出し、もしや、あの天上は、とてつもなく巨大かつ頑丈な玻璃の1枚板で覆われているのではないかと推察した。一見開け放しに見える天井は、蒼穹の広大さ、天空の威容を常に意識させるためにも思われ、その意図と技術の計り知れなさにオスカーは圧倒されそうになった。一転、視線を目の高さに戻せば、大理石らしい壁には、空間恐怖を思わせるほど、みっしりと精緻な彫刻がなされていることが遠目からでもわかった。一定の高さに、無数の壁龕が等間隔で穿たれ、そこには火とは異なる柔らかな光源が灯ってー恐らく光の気を何らかの方法で凝縮・固定化したものだー神殿内を明るく照らしていた。

オスカーが、天界の下層域と比しても何もかもが桁違いに思える神殿の様子に息を飲んでいると、どこからともなく衣擦れの音が耳に入り、同時に馥郁たる香に鼻腔を満たされた。見れば、数人の仙女か、下位の女神と思しき女性が、いつのまにか恭しくオスカーに傅き「こちらへ…」と仕草で促してきた。

オスカーは言われるまま、導かれるままに脚を運ぶ。と、向かった先は広大な湯殿だった。仙女たちは、オスカーの簡便な長衣をしずしずと取り去ると、湯浴みの手伝いを始めた。

泉か池かと思われる程、大きな湯船に浸された後、複数の女性が、柔らかな海綿でオスカーの体を隅々まで洗い清めていく。

聖娼との付き合いのおかげで、女性のもてなしを受けることに免疫がついていたので、落ち着き払った様子でオスカーは奉仕を受けることができた。尤も、複数の女性に湯浴みの世話をされるのは初めてだったので、些かこそばゆい思いは禁じえなかったが。

オスカーは自らはなにもせずー動かぬようにと身振りで指示されたので、為されるがままにたっているうち、身からしたたる水滴を柔らかな布で全て拭われ、新たに持ってこられた衣を身につけさせられた。

が、衣といっても、身につけたのは、金糸と金鎖で編まれた壮麗にしてきらびやかな胸当てと、見事な刺繍が施された飾り帯のついた腰布及び下帯だけだった。

オスカーは、なんともいえず懐かしい気持で己の姿を見下ろした。

光の眷属が身につける長衣ではなく、この衣装は、火の眷属の男性の基本的な装いだった。もちろん、火の地にいた時は、少年だったオスカーはまだ胸当てはつけていなかったし、腰布も何の装飾もない質素なものだったが、今、オスカーが身につけているのは、見たことが無いほどきらびやかであっても、火の眷属の大人の男の装いであることは間違いなかった。

ただ、脚につける履物はなかった。

眷属によっては、神殿にあがる際は履物を脱ぎ、裸足で殿上する事を正しい礼儀作法とする処もあるので、オスカーは、さして気にもとめず、またも、仙女たちに導かれるままに、歩を進めた。

身の丈の悠に3倍はあろうかと思われる大理石の扉の前に立たされる。と、オスカーが何もせずとも、しずしずと扉が内側から開いていった。仙女たちは、空の雲が風に散らされ消えるように、いつの間にか音もなく姿を消していた。

扉の内側から柱廊に光が漏れ出すと同時に

「入るがよい、火の若者よ」

と聞こえ来た朗朗たる声に導かれるままに、オスカーは、扉の内に脚を踏み入れた。

目の前に、二人の天空神と思しき人影を認めた。

 

一幅の絵画のようだった。それほど見事な対比を見せる二神の姿だった。

1人の神は、まるで黄金でできた滝のような豪奢にきらびやかに波打つ金の髪と、青空をそのまま写し取ったような紺碧の瞳を持っていた。その眼光は峻厳までに鋭く、秀でた白皙の額には、長いこと権力の座にあるもの特有のにじみ出るような威厳がある。

一方、もう1人の神は、光の眷属にしては珍しく、夜の闇より尚色深き漆黒の艶やかな髪と、黒曜石の瞳の持ち主だった。白磁の肌が神秘的な髪と瞳の美しさを一層引き立てている。金の髪の神に比すと眼光は穏やかだが、物静かに見える分、どこか底知れない印象を受けた。

