この雨季があける前から、予感はしていたの。だって、前の乾季の終わりには、先のスーリヤ様は、もう、御身お一人では、太陽の馬車を御すことが難くなってらしたから。
その頃、日に日に太陽の熱気は強まり行くばかりで、このままでは、地上の生き物たちにとっても危険なほど地上が熱くなってしまう…
これが、スーリヤ様が、燃え盛る太陽の力をコントロールできなくなっているってことなんだ…。
つい、この前までの私は…ミトラさまの「神力の衰弱は制御の問題として、まず、現れる」という意味のお言葉を耳にするまでは、こんなことすら知らずにいた。
でも、ある日を境に、私を追ってくる太陽の馬車からの熱気が、すとんと弱まったのを感じた。
見れば、太陽の馬車にはスーリヤ様以外に、二人の神様が同乗なさってた。皆様で力を併せて、太陽の火力をなんとか制御なさろうとしているのがわかった。あの方たちは…スーリヤ様の補佐役の太陽諸神さまだったかしら…太陽の馬車にご同乗なさっているのだから、きっと、そのはず。
暫くの間、二人の亜・太陽神様に協力していただき、スーリヤ様は、ようよう、太陽の馬車を制御なさってた…この間は、三人の神さまが力を併せて太陽を御していらしたから、制御が利きすぎて、今までとは一転して、地上に届く太陽の熱波は、少し微弱になったようだったわ。
でも、亜・太陽神さまには、長期間にわたり太陽を制御できるほどの神力は備わってない。3人の神様が少しづつ消耗なさっていくのが、天空の道を先駆ける私にも、わかるほどだった。
だけど、不思議なことに、つい先日まで強く感じていた、胸が焼け付くような苦しさや痛みも、また、薄れていって、いつしか、感じなくなっていった。その替わりのように、私の胸に差し込んできたのは、静かな、諦念。何かを諦めたような、仕方ないと悟ったような、抑制された静かな想いだった。
あの、焼け付くような胸苦しさは、一体、どこからもたらされたもので、それが、今、どうして消え去ったのか、そして、今、私が感じている静かな諦念も、また、どこからもたらされているのか、その諦念は、何を『仕方ない』と諦めたものなのか…。
私、今まで、こんなことを、考えたことも気にしたこともなかった…。
自分の務めをきちんと果たす、それ以外の事は、考えたこともなかったのよ。全ての地上の生き物たちに、幸福で麗しい目覚めを与えられるようにと努めてきたし、いつも、そのことは考えていたわ。そして、実際、お仕事はきちんとしてきたつもり。「おまえは、よくやっている」ってヴァルナ様やミトラ様は、事あるごとに褒めてくださっていたし、だから、これで…これだけで良いと思ってた。でも、それって、つまり、自分の務めをきちんと果たしてはいても、私は、それ以上のこと、それ以外のことを考えてみたことがなかったということ。
歴代の太陽神さまが、どんな気持で馬車を駆っておられるのか。何故、いつも、私へ、恐いような痛いようなきつい眼差しを投げかけていらしたのか。その眼差しをなんとなく恐いと感じるだけで、私は、その理由を考えてみようとしたことすらなかったの。
太陽の馬車を駆るのは、それがスーリヤ様のお勤めだから。太陽をつつがなく道行きさせていれば、太陽神さまは、地上の生き物たちから限りない感謝と崇拝をお受けになる、だから、それでご満足なんだと、思い込んでいた。眼差しが厳しいのは、元々は火の神でいらっしゃるスーリヤ様は気性が激しいから、それだけだと思ってた。そして、長い月日の経つうちに太陽を御する御力が弱まると、いつの間にか、太陽神さまが交替なさることも、私は「そういう決まりだから」「当然」のことだと思ってた。だから、太陽神さまのお心の内を斟酌すること自体、思いつきもしなかったのよ。
でも、今は…考えてしまう、色々と。どうしても。
雨季の到来と共に、予感してたから。
次の乾季が始まる時、私は、きっと、何百年かぶりに、ヴァルナ様から特別なお呼び出しを賜るだろうと。
そして、この日を、こんなにも胸がざわつく思いで迎えたことなどなかったから…今までは。
幾度も幾度も経験してきたことなのに…いえ、数え切れぬほど経験してきたことだからこそかしら…何らかの想いが胸に兆すことなんてなかった…それは、当たり前のように繰り返される営みだったから。
それは、いつも、ある日突然、こんな風に始まるの。
『ウシャスよ、今朝より、新たなスーリヤが太陽の馬車を駆ることとなった。ついては、新たな太陽神との娶わせのため、これより、東の神殿の広間に参る。さ、これへ…』
いつものように、ラートリーの星闇の衣から放たれ、東の神殿の出立の間に降ろされた私の前に、ヴァルナ様とミトラ様が現れ、こうおっしゃりながら、それぞれに手を差し伸べる。
私は頷き、誘われるままに、右の手をヴァルナ様に、左手をミトラ様に預け、両神さまに導かれるままに歩を進める。
扉が開かれた先ー神殿の出立の間より奥には、私はこの時しか入らない、入れないーには、その時々で趣は少しずつ異なれど、いつも、熱いほどの輝きに満ちた瞳と燃えたつ髪をもつ青年神が佇んでいらして…私のことを認めるや、怖いほど思いつめた瞳で私を見つめくるのが常だった。でも、私は、その強すぎる光を放つ青年神さまの双眸が何か恐いような気がして、まっすぐに見詰め返せたことなど一度とてなく…でも、決められた作法に則ってー暁紅の女神として、慈しみの笑みを絶やさずー青年神に礼をすることはできた。
だって、これは、単なる典礼で。そして、この時さえやり過ごせば、後はいつもの朝と同じだと知っていたから。
紅色の牝馬にまたがり、この世に夜明けをもたらす私を、新しいスーリヤ様が追ってくる、そして、私を捉えて背後から抱きすくめる。