共通するのは、これほどに端麗な容貌の持ち主は二人とおるまいと、それぞれに思わせる程、二人ともが際立って整った容姿の持ち主であることだった。

通った鼻筋に、引き締まった口元、しっかりとした面長の輪郭など、二人共に女性的な部分は微塵もないのだが、その容姿はそれぞれに「美しい」としか形容できない。光の眷属は概して容姿の整った者が多いとはオスカーも思っていたが、この二神の端整さは桁違いだった。しかも、それぞれに並ぶもの無しと思える美麗な容姿の二人が並び立つと、その様は、まさに壮観の一言に尽きた。

オスカーは、極自然な仕草で跪き、火の眷属としての最敬礼を二神に示した。

誰に何を言われるまでもなく、この二神が天空神の中でも最高位の神だということは、彼らの身から発せられている眩いほどの光の気からわかった。物理的な圧力さえ感じさせるその気は、心構えのない者が直視したら、目が焼け焦げて潰れてしまうのではないかと思うほどだった。

俺の憶測が間違っていなければ、この神々は恐らく…とオスカーが思った時だった。二人の神々が、それぞれにこう告げた。

「火の若者よ、そなたは、我、ヴァルナの名において、太陽神スーリヤの名を継ぐ者として召し上げられた」

「そなたに、スーリヤの御名を継ぐ意思はあるか。その意思あらば、この誓約神ミトラの面前にて誓詞を述べ、天則に誓いを立てよ」

その言葉を耳にした時、オスカーが真っ先に感じたのは、感激や恐れ多さよりも

『漸く、ここまで来た…』

という、安堵を伴う達成感だったかもしれない。

目指す場所に、俺は立つことを許された、ついに認められたのだ…そう思うと、胸いっぱいにこみ上げてくる熱いものがあった。が、同時に『いや、まだだ、俺の本当の願いが叶うのは…これからだ…』というわが身を引き締める思いが、オスカーの心を鎮めた。

「は、謹んで…」

と、オスカーが、落ち着いた声音で承服の返答をするや

「面をあげよ」

と命じられ、オスカーは僅かに顔を上にあげた。もちろん高位神の尊顔を直視するような無作法はしない。

すると、オスカーの顔に視線をやった二神の二人が二人ともに、何故か、一瞬、形の良い眉を僅かに上げた。そして、自分の顔を、何故か、なんともいえぬ思惑ありげな表情でじっと注視している二神の視線は、一瞬だが、ほぼ同時に僅かに己の左側に向けられた気が、オスカーはした。

その、己の左側に泳いだ二神の視線の揺らぎに、オスカーもまた、思わず端整な眉をあげていた。

『俺の左頬?…いや左耳に目をやった?』

そう感じた途端、直感的に

『この神々は、俺が身につけているのがアンジェリークの耳飾だと知っているのか?』

という問が頭に浮かんだ。

彼らは、この耳飾の出自を知っているのかもしれない。その考えは、オスカーの心を、一瞬、落ち着かなくさせた。アンジェリークが関わる事柄には、理屈でなく、胸が波だってしまうから。それでも、オスカーは、すぐに「だからといって…この耳飾がアンジェリークのものであると気づかれたとしても、何ら問題はない」と、自身に言い聞かせた。

この耳飾は、アンジェリークから俺が賜ったもの。不正な手段や非合法に手にいれたものではないし、この耳飾に託してくれた彼女の想いに俺は感謝している。ならば、この耳飾を賜ったことを己が誇りとし、俺は堂々としていればいいだけだ、と。

それに、この二神も、この耳飾が放つ高貴な光の気を敏く感じとって、不可解に思っただけやもしれぬし。

オスカーのそんな疑念を余所に、二神は何事もなかったのように、同時に、ずい…と前に出て、オスカーの真正面に立つと、すっと手を掲げ、その指先で、僅かに顔を上げていたオスカーの額に、二人それぞれ同時に触れてきた。