その瞬間、私は溶けて光の粒子になって、新しいスーリヤ様の火力と混じって、大気に遍く散らばり行く。
それがー新たな太陽神さまの火力に、私の暁紅の光が取り込まれ、不可分に交じり合うことーそれが、私の知っている「婚儀」の全て。
太陽神様がどなたになろうと、何一つ儀式自体は変わらない。私の務めも、昨日のそれとも、千年前のそれとも変わらない。ただ、私を背後から捉える腕が変わるその朝に、その新しい腕の持ち主ー新しく天界に来た青年神と目通りさせられ、挨拶をするという1過程が付け加えられるだけだった。
だから、この一連の儀礼に、何かを思うことも感じることも、今まではなかった。
でも、今は考えずにはいられない。
先の太陽神さまは、どんな思いを胸に天界から去っていかれたのかしら。それは、もしかしたら…あの「静かな諦観」の思いだったのではないかしら。
そして、今度、新たにいらっしゃる太陽神さまは、どんな気持で、この天界にいらっしゃるのかしら…
この朝を、恐いような、待ち遠しいような、こんなにも落ち着かない気持で迎えたことなんてなかった。
今、私の胸に兆すのは、期待、恐れ、希望、不安…一言では言い表せない感情の渦。
願ってはいけないことだと思ってた。期待したり、可能性を考えたりしてもいけないことだと思ってた。だって、それは、あの人にとって幸福なことかどうか、わからないから。
私の前に、ある日突然現れ、私を「花嫁」だと紹介され、いつの間にか消えていった無数のスーリヤ様から、幸福そうな気や波動を感じたことなど、思い返してみれば、ついぞなかった気がするから。胸を焼かれるような痛みや哀しみを感じたことは、今、思えば、しばしば、あったのに…この胸に絶え間なく差し込んでくる微かな悲しみや焦燥が、なんとはなしに私を沈み込ませてもいたのに…それは、私の身が霧消する、ほんの刹那の瞬間に感じる思いだったから…そのことにさえ、私、つい、この前まで、はっきりと気づいてなかった。
だから…今、私は、恐くて顔があげられない。すぐ前方に、限りなく清明で若々しく力強い火の気を感じたから、尚更…。もし、顔を上げた先にたつ青年神が、私の思い描く人ではなかったら…私、きっと、がっかりする、でも、どこか、ほっとしそうな気もする。
でも、私が今一度会いたいと願い続けてきた人だったら…私、きっと、喜びを抑えられない、それと同時に…とても、恐い。私、間違っていたのではないかしら。こんなこと、願ってはいけなかったのではないかしら…あの人に、この天界にいたるための道筋を示唆などしてはいけなかったのではないかしら、そんな想いが、どうしても消せないから。
その時よ、懐かしい、慕わしい声が…記憶にあるそれより少し低いけど、よく覚えてる、甘く力強い声が、私の耳に響いたの。信じられない言葉を伴って。
「アンジェリーク」って。
私、自分の耳が、信じられなかった、だって、今、私をこの名で呼ぶのは、この世界で、ただ1人だけ。
こんな…こんな夢のようなことが、本当にあるの?本当にあの人は…約束した通り、私に会いに来てくれたの?だって、スーリヤ様の御名を継ぐのは、とても大変なことの筈。なのに、あの人は、幾多の艱難を克服して、この場にいらしたの?来てくださったの?私に会う…そのために?まさか…私の意識は、また、眩い白日の中に拡散して、うつらうつらと在りもしない夢を…自分に都合のいい夢をみているだけじゃないの?
それでも、私、弾かれたように顔をあげていた。
私の真正面に、見るからに逞しく雄雄しい美丈夫が立っていたわ。
大層男らしい容貌の青年神でいらした。上背のある体躯は、がっしりとして肉厚なのに、一分の隙もなく引き締まっていて、まるで、しなやかな鞭のよう。浅黒い肌が、その方の男らしさを、より引き立ててる。
私のよく知っている、線の細い、手足ばかりが長くみえる少年ではない…完璧に均整のとれた、美しく完成された身体を持つ大人の男性がそこに立っていたの。
すっきりと通った鼻筋、男らしい意思の強そうな口元、力強いあごの線も、私の覚えている、いつもはにかんだように笑ってた少年のそれより、随分と大人びて、見るからに男性的になっていて…
でも…でも、一目でわかったのよ。
だって、あの燃え盛る焔のような髪。夜空で最も力強く明るく輝く星を思わせる薄蒼の瞳は、あの時のまま。
何より、熱っぽく、ひたむきに、真っ直ぐに私を見つめる、その瞳…間違えようがない、忘れようがない、いえ、忘れたことなど一日もない。私のことを…ウシャスに対する敬慕の眼差しでなく、私自身を、こんなにも真摯に、優しく、そして熱い思いを傾けて見つめてくれる人は他にいない。もう、2度とみることはないだろうと半ば覚悟して、でも忘れられなくて、それが苦しかったほどだもの…思い出すたびに、胸が締め付けられるように痛くなった、あのまっすぐな瞳…
「オスカー…オスカー!」
私、思わず、その懐かしい名を、声を限りに呼んでた。自然と身体が前に出てた。
この時、私には、目の前のオスカー以外、もう、何も見えなかった。だって、一心に、まっすぐにオスカーが私の方に駆け寄ってくる。本当に私に会いに来てくれたんだって、ひしひしとわかる、わかってしまう。もう、私、オスカーのことだけで、頭が一杯になってた。何も考えられなくなった。いつのまにか、私は、無意識のうちに大きく腕を広げ、胸襟を開いていた。オスカーを全身で受け止めるかのように、抱き留めたいとでもいうように。
でも、次の瞬間、私の方が、力強い、逞しい二の腕に真正面からしっかと抱きすくめられ、厚い胸板に思い切り頬を押し付けられていた。広げられていた私の腕は、吸い寄せられるように自然に、オスカーの広い背中に回されていた。
頬に感じるオスカーの胸は広くて、暖かくて、滑らかだった。私を包み込むように抱きしめるオスカーの体躯は、しっかりとして頑丈で、硬質で、逞しくて、自分の全てを預けたいと思えるほど安らいだ。真夏の草いきれのような爽やかな青さに、ほんの少しのスパイスと麝香をあわせたような野生的な香ーオスカー自身の香だってすぐにわかったーを胸いっぱいに吸い込んで、私は「実感」できた。目の前にいるのは、私をきつく抱きしめているのは、確かにオスカーその人なんだと…こんなにも逞しく、男らしく、大人びて、立派になったけど、昔のままのオスカーなんだって、はっきり、理屈ではなく、感じることができたの。
「オスカー…オスカーね、本当に、オスカーなのね…」
私、うわ言のように、繰り返し、オスカーの名を呼び続けた。
オスカーの名を口にすることができなかった時間の埋め合わせをするように。
骨が軋むほどに、その華奢な身体を強く固く抱きしめても、なお、今、この時が信じられぬ思いなのは、オスカーとて同様だった。
本当は、いきなり抱きしめるつもりなどなかった。
彼女は俺のことを覚えてくれているか…きっと、覚えてくれているとは思う、そう思いたい。が、確信があるわけではなかったし、ましてや、アンジェリークと別れてから、随分月日が経っている、面変わりした俺を彼女はすぐに、誰とはわからないかもしれない。
だから、彼女と会えたら…俺は、あの時の火の子オスカーだと名乗って、俺のことを覚えてくれているかと、確かめるつもりで…そして、覚えてくれていたら、もしくは思い出してもらえたら…その時は、俺がここまで来た訳を打ち明けたい。
でも、俺の一方的な思いをいきなり伝えても、彼女は戸惑うだけかもしれない、だから、今は、俺の気持を知ってもらえるだけでいい…そして、太陽神と暁紅の女神として、これからの長の年月、睦まじく過ごしていけたらと思ってる…と、そんな風に自分の気持を伝えられれば…と、オスカーはじりじりと焼かれるような緊張の極みで、アンジェリークの御出座を待ちながら、懸命に順序だてて物事を考えようとしていた。
が、彼女の…アンジェリークの姿を目にした途端、そんな手順など、頭の中からすべてふっとんだ。
何度、夢みたかわからない、俺の記憶と寸分変わらぬ彼女が…いや、記憶にあるよりも、もっと華奢で、可憐に愛くるしい彼女の姿を見た途端、何かを考えるより先にオスカーは彼女の本当の名を呼ばっていた。呼びかけずにはいられなかった。
次の瞬間、信じられないことがおきた。彼女は、一目見た途端、自分を「オスカー」だとわかってくれたのだ。
驚愕に見開かれた瞳が、すぐさま泣き笑いのような顔に変わり、彼女はオスカーの名を呼んだ。オスカーの名を呼びながら、胸襟を開くように腕を広げ、オスカーのいる方へと吸い寄せられるように、前へ出ようとしていた。
信じられぬほどの歓喜が、オスカーの頭頂からつま先までをも貫き、突き抜けた。咆哮をあげそうになるほど、感情が昂ぶった。
彼女は俺を覚えていてくれた、いや、待っていてくれた…のか?彼女もまた、俺に、もう一度会いたいと願ってくれていて、こうして、俺が、ここに来たことを、喜んでくれているのか…?
俺に向けられたその歩み、俺を抱きしめんとするかのように開かれた腕、泣きそうな瞳をしながら、笑んでいる口元、そうとしか思えなかった。
何かに押されるように、彼女に向かって駆け出していた。弓から放たれた矢のように、真っ直ぐに迷いなく。そして、次の瞬間には、思い切り、彼女の身を抱きすくめていた。
柔らかで、弾むように瑞々しい身体、華奢すぎるほどの骨組み、己の腕に、胸板に感じる彼女の息遣い、ほのかな肌の温み、ふんわりと鼻腔をくすぐる、なんともいえず甘く芳しい香…
全てが、アンジェリークは、確かに自分の腕の中にいる、幾度となく夢にみてきた君を、今、俺は、本当に、この手で抱きしめているのだ、とオスカーに実感させてくれた。
だが、一方で、僅かでも腕の力を緩めたら、彼女は、中空に溶けて消えてしまうのではないか…ウシャスには、それは比喩ではなく現実だから…それが恐ろしくてたまらない。自分の腕の中に、あつらえたようにすっぽりと納まってアンジェリークがいてくれる。幾度も繰り返し見てきた夢のままに。だが、だからこそ、いくら腕の力を強めても、彼女の温みを感じても、現実感が追いついてこない。
「アンジェリーク、アンジェリーク…会いたかった…ずっとずっと…君にもう一度会うことだけを夢見て、俺は…ああ…でも、君は…こんなにも小さくて、華奢で、柔らかかったんだな…俺の記憶の中よりも、本当の君は、更に美しく、信じられないほどたおやかで愛らしく…」
「オスカーも…私の記憶よりずっと大きい…声も低くて大人びて…でも、優しい甘い口調は変わらない、私を見つめてくれる優しく熱っぽい瞳も…オスカー…オスカー…私にも…オスカーの顔、もっと、よく見せて…」
アンジェリーク=ウシャスが、オスカーの頬にそっと手で触れた。目の前の青年と、自分の知っている少年の記憶を重ね合わせるように。
「オスカー…本当に太陽神に…スーリヤ様になって、ここまで来てくださったのね…」
「ああ…君に会いたくて。太陽神になれば、君に会える…そのためなら、どんなことでもできる、そう思って、ここまできた」
「オスカー…」