途端に、オスカーの頭の中に、雪崩をうつような言葉の奔流がー神の名を継ぐための誓詞が流れこんできた。

「!」

オスカーは、頭の中に、いきなり、鉄砲水のような勢いで入り込んできた言葉の流れにたじろぎ、一瞬、思わず身を引きかけた。が、すんでのところで、慌てふためいたり、あからさまにうろたえるという、みっともない真似はせずにすんだ。すぐに、思いだしたのだ、直接、頭の中に言葉を送り込んでくるのは、光の高位神の特殊能力だったことを。その昔、夜の女神ラートリーに、アンジェリークとの逢瀬を見咎められ、頭の中で割れんばかりの大音響でわめかれ、毒づかれ、それに必死に抗ったことを。あの時は、全身押しつぶさんばかりの外側からのプレッシャーと、頭が内側から破裂するのではないかというほどの内圧を、同時に、これでもかとばかりにかけられたが、今、外挿されてくる言葉には何の苦痛も圧力もともなわない。この言葉の流れを辿って追え、とでもいうような、淀みない光の道筋のようなものが、脳裡にはっきりと感じられるだけだった。オスカーは、すぐに気を取り直し、頭の中に流れ込んでくる言葉の流れとその道筋を把握すると、落ち着いた声音としっかりとした口調で復唱し始めた。

「今、われ、生れ落ちし時に授かり名を返上し、栄光あるスーリヤの御名を受け継がん。われ、新たなる太陽神スーリヤとなりて、天空神の足元に、地母神の膝下にひざまづかん。天則の守護者として、蒼穹神ヴァルナの目となり、名代となりて、正しき理を地上にもたらさん。一切に仰ぎ見られ、一切を見、人々に正しき道を示し導く一方、道誤れし者どもを諌めん。地上に生きる全ての命を、その平穏を守らんと務め、光明と幸福をもたらさん。そして、そのために遣わされし地上にいます全ての神々を束ね督す百神の王とならん」

オスカーは、一息、息を継いだ。誓詞の言葉を詠唱していくに比例して、体の奥底から、ふつふつと、今まで感じたことのない強大な力が目覚め、湧き出でては、全身に満ち満ちていくような気がする。頭が隅々まで晴れやかに明るく冴え渡っていき、世界の全容を一目で見渡せるのではないかと感じられる程、己の知覚が鋭敏、かつ、無限に大きく広がりゆくのを感じる。望めば、ここ天界の最上層部にいながら、地上を這い歩く蟻の1匹にも視点をあわせ、その様子をつぶさに見ることさえできる気がした。

『これが最高位神の視点、知覚というものなのか…』

この世界の全容を一目で把握しながら、望めば、特定の人一人、いや、ネズミ1匹にさえ精緻な視点をあわせることもできる、広大無辺にして、同時に緻密を極める不思議な感覚が自分の内部で目覚めつつあるのを、オスカーは感じていた。

と、同時に、己がスーリヤとして何をなすべきか、何をすればいいのか、そのために必要な知恵・知識・技術といった実践的な情報が、頭の中に直に送り込まれているのも感じた。

が、その新たな感覚、新たな知識をつぶさに検証する間もなく、絶え間なく脳裡に流入されくる言葉が、オスカーに更なる詠唱を促した。

「我、ここに、新たなるスーリヤとなりて、天則に魂を捧げ、誓約の印を引き結ばん。もし、我この誓いをやぶることあらば、大いなる蒼穹裂けて我をのむべし、空の星落ちて我が命、打ち滅ぼすべし」

言葉の流入が唐突に終わり、オスカーの詠唱も終った。

その瞬間、オスカーは、自身が今までとは違う自分に刷新されていることを感じた。身中に新たに生じたーというより目覚めた力が、全身に漲り、溢れんばかりになっていること知った。が、この力自体は、外から流入してきたものーヴァルナ・ミトラ両神に注ぎ込まれてものではないという直感があった。というのも、オスカーは、今、己の中心に、あまりの高温ゆえ、むしろ静かに燃えたつ青白い焔を感じていたから。この青い焔は、例えるならば…自分の身中に自分でも知らぬ間に燃料が一杯に蓄えられていた器があって、今、誓詞の詠唱が終ると共に、その蓋が完全に開かれ、蓄えられていた燃料は一気にあふれ出して全身を駆け巡った。誓詞はその燃料=蓄えられていた力を十全に発揮させるための点火装置のようなもので、そして、火をつけられて燃え上がった力の奔流は、オスカーの1本1本の指先までをも潤し満たした後、巡り巡って身体の中心で、静かに、しかし、眩い光輝を放ち燃え始めたーオスカーにはそんな風に感じられた。

と、二神の手が、同時にすっとオスカーから離れた。

その仕草が合図であったかのように、女仙らしき女性が緋色の天鵞絨を捧げ持ってきた。その布の上には3つの品物が乗っていた。

ヴァルナ神が、そのうちの一つ、優美な彫金ー意匠は燃え立つ炎ーが一面に施されているが、形状自体はいたってシンプルな金の輪様のサークレットを手にとり、厳かな手つきで、オスカーの額にそれを嵌めた。

そして、残りの二つをオスカーの眼前に差し出した。

そのうちの一つは乗馬用の鞭であることは、すぐにわかったが、もう一つの物がーいや二つで一対の筒状のものが、オスカーには何かわからなかった。

「これは…?」

「火の長靴だ。太陽神スーリヤは、天空の道で馬車を御する者の証として、この長靴を身につける。神々は無数にいるが、長靴を身につけるのは、ただ一人太陽の馬車を駆るスーリヤだけだ。そして、この火の馬を御するための火の鞭は…使い方はそなたの方がよく知っていよう。金冠と長靴と火の鞭、これらの拝受を以って、スーリヤ任命の儀とする。受け取るが良い」

「謹んで拝受いたします」

女仙たちが、オスカーの足元に傅き、長靴をオスカーの足に合わせてくれた。膝の下まで脚を覆う履物を見るのは、初めてだった。その上で、オスカーは火の鞭を、恭しく、ヴァルナから賜った。

「ここに新たなるスーリヤ、新たなる百神の王の誕生を宣言する、以後、私ヴァルナの眼となり、名代となりて、地上の生き物たちを正しき光の道へと導くよう」

「は…」

「…誓詞を唱えスーリヤとなる誓いを立てたことで、そなたには、新たな力が備わったーいや、潜在していた力がはっきりと目覚めて使いこなせるようになったというべきかー今のそなたは、この世で最も強く清明な火力を持ち、鷹よりも高く鋭く世界を見渡せる眼を備えるようになった。最初は、その感覚に…居ながらにしてこの世の全てを遥か遠くよりみはらかす感覚に戸惑うかも知れぬが、元々そなたの中に蓄えられていた力が、誓約によって開いただけだ、すぐに馴れて自在に操れよう…」

「ありがとうございます、ミトラさま」

「ただし、そなたの力は天則との「契約」により開放され、もたらされたものでもあることも忘れるな、そなたが天則に背いた時は、その力は瞬時にして封印されて消えうせる。それは天が「そなたにはこの聖なる強大な力を操る資格がもはやなし」と断じたということだ。その時、そなたはスーリヤの名を失うと同時に、この天から堕つ。そのことを、よく覚えておくがいい」

「謹んで承ります」

「では、これよりスーリヤと深き縁を結ぶ者を紹介する。こちらに来るがいい」

「!!!…」

ヴァルナ神にそう促された時、オスカーは、はっと、居住まいを正した。

スーリヤと縁深き者とは…まさか、もう、ウシャスに…アンジェリークに会えるのか?振り仰いだ天空は、暗紫の帳に無数の星星が煌めいており、いまだ夜明けは遠い時刻に思えたが…夜明け前に、目通りだけはさせてもらえるのか…そう思うと、この時を待ちわびていたのに…この時のために、今まで、ありとあらゆる尽力をし、困難にも立ち向かってきたというのに、オスカーは、脚が中々前に進まないような頼りない心持に襲われた。

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