「…ただ…がむしゃらに君の後姿を追い求めても、この思いは、俺の独りよがりではないか、君はもう…一介の火の子のことなど、疾うに忘れているのではないかと…そんな不安に苛まれる日もあった。が、だからといって、諦めることなど、できなかった。会える手段がある以上、君を追わずにはいられなかった。俺のことを忘れていてもいい、思い出してもらえなくてもいい、それでも会いたかった…今の俺で、君ともう一度、出会いなおせばいい、そう思って…」
「そんなことない!私こそ…オスカーが、私のこと、もうとっくに忘れてしまっていても、おかしくないと思ってた。私とあなたが会ったのは…そして、一度、さよならしたのは、あなたにとっては、もう随分と昔のことだろうから…私のこと、忘れてたとしても…ううん、忘れてはいなくても、私にもう一度会いたいとまでは思ってないかもしれない。でも、それは仕方のないこと…そう思おうとしていたの…」
「君を忘れるなんて、そんなこと、できるはずがない…それに、君は、この場所にいたるための道を、俺に示唆してくれた、だからこそ、俺は、ここまで来れたんだ。君に会いたいという想いがあればこそ、俺はスーリヤを目指し、「百神の王」と称される栄誉をも手にすることができた。全ては君のおかげだ。それに、君がこれを俺にくれたから…」
オスカーは意識して、少しだけ、己の顔を右側に傾けた。
「!…オスカー…その耳飾…」
「確証はなかった…なんの証拠もなかったが…すぐに、感じた…わかった…君のものだと…」
アンジェリーク=ウシャスが、おずおずと、オスカーの左耳に揺れる耳飾に手を伸ばし、そっと触れた。
「ああ…澄みきった火の気と光の気が、こんなに綺麗に混じりあって…ずっと、身につけてくださってたのね…だから…」
「ああ、片時も…肌身から離したことはない」
「私のものだって、すぐに、わかってくださったのね…わかってて、ずっと身につけてくださっていたのね…ありがとう…嬉しい…本当に…嬉しい…」
「当たり前じゃないか!誰よりも愛しい君の…君の気が俺にわからないはずがないだろう?!俺こそ、俺の方こそ、これを、賜った時は、どんなに嬉しかったことか…。あまりの幸福に信じられない思いで…君が、俺を見守り励ましてくれているらしいと知って…どんなに嬉しく、また、感謝したことか。だが、君が俺に耳飾を分けて与えてくれた意味は俺の感じたとおりなのか…そこまで自惚れていいものか、最初は、少し不安だった…」
「私からだって、いえなかったから…ごめんなさい。でも、私、オスカーが頑張ってる様子を伺って、嬉しくて、どうにかして、オスカーを応援する気持をお伝えしたかったの…だけど、こんな方法しか思いつかなくて…」
「ああ、すまない、そういう意味じゃない。不安だったのは最初だけだった、身につけた瞬間…すぐに、はっきりとわかった…わかったような気がしたから。君が俺に、この耳飾をくれた訳を。君が、俺を励ましてくれている…俺が、太陽神になるのを待ってくれているのかと、これのおかげで、俺は信じることができて…それが、たまらなく幸せで…この耳飾りが俺に限りない力を、勇気を与えてくれた。俺をずっと励ましてくれてきたんだ…」
「嬉しい…私も信じてた…きっと、わかってくれるんじゃないかって…少しだけ、恐かったけど…でも、何故か、信じる気持の方が強かった…オスカーなら、きっと、これが私のものだって、わかってくれる。この耳飾に託す気持も汲んでくださるんじゃないかって…」
「ああ、だから、いつも、肌身離さずつけてきた…君が俺の傍にいてくれるような気がして…」
「っ…ありがとう、オスカー。これを大事にしてくださってるって、伺ったとき、私も、どんなに嬉しかったことか…元は1対のものの片割れ、それを身につけてくださって…オスカーは、今も、私のこと、忘れずにいてくれてるのかも…昔と変わらずに、私に、会いたいと思ってくださってるのかも…って、そう思えて…本当に嬉しかったの…」
「それは…つまり、君も…俺に会いたかったと…そう思ってくれていたのか?そう…思ってもいいのか?」
「そう思わなかった日は一日たりともないわ」
アンジェリーク=ウシャスが、にっこりと泣き笑いのような表情を浮かべた。
「オスカー、あなたの顔を、声を思い出すたびに、胸が温かいもので一杯になるの、なのに、同時に、胸が締め付けられるように苦しくもなって…会いたくて、声が聞きたくて…こんな気持を感じたこと、今までになかった…こんなに、こんなに長い間、生きてきたのに…でも、不思議なの…オスカーにこうして会えたら…胸の苦しさは綺麗になくなって…今、胸はすごくドキドキしてて今にも破裂しそうって思うのに…でも、ちっとも苦しくはないの…本当に不思議…」
「!…ああ…アンジェリーク…俺は…俺は、今、幸せすぎて、頭がおかしくなりそうだ…」
オスカーは自分の思いの丈を漸く口にできた悦びに、その思いを受け入れてもらえた悦びに、胸がはちきれんばかりだった。だって、永年思い続けてきた愛しい女性が、彼女もまた、自分に会いたいと願っていてくれたことを知ったのだ。自分が彼女を思うように、彼女もまた、俺に切なく愛しい感情を抱いてくれていたのだ、頭に血が昇らないほうがどうかしている。
「ああ…オスカー……私こそ…ありがとう……嬉しい…私も…あなたに会えて…本当に…でも…」
が、ここまで言うと、アンジェリークは急に心配げな顔つきになり、子の行く末を案じる母のような目でオスカーのことを見つめた。その表情が、言葉どおり天にも昇らんばかりだったオスカーの気を引き締め、居住まいを正させた。
「でも?」
「私…あなたに会いたいと願ってよかったのか…わからない。もしかしたら…スーリヤ様の名を継ぐことは、あなたにとって幸せなことなのかどうか…私、わからないの…私、もしかしたら、あなたを…」
オスカーは、アンジェリークの懸念に、一瞬だけ沈黙した。
スーリヤとウシャスの関係性を調べていた時に、ふと、頭に兆した疑念を思い出したからだった。
が、すぐに、オスカーは、アンジェリークを安心させるように微笑み、その頬を大きな手で包んだ。
「いいか、アンジェリーク、俺は君が好きだ…心から愛している…」
「あい…?」
「ああ、もしかすると、2度と会えないかもしれないと覚悟もしていた、何よりも大切で愛しく思える存在に、再びまみえることができ、しかも、その人もまた、俺に会いたいと思ってくれていたと知ったんだ…こんなにも幸福な男が、他にいるはずがない。君に会え、君に会いたいと思ってもらえた、俺は、今、信じられないほど幸福なんだ…」
「オスカー…」
「再び会え、君もまた俺のことを特別に思ってくれていた…だから、こうして君を抱きしめることができた…再び会えたからこそ…こんな風に触れることもできるのだから…」
そう言うと、オスカーは、アンジェリークの顎を軽くつまみあげ、溢れる愛しさを唇で伝えたいかのように、でも、壊れ物に触れるように、恭しい仕草で彼女に口付けた。
初めての口付けだから、そっと、触れるだけに留めるつもりだった。が、蕩けそうに柔らかな唇と、芳しいアンジェリークの香が間近に迫ってきたことで、オスカーは、あっという間に頭が沸騰しそうになった。
ために、アンジェリークが、その瞬間、びっくりしたように瞳を見開いたことに、オスカーは気づいていなかった。
ただただ、己の唇に触れるアンジェリークのそれの、蕩ける感触と芳しさに耽溺してしまっていた。
いつのまにか、知らず知らずのうちに、オスカーはアンジェリークの体を思い切り抱きすくめなおし、幾度も幾度も角度を変えて、口付けを与えていた。アンジェリークも、オスカーの為すがままに、口付けを受けてくれていた。体の線は、柔らかく弛緩して…というより、力が抜けてしまって、オスカーにその身を完全に預けきっていた。
それが、オスカーには悦びであった、
が、一方で、その身をゆだねてくれてはいても、いつまで経っても、自分から応えてくれる気配を彼女は見せてはくれなかった。
そこまで望むのは贅沢なことかもしれなかった。が、一度、溢れるかえるままに注がれ、受け入れられた想いは、それ以上の応えを無意識に欲していた。駄々っ子のように、自分が思うほどに、彼女も自分を思ってくれているその証が、欲しくてたまらなくなった。どうにももどかしい思いに駆られ、オスカーは、アンジェリークと唇を触れ合わせたまま、舌を差し出し、うっすらと開いた彼女の唇の間に忍び込ませると、歯列を舌先でなぞって、更なる開口を促した。
「んんっ…」
やにわに、アンジェリークが、オスカーの腕にもわかるほど、びくっとして、身を引きかけた。彼女の全身に力が入り、体中がきゅっと強張ったのを、オスカーはその身で感じた。反射的に、オスカーが腕の力を緩めると、アンジェリークが口付けを解いた。ただ、彼女の顔には、嫌悪や恐怖の感情は微塵も感じられず、ただ、呆然としているようだった。
「は…はぁ…オスカー…なに…?これ…?」
「え?」
オスカーは、アンジェリークが、何故、いきなり唇を外したのかもわからなかったし、何を問われたのかも、理解できなかった。
「今の…あなたと唇を触れ合わせたら、頭の芯がぽーっとして、ふわふわと宙を浮かんでるみたいだった…空を飛んでもいないのに…オスカーの唇って柔かい…暖かい、それ以外、何も考えられなくなって…どうして…?どうしちゃったの…私…」
「!?…アンジェリーク、君は…」
「暖かくて、安心できるのに、何故かドキドキして…夢をみているような気持だったの…そしたら、急に、口の中に何か柔らかな物が入ってきたから、それにも驚いてしまって…あれは…何?」
オスカーは、彼女のこの言葉に、衝撃と共に、信じられぬような事実を確かめようとした。
「アンジェリーク、君は…口付けを…キスをしらないのか?」
「キス?口付け?…ああ、唇と唇を触れ合わせることを、そういうのね…?でも、どうして、そんなことを?」
「それは…君が好きだから…愛しくてたまらないから、キスしたくなって…」
「火の眷属は、好きな相手と、唇を重ねたくなるの?そう…それで、なんだか、とっても、暖かな甘やかな気持が胸いっぱいにこみ上げてきたのね…不思議ね…好きな人と唇を触れ合わせると、こんな…見詰め合うより、もっと幸せな気持になるものなのね…オスカーは、とてもすてきなことを知っているのね…」
「アンジェリーク…君は…」
オスカーは絶句した。
間違いない、彼女は口付けを知らない。経験がないだけでなく、知識からしてないとしか思えない。
数多の太陽神の花嫁だった君が、数多の聖娼たちの頂点に位置するはずの君が、口付けを知らないとはどういうことだ?毎朝、夜明けと共に、新たな身体で生まれ出る君だが、その記憶や思いが全てまっさらな赤子同然となるわけではない、だったら、何故、俺のことはずっと覚えてくれていたんだ、ということになる。君が示した深遠な叡智は、深い洞察は、どうやって培われたというのか、ということになるではないか。
なのに、君は「口付け」を知らない…忘れたのではなく、本当に知らないとしか思えない…その意味合いも、好き合うもの同士の愛情表現だということも…そして経験自体も。
そう思った時、オスカーの脳裡に、先刻もふと思い出した疑念が再びよみがえった。「太陽神と暁紅の女神の婚姻の実態」が、どんな書物にも記されていないのはなぜだ?それは、記せないような事情があるからではないかと、過日、疑いを抱いたことを。
が、実際には「記そうにも記すべき実態」そのものが存在しないのだとしたら?
暁紅の女神は、未明から払暁、そして夜が完全に開け切るまでの僅かな間しか実体化できない。地上からの視点で見れば、東の空が白みはじめてから、太陽が地平線から完全に離れ、その全容を現すまでの僅かな時間だ。
そんな短時間しか肉体をもてない女神が、所謂普通の「夫と妻」としての生活など営めるものなのか?
その疑問が生じた時、ある可能性に気づかなかったわけではない、だが、あまりに突拍子もないこと、そして、オスカーにとっては、恐ろしいことでもあったがゆえに、自分・オスカーは知らず知らずのうちに、その可能性を低きものとして考慮していなかったか。
アンジェリークが、雨季の夜間に幼い俺と会ってくれていた頃は、比較的長時間、その実体を保っていたのは事実だったので、太陽神も、毎日は難しくとも、きっと、雨季の夜間には、ウシャスと、まとまった親密な時間をもてるのだろうと、希望的観測に則った仮説を、オスカーは立てていた。
しかし、彼女が長時間、その肉体を保てたのは、地上だったから…しかも夜のこととて、太陽が傍になかったからということはないのか。そして、俺自身、まだ、太陽神に匹敵するほどの火の神力を備えていなかったから、彼女は、その身を保てていた、などということはないのか…
これは、自分にとってあまりに辛辣な可能性だった、だからこそ、とことん追求するだけの度胸がなかったのではないか。まさかな、と思いながら、蓋をして考えないようにしてきたことが皮肉にも「当り」だったとしたら?
加えて、アンジェリークが言及した「太陽神になることが、オスカーの幸せかどうか、わからない」という謎めいた言葉が、嫌が応にもオスカーの上にのしかかる。
オスカーは思案気にアンジェリークの顔を見つめた。俺の幸せを慮ってくれる君、だが君自身は、今までの長き歳月、どんな状態を「日常」として生きてきたのか…君は「幸せ」の中に生きてこれたのか…?
自分とアンジェリークの関わりを思うと穏やかではいられない、だが、アンジェリークの越し方も、これからも、同じほどに案じられてならなかったからだ。
すると、アンジェリークは、案ずるように自分をみるオスカーに、半ば夢見るような微笑みを返した。オスカーが、自分を大切に思ってくれている感情が波のように伝わってきたからだった。尤も、オスカーがアンジェリークの何を案じているのかは、アンジェリークにはわからない。彼女にわかるのは、オスカーが彼女に向けて放つ「慈しみ」の波動のようなものだけだったが、それが、暖かい優しい感情であることは、本能的・直感的に感じていた。
「本当に、オスカーは、今までのスーリヤ様と、全然違う。不思議…。今までのスーリヤ様で、オスカーみたいに私を優しく見つめて、優しく抱き寄せてくれた方は…ましてや、唇を触れ合わせてくださった方は1人もいらっしゃらなかったわ。ぎらぎらするような怖い目で見つめられることはたくさんあったけど…でも、オスカーはスーリヤ様になっても、昔と変わらない優しい目で私を見てくださる…よかった…私、少し…少しだけ心配だったの。スーリヤ様になったら、オスカーが変わってしまっていたら、どうしようって…今までのスーリヤ様みたいに狼がウサギを見るような目で私を見つめたら…私、オスカーとわかっていても、怖がらずにいられるか少し自信がなかったの。でも、オスカーは昔のオスカーのままでいてくださった…よかった…」
「なんだって?アンジェリーク…」
オスカーは、アンジェリークの唇から、ふと、零れた言葉に耳をそばだてた。
そうだ、口付けも知らないアンジェリークは、今まで、数多のスーリヤと、一体、どんな風に過ごしてきたんだ?そして、歴代のスーリヤは、どんな風にアンジェリークに接してきたんだ?
「君は…今までの太陽神と、どんな風に日々を過ごしてきたんだ…?」
「え?どんなって…太陽神と暁紅の女神として、あらまほしき姿で過ごしてきた…と思うわ…私は、ウシャスとしての務め、生き方しか知らないし…」
「ああ…そうか、君にとっては、当たり前の日常は「どんな」と問われても困惑するだけか、う…む…その…なんといえばいいのか…」
オスカーが適切な言葉を捜しあぐねていると、アンジェリークは、不安そうな瞳で、おずおずとこう尋ねた。
「…何か…何をご存知なの?オスカー」
「アンジェリーク…?」
「…私ね、最近になって、気づいたことがあるの、私は知らないこと、考えもしなかったことが、一杯あるみたいだって…今まで、これでいいのだと…ヴァルナ様、ミトラ様のおっしゃるままに、夜明けをもたらすものとしてのお勤めを果たしていれば…それで…それだけでいいのだと思ってた。胸が痛んだり、気持が沈みこむことが時折あっても、その訳もわからず、理由を考えてみたこともなかった…ウシャスとしての務めを果たす以外のことを、考えたこともなかったの。でも、今は、それがもどかしい…それだけじゃいけない気がするの、だけど、何が足りないのか、どうすればいいのか、私、知らないことが多すぎるみたいで、よく、わからない…オスカーは…オスカーには、それがなんだかわかる?」
「ヴァルナ様…ミトラさま…だと?」
この二神の名が、オスカーの思考を鋭く刺激しかけたその時だった
「控えよ!スーリヤ!そなたは一体何をしているのか!」
という大喝が耳を打った。
その瞬間、魅惑の魔法にかかっていたように、しんと静まり返って、ウシャスと新スーリヤのやり取りを固唾を呑んで見守っていた列席者の神々が、いっせいにざわめきだした。
オスカーも、そのざわつきに、ここには自分たち二人以外に、数多の神々がいたこと、ここは儀式を行うための神殿だったことを、漸く思い出し…思い出すと同時に、アンジェリークを誰にもとられまいとでもいうように、己が胸にしっかと抱き寄せた。
アンジェリークは口付けの余韻に酔ったままなのか、オスカーの意図がつかめぬからか、おとなしくオスカーに身を任せてくれた。
その事実にオスカーは少し安堵して、余裕をもって顔をあげてみれば、ヴァルナ神がぎっと唇をかみ締め、厳しく気難しい顔をしている様と、少し後ろに控えていたラートリー女神が、わなわなと身を震わせている様子が目に入った。ヴァルナ神とラートリー女神は視線で射殺さんばかりに、オスカーの方をきつい目で見すえている。ということは、あのラートリー女神の戦慄きも、ヴァルナ神の不機嫌さも怒りゆえだろう。
恐らくは、新スーリヤである自分が、ウシャスに馴れ馴れしすぎるとか、恭しく敬意を払ってないという、俺が無作法極まりないと感じての憤りであろうと、オスカーは推察した。今までは、一体何が起きているのか、何がなんだかわからぬまま、呆然と、事の推移を黙ってみている以外できなかったのだろう。それに、ウシャスがアンジェリークの名を持つことも、彼らが知らなければ、俺が何を言っているのか、誰に呼びかけているのか、把握するのに時間がかかったとしても無理はない。おかげで、俺は、彼女とお互い心の内を伝え合うことができたが…が、アンジェリークが彼らの名を口にしたことで、彼らも漸く金縛りの呪縛がとけ、それと同時に俺のー彼らにしてみれば太陽神としては常軌を逸した俺の振る舞いに怒りがこみ上げてきた、といったところだろう。
荘厳にして近寄りがたい美貌の男神・女神が並んで怒り心頭に発している姿は、迫力の一言だった。気の弱いものなら、何の咎がなくとも、反射的に平伏し謝罪して慈悲を請うてしまいたくなるような圧倒的な怒りの気が、自身に向けられているのを、オスカーは感じた。
が、何故か、ミトラ神だけは、端麗な美貌を怒りに歪めるどころか、興味津々といった様子で、成り行きを見ているような気配があった。瞳の中には、明らかな好奇心と、なぜか、気遣わしげな光が宿っているようにも、思えた。
が、このミトラ神のどこか飄々とした興味深げな雰囲気がなくとも、オスカーは、ヴァルナ・ラートリー両神の怒りに微塵も気圧されてなどいなかったし、もっと、正直に言えば、あまり気にとめてもいなかった。
というのも、いまや、自分は正式にスーリヤであり、スーリヤはウシャスの花婿であると「天則」にお墨付きをもらっている「公式」の関係だからだ。花婿が花嫁をこの胸にかき抱いたとして、誰に、何の遠慮をせねばならないのか。ましてや、花嫁であるアンジェリークが自分を嫌っているとか、嫌がっているのなら、その「花婿の地位」を振りかざした無体も責めを負うべきやもしれぬが、アンジェリーク自身が自分に会いたかったと、思慕を示してくれたのだ。愛する女性に思いを受け入れてもらっている以上、何も恐いものなど、オスカーにはなかった。
ために、ヴァルナ神が、怒りを懸命に抑えているのがあからさまにわかる口調で
「弁えのない振る舞いも大概にせぬか、スーリヤよ。ウシャスは、そなたが、そのように軽々しく気安く触れて良い存在ではない」
と、いさめた時も、慇懃ではあっても、怯むことなく、こう応えた。
「これはしたり。ヴァルナ様は異なことをおっしゃる。俺はスーリヤであり、彼女はウシャス、俺の花嫁です。夫が妻を抱き寄せたとて、誰に何の遠慮がいりましょうや。ましてや、弁えのないことと窘められるいわれはないと存じますが」
この人を食ったような台詞に、ラートリー女神が息を飲み、血相を変えてオスカーを責めたてようとする気配が見えたー恐らく、オスカーが過日の「生意気な火の子」であるかもしれないことに、この時、気づいたのだろうーを、ヴァルナ神は辛抱強く、手で制した。
「そなたとウシャスの婚儀は、まだ、済んでおらぬ。したがって、ウシャスは、いまだ、そなたの花嫁ではないし、そなたは、まだウシャスの花婿とは自称できぬ身。即刻、ウシャスを手離し、身を謹んで控えよ」
と、静かにーゆえに、怒声よりもよほどの凄みをもって、ヴァルナ神が告げた。
それまでざわついていた列席している神々も、このヴァルナ神の言葉に、水を打ったように、再び静まり返った。
尤もそれは彼らが事態を把握した、もしくは納得したゆえの静寂では、当然、ない。新スーリヤとウシャスとの間に、なにか、一方ならぬ関係があると悟ったらしいものは、列席神でも極少数のようだった。いまだに大半の神々は、二人の間の事情や、ことの経緯がよくわかっていないようで、狐につままれたような不如意な顔つきをしていた。
彼らは、今臨んでいる儀式が「スーリヤ」と「ウシャス」の間を取り結ぶものであることしか知らない。だからオスカーとアンジェリークが、それぞれに彼ら本来の名で互いを呼びあっている時は、この見るからに麗しい美丈夫と美少女が、スーリヤとウシャス本人であるかどうかも、はっきり確信がもてずにいた。二人のやり取りをかなり長い時間傍観し続けて、漸く察しのよい一部のものが、誰が誰のことやら、そして二人の関係をなんとなく推測できた、というのが精々だった。
新スーリヤ披露目の儀が、何百年かに1度しか起きないこと、ために、列席している神々の大半は、新スーリヤの顔は当然のこととして、ウシャスの容貌も知らなかったし、この儀式を目にするのが初めてなので、何が、通常・一般的な式次第であるか、わからなかった所為もある。
新スーリヤとウシャスの二人が、この儀式前に顔見知りだったらしいと悟った少数の者も、ウシャスは、正式な即位前に新スーリヤと前もって目通りしておくのが通例なのかもしれないと思えば、おとなしく成り行きを見守るしかない。何が「正しい」のかわからないから、何が無作法なのかもわからず、だから黙って成り行きをみているしかなかったのだ。
それは、花婿の介添え役となるオリヴィエとチャーリーも同様だった。
チャーリーは、まったくもって、眼前で繰り広げられていたオスカーとアンジェリークの会話が理解できておらず、言葉を失っているばかりだった。
一方、オスカーの想い人をある程度予想していたオリヴィエは、自分の予想が本当にあたっていたことに、むしろ、仰天してしまいー自分の憶測は「ばかな妄想」として裏切られる可能性が9分9厘だと考えていたからーしかも、オスカーとウシャスの関係が、自分が考えていた以上に深い繋がりだったらしいこと、更に加えて、ウシャスもオスカーと同じほどに、オスカーのことを真摯に思っていたらしいという三重の驚きに、彼にしては珍しく思考がしばし停止するほどの衝撃を受けてしまい、二人のやり取りを黙って眺める以外のことができずにいた。
それくらい、この二人の関係は、衝撃の一言に尽きたのだ。
だって、一体、誰が思いつこう。天上界でももっとも美しく、しかし儚い存在の女神が、神に叙される前の一介の火の子と出会い、しかも、互いに心をかよわせあっていたなんて。どこで、どうやって出会い、逢瀬を重ねてきたのか?という、その経緯自体も謎だが、何より、至高の女神と、ただの火の若者が、長きに渡って、互いに同じほどに相手を大切に思い続けてきた、というその事実は、陳腐な言い草だが「奇跡」以外の言葉が思いつかない。
しかも、オスカーとウシャスは、今、晴れて再会し、互いに思いを告げ、確かめあった。オリヴィエは、どうやら自分が、恐らく、長く吟遊詩人に詠われるような「愛の伝説」の誕生の瞬間に居合わせているらしいということを理解していた。
が、どうも、事態は、これで「めでたしめでたし」に落ち着かなさそうだ、と、オリヴィエは、今は、不穏な気配を感じていた。
両思いがわかった二人、漸く思いを確かめ合った二人に、蒼穹神ヴァルナが、いわば「待った」をかけることも、また、オリヴィエの想像を越えた事態だったからだ。
一体、何故?とオリヴィエは、不可解な思いが抑えられない。
太陽神スーリヤと暁紅の女神ウシャスは、どの眷属のヴェーダ(讃歌)でも理想の恋人同士として讃えられ、憧れをもって崇拝されているではないか。それが、いわば「表向き」だけの話ではなく、実際に、彼らが仲睦まじい恋人同士であって、何の不都合があるというのか。今までは、ウシャスの立場からすれば、太陽神との婚儀は、相手を選べない政略結婚だったが、今度の相手はオスカー、ウシャス自身が思いを注いだ男なのだから、むしろ、ウシャスにとっては、例外的に嬉しい婚儀ではないのか。だから、オスカーがいうように、スーリヤがウシャスをその手に抱くことの何が、ヴァルナ神の堪気に触れたのか、オリヴィエにもわからない。
ここまで予想外の事態、理解できない事柄が続くと、第3者たちは、成り行きを見守るほか、できることがなかった。
一人ウシャスを手にしたオスカーだけが、何も恐いものはないとでも言うように、あくまで、堂々とした態度としっかりした口調で、ヴァルナ神と対等に渡り合おうとしていた。
「俺が、まだ、花婿としての資格を得ていないと仰せなら、では、一刻も早くの正式な婚礼の儀を執り行っていただきたいと存じます」
その時、それまで沈黙を保っていたミトラ神が静かに、どこか、哀れみを感じさせるような口調でオスカーにこう告げた。
「…今は、まだ、時至らず…。まもなく夜明けをもたらす刻限となる。その時、いやでも儀式は執り行われる」
「?…夜明けを待っていては、アン…ウシャスも俺も、暁紅神、太陽神としての務めに出ねばならなくなりますが?出すぎたことやもしれませぬが、俺たちの婚礼の儀のために、夜を開き、朝をもたらすのに遅れが出るのは、いかがかと思われますが…」
「それは、そなたが心配することではない。そなたは、スーリヤとして為すべきことを為し、儀式に臨めばそれでよいのだ」
「…夜明けをもたらす務め、それ自体が、そなたたちの婚儀なのだから…」
「夜明けをもたらすことが、そのまま婚姻の儀となる?ですって?ですが、それは、ウシャスが毎朝のように行う『決まりごと』ではありませんか…いつもと変わらぬ…」
どういうことだ?毎朝の、ウシャスとスーリヤのいわばルーティンワークが、そのまま俺とアンジェリークの婚儀となるというのは、どういう意味なのだ?
不可解な顔をしているオスカーを、ミトラ神は、相変わらず、僅かな哀れみを見せるかのような複雑な顔で見つめていた。オスカーは、明らかに感情を害している風情のヴァルナ神の様子より、ミトラ神の、この思わせぶりな態度や言葉に、とてつもなく胸をかき乱す嫌な予感をもたらされた。